女の子+ハードロック=最強

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is it good for you?!!
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BO-PEEP
バウンディ (2007/01/24)


 ひっそりとMyspaceを利用しているんだけれども*1、九州出身の女性3人組バンドから突然friend申請が送られてきた。なんかやたらカッコ良かったので紹介しておく。




 2006年にイギリス・ツアーも行うなど既に結構有名な人たちなんだろうか。なんで私*2のジャンクなユニットのスペースにコンタクトを取ってきたのかが甚だ謎。でも、こういうの大好き。個人的な趣味で「女の子がDevoのコピーをしたらすげぇ可愛いんじゃないだろうか」と思って、自分以外全員女の子(メガネ)でバンドを組んだことがあるんだけど、なんか完璧に負けた気分だ。


 にせんねんもんだいと対バンして欲しい。




*1http://www.myspace.com/arcansasanimationschool 轟音注意。


*2:とあざけり先生





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fishing with john、ライヴ動画/PV

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 先日も紹介いたしました宅録アコースティックギターミュージシャン、fishing with john*1が新しいアルバム『林檎にタッチ』を発売するということでレコ発ライヴを行ったようです。その模様がYoutubeにアップされています。ギターのオーバーダブを再現するために、ギタリスト3人態勢。ディレイもシーケンサーも使わないアコースティック・マニュエル・ゲッチングのような(やや嘘。そこまでミニマル・テクノらしくはない)。



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 こっちの演奏も良い。



林檎にタッチ(DVD付)
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fishing with john
バウンディ (2006/12/06)
売り上げランキング: 10050




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 PVもいくつかアップされている模様。こちらはファースト『残響ピクニック』に収録されている「読みかけの夏」。この曲はあざけり先生にも多大な影響を与え、「夜なく犬」という作品を制作させました。




  • あざけり先生「夜なく犬」












Download



残響ピクニック
残響ピクニック
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fishing with john
バウンディ (2005/10/19)
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 そしてセカンド『鈍行ブックモービル』に収録された「アゲハに映る」。



鈍行ブックモービル
鈍行ブックモービル
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fishing with john
バウンディ (2005/10/19)
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*1:本職は張子細工職人





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柔らかい、夜の音楽

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ズート!
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ズート・シムズ ニック・トラヴィス ジョージ・ハンディ ウィルバー・ウエア オシー・ジョンソン
ビクターエンタテインメント (2005/06/22)
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 友人がズート・シムズのYoutube動画をブクマしていたので、久しぶりに彼のアルバムを聴き直していた。サックス奏者としては同時期に活躍していたスタン・ゲッツよりも地味な存在だけれど、Youtubeには彼を映した動画が結構ある



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 ズート・シムズがその四角い顔を膨らませながら吹くテナー・サックスの音色は、とても柔らかく、優しい。聴いていて「ああ、こういうものが『夜の音楽』に相応しいのだな」と思う。言葉をかけるわけではないのだけれど、隣に寄り添ってくれるような安心感がある。「寡黙なお父さん」を演じているときの小林稔侍みたいだな、と個人的には感じる。もっとも、最初からそれほど渋いプレーヤーだったわけではなく、若い頃のズート・シムズはもっとちょっと溌剌として豪快なプレイで魅了してくれる(ただ、決して『喋りすぎる』ことはない)。その配分が実に趣味が良く、ベニー・グッドマンやスタン・ケントンに寵愛されていたのも分かる気がする。


 映像は1984年の「風と共に去りぬ」。彼は1985年に亡くなっているので最晩年の記録だ。彼が亡くなる直前の様子はビル・クロウの記した『さよならバードランド』に詳しい。



ズートはとても演奏できるような状態ではなかった。なんとか必要とされるだけの力をズートに与えてやりたいと僕らが祈りながら、哀しげな面持ちで見守っている前で、彼がマウスピースにリードとリガチャーを装着するのに5分くらい時間がかかった。ようやくそれが終わり、口をあてて吹いてみると、そこから出てきたのは弱々しいかすれた音だけだった。その古いセルマーは長い年月にわたって彼の美しい声そのものであったというのに。



 病魔は容赦なくズートから「美しい声」を奪ってしまう。この記述は、とても残酷で、思わず泣けちゃうんだけど、そんななかでも音楽をしようとするミュージシャンの態度が美しい。



さよならバードランド―あるジャズ・ミュージシャンの回想
ビル・クロウ Bill Crow 村上春樹
新潮社
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聴いてそうなものを聴かせてどうする

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めかくしジュークボックス―32人の音楽家たちへのリスニング・テスト
トニー ヘリントン Tony Herrington Hashim Bharoocha バルーチャ ハシム 飯嶋 貴子 佐々木 敦
工作舎
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 ミュジックマガジン増刊『めかくしプレイ』の元ネタになった『ザ・ワイアー』(イギリスの音楽雑誌)の連載をまとめたもの。これはミュージシャンにブラインドで音楽を聴かせ、それが何か当ててもらい、それについて語ってもらうという企画。『めかくしプレイ』が「語り」に重点が置かれているに対して、本家の『Blind Jukebox』は「言い当てる」方に重点が置かれている感じである。インタビュイーとなるミュージシャンが外してしまうとマジで悔しがり、苦しい言い訳をするのが面白い。ちなみに登場する人のなかでは、サーストン・ムーア(ソニック・ユース)の耳がすごすぎる。


 しかし正直言って、本家よりも『めかくしプレイ』の方が良い。ここで本家がパクリに劣っている要因は、聴かせる音楽が実に「そのミュージシャンに影響を与えていそうなもの」ばっかりだ、ということだろう。だからミュージシャンから出てくる言葉も、なんだか容易に想像がついてしまってつまらないのである。読み手の想像を超えていく言葉を引き出す技術にかけては『めかくしプレイ』のインタビュアー松山晋也は天才的であると思う――「灰野敬二に宇多田ヒカルを聴かせる」という荒業を仕込む、とか。ナラティヴ・アプローチの術語を使って言うならば、これはもう「語り手」の「語りえないもの」をぶつけて「語り手」の世界を揺さぶっていく手法に他ならない。


 悪口ばっかりになってしまったので、グッと来たポイントをあげておくとミュージシャンが他のミュージシャンの悪口を言っている箇所が良かった。ジャック・ブルースがレッド・ツェッペリンに、スティーヴ・アルビニがジョン・ゾーンに批判を投げかけるところとか。あ、あとロバート・ワイアットのインタビューは普通に泣けます!





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なんとなく現象学#1

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 ↑の本に収録されているフッサールの『厳密な学問としての哲学』を読む。非常に抽象度の高い議論が続き、同時に収録されたブレンターノの3倍ぐらい読んでいてよくわからないので寝床で読む本に最適!とはいえ、社会学でもこのあたりの文献は引用されているところなので、面白く読める部分もいくつか。「我々が知覚し得るのは全て《内》なるものである」というような箇所に既知感あり。


 「あるある捏造」や「偽装」などの時事ネタと絡めてエントリが書けるかと思ったけれど、上手く思いつかなかったので辞めます。



たとえそれが精神物理的な規則性に従う心的なものの意味を追求していても、すなわち真に心理学的な理解に迫ろうとしても、それがみずからをまったく方法的に完全であり、かつ厳密に学的であると考えているまさにそのことによって、事実上かえって非学的なものとなっているのである。



 このあたりビビッ!と来ます。





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Youtubeで観るトニー・レヴィンの実力

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 トニー・レヴィンというベース奏者の名前を知っている方は、なかなかロックに深い造詣を持つ人物だと思われる。彼は70年代の後半ごろからジャズからロックの世界に進出し、ピーター・ガブリエルのバンドやキング・クリムゾンにも在籍した凄腕のベース奏者なのだが、もともとスタジオ・ミュージシャンだった性質上はっきり言って誰でも知っているという存在ではない。しかし、ディスコグラフィーを一読していただければ、彼が音楽の世界でどれだけの信頼を得ているか一目瞭然といったところであろう――Youtubeを眺めていたら、そんな彼の映像がザクザク出てきたのでここでコメントなどをつけてまとめてみることにした。

 一番最初の動画は彼の名前を冠したトニー・レヴィン・バンドのPV。キング・クリムゾンの「Sleepless」を演奏するシーンでは人差し指と中指にドラムスティックのようなものを装着して演奏するファンクフィンガーズ奏法を披露している。原曲よりカッコ良い*1



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 こちらはキング・クリムゾンで一緒に活動していたビル・ブラフォード(キチガイじみた量のシンセ・ドラム!)とのソロ。前述のファンク・フィンガーズ奏法での高速パッセージが壮絶なんだけど、激しくても全く揺れないテンポ・キープが渋すぎる。



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 次はトニー・レヴィン・バンドでの「Elephant Talk」*2。ここで彼が抱いているのはチャップマン・スティックというタッピングで弾くベース。高速ポリリズム・フレーズを演奏しながらヴォーカルも取る姿が異様。



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 技巧派ギタリスト、フィル・ケギーとのセッション模様。弾きまくるギターと対照的に落ち着き払って演奏しているかのように見えるが、細かいところでヴォリューム奏法をいれてくるなど芸が細かい。あと革ジャンにサングラスだとロブ・ハルフォードと見分けがつかない。



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 ピーター・ガブリエルの大ヒット曲「Sledgehammer」。トニー・レヴィンと切っても切り離せない関係にあるのがピーガブで、変化に富んだピーガブのディスコグラフィーのなかで唯一ぐらいで変わらないのが「トニー・レヴィンのベースが聴ける」ということなのかも。「白いプリンスか!」っつーぐらいセクシーなピーガブのステージ・アクションに合わせるトニー・レヴィンが素敵(膝サポーターみたいなのつけてる)。





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 おまけ。ボン・ジョヴィのギタリスト、リッチー・サンボラと一緒に演奏するトニー・レヴィン。トレードマークのヒゲがない。リッチー・サンボラ、ボン・ジョヴィより歌上手い。




  • トニー・レヴィンのベースを堪能する3枚



Security
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Discipline
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Double Espresso
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男で、渋くて、オトナのロック

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Music from Big Pink
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The Band
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The Band
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The Band
Toshiba (2000/08/29)
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 最近、寝る前にずっとザ・バンドを聴いている。歌詞カードを読むと結構しんどい感じの内容が書いてあるんだけど、英語が聴き取れないものだから「男っぽくて」、「渋くて」、「オトナっぽい」音楽の雰囲気だけを楽しんでいる感じなのだけれど、シンプルな音の素材が耳に気持ち良く響く。「こんなに渋いものを聴いていて、大丈夫なのか!?(もっと溌剌とした音楽を聴かないといけないんじゃないか)」と自分を心配してしまうぐらいにバリ渋。



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 動画は『Music From Big Pink』に収録されている「The Weight」という曲。なんかもう完璧過ぎて泣ける。なんも無駄なものがない。





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拘束する者が拘束される屈折した愛について/あとティボー

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失われた時を求めて―完訳版 (9)
マルセル・プルースト 鈴木 道彦
集英社
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 8巻の終わりで泣きながらアルベルチーヌと結婚することを母に告げた語り手の「私」。9巻では婚約者、アルベルチーヌとの同棲生活が描かれているのだが、ここに描かれた愛のかたちがとても屈折していて面白かった。そもそも「私」は、ちっともアルベルチーヌを愛してなどおらず、ただ自分が観ていないところで誰かと会っているだとか、同性愛的な交流へ向かうところに何故か嫉妬してしまう一種の「所有欲」だけで結婚を決めちゃっているようなものなのだ。で、いちいち彼女に監視を付けたり、厳しい決まりごとを押し付けたりするんだけれど、そんなことをしてもちっとも「私」は満たされず、むしろやればやるほど嫉妬や疑いで苦しめられる……という泥沼に陥るのである。拘束しているはずの主体が、逆に拘束されているような関係はロバート・クーヴァーの『女中(メイド)の臀(おいど)』を想起させられた。「拘束する男は非モテ」というような価値観が一般的に流布している昨今においてなら「私」への批難は必死だろうな、とか思う。


 実際に存在する固有名詞が頻繁に登場するのがこの小説の面白いところでもあるのだが、この巻では20世紀前半のフランスを代表するヴァイオリン奏者であるジャック・ティボーの名前が出てきた。



フランク、フォーレ&ドビュッシー : ヴァイオリン・ソナタ
ティボー(ジャック) コルトー(アルフレッド) フランク フォーレ ドビュッシー
東芝EMI (2001/02/21)
売り上げランキング: 4524



 ティボーの活動していた時期とプルーストの生きていた時期とは重なりがあるため(物語の舞台となる時間は、まさにティボーが『若い天才』としてバリバリ活躍していた頃である)、もしかしたら作家がティボーの演奏を聴いたことがあるのかもしれないな、などとは思っていたのだが本当に出てくるとなるとやっぱりビックリしてしまう。



D


 シマノフスキ(ポーランドの作曲家)のヴァイオリン・ソナタを弾くティボー。テクニック的なところで言えばこのぐらいの演奏家は現代ならごろごろしてそうだけれど、ティボーのフレーズの作り方は一聴の価値あり。録音の悪さのせいもあるが、この人の録音を聴くと「ああ、アンニュイってこういうことだろうな」などと思う。





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もし私の言葉が音楽であったなら、と思っている

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もし僕らのことばがウィスキーであったなら
村上 春樹
新潮社
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 乗ろうと思った電車が行ってしまい少し時間があったので立ち寄った本屋でパラパラとめくり、「まえがき」を読んで買ってしまった。村上春樹が「ウィスキーを飲む」ことを目的としたスコットランド・アイルランド旅行の模様を書き記したものなのだが、そんな素朴なエッセイの「まえがき」においてもこの作家はすごく大事なことを書き記している。「もしも僕らのことばがウィスキーであったなら」――「僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない」。これはとてもシンプルな言葉だけれども、ものごとについて何かを語る、という行為にまとわりつく行為としての限界が実にうまくまとまっているような気がする。語ろうという対象よりも語りは前に行くことができない――音楽を語ろうとするとき、語り手の裏側に流れている音楽は、聞き手に聴こえないように。当たり前のことなんだけれど、そういう「当たり前」の壁を飛び越えようとする作家は信頼できる、と私は思う。


 一時期、村上春樹のエッセイを集中的に読んでいた時期があったのだが、長編よりも私にはエッセイ(それから短編)のほうがこの作家の「顔」と「作品」とが絶妙にマッチしているような気がしてならない。作家の顔と彼の長編小説とにはねじれた関係を感じるのである(作品の『質』とかとは関係なく)。ヘミングウェイがマッチョな小説を書いたり、プルーストが華やかな小説書いたりするのは素直に納得できるのに……とか思う(この素直に『納得できる人たち』は、『テキスト』に作家が引っ張られてる例なのかもしれないが。特にヘミングウェイ)。もちろん「作品」は「作家」から独立して読まれるべきものだ(と個人的に思っている)ので、「僕」が女の子とセックスしまくっていようとも「この朴訥とした農夫みたいな顔でこんな小説書くなんて!」と憤ったりすることはないのだけれど、不思議な感覚に陥ってしまう。逆にエッセイだとすんなり納得がいく――結構地味ーな感じの話を嬉しそうに話している感じの彼のエッセイと顔の地味さが繋がる、というか。


 ここまで長々とあんまり本の内容と係わりがない話ばかりしてしまったが、根っからのビール党である私が「ウィスキーも美味しそうだな」と思わせられる素敵な本でありました。本音を言うと味よりも「どのように作られているか」という薀蓄の方に惹かれるんだけれど。





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音量と再生、そして「《夜の歌》は夜聴くべきか?」

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 iPodやCDコンポなどを使って我々は現在日常的に音楽を聴いているわけだけれども、あらゆるメディアに録音された「音楽」というのは実に記録されたとおりに再生されるものであり、その「内容」は普通なら簡単に改変できるものではない(サンプラーによる細分化やCDJによる再生スピードの変化などはさておき)。プレーヤーにCDをセットしてスタートを押すと記録されて通りの音楽を「再生する」――文字通り、音楽が再現されるのである。しかし、聴取者には「記録された音楽」を改変し得るパラメーターが唯一残されている。それが「音量」というものだろう。


 「音量」を自由に改変することによって、我々は部屋が揺れるほどの爆音で演奏されるハイドンの弦楽四重奏や、金管が蚊が鳴くような音で叫ぶショスタコーヴィチの交響曲などを聴くことが可能になった。しかし、個人的にはどうしても「音楽は記録されたような音量で聴かなくてはならないのではないか」と思う。もちろん音量の設定は自由だ、けれども、それを自由にしてしまうことで「再現されるべき音楽」の意味はかなり変わったものになってしまう可能性があるのだ。前述した爆音のハイドンや、蚊が泣くようなショスタコーヴィチは現実にはあり得ない音楽だ――故に音量の自由な設定は「再現するもの」としての録音技術のあり方を跳躍して、我々を不思議な状況へと導いてしまう。それはそれで面白いのだけれど、「クラシックのCDを聴く」というとなるとやっぱり音量にはこだわって欲しい、と思う(蚊の鳴くようなショスタコーヴィチなんて面白いか?)。



Mahler: Complete Symphonies
Mahler: Complete Symphonies
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Jorma Hynninen Hans Sotin Gustav Mahler Klaus Tennstedt Doris Soffel London Philharmonic Orchestra David Hill Edith Mathis Edith Wiens Elizabeth Connell
EMI (1998/11/03)
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 ただ再生環境、特に住宅問題を考えると「何時でも記録された音量で聴く」というのは難しい話である。アパートの隣の部屋にどんな人物が住んでいるか分からない昨今、音量にこだわったばかりに殺傷事件になることも考えられなくない。本来、クラシックとは「夜に演奏されるべきもの」だけれども、自宅で録音を聴くとなると誰もいない平日の昼間に聴くのが現代では適当なのかもしれない。


 ということで、隣の部屋に誰もいない状況で何を聴いたら気持ち良いか、ということを考える。せっかくだからそこは後期ロマン派の大規模な管弦楽作品を爆音で再生するのが良いのではないか――となるとやっぱりマーラーかなぁ、などと思う。交響曲第7番《夜の歌》も、昼間に聴かなくちゃいけないというのはなんとも言えないところだけれど。


 マーラーはフォルテッシモで本棚が揺れるぐらいの音量で聴かなきゃ、とは思う(なんだかよくわからない記事になってしまった)。





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都響VSのだめ

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のだめカンタービレ (3)
二ノ宮知子
講談社
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 世界で一番プロ・オーケストラが多い都市は実のところ東京都。思いつく限りあげてみると10団体ぐらいあって、すげーなぁ、と思う。そのなかでも私が応援しているオケは東京都交響楽団*1で、このオケは『のだめカンタービレ』オフィシャル・サポーティング・オーケストラとなっており、ドラマの収録などにも参加していたことでクラシックに馴染みのない方でも気がつかないうちに目にしていることがあるはずだ(ちなみにマンガの監修を務めている茂木大輔はNHK交響楽団)。


 少し先の話になってしまうのだが、その都響が「都響×のだめカンタービレ シンフォニック・コンサート」という企画をやるそうだ。曲目はベルリオーズ《ローマの謝肉祭》、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ブラームスの交響曲第1番、と全て作中に登場した作品を取り上げている。よく考えたらのだめってオケと一緒にラフマニノフ弾いてないじゃん!とか思うのだが、コンサートのヴォリューム的には普通よりもちょっと多いぐらいでお得感がある。別に都響の団員の知り合いがいるわけでもなんでもないのだが、これは是非足を運んで欲しいコンサートだと思う。


 「クラシック・ブームが来ている」といわれている昨今だけれども、オーケストラ運営の実情は結構厳しい。都響をめぐる状況にもこんな話がある。リンク先の記事をかいつまんで説明すると「都響が都の財政のお荷物になってるんで補助金減らして、団員もリストラします。全員契約団員ってことで」と言う感じ。この提案には「3年ごとに団員審査なんかやってたら、落ち着いて音楽なんかできるか!」と反対の声は各方面から上がっていたのだが、既に2005年から導入されている(石原都知事も文化人出身の割に暴力的なことをするものだ)。まぁ、都響も色々と苦労しているわけだ。


 でも、そういう厳しい状況だからこそ、オーケストラには頑張って欲しい、と個人的には思っている。ブームのおかげでチケットの売り上げは普段より伸びているそうだけれど、さらにもう一踏ん張りしてブームの次につなげて欲しいものだ。今度も「のだめコンサート」も1つの勝負のしどころ。マンガに描かれた感動を乗り越えるような演奏が望まれる――ほんと、初めてコンサート来た観客を失禁させるぐらいの勢いがないとダメだ。



ブラームス:交響曲第1番
ミュンシュ(シャルル) パリ管弦楽団 ブラームス
東芝EMI (2001/09/27)
売り上げランキング: 50



 予習には、シャルル・ミュンシュ/パリ管弦楽団の熱演を。プレイ・ラウド!




*1:通称・都響。他のオーケストラと比べて企画コンサートに面白いものが多く、また最も学割の割引率が高い。50%オフは驚異的





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あり得ることで失われる現実味について

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しゃばけ
しゃばけ
posted with amazlet on 07.01.23
畠中恵
新潮社
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 江戸時代を舞台に「妖怪」と「推理」という2つの要素をミックスした小説。話の運び方は上手いし、それなりに面白かったのだけれど「自分が読みたいのはこういうのじゃないなぁ」ととことん自分と「エンターテイメント小説」と呼ばれるモノとの相性の悪さを実感する。「エンターテイメント小説」というか「推理モノ」がダメなのかもしれない。そういうジャンルの小説の終盤で「謎解き」の部分が始まった途端に、読んでいるときのテンションがグッと下がる。


 「謎解き」では、主人公が「実はこれはこういう事件なんじゃないか……」と、小説のなかに散らばったパズルを組み立てて、1つの《物語》を作り始める。これは読者と小説内登場人物への二重の語りかけであり、そこで読者と登場人物は「なるほど、そういうわけだったんですね!」とその《物語》に承認を与える。ここの部分、承認されるかどうかにおいて、その《物語》の妥当性、というか「現実味を帯びていること」が問われ、大体において無事承認を受け、物語中の問題は解決されるわけだ。


 つまり「あー、そういうわけだったのか」と我々が承認を与える場合、物語が「あり得る話だ」ということも承認することとなる。個人的に、やっぱりこの「あり得る」ということが、すごくその小説が「フィクションっぽいよなー」と冷めてしまう点なのだと思う。たしかにこれは「フィクション」なのは分かってるけど、なんかすごく萎えてしまう。これは小説だけじゃなくて映画でもそうで『マルタの鷹』とか観たとき、ものすげぇ萎えた。


 なんだかよくわからない文章になってしまったけど、疲れたのでおしまい。





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ウィーン・フィルの物神崇拝的対象

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モーツァルト:クラリネット五重奏曲
ウラッハ(レオポルト) ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団 モーツァルト ブラームス
ユニバーサルクラシック (2001/11/28)
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 id:encyclopectorさんのブログでウェストミンスターレーベルの音源がボックス・セットで再発されることを知る*1。encyclopectorさんが既に言われているように「典雅なウィーンの音」を体験することができるまさに宝物のような録音の数々が手に入りやすくなった、ということでとても嬉しい限り。バリリ四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲は何枚か既に聴いているのだが、手元にはなかったのでこの機会に購入しようか、と思っている。


 「ウェストミンスターレーベル」と聴いてすぐさま思い浮かべるのは、レオポルト・ウラッハとウィーン・コンツェルトハウス四重奏団によるモーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲を収録したアルバム。「『典雅なウィーンの音』ってどんな音なの?」と訊ねられたら真っ先に推したい一枚でもある。50年代のモノラル録音のため、確かに現代の録音と聞き比べると迫力にかけるのだが、自然なリバーブで響いてくるウラッハ(当時のウィーン・フィル首席奏者)や四重奏団の柔らかい音色が、現代の録音より一層室内楽的に聴こえる。「典雅」に関してはやはり弦楽器のヴィブラートが特徴的だろうか――細やかで、深いヴィブラートは決して歌い込みが過剰でなく、格調高さを感じさせる。


 そこにある「素晴らしさ」は、現代の弦楽四重奏団の最高峰であるアルバン・ベルク弦楽四重奏団とは全く別種のもの。同じウィーン・フィルを母体としたカルテットにも関らず、アルバン・ベルクが「ベルリン・フィル」(特にカラヤン時代の)的なものを指向しているのに対して、ウィーン・コンツェルトハウスは「ウィーン・フィル」的なものを保持しているように感じる(高い圧力で迫ってくるようなアルバン・ベルクの演奏は確かにカッコ良いのだけれど、聴き続けるとさすがに疲れてしまう)。



4 Symphonies / Variations
4 Symphonies / Variations
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Johannes Brahms Wiener Philharmoniker Gerhart Hetzel Karl Bohm
Deutsche Grammophon (2002/10/08)
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 弦楽四重奏団による「典雅なウィーンの音」を体験すると、本来の活動の舞台であるウィーン・フィルの音も聴きたくなるわけで、そうなると私はカール・ベームが指揮するブラームスの全集を聴きなおす。ブラームスの交響曲における「名盤」の1つとして挙げられるベームの演奏だが、ここに捉えられた「ウィーンの音」とウェストミンスターレーベルに収められたそれとを比べると「全く同じ音がする……」という感想を抱き、鳥肌が立つ。「ヴァイオリンの合奏がまるで一人が弾いているように合って聴こえること」はオーケストラの理想形の1つでもあるのだが、まさにそれが体現されているのを示すのがこの録音だと言えよう(宇野功芳)。


 ブラームスの交響曲はルドルフ・ケンペ(ベルリン・フィル)やミヒャエル・ギーレン(南西ドイツ放送響)によるスッキリとした演奏が好きだったのだが、最近はベームの濃い演奏の良さが分かってきたような気がする。前者がブラームスのリズム的な面白さ(杭を打つようにして裏拍に強拍を持ってくる感じ)でノリノリになってしまうのに対して、後者はメロディの横の流れが素晴らしい。聴いていて目の前が開けていくような雄大さがある。


 友人の母にベーム/ウィーン・フィルの来日公演を追っかけていたという経験を持つ方がいるのだが、こんな演奏を生で聴けたら落涙・失禁は確実。うらやましすぎる。


 しかし、言ってしまえば「典雅なウィーンの音」などはローカリズムの典型に過ぎない。現代の音楽におけるグローバリズムの流れからすれば「消えゆくもの」に位置づけられるように思うのだが、そんな流れがこれからも続くならば音楽はどんどんつまらなくなる一方なので、せめてウィーン・フィルだけはローカルなものであって欲しい(だから女人・外人禁制のオケで良いと思う)。2003年に「ウィーン・フィルで日本人初のチューバ奏者誕生」というニュースがあったけれど、あんなの全然良いニュースじゃない!ベルリン・フィルみたいなオケは世界に二つもいらないんだ。






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バックハウスだけはガチ

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D


 Youtubeにカール・ベーム/ウィーン・フィルの映像がないか探してみたところ、見つかったのはウィーン交響楽団を指揮しているもの。ヴィルヘルム・バックハウスを独奏者に迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(1967年)。



カール・ベーム:ウィーン交響楽団
ニホンモニター・ドリームライフ (2004/06/23)
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 おそらくこちらのDVDに収録されている映像と同じもの。このときバックハウスは御歳83歳(!)。1969年に亡くなっているから、亡くなる2年前の演奏なのだがその事実を信じられないぐらいすごい演奏である。彼のベートーヴェンのソナタ全集が、同曲の「聖典」のように崇められているのも納得の存在感。特にカデンツァでテンポを上げていく火がつくような高揚感が素晴らしいのだが、弾いている本人の顔はものすごくクールというところが悟りの境地っぽい、というかツンデレ、というか(とにかくバックハウスだけはガチ)。ベームもこのとき73歳なのだが、キビキビとした指揮姿がカッコ良い。豊かな音楽とは裏腹に殺し屋のような目をしている。



ブラームス : ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
バックハウス(ウィルヘルム) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ブラペック(エマヌエル) ブラームス ベーム(カール) モーツァルト
ユニバーサルクラシック (1999/06/02)
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 ベーム/バックハウス/ウィーン・フィルという珠玉の組み合わせでは、ブラームスのピアノ協奏曲第2番の録音を愛聴していたが、これも1967年の録音で紹介した映像と同じ年に収録されたものだ。こんな雰囲気で録音が行われていたのか、と想像力を刺激する。


 どうでも良いけれどバックハウスにまつわるエピソードでは、彼がコンクールに出場し優勝した際、二位だったのが作曲家のベラ・バルトークで、あまりにバックハウスがすごかったおかげで「こいつには勝てねぇ」とピアニストへの道を諦めさせた、というものが好きだ。バルトークのピアニストとしての腕も達者なものだが(録音がいくつか残っている)、相手がバックハウスじゃあなぁ……というところが素敵だし、もしかしたらバックハウスがいなかったら「作曲家バルトーク」は生まれなかったかもしれない、というところにワクワクする。





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マコンドとシステム論/大佐的な小説

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百年の孤独
百年の孤独
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ガブリエル ガルシア=マルケス Gabriel Garc´ia M´arquez 鼓直
新潮社
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 ラテンアメリカ文学の金字塔『百年の孤独』を読み終える。憑りつかれるようにして読ませられてしまったような素晴らしい小説。「マルケス、マルケス、マルケス」とうわ言を繰り返してしまうぐらい魅了されてしまった。


 あらすじを最も単純に説明すると「架空の村マコンドの成立から消滅までを描いた幻想叙事詩」ということになるだろう。それはシムシティ的な「街」(あるいは人類史)のシミュレーションとして読むことが出来るのだけれど、マコンドの「変化」はそれと違っい、徹底して「外部」とのコミュニケーションによって生まれていくところが面白かった。ジプシー、革命、アメリカ人といった「外部」がマコンドに訪れることによって、マコンドの創始者であり中心であるブエンディーア家に様々な変化が生まれる様子はアロポエーシス的なものとして捉えることが可能である――逆に全ての発展が内発的に生まれるシムシティはオートポイエーシス的と考えられるだろう。しかし、最後にメルキアデス(マコンドに最初の変化をもたらすジプシー)が残したテキストの謎が解き明かされた瞬間に、外部に開かれたシステムのように思われたマコンドが、そのテキストとマコンドとの間で非常に閉じたものへと置き換えられてしまうどんでん返しが衝撃的。


 翻訳者のあとがきにあるように「どのようにも読める本」(というか全てのテキストはそのようなものであるはずなのだが)で、私は上記のようなことともう1つのことを考えながら読んでいた。そのもう1つとはこの小説が日本人作家に与えた影響についてである。


 『百年の孤独』を読むことによって初めて私は中上健次におけるガルシア・マルケスの強い影響を掴み取ることができた。『岬』から『地の果て至上の時』までの3部作で描かれた系譜が、ブエンディーア家の複雑な系譜と重なることはもちろん、中上の描くフサやオリュウノオバ(『千年の愉楽』)に与えられた性格はウルスラやピラル・テルネーラが演じたものが下敷きだったのだなぁ、と思った。


 中上以外にも「系譜」の点で、古川日出男の『ベルカ、吼えないのか』も(春樹チルドレンではなく)「マルケス・チルドレン」の作品として挙げられるし、星野智幸の『最後の吐息』にも「32回の反乱を起こし、17人の子供を孕ませたアウレリャーノ大佐」が作った「金の魚細工」が物語を進める重要なモチーフとして利用されている。これらは「影響」というよりも一種の「取材源」として『百年の孤独』が利用されていることを示すものだけれど「ここまで他の作家の作品へと足跡を残す『百年の孤独』ってなんなの!?」と正直驚いてしまう。アウレリャーノ・ブエンディーア大佐のように、ここまで子沢山な小説も他にない気がする。





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美の饗宴

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ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番
グリモー(エレーヌ) ラフマニノフ
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 クラシックの世界で美しい容姿を持つ演奏家の録音が店頭に並んでいるのを目にするようになったのは、つい最近になってからの気がする。しかし、なかには実力の伴わないヴィジュアル系が多くいるのは実状で、特に日本人のアイドルみたいな演奏家には一人も聴いて得をするようなものがないのが残念。のだめカンタービレの世界のようにヴィジュアルと音楽的才能を兼ね合わせた人というのはなかなかいないのである。


 が、しかしギャボーな感じで「天は二物を与えず」という通説をぶち破る人もいる。エレーヌ・グリモーというピアニストはまさにそんな感じで「事実は小説よりも奇なり」という知らしめる存在だろう――フランス出身の彼女は、13歳でコンセルヴァトワール(のだめが現在留学中の)に入学、15歳のときに首席で卒業し即CDデビューを果たす、という生きる伝説みたいな人なのだ。デビュー・アルバムに収録されているのはラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番。ジャケットに写るのはあどけなさが残る「可憐な美少女」だが、演奏は「ほんとにこの人が弾いているの……!?」というぐらいパワフル。ラフマニノフの難曲を軽やかに弾ききってしまっている。緩叙楽章におけるスッキリした音楽の運びが「若すぎる」という印象を与えるのは否めないのだが、素晴らしい。



D


 こちらはバッハの《シャコンヌ》(ブゾーニ編曲版)を弾いている映像。ある時期からグリモーも演奏中にエクスタシーを感じるシャーマンのような演奏家になってしまったのだが、この「音楽への陶酔」にはクラシック音楽における演奏家の女性性が表れているように思う。まぁ、美しい人が美しい音楽をやっている、という姿に心惹かれないわけがないのでそんなことはどうでも良いんだけど。


 現在はニューヨーク在住で「ウルフ・センター」という団体を設立して野生の狼を保護する運動を行っているそう。こういうところにもまたグリモーの「マンガっぽさ」を感じる。





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むしろC-C-Bを再結成を熱望。

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D


 トーキング・ヘッズぐらい黒いスラップ・ベース、シンセ・ドラム(この曲での演奏、ちょっともたついてるのが気になる)、キーボードのストリングスの音色……もう好き過ぎて困る。リピートでもう30回ぐらい聴いてしまっているので、そのうちベスト盤を買おう……。2003年にメンバーの一部で一夜限りの再結成が行われているそうなのだが、時期的に早すぎたのかも。


 ヴォーカルが取れるメンバーが3人いる、というのはメンバー全員がヴォーカルを取っていたQUEENを彷彿とさせるものがあるな……と今更ながらに思っている。C-C-Bにもフレディ・マーキュリーみたいなフロントマンがいたら伝説的なバンドになってたはずだ。



D


 ベース、暴れすぎなヒット・メドレー。こんなことやれるバンド、今一個もない気がする。松本隆のはずかしい感じの歌詞も良いなぁ。





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マイケル・ブレッカー死去

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Bing


 あら……。





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ドイツのユニークな戦争文学

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短篇集 死神とのインタヴュー
ノサック Hans Erich Nossack 神品 芳夫
岩波書店
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 ドイツの戦後に(地味に)活躍したハンス・エーリッヒ・ノサックの短編集。戦中・戦後のドイツのつらい状況を描いたものなのだが、直接的にそれを描こうとするのではなくギリシャ神話やSFなどの世界を描きながらアレゴリカルに表現しようとしているのが面白かった。描かれた状況はかなり救われないのだが、どこかユーモラス。こういうタイプの「戦争文学」はちょっと他では読めないかもしれない。





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現代日本のピアノ音楽

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現代日本ピアノ音楽の諸相(1973-83)
オムニバス(クラシック) 志村泉 林光
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 昨年は武満徹没後10周年だったのだが、それについてあるピアニストが「なんで武満ばかり特別視するんだ!」と憤っているのを読んでから武満以外の邦人作曲家に目を向ける使命感みたいなものを(勝手に)感じている。元から芥川也寸志、黛敏郎、伊福部昭などはよく聴いていたのだが、それ以外にも、と。


 邦人作曲家に関しては廉価盤レーベルNAXOSがシリーズを出しているのだが、そこで取り上げられるのは分かりやすい「日本情緒」を取り入れた作品が多く「日本のバルトーク」とか「第二の伊福部昭」みたいな人ばかりなので正直食傷気味。頼りになるのはDENONが積極的にリリースしている邦人作品のアルバムである。これも大部分が「CREST 1000」という廉価盤シリーズに入ってきて随分手ごろになったので喜んで買い漁っている。

 最近買ってみて特に面白かったのは『現代日本ピアノ音楽の諸相』という二枚組。1973年~83年の間に書かれた作品を集めた現代音楽コンピレーションみたいな内容で、取り上げられている作曲家は、林光、高橋悠治、戸島美喜夫、本間雅夫、間宮芳生、甲斐説宗、一柳慧といった戦前/戦中生まれの人から、佐藤聡明、細川俊夫そして坂本龍一という戦後生まれまで幅が広い。「名前ぐらいは…」という人もいるのだが*1、ほとんど初めて聴くような名前ばかりで大変ためになる。


 「一柳はオノヨーコの元ダンナだけあって理屈っぽい、ニューヨークっぽい曲を書くなぁ(全然好きになれないけど)」とか「坂本龍一はやっぱりポップ方面に言って成功だったなぁ(作品が本当に面白くもなんともない)」とか思ってしまうものがあったのだが、それ以外は好きな感じの作品。なかでも細川俊夫の《メロディアⅡ》という作品は素晴らしすぎて参ってしまった。

 これは非常に簡素な「旋律」を持った作品。音符で楽譜が黒く染まるぐらい複雑そうな作品ばかりのなかで、その極端な音の少なさが余計に際立つのだが「音と沈黙の関係性*2」を強く感じてしまう。音と音、音と沈黙が非常に強い緊張感を持って繋がりあう感じが素晴らしい。アルヴォ・ペルトなんかよりずっと音が美しく聴こえる。一瞬、ブライアン・イーノとも接続できるかと思ったけれど、ここまで音数が少なく次の音までの緊張を強いられると聞き流すことすら許されない。


 細川俊夫の先生はユン・イサン。「協和」というキーワードで影響を感じるところもあるのだが、ユン・イサンとは全く違う方向に進んでいる(っぽい)のもすごい。細川俊夫、今一番聴くべき作曲家かも。




*1:CD持っていてもあんまり聴いていない人とかもある


*2:これは武満作品のキーワードでもあった





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もう一度C-C-Bを。

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STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2007年 02月号 [雑誌]

INFASパブリケーションズ
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 今月の『STUDIO VOICE』は先月の「90年代特集」に引き続き「80年代特集」。鉄雄(『AKIRA]』)の表紙が、2007年1月に出た雑誌とは思えないタイムスリップ感をかもし出している。さすがに20年近くも経っていれば「総括」されきった感があって、90年代特集のときのように「パーフリが……」と気持ちの悪い情熱を開陳されてないのは良かった。まぁ、別に特別に面白かったわけではないのだが。登場するキーワードも、結構「死語」になっていないものばかりな感じ。年代ごとに段階的に区切って語ることの虚しさみたいなものを感じる。

 そのなかで「オッ」と共鳴してしまったのが「80年代の音色といえばシンセ・ドラムとオーケストラ・ヒット。この2つを積極的に活かした楽曲がヒット・チャートにあふれ出した時、真の80年代再評価が行われたと考えることにしよう」(ばるぼら)という一文。数年前からニューウェーヴ関連作の再発が続いて再評価がおこなわれ*1、元からニューウェーヴ聴いていなかったところからもその影響を感じさせるバンドが出ているけど、シンセ・ドラムとオケヒットを消化してきたバンドというのは確かにまだ見ない(個人的にはスタインバーガーにも『80年代っぽさ』を感じる)。



D


 もしかしたら我々は第二のC-C-Bが現れるまで「真の80年代再評価」を行うことができないのかもしれない。楽しみ!実現に当たってはASIAや80年代のYESなどをガンガンにCMで流して洗脳を行っていくことが方法として挙げられるかもしれない(ASIA、来日するし)。




*1:個人的には、全然その流れに乗っからず『再評価なんかこねーだろ』と思っていた





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「死刑を前にして、僕は目覚めた」

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Isang Yun: Chamber Symphony 1; Tapis pour cords; Gong-Hu
尹伊桑 Piotr Borkowski Korean Chamber Ensemble Rana Park
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 ユン・イサンという作曲家の生涯と、彼が生まれた朝鮮という土地が20世紀に受けた「激動」には重なるものがあると思う。彼は日本に留学し作曲を学んで帰国した後、反日運動に参加したため逮捕・投獄されたことや、ベルリン滞在中にKCIA(大韓民国中央情報部)によって拉致され拷問を受け死刑宣告まで受けている。このような暴力に晒された作曲家の例はクセナキスぐらいだろうか。クセナキスもユンも「死刑宣告」を目の前にして、そこから生還してきたという稀有な体験を持った「伝説的人物」と言えるかもしれない。


 「僕は生死の境を経てから、人間の生活において、どこまでが政治であり、どこまでが政治じゃないのか、それを断言することができなくなりました。この世の中には、政治じゃないことはほとんどない。もちろんいわゆる『政治』というのは、政党人とか、政治を売って私服を肥やすというような下らない政治かもしれませんが、私がいま言っているのはそんな政治ではありません。真の人間問題、社会問題に、自らの利害関係を度外視して、力を注ぐということ。これは堂々と人間のやるべき、最も人間的な義務じゃないかと思っています。/僕は自分が死に直面して、はじめて目覚めたわけなんです」――先日も紹介した武満徹とユン・イサンの対談でユンはこのようなことを述べている。死の淵から生還してきた人間らしいとても立派で厳しい意見だ、と私は思う。


 このような「厳しさ」からは、当然「厳しい音楽」が想像されるのだが、それを裏切って協和的な音楽を書いているのがユン・イサンの面白いところだと思う(その音楽は鮮やかにクセナキスの『複雑性』とコントラストを結ぶ)。「協和的な美しさ」をすぐさま「ヒューマニズム」へと還元することはできない。しかし、1950年代以降支配的だったトータル・セリエリスムとは全く違う方法で、協和する美しい響きを追求した作品群はとても貴重なものであり、心が打たれてしまう。


 1980年代に書かれた《室内交響曲第1番》、《弦楽のためのタピ》、《ハープと弦楽のためのゴンフー》を収録したナクソスのCDは、彼を「東洋と西洋との融合を目指した」作曲家として捉えている。しかし私としては、朝鮮に生まれ、日本で教育を受け、主にドイツで活躍した彼を安易に「アジアの作曲家」として置くことはできないように思う(現に彼は自らのアイデンティティをコスモポリタン的なものとして語っている)。


 作品には確かに「東洋的なもの」を感じる瞬間が存在する(ペンタトニックのフレーズや深呼吸のように伸びる響きの長さ、特に《…ゴンフー》で用いられるハープは、シルクロードも含んだ「大きなアジア」の象徴として用いられている)。しかしそれでも、ユン・イサンの作品は「アジア」という狭い枠ではなく、もっと広い枠、むしろ東洋/西洋という位置的なものではなく、時間的なもので古典主義時代の音楽との親和性をもっているような気がするのだ。私は不思議とロマン主義以前の、ハイドンやモーツァルトそしてベートーヴェン(の初期)の「無垢な作品」と似ている、と直感的に感じる(全く別な音楽なのに)。


 ユン・イサンの音楽にある「協和」とは、新ロマン主義のようにキッチュな協和ではない。その新しい「古典性」のなかに、ヒューマニズムが屹立しているようにも思う。





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音楽と言葉

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高橋悠治:オルフィカ
高橋悠治:オルフィカ
posted with amazlet on 07.01.09
NHK交響楽団 岩城宏之 岩城宏之 NHK交響楽団 高橋悠治 石井眞木 武満徹
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 最近DENONの廉価盤シリーズに岩城宏之が振った日本の作曲家のCDが入った。そのなかには武満徹の《テクスチュアズ》という作品が収録されている。それを聴いていたらまた武満徹の音楽を聴き直したくなり、ここ何日かずっと武満が他の作曲家と対談した文章などを読みながら聴き返した。


 作品も面白いけれど、言うこともとても面白い人だな、と改めて思う。「マーラーは少し頭おかしいですよね」などと言っているのだが、武満も充分「おかしい」、というか神秘的な思考回路を持っている。例えば、武満とユン・イサンの対談ではこのような会話がなされている。



武満:僕は中国育ちなんです。はじめ昔の大連にいて、それから僅かでしたが、北京に居りました。


ユン:言葉はもう忘れたでしょう?


武満:さあ、どうなんでしょう。だいぶ前になりますけど、中国に何人かで行ったことがあるんです。それで中国の人に言葉を教わったんですが(中略)誰がしゃべっても発音が通じない。三週間ほどして、やっと僕の発音はいくらか通じるようになったと言っていました。ですから、やはり何か残ってるんですかね。



 武満は最初から「さあ、どうなんでしょう」と言葉を濁し、最期まで「残っているか/いないか」判然としないまま会話を終わらせている。それはとても曖昧で抽象的な言葉の連なりのように私には感じ、それから彼のそういう考え方の「曖昧さ」と音楽の抽象性とか詩情性とかが関係しているようにも思った。「タイトルと作品は詩的な関係性を持たなくてはならない」と言ったのはルネ・マグリットだが、武満作品ほどにタイトルが作品と詩的に/抽象的に結びついた例はなかなかない。



武満徹:鳥は星型の庭に降りる
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 《鳥は星型の庭に降りる》は、鳥が星型の庭に降りている情景を描写する音楽ではない。引用した会話で武満が曖昧なまま会話を終わらしてしまうように、タイトルと作品とは「関係しているかどうか」すら曖昧なまま、しかしやはり関係し、意味しあっているような状態が生まれている。そのように戦略的なタイトル付けを行ったかどうかは定かではないが、タイトル自体の選び方も単純に「センス良いなぁ」と思ってしまうのだが。


 武満の音楽を聴くたびに私は「音楽」と「言葉」について考える。ユン・イサンとの対談ではそれと関係するものもあり面白い。



武満:先生が言おうとしているメッセージ、音楽を通して語ろうとしているメッセージというものは、言葉では言えないものなんでしょうか。


ユン:そうです。言葉以外の――音によってある世界を動かすということですね。


武満:例えば最近の若い作曲家たち――コーネリアス・カーデューとかジェフスキー、あるいは日本の高橋悠治なんかが、音楽によって、社会や政治状況の悪さに講義の声を出していますね。あるいは現代音楽の一部があまりに知的になって民衆から離れてしまっている状況への反省から、非常に平易な、トーナルな音楽をつくるという傾向が増しています。そういうものについてはいかがでしょうか。


 僕も中には非常にいいものがあるとは思います。だけど大部分が、それは言葉で言った方がもっと簡単だよ、というような音楽じゃないかという気がするんですね。



 音楽で何かを伝えようとすること、それに対して「言葉で言った方がもっと簡単だよ」とさらりと言ってしまう感じがやはり彼の思考回路に驚かされる点である(だって、それを言ってしまったら結構元も子もないじゃないか)が、とても大切な問題提起のような気がする。何故言葉ではなく音楽を手段として取らなくてはいけないのか(言葉の方がストレートに伝わってしまうのに)、メッセージを含んだ音楽を作ろうとするものならば考えなくてはいけない問題だし、どのように音楽が言葉を乗りこえて「言葉にはできないメッセージを伝えるのか」という問題も存在する。


 そのように考えると、武満の「伝え方」とは、音楽と言葉を共存させた最も上手い一例なのかもしれない。





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