マージナル・ショパン

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Chopin: Piano Works, Vol. 3
Chopin: Piano Works, Vol. 3
posted with amazlet on 07.03.30
Fryderyk Chopin Pierre Barbizet Samson Francois
Emi Classics (2001/10/01)
売り上げランキング: 30930


 先日、サンソン・フランソワ*1が演奏するショパンの録音を一挙に収録したEMIのボックス・セット(10枚組)を購入したのでここ最近はずっとショパンを聴いている。ショパンの音楽を「フランスの単なるサロン音楽だろ?」とバカにして今までほとんど聴かず嫌いを貫いていたのだが、聴いてみるとまぁ素晴らしいこと。


 こういう「好みの矯正」は演奏者の力による場合が多いけれど、フランソワの演奏が自分のツボにハマったのだと思う。彼の演奏には、ショパンによって書き遺された楽譜が演奏されている、というよりも、音楽が今そこで生成されているような趣がある。


 この10枚のCDにはショパンのピアノ作品のほぼ全てがあるのだが、ブックレットの収録作品目録を眺めて、ショパンの多作ぶりに驚いてしまった。マズルカなどは51曲もあり、よくぞここまで似たような曲を作れるものだな、と半分呆れてしまうところだけれども、きっとショパンもシューベルトやモーツァルト、それからポール・マッカートニーのような天才肌の作曲家だったのだろう。「書いても書いても曲想が湧いて出てくる……!」というような凄みが「51」という数字から伝わってくる(実際には、マズルカは58曲あるそう)。


 しかし、強烈なのは何と言ってもピアノ協奏曲第1番。冒頭からド演歌調メロディが炸裂するのを聴くたびにのけぞってしまうのは私だけではあるまい(この部分がもっともすごいことになっているのはクリスティアン・ツィメルマンの演奏)。作品番号は11番。かなり若書きの作品で少し冗長なところがあるけれども、このメロディの力強さに「サロン音楽家」としてのショパン像は崩れ落ちてしまう。


 ここにはドヴォルザークやムソルグスキーのような国民楽派的な暑苦しさがある(その強い民族性はポロネーズやマズルカといった故郷ポーランドの舞曲形式へのこだわりからも察せられる)。この暑苦しさとサロン的な流麗さの間にある大きな隔たりが、ショパンという作曲家が持つ「マージナルなパーソナリティ」を示したものであるようにも感じられる。



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▲中国出身の若手ピアニスト、ランランによるピアノ協奏曲第1番。オーケストラ伴奏にはしっかりとした芯が通っていてかなりドイツっぽい演奏。それに対してランランのピアノは重すぎるところがあるが、なかなかの演奏である(ルバートや音量の変化などが濃い……そしてホリエモンにそっくりだ……)。


 かなりマニアックな話になってしまうけれども、私が聴いているフランソワの演奏はモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団が伴奏を担当している。このオケからは非常にフランスの古い伝統的オーケストラの音がして興味深い。この作品では、ファゴットが目だったソロをいくつか担当しているが、そこで「明らかにこれはバソン」という音がする。




*1:フランスの古いピアニスト。Youtubeではこちらでラヴェル《左手のためのピアノ協奏曲》、グリーク《ピアノ協奏曲》などの演奏をみることができる





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矛盾するアドルノ

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 『三つのヘーゲル研究』のなかでアドルノは、ヘーゲルの難解さに対する批判を退けるとともに、ヘーゲル哲学における絶対的整合性の無さに対する批判をも退けている――ヘーゲルの著作には多くの矛盾が含まれている、しかし「そうでもしなければ、整合的思考にそなわる制限につき当たってしまい、なんとしてもそれを突破することができないのである*1」、故にヘーゲルは正しい(アドルノが描く、ヘーゲルのこのような態度は「正-反-合」という図式的な弁証法として理解される安易なヘーゲル像が誤りであることも示している)。


 私がアドルノのヘーゲル理解を読み、ふと思い出したのが戦後の彼が展開する議論に含まれた矛盾についてである。藤野寛の『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト):同一性批判の哲学』からその「矛盾」について少し長く引用してみる。



その矛盾は、彼が戦後精力的に展開した啓蒙擁護の論陣にあっては、とりわけ目をふさぎようがなくあからさまなものとなる。そこでアドルノは、アウシュヴィッツの再現を阻むためには理性の自立が不可欠である、と繰り返すのである。


(中略)

しかし、『啓蒙の弁証法』によれば、まさにその理性こそがアウシュヴィッツを生み出したものの少なくとも一因ではなかったのか。*2



 この記述を読み、当初私は「これは読み違えをしているのではないだろうか」と考えていた。『啓蒙の弁証法―哲学的断想』のなかでアドルノとホルクハイマーは、理性を「主観的(哲学的)理性」と「客観的(道具的)理性」との2つに分けて考えている。引用した箇所で触れられている自立した理性とは「主観的理性」のほうで、アウシュヴィッツの一因となった「客観的理性」とは異なる――故に、アドルノは矛盾を犯してなどいなかったのだ、というのがそれまで私の解釈。


 しかし、アドルノのヘーゲル読解を読むと「やはり矛盾だったのかもしれない」とも思えてくる。しかし、それは「目をふさぎようがなく」という批難の語彙をあてられるようなものではなく、むしろ「あえて」する矛盾だったと思うのだが(だから、アドルノが矛盾を犯していることを指摘することは、批判として成立しない)。アドルノがあえて遂行する矛盾への踏みとどまりは、決して苦しい言い訳めいたものではなく、整合性を求める客観的理性を突き崩すための戦略だったはずである。




 デリダを読んだことがないから、よくわからないのだけれども「脱構築」っていう戦略はひょっとしてこういうことなんでしょうか。だとするならば「デリダ的な脱構築」というような言葉を批評などで多く目にする一方で、アドルノには全く言及されていない理由がよく分からないのだけれども……。




*1:同書:35


*2:藤野 2000:68。引用部を探すために久しぶりに手に取ったけれど、ものすごく面白い本だ。





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ネットがなかった間に読んだもの・観たもの

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寡婦―87分署シリーズ
寡婦―87分署シリーズ
posted with amazlet on 07.03.29
エド マクベイン Ed McBain 井上 一夫
早川書房 (1999/02)
売り上げランキング: 449999




荒野のガンマン
荒野のガンマン
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ファーストトレーディング (2006/12/14)
売り上げランキング: 43620



 引っ越しました。今日からインターネットができるようになりました。以上の2つは感想を書こうと思って、書き忘れてしまったもの。どちらもとても面白かったです。





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姜尚中『愛国の作法』

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愛国の作法
愛国の作法
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姜 尚中
朝日新聞社 (2006/10)
売り上げランキング: 14490



 テレビで顔を知っていたけれど(そしてモノマネも出来るけれど)、著作に触れたことはなかった姜尚中の新書を読む。とても平易な文章で書かれた勉強になる新書だった。昨今、蔓延っている「日本人なら国を愛するのは当たり前」という愛国的態度を、知識人らしい理性的な洞察でぶった切っているところがとても気持ちが良い。


 姜尚中が批判する(藤原正彦などがとる)「愛国」には、確固たる理由が存在しない。愛国するべき態度は全ては「日本人なら分かるはず」というたった一言の理由で片付いている。その排他性(日本のことは日本人以外には分からない、というような)を姜尚中は強く危険視しているのだが、これらは宮台真司・北田暁大の『限界の思想』で言及されるバカ右翼のバカさと通ずるものがあると思った。姜尚中・宮台から言わせれば、藤原正彦・石原慎太郎・小泉純一郎のメンタリティには「救いようが無いバカ」という共通項が存在するのであろう。


 フロム、アーレント、そしてマックス・ヴェーバーなどが本書では引き合いに出される。カンサンジュンが彼らを召喚する狙いはとても適切なものに思われた。それは、アーレントはもちろんのこと、どれも全体主義への批判的まなざしが感じられるものばかりであるからだ。しかし、そのような批判が有効であるかどうかはよくわからないところである。批判が全く通じないからこそ、救いようが無いバカの救いようのなさが存在するのだから(言っても無駄かもしれない。しかし、こういうことはやっぱり誰かが言わなくてはいけないことだと思う)。





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テオドール・W・アドルノ『三つのヘーゲル研究』

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三つのヘーゲル研究
三つのヘーゲル研究
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テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 渡辺 祐邦
筑摩書房 (2006/03)
売り上げランキング: 184390



 久々にアドルノの著作を読む。『三つのヘーゲル研究』は2つの講演を元にした文章と1つの未刊エッセイからなる1963年の作品。その後、1966年に刊行された『否定弁証法』ではヘーゲルをメタメタに批判しているアドルノだが、本書ではものすごくヘーゲルに対してのリスペクトを掲げている(鬼ツンデレ)。


 第一部「ヘーゲル哲学の視点」は1956年のヘーゲル死後125周年の記念講演を元にしているのだが、ここでのアドルノが異様に熱く、泣ける。当時の“ヘーゲル評価”というのは既に「評価がされきったもの」としてあり、実証主義やマルクス主義などによって既に乗り越えられたものとしてあったそうである。それに対してアドルノは「ヌルいこと言ってるとブッ殺すぞ!」と(は言ってないのだが)いう勢いで怒りまくる。そしてアドルノは「お前らの読んでるヘーゲルは、全然ヘーゲルじゃない。おこがましくも『ヘーゲルにおける生きたものと死んだもの』を選り分けようとする態度は、ヘーゲルのゾンビを墓場から蘇らせるようなものである」という批判を投げかけるのだ。そういった意味で、第一部はアドルノが歌うヘーゲルへの鎮魂歌である。そこには(訳者のあどがきでも触れられているが)「今、ヘーゲルを読んでどうする?」という深刻な問いへ答える態度が貫かれている。ここがグッと泣ける。


 アドルノ自身が序文でも書いているように、本書は「ヘーゲルの入門書」ではない。これは個人的な問題だが私はヘーゲルとカーゲルとネーゲルとケーゲルとゲーデルの区別も曖昧な「ヘーゲル童貞」であったから、本書でのアドルノの指摘がなにを指し示しているものか分かるところは少なかった。しかし、とても魅力的な書物であると感じた。ここで描かれたヘーゲルの姿からは、アドルノがヘーゲルの「正統的後継者」であることが示されている(アドルノが書いているから当たり前なのかもしれないが)し、現象学や存在論を先取りするヘーゲルの鮮やかさに興味が湧く。また「ヘーゲルの難解さに対する批難」をアドルノは退けるのだけれども、この部分はヘーゲルを擁護すると同時に、自分の著述スタイルへのエクスキューズとして成立しているようにも思う。



われわれはヘーゲルを読む場合、自分も一緒に精神的運動のカーヴを描き、いわば思弁の耳で、彼の思想が楽譜であるかのように聴きながら、一緒にそれを演奏するという風に、読まねばならない。



 第三部「『暗い人』――またはヘーゲルをどう読むか」はヘーゲルの必然的な難解さに我々がどのように立ち向かえばよいのかを、端的に示したものである。アドルノ曰く、ヘーゲルを読むという労働は、労働をさらに強いるものである(ヘーゲルを読もうとするものは、ヘーゲルとともに考えなければならない)。そこには労働と交換され、所有されることとなる「理解」は存在しない。ここでなされた、ある種の「明瞭さ」に対する批判はむしろ現代まで実行力を持っている。明瞭な文章を読むとき、我々はその労働と交換に「理解」という精神財を手に入れることができる。しかし、その理解は単なる「思考の模造品」であり、むしろ、思考を停止させてしまうのではないか、と私は思う(そして、そのようなものが多すぎるのだ)。





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1981年のマイク・オールドフィールド、他

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 1981年のマイク・オールドフィールドのライヴがとても面白い。これ、なんとモントルー・ジャズ・フェスの映像。この年は他にジェームス・ブラウン、ウィントン・マルサリス、ディジー・ガレスピー、エラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソン……とすごいメンツが集まってるところに彼が登場している。この事実からして爆笑ものなんだけれども、有名な「チューブラー・ベルズ」のライヴ・アレンジがさらにすごい。原曲の進行に即していながら、ハイテクなハードロックに仕上げている。カッコ良すぎ。


 他の曲もすごくてマイク・オールドフィールドって「ニューエージの先駆者」なんかじゃなくて「ケルトでカルトなミニマルなAORの人」だったんじゃなかろーか、と認識を改めました。ものすごくクセのあるフレーズ作りが堪らないです。


 「マイク・オールドフィールドって『エクソシスト』のあれで一発屋の人でしょ?」とか言ってる人はマジで見直したほうが良い。たしかに「チューブラー・ベルズ」を4回ぐらい焼き直してるのは、一発屋っぽい売り方だけども……。



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 「チューブラー・ベルズ」の最新版はこちら(2003)。元々が「ケルトでミニマル」だったのが「ケルトでサイバー・トランス」という具合に進化を遂げていてとんでもないものになっている。最高ですね!



Tubular Bells
Tubular Bells
posted with amazlet on 07.03.17
Mike Oldfield
Virgin (1992/06/29)
売り上げランキング: 45042




Hergest Ridge
Hergest Ridge
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Mike Oldfield
Virgin (2000/07/27)
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Ommadawn
Ommadawn
posted with amazlet on 07.03.17
Mike Oldfield
Virgin Vip (2000/07/11)
売り上げランキング: 29537



 このあたりの3枚は買っておいて損はないアルバム。元々はカンタベリー・ミュージックの周辺で活躍していた技巧派ミュージシャンなので、ソロ・アルバム以外にも彼の名前がクレジットされているものは多い。とてもじゃないけれど追いきれないけれど、偶然買ったアルバムのなかに「このフレーズは……」というのがあって確かめるとやっぱりマイク・オールドフィールドだった、っていうのがあると結構嬉しかったりする。



Children of the Sun
Children of the Sun
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The Sallyangie
Castle (2002/08/12)
売り上げランキング: 194791



 そういうサイドワーク的なものとしては彼の姉であるサリー・オールドフィールドと一緒にやっていた「The Sallyangie」名義でのアルバムが一番好きです。まぁ、なんか普通のフォーク・ソングっぽいアルバムなんだけれども、バックで鳴っているギターが延々「どこをどう聴いてもマイク・オールドフィールド。個性出しすぎ」というところが面白い。





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本当はカッコ良いヴィオラについて

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 クラシックの世界においてヴィオラという楽器は「虐げられる楽器」ということは、おそらくクラシックの世界に足を踏み入れた人間でない限り知ることのない事柄でしょう。しかし、それは事実です。例えば、こんなジョークがあります――「ヴァイオリンとヴィオラの違いは?――ヴィオラのほうが長く燃える」。「ビオラと玉葱の違いは?――ビオラを切り刻んでも涙を流す人はいない」。

 こんな冗談を言われ、ヴィオラ奏者の方々は卑屈になったりしていないでしょうか。「ヴァイオリンやチェロみたいに綺麗なメロディが回ってこないし……」、「内声ばっかりでつまらない……」と自分がヴィオラという楽器を選択したことを後悔することもあるかもしれません。しかし、そんな必要はありません。今日は隣に並んだヴァイオリンやチェロの人に「ごめんね…今日も音程悪くてヴィオラにばっかり練習の時間とらせちゃって……」と後ろめたい思いを抱いているヴィオラ奏者の方々、そしてヴィオラという楽器を良く知らない方々のために、素敵な動画をご紹介いたします――「ヴィオラは地味な楽器?」それが誤解だということを納得していただけるはずです。




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 まずは20世紀前半に活躍したヴィオラ奏者、ウィリアム・プリムローズによるニコロ・パガニーニの《24のカプリース》。長いクラシックの歴史のなかで、ヴィオラという楽器は独奏楽器としては見られていませんでしたが、彼の登場とともに一躍ヴィオラに注目が集まり、作曲家がこの楽器のために協奏曲を書くようになりました。そのような意味で、プリムローズは「新たなヴィオラ像の開拓者」と呼ばれるべき存在でしょう。


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 ベラ・バルトークのヴィオラ協奏曲もプリムローズのために書かれた作品の一つです(動画は演奏のダイジェスト)。残念ながらバルトークはこの曲のスケッチを残して、他界してしまうのですが(死後に弟子によって補完されています)、遺作に相応しい素晴らしくカッコ良い作品です。とくに第3楽章の民族舞踏っぽい部分などは「バルトーク」という存在を総括するような内容。


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 現役のヴィオラ奏者のなかでトップの人気を誇っているのがロシア出身のユーリ・バシュメット。このモーツァルト《シンフォニア・コンチェルタンテ》では指揮もこなしながら、ヴァイオリンのマキシム・ヴェンゲーロフと共演しています。バシュメットは非常に濃厚な歌いまわしをする人なのですが、この演奏では最初のほうでヴァイオリン独奏からメロディを受け継ぐときにヴェンゲーロフの変なアコーギクを聴いて、明らかに戸惑っているのが面白い(演奏にかなり迷いが見られる)。


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 バシュメットを困惑させるほどの才能を発揮しているヴェンゲーロフですが、この動画ではウィリアム・ウォルトン(イギリスの作曲家)のヴィオラ協奏曲を弾いています。顔で楽器を弾いている姿が面白すぎなんですが、このようにヴァイオリン奏者がヴィオラも弾くというのは珍しくありません。ただ、やはり「ヴァイオリンの片手間感」は出てしまい、ヴァイオリン奏者はヴィオラをヴァイオリンのように弾いている、というのは問題。先のバシュメットの音色と比較していただきたいのですが、全然ヴィオラ特有の「渋い音色」が出ていません(キンキンとした高音部ばかりが耳につく)。


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 ヴィオラための作品で忘れてはならないのがドミトリ・ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ(これは彼が書いた最後の作品でもあります)。動画で聴けるのは音楽が激しい箇所ですが、もっと静かな箇所の音楽が素晴らしい。ヴィオラが最も響きを発する中低音域で祈るようなメロディを奏でるところに、ベートーヴェンの《月光》の引用が重ねられるところなどは背筋に電撃が走るほど深い美しさだと思います。この動画で演奏しているのは、Olga Goijaというラトヴィア出身の演奏家。

 彼女の演奏はYoutubeに数々アップされておりますがオフィシャルサイトでも音源を聴くことができます。パウル・ヒンデミットのヴィオラ・ソナタ、ベンジャミン・ブリテンの《ラクリメ》など20世紀に書かれたヴィオラのための重要な作品が聴けるようになっているのは貴重。ですが、演奏の質は骨太な容姿に比べると線が細いし、音程も怪しい……。


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 最初に書きましたとおり、独奏楽器としてヴィオラへ注目が集まったのは20世紀以降。なので、ヴィオラのための作品は難易度が高いものが多く、逆に「有名な曲」の数は多くありません。この動画で聴くことの出来るフォーレの《夢のあとに》は、チェロによって演奏されることが多い作品ですが、このようにヴィオラによって演奏されるのはある意味レパートリーが少ないヴィオラ奏者の「苦肉の策」と言えるものでしょうか。

 ちなみに演奏しているアンナ・セローヴァさんはバシュメットに「室内楽の世界で特別な個性をもった奏者」と言われたというシベリア出身の演奏家だそうです。



VIOLA LEGEND~ユーリ・バシュメットの軌跡
バシュメット(ユーリ) ブラームス ムンチャン(ミハイル) シューマン エネスコ ショスタコーヴィチ ブルッフ ヤルヴィ(ネーメ) ロンドン交響楽団
BMG JAPAN (2003/10/22)
売り上げランキング: 5886



 さて、ここからは本日紹介した作品を収録したCDなどを紹介いたします。まずは先ほども登場しましたバシュメットのCD2枚組。現在、彼はドイッチェ・グラモフォンに所属しているのですがこれはBMG時代の録音を集めたものです。ショスタコーヴィチ、レーガー、ブラームス(クラリネット・ソナタの編曲)、ヒンデミットによって書かれた名曲がズラリと並んだお得仕様。渋い音色で、絡みつくような歌いまわし……という濃い演奏が堪能できます。どうでも良いですけど、アマゾンを見ると約3年前に私が書いたレビューが掲載されていて恥ずかしい……。



Bartok: Concerto for viola; Movement for viola & orchestra
Bela Bartok Peter Eotvos Gyorgy Kurtag Peter Eotvos Netherlands Radio Chamber Orchestra Kim Kashkashian
Ecm (2000/06/05)
売り上げランキング: 29377



 こちらはバルトークのヴィオラ協奏曲を収録したもの。ヴィオラ独奏をつとめるのは、アルメニア系アメリカ人の女性ヴィオラ奏者(美人)、キム・カシュカシャン。彼女の演奏は、バシュメットとは180度異なったタイプで非常にドライ。研ぎ澄まされた音色で演奏されるバルトークは、クールに攻められる快感を呼び起こします。



ヴィオラ・ブーケ
ヴィオラ・ブーケ
posted with amazlet on 07.03.17
今井信子 ポンティネン(ローランド) チャイコフスキー フォーレ エルガー ブロッホ クライスラー
ユニバーサルクラシック (2000/04/26)
売り上げランキング: 1423



 有名な小品などをヴィオラのために編曲したアルバムを多く出しているのは、日本人ヴィオラ奏者、今井信子。この人は、ベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者になったことで以前注目を浴びた清水直子の先生にあたる演奏家です。演奏スタイルとしては、中庸派。バシュメットとカシュカシャンの間を取るとしたらこのような演奏になるでしょうか。フォーレの《夢のあとに》を収録したこのアルバムでは、しっとりと名小品を歌い上げています。



Schnittke: Konzert fu
Giya Kancheli Alfred Schnittke Dennis Russell Davies Beethovenhalle Orchestra Saarbrucken Radio Symphony Orchestra Kim Kashkashian
Unknown Label
売り上げランキング: 12990





カンチエーリ : ステュクス / グバイドゥリーナ : ヴィオラ協奏曲
バシュメット(ユーリ) ゲルギエフ(ワレリー) キーロフ歌劇場管弦楽団 サンクトペテルブルク・キーロフ室内合唱団 カンチェーリ グバイドゥーリナ
ユニバーサルクラシック (2002/03/29)
売り上げランキング: 10390



 動画は紹介できませんでしたが、この2枚もオススメ。1枚目はギヤ・カンチェーリの《風は泣いている》、アルフレート・シュニトケのヴィオラ協奏曲、2枚目はカンチェーリの《ステュクス》、ソフィヤ・グバイドゥーリナのヴィオラ協奏曲を収録したものです。どちらも全てここ20年の間に書かれた重要なヴィオラ作品。この4曲全てがユーリ・バシュメットのために書かれたという事実も驚きなのですが、ヴィオラの能力を限界まで引き出すような書き方もまた驚き。シュニトケ、カンチェーリ、グバイドゥーリナ……と旧ソ連でポスト・ショスタコーヴィチの作曲家と呼ばれる3人が集まったところに私の趣味が出てしまっていますが、本当に素晴らしい。




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ナナオのカラーユニバーサルデザイン対応ワイドモニターが欲しい!

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 綺麗な画面で映画が観たいのです。





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野村誠『音楽の未来を作曲する』

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晶文社 | 文芸書・人文書を中心とした書籍と各種学校案内書を発行する出版社。


 晶文社のサイトで連載されている野村誠(作曲家)のコラムが面白い。第二回は、この作曲家がこども時代に作曲した曲、それから大人になった現在、こどもと一緒に作曲することについてが綴られている。



現代音楽を演奏すると、子どもは興味深そうに集中して聴く。フリージャズ風の即興演奏などは、バカ受けする。




「子ども向けの曲」=「子どもの知っている曲」ではないのだ。子どもたちに懐メロは存在しない。子どもは知らない曲を次々に吸収していく。全ての曲は最近覚えた曲なのだ。



 このあたりにこども的な理解(=ミメーシス)の正しさがあるような気がする。


 これを読みながら、私はこどもの目の前で爆音のブラームスを聴かせてみたい、と思った。一般的に「渋い」、「暗い」といわれるブラームスの交響曲だけれども、私はその渋さではなく「リズムの面白さ」(強迫的なシンコペーション、表拍に聴こえる裏拍など)に注目していて、ずっと「ブラームスはダンス・ミュージックなんだって!《春の祭典》がブレイク・ビーツならブラームスはJB!!」と吹聴しているのだがどうにも相手にしてもらえない。


 こどもならブラームスを全く違った風に捉えるはずだ。短絡的な想像に過ぎないけれども、「渋い旋律」よりも「激しい律動」にこどもは反応するのではないだろうか。その身体的な理解は絶対的に正しいもので揺るぎない。爆音のブラームスで踊るこどもたちの姿こそがブラームスの「ダンス・ミュージック性」を立証するものとなるだろう。





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●●などいない!

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朝日新聞デジタル:ページが見つかりませんでした





松岡農林水産相は14日の参院予算委員会で、自分の「水道水を飲んでいる人はいない」との発言について、「皆様によくない印象を与えたとすれば、申し訳ない」と陳謝し、「訂正することはやぶさかではない」とも述べた。蓮舫氏(民主)の質問に答えた。


問題になっていたのは9日の記者会見での松岡氏の発言。事務所の光熱水費問題に関連して「事務所では水道水を飲んでいるのか」と聞かれ、「いま水道水を飲んでいる人、ほとんどいないんじゃないですかね」と答えていたのだ。


蓮舫氏は14日の参院予算委で「おいしいきれいな水を供給するため努力している人、経済的問題でミネラルウオーターを買う余裕のない人たちに配慮を欠いた発言だ」とただした。松岡氏の釈明はこう。「最近はペットボトルに入った水を飲む人も多いという意味で言った。水道水を否定するつもりはない。表現の仕方には気をつけなければならない」



 国会で「中の人などいない!」とか言ったら民主党議員に厳しく追及されるんじゃないか?、という疑いを反射的に抱いた人が500人ぐらいいるんじゃないか、というニュース(写真は『水道水を飲んでる人に失礼だ!』と厳しく追及する蓮舫氏)。「おいしいきれいな水を供給するため努力している人を忘れるな!」とか言うなら、この人も蛇口に口つける勢いでガブガブ水道水飲むんだろう。水道水のカルキ臭さは精液の臭いを連想させるし、そもそも蛇口に男根的なイメージが付きまとうので、すごくエロティック。水道水をガブガブと飲む蓮舫氏のイメージビデオなどがマニア向けにYoutubeにアップされる日が来たら良いのにな、と思う。





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日付変更とともにやって来た驚き/クリムゾン以外のロバート・フリップ映像集

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ロバート・フリップ先生によるWindows Vistaの起動音 - YAMDAS現更新履歴


 Windows Vistaの起動音を製作したのはロバート・フリップらしい(トラックバックを送ってくださったid:yomoyomoさん経由)。Windows95がブライアン・イーノだったりして、マイクロソフトの開発チームにはプログレ好きでもいるのか、とか思ってしまう。動画はVistaについて語るロバート・フリップ。老けた向井秀徳ではない。





The Equatorial Stars
The Equatorial Stars
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Fripp & Eno
Opal (2005/04/05)
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 気が早すぎるけど、次のOSにはフリップ&イーノ名義で参加して欲しいです。



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 映像はロバート・フリップ弦楽五重奏団の演奏。弦楽五重奏団といっても全員ギターで、フリップが主宰するギター学校出身者によるグループ、カルフォルニア・ギター・トリオ+ロバート・フリップ+トレイ・ガン(スティック。キング・クリムゾンのメンバー)という師弟共演。アッタク音を消したフリップのギターが好きなので、これを前面に押し出したアルバムをもっと出して欲しい。ユニオンに行けば売ってんのか?



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 こちらはデヴィッド・シルヴィアンとロバート・フリップの共演。デヴィッド・シルヴィアンが持ってるギターがスタインバーガー!っていうところが80年代っぽくて素晴らしく泣けます。他に参加してるのは、トレイ・ガン(スティック)とパット・マステロット(ドラム)でどちらもキング・クリムゾンのメンバー。



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 デヴィッドつながりで、デヴィッド・ボウイの「Heroes」。映像はカラオケっぽいですが、ギターを弾いているのはロバート・フリップ。フギャフギャとした変な音色でポップなフレーズを弾いているのが気持ち悪くて良いです。



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 気持ち悪いといえば、このボウイも相当気持ち悪くて最高。アメリカの古いテレビ司会者みたいな格好。天才過ぎて理解できないセンスだ。



Heroes
Heroes
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David Bowie
Emi (2002/06/10)
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 気持ち悪いけど、ボウイのベルリン三部作(ブライアン・イーノがプロデュース)はなんだかんだ言って最高です。





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内田光子、シェーンベルクを語る

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 ジミヘンばりに顔面崩壊しながらピアノを弾くことで有名な日本人ピアノ奏者、内田光子がシェーンベルクのピアノ協奏曲について語る映像を見つけました。陽気な感じで早口に喋るのが意外。



あなた方はきっとこの曲を丸ごと記憶しておくことは出来ないでしょう。構造やこの曲について全てのものごとを説明することはできます、しかし、(音楽に耳を傾けるジェスチャーをして)ただこのように音楽に耳を傾けて欲しいのです。それが全てです(意訳)



 「現代音楽を聴く」という行為について、ものすごく真っ当なことを言っている。とても奇怪な音楽を耳にして、その意味を探ろうとする。それは真っ当な行為だけれども、意味づけするのは後からで良い。コンサート・ホールの椅子に座ったらじっと、音楽に耳を傾け続けるべきだと思う。



シェーンベルク :ピアノ協奏曲 作品42
ブーレーズ(ピエール) 内田光子 クリーヴランド管弦楽団 シェーンベルク ヴェーベルン ベルク
ユニバーサルクラシック (2000/11/22)
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 内田光子のシェーンベルクはCDもある。ブーレーズのバッキバキに明晰な解釈とクリーヴランド管(かつてジョージ・セルという星一鉄のようにおっかなくて強権的な指揮者によって鍛え上げられたアメリカの名門オケ)との相性が悪い訳がなく、涙も凍てつくような強力な伴奏を得て内田光子が駆け巡る名演です。



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 ズービン・メータ/イスラエル・フィルと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の映像も出てきた。演奏は言うまでも無く素晴らしい(弱音のニュアンスや、ルバートなどとても繊細だ)。あと、この映像カメラワークがクラシックの映像にしてはやたらと動きがあって面白いですね。カットアップか、っつーぐらいにカメラの切り替えが激しくて目が回りそう。



Beethoven: The 5 Piano Concertos
Ludwig van Beethoven Kurt Sanderling Bavarian Radio Symphony Orchestra Royal Concertgebouw Orchestra Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks Mitsuko Uchida
Philips (2005/10/11)
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 CDはクルト・ザンデルリンクとの共演。この内田光子・ザンデルリンクのコンビによるピアノ協奏曲全集では、メータ以上に有機的な響きを強調するザンデルリンク引退直前の至高の演奏が聴ける。





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『限界の思考』を、もう一度(3)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台真司 北田暁大
双風舎 (2005/10/22)
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 第3章は「社会学はどこへ向かっていくのか」。過剰流動化がすすむ社会の中で、乖離的な人格を持った人々が増えている、と宮台は指摘する。人格的な統合が行われないそのような人々は精神医学的な視点からすれば「病理性を持った人」(壊れた人)と診断されてしまうが、宮台は逆に「乖離こそが過剰流動化への適応なのではないか」という評価を下している。統一された人格を持った理性的な姿を一つの「人間の条件」とするならば、乖離という適応の仕方を取る人間はもはや人間ではない。しかし、これは社会システムそのものが「人間」を必要としなくなってきている、ということなのではないか、と宮台は言う(それに対して北田も東浩紀の「動物化」を持ち出して共鳴している)。


 この章は、そのような社会の中で「僕たちが人間であり続けることは、必要なことか」、「人間であり続けるとは、どうあり続けることか」、「僕たちが人間であり続けるには、何が必要か」という問いを巡るものすごく熱い章となっている。そこで行われる議論は「社会学は、そのような社会を生きる人々にどのような<答え>(選択肢?)を提示できるのか(すべきか)」というものであるが、「(社会学が提出する選択肢を前にして)我々はどのように生きるべきか(行動するべきか)」という風にも読める。宮台と北田はここで「人間の終焉」(フーコー)を語っている。第2章では「終焉を語る言説が、その対象物を延命させる」という議論も出ているが、その議論を鵜呑みにして「《人間の終焉》を語り継ぐ限りは、本当の終焉はやってこない(第3章ではその本当の終焉を、『終焉の忘却』というような言い方をしている)」と楽観的に構えることはできない。


 危機感を抱きながら、宮台は「社会においてまだ完全には人間が不必要化されているわけではない」と言う。「動物化された人間」(乖離した)を管理するためアーキテクチャを作る「人間」が必要なのだ。現実的な社会は「壊れていない人間が設計したアーキテクチャを、壊れた人間が生きる」ようなドゥルーズ的な権力が横行する社会にシフトしている、という指摘も宮台は行っている。


 「壊れていない人間が、壊れた人間を管理している」姿を想像すると、それは「SF的なもの」や「一種の陰謀論」として感じられてしまう。が、それは「現実のもの」として社会のなかで存在することを示す事例を思い出した。



嫌オタク流
嫌オタク流
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中原昌也 高橋ヨシキ 海猫沢めろん 更科修一郎
太田出版 (2006/01/24)
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 中原昌也その他によって書かれた『嫌オタク流』には「オタクが喜ぶ要素を盛り込まないと商品は面白いように“全然売れない”/逆に要素(猫ミミ、ツンデレ、制服、近親相姦……)を盛り込めば、確実にある程度の売り上げが見込める」という証言がある。これは壊れていない人間が、壊れた人間を管理する事例として読むことができる(オタクの『要素萌え』に関しては、『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』でも触れられている)。この事例を思い出しながら、「壊れた人間が設計する恣意的なアーキテクチャのなかを、壊れた人間が生きる」と社会を宮台は「現実的に無理」と棄却しているが、果たして本当だろうか、と思う。壊れていない人間が、壊れた人間を「動物的に」管理しはじめたとき、それは「壊れた人間が壊れた人間を管理する社会」が実現したことになるのではないか。


 「動物化という現実に人間主義的な観点から反発したり、否定的な意味しか与えないのは、一面的すぎるのではないか」という意見から「動物化が<適応>なんだったら、それで良いじゃん!オタク万歳!!」と居直ることも可能だ。が、個人的にはやはりそこに反発したいな、と思う。かと言って「壊れていない人間が、壊れた人間を管理する」という図式も嫌だ。理由は、人間がぶつかり合って創発的に何かが生まれていく、という姿が「面白い」と感じるからなのだが。





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菊地成孔『スペインの宇宙食』

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スペインの宇宙食
スペインの宇宙食
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菊地成孔
小学館 (2003/09)
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 菊地成孔の第一エッセイ集。基本的には大変楽しみながら読む。幾度も「この人ほど色んな読み方ができる人は今いないだろうな」と言う思いを噛み締めながら。熱狂的なファンであればあるほど、自らの「読み」を信じ、他の誰かによる読みに対して「違う!そうじゃない!!」と否定の声をあげる。そのような無意味な戦争状況が、たぶんネットのどこかであるのを想像してしまうほど、多義的に菊地成孔は存在している、と私は思う。例えば、彼は「キッチュの人(“キッチュのキッチュ”とも言うべき)」である。また、「反復の人(マイルス・デイヴィスの反復、あるいは田中康夫の反復。またDCPRGの音楽はポリリズムの反復音楽だ)」である。さらには「虚構の人」でありながら、「真摯に音楽を作り続ける人」でもある。以上は私がパッと思いついた限りの「読み」だが、このどれもが正解のようであり、不正解のようででもあると思う。たぶん、このような多義性を安易に「何か」へと着地させることなく、批評的に言説を紡ぐことを可能にするのが「批評家の才能」なのではなかろうか(残念ながら、私にはそういうのが一切無い)。

 内容は多岐に渡る。ジョン・ゾーンの「コブラ」、ゴダールの映画音楽、ジャムバンドについての虚構の歴史と(虚構の)正史……など大変有益な情報が満載で、個人的には特に安西ひろこが柔道の元国体選手であるという事実などを知れたことに一番の喜びを覚えた(安西ひろこってちょっと懐かしくて、心の微妙に柔らかい部分をグッと突いてくると思いませんか。とか書いておくと、たぶん多くの人の心に『安西ひろこって今何してんだ!?』という疑問を浮かばせるはずだ、と現在グーグルで安西ひろこの消息を追っている私は確信の念を抱いている)。数え切れないほどの固有名が書き連ねられているところに「菊地成孔って鼻持ちならねぇ、スノッブ野郎だなぁ!」と癪にさわる人も多いと思うのだが、「安西ひろこ」への探究心によってカチンときたところをなだめて欲しいと思う。

 最後に、表紙の写真について。小さい画像などで見ると洒落た装丁に見えるのだが、手にとってマジマジと眺めると「変な柄シャツを着た小男が、道端でステーキを食っている」という詳細が確認でき、「小洒落てて、綺麗な装丁だなぁ」という印象に「あれ……?」というモヤモヤとした疑惑が差し込まれる不思議なものとなっている。




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ジョン・ヒューストン『黄金』

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黄金
黄金
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ファーストトレーディング (2006/12/14)
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 メキシコで乞食同然の生活をしている男が「金で一財産築くべ!」と一念発起、2人の仲間と旅に出る。無事金脈を当てるも男の「不信」が原因で、事態は最悪の展開に……。「人間は欲望の塊である」、「信頼が大事」、「土民に優しくしておくと良い目が見られる」など数々の教訓が得られる名画でした。


 主人公の男はハンフリー・ボガートが演じていて、私は「探偵」をやってる彼しか見たことなかったのだけれど、ダーティな役も良いなぁ、と溜息。何をやってもハンフリー・ボガートはハンフリー・ボガートな感じはするんですが、早口でまくし立てるシーンなどはとてもカッコ良い。最後、ものすごく歯が汚い悪党オブ悪党なメキシコ人に、まるで家畜のようにあっさりとブッ殺されるんだけど(しかもナタで惨殺!)。


 ストーリーの終盤、金探しをする3人組からリーダー的な役割をしていた「金探しのベテラン老人」が離れてからどんどん話がサスペンスの方向に転がり込んでいくのだけれども、このあたりの「調停者」的な役割をする人物がいなくなってすぐに「問題」が発生するところが「アメリカっぽいのかなー」と思います。このあたりの年代のアメリカ映画には、(ストーリー上重要じゃない人物でも)「問題」を収めるような調停者的なキャラクターが多く描かれているような気がしていて、そのあたりの感じが以前から気になっていました。例えば『真昼の決闘』のなかでも、教会の中で町人が泥沼化してる議論を繰り広げるシーンがあるのですが、そこも神父さん(町長だったかもしれない)が意見を言った瞬間に、それまでの議論が全く無意味であるかのように問題が解決してしまう、という不思議なところがある。


 このDVD、近所の本屋さんで500円で買ったんだけど、中盤あたりから字幕がセリフとズレます。初めて低価格DVDを買ってみましたが、こういうことってありがちなんでしょうか。「500円だもんなー、仕方ないなー」とか言いつつも、やっぱり気になる。





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プロコフィエフについてはよくわからないままだけれど

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 音楽を聴きながら部屋でぼんやり読書をしていたところ、iTunesのシャッフル機能があまり熱心に聴いた覚えのない曲を再生しはじめた。冒頭は重い溜息のようなピアノ。それに応答するかのようにヴァイオリンが鳴り、誰かが書いたヴァイオリン・ソナタだということが分かる。でも正確誰かが特定できない。「この重苦しい感じ、ショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタはこんなだったかな……」と思って本から顔をあげ、パソコンの画面に目を向けて曲名を確認するとセルゲイ・プロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第1番だった。


D

 ピアノの低音を強調したフレーズが繰り返され、その上でヴァイオリンが静かに変化していく第1楽章が終わると、打って変わって狂ったように騒がしい第2楽章がやってくる。4楽章構成の作品は、第3楽章でまた緩やかなテンポになり、第4楽章はまた速く(テンポは“Allegrissimo”)。緩急のカウンターパンチのえげつなさに「この躁鬱っぽい展開はプロコフィエフならではだな……」と思う反面、印象派風の美しいフレーズの数々とギクシャクとしたリズムが混合するところには分裂的なものを感じる。

 このつかみどころのなさにプロコフィエフがショスタコーヴィチのように熱狂的なファンを掴めない理由がある気がする。美しいメロディを書いた数なら、おそらくプロコフィエフの方が勝っていただろうに。あまりに天才過ぎるばかり、戦略的にそれを用いることに関してはあまり上手くなかった、みたいなところがある。



Vadim Repin plays Mozart, Barto’k, Tchaikovsky and others
Dmitry Yablonsky Bela Bartok Antonio Bazzini Ernest Chausson Claude Debussy Grigoras Dinicu Heinrich Wilhelm Ernst Edouard Lalo Nikolay Medtner Wolfgang Amadeus Mozart
Warner Classics (2006/10/17)
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 聴いていたのはワディム・レーピンの演奏(紹介した動画はダヴィッド・オイストラフとスヴャトスラフ・リヒテル。このスカスカした録音の貧しさがソ連っぽくて堪らないですね)。レーピンはオイストラフの正統的継承者として、ロシア出身のヴァイオリン奏者で私が最も評価する演奏家なのだけれども、落ち着いた素晴らしい演奏を聴かせてくれる。テクニックも抜群で、重音を弾くときの豊かな音色や弱音の細やかさにはうっとりしてしまう。伴奏のボリス・ベレゾフスキーのピアノも良い。ただ、ここまで美しく演奏されるとプロコフィエフの「天才過ぎて頭がおかしくなってる感じ」というのは抑制されてしまうかもしれないが。

 なお、この10枚組ボックスには、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番も収録されており、こちらも素晴らしい演奏。ケント・ナガノ/ハレ管弦楽団の低音部を響かせる伴奏(モリモリしている感じ、と個人的に名付けている)が、暴れまわる独奏ヴァイオリンをしっかりと支えている。



プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ第1番&第2番
庄司紗矢香 ゴラン(イタマール) プロコフィエフ ショスタコーヴィチ ツィガーノフ
ユニバーサルクラシック (2004/03/03)
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 他には庄司紗矢香の演奏なども良い。レーピンと似たような演奏なのは、どちらもザッハール・ブロン門下生だからだろうか。




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『限界の思考』を、もう一度(2)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台 真司 北田 暁大
双風舎 (2005/10/22)
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 第2章は「文化を記述する方法」。ここではどのように社会学が文化を読むべきか/記述すべきかについての議論が重ねられている。冒頭は北田暁大が上野千鶴子/廣松渉から学んだ態度――弁証法的な止揚を拒絶しつつ、安易な多元主義におちいらないという立場どりの理論的・倫理的重要性について語っている。このあたりは個人的にアドルノとも共鳴して読め、面白かった。「『……が欠けている』という批判はまったくごもっともで、そう指摘さるあなたご自身が、そういう観点から分析をなさればいい。私は、フェミニズムが見出してきたこのふたつの変数を設定することによって問題に取り組んでいく」という上野千鶴子のような決然とした自らの態度表明(あるいは態度設定)は「何かについて語るとき」に重要なものと思われる。「あれも、これも」と取ることが可能な視座を可能な限り取るのではなく、自らが選択した視座に踏みとどまりながら“突き抜けること”が必要なのではなかろうか、などと思った。当たり前の話かもしれないが。

 この章も語られているトピックが盛りだくさんで、カルスタの問題点やルーマンのゼマンティーク(意味)論など大変勉強になるのだが(『やっぱり、ルーマンなのかなー……』と懐疑的に思う。『社会構造と意味論』は邦訳の予定があるなら待ちたいが)、前章でも触れられていた「コミュニケーションの共通前提の崩壊」についてさらに詳細な説明が入る箇所で一つ考えることがあった(しかし、それはとても個人的なことである)。


社会の過剰流動化によって生活世界が空洞化し、知識人も大衆も「同じ生活世界を生きている」という共通了解が崩壊すると「知識人/大衆」図式は機能しなくなります。大衆が各島宇宙ごとの知識を持つのと同じく、知識人は各島宇宙ごとの知識を持つだけ。社会学者が社会学を知っているのは、豆腐屋が豆腐を知っているのと同じになります。


 以上が「共通前提の崩壊」に関する宮台の説明だが、これは分業による高度な専門化システムの形成・分化という現象に言い換えられると思う。例えば、システムA(社会学)とシステムB(豆腐屋)があるとして、Aにおいて重要とされる「知識」はBにおいては何の意味を持たない、という風にして。

 これに続いて、70年代から80年代にかけてのモードの変遷を北田が応答している。そこで触れられているのが「ネタからベタ」へという事象である。事例としてあげられるものはYMO。(クラフトワークを知っていれば)YMOは「ネタ」なのだが、(クラフトワークを知らなければ)「ベタ」に読み込まれてしまう(そして80年代はそのように『ネタからベタ』に読み込まれていった)、ということが語られている。このような「読み手」の性質によって、読み込まれる意味が異なってしまうこともコミュニケーションの共通了解の崩壊の一つとして挙げることができるだろう。

 そこで私が思い出したのは、大学のゼミでのことである。ゼミ生の一人に日本の「アングラ文化」についての研究を行っている人がいて、同じような事態が起こっていたのである。彼が発表をおこなうとき、まさにYMOが「非常に先駆的なもの」として読まれ、「アヴァンギャルド(?)」だった、というベタな読み方をしていた。そこで、私は延々と「いや、YMOはネタなんじゃないの?」という質問(というか、批判)を繰り返していたんだけれども、今となって考えるとそういう「君の読み方はちょっと違うんじゃないの」と一言言うことに何も意味が無かったんじゃないか、とか思う。宮台的に言うならば、私の一言は「豆腐屋にとっての社会学の知識」がごときものになっていて全くの無意味だったんじゃなかろうか。

 社会学者は社会学者にだけ、豆腐屋は豆腐屋にだけ話しかければ良い、という話ではない(それは他者とのコミュニケーションとは言えない)。おそらく社会学者にとっては豆腐屋こそが他者なのだろう。漠然と、その他者へとどのように語りかければ良いのか、ということを考えている。




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ブラスト・ビートの叩き方

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D


 トーマス・ラングさんによるブラスト・ビートの叩き方講座。とりあえず腕太すぎ。



D


 気持ち悪いよ!





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引越し準備のBGV

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ラスト・ワルツ〈特別編〉
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 段ボールに本詰めたりしながら観る。泣いた。





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スクロヴァチェフスキのベートーヴェン全集

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スクロヴァチェフスキ/ベートーヴェン全集|交響曲|クラシック|音楽|HMV ONLINE CD、DVDの通販-ゲーム、書籍、タレントの写真集も


 id:encyclopectorさん経由。OEHMレーベルから出ていた全集のセット売り、6枚組で4165円。このレーベルから出る録音は結構良い線を突いてきてくれてつい買ってしまうんだけれども、しばらくすると安い値段でセット販売されたりするので、先にバラで買ってしまうとなんかものすごい損した気分になりがち。近年のベートーヴェン演奏では最も素晴らしい部類に入るものなので、買っておいてまず損はないと思います。私も買って、重複したヤツを人にあげたりするんだろうな……。





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続・夕陽のガンマン

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続・夕陽のガンマン
続・夕陽のガンマン
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2007/01/26)
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 エンニオ・モリコーネって涙腺を緩ますような綺麗なメロディばっかり書く人だとばかり思ってたんだけど「本当は全然ちがくて結構《前衛》の人だったんじゃねーの……?」と思ってしまった(ちなみに作曲の師匠はペトラッシというイタリアの20世紀音楽の第一世代に位置する人だ)。『夕陽のガンマン』のテーマ曲よりも、『続』はハードな色合いが強くて、っていうかいきなり野犬のようなシャウトですごいのな……。ギターもなんかプログレみたいで、PFMよりもアレアっつー感じ。実際70年代にはモリコーネっていくつかのプログレバンドと組んでオーケストラ曲書いたりしてるので「モリコーネ=プログレ説」も間違いではない。

 というのは、ただ「プログレ」って言いたいだけなんだけど、悪人を演じるリー・ヴァン・クリーフ*1が人を撃ち殺すシーンで流れる音楽にトーン・クラスターが盛り込んであって「早いなぁ」と普通に驚かされる。あと、リー・ヴァン・クリーフが傷ついた南軍の砦に行くシーンの音楽は、遠くの方で鳴っている騎兵隊ラッパの使い方がすごく良くて泣ける(マーラーが書いた交響曲第1番の「舞台裏で演奏されるトランペット」みたいで)。この部分、この映画のサントラで数少ない「美しいメロディが聴ける曲」だと思う。あとは、北軍の捕虜収容所で捕虜が演奏している曲が演出と絡まってすごく良いんだよなー。


 名作映画なので中身に関して何も言うこと無いんですが、マカロニウェスタンっつー高い娯楽性のなかに反戦メッセージみたいなのも盛り込み……って言うのは、なんかゾンビ映画でブッシュ批判!みたいなノリを思い出してしまって「すげー」とか思いました。『夕陽のガンマン』より火薬ドカンドカンいってて、イーストウッドがギャグみたいに大砲とか撃つもんだから爆笑しちゃうんだけど、この過剰な火薬量はやっぱりベトナム戦争と重なります。映画公開の前年、1965年は北爆開始の年でもあります。そのあたりを考えると『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』という前2作は(歌謡性の高さから)PFMであり、本作品はアレアだ、ということができるのではないでしょうか。嘘だけど。



ライヴ!!コンサーツ・アーカイヴ・ボックス
アレア
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 表現のなかに政治を盛り込むイタリア系アーティストでアレアしか思い浮かばない自らの想像力の貧困さを嘆くべきですが、混沌としたインプロヴィゼーションから「インターナショナル」へと流れ込む怒涛のライヴや「Arbeit Macht Frei(労働、権力、自由)」という曲タイトルの「赤さ」が強烈過ぎるのです。




*1:この役者、すごく好き。長いストックと長いバレルの拳銃が良く似合う、と思う





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『限界の思考』を、もう一度(1)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台真司 北田暁大
双風舎 (2005/10/22)
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 宮台真司と北田暁大という世代の違う社会学界のスター的存在による対談集『限界の思考』を再読している。これは最近、再び「社会学になにができるか(というよりも、私が社会学というツールを使って何を語ることができるのか)」という問いを考えているので。賛否両論あろうとも、私は宮台真司という人を尊敬しているので(著作は全然読んでないけど)大変勉強になる本。ヒールレスラーのように偽悪的に振る舞い、理論家としても強力なものを持っていて、かつシカゴ学派のように行動する、というところに惹かれる。


 第一章では、主知主義の<依存>と主意主義の<自立>というトピックを読み直して、驚くところがあった。「<世界>は合理的に記述可能」とする主知主義は、世界の根源的未規定性を前にして、存在論的な不安へと陥り、そして超越的な対象(例えば、神)へと依存していく。こういったスタンスに対して、「<世界>は合理的に記述不可能」とする主意主義は主知主義を「ヘタレだ!」と批判する。「根源的未規定性」――例えば「私が私であって、他の誰かではないこと」――を前にしたとき、主意主義は単純な「驚き」へと開かれていく。この驚きが「私が私であること」への肯定へと繋がっていくところがとても面白かった。もっともこれは開き直りのようにも聞こえるのだが、宮台はこういった主意主義の態度を「合理的」と評価している。こういう合理性を、以前の私ならちょっと上手く飲み込めなかったんじゃなかろうか、などと思う(だから、こうして主意主義の合理性に納得してしまう自分に驚いている)。宗教や神に<依存>せずすむような、<世界>の根源的未規定性に開かれた<自立>的あり方を、宮台は「第三の宗教性」と呼んでいるそうな(このあたりをちゃんと読まなくては、などと思った)。



広場の真ん中でひとり叫ぶ行為は、表現ではなく、表出です。でも、そうやってひとり叫び、気がつくと周囲に叫び声が澎湃として満ち満ちるような「表出の連鎖」――ミメーシス――があり得る。



 また、このミメーシスの可能性というところに強く心を打たれた。対談の冒頭で、宮台はコミュニケーションの共通前提が崩壊していることを指摘しているのだけれども、それとも深く関わっている事柄だ。ケータイ小説を批判してても仕方がない(その批判に共感する人はそもそもケータイ小説を読んでいない)というように、何らかを批判することの無意味さや、声の届かなさを前にして、少なくとも私はミメーシスの可能性にかけるしかないのだな、と漠然と思う。真魚八重子さんの「墓標」エントリや中原昌也の「いらだち」に私が感動してしまう理由は、そのような可能性にかけた切実な<表出>に思えるからなのかもしれない。





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武田百合子『富士日記』

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富士日記〈下〉
富士日記〈下〉
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武田百合子
中央公論社 (1997/06)
売り上げランキング: 10062



 1年ぐらいかけて下巻まで読了。武田泰淳のファンなので楽しく読めた。富士山麓にある山荘での武田夫婦の暮らしは非常に狭い枠内で閉じていて、まるで天上界での出来事のようにつづられている。その生活は非常に牧歌的で、素朴である。そこに突然、下界での様子が差し込まれるところが面白い。例えば1969年であれば学生闘争についての記述が現れるし、下巻の最後のほうにはサンタナという「70年代を感じさせる名前」が見られる。しかし、それによって山荘での生活に変化が起こることはない。そこに強く「地方」というものを感じた。


 下巻は主に泰淳が『富士』を執筆途中の日記なのだが、その執筆模様は不思議なほど書かれていない。綴られている静かな生活のなかで、あのような巨大な物語がつむがれていったのを想像するのは楽しかった。





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