村上春樹『約束された場所で――underground 2』

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約束された場所で―underground 2
村上 春樹
文芸春秋 (2001/07)
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 感想は、また後で。





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BATTLES『Mirrored』

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Mirrored
Mirrored
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Battles
Warp (2007/05/22)
売り上げランキング: 1197



(アンテナに登録しているダイアリで続々とレビューがあがっているので、ワスも便乗して書くよ)


 日本盤が先行発売になっていたため、どうでも良いライナーノーツを買わされた気分だったっす。なんで仕方なく読んでみたんだけど「ポストモダンロックぅ…?」とか思いつつも、「80年代クリムゾンを彷彿とさせ…」なんてくだりには結構納得してしまったっす。直接的な影響関係をさぐることは不毛だと思うけど、ワスはこのアルバムを「00年代ダンスフロアにチューニングされた80年代クリムゾン」という受け取り方をしているっす。また改めてロバート・フリップ御大の偉大さって言うんですかぁ?そういうのを実感しちゃいますよ!(時代の先を読みすぎ!!)あと「ポストロックとか言ってるけど、所詮“歌のないニューウェーヴ”じゃんねぇ…」とか思ったっす。もうなんか“ニューウェーヴ2.0”とか“プログレ2.0”で良いじゃんねぇ…。


 id:Dirk_Digglerとか言う人が「向井秀徳先生が地団駄を踏む姿が目に浮かぶよう」とか言ってたけど、アルバム全体を聴いてみると「俺ら(ZAZEN BOYS)のほうがキワモノ。だから俺の勝ち!」とか思ってそうだと思ったよ。カッコ良いことにはカッコ良いんだけどさぁ…(あと一瞬、THE MUSICみたいなところがあるよね)。


 ワスはHMVでこのアルバムを買ったんだけど、レジに持ってくとき前にいた男の人も同じアルバムを持って並んでて、その人がなんか絵に描いたような「オシャレ男子」だったんだよね。ワスは全然ファッション誌なんか読まないけど、その人はほんとにメンズノンノとかスマートとか読んでそうなヤツでさぁ……。そこで思ったんだけど、このアルバムにもそういう男性ファッション誌的なオシャレ感というか、カッコ良さが流れているような気がしたよ。


 でも、ジョン・ステイナーのドラムは良かった!チークが濃い目で、可愛いワンピース着てる女の子を連れて代官山とかで買い物してそうなカッコ良い男子感をぶち壊すみたいに、ガツガツと叩いててねぇ…。そこにハードコア/メタルの男くささを感じたっす。ワスは結構メタルとかも好きなんだけど、だからこそ「BATTLESが好きで、PANTERAが聴けないなら嘘つきだ!」って言いたいね!PANTERAのギタリストだったダイムバック・ダレルという人はライヴ中に撃たれて死んでるんだけど、むしろこっちのほうが“BATTLES”じゃんなぁ!



D





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ハンナ・アーレント『人間の条件』

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人間の条件
人間の条件
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ハンナ アレント Hannah Arendt 志水 速雄
筑摩書房 (1994/10)
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 『革命について』*1に続き、ハンナ・アーレントの著作を読み終える(2冊目)。これでテオドール・アドルノとアーレントという二人の思想家を参照しながら、《暴力》について考えることは今尚有効なものだ、という思いをますます強くした。その理由をごく簡単に言ってしまうと、彼らが第二次世界大戦中、ナチズムによって暴力を浴び、幸運にも生き延びた後に、暴力について当事者的に考えようとした人たちだから、というもので終わってしまう。読んでいて涙が出てくるほどの衝撃をくらうぐらい、彼らの著作には受難から生まれてきた切実さを感じる。たとえ、アドルノとアーレントの関係が劣悪だったにせよ、二人の著作物の根底には似たような危機感と深刻さがある。

 もちろん、純粋な同化ユダヤ人(変な言い方だけれども)の家庭生まれ、常々ユダヤ人であることを意識しながら生活してきたアーレントと、イタリア系の母を持ち戦争が始まるまでは特に自分がユダヤ人であることを意識していなかったアドルノの境遇を同一化することはできない*2。しかし、前者が「同化していたはずなのに」、後者は「ユダヤ人だと思ってなかったのに」迫害を受けた、と考えるならやはり近いものがある。両者は共に、暗がりで後ろから刺されるようにして暴力を蒙っていたのではないか。


 方法論と参照点、そして態度の違い(印象に過ぎないが、アドルノはアーレントよりもずっと愚直であると思う)があれども、上に述べたような理由で私はこの二人の著作を基本的に接続させながら読んでいる。例えば、アドルノのいう「理性による《自然支配》」と、アーレントのいう「近代の《世界疎外》」は似たようなことを言ってたんじゃないかなぁ、とか思う。


この世界疎外という概念こそ、彼女の危機意識の鍵概念であろう。この疎外は近代以降、二つの方向で進行した。第一はデカルト以来、近代哲学は客観的な世界へのリアリティへの懐疑から自分の内部の意識に目を向けるようになり、そこに実在の固い基盤を見いだそうとした。この内省的方法がなにをもたらしたかは別として、それ以来近代人は世界の固いリアリティを失った。第二は近代科学の発展によって、人間は自身が地球拘束的な存在であるにもかかわらず、地球に拘束されない真に宇宙的な立場を確立した。(中略)今日の科学が与えている世界像は世界のリアリティではなく、なにか人間の精神がつくりだしたパターンのようなものにすぎないということである*3



 ここで引用した“第二の方向”に関しては、そのまま道具的理性が自然を支配していく過程と同様に読める(ただ、アドルノはそれをリアリティの消失ではなく、全体主義のステップである《同一化》を生む、と言うのだが)。また、“第一の方向”も内なる自然の理性による支配(内省)そして、支配された内省的な世界がどんどん拡大されていく過程――つまり、自然的な世界が理性よって支配された内省によって覆われていく状態と似ているようにも思う。正直に言うと、アーレントを読むまでアドルノの自然支配がどんなものなのかよくわからないでいたのだが世界疎外と接続されて始めて、クリアなものになってきた気がする(本当にどうでも良いけれど、自然支配と世界疎外って韻を踏んでいる)。アドルノを(何かのテーマと関連して、ではなくアドルノ自体を考えるために)読むとき一緒に読むべきなのはベンヤミンではなく、アーレントなのかもしれない……なんて思ったりもした。


 以上、ここまでアドルノおよび私がアドルノを読んでいる過程などについて興味がない(つまり大部分の)方にはまことにどうでもいい感想を書き連ねてきたけれども、とにかく面白い本である。出版されたのは1958年なのだが、既にアーレントがグローバリズムに対して警鐘をならしているようなところがあり、その慧眼に感服せざるを得ないし、ギリシャにおける《労働》と《仕事》の捉えられ方なども歴史的な知識として興味深かった。生まれ変わるならギリシャ人市民を熱望します。服もほぼ裸で、布をまきつけるだけで簡易だし、毎朝「今日は何を着ていこうか……」とクローゼットの前で悩まなくても良いだろうし……。




*1:こちらの感想はhttp://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070301/p2


*2id:sumita-mさんによれば、Adornoという名前も母親の姓だそうである


*3:『人間の条件』訳者解説より





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追悼!ロストロポーヴィチ

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ベートーヴェン:トリプル・コンチェルト & ブラームス:ダブル・コンチェルト
オイストラフ(ダヴィッド),ロストロポーヴィッチ(ムスティスラフ) リヒテル(スヴャトスラフ) リヒテル(スヴィヤトスラフ) オイストラフ(ダヴィッド) ロストロポーヴィッチ(ムスティスラフ) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン) ベートーヴェン クリーヴランド管弦楽団 セル(ジョージ) ブラームス
東芝EMI (2004/12/08)
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 1927年に旧ソ連(現・アゼルバイジャン)で生まれた音楽家、ムスティラフ・ロストロポーヴィチが亡くなりました。20世紀前半を代表するチェロ奏者をパブロ・カザルスとするならば、ロストロポーヴィチの活躍(彼のために書かれたチェロ作品の数は、おそらく今後も破られることのない記録として残るでしょう)を考えれば、間違いなく彼を「20世紀後半を代表する最高のチェロ奏者」ということができるでしょう。その彼の死は“20世紀の音楽史”が閉じていっていることを強く実感させます。演奏の素晴らしさ、だけでなく、ソ連という極めて特殊な(現代の日本から見れば、ですが)文化的・社会的状況のなかで生き、ソルジェニーツィンを擁護したことによりほぼ国外追放という危険な状況に晒された彼の人生そのものが「20世紀」を感じさせたのです。


 上にあげた録音はヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルの伴奏で、ロストロポーヴィチがソ連最高の音楽家として活躍していたダヴィド・オイストラフ、そしてスヴャトスラフ・リヒテルと共にベートーヴェンの《三重協奏曲》を演奏したもの。カラヤン/ベルリン・フィルという西側的な“世界最高”と、ロストロポーヴィチらの東側的な“世界最高”が融和した歴史的事件のような名盤です。ここに名前を挙げた人たちは既に全員鬼籍に入っておりますが、今頃、天国での邂逅を果たしているのではないかな……などというと少し感傷的過ぎるかもしれません。



D


 多すぎるほどに名盤を残してきた彼ですが、特に1960~70年代の全盛期に録音されたものはどれも素晴らしく、どれをとっても「この曲のベスト演奏」と言えるものでした。その充実ぶりを表す映像のいくつかをYoutubeで観ることができます。上に挙げたものはブラームスの《二重協奏曲》の演奏(この曲の演奏はカラヤンと競演したアルバムのカップリングも収録されています)。彼の魅力と言えば、まずはストラディヴァリから奏でられる芳醇な音色ですが、その豊かさが録音の貧しさを超えて伝わってくるところが素晴らしい。左手の運指の上手さもありますが、左手が衰えはじめ指揮活動がメインになってからも彼の特別な音色は失われませんでした。



Shostakovich, Kabalevsky and Khachaturian
Mstislav Rostropovich Dmitry Kabalevsky Karen Khachaturian Dmitry Shostakovich Evgeny Svetlanov Gennady Rozhdestvensky Moscow Philharmonic Orchestra USSR Symphony Orchestra Dmitry Kabalevsky Dmitry Shostakovich
EMI (2000/11/14)
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 全盛期のロストロポーヴィチのすごさを伝えるものとしては、ショスタコーヴィチの協奏曲も外すことはできません。ロストロポーヴィチに献呈された作品であり、ソ連を代表する作曲家であったショスタコーヴィチのチェロ協奏曲は初演以降ロストロポーヴィチの重要なレパートリーのひとつとなっており、録音も何種類か存在するのですが、やはり初演に近い頃の録音などに特別なものを感じます。その後に小澤征爾と共演したものでは、さすがに技巧の衰えがあるせいか落ち着いたものになっているのですが、ここに挙げた録音はそれとは対照的に狂気を感じさせるような鬼気迫るカデンツァで聴くものを圧倒してきます。



D

 リヒテルとともに臨んだベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集も彼の魅力を伝えるものの一つです。常識的な人物であったロストロポーヴィチと、いろんな意味で天才過ぎたリヒテル*1の仲は必ずしも「好ましい友好関係にあった」とは言えなかったようですが、二人の個性がぶつかり合って異様な緊張感と素晴らしい音楽を生み出しています。楽譜を超越して、音楽が響きだしている一つの事例とでも言いましょうか、ロストロポーヴィチ、リヒテル、オイストラフという音楽家はそのような奇跡を起こすことができる限られた音楽家たちでした。クラシックを語るとき、よく「ベートーヴェンの精神性が……」という曖昧な言葉が登場しますが、彼らの演奏からはそのような「精神の“再現”」ではなく、「新しい音楽の“創造”」を感じることができるような気がします。


 クラシックに親しみがない人にとって、先月ロシアでロストロポーヴィチの80歳記念式典が行われたことは「ずいぶん大掛かりに祝うものだな」と感じられるかもしれません。しかし、私はそれだけ彼は特別な音楽家だったように思われます。むしろ、そのように祝ってもらえるのが当然である、と。正直に言えば、彼の指揮は驚くほど凡庸なものでしたが、彼のチェロ演奏の幅を広げてきたことや新しい音楽を作り上げてきたことは、それぐらい歴史的に価値があるものでした。現代の演奏家が「作曲家の精神を……」という言葉を出し印象に残らない演奏をするたびに、ロストロポーヴィチのような演奏家が出てくることを強く望みたくなるのです。大げさかもしれませんが、消えゆく再現芸術としてのクラシックを延命させるには、かつてのソ連の演奏家的に音楽と向き合っていくことが一番の近道なのかもしれません(ロストロポーヴィチ、あなたは本当に偉大だった!)。






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ロストロポーヴィチ、死去。

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ベートーヴェン:チェロソナタ第3番&第4番&第5番
ロストロポーヴィチ(ムスティスラフ) リヒテル(スビャトスラフ) ベートーヴェン
ユニバーサルクラシック (2005/06/22)
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 旧ソ連出身のチェロ奏者兼指揮者であるムスティラフ・ロストロポーヴィチが亡くなったそうです(先月80歳になったばかりでした)。彼の活動を追ったソクーロフのドキュメンタリーが日本で公開されているときに……。彼については思い入れがかなりありますので、また改めて記事を書こうと思います。また、20世紀の音楽史をリアルで知る人物が亡くなったことを惜しむと共に、世界最高のチェロ奏者の冥福を祈りたいと思います。また一つ、20世紀が終わった、という気持ちでいっぱいです。



D





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引用

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永遠につづく苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている。その点では、「アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない」というのは、誤りかもしれない。だが、この問題と比べて文化的度合いは低いかもしれないが、けっして誤った問題ではないのは、アウシュヴィッツのあとではまだ生きることができるかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生き続けていくためには冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュヴィッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。その罪科の報いとして彼は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、1944年にガス室で殺されているのではないか、現在の生活全体は単に想像のなかで営まれているにすぎないのではないか、つまり20年前に虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想ではないのかという悪夢である。



 テオドール・アドルノ『否定弁証法』より。id:sumita-mさんの霊的危機或いは狂気人が複数居合わせても集団になるとは限らないという二つのエントリを読んでいて「ここでアドルノを取り上げなくてはいけないのではないか(誰もやらないし)」と思っているのだが、上手く言葉にできない。ので今最も痛烈に響くアドルノの言葉を長く引用だけしておく。


 考えていることは二つ。




  • 生き残った者が、その事件について問うことの妥当性について(アドルノ自身に《問い》が返ってきてしまう)

  • 「生きていてよいのか」というよりも「生きるしかないのだ」ではないか(しかし、どのようにして?)





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DATE COURS PENTAGON ROYAL GARDEN『Franz Kafka’s Amerika』

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FRANZ KAFKA?S AMERIKA
FRANZ KAFKA?S AMERIKA
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デートコースペンタゴンロイヤルガーデン
ブルース・インターアクションズ (2007/04/06)
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 ヨーロッパからアメリカにやってきたカール・ロスマンという青年が不条理な事件の連続によってどんどん身を落としていき、しまいには消失点に向かうようにして失踪する――現在出ている池内紀訳の全集では『失踪者』というタイトルに改められている*1フランツ・カフカの『アメリカ』はこのようなあらすじの長篇小説である。


 その作品をそのままタイトルに冠したデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンの新作は、そのままカール・ロスマンの消失点へと集約されていくように思われた。


 前二作と比べると落ち着いた、というか渋い内容。1時間40分を超えるこの二枚組には「ソフィスティケートされた70年代マイルスか!?」という時間や「グロテスクなウェザリポートか!?」という時間とか混在しているのだが、そのような言葉をつけることを許さないような、多様で、形容しがたい音楽になっているように思う(変化だけに限定して言えば、“脱構築ファンク”から“脱構築ジャズ”へとシフトしているように聞こえるのだが)。形容すべき言葉はたくさんある。しかし、それが過剰であるがゆえに、形容が不可能な状態へと向かっている。この形容の消失点が、『アメリカ』におけるカール・ロスマンの消失点へと重なって響くのである。


 ただ、消失するために行う行為のベクトルはおよそ正反対に向いている。というか、多くのカフカ作品の主人公がそうであるように、カール・ロスマンも不条理な世界へと飲み込まれていくため、実質的には行為らしい行為を何もしていないのに対して、DCPRGは過剰を身に纏うことによって自ら消失点を作り出している。「これはマイルス・デイヴィスの引用だ」とか「ジョー・ザヴィヌルだ」とか私たちは自信をもって言うことができない。そういう意味で、これは透明性を持たない音楽だ、とも言うことが出来るだろう。情報のジャングルのなかで、迷彩服を着るようにしてDCPRGは見事に隠れてしまう。だから、私たちはこれを「○○な音楽だ」と指し示すことができない。


 過剰さによって音楽を不透明化させるこのような事態を、ピエール・ブーレーズの音楽と重ね合わせることもできる。しかし、私のなかで最もしっくりくるのは『アメリカ』よりブーレーズより、トマス・ピンチョンだったりする。アルバムには「競売ナンバー49の叫び」というピンチョンのタイトルから拝借した曲名もある。それを単純に結び付けているわけではないのだけれど、『V.』とか『重力の虹』っぽいです。



失踪者―カフカ・コレクション
フランツ カフカ Franz Kafka 池内 紀
白水社 (2006/04)
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V. 1 新装版 (1)
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トマス・ピンチョン 三宅 卓雄 Thomas Pynchon
国書刊行会 (1989/07)
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*1:底本とした原稿が異なるため、細部の設定やエピソードが異なっているのだが





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東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』

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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
東 浩紀
講談社 (2007/03/16)
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 『動物化するポストモダン』からその続編として書かれた『ゲーム的リアリズムの誕生』において、筆者の着眼点はオタクから見る社会的分析から、オタク的なもの(ライトノベル、美少女ゲームなど)そのものを批評することにシフトしている。そこで語られる対象をおそらく筆者は肯定的に迎え入れているのだが、個人的に本の中で肯定されている全ての部分がしっくりとこなかったし、「一生ラノベなんて読まないだろう!」という確信が強まるばかりの読後感である。議論そのものは北田暁大のコミュニケーション論と重なり合うものもあり興味深いのだが……。あと『涼宮ハルヒ』のシリーズが400万部も売れてる、っていう事実は単純に驚きである(ノーベル賞作家だってそんなに売れてないでしょう)。


 ここからは本書を読んで得た「だから私はラノベを読まない」という確信について書こうと思う。私が「読まない」という選択をする理由の一つは、筆者が言うラノベにおいて「データベース的なものへと参照することで、物語(作品)が生み出されている」という事態である――前作でもこのデータベース化については触れられているが、本作では近代的な自然主義的リアリズムと対比させられることで、そのポストモダン性(というか、大きな物語の失効具合)が明らかなものとなっている。現代の“現実”は、万人が共有できるような“物語”は存在しない。ゆえに、自然主義的に現実を描こうとするのは億劫だ。しかし、オタクたちはデータベース(オタク的な知識・常識)という“仮想現実”にアクセスすることで容易に共有できる“物語”を生み出すことに成功している――筆者の言葉を暴力的に要約してしまえばこのようなものになるだろう。


 なんとなくでしかそれを理解することができないのだが、「童顔・メガネ・貧乳」という要素が人物に与えられることで「ドジっこ」という属性が付加されて、読み手には伝わる、という感じなのだろうか。筆者も指摘しているように、そこには読み手と書き手の共犯関係がある。データベースにあるデータは両者に共有されている、だからスムーズに話が進むのだ。しかし、考えてみればこれほど排他的な関係性はないのではないか、とも思う――データを共有できないものにとってみれば、「童顔・メガネ・貧乳」は全くの無意味なものへと転落してしまうだろう。私が最も引っかかる部分はその排他性である。そして、「ラノベを読まない」という選択は、正しく言えば「ラノベは読めない!」という実感だ。


 もっと言ってしまえば、オタクたちのコミュニケーションは本当にコミュニケーションと呼べるのだろうか、とさえ思う。そのようなコミュニケーションの形態において、データベースを参照できないものは「外国人(言葉が通じない)」として扱われる。このままオタクがデータベースに寄りかかっていたのではいつまで経っても、外国人に話しかけることはできない。つまりそれはオタクたちが延々に閉じた集団にしかなり得ないことを示している。データベースを参照しながら取り交わされるオタクたちのコミュニケーションは、そのような閉じた集団における“馴れ合い”に過ぎないのではないか、とも思う(『嫌オタク流』での中原昌也の苛立ちはこのようなものではなかっただろうか)。


 また、そのようなヌルい状況では、コミュニケーションをとるための想像力まで去勢されてしまうだろう。想像力が去勢されてしまえば、コミュニケーションをとるためにより一層データベースに寄りかかるしかなくなる。データベースに寄りかかればまた、想像力は力を持たなくなる――このような悪循環もオタクの閉じにはあるように思われる。オタクが閉じて行って、どんどん特殊な場所へと移行していけば嫌オタク流的には好都合なのだろうけれど。





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ダンス、ダンス、ダンス

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ロックの未来!バトルズ!!! - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥


 BATTLESの素晴らしく強烈なグルーヴを聴きながら「これも畸形的なダンス・ミュージックだ」と思った。このような単純に身体へと組み込んでダンスすることの出来ない複雑、かつギクシャクとしたリズムはフロアにおいて、おそらく“単純な縦ノリの運動”として消化される(というかそのようにしか消化することができない)のではないか――と勝手に考えてしまうのだが、日本でもZAZEN BOYSやDCPRGのような“踊りにくいダンス・ミュージック”が支持されているのを見ると、こういった矛盾した音楽(複雑なリズムゆえに単純に消化される)が流行している、ということができるのかもしれない。


 一方でビートが存在しない所謂“音響派”と呼ばれる音楽にも一定の支持があることからは、ミメーシスしようとするのか、それとも理性的に理解しようとするのか、という聴衆の音楽に接する態度の類型を見ることも出来る。もちろん、音響派の弱音で体を激しく揺らしていても、DCPRGのステージの前で腕を組み棒立ちで難しい顔をしていても間違いではないのだが、現実に果たしてそのような人がいるだろうか。



イゴール・ストラヴィンスキー《カルタ遊び》
ボストン交響楽団 ミュンシュ(シャルル) ミュンシュ(シャルル) ボストン交響楽団 ミヨー
BMG JAPAN (2006/12/20)
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 さて、話はイゴール・ストラヴィンスキー、クラシックの話へと大幅にジャンプする。ストラヴィンスキーと言えば《春の祭典》が「ロック・リスナーのための音楽」とか「現代音楽入門曲として最適」と言われ、20世紀の作曲家のなかで特異的なポピュラリティを得ている人だが、私は彼の音楽の中にBATTLESやZAZEN BOYS、そしてDCPRGといった「踊りにくいダンス・ミュージック」に通ずるもの、あるいはその先駆者としての性格を感じている。彼は「シリアスな作曲家」というよりも、「変態的なダンス・ミュージック作家」として理解されるべきではないか、とさえ思うほどに。


 というのも、単純にストラヴィンスキーが多くのバレエ音楽を書いた、というだけの理由なのだが――しかし、彼のバレエ音楽作品は天才の仕業としか呼べない充実っぷりを示していることは充分な理由として挙げられる、と私は思う。《火の鳥》、《ペトルーシュカ》、《春の祭典》といった初期の3作品だけではない。彼の残した全てのバレエ音楽が傑作であるとともに、踊りにくいのだ。


 そのなかで1936年の《カルタ遊び》を重要なものとして挙げたい。原始主義と呼ばれる時代を終え、新古典主義に向かったころのストラヴィンスキーの作品はぐっと人気が落ちる。《カルタ遊び》はその新古典主義時代のものだが、これは聴かないでいるのは勿体無いものであると思う。これはポリリズムが現れや頻繁に入れ替わる強拍の運動がとても面白い。しかし、何よりすごいのは、これが複雑さがほとんど前面に出ず、まるで「穏やかなライト・ミュージック」の装いをしているところである。特に第3曲で人を食ったように差し込まれるシュトラウス、ドリーブ、ロッシーニの引用(シュトラウスは言わずとしれたワルツ作家だし、ドリーブはフランスのバレエ音楽の大家である)は、もうふざけているとしか思えないが、こういう脱臼を呼ぶ戯れをさらっと書いてくるところがあり、だからこそ恐ろしいと思う。





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ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ『知恵の樹――生きている世界はどのようにして生まれるのか』

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知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか
ウンベルト マトゥラーナ フランシスコ バレーラ Humberto Maturana R. Francisco Varela G. 管 啓次郎
筑摩書房 (1997/12)
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 私たちは“唯一の世界(the world)”の中を、他者と共有しながら生きている――一見、自明であるかような考えを鮮やかに突き崩してくれる素敵な科学書。私たちが生きる世界は定冠詞つきの世界ではなく、それぞれが認識し行動する“ひとつの世界(a world)”なのだ、ということは何もこの本だけが教えてくれる特別なことではない。けれども、これほど易しく説明してくれる本は他に無いように思われた。だからこそ、驚きは大きいし、この本が与えてくれる知識が人によっては大きすぎる衝撃力になるのではなかろうか、などとを思う。それまで当たり前のように思えていたはずの世界が、なんの確証もない現像のようなものへと落ちていく、そこで居心地の悪さを覚える人もいるような気がする。おそらく、それが「超越系」と「内在系」という性格の違いをテストする指針になるのだ。





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狂気、あるいは原因不明なものへのアレルギー

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 アメリカで悲惨な銃乱射事件が起きた次の日から、携帯で見れるニュースサイトのトップページにはずっとその事件を起こした犯人の新情報が続々とアップされ続けている。ちょうど『性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶』を読み終えて「アメリカのような合理的な社会は、道具的理性によって原因を突き止められないような“狂気”などに対して、非常に免疫が弱いのではないか」などとぼんやりと考えたところだったため、「事件に関する報道の過熱っぷり」が狂気に対する社会のアレルギー反応のように思えてくる。


 「何故、このような狂気じみた事件が起こってしまったのか?」――このような問いを前にして、科学的で合理的な社会は上手く受け答えすることが出来ない。犯人のストーカー気質や富裕層に疎外された(?)生活……といった事件の背景が明るみに出たとしても、狂気によって社会にぽっかり開けられた穴は修復することはできない。というよりも、むしろ、そのような事実は余計に「何故」という疑問を膨らませてしまう可能性さえある。


 「何故」から出発した社会は、究明し、改善すべき決定的な原因の帰属をどこに置いていいものか、社会は大いに戸惑う――悪かったのは、犯人の人格なのか、犯人を疎外した富裕層なのか、それとも銃社会なのか……導き出された原因はおよそ全てが原因のようであり、また原因のようでない。結局のところ、「狂気によってなされた事件」と見なされた事件の原因は「狂気によるものである」という同語反復に社会はとどまり(それは証明の不可能性に対する諦めでもある)、残された傷痕が忘却されるのを待つしかない。


 このような事態は何もアメリカに限ったものではない。長崎での市長銃撃事件に注がれる報道の熱いまなざしは、アメリカの社会も日本の社会も「狂気という証明不可能な偶発性」に対して同じような反応を持つしかできないことを示しているようにも思う。



18日の取り調べで、取調官が市長の死亡を伝えたところ、城尾容疑者は「ああ、やっぱり死んだんですね」と動揺することもなく淡々と話し、これまで謝罪の言葉や反省した様子はないという。(YOMIURI ONLINEより)


 このような報道に触れると、狂気に対する社会のアレルギー反応(をひきおこす報道システムの社会における役割、と言ったほうが正確なのかもしれない)の性格がよりはっきりと感じられる。「ああ、やっぱり死んだんですね」と動揺することもなく淡々と話し、これまで謝罪の言葉や反省した様子はないという――ここでは容疑者(殺人を犯した)の非人間性が強調され、もはや「事件の真相究明」とは離れてしまっている*1


 このような作業は、開けられた穴にとりあえず「狂気」を詰めておくようなものだ。きっと誰かが「このような悲惨な事件が二度と起こらないように……」と神妙な面持ちで、そして死者の冥福を祈りながら言うだろう。でも、きっとそのような悲惨な、よく分からない、狂気じみた事件はこれからも度々起こる(だろう。程度の差はあれど)。そして、その度に社会は開けられた穴をせっせと埋めなおし、そしてまた忘却へと向かうのだろう。




*1:追記;『事件の真相究明』が報道システムの第一目的ではないのだが





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鈴木透『性と暴力のアメリカ――理念先行国家の矛盾と苦悶』

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性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
鈴木 透
中央公論新社 (2006/09)
売り上げランキング: 22825



 「完全なる統合の実現」と「自由と平等という崇高な理念の実現」という目標をもって出発したアメリカという“実験国家”が、どうして今「性と暴力の特異国」になってしまったのか?――こんな素朴な疑問から筆者はアメリカという国を精神分析にかける。そのような方法の妥当性はさておき、筆者が語るアメリカのライフヒストリーには些細だが驚きに満ちた事実が多くあり、とても興味深い本だった。


 この本のなかでアメリカの矛盾した姿は、近代が生み出した畸形児、という風にも読める。例えば初期のアメリカ移入者たちのなかに存在したピューリタンにおける厳格な性道徳――性を抑圧するのではなく、性と対峙し、それを克服するための禁欲主義――などは、マックス・ヴェーバーが言う“プロテスタンティズムの倫理”を髣髴とさせるものだ。

 ここで非常に面白いのが、後にピューリタンたちが信じる予定説(救われるかどうかはあらかじめ神によって決定されており、もし神に選ばれていなかったら救いは無い*1)と啓蒙思想が融和していくところである。


 筆者が指摘するとおり、「理性の力によって努力を重ねていけば、誰しもが幸福になれる」とする啓蒙思想とピューリタニズムは水と油の関係だ。しかし、それは非常に合理的な理屈によって見事に統合されてしまう。その体現者としてベンジャミン・フランクリンが本書では紹介されているのだが、彼の「どの宗教も究極の目標に大差はないのだから、特定の宗派にこだわるのをやめて、むしろ、良き市民となるにはどうすればよいか考えるべきだ」という教説はとてもシニカル(どの宗教も大差がない、なんて原理主義者の激怒を買いそうな話である)で面白い。合理主義的な見地から、性道徳は守られるべきだ、と彼は言う。


 しかし、そのフランクリンでさえ、合理的に導き出された“純潔”という徳を守ることは難しく、どうしても達成できなかった、というのがさらに面白い(フランクリンには私生児がいたそうな)。



抑えがたい情欲を解決する最善の道は結婚だが、それが不可能な場合には、年上の女性を愛人にするのがよい(中略)妊娠の可能性が少ないし、情欲を満たすことが目的なら、どうせ暗い場所で行為に及ぶのだから、あまり若さにこだわる必要は無い



 などともフランクリンは言っており、合理的過ぎて涙が出そうになる――と歴史的人物の面白エピソードばかり紹介してしまうのだが(面白すぎるから)、こういった事実からもアメリカという国の根幹にある精神が浮かび上がってくる。その一つは(ピューリタン的な)「苦難を遠ざけるのではなく、それと対峙し、克服しよう」という態度。そしてもう一つは「その対峙を合理的に行っていこうではないか」という姿勢だ。この二つの根本から導き出される“手段”が「暴力」、それも「白人によって振りかざされる圧倒的な暴力」というのは実に分かりやすい(そして分かりやすい故に、なおさら深刻である)。


 その暴力の事例として「リンチの伝統」が挙げられ、現代もなお、その伝統は脈々と受け継がれている、と筆者は分析する。9.11以降におこった戦争なども全てこのリンチの伝統と対して布置されているところは、少し言いすぎな感じもするが納得がいってしまうような話だ。「俺を脅かすのはインディアンでも黒人でもイラクでも全部ぶっ潰す!!」と田舎のヤンキーが言いそうな理屈を振りかざしているところには「アメリカのいうリベラリズムのどこにリベラルがあるのか」という問いが導き出されるようにも思う。


 本書では最後に「今後、このような特異国であるアメリカとどのように付き合えばよいのか」という問いに答えるため、筆者からささやかな“処方箋”が出されている――アメリカが持つ矛盾を逐一指摘しているのでは全く効果はない。そのような態度は逆にアメリカを頑なにさせてしまうだけだ、と著者は言う。単純な対立構造の代わりに筆者は、アメリカという国が自発的に自らが持つ異常性に気付くよう、ある種教育的なコミュニケーションによって促していくことが提示する。模範的な回答だが、個人的には「うーん……それによって更正できないからいつまでたってもアメリカはバカなままなんじゃないの?」と思ってしまった。




*1:自らが救われるべき人であることを証明するために禁欲的な労働に打ち込むのだが、しかし沈黙する神は永遠に免罪符を受け渡すことは無く、ある意味では救いの無い労働意欲の循環が駆動するのである





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ジェイソン・フォークナーが帰ってくる!

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ジェイソン・フォークナー
NOISE McCARTNEY RECORDS (2007/04/18)
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 4月18日にくるりが主宰するレーベル、ノイズマッカートニーからジェイソン・フォークナーの新譜が発売される模様。ポール・マッカートニー、BECKのバンドへの参加や、TV EYESでの活動がこれまでに伝えられてきましたが、やっと彼のソロアルバムが出るということで大変喜ばしいニュースです。このあたりのパワーポップに現在どれだけの固定ファンがいるか分からないけれども、そういうニッチなところにピンポイントで良いものを提供してくれるノイズマッカートニーは良い仕事しているなぁ、と思います。


 こちらはノイズマッカートニー詳細MySpaceで新譜から2曲を聴くことができますが、メロディメイカーっぷりを遺憾なく発揮しており、良い意味で全然変わってない。最近のくるり、またはちょっと前の奥田民生が好きな人のツボにガッツリとハマってくる感じが素晴らしいです。





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ゼーレン・キェルケゴール『不安の概念』

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不安の概念
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キェルケゴール 斎藤信治
岩波書店 (1979/07)
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 なんだか難しくてよく分からなかったが読了。ピンと来た箇所はヘーゲルに対する批判の部分だけであった。





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偽ソニック・ユース

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 前回「指一本だけ使ってパット・メセニーみたいになるチューニング」を発明した私ですが、そのチューニングで歪みを効かせ適当に弾いていたらそのまんまソニック・ユースみたいになりました。それがあざけり先生の天才的なリミックスによって、手拍子ソングになりました。いわゆるケミストリーだと思いました。





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マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(13)

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失われた時を求めて 13 第七篇 完訳版 (13)
マルセル・プルースト 鈴木 道彦
集英社 (2007/03)
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 アドルノはバッハの仕事場を「時間が失われた場所」と表現したが、プルーストもそのような場所で物を書いていた人ではなかったか、と思う。19世紀末的な空気を残した社交界の空気やドレフュス事件、それから第一次世界大戦……物語中にはプルーストの生きた時代の情景が含まれている。そういった意味では、この作家は「時代と共に生きたコンテンポラリーな作家」であったろう。しかし、この最終巻で円環的に物語が閉じられていくのを読んでしまうと、それらの時代性はベタに《時代》と接続されたものではなく、そこから離れて空中に浮いたような存在感を持っているように思えてくる(それこそが、この小説が普遍的に素晴らしいと思わせてくれる要素なのかもしれない)。





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 どんなブログかは見てもらえば分かります。





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マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(12)

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失われた時を求めて―完訳版 (12)
マルセル・プルースト 鈴木 道彦
集英社 (2007/03)
売り上げランキング: 8418



 先月20日に12・13巻が文庫化されたことで集英社文庫のヘリテージ・シリーズにようやく『失われた時を求めて』が出揃った。1年近くこの小説を読み続けているわけで、なかなか感慨深いものがある。この桁外れに長い小説を締めくくる12・13巻には「見出された時」を収録。1巻冒頭のあまりに有名な「マドレーヌ」と同様に、ふとした契機で語り手である「私」はこれまで探していた「時」を見出す。そこから始まる意識の流れが、もはや小説というよりは文学批評であり、そして記憶と時間をめぐる哲学(あるいは物神化論)、といったところ。


 写実主義の180度反対側にある高度な抽象的記述によって、これまで「私」が行ってきた「期待と幻滅」のループや「読書という行為」が反省されるのだが、痺れるほど面白い。そこではヘーゲル(またはアドルノ)的に言うのであれば、「《直接的なるもの》の記述不可能性」が導き出される。しかし、「私」はその不可能性へと挑戦していく。「真の生、ついに見出され明らかにされた生、したがって十全に生きられた唯一の生、これこそが文学である」と信じて。


 作者であるプルースト自身が「十全に生きられなかった」ために、小説は未完のまま今こうして我々の前にある。しかし、このような記述を目にすると、もし作者が十全に生きたとしても小説は完成しないままだったのではないか、と思う。「失われた時」はいかにしても手に入れることは不可能である。それでも求めるというのであれば、語り手は永遠に時を求め続けるより他ない。つまり、語り手は永遠に物語を紡ぎ続けなくてはならないのだ(そして作者は実際にそのようにしていたように感じる)。それゆえ「見出された時」というよりは「時を求め、得ることの不可能性への気付き」という風に私には読めた。


 それ以前の部分では、シャルリュス男爵(男色の金持ち)の死が目前と迫っているところで、彼の最晩年の子供のような狂気が凄まじく、はっきり言って語り手の意識の流れなどは一気に吹っ飛ぶほどである。パトロンを請け負っていたモレルという美少年ヴァイオリン奏者が彼の下を去る、そして急速に彼は衰えていくのであるが、男色への情熱は反比例するかのように燃え上がっていく……(自分で男娼館を作ったり、10歳に満たないボーイの体を買ったりするのである。ほとんど目が見えないのに!)。このあたりの腐臭がするような描写が素晴らしい。ただ、彼の情熱にはモレルの幻影を求めるものが隠されているのが明らかにされると、彼がただの腐臭要員でないことも感じられる。何故なら、幻影を追い求める態度というのは語り手も同じであるからだ。そういった意味で、語り手とシャルリュス男爵は鏡のような関係にあるのだ、と思う。


 次はいよいよ最終巻。





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書き忘れていたもの

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絞首台からのレポート
ユリウス・フチーク 栗栖継
岩波書店 (1977/09)
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 ネットがなかったときに読んでいた本で書き忘れていた本。とあるはてなを読んでいて思い出した。





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