私は何故「前衛していて良い」に苦笑するか

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 先日、紹介した宮下誠*1の『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』を読んでいる。今のところ、前作に相当する『20世紀音楽』よりも「簡潔な辞書」的性格が強く、また、いたるところに転載不可だったネット上の文章への言及が見られる奇書、という印象を受けている(『続きはWEBで!』戦略を取るCMのごとし、である)。


 書店に並ぶのは7月10日らしいので「現代音楽に興味がある」という奇特な方々はチェックすれば良いと思う。


 ただ、私の文章とそれに対する宮下のコメントを読み、「私が言いたいことが上手く伝わっていないのではないか」という風に思ってしまった。「上手く伝わらない」のは伝える側の問題だと考えるので、ここで補足させていただく。以下は、まだこの本を手に入れられていない方、あるいは今後もこの本を手に取ることのない方にとってはどうでも良い文章。けれども、もし本を読んで当ブログへ「批判」を言いに飛んできた方には読んで欲しい(かな)。






  • 「前衛している」は「良い」のか?



語彙の貧困さ、「前衛している」の多出についてはmk氏の指摘どおりだろう。より言葉を磨かなければならない。そのように思う。



 本のなかで、宮下はこのように反省と今後の努力の意思を示している。まず、この点に関し、私が問題としているところと宮下が問題とするところがズレているように感じている(私の書き方が悪かったのだと思う)。宮下は「語彙の貧困さ」を反省する。しかし、私が大きな問題だと感じていたのは、むしろそっちではなく「前衛していてよい」という言葉から受け取られる価値観についてだったのだ。

 もう少し、噛み砕いて説明すると、「前衛していてよい」という言葉を用いるとき、言葉の使用者は価値判断をおこなっている、しかし、その価値判断はどうよ?――と私は問いかけたいのである。だから「前衛している」という幾分奇妙な日本語についてはどうでも良い。現代的な日本語でそのように言葉を用いることは一般的になっている、と考えているから。「ロックしている」、「ジャズしている」とかそういう「名詞*2+する」言葉にはもう慣れてしまっている。


 前衛的な手法(例えば、12音技法、微分音、電子楽器)によって前衛的な響きが音楽のなかに生まれる。「前衛していてよい」という言葉は、私には「そのような手法を用いている“から”良い」という風に聞こえる。しかし、果たしてその言葉は「音楽の本質」を捉えているのだろうか。私としては、ある手法を用いることが即ち「良い」に接続されてしまうことぐらい、無味乾燥な評価はない、と思う。



わたしの作品は、12音の楽曲であって、12音の楽曲ではない。



 このブログで繰り返し引用してきたシェーンベルクの言葉を再びとりあげてみる(というか、私の問題意識もここから初まってるんだけど)。シェーンベルクもまた同じく「手法」と「評価」が単純に接続されているのを問題視している。


 喩えるならそれは、建物の外観だけを観て「これは良い建物ですねぇ~。わかりました~」と次の建物へと向かってしまう『渡辺篤史の建もの探訪』のようなものだろう。作曲家を建築家に置き換えるなら、「おいおい、それで終わり?家のなかもちゃんと見てくれよ」と思ってしまうのは当然のことと思われる。このとき「家のなかみ」は「音楽の本質」と置き換えられる。シェーンベルクも、「手法(外観)」ではなく、「楽曲の本質(なかみ)」を聴いて欲しかったのではないのか――アドルノ的に言い換えるなら、私が問題とする評価の方法は「物神崇拝的な態度」ということになる。


 以上のような理由で私は「前衛している」(宮下は概ねこれを良い意味で用いているように思われる)という言葉は適切ではない、と思うのだ。




  • 音楽はスポーツではない


 もっとも「手法」を評価することも別な文脈で用いるなら適切なのだろう。例えば「厳格な書法」や「複雑なフーガ」を評価するときなのがそれにあたる。個人的な最近の例で恐縮だが、ヒンデミットの《画家マチス》に度々現れるフーガ部分を聴いていて「これはすごい(どうやったら、こんなに複雑な声部の書き分けが秩序立てられるのだろう!?)」と感動してしまった。

 しかし、これはすごくスポーティな評価なのだと思う。短距離走の選手を「どうしたらあんなに速く走れるのか」とかと同じレベルの価値判断であって、それは作品の本質に触れていない。ヒンデミットの《画家マチス》が素晴らしいのも、もっと別なところにあるのだ、と私は考えている*3


 同じ音楽でもメタルやハードロックにおいてはこの判断はすごく生き生きとしている。「○○はイングヴェイより速く弾ける」とか「○○のドラムはテリー・ボジオぐらい上手い」などと、それらの音楽は評価される。こういう体育会気質は嫌いではない。性犯罪者ばりに強面のオッサンがネックが折れるんじゃないかというぐらいにギターをバカ弾いている姿を見ているとそれだけで楽しい(こんなに怖い顔の人が一生懸命練習したんだろうな……というのを想像するだけで面白い)。けれど、音楽はそれだけではない。例えば、そのようなスポーティな判断を敢行したとき、ジョージ・ハリスンやリンゴ・スターといった存在はどのように評価されるのだろうか。




  • 付記


 以上が私と宮下の間にあるズレを修正しようとした文章である(『音楽の本質』とは何か、ということには全く触れていないが)。が、心配になるのは、ここで書いたことの大半はもっと詳しく宮下に送ったはずの論文に書いたはずなのにズレちゃっている……ということである。私の文章が分かりにくかったのか、それとも単純に読んでもらっていないのか。



うまくすればこの本を読んでくださったmk氏が本書についてブログで答えてくださるかもしれない



 と宮下は『クラシックの終焉?』のなかで書いている。これに対して、私は「(時間がある限り)よし、やろう」というつもりでいるのだが、もしも宮下が「ちゃんと読んでいない」で「興味深い論考」などと書いていたなら、果たして「私が答えたところでそれを受けてもらえるのかよくわからないな」と感じるところである。単純に「わからない」、「面白くない」、「低レベル」と一蹴してもらった方が良い。読まないで「興味深い」はちょっとな……(傷つきます)。




*1:敬称の使い方がよくわかんないので、敬称略とさせていただきます


*2:でもロックは元々動詞か


*3:この作品についてはまた別なところで語りたい





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宮下誠氏より献本をいただきました

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 法律文化社より出版される『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』という本を献本いただだきました。きっかけは私が書いた「アドルノは静かに眠れない。 - 「石版!」」というエントリだったんだけれども、このエントリを著者の宮下誠氏が全文引用され、さらにそれに対する反論(レスポンス)がおこなわれています。


 私事ですが、長年、自分の文章が「活字(PCの画面を通じて表現されるフォント、ではなく、紙の上にインクで印刷された文字としての)」となる、ということは大きな夢のひとつであったので、思わぬところでその夢を叶えてくれた著者の宮下氏には感謝したい。


 とりあえず、本の感想については読み終えてから書こうと思いますが、ちょうどヒンデミットの新古典主義(あるいはヒンデミット“と”新古典主義)について「書こうかな(誰も読まないだろうけどさ!)」と思っていたところだったので、近々、本書で加えられた私への「挑発」に対する返答は書くつもりでいます。当方、売られた“ケンカ”は買う主義ですし、結局のところ、その買い方こそ、私が出来る最も真摯な態度であるから。


 ついでに言えば、ここで引用されている私の文章は、いささかマズいものである、ということは今になって思う。本書の冒頭「はじめに」の部分では「許光俊はいかにバカであるか(音楽評論家として、またはテキストの読み手として)」ということがほんのり暴かれているのだが、同じように自分で自分の文章を読み直してみると「ブログを書いているmkという男はどのようにテキストを読めていないか(どのようにバカか)」ということが暴かれてしまうようで怖い。しかし、少なくともそれは許より暴力的ではない、という点でお許しいただきたい。


 どのように私はバカであったのか、それについては本書にある「欠落」を認めていただければ、分かる。「この本には○○が足りない……」という批判は批判として成立しない、それでも尚、そのような批判をする者はバカである。





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アドルノ『社会学講義』を読む(4)

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 社会の物象化から「社会学の物象化(社会学への物神崇拝)」へとアドルノの語りは移っていく。ここでアドルノは、なんらかの目的を達成するために独立したはずの社会学という学問が、当初あったはずの目的をすっかり見失ってしまい、学問すること自体を目的としてしまっている部分が少なからず見受けられることを指摘している。



学問の物神崇拝ということで私が理解しているのは、学問の取り組むべき事柄とは無関係に、学問がその根拠連関や内在的な方法ともども自己目的と化する、ということです。(p.220)



 補足だが、ここでアドルノが使用する「物神崇拝(フェティシズム)」とはマルクスから借用された概念である(マルクスにおいては、単なる商品交換のメディアである貨幣が、いつのまにかそれ自体として価値があるものとして認識される事象などを指す)。


 ■


 第二回の講義でアドルノはこのように述べている。



人々にできたのは支配を生き延びることでした。そして、このような社会学の性格、ほとんど生き延びるための科学とでも言いたいような性格が、そもそも昔から社会学には備わっていました。(p.33)



 ここには「より良く生き延びるための手段」としての社会学の性格が見て取れる。アドルノが念頭においていた社会学の「目的」とはこのようなところから察することが出来るだろう。芸術が「自律的な形成物(それ自体に価値があるもの)」として一般的に考えられているのと違って、学問は他律的な形成物、外部へと開かれ影響を与えていくものでなくてはならない。そのような「目的」を果たさなければ、学問は「空虚な思考の遊戯」になってしまう。


(疲れてきたので、中途半端ですが終了します)





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エクササイズとクラシック

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 『ビリーズ・ブート・キャンプ』が大ヒット商品として話題に上がる……一方ではメタボリック・シンドロームが国を動かすほどの「心配の種」となる……現在の日本社会において健康や美容のためのエクササイズへの関心は高まる一方です。福利厚生の一環として、スポーツジムの利用料が割引に……なんて会社にお勤めの方もいらっしゃるのではないでしょうか?


 そんななか、エクササイズを盛り上げるアイテムとして「音楽」が運動とセットになっていることは常識です。例の『ビリーズ・ブート・キャンプ』を観ても分かるように、屈強な黒人が発するシャウトのバックには常にスクエアプッシャーを8倍安くした感じの音楽が流れてますね。また、スポーツ用品においてはナイキとアップルが提携し、iPod nanoと連動させて運動量を管理するスニーカーなども発売されており、iTunes Storeにおいてエクササイズ中に聴くための音楽が配信されています。


 しかし、どうしてこれらのエクササイズ・ミュージックのなかに、クラシックが含まれていないのでしょうか?ビリー・ブランクスの背後に、iPodののなかに存在するのは不思議とテクノやヒップホップなどの電子的なダンス・ミュージックに限られているように思います。ダンスとエクササイズの親近性によって、それが選択されている――そのような要因が浮かびます。しかし、クラシックもまたダンス・ミュージックであったはずなのです(しかも、テクノの10倍の長さの歴史がある!)。


 今回はその問題について考えていきたいと思います。




  • プッシュアップ(腕立て伏せ)


 プッシュアップが自分の体重を負荷にして筋肉を鍛える、いわゆる「自重トレーニング」の“王様”とされている所以は、バリエーションが豊富であるために、さまざまな部位に効く、という点でしょう。腕の開き方や姿勢を変えるだけで、逞しい腕だけではなく、美しい背中や、しっかりとした体幹を作り上げることができます。このことからプッシュアップさえできれば「無人島に行ってもムキムキでいられる」とさえ言われているほどです。




 そういう基本的な運動こそ、テンポ良く軽快にやりたいものです。そこで聴いて欲しいのがベートーヴェンの交響曲第8番、第4楽章。「ベートーヴェン?あの暗い感じの人でしょ?そんなので運動なんかする気にならないよ!」と侮ってはいけません。かのワーグナーをして「舞踏の聖化」と言わしめた、この曲こそ、キング・オブ・自重トレに相応しいダンス・ミュージックなのです。



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 演奏はカルロス・クライバーの高速テンポによるキビキビしたものをチョイスしました。非常にスポーティな演奏。




 筋肉に自信がある方はオットー・クレンペラーの比較的ゆっくりしたテンポでやってみましょう。ゆっくりやることによって、筋肉へと持続的な負荷がかかり、トレーニング効果が向上するのです(いわゆる、スロー・トレーニング)。




  • シットアップ(腹筋)


 プッシュアップについで代表的なトレーニングであるのがシットアップ。しかし、プッシュアップよりもジリジリと疲労感がやってくる上に、運動後の疲労感にあまり手ごたえを感じないなどの理由で、苦手な方が多いのではないでしょうか?かく言う、私も苦手なトレーニングの一つです。だからこそ、運動意欲を高めるための音楽が必要でしょう。




 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を選ぶのには理由があります――シットアップこそ、スロー・トレーニングに適した運動である、というのがその理由です。元祖・忍者俳優であるところのショー・コスギは10分間に600回のシットアップができるそうですが(これは1秒間に一度のペースです)、普通の人がこんなスピードでシットアップを行っても効果が上がらないばかりか、腰を痛めかねません。ゆっくり、じっくり筋肉に刺激を与えるスロー・トレーニングが有効なのです。



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 このとき重要なのは、姿勢。正しい姿勢でおこなわなければ、鍛えたい筋肉を使用できない上に故障の要因ともなります(膝は90度に曲げ、開かないこと!)。仰向けの状態から、自分のへそを覗き込むようにして体を丸めるイメージで起こしていきましょう。ゆっくりと強打されるピアノの三拍子にのって、起き上がり、またゆっくりと仰向けの状態に上体を戻していく……。正直言ってかなりキツいですが、頑張ってください(ピアノの独奏が始まったら弦にリズムが移りますので、そちらに耳を傾けてください)。また、起き上がるときに息を吐き出し、戻るときに息を吸うとインナーマッスルが悲鳴をあげます。ひねりを加えれば、わき腹に!


 動画はカラヤン/ベルリン・フィル、ピアノ独奏がエフゲニー・キーシンのもの(キーシンの後ろに日本人で初めてベルリン・フィルのコンサートマスターとなった安永徹が映っています)。胃がもたれるほど、しつこい演奏です。ヴィブラートのかかり具合がおかしい。




  • スクワット


 さて、ここまでは上半身のトレーニング。最後に下半身も鍛えておきましょう。下半身を鍛えることによって、美脚だけでなく、疲れにくくなったり、むくみの防止にもなるのです。ここで紹介するのはスクワット。これもポピュラーな運動ですが「効率的だからこそ、ポピュラーなのだ」ということを忘れてはいけません。また、プッシュアップ、シットアップ、スクワットという「三大自重トレ」を繰り返せば、基礎的な体力面は十分でしょう。




 音楽はエリック・サティの《ジムノペティ》第1番が良いと思います。CMなどでもよく耳にする眠気を誘う音楽ですが、これが選ばれる理由もやはり「スクワットがスロートレーニングに適した運動であること」です。自分の体重を支えてくれる膝は思ったよりもデリケートな部分です。無理なスピードで痛めつけては、逆に体を壊してしまいます。



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 ここでも姿勢に気をつけてください。足を肩幅ぐらいに開いて、膝を曲げるというよりも上半身を落とすイメージで、太ももと床が平行になる位置までもっていきます。このとき、背中が猫背になっていると腰を痛める原因となりますので、背筋を伸ばして正面を向いていてください。




  • 睡眠




 ここまでお疲れ様でした(この長いエントリを読んでくださる皆様に感謝いたします)。疲れた体を癒すのには、睡眠が最も効果的です。また、睡眠時には成長ホルモンが多く分泌されるため、筋肉の成長にも役に立ちます。睡眠もまた立派なトレーニングのひとつである、と言えましょう。



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 ベッドに入る前に《ゴルトベルク変奏曲》でも聴きましょう。これは不眠に悩むカイザーリンク伯爵のために、バッハが書いた元祖「ヒーリング・ミュージック」とも呼べる作品です。あと眠る2時間ぐらい前にたんぱく質を摂取すると、ちょうど成長ホルモン分泌とたんぱく質の分解のタイミングが合うので効果的ですよ!




  • おわりに


 ブート・キャンプばかりやっていては、筋肉バカだと思われかねません。しかし、クラシックを聴きながら運動をすれば、美しい身体だけではなく、「教養」も同時に得られるなど良いこと尽くしです(肉体と精神の気高さ、それこそが真のセレブリティの姿でもあります)。このエントリが皆様の参考になることを祈っております。



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 それでは。





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スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』

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Xのアーチ

Xのアーチ







 スティーヴ・エリクソンの小説を読むのは3冊目だけれど、これは怪物級の作品だと思う。えげつないくらい飛びまくる小説のラインが、頭のなかを掻き回され、読みながら何度も「解説」を開いてこの先の道筋を知っておきたい……という欲望に駆られてしまった(でも、じっと我慢。そのほうがきっと楽しい、と思った)。この作品を書き終えて、作者が「もしかしたらもう小説なんて書かないかも」と漏らしたそうだけれど、そこまで想像力(あるいは幻視力、妄想力)を出し尽くしたというのもうなずける。「ピンチョンとフォークナーとガルシア=マルケスがいっぺんにやってきた!」みたいな大騒ぎである。


 小説の舞台は、18世紀の奴隷制が敷かれたアメリカと革命期のフランス、そして『北斗の拳』か『AKIRA』を思わせるような荒廃に覆われた20世紀末の「永劫都市」とドイツ。『Xのアーチ』というひとつの物語の塊は、途中で大きく4つへとコナゴナにくだかれてしまうのだけれど、クライマックスに進むにつれてその断片が見事に塊として修復される。4つの破片が運動し、描くラインがタイトルと呼応し(『X』という文字を解体すれば、4つの『始点』を見出せるだろう)、ひとつの交わった点へと結び付けられるキチガイじみた構造も素晴らしすぎる(ピンチョンのデビュー作『V.』を二重にしたような感じにも受け取れた)。


 その接点となっているのが、一人の美しい黒人女性であり、その彼女を巡る巨大な愛の物語(それもグロテスクなほどに強烈で、運命的な愛である)だというのも泣けるし、まるで使命感を背負ったみたいにそういう物語を一貫して書き続けているエリクソンは偉いです。こうなったら全部読みますよ……、もう大好き。





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ペンギン・カフェ・オーケストラへのトリビュート

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Penguin Cafe Orchestra | ニュース


 坂本龍一らを中心とした日本のアーティストによるペンギン・カフェ・オーケストラへのトリビュート・アルバムの発売が決定しているそうです(8月8日発売)。今年はグループの主宰者だったサイモン・ジェフズの没後10年にあたるらしい。参加アーティストは以下。



1.Penguin Cafe Single (蓮実重臣)


2.Air A Danser (The Order4)


3.Telephone And Rubber Band (嶺川貴子)


4.Pythagoras's Trousers (高橋幸宏)


5.Paul's Dance (坂本龍一)


6.Simon's Dream (anonymass)


7.Music For A Found Harmonium (MOOSE HILL)


8.Isle Of View (Steve Jansen)


9.Southern Jukebox Music (HAAS-a.k.a 高野寛)


10.Sketch (KAMAAINA)


11.Perpetuum Mobile (高木正勝)


12.Vega (三品輝起)



 anonymassの名前があがっているのがちょっと嬉しい。発売がかなり楽しみです。これをきっかけにしてリバイバルが来ると良いのになぁ、と思います。この少し風変わりな音楽集団の緩やかさと涼しさを再確認できる一枚となるでしょう。





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JAZZ THE BESTで聴くエリック・ドルフィー

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 今年の春よりユニバーサルが展開している「JAZZ THE BEST」というキャンペーンでは、ジャズの名盤が一律1100円という超低価格で聴くことができます。全150タイトルのラインナップにはビル・エヴァンス、マイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク……といったジャズ界の超有名人はもちろん、エリック・ドルフィーなどがちゃんと押さえられているのも嬉しい。






 ドルフィーとブッカー・リトルとが熱くやりあってる名演奏を収めた『At The Five Spot』も1100円。これはもう是非、聴いていただくしかないです。二人のフロントマンがワンコーラスに極限まで音を詰め込んでいる様子は、“ハードバップの極北”を感じさせます。緊張感のあるセメントマッチをみせられるよう(ですが、このライヴの後すぐに、ブッカー・リトルは23歳で亡くなってしまう)。








 『At The Five Spot』から二ヶ月後に単身渡欧し、ヨーロッパのミュージシャンと組んだライヴ盤3枚も1100円(まだ持っていなかったので、今回のキャンペーンで一気に購入しました)。ドルフィーのソロは素晴らしいのですが、相手をするヨーロッパのミュージシャンがイマイチなのがすごく残念に思います(個性的なドルフィーの音楽を受け止め、相対化できるミュージシャンが一人もいない)。一応、デンマークを代表するミュージシャンらしいけど、それにしては……ちょっと不甲斐ないというか。特にドラムが悲しいぐらいにモッサリしていて、ドルフィーに置き去りにされてしまっている。


 ジャズという音楽は、一人がいくら素晴らしい演奏家だったとしても、たった一人では上手く成立しないのだなぁ、と強く感じました(こういうところは格闘技の試合と似ている)。世評は高いけれど、私には「At The Five Spot」のすごさをより実感させてくれる買い物。




 他に購入したもので、「これはスゴイ!」と思ったのはジョージ・ラッセルの『Ezz-Thetic』。このアルバムにもドルフィーが参加しているのですが、彼がバンドを取り仕切っているのではと錯覚するぐらいドルフィーがすごい。リーダーのジョージ・ラッセルは、神智学とは無関係ですが「リディアン・クロマティック・コンセプト」というカルト宗教まがいの謎めいた音楽理論を提唱したことで有名な人。こういう個性的な人たちと一緒にやってこそ、ドルフィーが生き生きとしだすような気もします。ラストの「'Round Midnight」は、大友良英ニュー・ジャズ・クインテットばりの解体/再構築具合。


 以上、長々と書きましたが、紹介したアルバムが全て1961年に録音されているという事実がまた驚き。どんだけ精力的活動していたんだよ……、そりゃ早死にするわ、という気持ちになりました。





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イヤフォンを買い換える。

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 iPodで使っていたゼンハイザーのイヤフォンが壊れたので新しいものを購入しました。VICTORのFX-77という製品。耳にシリコンピースを直接挿入するタイプの製品に特徴的な「鼓膜にガッツリ音が注ぎ込まれる感」が他メーカーのものよりもシャープな気がします。低音と高音の分離も良い。全体的な印象としては、ドラムがガツガツ鳴ってる音楽(This Heatとか……)を聴きたくなるような感じの音を鳴らしてくれます。3000円代で手に入るので「断線しても買い換えれば良いか!」と思えるのも素晴らしい。抜群のコストパフォーマンス。オススメ。

 ちなみにこれまで使用していたのはゼンハイザーのMX500。これもそこそこ良い音がし、またコードの途中に音量調節コントローラーがついているのが便利で、しかも安い(2000円ぐらい)という素晴らしい製品でしたが、現在輸入代理店が取り扱いを止めてしまったらしく量販店で見かけなくなってしまいました*1。あと、このイヤフォン、安いのにすごく丈夫でなかなか断線しません。これもオススメ。




 逆に全くオススメしないのがソニーのMDR-EX51LP/L。コードが変な材質のゴムでできており、使用開始一ヶ月程度で「ケシゴムのカスのような状態」に変化して内部の金属部分がはだけてしまい非常に断線しやすくなります。






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アドルノ『社会学講義』を読む(3)

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 しかし、アドルノの立場とは必ずしも「実証主義」的な方法論を切り離したものではない。また、自らが批判されるところの「理念的/概念的な社会学」に絶大な自信を持っているわけでもない(そもそもアドルノ自身が、実証/理念という風に二分できるような研究方法を取っていたわけではないのだから)。



社会全体と関わる実践、したがって構造と関わる実践がそもそも有意味で可能なのは、その理念が、たんに部分的な問題設定の枠内にとどまることなく、構造的な諸関係を、したがって現存の社会の内部での構造的な諸関係、傾向、権力状況を原理的に分析する場合のみのことである。(p.54)



 社会の細部を描く実証的データと社会の全体を描く理念/概念。この二つの社会学を弁証法的に用いることで初めて「社会全体と関わる実践」(彼の言葉を用いて言い換えるならば、これは「社会の本質的なものと関わりを持つこと」と同義であろう)を行うことが可能になる、とアドルノは言う。


 本書では、アドルノはこれまでに自分が行ってきた仕事の内容を学生たちに繰り返し語っている。主にそこで触れられているものは『権威主義的パーソナリティ』、『啓蒙の弁証法』との二つがあるが、前者は実証主義的研究、後者が概念的研究と呼ぶことができるだろう――アドルノ自身、自らが語る「弁証法的な/社会全体と関わる実践的な立ち位置」を取っていたのである。


 ちなみに、ここで言われる弁証法とは、あるテーゼとアンチテーゼを綜合させることにより、ジンテーゼへと導くことではない。アドルノがヘーゲルから学ぶ弁証法とは、図式的に描くことが可能なそれではなく、命題Aと命題Bが、永久的な緊張関係を結ぶことであろう。AとBは反発しあう。しかし、それらは相手を相互的に補いながら、どちらに帰結することもなく「本質」を描きあうことになる(どちらか一方によって『全体』を描くことはできない)。



「ほら、ここにきみたちの社会があるよ」と語れるような個々の感覚与件などないにもかかわらず、やはり社会という概念なしですますわけにはいかない(p.68)



 また、そのように「概念」を擁護しつつも、アドルノはその概念が物象化されてしまうことを禁忌とする。



デュルケームの社会学は、本来の社会的事実は個々の感覚与件と同じではないということを十分自覚しているにもかかわらず、他方では、(中略)確固とした所与性という性格を、社会的事実に与えてしまいます。実際これこそが、デュルケームの社会学全体の奇妙な性格です。ここではあることが隠蔽されています。(中略)そのことによって、社会を個々人に還元可能なものにすぎないとみる場合に劣らず、社会の概念はそこなわれているのであって、この見方は個々人をまさに空しい響きとして黙殺しているのです。(p.70-71)



 社会を物象化することによって、その社会を構成しているはずの個人は社会に還元可能な単なる部品となってしまう。このとき、実証主義が廃墟としてしか社会を描くことができないと同様の問題が生ずる。


 ■


 アドルノ自身による「弁証法的な社会の理解」に関する簡潔な言葉を以下に引用する。



社会という概念を簡潔に定義することができないというこの事実、つまり、諸個人の総和か、あるいは有機体のイメージなどにならった即自的な存在か、という二者択一にこの概念が還元され得ず、むしろ諸個人と、諸個人と、諸個人から自立した客観性との一種の相互作用を表しているという事実、これこそが、社会の弁証法的な理解のためのマクロコスモス的なモデル、こんにちよく使われている言葉を借りれば、そのマクロ社会学的なモデルである、と言ってもよいでしょう。(p.72)



 (つづく)





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アドルノ『社会学講義』を読む(2)

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 1955年、30人。1959年、163人。1962年、331人。1963年、383人。そして1968年、626人――この数字は、フランクフルト大学における社会学主専攻者の数の推移を示したものである。たった13年間で21倍弱という急激な“人口増加”に、アドルノは素朴な驚きを示している。しかし、「喜び」と同時に感じられていたわけではない。大講義室に集まった社会学を学ぼうとする学生たちに、彼は「社会学専攻者は就職難にある」という一つの事実を突きつける(厳しい事実を告げるその言葉は、とても温和で優しく口調である)。


 社会学を学ぶ学生とは、(文字通り)社会について学ぶ人間である。しかし、学生が社会について学べば学ぶほど、その対象としてきた社会へと再編入することが難しくなってしまっている事情が現に存在している。「社会について知れば知るほど私は社会に入り込めなくなるという矛盾」。この矛盾の真相はなんなのだろう?そもそも、そのような矛盾を生み出す社会学とは一体どのような学問なのだろう?


 アドルノの講義は、このようにシンプルで深刻な問題提起からはじめられている。しかし、ここで彼は問題の核心へと急ぐことをしない。まずは、社会学がその研究の対象とする「社会」について語りだす。同時にそこでは社会学が取り組むべき対象の領域についても語られることになる。


 ■


 社会は弁証法的なイメージをもって考察されなければならない、とアドルノは繰り返し述べる。この思考の方法において、「抽象的な理念」と「具体的な細部」とが対立関係におかれている。ここで、その対立関係は、講義と同時期に起こっていた「実証主義」とアドルノやハーバーマスらの「理念的な社会学」との論争と布置されている、と言ってよい。アドルノらに対する実証主義からの批判はこのようなものである。



お前たちの中心概念、社会という概念は、所与のものではない。社会という概念に指を押しあてて確かめることなどできない。(p.65)



 この批判を言い換えるならば「社会はどこにあるのか。そのような不確かなものを研究するという行為自体、学問としておかしいのではないか?」という問いの投げかけになるだろう。確かに「社会とはこれだ」と指し示すことが不可能だ、とアドルノは批判を受け入れるような態度を取りながら、実証主義への反論をおこなっていく。


 社会は「剥き出しの事実として直接に知覚したり、記録したりはできない(p.66)」。けれども、そのように記録できるものだけを集めて、本当に「本質的な」人間集団の姿を描くことができるのか――アドルノが抱いた実証主義への懐疑の根底には、このような意識があるだろう。実証主義が「社会」を描く方法――そこでは具体的な事実(実験結果、統計データ)だけが選択されている――によっては、社会は廃墟としての姿しか浮かび上がらないのではないだろうか。



たとえば、クルップ社について何ごとかを知ろうとする人が、クルップ社の個々の工場をじっくりと見学してみたところで、その機能の本質、すなわち生産の過程、価値増殖の過程、またそれが人々にどういう結果をもたらすかについて、結局、何も知ることはできない(p.65)



 実証主義によっては、社会の本質は描くことができない。しかし、それなのにアドルノと正反対の立場の実証主義が「実践的に見えてしまう」、それが大きな問題である。その「実践的に見えてしまうこと」が実証主義の優位を生み、社会学はそもそもの中心概念である「社会」を捨て去ろうとしているのではないか。


 ■


 アドルノにとっての社会学とは、社会を指し示すことへの不可能性から出発しているように思われる。指し示すことができない、ただそれだけの理由で我々は社会の概念を「非合理なもの」として判断することはできない。というよりも、現に我々は「社会」を認識しているではないか、ゆえに、社会は認識によって規定が可能である、とアドルノは言う。しかし、これは開き直りのようにも響く態度である。


 (つづく)





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アドルノ『社会学講義』を読む(1)

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 音楽・社会学・哲学・心理学……と様々な領域で活躍したテオドール・W・アドルノが死の一年前にフランクフルト大学でおこなった社会学入門講義録を読んでいる。学生時代、院生にアドルノの研究をされている方がいて、その方から薦められていたのだが*1、最近になってやっと手をつけることができた。


 難解で知られるアドルノだけれども、学生に語りかける口調はとても柔らかで「これが同じ人間か!?」と疑いを持ちたくなるほど。様々な対象に毒物のように辛辣な言葉をもって批判をおこなったアドルノの姿はこの本のなかで見られることが無い。時折、ジョークも飛ばし、学生もそれに対して笑いをもって反応する。一方的な講義を展開するのではなく、アドルノ-学生の間には対話のような関係が生まれているのが興味深い。講義の内容を録音したテープを厳密に文章化したという本の性格から来るものかもしれないけれど、かなり「生っぽい講義録」になっている。講義録はアドルノの死後、30年以上経ってから発表されたもの。厳密に言ってそれはアドルノの作品ではないのだが、こういう本の作り方もまた“アドルノらしさ”に則ったものであると言えると思う。


 アドルノが講義を始めようとするとき、よく教室のマイクの調子が悪くなる。すると当然、学生たちにはアドルノの声が聴こえにくくなる。その瞬間、学生たちから「シュー」というヤジが飛ぶ。またあるとき、アドルノが学生たちにとって奇妙に思われることをポロッと言ってしまう。するとまた学生から「シュー」というヤジが起こる。当時のアドルノといえば、フランクフルト大学社会学研究所の所長でもあり、かなり影響力を持った思想界の大御所である。その彼に対して容赦なくヤジを飛ばし、嘲笑さえしてみせる学生たちの態度には「1960年代」という時代が表れているように感じた。学生の嘲笑を軽く受け流してみせるアドルノもやはり相当なものだけれど。


 肝心な講義内容も涙が出るほど面白いので、簡単に読み飛ばしてしまわないようにメモ的な感じで読書過程を書き記してみようと思います。今回は導入として。


追記;なんかあっさり読み終えてしまったのですが、終盤は学生とアドルノとの関係がかなりヤバいことになっていて全く対話的関係とは呼べないものとなっています。この学生の暴走もまた、アドルノ的に読まれるべき内容だと思いました。




*1:曰く、アドルノ入門は『不協和音』、『社会学講義』、そして『否定弁証法』らしい。このどれかにピンと来るなら、貴方のなかには潜在的アドルノ親和力が存在する





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栗コーダーカルテット『笛社会』

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笛社会

笛社会







 やる気の無い「帝国のマーチ(スター・ウォーズ)」が注目されたことで、栗原正己(元DCPRG)、川口義之(渋さ知らズ)、近藤研二(元ハイポジ)、関島岳郎(元DCPRG、シカラムータ)というメンバーのすごい肩書きがいらなくなった感もある栗コーダーカルテットの新譜。いつの間にか出たけど、今回もすごく良い曲がたくさん詰まっていて本当に素晴らしいポップアルバムに仕上がっています。難しい意味など何もなく、ただ良い曲だけがある。


 アルバムを出すたびにメンバーのリコーダー演奏能力が高まっているので、出すたびに「最高傑作」というのが確定したようなものだと思うのですが、今回の充実っぷりはすごい。「リコーダーカルテット」から「いろんな楽器とリコーダー」へのシフトはさらに進んでいますが、そのぶん音色の幅が広がって面白いです。元たまの知久寿焼が描いた笛のキャラクター(名称不明)がアルバムジャケットから姿を消したのはさびしいけれど……。



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 アルバムに収録されている「おじいさんの11ヶ月」はビデオクリップも作られています。製作は『ピタゴラスイッチ』のユーフラテス。このクリップ、メンバーが出演してるんだけれど、栗原さんってテレビとかに出るとき、いつも赤いジャージ着ている気がする。





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斎藤信哉『ピアノはなぜ黒いのか』

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ピアノはなぜ黒いのか (幻冬舎新書)

ピアノはなぜ黒いのか (幻冬舎新書)







 日本のピアノ教育(あるいは音楽教育)、そしてピアノ製造業の不思議さを浮き彫りにするような良書。31年間、ピアノの販売員/調律師として活躍なさっていた斎藤信哉さんという方が書いているのだけれど、現代の作曲家や音楽学者によって書かれた文章とは異なった「現場力」によって書かれているように思う。筆者は、音楽の“本場”ヨーロッパと比べて「日本のピアノは奇妙だ」と指摘する。こういう物言いは神経質な人からすれば「ケッ、未だに文明開化当初と感覚が変わんねーのな!日本にコンプレックスを持ってる人間はいつまでも欧米礼賛してろよ!!」とか思われるかもしれない。正直言って、それは少し私も感じてしまうところである。ここで言われているヨーロッパのピアノの価値観は、微妙に相対化されていないのだ。


 でも、現実にヨーロッパはずっと“本場”である。日本という国も優秀な演奏家を輩出してはいる。けれども、その一流演奏家のほとんどが教育の場をヨーロッパに求めてしまう(余談だが、ウィーン国立音楽大学にいる外国人の学生では日本人が最も多い)。純粋に日本の教育的土壌から世界に通用する演奏家が生まれたことは今まで一度もない、と言ってもいい気がする。なにより悲しいのは、世界に誇れる才能が一端日本の外に出てしまうと二度と戻ってきてはくれないことである。内田光子(彼女の場合ほとんど海外で教育を受けていたため、厳密には日本の演奏家とは呼べないが)、庄司紗矢香といった演奏家が日本におらず、その素晴らしい演奏を聴くためには「来日の機会」を待たなくてはいけない――そんなバカらしいことってあるか!?と思う。


 世界で最も在来オケが多い首都を持つ国、日本がこうしていつまで経っても“本場”になれない。その「なれなさ」が著者の「ヨーロッパが微妙に相対化できていないところ」につながっているように思った。こういう語り方は、生真面目な作曲家や音楽学者には書けない。


 本の中で触れられているトピックはかなり多岐に渡っている。後半は筆者が仕事をしてきたなかで生まれた人情話みたいで結構ダレるのだが、ところどころに素晴らしい発想がある。例えば、「こんなに大きな音は必要か」という章では現代のピアノという楽器の概念を覆すかのような提案がなされている。


 現代のピアノは「よりクリアな音」、「より大きな音」を目指して飛躍的に発展してきた。今ではピアノは、電車通過時のガート下と同じぐらいの音量が出せるぐらいパワフルな楽器となっている。しかし、こんなに大きな音が必要なのか、と筆者は素朴に問いかけるのである。日本の住宅環境のせいで「大きな音が出る楽器」は致命的である。それに大きな音が出るようになればなるほど、楽器は重くなり、また鍵盤のタッチも重くなり、厄介な楽器としての性格が強まる。なのになんで日本のメーカーはいつまでもデカい音が出る楽器しか作らないのだろう――目から鱗が落ちるような思いでこの部分を読んだ。うん、たしかにそうだよな。俺らコンサートホールに住んでるわけじゃないんだし、デカい音なんかいらないよな、とすごく納得してしまう。かつて世界一を誇った日本のピアノ生産台数も、今や中国に抜かれ、ヤマハやカワイといったメーカーは、ヨーロッパの“本場のピアノ”とアジアの“安いピアノ”の間で板ばさみになっている。その状況から抜け出すための秘策として筆者が提案するのが「音の小さいピアノ」なんだけれど、これは名案だよなぁ。ヤマハもカワイもヨーロッパのピアノより高いピアノを生産しているけれど、同じような値段なら“本場”を求めるだろうし……。


 音楽の先生やピアノの先生が読んでくれたら、きっともう少しは日本が“本場”に近づけるんじゃないかな、と思います。





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スティーヴ・エリクソン『ルビコン・ビーチ』

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ルビコン・ビーチ

ルビコン・ビーチ







 現代アメリカの作家、スティーヴ・エリクソンが二作目に書いた長編小説(1986年)。ドキドキするぐらい面白く、読めば読むほど物語の全体をつかむことの不可能性に直面するしかないような読後感を味わう。こういうタイプの小説からは「物語を物語によって解体する」という試みを感じ、グッと来てしまう。構成も見事で、三部で分かれた章が部分で影響しあい、一つに繋がろうとしているに痺れた。第一章のラジオや音楽や冗談が禁じられた“華氏451”的なアメリカ、第二章のジャングルからアメリカへの旅、第三章で描かれる20世紀前半のアメリカとその国への帰還。それらの部分はそれぞれほとんど独立しているようにえる。しかし、どれもが(第二章ではキャサリンと呼ばれる)“謎の女”を鍵にしながら、「幾つかのアメリカの姿」を描こうとしている点では共通している。けれども、「全体」を把握するのは困難だ。このスリリングな読書体験を味わうだけでも価値がある……ような気もする。


 幻想的な/悪夢的な小説世界に読み手はひきこまれていく。鮮やかに、というよりもじわじわと。気がつくと、読み手は「現実の世界」が奇妙にねじれた「フィクションの世界」で意味を探ってしまっている。このとき、なにより重要に思われるのはそこで手にすることができる、あるいは手にすることをあきらめなくてはならない「フィクションの意味」が現実的であるか、どうか、という点である。言い直せば、作品が世界の媒介(メディア)になっているかどうか、について私は考えさせられてしまう。エリクソンを読んでいるときの「じわじわ感」とは、現実に運動している世界と、フィクションの紙の上で展開される世界との緊張関係に読み手が関係付けられる、という証ではないかな、と思う。そういうフィクションで得られる意味は、ジャーナリスティックな作品におけるものよりもジャナーナリスティックで、ノンフィクションよりもリアルだったりするんじゃなかろうか。


 とにかく面白いですよ、これは。


 追記;書き忘れていたけれど、今エリクソンの古本がかなり安い。アマゾンのマーケットプレイスだと『ルビコン・ビーチ』は500円を切っているし(絶版なのに。送料込みでも1000円いかない)、今のところの最新作である『真夜中に海がやってきた』でさえ980円という値段がつけられている。この値段、敷居が高めな現代文学としてかなり異常とも思える。今がエリクソンの読みどきなのかもしれません。

 追記2;以前に『黒い時計の旅 (白水uブックス)』を読んだときの自分の感想*1を、ちょっと読み直してみたら、そのときもやっぱり「全体のつかめなさ」を感じていたらしい。全体を語ろうとすると途端にそれが「嘘」へと転倒してしまうのってすごい、と思う。あらすじが書けない小説。






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「ヴァイオリンなんて誰がやっても同じじゃね」と思う人のための動画集

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 続いてヴァイオリンの映像も集めてみました。曲目はヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番より《シャコンヌ》。まずはナタン・ミルシテインの演奏。



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 とても端正な演奏でした。ちなみにこの人の録音が、ヘンリク・シェリングの演奏と並び、この曲の「定盤」となっています*1。次はヤッシャ・ハイフェッツの演奏。



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 冒頭の重音(二つ以上の音を同時に出す奏法)を連発する部分が過ぎてからの歌い込み、上擦るようなヴィブラートがエロい。この映像は割とこれでも落ち着いた演奏ですが、他の録音*2ではこの1.2倍ぐらいのテンポで切れ味の鋭い演奏を聴かせてくれます。最後に現代の演奏家、ヴィクトリア・ムローヴァの演奏。



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 「違うけど…なんか……この人下手じゃね?」と思われたかもしれません。実はこちらは作曲家が生きていた時代のスタイルで演奏するという所謂「ピリオド奏法」を取り入れたものなのです。ハイフェッツの演奏と比べれば分かりやすいですが、ヴィブラートを極力抑えているところなどに特徴があります。またチューニングも低めにしてあるので必然的に音色も柔らかくなります。あと、この人、すごく美人ですよね。




 ちなみにこの人、ピリオド奏法を取り入れる一方でジャズ系のミュージシャンと一緒にマイルス・デイヴィスなどの曲にも取り組んでいる、というよく分からない人でもあります(でも美人だから好き)。元々は正統派バリバリのテクニシャンだったんですけど。






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「ピアノなんて誰がやっても同じじゃね」と思う人のための動画集

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 ニコニコ動画が重過ぎて見れなくて悔しいので、自分で集めた動画を並べます。曲目はフレデリック・ショパンのエチュード第四番作品10番。まずはアマチュアのピアニストさんが頑張っている動画をご覧ください。



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 最初の勢いは良いけれど途中で失速します。次は、若手ピアニストの俊英、フレディ・ケンプ。



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 ここでアマチュアとプロの間にある《超えられない壁》を確認してもらえたでしょうか。最後に「伝説クラス」の演奏家のすごさを体験していただきましょう。登場するのは、ソ連を代表する怪物ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル。



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 速すぎ。この恐ろしいピアニストについては「リヒテル――間違いだらけの天才 - 「石版!」」や「クレイジー・リヒテル(続き) - 「石版!」」で詳しく紹介しています。





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橘直貴、バルトークコンクール優勝

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札幌市厚別区出身で現在は首都圏などで活動する指揮者、橘直貴さん(38)が8日、ルーマニアで行われた「第2回バルトーク国際オペラ指揮者コンクール」で1位を獲得した。同市在住の家族に入った連絡で分かった。


3歳からピアノを始めた橘さんは指揮者の道を志し、札幌開成高から桐朋学園大(東京都調布市)に進学。01年に若手の登竜門として知られる「第47回ブザンソン国際指揮者コンクール」(フランス)で決勝に進出し、2位に入賞した。現在は、札幌や関東を中心に指揮活動を行っている。


表示できません - Yahoo!ニュース



 学生時代から何度かご縁がある橘先生からの吉報。最終ラウンドはバルトークの《青髭公の城》だった模様です。ここ何年かは留学先のウィーンと日本とを行ったり来たりでお忙しい様子でしたが、勉強の成果を見事に出されていて「すげぇー」と思いました。日本で数少ない「ヴィジュアルも良い指揮者」としてますますのご活躍を願っております。ちょうど良いので宣伝。



ル スコアール管弦楽団第22回演奏会


日時 2007年7月16日(月・祝) 13:30開演予定


場所 すみだトリフォニーホール(大ホール)


曲目




  • ヒンデミット/交響曲「画家マティス」

  • ミヨー/プロヴァンス組曲

  • R.シュトラウス/「薔薇の騎士」組曲


指揮 橘直貴


入場料 全席自由 1,000円


お問い合わせ先 webmaster@lesquare.org



 今度私が出演する演奏会も橘先生の指揮です。入場料が1000円となっておりますが、メールでお問い合わせいただければ無料でチケットを用意することが可能です。演奏会のチラシを持っていっても無料になります。あと、私に連絡してもらっても大丈夫です。





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小笠原信夫『日本刀――日本の技と美と魂』

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日本刀―日本の技と美と魂 (文春新書)

日本刀―日本の技と美と魂 (文春新書)







 国が右に傾きだしたり、戦争の機運が到来する頃になると、不思議にも日本刀への関心が高まるらしい。革新ではなく、伝統を保守しようとするヘタレな右翼の心性が、武士の魂であった日本刀へと向けられるのは当然のことに思われる。副題からはそのような傾向を感じさせるけれども、逆に著者は「ちょっと待ってくれ。軍国主義の象徴みたいに日本刀を扱うのは止めて、近代以前の価値観から日本刀を見直してみようじゃないか」という立場で日本刀を語っているように思われた。鑑賞のための専門用語が多く少し読むのがしんどいけれど、とても面白い本である。


 言わずもがな、日本刀は武器である。が、室町時代ごろから既に「美術品」あるいは「贈答品」としての価値が成立しており、折角の切れる刀という機能的価値が眠ったまま通用していた。こういうのはなんだか屈折しているように思うのだけれど「目利」という刀の価値を決定する鑑定人が専門の職業として成立し、朝廷や幕府から認定された権威によって価値が決定されるシステムが構築されている感じは面白い。そういう折紙付の商品を身につけることが武士の間で「立派なこと」とされていたのは、現代で言うならサラリーマンが雑誌なんかで紹介されているブランド時計を身に着ける感覚と全く同じなんじゃないだろうか。

 武器が装飾品を兼ねる、というのがこの本で「日本独自のもの」とされているけれど、そんなことはなく西洋でもみられる事柄である。例えば、甲冑なんかがその代表例として挙げられる。ベルセルクとかに出てくる、妖しい洋館に置いてありそうなヤツ*1。ただ、西洋の甲冑においては、装飾が豪奢になるあまり、騎乗時に馬が潰れてしまうぐらい重くなってしまったものもあったらしい。そういう「やりすぎちゃってる感」も面白いんだけど。それに比べて日本刀は「装飾品(美術品)」として取り扱われるようになっても尚、機能が価値の中に取り残されていたのが特色だと言えそう。






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エド・マクベイン『ノクターン』

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 かつて絶大な人気を誇るピアニストとして活躍した老女が銃殺される事件を主軸に、殺人事件がバンバンと頻発するミステリ。「87分署シリーズ」の舞台、アイソラ市に立ち込める雰囲気がものすごい狂気じみて、すごい。


 例えば、あるシーン。そこではひとりのオッサンが「近所を走っている車のクラクションがうるさい」と役所に苦情の電話をかけるところから始まる。でも、なかなか苦情を聞いてくれる相手は見つからない。「回線が大変込み合っております……」という自動メッセージと「その件は部署が違います」という盥回しにオッサンの苛立ちは募るばかり。


 そのうちにオッサンは諦めて電話をかけるの止める。しかし、問題は解決していない――窓の外では依然としてクラクションが鳴り響いている。オッサンは外に出て、クラクションを鳴らしていたタクシー運転手に向かって銃の引き金を引く。


 また、あるシーンでは、まぁそこそこ良いとこの高校に通ってるおぼっちゃん3人(いわゆるプレッピーな)が、ほとんどなんの悪気もなく次々と殺人事件を起こしていく(これが本作品の対旋律となっている事件である)。これが本当に怖い。ほとんどその場のノリと流れだけでまず娼婦1人、黒人2人を惨殺する。とくに娼婦の殺され方が無残である。クスリでハイになりながら、3人で姦している間に「悪ふざけ」で膣内にパン切りナイフを挿入する、という鬼畜っぷり。


 読んでいて、寒々しい気持ちで一杯になるのだけれど、その感覚を増長するのが「どの狂気も妙に現実味を帯びている」ということ。「カッとなってやった。今では反省している」型の事件や、想像力が欠如したバカな高校生や大学生によるとんでもない事件は我々の周りにもゴロゴロしている。


 さらに陰鬱感を醸し出しているのは、白人と黒人との間にある不信感だったりする(その象徴としてOJシンプソンの名前が登場する)。ちなみに作品が発表されたのは1997年。2005年に亡くなったエド・マクベインはこのとき71歳なんだけど、その年齢でここまで「時代感」を持つ作品が書けるのが驚愕である(また、現代はここにある時代感を断絶させることなく引きずり続けているようにも思う)。





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ハネケン、死去

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テレビの音楽番組などで親しまれた作曲家でピアニストの羽田健太郎さんが2日午後11時53分、肝細胞がんのため東京都内の病院で亡くなった。58歳だった。



 羽田健太郎は80年代以降の日本で最も「スタイリッシュかつドラマティックな劇伴音楽」が書ける作曲家だったと思います。特に『超時空要塞マクロス』の主題歌の編曲は、アニメ作品とは思えないほどのクオリティの高さ。マクロスって全長1200メートルの巨大宇宙戦艦(しかも人型に変形する)らしいんだけど、イントロだけでその巨大感が伝わってくる感じ。それと、これ以前にいた「劇伴作曲家の大物」にはない、新感覚なところがあるように思います。バリバリのクラシック出身でありながら、ある種の分かりやすさを含んだ“ライトな重厚感”が出せたるのは異質。ハネケン作品では『渡る世間は鬼ばかり』が最も有名なところですが、あの曲も近代イギリスを思わせる劇場感あるし。



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 あとはこれ。爆発音に負けないインパクトがすごい――ご冥福をお祈りいたします。





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近藤譲『音楽という謎』

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“音楽”という謎

“音楽”という謎






 現代音楽の生の声を聞くことができる名著『現代音楽のポリティックス*1の著者である、作曲家・近藤譲のエッセイ集。ここで読むことができる文章はエッセイといっても単なる随筆の類ではなく、アドルノが書いたような「哲学的(音楽学的)エッセイ」といった性格に近いものである。


 「音楽とは何かという問いには答えがない」。しかし、《答えのない質問》(チャールズ・アイヴズ)を問うこと自体は無意味な行為ではない。むしろ、作曲家とは常にそのような問いを自らに問い続けなければならないのではないか。いわゆる「現代音楽」の《聴衆》がいない今、その必要性はますます増大しているのではないか――そのようにシリアスな危機感から著者は始めている。


 本の中では音楽の「価値」、「形式」、「表現・内容」といったものが問われている。そこではいつも「音楽の常識」が覆されている(同時に、まるで自明でありすぎるせいで、我々の目、あるいは耳に届かない《常識》が浮かび上がっている)。その点に関して「音楽学」というよりは「音楽社会学」的な性質も含んでいるように思える。


 特に興味を掻きたてられるのは「表現・内容」の章で語られるプッチーニの歌劇《蝶々婦人》の例――プッチーニはこの日本を舞台にした作品を書く際に、日本の音楽を幾つか採集し、作品の中に混ぜ込んでいる。彼が取り入れた日本の旋律には《さくらさくら》といった有名なものもあれば、既に日本でも忘れられたものも存在している。その一つが「蝶々さんの死のテーマ」で用いられている《推量節》である。この曲は明治に寄席から流行った歌らしいのだが、我々はこのメロディをもうプッチーニの作品のなかでしか聞くことができない。しかも、本来、明るい歌詞が付随した旋律であったはずなのに、プッチーニのもとに届いたときに「悲劇の旋律」として誤解されて使用され、現代の我々は本来「明るい旋律」として奏されていたものをそのまま「悲劇の旋律」として捉えている……というもの。この例には音楽が表現する“もの”の不確かさが端的に現れていると思うし、さらに旋律が伝えられていく中で意味内容がどんどん変質していく様子が興味深い。






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世界の珍しい楽器たち――オンド・マルトノ編

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 西洋音楽史は作曲技法の発展の歴史であると同時に、作品を演奏するための「楽器」の進化の歴史でもありました。ですから作曲家や演奏家といった「音楽家」だけではなく、彼らの要望に答えるため技術者や職人たちが試行錯誤を繰り返していた、という事実は忘れられてはなりません。


 20世紀に入ってもそのような「楽器の進化」は留まることを知りません。むしろ伝統の確立によって楽器の精密さは向上し、また科学の発展と技術の進歩はそれまでにない楽器の誕生を可能にしました。フランスの技術者であったモーリス・マルトノによって開発された「オンド・マルトノ」もそのような流れのなかで製作されたものと言えましょう。


 世界に存在する珍楽器愛好家の皆様、こんにちは。申し遅れましたが私、珍楽器妄想博物館の館長を務めております、mkと申します。本日はこの世にも不思議な電子楽器の紹介をさせていただきたいと思います。


 まず、冒頭に挙げましたのはナクソスから発売されている『オンド・マルトノのための作品集』というアルバム。最初から最後までオンド・マルトノ一色で染め上げられた素敵な一品です。20世紀フランスの大作曲家であるオリヴィエ・メシアンの未刊作品のほか、イギリスの前衛ロックバンド“ヘンリー・カウ”のメンバーであったリンゼイ・クーパーの作品も収録し、資料的な価値も高いと思われます(他の作曲家も名前すら聞いたことがない人ばかり!)。



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 こちらの映像では、オンド・マルトノによってどのような音楽が可能になるか、という説明が行われております。ピアノやオルガンと同様に鍵盤を装備しているため、同時に複数の音を発振することができそうですが、実は単音楽器。もちろん鍵盤による操作も可能ですが、通常は「リボン」と呼ばれるワイヤーを操作することで演奏されます。これによって、鍵盤楽器では不可能となっている自由な音高の操作が可能となっています。ポルタメンやヴィブラートといった弦楽器のような演奏ができるわけです。


 映像の後半にも登場しますが、オンド・マルトノはもともとテルミンをもとに開発されました。ですから「自由な音高操作」という点では両者は似通った特徴を持っています。しかし、オンド・マルトノはそれだけに特化した楽器ではありません。「スピーカーユニットによる音色の選択」という機能も持っています。


 むしろ、オンド・マルトノの「最大の特徴」が音色である、ということができましょう(音色に注目する点が、フランス生まれの楽器という証拠でしょうか)。電子的に出力される音を、銅鑼のような形をした金属やギターのような弦といった共鳴部を通すことによって、非常に豊かな音色を出せるオンド・マルトノは「最もアコースティックな電子楽器」と称されるべきかもしれません。



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 オンド・マルトノを使用する作品で、現在最も演奏機会が多く、ポピュラーなのがメシアンの《トゥーランガリーラ交響曲》となっています。この10楽章にも及ぶ「愛と喜びの交響曲」でも、抜群に個性を発揮し、エロティックな音色で音楽を鮮やかに演出しています(映像は、アンドリュー・デイヴィス指揮イギリス・ナショナル・ユース・オケによる演奏。楽器編成は通常の倍という特盛仕様)。メシアンには《美しい水の祭典》というオンド・マルトノ6重奏のための作品もあるのですが、残念ながらこちらはめったに録音を見つけることができません(売っているのを見かけた方は是非ご一報ください)。ちなみに《トゥーランガリーラ交響曲》のCDはケント・ナガノ/ベルリン・フィル盤がオススメです*1



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 オンド・マルトノは近年、クラシック以外の領域でも姿を見ることができるようになってきました。その契機となりましたのが、イギリスのロックバンド“レディオヘッド”のギタリスト、ジョニー・グリーンウッドがこの楽器を演奏していることです(『National Anthem』の冒頭で彼が弾いているのがオンド・マルトノ)。なんでも彼はオリヴィエ・メシアンをリスペクトしているそう。なんとも分かりやすい影響の受け方ですが、珍楽器を世に広めてくれる絶大な広告塔としてレディオヘッドには頑張って欲しいと思います。


 皆様、だんだんとオンド・マルトノの魅力に目覚めてきた頃合でしょうか?しかし、ここで悲しいお知らせがあります。この楽器、開発者のモーリス・マルトノが一台一台手作りで製作していたため、彼の死後、生産することができず現存するのは世界に300台のみ、という大変レアなものなのです。現在、フランス国立音楽院ではオンド・マルトノ科も開講されておりますが、折角この楽器に魅了されても自分で手に入れられなければフランス留学もままならないよ……という皆様の悲痛な声が聞こえるようです。

 が、ご安心ください。日本でもオンド・マルトノに触れることは可能なのです。遠いフランスと日本を繋げる貴重な存在が、日本人オンド・マルトノ奏者、原田節*2氏。彼もまたフランス国立音楽院のオンド・マルトノ科を卒業した人物(つまり我々の「未来の先輩」というわけです)で、自らオンド・マルトノ講座を開講しこの楽器の素晴らしさを広める活動を行っているそうです。



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 本日はここまでお付き合いいただき、まことにありがとうございました。締めくくりはYoutubeで見つけたメシアンの《Oraison》という作品(これは私も調べるまで知りませんでした)。珍楽器妄想博物館では、また皆様に会える日を心よりお待ちしております。それでは。






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