今日のアドルノ

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思想の体系(システム)や政治の体系(システム)は、自分たちと同じでないものは何ひとつのぞまない。システムが強化され、存在するものを同じ名のもとに括るようになればなるほど、同時にそうしたシステムは存在するものをますます抑圧し、存在するものからますます乖離するようになる。





 システムは外部を求めない。システムは他者を求めない。システムが求めるものはシステム内だけでコミュニケーションがとることが可能である、システムの鏡像としての他者である。そのように想定される他者はもはや他者性を持っているとは言えない。他者という被り物をした傀儡である。強化されるシステムの内部では、「同じ名のもとに」主体は束ねられ、標本化されていく。


 「AはBである」と唱える思想のシステムAは「AはBではなく、Cである」と唱える他者の思想のシステムBを認めない。仮にシステムBを認めてしまったならば、システムAは存在することができないものとなる。ゆえにシステムAは、はBを徹底して排除しようとする。あるいは、排除しようとしない。そもそも「存在しなかったもの」として無視しようとする。このような行為をアドルノは「ファシズム的な同一化」と呼んでいた。


 しかし、現実に存在するものは完全にシステム化され得るものとしては存在していない。だからこそ、システムが強化されればされるほど、「存在するものをますます抑圧し、存在するものからますます乖離するようになる」。このことを確認するためには、やはり第三帝国について触れておくのが最も簡潔だろう。


 第三帝国が理想とし、命題として掲げた国家とは「純粋なゲルマン人によって統一されたドイツ」である。しかし、現実にはその土地には多くの非ゲルマン民族に属する人々が存在していた。現実は命題に反している(それはあってはならないことである)。ホロコーストはそのような現実を理想化するために駆動した。そして、事実、多くの非ゲルマン系の人々がその土地を去ることを余儀なくされ、去らなかった人々は理想によって存在の許されない立場におかれた。これによって、非ゲルマン人は存在していないものになり、第三帝国は正常で健全なゲルマン人によって統治されたことになる。


 しかし、このような事態は理想とするシステムを現実からより引き離すことになる。その理由はごく単純な事柄にある。「存在していない」とされている非ゲルマン民族の人々(と不健全で異常なゲルマン人)は現実には「存在している」からだ。健全で正常なゲルマン人以外を駆逐しようとすればするほどシステムは現実から乖離していくのである。


 しかし、そのような理想化が完遂されたとしても、システムが外部から脅かされることで生じるパニックはおそらく止まなかっただろう。その理由には、「他者」が存在したという痕跡は消すことができないこと、そして「他者」が本当に見えなくなったとき改めてパニックを呼び起こす恐怖が立ち上がってくることが挙げられる。「もしかしたら、まだ健全で正常なゲルマン人じゃないヤツらがこの国の中にいるかもしれない」――このような疑念が、システム内に外部を妄想させることになる(大澤真幸はこのような見えないものの恐怖をサリンに喩えていた)。


 アドルノは、そのようなシステムを断固として拒否する(ハイデガー、解釈学、心理学的な音楽批評、それらは全て同じ理由で認められない)。しかし、これらはよく言われるようにアドルノの繊細さに起因するものではないと私は思う。「アドルノはアウシュヴィッツによって傷つけられた。だから、ファシズムやファシズム的な同一化を厳しく非難したのだ」というナイーヴな読み方はそもそもアドルノの原理に反している(それは詩人が詩人的な内省をアドルノに反射させた解釈に過ぎない)。アドルノを突き動かしていた原理はもっと力強く、そしてもっと単純なことである――「意図なき現実を解釈すること」。現実を現実として描写することにアドルノの原理が宿っている、と私は思う。



プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 渡辺 祐邦 三原 弟平
筑摩書房 (1996/02)
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 本日の一言はアドルノの批評集『プリズメン――文化批判と社会』に収録の「カフカおぼえ書き」より(邦訳では428ページ)。





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アドルノって誰なの?

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Q.アドルノって誰なんですか?


 A.テオドール・ルートヴィヒ・ヴィーゼングルント・アドルノさんです。1903年にユダヤ系の裕福な家庭に生まれ、すくすく育ち、1969年に亡くなった20世紀の思想家/社会学者/音楽家/批評家/教師です。思想家としてはヘーゲルの弁証法を批判的に継承しており、社会学者としては特にメジャーな著作はありませんが社会心理学的な研究をしつつ、音楽家としてはアルバン・ベルクに師事、批評家としては「ベンヤミンのほうが優れてるよ!」とか言われつつも、大学の先生としてフランクフルト大学で教鞭をとりました。1969年4月に、左翼の女子学生がアドルノの講義中におっぱい丸出しで乗り込んでくるという事件があってから教師としては休業をせざるを得なくなったのですが、その年の8月に心臓発作で亡くなりました。




Q.アドルノって偉いの?あんまり名前を聞かないけど……


 A.はい。結構偉いです。第二次世界大戦以前からフランクフルト大学の社会学研究所のメンバーとして「フランクフルト学派」を形成し、脚光を浴びていました。が、戦争が始まってアメリカに亡命。そこでも結構、活躍してました。あと戦後にドイツへ帰還してからも代表するドイツを代表する知識人として注目を浴びていました。しかし、あまりにも難しいことを言いすぎたのでイマイチマイナーな存在となっているように思います。でも、デリダもフーコーも「アドルノをもっと早く読んどけば良かったー」とか「アドルノがいなかったら俺もここまでこれなかったかも」とか言ってるぐらい、リスペクトされてる人なんですよ。日本だとさらにマイナーで大学の講義でもアドルノの名前を聞くことはほとんどありませんが……(しかも何故か研究者が関西に固まっている気がする……)。


Q.アドルノの入門書みたいなものってあるの?


 A.一応、あります。



アドルノ―非同一性の哲学 (現代思想の冒険者たち)
細見 和之
講談社 (1996/07)
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アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト):同一性批判の哲学
藤野 寛
勁草書房 (2000/05)
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アドルノ (岩波現代文庫 学術 178)
マーティン・ジェイ 木田 元 村岡 晋一
岩波書店 (2007/08)
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 この3冊が手ごろだと思います。最後の1冊を私は読んでいませんが……っていうか文庫化されてるの今知ったよ……というわけで読んでみようと思います。最近では結構頻繁にアドルノに言及した本が出ているのですが、ちょっとしたアドルノ・ブームなんですね。でも、こういうアドルノ本よりも「アドルノが書いた本」の方が100倍ぐらい面白いので、どれか一冊を3回ぐらい読んだらそちらの方に手を出してみることをオススメします。アドルノも若い頃に「安易に二次文献に頼るな。ちゃんと哲学したかったらそいつの本を100回読め」と教え込まれたそうですし。


Q.アドルノの代表的な著作って?



否定弁証法
否定弁証法
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テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 木田 元 渡辺 祐邦 須田 朗 徳永 恂 三島 憲一 宮武 昭
作品社 (1996/06)
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 A.この本です。でも泣きたくなるぐらい難しく書いてあるので、いきなりこれから入るのは初めてのエッチで前戯をしてもらえないぐらい辛いと思います。読めるようになると逆に泣きたくなるぐらい面白いです。長くて私も3回ぐらいしか通読したことないけど……。



不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)
Th.W. アドルノ Theodor W. Adorno 三光 長治 高辻 知義
平凡社 (1998/02)
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 あとこの音楽に関する論文・批評集は面白いですね。特に『音楽における物神的性格と聴衆の退化』は「聴衆にとって音楽はなにか/どのように聴衆は音楽を聴いているのか」ということを問うた一種の聴衆論の先駆けとして興味深いものがあり、そこで非難されている事象は現代においても見受けられることのように思います。「ポリリズムとか言って騒いでんじゃねーよ、このボケが!」と言っている人にオススメです。


 このほかに、これまでに私が読んできたものの中で「これはすごく面白い!」と思ったものをあげると(基本的に全部面白いんだけど)――『三つのヘーゲル研究』、『社会学講義』、『ベートーヴェン―音楽の哲学』――この3冊と『否定弁証法』は読んでいて、ホントに泣けます。ガチで哲学しちゃってる感じとかが本当にすごい。


Q.で、結局アドルノってどんなことを言ってたの?


A.それに関しては当ブログのカテゴリ「アドルノ」または「今日のアドルノ」をご参照ください。最初の方に書いていたものは、今では「うわ、全然ダメだ。これはひどい。恥ずかしい」と自分で思っていますが、最近のものへ割りと面白く書けているのでは、と思います。尚、近いうちにまとまった文章を、なんらかの形で皆様にお見せできる日がくると思いますのでもうしばらくお待ちください。





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フリッツ・ラング『メトロポリス』/アート・ゾイド

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メトロポリス 特別編 新訳版
有限会社フォワード (2007/02/20)
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 ふらふらっとひやかしに入った楽器/CD屋で「ドイツ表現主義時代の名作」とか言われている映画が一律500円で売っているのを見かけて購入。アマゾンのレビューにも書かれていますが、BGMの選曲がものすごいなげやりです。冒頭からドビュッシーの弦楽四重奏曲が流れてずっこけそうになりました(しかも全楽章通して使用されている……しかも妙に演奏が良い)。



D


 エレベーターで地下の作業場に送りこまれる労働者たちの暗い映像と、この優雅で感傷的な音楽が合うわけがない……。「DVDの製作者は、本当に何を考えていたのだろう……」と180度ほど首をかしげたくなります。ガチガチに構築された映像はすごくカッコいいのだけれども、アート・ゾイド(フランスのバンド。ムルナウ作品に音楽をつけたりしている)の力を借りたくなります。



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 って、探してみたらあったよ!!アート・ゾイドmeetsノスフェラトゥが!!!





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昨日のアドルノの続き

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どのような音楽分析も直面する困難は、つぎの点にある。解体を進め、最小の細部を引き合いに出せばだすほど、ますますただたんなる音にすぎないものへと近づき、すべての音楽はただたんなる音の寄せ集めにすぎなくなる。



 楽譜上の音符の羅列もまた、単数として数えられるものである。それが読まれ、解釈され、演奏され、音になって聴衆の耳に届いたとき多義性は生じる。どのような作曲家を例にあげてもよい。例えば、シューベルトの歌曲であれば「死の予感」であるとか、「恋愛悲劇のよう」であるとか、様々な意味で解釈されてきた。それがマーラーであれば「死の恐怖」であるとか「憂鬱」であるとか、最近では「ポストモダンのさきがけ」という風にとられている。


 このように、読まれるものから聴かれるものを経由して、再び読まれるものへと目を向けたとき、音符の羅列はどのような変化を見せるのか。やはり、音符の単数性はゆるぎなく存在していることは確認され得るだろう。しかし、それは文学のテキストのように散種されることはない。一貫して五線譜上のドとレは「二度の関係にある2つの音」という意味のままである。ピアノの鍵盤を想像されると良いかもしれない。五線譜の下第一線上にある音符は、その音程のドを弾きなさいという指示である。その指示に変化は生じない。そしてまた、楽譜が作曲家の意図や感情を意味し始める、という事態も生じない。


 このような散種のされなさは、音楽のエクリチュールである楽譜が二重所属性を持つものではないということに起因しているように思われる。当たり前のことかもしれないが、楽譜はごく限られた音楽の領域でしか用いられない(意味の通じない)記録法なのである。別な音楽の領域では、全く違った音楽の記録法が用いられている(話がそれてしまうが、ガムランの楽譜は書き方だけでなく、読み方も違う。合奏の曲でもパート譜が存在せず、担当の楽器ごとに読み方を変えることによって演奏されるらしい)。


 ハンスリックは作曲家の意図や感情を読み取ることを退けたが、このような観点から楽譜を見た場合、新即物主義的な音楽批評がごときものは、散種のされないテキストをなぞりながら記述するにすぎないものとして考えられる。それは批評ではなく、翻訳作業である。和声の進行や律動や対位法を、音符から言語へと翻訳しているに過ぎない。


 アドルノの音楽批評とは、楽譜の「意図のなさ」、そして「散種のなさ」に挑もうとしたもののように思われる。批評によって音楽に意味を与えることがそこでは目指されている。しかし、それは音楽を損なうものであってはならないし、単に自分の感情と音楽を同一化するものであってものならない。



ベートーヴェン―音楽の哲学
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 大久保 健治
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 本日の一言は、アドルノの死後に編纂された『ベートーヴェン――音楽の哲学』、5ページより。





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またPerfumeでトラバが飛んできやがった

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哲学の負うべき課題は、現実のなかに隠されてすでに存在している意図を探りだすことではない。そうではなく意図なき現実を解釈することなのだ


 音楽と文学は、どちらも書かれたものである。それについては今更言うべきことでもないだろう。現に我々は今、文学のテキストを書かれたものとして日常的に読んでいるし、読める/読めないは別にしても五線譜上に配置された音符を目にしたことがあるはずだ。しかし、それらが同じ「エクリチュール(書かれたもの)」だったとしても、双方を比べてみるとだいぶ違う意味合いを含んでいるように思われる。

 「He war」。ジェイムズ・ジョイスによって書かれたこの文字は、「彼は戦争する(英語)」/「彼は(英語)存在する(ドイツ語)」という二つの意味で解釈され得る。しかし、その解釈するときに解釈者のなかに生じる意味は、書かれたものが元々保有していたものではない。このような意味の多様性(書かれたものが持つ、意味の複数性。そのような状態をデリダは散種と読んでいる)はそれが読まれた瞬間、パーロルとして解釈者の耳に届いた瞬間に生じる。「He war」の「war」は、英語なのか、それともドイツ語なのか。それらの音声的な意味のズレによって、単数的な「war」へと複数の意味が与えられる。

 このような関係を音楽のテキストである楽譜と比較してみよう。五線譜上に並べられたドとレの位置にある音符はどのような意味を持っているのか。そしてそれは文学のテキストのように散種され得るものなのか(続く……かも)



社会学講義
社会学講義
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アドルノ Theodor W. Adorno 河原 理 高安 啓介 太寿堂 真 細見 和之
作品社 (2001/07)
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 本日の一言はアドルノの講義録『社会学講義』より(たぶん。ページとか忘れました)。大嘘。これ『哲学のアクチュアリティー』という講演録からでした(1931年のもの)。邦訳は20年前の『現代思想』にのっています。




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良い映像

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D


 山形新幹線とSLが夢の競演。





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ピエール・ブーレーズを区分として

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 現代に作曲されている音楽を聴こうとしているけれど、若い作曲家が作る音楽を聴いていても結構ピンとこないことがある。「現代の音楽」のはずなのに、上手くそれが「現代音楽」のように感じない。


 「現代音楽」という言葉を聴くたびに、私の頭のなかで想像される音楽はブーレーズのピアノ・ソナタである(冒頭に貼付したのは彼の第一ピアノ・ソナタ)。彼のピアノ・ソナタは3曲あり、全て40~50年代に書かれている。性格に言えば、この作品は「かつて現代音楽だったもの」ということになる。全面的な音列技法や(第3番)「管理された偶然性」といった、これらの作品で用いられた語法も「作曲科の学生が課題で書く以外に使われていないのではないか」と疑いたくなるぐらいに古びてしまった。


 今アカデミックな楽壇でどのような音楽が流行っているのかよくわからないけれど(エレクトロニクス?身体性?)、もはや音列の時代ではなくなったことはなんとなく感じる。しかし、それでも尚、ブーレーズの音楽が、私のなかで「現代音楽」という言葉と結びついている。人によってそれがシェーンベルクかもしれないし、シュトックハウゼンかもしれない。あるいはリゲティかもしれない。人それぞれそういう感覚が異なるのはわかっているけれども、あくまで私のなかでは「現代音楽=ブーレーズ」なのだ。


 こういう感覚は、たぶん私の歴史観に起因するものなのだろうと思う。ブーレーズの音楽には「近代以降の西洋音楽の終着点」みたいなものを感じる。西洋において作曲(composition)とは、五線譜に書かれたものとして音楽を構成/構築する(compose)行為であった。音楽は作曲家によって紙の上において管理される。いくらベルリオーズやチャイコフスキーが感情を喚起させる音楽を書いていたとしても、実際に彼らがやっていたのは紙の上で音符を並べることにすぎない。この音楽管理の方法(あるいは管理しようとする意思)は、ブーレーズのトータル・セリエリスムにおいて最も強く表現されているように思う。


 「バッハ以前/以降」、「ベートーヴェン以前/以降」という風に時代を区分するなら「ブーレーズ以前/以降」と言う区切りもできる気がするのは、ブーレーズ以降の作曲家が前述した「管理方法」から大きく逸脱しているからだ(もちろん、同時的に『ケージ以前/以降』という言い方もできるわけだけれど)。大げさに言ってしまえば「ブーレーズは最後の『作曲家』だ」ということになるだろうか。身体性、音響、エレクトロニクスの使用法、そういったものは五線譜上に書き記すことができない(指示することしかできない)。そこで作曲家は音楽を構成することはできても、音楽を管理することはできない(もっとも図形楽譜では指示/構成すらしていない)。ブーレーズ以降の「作曲家」のピンとこなさにはそういう理由があるのかもしれない。





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美の理論/ミニマ・モラリア

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美の理論 新装完全版
美の理論 新装完全版
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テオドール W.アドルノ 大久保 健治
河出書房新社 (2007/09)
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 先日、河出書房新社より永らく絶版状態にあった『美の理論』が復刊されました。が、値段を見てびっくり。平均的な学術書の値段だと私が感じるのは、せいぜい3000円~4000円(3000円切っていると安いな、と思う)。12000円超という価格は、少し踏ん切りがつきません。それでもいつもなら「ついに読める日が来たのかー」と買ってしまうのですが、この大久保健治による翻訳の評判を聞いた限り「踏ん切りをつけないほうが良いのかな」とも思います。どうやらかなり酷いらしい。読みにくさ、誤訳っぷり、どれをとっても超一流だ、と以前アドルノを専門にしていらっしゃる方にお聞きしました。


 そういう評判が立っているものを、復刊するのはどうなの?(CS向上がどの業界でも叫ばれるこの時代に!)と問い詰めたい気分で一杯ですが「原書が読めないヤツは翻訳に文句を言うな!」というのが私のポリシー(のはず)だったため、グッと堪えます。しかし、悔しい。「文化産業め……、俺を疎外しやがって……足元見やがって」と腹の中が煮えっておりますが、そこで紳士的に方向転換。ちょうど良い機会なので日本語で読むのを止めようと思います。



Aesthetic Theory (Continuum Impacts)
Theodor W. Adorno Robert Hullot-Kentor
Continuum International Publishing Group Ltd. (2004/10/21)
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Minima Moralia: Reflections on a Damaged Life (Radical Thinkers)
Theodor W. Adorno E. F. N. Jephcott
Verso Books (2006/01)
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 というわけで以上の2冊を購入。それぞれ『美の理論』の英語版と、『ミニマ・モラリア』の英語版(こちらも邦訳は絶版)。まず、なんか異常に表紙がカッコ良くて驚きます。『ミニマ・モラリア』なんか表紙がエンボス加工。白い文字で大きく『V』と書いてある部分。どうやら出版元のVerso社の『Radical Thinkers』というシリーズらしい。日本で出ている様々なアドルノの著作とは全然印象が違いますね。


 受験英語以下の英語力で、立ち向かえるかどうかわかりませんが頑張ります。もう丸2年近くアドルノを読み続けているので、勘で勝負していこう。





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今日のアドルノ

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思考は主人が勝手に静止することのできない奴隷である。



 ヘーゲルの「主人と僕(しもべ)」の喩えを思い出しても良いし、個人が先か社会が先かという古典的な論争を想起しても良い。あるいはシステムのことを考えても良いだろう。とにかく、今日は疲れたので適当です。マジメに働いていると道具的理性によって疎外されてる気分になるよ!というのでは、あまりにも酷すぎるのでもう少し言葉を補っておく。


 道具化された理性はしだいにまとまりを持ち始め、元来自然を支配するという目的で用いられてきた性格は変容していく。自然に脅かされることによって誘発される人間のパニックとは無関係に、理性は駆動するようになる。そのとき人間と理性の間にある関係はかつての単純なものではない。もはや、人間が理性を道具として使用する、という単純な主従関係は見られない。道具によって人間が規定され、自由を奪われていく――そういった相互的な主従関係、ベクトルが逆向きの屈折した支配関係に変化していく。


 ありきたりではあるが、オートメーション化された工場、特にベルトコンベヤー方式によって大量に自動車を生産することを可能にしたフォード方式が適切な具体例としてあげられるだろう。その工場は自然を支配するために動いているわけではない。経済性、あるいは資本主義といったイデオロギーに人間を従わせる機械として存在している。そこで再び、主体の自由は奪われる。自然の暴力から人間を連れ出すための理性が、新たな暴力を生むのである。



啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫 青 692-1)
ホルクハイマー アドルノ 徳永 恂
岩波書店 (2007/01)
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 本日の一言は引き続き『啓蒙の弁証法』、48ページより。





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トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

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競売ナンバー49の叫び
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トマス ピンチョン Thomas Pynchon 志村 正雄
筑摩書房 (1992/11)
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 なんとなく再読。なんか長いピンチョンに慣れてから再読すると「え?もう終わり!?」とか思うね。





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アルバート・アイラー「ゴースツ」

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 詳細は不明だけれど、アルバート・アイラーが演奏する「ゴースツ」が使用されている動画(しかも色んなバージョンを繋ぎ合わせて作ってある)。中上健次は「『破壊せよ』とアイラーは言った」と言ったけれど、アイラー自身はそんなことを言っていなくて、彼の音楽にあるのってそんな破壊衝動ではなくて、もっと穏やかな創造することの幸福だと思う。楽しげなテーマが吹奏されたあとにやってくる混沌とした音の羅列は意味不明だけれど、なんか聴いててハッピーになってしまう不思議な効用がある。結局、いまだにアイラーの音楽についてはよくわからないままなのだが、そういう効用を求めて聴いている。それは「フリージャズによって吐き出される感情が……」云々に共感するわけではなく、理解不能なものへと求心されていく不思議な現象だ。「一体、これはなんなのだろうな」と首をひねりながら、楽しくなっていく。こういうのはオーネット・コールマンやジョン・コルトレーンにはこういう楽しさはない気がする。彼らの音楽は、不器用なほどマジメだ。



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カッチカチやぞ!

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http://jp.youtube.com/watch?v=BGv5cBEVlGA*1


 ずっとこのブログの一行紹介には最近好きな一言を書くようにしているんだけれど、今載せている「カッチカチやぞ!」に関してはあまり分かってくれる人がいないみたいなので、説明の代わりにその元ネタとなったザブングルの映像を貼っておきます。このコンビの畸形っぽい顔の方が、私の弟にそっくりだったので前から結構好きだったんだけど、最近になって私の中で彼らの評価が再燃してしまって……面白いネタの数は多くなくてパッとしないんだけど、いや、でも、この顔は才能だよね、と思うわけです。何より無意味さが良い。




*1:動画をアップした人が参照制限かけているようなのでリンクのみの表示にしています





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青山真治『サッド・ヴァケイション』

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サッド・ヴァケイション
青山真治
新潮社 (2006/07/28)
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 青山真治監督による「北九州サーガ」の完結篇。冒頭から異常に暗い環境のなかでカメラが回されており「いきなりすごい絵を見せてくれるな……」と面食らってしまったが、こういう斬新な絵(もしかしたら元ネタがあるのかもしれない、しかし、それは私にはわからない)をポンポンと並べた構成を、安心して観ていられるという不思議さがこの監督にはある、と思う。冒頭で浅野がチャリを必死で漕ぐシーンで「ああ、これはもう大丈夫だ」と思わせる力強さとか。


 映画の宣伝はこの作品を覆った「母性」について触れている。また、この作品から中上健次の小説へのトリビュートを読み取ることも出来るだろう。これらの指摘や記述はとても的確だが、あまりにも簡易的に記述可能な的確さである。深読みしろ、というわけではない――しかし、この作品に関する記述はもっと深められてしかるべきだろう。


 少なくとも私には、「母性」へと主観を限ってたときに石田えり演じる母親と対比させれる中村嘉葎雄の厳格かつマトモな「父性」はどうなるのか?と単純に思われるし、それよりももっと単純に「中上トリビュート」でありつつ中上を乗り越えるような作品であるように思われた。この作品が持つ射程は「母性」や「中上」という枠組みから大きくはみ出した射程を持っているのだ(というわけで、あえて母性や中上には触れないで話を進めていこう)。


 しかし、注目されるのは作品に隠されているものではなく、あからさまに表面に出ているもの、使用されている数々の「言語」である。この作品のなかでは北九州弁(この記述が正確なものかどうかは不明だ)がメインの言語として使用されているが、その点は『ユリイカ』についても同じことが言える。しかし、この作品では使用されている言語に限定されたところがない。綺麗な標準語を使用している人物もいれば、若者言葉を使用しているものもいる。また、カタコトの日本語を話す中国人や、日本語が話せない中国人も登場する。これらの演出は強烈に登場人物がそれぞれ他者として描かれているという印象を強めているように思う。


 ゆえにその他者たちは分かりあえていない。劇中で結ばれることとなる浅野と板谷の間には大きな隔たりが存在しているし、『ユリイカ』から続く光石研と斉藤陽一郎のかけあいのなかにも理解は生まれていない。登場人物のそのような関係性に触れるものとして、オダギリジョーが語る「俺たちは所詮、寄せ集めだ」というセリフが象徴的である。しかし、だからといって「寄せ集め」の人間関係が破綻しているわけではない。「他者性を理解しつつも、とりあえず全てを許容していく」あるいは「他者性を理解しているから、うわべだけはとりつくろっていく」というふたつの戦略、言わばどちらも「不完全なコミュニケーション」によって上手く生きている。特に間宮運送のなかにある秩序は、この不完全なコミュニケーションのうち後者の戦略をとることによって、問題が露見しないような秩序が立てられている。


 しかし、その秩序は「言語を用いないコミュニケーションをするもの(浅野)」と「言葉を用いて積極的にコミットメントをおこなっていくもの(宮崎。しかし彼女はかつて言葉を用いたコミュニケーションを拒絶したものでもある)」が状況に介入していくことによって、大きく揺れ動く。これまで触れられてこなかった問題がポロポロと露呈していく。秩序だった状況が徐々にひび割れていく。再び、そこに秩序が戻ってくる過程は、悲しいことに、状況からひとり、またひとりと人物が離れていくことによって行われる。


 しかし、再生された秩序は以前あったものとは異なったものだろう――それは現状を維持するための場当たり的な秩序ではなく、未来に進むための秩序であるように思える。「俺は来世に期待」という投げ出しではなく、「現状を良くしよう」というコミットの態度が物語の最後で登場人物に生まれている。この改善によって、悲劇は大団円へと回収されていくのである。観ていて救われたような気分になる映画だった(ただ、最後のシーンはすごく『フィクション性』を突きつけられるような気がして、やや興ざめしてしまったけれど)。


 あと「そこで嫁を起用かよ!」とか、光石研が最高とか、ちゃんと面白いポイントを配置しているので偉いです。それと、板谷の「めんどくさくなったら言ってね」というセリフがグッと来る。そんなこと言われたら再度惚れ直すに決まっている。





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内田光子のベートーヴェン・ソナタ第2弾

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ベートーヴェン:ピアノソナタ第28番&第29番
内田光子 ベートーヴェン
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 近年、内田光子はベートーヴェンに集中的に取り組んでいる。昨年は後期の「三大ソナタ」と呼ばれる第30番から第32番までの連作をリリースし、今年の7月に彼女その第2弾となる録音を発売している。この作曲家について彼女自身は「最も近寄りがたい作曲家、神様のような存在」というような発言をおこなっているのだが、1年以上のブランクを開けてのリリースに「やっと自信が持てる形にすることができたのだな」というのが伝わってくる。今回は第28番と第29番を取り上げていて、これで後期のベートーヴェンのピアノ・ソナタはほぼ出揃ったことになる。


 どのような演奏の内容か、ということには上手く触れられない。かなり長い間、内田光子のピアノ演奏を好んで聴いてきた私にとって、今回の録音も「ああ、内田光子の演奏だなぁ」という感想を抱いてしまう。テンポの揺らぎやメロディの歌い方、または音楽が鳴り出すときの慎重さ――それらは私の中で「内田光子」という名前につながってしまう。どのような作曲家をとりあげても「内田光子の○○」として語ることが出来る、そういうピアニストの性格は変わりが無い。


 しかし、第29番《ハンマークラヴィーア》の演奏には驚くべきものがあった。この作品はベートーヴェンが書いたピアノ作品のなかでも、最も技巧的な作品として知られているのだが、私は内田光子を「技巧派」というよりも「詩情的で、パーソナルな世界観をもった解釈者」として聴いていたので、作品との相性が心配だったのだけれど、そんな心配が杞憂であったことを最初の1分で証明するような演奏だ。


 《ハンマークラヴィーア》の冒頭は、ピアノ協奏曲第5番《皇帝》に通じるような、華やかさをもって始まる。その大きなインパクトが去った後、「またこれから改めて音楽をはじめますよ」というしきなおしがあるのだが、この部分の「語りなおし方」が実に素晴らしい。音楽は改められる。しかし、それは全く新しく始まっているわけではない。動と静の有機的な繋がりあいにグッと引き込まれてしまう。


 しかし、それらは全て「内田光子」という名前がついた世界のなかで展開される。いろんな好みをもっている人が、いろんな風に音楽を聴いているクラシックの世界で内田光子の音楽を好まない人がいることを私は想像することができる。「ベートーヴェンのソナタなら断然ヴィルヘルム・バックハウスだよ!」と頑なに信奉する者もいれば、「いや、僕はクラウディオ・アラウの演奏が好きだね。あんな温かみのある音楽は他にないもの」という人がいる。さらには「スヴャトスラフ・リヒテル最強!」と騒ぐ人もいる。内田光子もそういうファナティックな魅力を持ったピアニストの一人に数えられるだろう。


 結局、私も最終的には「ベートーヴェンならバックハウス」(いや、リヒテルのベートーヴェンの異常性も好きなのだが)という選択をすると思う。バックハウスの虚飾の無さは素晴らしい。でも、内田光子の「内田光子的な世界のなかで展開されるベートーヴェン」も素晴らしい。バックハウスと内田光子のベートーヴェンはそれぞれ異なっているし、その間にはすごく距離がある。けれども、そこには優劣は存在しない。「○○より優れている」という言い方は単純に個人の好みへと還元される。


 しかし、改めて考えてみると内田光子がバックハウスと併置されて比べられるという状況は、本当にすごいことだと思う。現代に生きる演奏家が、そういう過去の演奏家と並べられて評価されることのスゴさをもっと尊重するべきだ、と思う。好き嫌いはあるのは理解できる。しかし、こういう音楽の提示ができるピアニストは本当に稀有な存在である。私が求める演奏家とは、技巧的な上手さではなく、そういう世界が作れる人なのだと思う(そして、それは日本の音楽教育のなかで一番欠けているものだと思う)。





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《春の祭典》の再創造

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 またヤバい映像を見つけてしまった……。ピエール・ブーレーズ/パリ管弦楽団による《春の祭典》。イーゴリ・ストラヴィンスキーのこの作品といえば、もはや20世紀音楽の代名詞のひとつにもなっており「何をいまさら……」と思われるかもしれないが、この再演はオリジナル初演時のスキャンダルを再現するかのような衝撃力を持っている。


 古代の闘技場を模した舞台の上で、躍動する筋肉の動き、あとホンモノの馬を贅沢に使用した演出が、否が応でもジョジョ第2部のジョナサンVSワムウを思い起こさせ、今にも「流法!神砂嵐!!」という力強い叫び声が聞こえてきそうである……とこれ以上、つまらない冗談は止しておくが、やはりこういうものにかける情熱はフランスという国は狂気染みたものがある。


 この《春の祭典》、最後までアップされていないのが本当に惜しまれる(誰か続きをアップしてくれ!)。オリジナルでは「最後は生贄に捧げられた乙女が踊りながら死ぬ」という話になっているはずなのだが、この演奏ではどうやらフランク・ザッパそっくりの男が殺されてしまいそうな雰囲気。ザッパは最後どうなるのか……?その辺が非常に気になる。


 演奏はパリ管が「やっぱり現代音楽とかこういう激しいものって苦手なんだなぁ」という感じで、激しいリズムの運動をややもたつきながら演奏しているのが生々しく逆に良い。リズムに摩擦力みたいなものを感じる。あと、やたらとバスクラの音が大きく録られていて、すごく『ビッチェズ・ブリュー』です。





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Yannis Kyriakides(ヤニス・キリアキデス)

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Yannis Kyriakides(MySpace)

 先日もご紹介したガウデアムス現代音楽センターのサイト*1に掲載されていた名前を適当に調べてみる。目に付いたたのはキプロス出身の作曲家、ヤニス・キリアキデスのMySpace。1969年生まれとまだかなり若い方だが「現代音楽のフィールドにいる人がMySpaceをやっている」というのは、未だに衝撃的である。あと何年かしたらそんなの当然、やってないほうがおかしい――みたいなことになるんだろうか。


 現在はオランダ在住でオランダのポストパンクバンド、The Exと一緒に活動をしていたこともあり、エレクトロニクスを多用した作風などから「その方面」では日本でも既に名が知られているらしい(日本語で検索してもいくつか紹介しているサイトがヒットする)。MySpaceにアップされているものは確かに、流行りそうな風合いのものである。まどろむようなドローンと点描的な音素材が詩的に並び合っている。


yannis kyriakides

 実はこの人も「ガウデアムス」の出身者(2000年に入賞)で、作曲家の公式サイトではその受賞作品《a conSPIracy cantata》が聴ける(抜粋だが)。編集された短波ラジオの音(冷戦時代に各国が持っていた公安組織が交わしたものらしい)、謎めいた女性の唸り声、エフェクトがかけられた様々な楽器の音、そのような環境の中で「陰謀のカンタータ」が奏でられる――といったようなコンセプト(超要約)によって書かれた作品。これもなかなか好きな人が多そう。全体的な印象は「ポストミニマル世代のジャンルレスなアーティストのひとり」という感じ(自ら名乗る肩書きは「作曲家/メディアアーティスト/インプロヴァイザー」である)。個人的には《sea song》*2、《don't buy sugar/you're my sugar》*3、《hyperamplified》*4あたりが好きだ。



Wordless

Wordless






 アマゾンで取り扱っているCDはこちらのみ(2006年のアルス・エレクトロニカで佳作を受賞している)。収録された《wordless》*5は吉田アミに通じるような、鋼鉄のミニマリスム。一番すっきりしていて良いかも。ムダがない。






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チック・コリア@テアトロ・ジーリオ・ショウワ

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Children's Songs

Children's Songs







 チック・コリアのアコースティック・ピアノ・ソロを聴いた。チケットを買ってからずっと楽しみにしていたのだが、これは「まぁ、このぐらいのお金を払ったらこんなもんかな(A席4000円)」という感じだった。会場は昭和音楽大学が作った新しいホールで、すごく建物の作りが安く完璧に名前負けしていると思った。


 また学生のバイト(たぶん?)がスタッフをやっているせいか色んなところが不快。チケットが比較的安かったせいで席は8割ほど埋まっていたけれども、終始どこからかビニールをガサガサ言わせた音が聴こえるのとか致命的である。三分の一が大学の学生だったようだが、まずコンサートマナーの講義とかからやったほうが良い。自分が学ぶものに誠意と敬意を見せろ、と言いたい。


 チック・コリアの演奏は「ギャラ、けちったのかなー」とうかがいたくなるほどに、本気からは程遠いものだったが、それでもビル・エヴァンススコット・ラファロの「Gloria's Step」はちゃんと聴かせる。古典的なジャズ・スタンダードよりも、バップ以降に生まれた複雑な曲を弾かせるとこの人は本当に映える。逆に「いつか王子様が」などをやらせると非常に退屈である。技巧の展示会みたいに空虚な時間が過ぎていく。


 逆に面白かったのは、あまりに期待していなかった彼が弾くクラシックである。この日は「私は家でたまにクラシックも弾くんですよ。フレーズの練習とかアイディアをもらうためにね」と語った後に、アレクサンドル・スクリャービンの初期・中期作品(彼が神秘主義に傾倒する前の、すごく健康的な作品)を、それから自分で書いた《Children's Song》の間に何も言わずオリヴィエ・メシアンの何かを差し込んだ(たぶん《鳥のカタログ》からの一曲だろう)。


 「ジャズ・ピアニストが弾くクラシックなんて……」というのは偏見かもしれないが、これが実に酷いものが多い。キース・ジャレットのショスタコーヴィチやバッハなど、狂信的なキース・ジャレットぐらいしか好き好んで聴くものはいないだろう、という出来である。技巧的な問題はもちろん、何よりダメなのはすごく気取ろうとしているところである。普段とは違った格好をして、普段とは異なる話し方になろうとする。それがすごくその人の持ち味を殺している気がする。


 それに対してチック・コリアのクラシックはすごく普段どおりのものだったと思う。選曲も良かったのかもしれない(スクリャービンはその前に演奏されていたジャズとほとんど違和感がなかった)。過剰な強弱の差や不整脈のように動くルバートで歌いこんでいく、かと思うと音楽は急に弾みだし軽快になる――チック・コリアのピアノはそんな風に一貫性がない。でもそれは普段どおりの洒脱なしゃべり方だったと思う。少なくとも気の抜けた「Spain」よりはずっと聴きごたえがある。


 簡単に分けてしまうなら、ジャズ(即興)とクラシック(解釈)との話し方には、生成的か構築的か、という違いが見て取れる。しかし、間違った即興は存在しないし、正しい解釈も存在しない。逆もまたしかり、である。それをどのように「納得いく形で提示できるか?」に演奏家の質が決まるような気がする。この日のチック・コリアは即興的な解釈という中間部を見せてもらえた。たぶん、それも数ある納得できる形のうちのひとつだっただろう。





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今日のアドルノ

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数学的方法は、思考を事物(ザッヘ)にし、また自らそう名付けるとおり、思考を道具にしてしまう。しかしながら、思考が世界に同一化するこのようなミメーシスとともに、今や事実的なものだけが唯一なものになり、神の否定でさえも、形而上学の判決に委ねられるほどになってしまった。



 神話は呪術を駆逐し、近代の啓蒙は神話を退けた。それによって我々が手にしたものは、現在我々がその恩恵を受けている科学である。しかし、啓蒙が行ったことはそれだけではない。近代における啓蒙がやってのけた奇跡の源泉とは、元来我々の世界の外部に存在していたはずの理性を、我々の内部へと備え付けたことに見出せるであろう。


 外部から内部へ、そこでは理性という言葉が持つ言葉の意味が大きな変化を見せている。理性とは世界を成り立たせる根本的な論理である。世界を超越していたところに存在していたはずの理性が、我々の世界において内在された世界においては、つまるところ「私」が世界の中心となる(私の思考が世界と同一化するのである)。それによって、必然的に世界の外部は消失する。


 科学がここまで前進させた駆動力は、そのような理性の変質によってであろう。「私=世界」である時代においては、理性によって実証され得ないものは存在しない(ということになっている)。実証され得ないものが存在しているかもしれない可能性は、恐怖を生む。理性(=世界)の外部に存在しているかもしれない、未だ実証されぬものはこれまで必死に抜け出そうとしてきた神話の世界、呪術の世界へと引き戻すきっかけとなる。科学の駆動力はそのような恐怖に追い立てられたパニックによって生み出されているのだ。


 それゆえに科学は厳格なものとなる。この時代においては、神話の時代においてのような鷹揚さは許されない。神話の時代において雷は、様々な意味づけがされてきた。ギリシャにおいてはゼウスが、インドにおいてはインドラが(「ラーマヤーナではインドラの矢とも言われていたがね」byムスカ)、また日本においてはいかりや長介がそれを司る神として君臨していたが、科学の時代ではそのような多義性は抹殺されるのである。そこでは必然的に二分化コードが生じる――実証できるものは「正しい/存在する」、実証できないものは「間違っている/存在しない」というような。




(本日の一言は、『啓蒙の弁証法』、32ページより)





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今日のアドルノ((気が向いたときに、面白かったフレーズを抜き出してそこで考えたことをスケッチしてみる))

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呪術のうちには特定のものとの身代わり可能性がある。



 呪術の時代においては「敵の槍や髪や名前の上に何かが起これば、同時にそれは、その敵本人の上にもふりかかってくるはずである」と考えられていた。日本でもそういう類の呪術は存在していた。恨みを抱く相手の髪の毛を藁人形のなかに仕込んで、五寸釘で打つ「丑の刻参り」だとか。藁人形は「特定の誰か」の身代わりである。「人柱」と呼ばれた生贄も同じような呪術だろう。そこで捧げられた「ある人」は「ある村」の身代わりとして災厄を受ける。「ある村」という類例の「代表」として死ぬ。


 しかし、科学の時代では違う。「身代わりの可能性」は「普遍的な代替可能性」へと転化する。この変化は言葉の印象として似通ったものかもしれない。でも、全然違う。科学の時代においても「治験」とか「生きた動物の解剖」とか、犠牲にされるものはある。けれども、その犠牲にはいかなる「特別さ」も存在しない。というか、そういう「特別さ」はあってはならないものとして考えられる(特別だったら、実証性はもてなくなる)。「治験」においては、楽してバイト代を稼ごうとする大学生などが「人間の見本」として副作用を受ける。「解剖」でも同じことだ。


 呪術の時代に話を戻すと、村の「代表」は誰でも良いわけではなかった。村のために死ぬのは、きっと綺麗で誰の手垢もついていない生娘だったろうし、人の代わりに捧げられる家畜ならその年で一番立派に育った一頭だったろう。それを惜しげもなく河に沈めたり、打ち殺したりする(そんなの『カムイ伝』とか『マッドメン』(諸星大二郎)でしか読んだこと無いけど。)。可愛くない女の子だったり、痩せ細った牛だったりはしない。神聖といえるぐらいに特別でなかったら類型のなかの「代表」にはなれない。


 一方、科学の時代では「誰が副作用を受けたか」とか「どの犬が解剖されて死んだか」とか、そんなの全然関係ない(でも、そんなの関係ねぇ!)。どの大学生も、どの犬も「=(イコール)」で結ばれていく。誰が死のうが、そういうのは意味を持たない。科学の時代においては、明日、あなたが車に轢かれて死んだとしても「にんげんっつーのは、このぐらいの速度でぶつかってこられるとしぬんだなぁ(みつを)」という標本として扱われるだけなのだ。




(今日の一言はホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』、11ページより)





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現代音楽の不安はネットによって解消されるか

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Muziek Centrum Nederland: Home Hedendaags

 「ガウデアムス国際音楽週間」*1を主催しているガウデアムス現代音楽センターの公式サイト。「俺、全然現代の音楽しらねーじゃん!聴いてるの死んだ作曲家ばっかりじゃねーか!」と思って、作曲科の友達に聞いたら教えてくれた。世界中のいろいろな若手作曲家の情報が寄せられているらしい。ちなみに今年のコンクール受賞者はクリストファー・トラパニという1980年生まれ、アメリカ人。優勝賞金は4550ユーロ(日本円で約72万円)、それと来年の音楽祭で新作の委嘱上演されることが決まっている。


Christopher Trapani, composer


 トラパニの公式サイト。こちらでは作品の音源も聴くことができる。受賞作品となった《Sparrow Episodes》はエレキ・ギターを含む16人編成のアンサンブルのための作品で(残念ながらサイトでは途中までしか聴けないのだが)、リズムとテクスチュアの折り重なり方の複雑さ、音楽の非直線的な進み方はユニーク。ギターとエレクトロニクスを好んで用いているようで、まさにそのために書かれた《Really Coming Down》(特に終結部)はかなり良い。ノイジーなドローンのなかで、急にギターがカントリー調のメロディを引き出すところはジョン・フェイヒーみたいに聴こえる。「書かれたものか/録られたものか」。そのような違いしかアカデミックな現代音楽と非アカデミックな現代の音楽を隔てるものはないのかもしれない、とか考えてしまう。他の作品には、リズムから徐々にジャズ/ブルースのフレーズへと変容していくものがあり、複数の層から変化が生まれ全体が変化していくところに何かアメリカ的なものを感じなくも無い。チャールズ・アイヴズ(あとやっぱりジョン・フェイヒー)の音楽の下地にあった「アメリカの原風景」と似たようなものが聴き取れる気がする。


 つい先ほどは「Youtubeでベリオが聴ける!」と驚いていたばかりだが、本当にデビューしたてで作品数が10曲にも満たない若手作曲家の作品が「名前を知って、すぐに聴ける」という状況が既に実現されていることに驚いてしまった(インターネットってすげぇ!って久しぶりに思ったよ)。こういう風に作品を発表していて「すぐに聴ける作曲家」が増えすぎちゃっても聴き手としては追いつかなくて困るんだけれども、楽しい。時間が許す限り、体力が続く限り、探っていきたいような気分に駆られるし、ブーレーズの名言「私は現代音楽の未来に、なんら不安を持ったことはない」というのが楽観的だなぁ、と思えなくなってくる。


 また、暇なときに新進作曲家のサイトなどを紹介していきたいと思います。




*1:世界で最も競争率の高い作曲コンクールが開かれることで知られる現代音楽祭





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ベリオがネットで観られる時代に感動

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 イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオの大問題作《シンフォニア》より第3楽章の映像(指揮はサイモン・ラトル)。この部分は、マーラーの交響曲第2番《復活》を主なパロディの対象としながら、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベートーヴェン、ドビュッシー……などの作品を細切れにして繋げたコラージュになっており、それが「作曲行為と呼べるのか」というスキャンダルを呼んでいる。


 映像は、引用元となった作曲家の写真が重ねられ、音楽を解説するとものとなっているのだが、視覚的な情報量よりも多層的な音響の方がはるかに情報量が多い。ベリオを語る際のキーワードとして「創造的な編曲」というものが挙げられようが、《シンフォニア》はそれが最も激しい形で実行されたものだろう。過去の作曲家を素材として用い、また最後の作品となったプッチーニの《トゥーランドット》の補筆という仕事は「過去に存在したかもしれない(が実際には存在していない)もの」を発掘した作業だったとも言える。



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 また、ベリオには「超絶技巧」や「特殊奏法」といった本来なら「作品を演奏するためのもの」を抽出して作品化してしまったセクエンツァというシリーズがある(映像はトロンボーンのための《セクエンツァ》第5番)。トロンボーンを演奏しながら、奏者はその音色を声によって模倣し、その模倣はいつしか「WHY?」という問いかけの言葉へと変化していく(何故、この演奏者がこのような格好をしているのかをこっちが問いかけたいくらいなのだが)。



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 こちらはソプラノ・サックスのための《セクエンツァ》第7番(元はオーボエのために書かれたものが後に編曲されたもの)。フラッタータンギング、重音(倍音を分離させることで複数の音を聴かせる)、圧縮されたような高速のフレーズは、演奏されることで初めて楽譜から浮かび上がる身体性を聴覚に刻み付ける。


 ウンベルト・エーコはルチアーノ・ベリオを「声の作曲家」と評した。その言葉どおり、ベリオは現代の作曲家には異例なほど声楽のための作品を書いていた(それは伝説的なヴォイス・パフォーマー、キャシー・バーベリアンと結婚してのも影響しているのだろう)。しかし、この簡潔な言葉も《シンフォニア》の音響のように多層的に読むことができるだろう――「過去」からの発掘は、この世に既に存在せず声を発することの出来ない作曲家の声を現代に甦らせている。また《セクエンツァ》シリーズでは、作品に服従するものとしての演奏家の身体性を「声」として音楽化している。

 ……と簡単に紹介をしてみたが、実のところYoutubeでベリオの作品が観れるようになったのには腰が抜けるほど驚いてしまった。というのもブーレーズやシュトックハウゼンと同じぐらいのビッグ・ネームなのに、ベリオという人は本当にごく限られたところでしか言及されていない作曲家だったからだ(ごく限られたところではかなり活発に演奏されてもいる。2004年には《セクエンツァ》全曲演奏会も開かれた。これはベリオ研究の第一人者である有田栄さん*1の尽力も大きい)。これを機会に聴く人が増えたらな、と思う。





Sequenzas I-Xiv

Sequenzas I-Xiv









*1:美人





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後期ロマン派の楽器たち

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 18世紀から20世紀前半の西洋音楽界の大きな流れには「拡大」という傾向が見られます。例えば、鍵盤楽器の音量の拡大。ピアノが開発されるまで主流だった鍵盤楽器、チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)の弦を弾く部分には鳥の羽の軸となっている部分が使用され、その音量は今のピアノとは比べ物にならないほど小さなものだったそうです。それがもっと大きな音量の出るピアノにとって変わられ、その後ピアノはどんどん大きな音が出るように改良が加えられていきました――ここには宮廷や屋敷といったパーソナルな空間で演奏される用の楽器が、コンサートホールというさらに大きな空間(市民的な公共空間)での演奏用に改造されるという「時代の要求」が読み取れます。


 拡大したのは音量だけではありません。オーケストラの規模も拡大していきます。奏者の数はベートーヴェンの時代からマーラーまでで倍以上になり、また仕様される楽器も増えていきました。驚かれることかもしれませんが、今ではとてもポピュラーな木管楽器であるクラリネットもオーケストラで使われ始めたのはモーツァルトの時代に入ってからです。どのような楽器が使用されるか、という事柄に関しては19世紀に入って大体決まってしまうのですが、そこで変化を止めないのが近代人の性。中には「こんな楽器を作って欲しい」と楽器製作者に開発させた人もいました。


 世界に存在する珍楽器愛好家の皆様、こんにちは。申し遅れましたが私、mkと申します。世界のどこにも存在しない妄想の博物館、珍楽器妄想博物館の館長を務めております。今回はそのような時代の変遷のなかでオーケストラのなかに加えられた珍しい楽器に焦点を当て、皆様の知的好奇心をくすぐっていこうと思います。


Wagner_tuba


 作曲家の要求によって開発された楽器の代表格と言えばこの「ワーグナー・チューバ」。名前の通り、リヒャルト・ワーグナーによって開発された金管楽器です。チューバと言えども、担当するのはホルン奏者(演奏中に持ち替える)。使用していたのはワーグナーだけではなく、むしろワーグナーの熱狂的信奉者であったブルックナーの方が使用していた作曲家として有名かもしれません。



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 映像はブルックナーの交響曲第7番(演奏はクラウディオ・アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団)。2:45あたりから荘厳な響きを聴かせてくれますが、これは結構「玄人好みするタイプ」の音色であろうと思います。生、あるいは映像で見ないと「これがワーグナー・チューバの音色だ」と認識できる日は来ない……折角開発されたのにそういう悲しい運命を背負った楽器であるとも言えます。ちなみに、これ以降も取り立ててこの楽器がメジャーに取り扱われることはなく「特殊楽器」として認知されています。日本のアマチュア・オーケストラでは早稲田大学のオケが所有しており、他の団体がブルックナーなどを演奏する際に貸し出しが行われていたりするそう。「ワグチュー」と略して呼べば途端にあなたも玄人扱いされること請け合い。


heckelphon_big


 こちらの「ヘッケルフォン」も作曲家の要請によって開発された楽器です。これはリヒャルト・シュトラウスが現在も世界最高峰のファゴットを製造し続ける楽器工房「ヘッケル」に頼んで作らせた「ファゴットよりは小さく、イングリッシュ・ホルンよりは大きい」木管楽器。リヒャルト・シュトラウス以外に使用した人を私は知りませんが、現在でも製作されており日本の楽器屋さんでも普通に買えます(たぶん乗用車が新車で一台買えるぐらいの値段)。買っても何に使えば良いのか知りません。あとどんな音がするか、私もよくわかりません。


ヘッケルフォン


 ヘッケルフォンはこちらのサイトに詳細があります。リヒャルト・シュトラウス以外にもパウル・ヒンデミットがヘッケルフォンのための作品を書いているそうです。オーケストラで使用するほとんどの楽器のためにソナタ作品を書いたといわれるヒンデミットですが、ここまで来るともう意地としか思えません。



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 珍しい楽器を使用したことではリヒャルト・シュトラウスと同時代の作曲家、グスタフ・マーラーも負けてはいません。こちらの動画は交響曲第6番第4楽章で使用される打楽器「ハンマー」。「もはや何でもありだな!」という感じがしますが、これを生で見れた幸運な方はやはり痺れてしまうでしょう。音自体はそこまで衝撃的ではありませんが、見た目のインパクトがすごすぎます。マーラーは他にも交響曲第7番でリュートやカウベルを使用しています。このカウベルも舞台裏であんまりオーケストラと関係なく鳴らされてるのでびっくりする。ちなみにリヒャルト・シュトラウスもカウベルを《アルプス交響曲》で使用しています。この曲は他にもウィンドマシン(風の音が出る)やサンダーマシン(雷の音が出る)など珍しいものがある。


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 《アルプス交響曲》で使用されている珍楽器はこちらでもまとめて紹介されています(ヘッケルフォンの音が聴けるサイトへのリンクも貼られている)。よく見たらこれ、知り合いが参加してるオケのサイトじゃないか……。



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 今回はオットリーノ・レスピーギの交響詩《ローマの松》より「ジャニコロの松」でお別れ(演奏はアルトゥーロ・トスカニーニ/NBC交響楽団。この曲ではラストで「鳥の鳴き声が収録されたレコード」が用いられています)。当博物館では、皆様のまたのご来場を心待ちにしております。





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ジェントル・ジャイアント動画集

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 70年代イギリスのロック・バンド、ジェントル・ジャイアントのライヴ動画。以前にもまとめて紹介しましたが、新しい動画がアップされていたことをお知らせします(以前のものは多くがリンク切れ)。音質も画質も以前にアップされていたものとは段違いで良い。最高です。


ジェントル・ジャイアント(Youtube)



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 これなんかバトルズみたいだもんなー。すげー。





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キース・ジャレット『残氓(ざんぼう)』

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 私の実家はほとんど誰も音楽を聴かず、また本を読まない文化的に不毛な家庭だったのだが、何故か高級かつ巨大なステレオ装置と何枚かのレコードがあった(父親の所有物だったのだが、別に父親も音楽が好き、というそぶりを見せなかった。たぶんそういうものを買う世代だったんだろう、と思う。読みもしない百科辞書をリビングに飾るみたいに)。高校の頃、誰も使わないし触りもしないその機械を勿体無く思った私はMDのデッキを買って、それでウチにあったレコードを片っ端からデジタル化していった。キース・ジャレットの『残氓』もそのなかの一枚だった。これを先日、実家に帰ったときに聴き直した。


 キース・ジャレットといえば、未だに「好きなジャズ・ピアニスト」のランキングでトップに並ぶほどの絶大な人気を誇る人として有名である。が、スタンダード・トリオとかソロでのインプロヴィゼーションの人気が集まっている一方で、1970年代に彼が「前衛派」に接近しようとして製作したアルバムの大半が完全に黙殺されてしまっている気がする。マイルスの80年代以上に「誰も触れないし、誰も聴かないもの」として扱われている。


 私個人としては、この頃のキース・ジャレットのアルバムも「聴ける」。少なくとも80年代マイルスみたいに「痛いなぁ、キツいなぁ」という感想を抱かない。この頃のキース・ジャレットは明らかに「魔術的なアフリカン幻想」や「神秘主義」への傾倒が感じられ、とにかくそこに「時代」を感じてしまうけれど、それは「痛い」というほどのものではない。だからと言って「これは出るのが早すぎたんだ……!」という驚きも無い。


 けれども、やっぱり「聴ける」。聴けてしまう。結局それはキース・ジャレットという人の音楽性って装いをどんな風に変えても、根本的な部分が変わっていないからではないだろうか、と思う。この人の場合、独特なリリシズムと独特なロマンティシズムが根底に備わっていて、異教的なジャズをやろうが、スタンダードをやろうが、ソロでウーウー唸りながら即興をやろうが、頑なに「美しくあろう」という部分に変えようとしない。その根本的な態度を異質なものにアジャストしていく、そういう器用さもある。ただし、器用さにおいてはその遥かに上を行く、ハービー・ハンコックという「カメレオンマン」がいる。そして私はハービーの方を取る。





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阿部和重『グランド・フィナーレ』

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グランド・フィナーレ (講談社文庫)

グランド・フィナーレ (講談社文庫)







 ぼんやり上手さん(id:ayakomiyamoto)の日記でずいぶん前に阿部和重が面白く紹介されていたのが、ずっと頭のなかにあったんだけれど、機会を逃し続けていてやっと読むことができました。面白かったです!


 この小説が面白く読めたのは、主人公視点で語られる地の文と他の登場人物が語る会話文との文体に大きな差があったからだろう、と思います。会話文はとても生き生きとしていてすごくリアリティがある文章で成り立っているのも(最近の小説を読んでいない)私には新鮮でしたし(村上春樹の会話文にはこういうリアリティはありません)、また地の文のインチキな批評文くさい、はっきり言って過剰な、修飾の用い方も面白かったです。例えば、こういうの。



そのお宝に宿ったマルチメディアの精霊は、悦びや思慕の情を引き出すことよりもさらに熱心に、わたしに対してある残酷な忠告を囁きかけてくるのだった。



 「マルチメディアの精霊」――これはナボコフが男性器を「情熱の勺」(『ロリータ』大久保康雄訳)と表現したのを読んだとき以来の個人的ビッグヒットとなったわけですが、その「過剰さ」が主人公の「思い」が並々ならぬものであることの演出として上手く作用しているように思いました(そういえば『ロリータ』も『グランド・フィナーレ』もロリコンを取り扱った小説だ)。それから、その冷静な饒舌さは主人公の自分勝手な「他者観」も裏付けるような気がします。


 主人公の他にも、とにかく自分勝手な人たちがいろいろと出てくる小説で、それぞれの「理解のされなさ」の構図も面白いです。例えば第一部のクライマックスとなっている、Iというクラバーの女の子が主人公から自分の性癖とそれにまつわる話を聞きだす、というシーンに関してもそう。その前のシーンで、Iは「悲惨だと思うけれど、自分ではどうしようもないし、大した悩み事でもないこと」の一例のようにアフリカの紛争の話をしていて、その会話が本当に「雑談」っぽくて酷いのだけれど、主人公の告白を聞いて「私は軽蔑した」と面と向かって主人公を非難する。この身勝手な正義感の駆動の仕方は、第二部の主人公にも読み取ることが出来ます。


 でもその「身勝手さ」はベタに現れているわけではなく「私にはそういう行為をする権利がないと思われるかもしれないけれども、少なくとも私自身は権利があると思っているし、所詮他人が思っていそうなことなどは『私の想像』なのかもしれないのだから一旦そこに考えをめぐらすのをストップして、行為をおこないます」というような、留保や迂回を行いつつも身勝手な行為に接続されていく、そういう複雑な構造を描いているようにも思われました。そういうのはすごく現代っぽい。





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坪口TRIO+2@新宿ピットイン

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ANDROGRAFFITI

ANDROGRAFFITI







 DCPRGで刺すようなキーボードを弾いていた坪口昌恭のトリオを聴きに行った(他のメンバーは菊地雅晃、藤井信雄。この日はエレクトロニクスでNUMB、ヴィブラフォンで三沢泉が参加)。お客さんはピットインの椅子が適度に埋まるぐらい。明日の東京ザヴィヌルバッハがソールドアウトしているのを考えると「菊地成孔の人気って今すごいんだなぁ」と思ってしまう、それぐらい意外なほどの「適度な客入り」。セロニアス・モンクの曲とオリジナルの曲を演奏しているのを聴いて「こういうジャズの延命法もあるのだなぁ」とか思った。


 今、東京には色んなジャズの「形」がある。未だにバップをやっている人もいる。未だにフュージョンの人もいる。未だにフリーの人もいる。時間が止まっているかのような状態で(それ自体は悪いことではない)ジャズが演奏されている一方で、新しい「ジャズ」を生み出そうとする人たちもいる。例えば、「音響派」と「ジャズ」を組み合わせたジャズ。あるいは、70年代マイルスの音楽をよりソフィスティケイトしたジャズ(・ファンク)。坪口TRIOのスタイルもこの「新しい方のジャズ」に分類されるだろう。


 だが、坪口TRIOの「新しい方」のなかでの存在感というのもかなり独特だ。一聴して、かなりオーセンティックなジャズ、特にフリー以降の「新主流派」的な、フォーマットが敷かれている。目新しいものは特に存在しない。NUMBが客席の一番後ろで機材を操作し、リアルタイムでピアノの音を変調させていたとしてもその「ジャズ的」な形は揺るぎない。この「揺るぎなさ」が、大友良英や菊地成孔の「ジャズ」とは大きく異なっているように思える。もっとも、大友のジャズは「時代と共に変容する音楽」として、また菊地のジャズは「セクシーで高級な音楽」として、共にジャズ的ではあるのだが。


 坪口TRIOのジャズはまるで「ジャズの巨人」が、現在のトレンドと遊んでいるかのような、そういう印象を受ける。エレクトロニクスなどの機材面においても、ポリリズムなどの音楽的な語法においても。もしかしたらハービー・ハンコックやチック・コリア、それからジョー・ザヴィヌルが30歳若かったらこういう音楽をやっていたかもしれない(でもキース・ジャレットはそうしなかったろう)……そういう想像力が働く素晴らしい音楽だった。


Masayasu Tzboguchi(MySpace)





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Kanye West『Graduation』

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Graduation

Graduation







 CANのカヴァーをやっててびっくりした。熊が可愛くなくなった。





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アカペラDE……

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 The Carleton Singing Knightsというコーラス・グループによるゾンビーズのカヴァー。リードもコーラスもあんまり上手くないのだが、その心意気を評価したくなる歌。まぁ、この程度なら他にも似たような人たちがいそうだけれど、このグループ、他にも色々カヴァーをやっていてその選曲が雑多過ぎて面白い。



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 ジャスティン・ティンバーレイクの「My Love」。音質の悪さも作用して、非常に何をやってるのかよくわからなくなっている。これ「ジャスティン・ティンバーレイクの曲をやりました」と言える度胸も良いです。



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 ベン・クウェラーの「Magic」。果たして彼らのコンサートを100%楽しめる人は何人いるのだろう……と考えさせられてしまう。大体、ベン・クウェラーってカヴァーしてウケを狙えるほど人気があるんだろうか。



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 で、ダフト・パンクである(観客席から大歓声!)。選曲が既にプログレてる。





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