アンサンブル・モデルン来日!

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 80年代に世界で初めて「現代音楽専門アンサンブル」として結成されたフランクフルトの音楽集団、アンサンブル・モデルンの来日が決定しているそうです。このグループ、フランク・ザッパのラスト・ツアー/ラスト・アルバムとなった『イエロー・シャーク』の演奏も担当していて、ここでご紹介したのはそのときの映像。来日公演は2008年5月21日、東京オペラシティだそうです。で、曲目がスティーヴ・ライヒの新作と《18人のミュージシャンのための音楽》!非商業的な分野の音楽のなかで、20世紀でもっとも商業的に成功した作品のひとつであろう、この作品を生で体験するチャンスがめぐってこようとは……。チケットがどこで手に入るか/いつ発売か分からないけれど、これはチェックしておきたい。



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(↑こちらの映像はアンサンブル・モデルンのものではありません)





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いろんな肉でハンバーグを作ってみるよ

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 本日は久しぶりに仕事が早く終わったので「料理でも作っぺが」と思ってスーパーに行きました。で、ふらふら品物見てたんですがせっかくのフードプロセッサを全く活用してなかったことを思い出して、夕飯はハンバーグに決めました(このためにフープロ買ったのだった)。せっかくなのでひき肉になっていない肉を買ってトライ。本日のお肉はタイムサービスだった牛肩肉切落しです。正直、牛肉が部位によってどんな特性をもってるのかと全然知らないのですが、値段が手ごろだった。あと肩こり酷いんですよね、ここ最近。近代以前の医学によれば「目が悪いときは目に似てるものを喰え」みたいな目には目を、歯には歯を……メソッドがあったそうなので、肩肉食えば治るかも、肩こり……と思ったんです(嘘です)。


CA330005 こちらの画像がフープロを使用して作った「焼く前のハンバーグ」です。フープロでみじん切りにしたたまねぎを炒めて、冷ましてから、フープロで混ぜ合わせた肉・たまご・牛乳・パン粉・調味料のなかにブチ混んで、さらにフープロでかき混ぜました。文明のパワー全開。写真をよく見てもらえばお分かりかもしれませんが、人力では不可能なレベルできめ細かいタネを作ることができました。ただし、粗っぽい野生味溢れるハンバーグが好きな方にはこの方法をオススメできません。っていうか私も、そっちの方が好きなので今後は混ぜ合わせ工程から人力で行っていきたい、と思います。しかし、作業時間15分で「もう焼けるぜ!」という段階にいけるという利便性は驚異的。これなら残業して帰ってきてもハンバーグをつくることができそうです!


CA330006 焼き上がりも非常に綺麗(若干、焼き目をいれすぎましたが……あとライス多すぎ)。味は、なんかとてもサッパリしてました。ヤクルトスワローズの選手で喩えるなら度会、っていう感じでした。悪くないけど、印象に薄い。スタメンをはるのは難しい……。





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当ブログは音楽検定対応型ブログです。

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 id:violet217さん曰く、当ブログを毎日斜め読みしているだけで音楽検定2級の「現代音楽」関連の問題は8割程度取れるようになるそうです(合格おめでとうございます)。今後も皆様のお役に立てるエントリ執筆に励みたいと思いますので何卒、よろしくお願いいたします。





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スピリチュアル・ジャズを少しフィジカルに考える

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 id:la-danseさんが「最近、ジャズを聴き始めましたが、コルトレーンって本当にすごいんですねぇ……」とおっしゃっていたので、コルトレーンを聴きなおしている。といっても、そこまで腰を入れて聴かなくちゃいけないほど枚数は持っていない。っていうか、最近までこの『至上の愛』と『インプレッション』(エリック・ドルフィーが参加している)しか持ってなかったぐらいコルトレーンには疎い。これは高校生ぐらいのときに「『ジャイアント・ステップス』は名盤だ!」という話を聞いて、聴いてみたらあんまりピンとこなかった、というトラウマによるものである(そして『ジャイアント・ステップス』には未だに良い印象を持っていない。これは、私の中で『技術と内容は全く無関係であることを証明する音楽』のひとつである)。


 しかし、『至上の愛』ってホントに素晴らしいアルバムだ、と改めて思った。「音が洪水のように迫ってくる」という表現がピッタリな音楽には、結構数があるけれども、これはそのなかで最も少人数で演奏された「洪水」ではなかろうか。コルトレーン以上にエルヴィン・ジョーンズのドラムがすごくて「一人民族大移動」といった趣すらある(一人というには大きすぎる!)。まぁ、なんのことやら、といった感じですが……。あと、このアルバムのジャケットを見てると「ヌーの群れ」のことを考えてしまう(コルトレーンってヌーっぽくないですか?)。


 また、このアルバムからコルトレーンのスピリチュアル化が一層激しさを増した、とも言われている――『至上の愛』は、その後のスピリチュアル・ジャズの嚆矢なのだ……コルトレーンはやっぱり音楽によって神秘的なところへと辿りつこうとしてたのかもしれない……むむ……とか考えてしまう。こういう超越的なものに対して向かうアフロ・アメリカンのミュージシャンは結構多い。「土星人」サン・ラ、ネバーランドを実現したマイケル・ジャクソン、プリンスも最近はキリスト教に夢中らしい(最も彼の場合、家庭の問題が強いのかもしれない)。


 「アフロ・アメリカンのミュージシャンは何故『宇宙』や『神秘』へと志向するのであろうか」――このような問いに対して、野田努という人は「アイデンティティの危機/自らの存在の寄る辺の無さが、超越的存在への(過剰な)志向を生み出している」みたいなことを言っている。らしい。私はこの人の本を読んだことが無いので詳しいところはよくわからない。けれども、とてもインチキ臭くて良い分析であると思う。ただ、これではコルトレーンもサン・ラもマイケルもキチガイばっかりではないか!という話になってしまうので、もう少しフィジカルな面から「コルトレーンのスピリチュアル・ジャズ」についてアプローチをしてみたい――コルトレーンが音楽を演奏する中で何に触れ、そしてどのようにして神秘に目覚めたのか、何が要因だったのか。

 これについてはやはり、クスリを問題にしないわけにはいかない。この時代のジャズ・ミュージシャンの多くがそうであったように、コルトレーンもまたジャンキーであった。この人の場合、その影響で、ライヴが終わったあとにステージでそのまま寝ていたり、仕事をすっぽかしたりしたせいでマイルス・デイヴィスのバンドをクビになった、という逸話があるくらいなのでかなり筋金入りの人だったんだろう、と思う。彼が偉いのはこの後、ドラッグを頑張ってやめたところ*1。「クスリやめますか?それともバンドやめますか?」と迫ったマイルスが1974年に一時的に引退するまでクスリを辞められなかったのと比べるとずいぶん男らしい。


 で、コルトレーンの話に戻るんだけれどもクスリを辞めて頭脳をクリアにして、改めてバリバリと楽器を吹きまくりはじめたとき、なんか見ちゃったんじゃないかな、と思う――吸うなり打つなりしてから吹くのではなく、平常心から吹き始めなかったら体験できないようなそういう世界を……なんて思うのは、私にも少しそういう体験に覚えがあるからだ。


 そのような感覚を個人的には「音楽と自分の体の境界線がとても曖昧になる感じ(ミメーシス!)」と呼んでいる。こういうのは、あくまで比喩なので「それってどんな感じなの?」と追求されても「とにかくそんな感じだよ!」と返すしかないのだが、とにかく楽器を演奏していてそういう普段絶対に味わうことができない感覚を味わうことがある。自分の音以外は何も聴こえないスタジオや演奏会の本番のステージといった、極度に音楽へと集中している状況(指をどんな風に動かすか、ここでどんな音程を取るか、そういう雑念が全部消え去ったとき)、歪んだ時間感覚とともに「それ」はやってくる。酔っ払ってるときとも違って、頭は冷静なのだけれど気が付くともう曲の終盤で「あ、あと13小節で曲も終わりか……はやいなぁ……ノド乾いたなぁ…ビール飲みたいなぁ……」とか考えている。そして妙に気持ち良い。


 推測だけれど、こういう体験ができるのは、私がやっている楽器がファゴットという「息を使う楽器」、つまり指などの身体の末端だけを使うのではなく、もっと根本的なところから体を使っていく楽器だから、というのもありそうだ――呼吸/呼吸法と精神の強い関連は、特に東洋における身体的な技法(禅、太極拳、ヨーガ)においても示されているところである。


 繰り返すようだが、コルトレーンもこんな体験をしてたんじゃないのかなぁ、と私は思う。もちろん、私はプロの演奏家でもジャズ・ミュージシャンでもない(もしかしたらプロはもっとすごい体験を味わってるのかもしれない……)し、脳科学者でもヨガの先生でもない。第一に私はコルトレーンじゃないから、あくまで推測に過ぎない。しかし(これも繰り返しになってしまうけれど)以上で私が語った体験は、比喩によってでしか伝えられないものである。こういう身体的な感覚を言葉にするのは難しい。


 ただ、比喩でしか伝えられないものだからこそ、それを「神」だとか「神秘」だとか「スピリチュアル」だと他の人が呼んでいてもおかしくはない話だ、とも思う。コルトレーンが「至上の愛」と呼び、私が「音楽と自分の体の境界線がとても曖昧になる感じ」と呼んでいるものが、もしかしたら同じかもしれないことだってあるかもしれないでしょう?(証明できないんだけれども)――しかし、それを何と呼ぶかは、個々人のセンスの問題である。「神」が出てくる時点でコルトレーンのセンスは少し誇大なものとは言えるような気がする。ドルドルドルドル……と『至上の愛』の最後で鳴るティンパニの吹き出しそうになる仰々しさなんかからもそれは伝わる。



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 このアルバムなんか、ホントにシラフなのかなぁ……と疑いたくなるほどのアフリ感が全開で最高です(最後に入ってるバラードがまたすごく良いんだ……)。追記;このエントリを書きながら、コルトレーンの資料サイトとか見直してたんだけど「オルンスタイン音楽学校」に通ってたっていう記述を見つけました。これってあの(って言っても誰も知らないと思うけど……)レオ・オルンスタインの立ち上げた私塾でしょうか……。




*1こちらのサイトによれば、1957年にドラッグから抜け出したらしい





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アルフレート・シュニトケ作品映像集

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 三夜連続で現代音楽の動画を紹介いたします。今夜はアルフレート・シュニトケの作品を集めてみました。ポスト・ショスタコーヴィチとして期待されるも、ショスタコーヴィチ自身の評価がまっとうなものに回復する前に亡くなったこの旧ソ連出身の作曲家に関しては以前にも簡単に書きました*1が、私の知らない間にずいぶんと貴重な映像があげられていたようです。まず、掲載しましたのが彼の出世作でもある《合奏協奏曲》第1番。解体したバロックを現代の語法によって再構築したザ・ポストモダニズム。



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 これが好評だったためにシュニトケは《合奏協奏曲》をシリーズしています。こちらは第6番。バロックというよりロック。しかし、作品は第1番よりもグッと深みをましており、第1番に聴かれるような軽佻浮薄なところがありません。鋭利なロマンティシズムにまで昇華されているように思います。



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 《ピアノ・ソナタ》第1番。これはショスタコーヴィチの作品にそっくりです。それもそのはず、この作品ではアルフレート・シュニトケ(Alfred Schnittke)のイニシャルから作ったモティーフを使用しているのですが、このような(古くはバッハもおこなっていた)遊戯めいた作曲方法をショスタコーヴィチもおこなっていました。ちなみに、シュニトケのモティーフは「A D S C H」(ラ・レ・ミ♭・ド・シ)、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)の場合は「D S C H」(レ・ミ♭・ド・シ)。一個しか音が違いません。



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 ちなみにこちらが第2番。なんか坂本龍一が弾いてたら「カッコ良い!」って褒められそうな曲だけれども、全然知らないピアニストが大した有名でもない作曲家が書いた曲を弾いてても誰も聴いてくれないよなぁ、とか思う。こういう映像って結構貴重なんですけどね。



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 《ゴーゴリ組曲》。シュニトケは暗い曲ばかり書いてるわけじゃなくて、こういう変な曲も書いている(こちらの演奏はロシアの民謡などによく使用される楽器のために編曲されたもの)。むちゃくちゃ歪められたロッシーニの《セヴィリアの理髪師》っぽい冒頭部から、ベートーヴェンの《運命》へ……というむちゃくちゃな繋ぎが面白い。その後はポルカだし、チャイコフスキーも出てくる。やりすぎなユーモア感覚が良いです。


YouTube - Broadcast Yourself

 最後にシュニトケのドキュメンタリ映像を*2。弟と一緒に、80年代っぽい音がするシンセで曲作りしている姿が印象的です(やたらニューウェーヴっぽい曲作ってる)。



シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
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*1最もエレガントなポスト・モダン・ミュージック - 「石版!」


*2:リンク制限がされているため、リンクのみ紹介





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オリヴィエ・メシアン作品映像集

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Olivier Messiaen: Mélodies (Complete)
Olivier Messiaen Hakon Austbo Ingrid Kapelle
Brilliant (2005/09/27)



 最近、友達がオリヴィエ・メシアンの歌曲を歌って、見事コンクールで一位になった、というニュースを聞いてからメシアンの歌曲全集を聞き返しています(ブリリアントという廉価盤レーベルかれでているもので、2枚組で1000円ぐらいだったと思う)。あまりピンとこなくて放置してたんだけども、ちゃんと聴いてみたらかなり良い曲ばっかりでびっくりしました。友達は《ヴォカリーズ・エチュード》(1935年)という曲を歌ったらしいのだけれども、《ダフニスとクロエ》(ラヴェル)から神秘的な部分だけを抽出したような美しさです。こういう「再発見」があると結構嬉しいので、私の友達連中は私の家にあってあんまり聴かれてないCDのなかから選曲を行ってコンクールに出場して欲しい。



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 全集のなかに入ってる曲がYoutubeにもあったので、一曲ご紹介。《ハラウィ――生と死の歌》というメシアンの声楽作品の中で最も有名な歌曲集から「Bonjour Toi, Colombe Verte」という曲。この映像で歌っている歌手もピアニストもしらないんだけれど、やけに爽やかに歌いきっている気がする。エロスが足りないですが、箱庭のなかで鳥が全開で鳴きまくっているような、窮屈さが面白いです。



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 メシアンの作品に関しては以前にもいろいろ紹介してきましたが*1、またすごい映像が見つかったのでご紹介していきます。こちらは彼の歌劇《アシッジの聖フランチェスコ》という上演時間4時間以上(!)の大作より。これ、ずっと聴いてみたかったんで見つかってホントにびっくりしました。演奏は小澤征爾/パリ国立歌劇場管弦楽団、しかも1983年初演時のモノ。こんなの残ってるんですね……ちょっと生きてて良かった、インターネットは争いの道具じゃないんだ……って思いました。


 作品ですが、多くの作曲家がそうであるように、誇大妄想のごとく作品を巨大化させていく傾向をメシアンも踏んでいるように思いました。気が狂ったとしか思えない鳥の歌声の大合唱。音質が悪いせいもありますが、もはや構造的な聴取は不可能かと……。



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 サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによる《彼方の閃光》。この作品の冒頭で聴くことの出来る「一向に解決せず、上り詰めていくような和声進行」と「鳥の鳴き声を模倣したトリル音形」がやはりメシアンの特徴的な音なのでしょう(あとはリズム)。こういったメシアン独特の和音の動きを聴いていると「やっぱりこの人は教会オルガニストっぽいところがあるよなぁ」とか思います。曲の感じは全然違うけれど、ブルックナーにもそういう陶酔感はある(彼もまた教会オルガニストだ)。



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 で、こちらがメシアンが60年以上勤めていた聖トリニテ教会のオルガンを使用した演奏。曲は《主の降誕》より「Dieu Parmi Nous」。メシアン自身がこのオルガンを使用した古い録音を持っているんだけど、録音状態が悪すぎて何弾いてるのかわからなかったのがこの映像で「おお、こんな音だったのか」と知ることができて良かったです。後半のテクニカルなパッセージの連続がすげぇ。こんな神様、降りてきて欲しくない。



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 《嬰児イエスのための20のまなざし》より第6曲「御言葉によってすべては成されたり」。変拍子/ポリリズムが入り乱れたフーガによって描かれるキリスト教世界の音楽曼荼羅、といった形容が相応しい名曲です。こういうの年に一回ぐらい爆音で聴きたくなります(もちろん通しで)。メタル的/中2的感性にもグッときて、思わずヘッドバンしたくなる。



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 最後は《世の終わりのための四重奏》より最終曲。血の沸き立つような興奮とこの曲にあるような瞑想、この二面性がメシアンの魅力なのかも、とか思う。






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日本の現代音楽映像集

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 結局、武満徹についてのエントリが「武満ってやっぱり特別だよね」っていう反芻に過ぎなかったので、他にもいろんなひとがいるんだよ、ということでYoutubeからサルベージしてきた映像をガツガツと貼っていきます。最初のは吉松隆*1の《ファジー・バード》より第2楽章。



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 詳細は不明だが、細川俊夫*2の作品でコンテンポラリ・ダンス、な映像。この作曲家は武満徹以上に評価されるべき人なんだと私は勝手に思っているのだが、どうなんだろうか。



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 一柳慧の《タイム・シークエンス》。天山広吉みたいな風貌のピアニストによって演奏されているのがとても気になるんだけれど、これ私が持っているCD*3の1.5倍ぐらいテンポが速い。このぐらいの速度になるとリズムのモアレ効果がかなり気持ちよくなってくる。



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 野村誠《ホエールトーンオペラ》より「体重減らそう」。ピアノは正規の音楽教育を受けずにクセナキスのピアノ協奏曲を弾ききった伝説を持つピアニスト、大井浩明さんです。正直、野村誠の音楽を始めて聴いたとき、ここまでメジャーになるとは思わなかったです。最近の活躍ぶりを見ていると自由な作曲/音楽概念が教育を触媒にすることによってものすごくポップに開花した感じがします。



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 北爪道夫《サイド・バイ・サイド》。よくわからんですが、カッコ良いです。ラッシュのニール・パートのドラムソロみたいだ、とか言ったら怒られそうだけれども。



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 黛敏郎《シロフォンとオーケストラのための協奏曲》(伴奏はピアノ版)。黛先生ってこんなプロコフィエフの新古典主義みたいな曲も作っていたのだなぁ……っていうのが意外。日本の近代音楽ってロシア・ソ連の影響が強くて、ものすごく泥臭い曲が多いと思うんだけれども(伊福部昭とか芥川也寸志とか早坂文雄とか)、この垢抜け方はすごい。



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 おまけ。「池辺晋一郎VS山下洋輔」という貴重な映像(どうでもいいけど、やっぱ壇ふみ司会の頃のN響アワーの安定感ってすごいね!池辺先生のダジャレの強引な流し方!)。バッハの《平均律クラヴィーア曲集》第1巻の第1曲をネタに二人でセッションしています。最初の方、普通に池辺先生が楽譜通りにバッハを弾いて、山下がソロをとるだけなんだけど、途中からジャズっぽいバッキング入れたりして「さすがに、やるなぁ!」という感じです。池辺先生って良いですよね、髪形とか。






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ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』(前篇3)

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 とりあえず前篇終了。つもりにつもった諸所の問題が、一気呵成に/雪崩式に/予定調和的に/運命的に、解決へと向かっていく感じ、問題を大虐殺していく感じ、っていうのは古典作品の醍醐味かもしれないなぁ、と思います。その解決方法は、まさに「ありえない」んだけれども、その「ありえなさ」がフィクションにフィクション性を付与している――つまり、小説はありえないからこそ小説なのであって、小説にリアリティを求める、例えばある小説に対して「こんなことはありえないよ!(主人公がセックス場所に必ずミサイルが落下……とか)」と言ってしまうのは小説を読むセンスに欠いたことを表すとっても無粋な行為なのだろう……とか、どうでもいいですが。あと、400年以上前の批評空間ってどんなだったのかなぁ、とか思いつつ読んでます。





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武満徹はなぜ特別なのか?#2(言葉編((武満徹はなぜ特別なのか?#1(音楽編) - 「石版!」)))

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 「音の魔術師」と呼ばれた作曲家はラヴェルだったが、武満徹は「言葉の魔術師」と呼ばれるべき作曲家かもしれない。「作品とタイトルは詩的な関係性を持たねばならない(ルネ・マグリット)」――この箴言を遵守するかのように、武満の作品が冠する名前はどれも詩的な響きを持っている。


 彼のタイトルは、伝統的な作曲家のように「楽想、テンポ、形式を示すもの」としての機能を持たない。むしろ、そのような伝統を頑なに拒もうとするかのようにも思える(実際、彼の主要な作品のなかでそのように伝統的な命名がなされたものは、初期の《2つのレント》と《弦楽のためのレクイエム》ぐらいである。なお、《2つのレント》は後に《リタニ》(“連祷”の意)という曲に改訂された)。このような傾向は20世紀以降の作曲家が多く共有するところだから、そこまで珍しくない――しかし、後期ロマン派の交響詩や印象派から始まる“戦略”を日本で最も上手く継承し、実行したことに関して武満の右に出るものはいなかったように思う。

 冒頭にあげた映像は、《海へ III》*1の第3曲「鱈岬」。このもとになった作品《海へ》(アルト・フルートとギターのための)の初演が1981年だったのが信じられないほど、オーセンティックな美しさを備えた小品だ――漂うなフルートとハープの音像によって描かれる水のイメージは「ドビュッシー/ラヴェルの焼き直し」という揶揄を、賞賛の言葉へと変換してゆく。


 また、武満自身はタイトルに関してこんな言葉を残している。



音楽は名詞化する以前の状態であり、タイトルは正確であるべきだが、それで音楽が限定されるようなことがあってはならない。それは強い喚起性をもつべきであり、またそこに暗示のいりこむ隙をのこしておく。


 これは武満の最も有名な作品である《ノヴェンバー・ステップス》を作曲中に思索したことの記録だが、ここで示された彼の態度というのは彼の作品全般に通じて言えることではないだろうか。言葉はときに強く作用し過ぎてしまい、本来の現象から意味をそぎ落とし過ぎてしまう。武満が懸念したのは、このような言葉の強さだろう――だから武満は例えば固有名詞のように、ごく限定された意味をもつ言葉をタイトルに用いなかった(献辞的に用いられることはあっても)。武満のタイトルは「水」、「鳥」、「星」……このようなキーワードで括ることのできる普通名詞の並列によって構成されている*2。それは具体的な意味を伝達する言葉のではない。聴衆となる人々の想像力に働きかける呼びかけなのだ。リストの交響詩が実際には「交響ストーリー」であり散文的だったのに対して、武満の音楽はこのような「呼びかけ」によって「交響する詩」として構成される(武満の音楽は韻文的なのだ)。


 また、このような呼びかけは人を選ばない。それは音列操作の巧みさや新しい演奏技術の導入といった音楽の言語による呼びかけが「音楽的言語のスピーカー/リスナー」(言い換えれば、アカデミックな音楽のシステム内にいる人々)にしか届かないのに対して、武満の日常的な生活言語(文学で使われる言語)によってなされる呼びかけは音楽のシステム外へと伝わっていく――彼の特別さの非常に大きな要因であったのは、この点なのだと私は思う。


 ただ、彼の呼びかけは雄弁なものでも、淀みなく述べられる言葉では決してない。むしろ、途切れがち、かつ繊細で、リストの散文的音楽の雄弁さと明快さと比べれば、武満の韻文的音楽は吹けば消えてしまいそうな存在感しかない。だから、我々はその音に対して真摯に耳を傾けなくてはならない。沈黙に抗う武満の音に。


あの人に会いたい-武満徹

 映像は*3はNHK「あの人に会いたい」から抜粋されたものだが、ここで喋っている武満の姿を見て感動してしまったのは、武満の話す日本語の流れが彼の音楽ととてもよく似ているのを発見したことである。彼が書く文章が音楽と似ているのは前から知っていたけれども(武満の著作はどれも本当に面白い)、話し方まで似ているとは思わなかった――それは饒舌な話し方とは、とてもじゃないが呼ぶことができない。しかし、とても慎重に選ばれた言葉だ、と思う。ただ単純に、武満が吃音者であるがゆえに、そのようにしか話せなかったのかもしれないけれど。



どもることでもう一度言葉の生命を噛みしめてみる。観念の記号に堕した言葉にふたたび本来の呼び交うエネルギーを回復するために。



 ただ、私は「武満の繊細な音楽が、なぜ心を打つのか」の秘密もこういうところに隠されていると思う。



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*1:テロップで《海へ II》と紹介されているが間違い


*2:武満が好んで用いた言葉によっても彼は、ドビュッシーやメシアンと結び付けられる


*3:リクエストによる埋め込み無効のためリンクのみ紹介する





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電波にのらない電波な映像集

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 みんな大好き、あざけり先生台風きどり(id:azakeri、絶賛更新停止中!)がアップしているYoutube動画集が謎過ぎて、本日は秘孔を突かれてしまったような気分です。まずはid:KaKaさんの写真とid:robertoさんの音楽。これはホントに良い。「これだけギターが弾けるようになれれば……」と嫉妬の炎で体温が上がり、目の色は緑に変色しそうな勢い。こんな淀みなくギターが弾けるようになる日は一生ないだろうけれど、編集パワーを駆使していづれの日にか上手い具合にパクってやろうとおもいました。



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 で、ここからは謎めいた動画を紹介。音楽は以前にAGURA BOYZ JUSCO名義で発表した「ソニック・ユースっぽい感じで」というコンセプトの曲+(たぶんid:ikkiikkさんちの)猫のアグレッシヴな動画。音楽を作ったときはなんか正直「微妙かなぁ……」と思ってたけど、猫動画と一緒に再生したらなんか妙に名曲めいて聴こえてきたよ!



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 他にもいろんな「なんだよ……これ」っていう動画があるんだけど、最も困ってしまったのがこちら。Koto*1の曲に、勝手にヴォーカルを乗せた、という21世紀の空手バカボン的映像。微妙にアニメーションも追加。どうしていいかよくわからない、感動でも、不快でもない、存在論的不安を呼び起こす……そんな実存的な映像であると思います。こういう活用法にこそネットの価値が見出されるべき!こんなのいくらお金払ってもテレビじゃ見れないよ!!



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 しかしながら、同じような「テレビじゃ見れない路線」でYoutubeを活用している例にでは、id:kokoroshaの先駆っぷり/活用の上手さに適うものはやはりいないでしょう。今日改めてこちらの「當麻寺の練供養」の映像を観たけれど、度肝を抜かれたよ……*2。雅楽(神道的な儀式においてもちいられるもの)feat.お経(ザ・仏教)というアフリカ・バンバータばりのパフォーマンスをガチで激写したこの映像の価値は、200ブクマを遥かに超える勢いです。みなさん、ブクマはもちろん、張り切ってADD STARしてください。自分も今後はこういう動画をガンガン撮っていきたいと思わされる良映像。



# 大阪万博に関心を持った半田は、万博会場特有の空気を体感するために、仕事の合間を縫って愛知万博に7回訪れた。さらにそこで、マンホールや手すり、警備員などを写真に収めた。この事について半田は、パビリオンは放っておいても公式ガイドブックなどに記録されるが、それらは誰かが自発的に撮影しなくては記録されないからだ、と説明している( 半田健人 - Wikipediaより)。



 こういうニッチイズムを引き継いでいきたいと思います!




*1:イタロ・ディスコ系のミュージシャン。詳しく知りたければhttp://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20070201/p1を参照してください!


*2:動画の関連エントリはこちら





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CONNECT ’07@両国国技館

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f:id:Geheimagent:20071123141800j:image:left両国国技館史上において、初のオールナイトクラブイベントとなったCONNECT '07に行ってきた。私は結構熱い部類に属することを自認する相撲ファンなのだが、いまだこの聖地に足を踏み入れたことがなかったため、期待しながら行った*1のであるが、問題点を多々感じるイベントだった。


 まず、出演アーティストがやたら豪華(DJ KRUSH、BOOM BOOM SATELLITES、GILDAS & MASAYA、大沢伸一、石野卓球……etc)、かつチケットが格安(3000円)だったせいか、明らかに会場のキャパをオーバー。さらに運営側も国技館の使用が初めてだったせいか、段取りが悪い。以上のような要因によって、かなり会場は混沌とした状態となっていた。元からあんまり客層が良い感じではなかったのだが(全体的に年齢層が若めで、クラブ慣れしてない印象)、メインのフロアとなるアリーナはそういった感じの悪い客(っていうかロックノリのウザさ……)が一杯で常に入場規制。頑張ってアリーナにおりてもビールかけてくるヤツはいるは、女の子はピョンピョン飛び跳ねてて顔に当たりそうだは……でとても音楽を楽しめる状況ではなかった。


 それにしてもピョンピョン飛び跳ねてる女の子ってなんなんでしょうね?いろんな楽しみ方/踊り方があって良いと思うけど、多動症みたいにピョンピョンしてるコって傍から見ててすごくダサい感じしませんか?あと手拍子とか、オイ!オイ!って掛け声とかさぁ……なんか日本の音楽イベントってよっぽど洗練されてないと盆踊りとあんまり変わんないよね……。



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 閑話休題。映像は午前2時ぐらい。もはや廊下以外の行き場を失った難民たちが溢れる両国国技館の模様。撮影があんまり上手くないので詳細が全くお伝えできないが、結構雰囲気がヤバい感じぐらいは伝わるだろうか。細かく説明すると、ゴミ/ゲロだらけで、いたるところに喫煙者の姿(会場内全面禁煙)が見受けられ、セキュリティの黒人もほとんどお手上げ状態。「来年は、この会場使えないな……」という予感しかしない。一番笑ったのは、女子トイレが並びすぎて男子トイレにも女子が並んでるところに、ナンパをしにいく酔っ払いがいたことか。とにかく、相撲の聖地が汚されてるのを目にするのはあまり気分が良いものではない。



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 なんだかネガティヴなことばかり書いているけれど、クラブ仕様に改造された国技館の演出自体はかなり最高だった。アリーナの天井を取り囲むようにして設置された提灯は特に驚き。そういうところが良かったぶん、残念な点が余計に目に付いてしまったように思う。運営の問題もあるかもしれないけれど、客のマナーが悪すぎる。もう、ホント群集化した一般人ってヤクザよりたち悪い。全員ビール瓶で殴られれば良い。


 あと終始テンションが下がりっぱなしだったけど、GILDAS & MASAYAがデヴィッド・ボウイの「Let's Dance」で始まりその瞬間ものすごいテンションあがりました。3000円払って15分ぐらい楽しめたから良いかなぁ……「大きなイベントになると楽しさの基準値がものすごくあがる気がする(普通の楽しさじゃ楽しくない)」って友達が言ってたのが印象的。




*1:ちゃんこダイニング「安美」でたらふく飯を食った後に。4000円コースで「これ、かわいがりじゃねーの?」と言いたくなる量の飯が出てくる





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武満徹はなぜ特別なのか?#1(音楽編)

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 「日本の作曲家」と言われて、多くの人の頭に持ち上がってくる人物の名は「武満徹」という名前だと思う。これはたぶん世界的に考えても「日本の作曲家=タケミツ」という図式は定着してしまっている。西洋音楽が日本でも試みられたのは明治に入ってから……という歴史の浅さもあるけれど、このように「国を代表する作曲家」がバリバリの現代音楽の人だというのは他にあまり例がないような気がする(他に韓国のユン・イサンがいるか)。昨年はこの作曲家の死後10年だったため様々な本が刊行されたり、イベントが催されていたけれど、今年が黛敏郎の死後10年なのに全くそういう話を聞かないままもう終わりにさしかかっている……というのもやはり武満の特別さを物語っている。そういえば、タケミツメモリアルというコンサートホールはあるのに、マユズミメモリアル、ダンメモリアル、ヤマダメモリアル、イフクベメモリアル、マツダイラメモリアル……は存在しない(代わりにカラヤン広場やカザルスホールはある)。


 しかし、なぜこのように武満徹は特別なのだろうか――というかなぜ武満「だけが」特別なのか?ちょっとこのことについて考えてみたい。まず、彼の特別さの謎を解くキーワードとして「音楽」と「言葉」という2つのものがあげられるように思う。


 ひとつめの「音楽」について(作曲家なのでこれを取り上げなければ、そもそもお話にならないのだが)。ここまでに書いたことと少し矛盾するけれども、1930年生まれの武満は現代音楽の人でありながら「ゲンダイオンガク」の枠組みからは少しズレた作品を書いていた。厳格な調性音楽ではないにせよ、ほとんどドビュッシーやメシアンと聴き間違えそうな和声や旋律の用い方(はっきりとメロディが分かる)は、ブーレーズやシュトックハウゼンに代表される「ゲンダイオンガク」においては見られない。

 また、手法や書法へのこだわりの無さも異例のように思われる。トータル・セリエリスム、トーン・クラスター、微分音、スペクトル解析……20世紀の音楽ではこのように「新しい手法」の開発が相次いだわけであるが、武満の音楽にはこれといってそのような「手法の名前」が見られない(新しい独自の手法を開拓したわけでもない)。これは逆に言えば、武満は常にそのような手法に縛られない自由な書き方で作曲をしていたことになる。もしかしたらこれは彼が専門的な音楽教育を受けていなかった*1ということも関係しているのかもしれない。



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 ストラヴィンスキーに発見され、武満が脚光を浴びるきっかけとなった《弦楽のためのレイクエム》(1957年)より*2。実質的なデビュー作であるこの曲で聴くことの出来る官能的な美しさは、ほとんど後期ロマン派の音楽と通じている。ここには「美しさへの固執」さえ感じられる。



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 初期の作品からもう一曲。ヴァイオリンとピアノのための《妖精の距離》(1951年)という作品(タイトルは瀧口修造の詩からとられている)。色彩的で解決にいたらないピアノの和音に、メシアンの影響を強く感じる(というかこれはほとんど剽窃だ!)。こういうフランス風の美しさを武満は引き継いでいるのだが、それがなぜか「日本的な情緒」へと解釈されたのは幸運だったと思う。



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 最後に、後期のギター曲《すべては薄明のなかで》(1987年)。《弦楽のためのレクイエム》とこの作品の間には、30年のへだたりが存在している。この間に武満は作風を進化させていった、と言われているが根幹にある「美しさへの固執」はゆるぎない。手法にとらわれない/こだわらない自由な書き方(ある意味、素人的な)のなかで唯一武満がこだわっていた点は「美」だったように思われてならない。また、この美しさが武満の特別な人気の要因のひとつであったように思う。



武満徹 : ノヴェンバー・ステップス / ア・ストリング・アラウンド・オータム / 弦楽のためのレクエイム 他
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*1:このような不遇のエピソードが武満伝説を形成している


*2:この映像で指揮を振ってる人、知り合いの指揮者そっくりでびっくりした





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Murmurous Statements

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 さっき作った曲をもうひとつ。ミニマルな構造とアンビエントな音像……といえばカッコがつくけれども、あえてカッコつけずに単なる「退屈音楽(Boring Music)」と呼ぶことにする。これは実は、私の考えた概念ではない。以下は、80年代NYで活躍したギリシャ系アメリカ人の作曲家ジョナサン・ポリフォニエスによる『退屈音楽宣言』より抜粋。



本来ならば、感情を表現したり、芸術的な欲求を満たしたり、儀式などに用いたり……とそのような用途/目的において音楽はなされる。しかし、退屈音楽はそれらの目的を放棄する。退屈音楽は何も目指さない。ゆえに退屈音楽はあらゆるところに存在する。その音が退屈を呼び起こすものであれば、それは退屈音楽と化す。退屈音楽は退屈である。そのような自己言及的な閉じの中で、退屈音楽は生まれ、そして一瞬にして消え去ってしまう。退屈音楽は感動や情熱などを喚起しない。しかし、その音楽が止んだ瞬間に退屈は停止されることとなる。退屈音楽は価値を逆転させる。日常と非日常の価値を。もはや退屈音楽が演奏されているときこそが我々にとって有り触れた日常的な体験であり、その音が止んだ瞬間に退屈から開放された我々の生活はもやは日常ではない。深夜のキッチンから響いてくる冷蔵庫のノイズは、ベートーヴェンよりも退屈だ。



 この宣言には、マリネッティによる『未来派宣言』の悪質なコピーでありながら、あらゆる音楽が消費されゆく80年代の風土への警鐘ともなっている。アンビエント・ミュージック、ニューエイジ、ミニマル、ECM……これらの「美しい音楽」の数々が消費される、その過程をポリフォニエスは批判する。しかし、悲しいことに退屈音楽もまた商品として消費される運命は退けられなかった。失意の中でポリフォニエスはNYを去り、そして1999年に先祖の故郷であるクノッソス島にて亡くなる。彼が最後に聴いていた退屈音楽は、聴き終わった後も回り続けるターンテーブルが再生するチリチリというノイズだった……。





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Beijing Cafe Jungle

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 酒飲んで、ひとりで電車に乗ってると余計なことばかり考えがちなのだが、今日はずっと聴いたことあるようなないような、マイク・オールドフィールドのアルバムのB面あたりに入ってるようなフレーズが頭の中でぐるぐる反復してた。ので、家に帰ってそのフレーズを元に録音をおこなってみた。この曲をすべての周期的な反復と変拍子と退屈による音楽愛好家に捧げる(もしいたら)。





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ハウス、キシタニ、シベリウス

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シベリウス:交響曲第3番&第5番
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 朝8時に会社に行こうとすると、7時半には家を出なきゃいけない。で、そうなるともう朝がすごく寒い。息は白いし、鼻がツンとくるような空気感がある。「ああ、もう冬なのだなぁ……今年の秋はなんだかホントにいつの間にか過ぎちゃったなぁ……」とか思う。


 こうなると途端にシベリウスなんかが聴きたくなる。彼はフィンランド出身の、音楽史的には近現代の作曲家なんだけれども、名声が高まりつつあるころにちょっと田舎に引っ越して……その後はほぼ隠遁暮らしのまま世を去った、という結構謎の人。


 そういう人だけあって、作品もちょっと変わっている。普通の作曲家は年を取るにつれて、まるでどんどん言いたいことが増えるみたいに長く、規模の大きい曲を書く傾向にあるけれど、シベリウスは逆に年をとるにつれて曲は短く、規模はシンプルにしていった。構成やオーケストレーションにも独特な響きがあって、音があんまり抜け切らない、こもった様な感じがするところに「なんか田舎暮らしして人に会わないとこういう音楽を書いちゃうのかなぁ」とか思う。けれども、それは暗い方向には向かってなくて、「窓を閉め切ってストーヴをガンガン炊き続けたので、空気がこもってます」的な温度を感じる。


 交響曲第5番はそういう温度が適度で(第6番、第7番まで行くとちょっとこもり過ぎる)、特に好きだ。一言で言うと「地味」な曲なんだけども、その地味さが良い。無駄な熱さや勢いが無く、足元とかお腹からポカポカとしてくる感じがする――あと「シチュー食いてぇ……」って思う。岸谷五郎がなんかログハウスでシチュー食ってるCMみたいな、そんな感じがするからだろうか。



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 映像は件の交響曲第5番より第4楽章(演奏はエサ・ペッカ・サロネン指揮スウェーデン放送交響楽団)。





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