テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第8回講義メモ)

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否定弁証法講義
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 少し間が開いたが第8回講義を読む。この回では、前回の最後に触れられた「無限なもの」という概念について詳細な検討がおこなわれている。そこではまた、過去にこの概念がどのように使用され、あるいは使用されてこなかったのかについての反省もおこなわれている。アドルノは無限性をもったものとして芸術作品を例にあげているのだが、この部分でかなり明解にアドルノの批評がどのようなものであったのかという点が示唆されるように思う(個人的にはそこ以外にあまり発見はなかった)。内容としてはかなり軽め。以下、いつものように講義メモ。




 「無限なもの」という概念は、目新しいものでは決してない。むしろ、それはライプニッツからはじめられ、ドイツ観念論の伝統の中に組み込まれた概念である。フィヒテ、シェリング、カント、ヘーゲル……彼らの哲学ではつねに無限なものを取り扱っている。が、しかし、彼らの扱い方はきわめて大らかなものであった。「観念論において無限性というこの概念が、辛辣な言い方をしますと、一種の決まり文句、月並みなおしゃべりの類に堕している」(P.135)。彼らはみな無限なものを、無限性という概念に押し込めることによって片付けてしまっている(彼らはそれで問題を解決した、と思っていた)。しかし、問題は解決されていない。これについて、無限なものを語ることは、無限の概念を有限の形へと変換してしまうことを考えるだけでよい。


 「このことによって、その後哲学を支配することになる空疎さという独特の特徴が、無限なものについての語りに登場しました」(同)。カテゴリーの網やリストを敷き詰めていけば必ず、無限なものが捉えられ、無限な対象が所持される……というような観念論の素朴さをいまや保持することができないことはこれまでの講義の中でアドルノは何度も繰り返してきている。「そもそも哲学が何かを所持しているとすれば、哲学はただ有限なもののみを所持しているのであって、無限なものを所持しているのではありません」(P.138)。


 「体系的に哲学する」代わりに「開かれて哲学する」態度の要請。「数え上げることのできる定理の集積」(P.139)に思考を固定化するのではなく、「自らの内的欲求に従って、客観から与えられる強制的な道筋を追求すること」(同)。ここでの「開かれた哲学」もまた「体系的な哲学」の一種であることはいうまでもない。ただ、アドルノの「開かれ」がカントやヘーゲルなどの「体系」と異なっているのは、それが主観を頂点としたピラミッド状のモデルとして描かれる体系ではなく、ネットワーク型のモデルとして描かれるような体系だと言えるかもしれない。「したがって哲学は自らの内実を、切り縮められることのない対象の多様性に探し求めねばならないでしょう」(P.140)。


 芸術作品と芸術哲学の関係。「芸術作品は……それ自身において有限なもの、輪郭をもったもの、空間ないし時間のうちに存在しているものでありながら、他方ではまったく開示されえないほどに無限の意味をそなえていて、まずもって分析を必要としているものであり、そういう意味において芸術作品は、積極的な無限性といったものを提示している」(P.144)。





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ジャコモ・プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》(ベリオ補筆版)

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 プッチーニのオペラについては、学生時代「歌劇について分析をおこなう」という講義をとっていて、そのときにいくつか触れたことがあったのだが、《トゥーランドット》は初見。「イタリアオペラなんか、派手でメロディが綺麗で、メロドラマばっかりだろ?」とか誤解していたのだが、結構オーケストラの使い方や和声にロマン派末期の作曲家にあるような激しさがあり興味深かった。「これが遺作とは……プッチーニって単なる流行オペラ作家じゃなかったのだな……」と認識を新たにした次第。ルチアーノ・ベリオによる第3幕の補筆は、この不気味なほどの斬新さに不気味さをもって馴染ませるような仕事だったと思う。


 このワーレリー・ゲルギエフ指揮/ウィーン・フィルの演奏(2002年)では、現代的な演出がとられているため余計に斬新に聴こえたのかもしれない。だが、舞台装置や衣装がかなりブチ切れているところを高く評価できる演奏だ。異常なほどのスペクタル感。退屈さのかけらもなく、まるでハリウッド映画のような興奮を味わえる名演出である。難を言えば、奴隷役のソプラノ以外の役者がまったく綺麗でないところだろうか。


 「オペラは少し敷居が高くて……」とか思ってしまうのだが、逆にこういうショッキングな演出のほうが導入として適しているかもしれない。とりあえず、次に何が出てくるんだ……?という期待を寄せながら観ることが可能だし、この《トゥーランドット》の場合、多くの場面で期待を裏切らず「片手に電気ノコギリ装着のド変態(死刑執行担当の役人)」とかが出てくるので最高です。





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ピエール=ロラン・エマールの《フーガの技法》について

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バッハ:フーガの技法
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 現代音楽グループ、アンサンブル・アンテルコンタンポランのメンバーとして活躍し、現代音楽のスペシャリストとして知られる技巧派ピアニスト、ピエール=ロラン・エマールの新譜はなんとJ.S.バッハの《フーガの技法》。ドイチェ・グラモフォンにレーベル移籍第1弾ということもあり、これはかなり意外なところを突いてくるリリースだった。


 楽器指定がなされていないこの作品にはさまざまな演奏があるが、ピアノ演奏ではゾルタン・コチシュによるものの印象が強い(ちなみにピアノ演奏以外での個人的なお気に入りは、ジュリアード四重奏団による弦楽四重奏版だ)が、コチシュの演奏がロマン派的な態度で演奏に臨んだものだったのに対して、エマールの演奏はもっとシンプルな取り組みとして聴こえてくる。コチシュと違い、エマールの演奏からは「バッハ=崇高な対象」というイメージが響いてこない。むしろ、そのようなイメージをすべて取り払ったところから彼は楽譜を読み始めているのではないだろうか。


 あたかもエマールが《フーガの技法》という作品を「何の特別なところのない学生がついさっき書いてきた、いまだ価値付けられていない作品」のようにを取り扱って演奏解釈をおこなっているような、そんな軽やかささえ感じる。基本的にテンポは速く、突飛なルバートや激しい歌い方をエマールはおこなわない。エマールが彫りだしたバッハ像に、手垢がついてない印象を抱くのはそのような「解釈の洗い方」にあると思う。


 しかし、もちろんただ単に常套句的な演奏を展開しているだけではない。むしろ、態度をシンプルに研ぎ澄ましているからこそ、マニアックなところへのこだわりが深まっている点というのも存在している。例えば、ピアノの調律などについてエマールは平均律を選択せず、特殊な調律を選択しているらしい。ただ、このチューニングについては未詳。ここでエマールが純正律を選択しているのだとしたら、たしかに純正律っぽく響いているかもしれない……よくわからないが……。


 また、全体的に短くスタッカート気味に演奏されているところも印象的である。これは各声部を分解するように響かせるような効果を生み出しているのだが(しかし、これはピアノによるバッハ演奏における近年の流行のひとつかもしれない)、そこを解析/分析的な演奏でとどめておかない点にエマールの巧みさがあるのだろう。



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 バッハとは無関係だが、Youtubeにあがっていたエマールによるメシアン。圧倒的な速さ、圧倒的なパワー、圧倒的な正確さで愉悦する《喜びの精霊たちのまなざし》。





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サロン・デュ・ショコラ2008

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 今年も新宿の伊勢丹にて開催されている“チョコレートの祭典”、サロン・デュ・ショコラに馳せ参じました。この催しには昨年も参りましたが、出店しているお店の顔ぶれには特に変化はありませんでした(ベルナシオンは、今年も即完売状態)が、今年は社会人だし金もあったので去年より楽しかったです。ルクセンブルク王室ご用達のオーバーワイスのトリュフ(12個入り)と、ピエール・マルコリーニのギモーブ(マシュマロ)をチョコレートコーティングしたものを購入。オレンジの箱がオーバーワイスのもの。箱からして高級感がすげーんだよ、なんか。


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 箱をあけるとこんな感じ。小さな宝石のようなトリュフがずらり。


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 いきなりがっつりと食べるのがためらわれたのでもう一枚撮影してみました。


 オーバーワイスはアルコール度数高めのトリュフが代表作らしいのですが(確かに食べると頬が軽く赤らみそうなほどふんだんに洋酒が使用されている)、プラリネが入ってるものが特に美味しく感じました。濃厚なナッツのあとにやってくるさわやかな洋酒の風味もイイ。でも一番感激したのは、抹茶。ホンモノの抹茶にある渋みと苦味を鋭く残しつつ、チョコレートに馴染んでいる……というマジック。これは2個入れておいてほしかった……。っていうか12個全部抹茶でも良かったよ……。


 マルコリーニのやつはガッカリだったかも。「チョコレートとマシュマロの二刀流で無敵の美味しさに!」というのを想像してたのですが、口に入れようとした時点で敢え無くチョコとマシュマロが分離。口の中にはチョコとマシュマロが入っているのに、なんか単体で食ってるみたいな感じに。もちろん、それぞれピンでも美味しいんだけど「違うんだよ!そうじゃないんだよ!!『1+1は2じゃないぞ。俺達は1+1で200だ。10倍だぞ10倍!(小島聡)』みたいな夢が観たかったんだよ!!!」とか思った。





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税務が「いける!」と思ったので

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 勢いで「ソフトウェア開発技術者」も受けることに……。





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「につき」がわからない

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 大学が経済や法律系の学部でなかったため、超アウェー感を味わいながらも税務の勉強を粛々と続ける日々であります。「源泉徴収ってなんすか?」っていうレベルからはじめた私も、過去問一回分を濃い密度で勉強を続けていたら「このまま勉強すればなんとかなるんじゃないの?」という手ごたえを感じています。最初は「総合課税」について勉強してて「天引きで税金払った上に、その上、総合課税でもう一回税金払うの!?俺ら、どんだけ税金払ってんの?!」と不安になったりしましたが。


 ところで、勉強していて気になるのは、法律関係の文章と日常で触れる日本語の違いです。噛み砕けば容易に理解できる内容なのに、なんだか見た目が難しい感じで書いてあるので上手く頭に入ってこない。慣れれば上手く普段読み慣れているような日本語へと脳内で翻訳可能なのですが、ひとつだけずっと翻訳できない言葉があります。それが「につき」という言葉。これは、こんな感じで出てくる。



不動産所得を生ずべき建物の貸付について、その貸付が事業的規模で営まれているかどうかは、社会通念で判断すべきとされている。


ただし、アパート等につき室数がおおむね10室以上の貸付であれば、また、独立家屋につき5棟以上の貸付であれば、とくに反証がない限り、事業的規模により営まれているものと判断される。



 ここでの「につき」は「アパート等に関して言えば」という風に置き換えれば良い感じに読めるでしょうか。もう少し簡潔にすると「アパート等ならば」と置換可能でしょう。


 ただ、「につき」を単純に「ならば」に置き換えれば良いというわけでもないようです(だから悩ましいのですが)。別な例を出してみます。



本問においては、贈与財産の価額4000万円から特別控除額2500万円と、住宅取得等資金の贈与の特例にかかる特別控除額1000万円を排除した金額500万円につき、20%の贈与税が課税されることになる。



 この例で「につき」を「ならば」と置換してしまうと、ますますよくわからない日本語になってしまいます。ここでは「に対して」と置き換えるのが適当でしょう。でも、「ならば」と「に対して」ではかなり距離がありますよね。両者の距離を埋める良い言い換えがあれば問題は解決するのでしょうが思い浮かばず、いつまでたっても「につき」が登場するたび、コメカミがキュッとしまって「ん?なんかわかんねーぞ、この日本語」となります。


 こういう「ん?なんかわかんねーぞ」現象は他にもあります。例えば仕事してて「AはBでもCでもない」っていう条件を書かなくちゃいけないとき。私はこういうのを「 NOT ( A = B OR A = C)」っていう感じで書くんですが、これは「A NOT = B AND A NOT = C」とも書ける(ド・モルガンの法則だっけ?知らないけど)。これはわかる。でも「AはBでもCでもない」が「AはBではない。かつ、AはCではない」という感じで書かれると途端によくわからなくなってしまう(困るのは多くの場合、私が苦手なほうの書き方で説明される、ということです)。





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山中貞雄を1000円で観る

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丹下左膳餘話 百萬両の壺
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 29歳で戦没した伝説的映画監督、山中貞雄の2作品が1000円で観られるのは驚きです。『百萬両の壺』については既に観たことがあったのですが、この際なので購入。こんなに安いと映像の状態などが心配されますが、『百萬両の壺』については『日活作品集DVD BOX』として以前出ていたものと変わりがないと思います(音声も割と良好で字幕なしでも平気)。


 ただ、『人情紙風船』は結構キツいかも。こちらはセリフが聞き取りづらい状態になっている箇所が多く、集中して鑑賞する妨げになるかもしれないレベル。正直、字幕が欲しいですが1000円だし仕方ないかなぁ、というところ。あと、そういう状態で観たからかもしれないけど「遺作だから仕方ないかもしれないけど、そこまで評価する作品かなぁ……」と思ってしまった(すげぇ、救われない話だし……、タイトルからハートウォーミングな話を予想してたんだけど全然違う……)。


 『百萬両の壺』は何度観ても良いと思ったので買いです。戦前の作品でこの洗練のされ方はすごすぎる……。





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東京都交響楽団定期演奏会第656回@東京文化会館

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武満徹:《弦楽のためのレクイエム》


武満徹:《アステリズム――ピアノとオーケストラのための》


武満徹:《系図――若い人たちのための音楽詩》


ルチアーノ・ベリオ:《シンフォニア――8つの声とオーケストラのための》



 素晴らしい演奏会。このプログラムを組んだ人は、天才的な構成力と想像力をもっているにちがいない。<日本管弦楽の名曲とその源流>のテーマで、武満×ベリオという組み合わせはややねらいが外れていたかもしれないが、前半で武満徹の軌跡を辿りつつ、《系図》と《シンフォニア》という二つの「声のための」作品で繋げられた。もっとテーマに寄り添うなら、ベリオよりもメシアンのほうが相応しかっただろう(《アステリズム》には、はっきりとメシアンの足跡のようなものを聴くことができることだし)。


 集中的に武満の音楽を聴いていて改めて気がついたのは、彼の音楽における「協和」というキーワードだった。「ストラヴィンスキーに認められた……」という逸話が有名な《弦楽のためのレクイエム》は、調性感が希薄だけれど、キツい不協和音は登場しない。後期の《系図》は、かなり調性的に書かれており、かなり歌謡性も高い(しかし、論理性を欠いた詩的な作品である。これは谷川俊太郎によるテキストと上手くリンクしている)。これは「ゲンダイオンガク」として、かなり特殊な傾向にあるといえるだろう。


 3曲中では《アステリズム》がもっとも「ゲンダイオンガク」らしい作品で、音の動きが激しいものだった。ここでは明らかに西洋的な「前衛」が志向されているように思える。鋭く鍵盤を連打するピアノ独奏、大規模な打楽器群、そしてオーケストラ全体が絡み合うトーン・クラスター。このような特徴は、メシアンやクセナキスの音楽にも認めることができよう。しかし、彼らの音楽が「不協和」によって「大きな効果/強い印象」を作ろうとするのと違って、武満はあえて「効果/印象」を殺すことによって「協和」を目指しているのではないだろうか。


 この作品ではグランド・ピアノの「ふた」が取り外されるように指示が行われているのだが、これなども「協和」を強く示唆する点である――この指示によって、ピアノは反響板の役目をするものを失う。当然、その分、音量の効果は下がる。いくらピアニストが鍵盤を強打しても、その音はオーケストラのなかに溶け込んでしまう。音楽が最大に高まる部分では楽器の判別が難しくなるほど音像は不透明になり、抽象的な塊を描くように響く。《アステリズム》というタイトルは「星座」を意味する言葉だという。ここでも音と言葉がうまく協和している。


 ベリオの《シンフォニア》。前半の武満が私の仮定のように「協和」を目指したものだとすれば、後半は逆に「不協和」の極北といったところだろう(そして8人のソリストたち、ブラボー、でした。特に一番高い声の男性パートの方はブラヴィッシモ!)。レヴィ=ストロースやサミュエル・ベケットのテキストが断片化され、その断片が同時に読まれることによって、言葉は単なる音声の羅列になる(あまりに多層的になりすぎて、テキストを読むことができない)。第3楽章では、有名な過去の作曲家のテキスト(作品)が同じように断片化され、多層的にコラージュされる。今回の演奏では、特にそのフレーズが「ホンモノらしく」、そのフレーズが抜き出される前の文脈のとおりに演奏されることでさらに音楽のゲテモノ感/怪物感が高まっていた(個人的な印象だけれども、私はこの曲を聴くとカフカの短編に登場する『オドラデク』について考えてしまう)。



武満徹:ノヴェンバー・ステップス
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お知らせ

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 この試験勉強をするため、しばらくは更新頻度が落ちる、または散漫なエントリが増えることが予想されます。ご了承ください。税金のことなんか「高い」、「払いたくない」ってことしか考えたことなかったけど税金といえば - All Aboutと問題集を参考にがんばります。試験結果が優秀だとメダルがもらえるらしい(なにそれ)。



公募公社債等運用投資信託とは、その設定にかかる受益証券の募集が公募により行われた証券投資信託以外の投資信託のうち、信託財産として受け入れた金銭を公社債等で運用するもののうち一定のもの。



 ……はぁ?





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フランス歌曲探訪

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 id:redsmokeさん出演の演奏会で、ほかの出演者のかたが歌ってて「良い曲だなぁ……」って思った曲。フォーレの《秘密》という歌曲。歌っていたのは村主章枝似、つまり薄幸フェイスの女性でそこもポイントだったんだけど……(薄幸フェイスが真っ青のドレスって、似合いすぎて怖いよ!!)。



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 redsmokeさんはこちらのアンリ・デュパルクの《前世》とカミーユ・サン=サーンスの歌劇《サムソンとデリラ》からの曲を歌っていらっしゃいました。この映像だと、あんまり曲の良さが伝わらないかもしれないけれど、どちらも重くてカッコ良い曲でした。女の子がホレそうな歌いっぷりだったよ。





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中島哲也『嫌われ松子の一生』

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嫌われ松子の一生
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 おもしろかったです。おもしろいんだけどさぁ……なんか映像の色合いからして「はい、作り話ですからね。これはね。おはなしですよ、お・は・な・し」みたいに突き放されちゃうところがありました。映画でなくても良いような。「あ、あの人が出てる!」とか探しちゃう映画のストーリーとか全然関係ない楽しさも、そりゃ楽しいんだけど、なんか、それもなぁ……とゴニョゴニョ言いたくなるような感じでした。すげー面白いんだけど!(イチイチセリフも過剰だし、なんか欠落してる感じがするし、そのへんはものすごいツボで、特に武田真治が刺されて悶えてるところは爆笑してしまった。あと主人公、松子の割と重要な設定にかかわるところにホームチーム与座っていうのが気になってしかたない)でも、なんかすごく共感を求められるような押し付けがましさとかあるような気がしてさー。「救われなさ過ぎる!ゲラゲラ!!」って笑いながらみちゃった自分は、映画館に見に行かなくてホント良かったなぁ、って思った。


 音楽のクレジットには渋谷毅。この前でたソロアルバム2枚、買ったけどまだ届いてません。





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第7回講義メモ)

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否定弁証法講義
否定弁証法講義
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 引き続き、第7回講義。題目は「脱出の試み」。導入部にしつこくハイデガー批判。ここで言われている「脱出」とは、「素朴な哲学からの脱出」だと言って良いと思う(それをアドルノは哲学の課題として課していることはここまでに何度も繰り返しでてきた)。この回ではそこからベルクソン、そしてフッサールによってなされた「脱出の試み」を検討しつつ、新たな戦略をさぐっている。かなり内容が濃い。以下、いつものように講義メモ。




 ハイデガーの擬古的な性格。ハイデガーを代表とする存在論の二つの問題、これには純粋な形式主義に退化する傾向、それから偶然的な内容をもった命題に退化する傾向の2つがあげられている。ハイデガーの哲学は、「まさに自分は形式的なものではないという主張を掲げつつ、にもかかわらず、自らをもっとも上位の、もっとも中傷的なカテゴリーへと収縮させねばなりません」(P.117)。そこではすでに具体的なものという理念が念頭に置かれていて、「状況は、自らの歴史性をつうじて、かくかくであって別様ではなかったという一種のアウラを帯びており」(同)、すでに確定されたものとして扱われている。移ろいゆく性質を存在の性質として認めることによって、存在が確定される(移ろいゆく性質が失われる)という逆説。


 否定的弁証法は、このような立場をとらない。アドルノの関心は「概念を欠いたもの」にある。「ある規定されたもの――概念を欠いたものと言ってもいいですが――から私たちに何が立ち現れてくるか、すなわち概念がそこから何を取り出してくるかを、そのような概念を欠いた不透明な何かのうちに最初から見て取ることはできない」(P.120。この箇所、否定的弁証法がますます脱 構 築めいて読めてくる箇所である。同じような印象を与える箇所がこの回には頻出)。もちろん概念を欠いたものもまたひとつの概念である。この概念を欠いたものという概念は、概念によって媒介される前の、概念によって媒介された瞬間にこぼれおちてしまうものを持ったものを含んだ「何か」を指し示している。何がこぼれおちるのか、それもまた事後的にしか認めることができないものだが、そこでこぼれおちた極小のものにこそ、哲学的解釈を必要としているのだ。


 このような態度は、ベルクソンとフッサールのふたりにもみられたことである。ベルクソン→イメージ論。フッサール→本質的なもの/直観。しかし、「二つの偉大な試み」(P.126)は失敗した。両者はともに観念論的だった。ベルクソンにおいては、結局単純な二元論的性格を保持されていたこと、フッサールにおいては、その仕事が結局「古きよき分類的論理学」(同)と変わっていなかったこと、これらが失敗の原因である。「本質的なものの客観性と称されるものへ、あるいは超主観的と称されつつも主観のなかに何らかの形で設定されているあのイメージの世界へ、身を投じても無駄だ」(P.127)。これがベルクソンとフッサールからアドルノが導き出した結論である。


 しかし、脱出の課題をあきらめるわけにはいかない。また、ベルクソンとフッサールの失敗をみたとしても「脱出は可能なのだ」という信頼を捨ててはならない(そうでなければ、哲学はまったく不可能になってしまう)。否定弁証法もまた、脱出へのユートピア的信頼を保持したまま思考される。しかし、これは「概念を欠いたものを概念をもたない何らかの高次の方法と称されるものによって捉えることでは決してな」い(P.129)。むしろそこでは「概念を欠いたものを概念を媒介として、さまざまな概念の自己批判を媒介として開示すること」が目指される(同)。


 あらゆるものを隈なく論じることは、近代の哲学者たちの根本的な態度としてもたれている。つまり、無限なものを語りつくそうという理念がそこには存在していた。しかし、その態度は根本的に変えられなくてはならない。「精神の可能性とは、一点に集中しうること、一点に集中的に沈潜することであって、量的に完全でありうることではない」(P.130)のだ。また、無限の対象を最小限の概念や命題に還元することもされてはいけない(メモ。P.128でアドルノはヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては……」命題を反哲学的命題として退けるのだが、このあたりの記述を読むとヴィトゲンシュタインの態度を受け入れつつ『あえて語ろう』としていたことが明らかになるように思う)。





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新ウィーン楽派のピアノ作品

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 ひさしぶりにYoutubeで音楽映像を見ながら夜を明かす……という不毛な遊戯に耽ってしまいました……。ついでなので面白かったものをご紹介。上にあげた映像は、アントン・ヴェーベルンの《ピアノのための変奏曲》。演奏はグレン・グールド。グールドがこの作品を弾く姿は『グレン・グールド27歳の記憶』という邦題で知られるドキュメンタリ映像でも観ることができます。改めて聴くとこれ、ものすごくロマンティックな演奏だなぁ……。



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 こちらはアーノルト・シェーンベルクの《6つの小さなピアノ曲》。ミシェル・ベロフによる作品解釈も、後期ロマン派の結果としてあらわれた無調の姿を見せてくれるように思います。この後にシェーンベルクは12音技法を発明し、規則と論理の枠組みのなかで自分の音楽を構築するわけですが、無調時代の突拍子のなさも魅力的です。エネルギッシュ。



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 最後にアルバン・ベルクのピアノ・ソナタ。作品番号1番と記念すべき作品ですが、これなど完璧に末期ロマン派ですね。なんでこのピアニスト立って演奏しているのか意図がよくわからないけど、なかなか聴かせてくれます。良いなぁ、新ウィーン楽派。





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アファナシエフはいつのまにスターになったのか?

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 2008年になってもクラシック・ブームの余韻みたいなものがあるのか、書店でクラシック関連の本が目に付く。音楽の友社からはピアニストに関する記事だけを集めたムックが出ている。これはパラパラ立ち読みしただけだが、チケット発売直後にソールドアウトしてしまうような大御所&人気ピアニスト(ポリーニとかアルゲリッチとか)だけでなく、故人である古いピアニスト(一番古い人でブゾーニやラフマニノフの名前がある!)や情報が入ってきづらい若手ピアニストの情報まで網羅したなかなか読み応えがあるムックだった。また、先日新幹線に載っている間の暇つぶしに『Esquire』を買ったのだが、それにも「ピアノ音楽」の特集が組まれることが予告されていた。やはり「のだめ効果」なんだろうか。


 そんななか気になったのはワーレリー・アファナシエフというピアニストの扱いについてである。音友のムックでも最初のほうに取り上げられているし(もっともこの本はピアニストがアルファベット順に並んでるからだったりするのだが)、『Esquire』の次号予告にも彼の名が載っている。何年も彼の音楽に触れてきた立場の人間としては「これはどうしたことだろう?!」と不思議に思わざるを得ない現象だった。アファナシエフといえば「クラシック界のカルト・ヒーロー」みたいな存在だったのに……。



鬼才アファナシエフの軌跡9 リスト:ピアノ・ソナタ
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 アファナシエフはこれまでほとんど異端者扱いされてきたピアニストである。ピアノを真面目に弾いていたことがある人に限ってグールドの演奏がダメだったりする傾向があるが、おそらくアファナシエフについても同様の傾向が認められよう。異常なテンポの遅さ。この個性が、このピアニストが正統派志向からの受容されることを妨げているように思う。


 これについて彼自身は「自分の音を聴いていると、テンポが遅くなってしまうのだ。それは私にとって自然なことなのだ」と語っているのだが、演奏者以外の聴き手からすれば自然ではない。特にリストのピアノ・ソナタ。普通30分程度で演奏されるこの曲が、40分以上かけて演奏される。これは音を意識させる、というよりも音と次の音の間にある沈黙を意識させるような演奏である(ちなみにこの曲でもっとも速い演奏とされているのがアルゲリッチの録音で、彼女は約27分で演奏してしまう)。


 技巧的にもそこまで特別優れているわけではない。よく聴くと速いパッセージや激しい跳躍がある箇所で、あきらかにアコーギクとは思えないタッチのバラつきがある(これもピアニスト的聴衆から敬遠される要因だろう)。それでもなお、彼が「鬼才」としてカルト的人気を博していたのには、演奏の強い物語性があったと思う。これはむしろ音楽的センスというより、文学的センスによって読まれるべき要素である。



鬼才アファナシエフの軌跡2 アファナシエフ・プレイズ・モーツァルト
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 何より興味深いのは、彼の「誤読」とも呼べそうな音楽/作曲家解釈だ。アファナシエフは、ブラームスの、リストの、モーツァルトの楽譜から「作曲家」を読もうとしない。彼が読み、そしてあらたに描く物語が、ほかの演奏家が描くそれとはまったくことなっていることは演奏をジャケット写真にも現れているように思う。このジャケットで誰がモーツァルトのCDだと想像できるだろうか?


 一言で言えば「変人」である。その彼が、ハードコアなクラシック音楽雑誌の小さな記事ではないところで扱われていることに、やはり驚きを隠せない。これは喜ぶべき事態なんだろうか。毎年のようにちゃんと来日してくれるピアニストなので、そういう地道な活動が実った成果なのかもしれない。どうせなら、同じく「鬼才」であるアナトール・ウゴルスキにもスポットを当ててほしいとか思ってしまうが(こういうのはオタク的なわがままだ、ともいえる)。



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(Youtubeで見つけたアファナシエフの演奏。これは結構普通の演奏)





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ホルガー・シューカイ映像集

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 アドルノ関連のエントリばかりで興味のない方には大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。せっかくアンテナに登録されていても、こう興味がない話ばっかりで更新しても「正直げんなり……」でしょう。お詫びのしるしに観ていて(私が)とても和んでしまった映像を紹介いたします。上のものは1970年代より活躍していたドイツのバンド、CANのリーダーであるところのホルガー・シューカイさんが、CANのメンバー紹介をしている映像。ホルガー・シューカイの意図がよくわからんPVは他にも以下のようなものがありました。



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 ソフトな狂気具合が最高。中盤、プロテクター完全武装でローラースケートをはき、道路を滑走しているシューカイさんが映されますが、そのおぼつかなさなど涙モノです。



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 PVじゃないけど、ライヴDVDからの映像。これもかなり良い塩梅です。曲は「Der Osten ist rot」(中国国歌のマッシュアップ作品!)。1984年に発表された同タイトルのアルバムに収録されているのだけれど、このバージョンはオリジナルよりも音が太くてカッコ良い。しっかり短波ラジオも演奏しています。


Holger Czukay(MySpace)


 MySpace上の公式サイト。じいちゃんなのに新しいものに飛びついていく姿勢がすごい(何年か前は、自宅のPCの前にWEBカメラを設置して中継とかやってたな……)。今年70歳だって。





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第6回講義メモ)

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否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
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 気が付くと講義メモシリーズも第6回。講義録として残された部分では、折り返し地点まで来てしまった。第6回の題目は「存在と無の概念」。理論と実践にまつわる諸問題からすこし距離をおき、もう少し大きな考察がおこなわれる議論について語り始めている。しかし「哲学は今なお可能か」という問題からはまったく離れていない(というか、これまでの講義とかなり内容がかぶる部分がある)。ちなみに今回の部分でサルトルはまったく関係ない。以下、いつものように講義メモ。




 哲学はなお可能かについて。これは「弁証法はなお可能か」と同じ問いとしてみなされる。反弁証法的な哲学は、もはや批判的な自己省察に持ちこたえることができないのである。


 弁証法とは「哲学と異質なもの」、「哲学にとっての他者」、あるいは「非概念的なものを哲学のなかに取り込もうとする試み」である(これはテーゼ-アンチテーゼ-ジンテーゼという図式的な弁証法とはまったく趣を異とする)。ヘーゲルにおいてのそれは非同一的なものの同一化としておこなわれる。しかし、否定弁証法がヘーゲルと異なるのはまさにこの部分である。アドルノにおいては「非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握すること」(P.100)として問題設定が行われている。


 真剣に自分のことをじっくり反省することが可能な状態にある間に、人を不安にさせるような叫び(「オオカミが来た、オオカミが来た」)をあげることはイデオロギーに他ならない。しかし、このような平穏は長期的には期待できない。このような可能性のなかで、我々には「問いかける」ことについて一種の義務のようなものが課されている。「世界が変革されなかったのは、世界ががあまりに解釈されてこなかった」(P.101)からだ。


 マルクスの素朴さについて。これが「あまりに解釈されてこなかった」事例のひとつとしてあげられている。「マルクスにおいては自然支配の原理がそもそも素朴に受け入れられている」(同)――マルクスは、人間同士の支配関係は変革される、と主張した。しかし、そこでは自然に対する人間の無条件な支配はなにも変化していない。いわばここには自然支配の諸形態が、今後も純粋に存続しうることについての絶対的な信頼(信仰)である。「私は自然をロマン主義的に美化する考えに関わりあうつもりはありません」(P.101)、しかし一方で人間同士による社会的支配を批判しながら、自然支配を「無傷の形で」(同)受け入れることなどできないのだ。


 他方で、もはや我々はヘーゲルの哲学さえも救出することができない。同一化しつつ非同一的なものをものをとにかく把握しようとする試みを伴っていた弁証法という形態は、必然的に「世界はその現にある姿でそれ自体有意味である」と語ることになってしまう(『世界が精神の産物』(P.103)であるならば)。しかし、そのようなことは端的に主張できない。

 ヘーゲルにおける無規定的なものと無規定性あるいは、存在と無の同一性について。ヘーゲルは、純粋な存在、純粋な意識、純粋な空間と時間の概念とは抽象の結果として考え、無規定的なものとしてはっきりと規定されている、と主張する。そして、そうであるがゆえに、その存在は無と同一化されるのである(とてもややこしい。少し噛み砕くと、Aというものを規定するには『Aではないもの』の存在が必要である。しかし、もしAしかない世界が存在するならば、Aは『Aではないもの』との区別がつけられず、必然的に無規定的な存在となってしまい、認識ができない。ゆえにAは無となる。ヘーゲルはここでさらに、『Aが無規定的なものとして規定されている』と主張する。だから存在が可能なのであり、無と存在が同一化されるのだ、という感じ……なのか?なんかスペンサー=ブラウンもこんなこと言っているイメージがあるけど、読んだことない*1)。アドルノは、この主張のなかでヘーゲルが「無規定的なものについて語りながら、その後こっそりと、無規定的なものを『無規定性』という表現に置き換えている」(P.107)ことを指摘する。

 「無規定的なもの」。これは事象と概念は区別されていない非概念的な概念として用いられている(デリダの差延と類語として理解して良いと思う。ただし、表現として差延のように締まった感じがしない。『ヘーゲルの締まりのなさ』についてはアドルノも指摘するところである。これについては『三つのヘーゲル研究』を参照のこと)。しかし「無規定性」とは単なる概念である(痕跡である)。ゆえに、この「置き換え」は無意味なものではなく、実体の表現から概念への転換なのだ。「ヘーゲル哲学全体は元来、非概念的なもの*2をはじめから魔術的に消し去ることによってのみ、同一性に到達する」(P.108)。


 しかし、このような態度はこれまでの哲学では当然のようにとられてきたものだった。というよりも、むしろ、そのように概念を用いることでしか我々は哲学をおこなうことができなかったのである。「私たちは哲学において、概念によってまた概念について語らねばならないのです」、「哲学における重要な事柄、すなわち概念が関わる非概念的なものは、はじめから哲学から排除されることになります」(P.109)。否定弁証法とは、このアポリア的状況から抜け出ようという試みとして構想されている。




*1:っつーかスペンサー=ブラウンってまだ生きてるのか!?


*2:原文では「非概念的もの」と表記。脱字?





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第5回講義メモ)

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 引き続き、第5回講義。題目は「理論と実践について」。第4回の最後で触れられたマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」についての話から始まる。そこでは「哲学のアクチュアリティ」というテーマは引き継がれたままである。マルクスについての話が中心。以下、いつものように講義メモ。




 マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」が掲げた暗黙の要求。「人間にとって異質な制度からの人間の解放を実現することによって」「たんに精神的な反省形式にすぎないものとしての哲学は不要になる」(P.76。引用部は第4回講義の内容)。しかし、この要求は果たされなかった。マルクスの構想は、思考にとっての理論から実践への移行を示すものだった。しかし、実践への移行は歴史的に失敗したのだ――だからこそ、我々はいまだに理論を無視することができない。「なぜそれが起こらなかったのか、なぜ起こりえなかったのかについて熟慮すること、こうした理論的な問いこそ」(P.81)アクチュアルな哲学の内容なのだ。


 また「フォイエルバッハ・テーゼ」を理論と実践の単純な二分法のように解釈することも大きな誤りである。純然たる実践主義、純然たる行動主義はマルクスによっても理論の欠如として批判されていた。マルクスには科学の概念があった。つまり「社会を理論的に把握しなければならない」という意思が彼にはあったのである。「マルクスが『これまで哲学者はただ世界を解釈してきたにすぎない』と言ったとしても、この『これまで』という語において。理論の放棄が単純に唱えられているのでは」(P.83)ない。


 哲学の実現とはなにか。「哲学は実際、芸術などとは違って、自分のうちで安らいでいる自立的な形成物ではなく、つねに何らかの事象的なもの、自らの外部、自らの思想の外部にある現実と関わるもの」(P.84)である。思想とそれ自体として思想ではないものとの関係、現実についての思考の行為それ自体がすでに実践的行為なのだ(メモ。ここで哲学にとっての現実とは何か、問いを行うことができるようにも思う)。


 後半は「性急な実践主義」(当時の学生運動など)に対しての批判(というか提言)が続く。「私は多くのひとがしているような仕方で実践という概念を用いていませんし、私の用い方はきっとみなさんの多くにとって魅力がないだろうと思います。その際私が考えているのは、実践を偽りの活動性と混同してほしくない、ということです」(P.94)。また、哲学はもはや観想、あるいは素朴な仕方へと戻ることができない、ということについても繰り返される。





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ベレゾフスキーのパルテノン多摩公演チケットが安すぎる

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ボリス・ベレゾフスキー ピアノリサイタル



¥2,000



 チャイコフスキー国際コンクールの覇者の演奏を2000円で聞けるという破格っぷり。プログラムもかなり良い(メトネル、最近流行ってるのかな)。





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第4回講義メモ)

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否定弁証法講義
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 引き続き、第4回講義。この回の題目は「体系なき哲学は可能か」。それから、哲学における体系とは何かに始まり、そこから現代における哲学のアクチュアリティを問う。以下、いつものように講義メモ。この回はかなり饒舌、「アドルノ節」が全開で読んでいて楽しかった。「この要求を拒絶するような思考は、そもそもはじめから生存権をもたないと思います」(!)。




 伝統的な体系の概念について。「伝統的な哲学概念によるなら、体系でない哲学ははじめから有罪を宣告されています」(P.63)。その罪は偶然性という罪である。プラトンからドイツ観念論にいたるまで、伝統的な哲学概念が目指したものとは一つの原理から「世界全体を説明すること、あるいは少なくとも、そこから全体を生み出すことができる世界の根拠について説明する」(P.64)ことだった。しかし、今日ではこの体系が体系学に取って代わられている。


 体系と体系学との違い。「体系学とは、それ自体統一をもった叙述形式、したがって図式のこと」(同)。最も象徴的なものとしてここではタルコット・パーソンズによる「社会の機能構造論」があげられている。体系学においては、当該の専門領域に属すものすべてが、それにふさわしい場所を見出すことができる、とされている。しかし、このような体系学は、哲学によってなされる説明を単なる解釈へと失墜させる叙述法に過ぎない。


 ニーチェの反体系的思考、ハイデガーの非体系的思考、これすらも逆説的にであるが「体系の哲学」だということができる。非体系的であるとして私に向けられた批判も、以上と同様に無効となる(これは自惚れではないと思われる。『結局のところ、私が語っていることには互いに絡み合って一つの連関をなしているものがとても多くあった』【P.70】というよりも、アドルノはつねに同じことしか語っていないようにも思う)。


 しかし、現代においては体系は「もはやそれ自体として現れることはなく」、「潜在的になってい」る(P.68)。もはや、存在するすべてのものがあからさまに導き出されることもなければ、体系を産出するその本質的な概念にもたらされうこともない。これは建築術的秩序、ある真理の探究、ある根源の規定への断念である。が、その一方で「体系をいわば世俗化して、ここの洞察を結びつける潜在力にするという道」(P.68-69)を生み出している。むしろ、体系に残された道はそれしかない。ヘーゲルは「哲学はその時代を思想の形で捉えたものである」という。この言葉が告げるとおり「時代を超える真理」は断念せねばならない。


 また、ヘーゲルの言葉は「なぜ、かつては体系の成立が可能であったのか」という問いにも答えている。大きな体系が成立した時代(アドルノはデカルトからヘーゲルまでを区切りとしている)とは「見通しのきく」「中身がよくわかっている世界」だったのだ(P.73)。しかし、現代はそのような時代ではない。よって「すべてを一つの統一概念のもとに収めることができるかのような」(P.74)素朴な態度、その態度に潜む「田舎臭さ」は払拭されなければならない。「事務所で、腰掛けて紙と鉛筆とえり抜きの本を手にとって、そこから世界全体を把握できるなどと思っているような態度」に潜む田舎臭さを払拭し、「思想を哲学のもとに戻してやる道を記述」しなくてはならない(P.75)。世俗化された体系である否定弁証法はこれを目指す批判である。


 このとき否定弁証法は「体系のそなえていた力、かつて思考の形成物の統一性が全体として保持していた力を、個別的なものに対する批判の力、個々の現象に対する批判の力へ転換する」(P.71)。このとき、批判がもつ二重性について。まず、精神論的な意味での批判――命題や判断や全体としての構想の真偽についての批判。一方でこれは、現象に対する批判と関連する。「その概念を尺度として測られる現象は、自分はそんなものと同一ではない、と常に主張するのですが、そのことは同時にまた、この現象自体の正当性ないし非正当性についても語っている」(ややこしい言い回しだが、脱-構築的な『問い直し』として理解するとしっくりくるか?)。


 次回の導入。古びてしまった「フォイエルバッハ・テーゼ」について。哲学の廃絶が失敗に終わったことから、哲学のアクチュアリティを引き出すこと。





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第3回講義メモ)

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否定弁証法講義
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 引き続き、第3回講義メモ。ここでは「思考の物神化への批判」、「否定弁証法は可能か」といったことが語られている。




 否定弁証法の中心には、文字通り「否定」が存在する。しかし、ここで気をつけなくてはならないのは、我々が「否定的なもの」を扱うとき、「否定的なものが存在する」という形で扱ってはいけない、ということである、とアドルノは言う。「否定的」という概念は、「本質的に関係概念であって、それ自体で妥当するのではまったくなく、そのつど是認もしくは否定されるべきものとつねに関わって」(P.45)いる。つまり、否定的なものは、本来自立的な概念ではなく、つねに「否定的なものではないもの」との関わり合いにおいて認識されうるものなのである。にも関わらず、概念は「それに意味を与えている諸関係から引き離され」(同)、自立的な概念として扱われてしまう。我々が否定弁証法を用いて抗わなくてはならないのは、この思考の物神化なのだ。よって、否定弁証法もまた絶対化を拒む態度として現れる。そこでは「絶え間ない自己反省を責務」(P.49)としなければならない。


 しかし、「外野からはこんな主張もやって来ます。あいつが否定的な原理を自分のものにしているか、あるいは否定性を本質的な媒体と見なしているなら、そもそも何も口にしてはならないのだ、と」(同)。否定性を自分にも向けるならば、そもそも発言などおこなえないはずなのだ、と。これに対してアドルノは「思考の契機」として限定的否定(たとえ絶対的な始まりなどまったくしんじていなくとも、とにかく何かで始めなければならないがゆえに最初に設定した否定性【P.47】)を設定する。


 だが、弁証法的論理学において、否定性と同時に肯定性もまた一つの契機となりうる。そのうちアドルノが否定性を強調する理由についてはここでは触れられていない。彼は手ごろな答えとして以下のように語っている。「私はいわば素朴な民衆のひとりとして、世の中に肯定性がひたすら溢れかえっていることを知っています。そして、こんなに溢れていると、この肯定性それ自体が否定的なものとして示されることになります。この否定的なものに対してはやはりまずもって、まさしく否定弁証法という概念で特徴づけられる態度を取ることがふさわしいのです」(P.51)。


 しかし、これはヘーゲルとは異なった点だ、とアドルノは言う。「結局のところ、あらゆる否定の総括である全体は肯定的なものであって、意味、理性である」(同)と語るヘーゲルにおいては「肯定性それ自体が否定的なものとして示され」ていてもまったく問題にはならない。「たとえ自分にきわめて敵対的な概念であっても、嫌々でも自分の中に取り込んで働かせることができない概念など何一つない」(P.52)豊かな哲学としてアドルノはヘーゲルを評価する。しかし、ヘーゲルの「分析的判断でありかつ総合的判断である」という主張については乗り越えてゆかれるべき点である、とも言っている(この箇所、よく意味が汲み取れない……)。


 ここまでの流れから「否定弁証法はそもそも可能なのか」という問いをアドルノは提示する。また、この問いは、「否定の規定性(限定性)はどこに由来しているのか」という問いにつながっている。これについての「方法的な原則の一つ」は、<偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル>(P.54。スピノザの命題の逆)。あるものに対して否定的なものは、あるものが「あるものだ」と主張している当のものではない、という意味において自らの否定性を示している。ここに否定の規定性が存在している(この箇所も、よくわからん……)。


 第三回講義の最後では、ヘーゲルの「綜合」についての註釈がおこなわれている。綜合という概念についての誤解に満ちた解釈への批判。また、次回講義を先取りする形で「体系無き弁証法、体系なき哲学の可能性」にも触れられている。





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はてな親父が作った犬小屋出し

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CA330029





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ルイス・ブニュエル『河と死』

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 結局一晩でボックスに入っている3本全部観てしまった。1954年製作の『河と死』は、すっげーつまんないことでアンギアノ家とメンチャカ家の両家の間に殺し合いの連鎖が生まれて……っていう仁侠映画っぽい雰囲気漂う作品。殺された人間は河に流され埋葬され、殺した人間は河を泳いで渡り向こう岸にある山の中で隠遁生活を行わなくちゃいけない、っていう風習がある設定は社会学/宗教学的な考察が可能なものであり、また、現代劇でありながら(アンギアノ家生まれの主人公は都会育ちの医者で一族の名誉を守ることを重要視していない)決闘が許されているというメキシコの近代の特殊さがうかがい知れる……という点において最も私的に分析がし易い/意味付けが容易な一本である。


 好き嫌いで言ったら「上手くまとまり過ぎてて、そこまでグッとこない。『幻影は市電に乗って旅をする』の方が断然良い」というところ。ちなみに決闘行為は公的権力に属しない私的な暴力であるがために、暴力の中央集権化を図る近代国家において厳禁なのだろう(私刑も同じ理由でダメ)……とか言っておくと何らかの筆記試験の模範解答になるのでは、と思います。どうでも良いけど、って思いつつもこういう特殊さは「中南米って深いなぁ……」って思わされる要因の一つ。


 あとメキシコ人の顔がみんな同じに見えちゃって、同じような顔の人が出てきては死んだりするんで途中で「あれ、何回も死んでない?生き返ってる?」と勝手にマジックリアリズムを錯覚してしまう。これ冗談じゃなくて、今ならDVDを繰り返し再生して確認できるけど、昔は劇場でしか観れず、しかもリニアな流れに観客は制限されちゃってるんだからこの映画に「マジックリアリズムを錯覚する人」がいてもおかしくない気がする。


 今回初めてブニュエル作品を鑑賞しましたが3本ともユルい中毒性を持ってる作品で面白かったので引き続きボックスセットの購入をおこなっていこうかと思いました(次は『昇天峠』が入ってる『4』)。割とストーリーとかどうでも良くて、単位時間あたりの情報量があんまり多くない気がするのもタイプです。『1』のなかでは『幻影は市電に乗って旅をする』がその特徴を強く持っている。なので、今回の3本では『幻影は……』が一番面白かった。歩いてたら口の中に砂がたくさん入ってきそうな街のなかをボディの塗装がハゲまくった古い電車が走ってる絵もカッコ良いのだよな。電車は路面電車なんだけど「『路面電車いいよねー、荒川線とかほっこりしちゃうよねー』とか言ってるヤツは、全員鉄パイプでブン殴る(お前らの持ってるトイカメラもついでにブチ壊す!)」みたいな力強さがある。





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ルイス・ブニュエル『幻影は市電に乗って旅をする』

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ルイス・ブニュエル DVD-BOX 1
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 1953年製作の作品。「この電車今日で廃車なんで、担当のお前ら明日からクビな」と言われたふたりの労働者が、酔っ払った勢いで「俺らの電車がまだまだ現役だってことを見せてやろうぜ!」とばかりに勝手に電車を持ち出してしまったところからはじまる雪ダルマ式問題肥大型コメディ。すげー面白かったです。主人公たちが勝手に走らせてる電車には、いろんな人たちが勝手に乗り込んできちゃうんだけど、そこから起こるイベントの数々が「人情モノ」あり「政治的な風刺」ありと多彩。多彩であるがゆえに「ええ……すげぇ脈絡ないなぁ」という印象を抱かせるところがあるけど、むしろそこが良い。突然「アイツ、みなしごなんだぜー!!」といじめられる子どもとか出てくんだよな……(その後、いじめられっこがいじめられなくなる、みたいな問題解決は特になし)。このおおらかさ(?)がとても良い。電車はレールの上しか走れないので密室劇みたいな雰囲気もあるんだけど、出来事がどんどん通過してっちゃう感じとか結構特殊な感じもする(出来事が『伏線』として物語のレールの上に残らない、っつーか)。タイトルがえらいカッコ良いけど(アート臭いけど)、中身はめちゃくちゃ大衆路線っぽいバランスの取り方とかもツボ。


 映画の話からは離れるけど、このDVDボックスには四方田犬彦とかカルロス・フエンテスとかが書いたブニュエルに関する批評が載ってるブックレットがついてんだけど、こういうのって皆さんどうするんでしょうか。ちゃんと読むの……?





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はてな祖父出し2008

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CA330019


 今年で79歳になるそうです。最近した大きな買い物は「スプレーヤー(農薬を噴霧しながら走る乗り物。中古で60万円)」。まだまだやる気です。





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ルイス・ブニュエル『皆殺しの天使』

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 東京に戻ってきてまずしたことはルイス・ブニュエルのボックスセットを買ったことです。今年はね、私もシネフィって行こうかと思いまして「やっぱ蓮實ゼミ出身者はさぁ、ものすごく批評性が高い作品をさぁ……」みたいなことを言ってきたいと思うんですよね。ゴダールみたりとかさぁ。嘘だけど。まだ正月休みが少し残っているので、休みの間に3本全部観ます。本日はとりあえず『皆殺しの天使』を鑑賞。一言で言うと「なんだかよくわからんが得体の知れないことがおこってるっぽいぞ……」という期待感だけで映画を一本作ってしまったような快作だと思いました。ホラー映画で「くるぞ……くるぞ……」と思ってしまうショッキングな映像の「前触れ感覚」が一時間半。すげえ面白い。前フリとか一切無く給仕の人が転んじゃって、食卓を囲んでるブルジョア紳士淑女がガハハ!みたいなシーンとか最高。こういうわけわかんない作品を、シュールレアリスム映画と呼んで良いのかわかんないけど「結局最後まで何が起こっているのかわからん密室劇」として最後まで進んじゃう、謎の解けなさが良かったです。





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UNIQLOCKを見てがっかりしたこと

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 UNIQLOCKのブログパーツから音楽が流れる、っつーことを最近になって知ったんだけども、そこで流れてる音楽はFPMの作品だった、ってことを知ってがっかりした。もしこれがFPMじゃなくて、PFMだったらがっかりしなかったのかもしれないがそれについては至極どうでもいい。私ががっかりしたのは一瞬「この音楽、もしかしてランダムに変化したりするヤツなんだろうか!?」って錯覚してしまったからである。なんかピコピコいってるんで、てっきり音楽のフレーズとかリズムパートとかがモジュール化されて、それがランダムに組み合わされることによって無限大のパターンが生まれるような……そういうファンタジーで魅せてくれるブログパーツかと思ってたら違うじゃんか!


 音楽がモジュール化されて、各モジュールが組み合わせ自由になっている……というアイデアはこれまでの音楽作品にも存在している。イギリスのなんとかっていう作曲家がまさに「モジュール・コンポジション」っていう概念を提示して「CDに短い音楽のパーツをたくさん収録し、何台かのプレイヤーでそのCDを同時にランダム再生することによって常に新しい音楽が現れる」という作品を製作していたし、大御所で言えばブーレーズの(何番か忘れたけど)ピアノ・ソナタには「これはどの楽章から演奏しても良いですよ」っつー曲がある。「管理された偶然性」ね。


 こういうアイデアを考えていくのって結構おもしろくて、アイデアだけ出すんで誰か実際に作ってくれないかなぁ、って思う。UNIQLOCKはなんか適当に映像が切り替わっていくけど、音楽のパーツがランダムに組み合わせられてあたかも即興演奏がされているような時計のブログパーツみたいなの、ちょっと欲しい。ちょうど長短合わせて調性は24個あり、1日の時間は24時間ある。なので、そのプログラムは1時間ごとに調性を変化させる(各音楽パーツは、調性を意識して製作されなくてはならない)……パーツはメロディ、ベース、リズムのパートに分かれてて各パートがパーツをランダムに選ぶことによって「完璧に協和的だけど、偶然の組み合わせで成立している音楽」が鳴り続ける……みたいな。id:raurublockさんあたり、サクッとこういうの作れないっすか。





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第2回講義メモ)

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否定弁証法講義
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 引き続き、第2回講義メモ。第2回は第1回でおこなった話が「いや、そんなんヘーゲルも言ってるし、わざわざ否定弁証法って言い直す必要なくね?弁証法でよくね?アドルノいらなくね?」みたいな風に思われるかもしれないので「なぜ、否定弁証法なのか」という説明をおこなっている。




 肯定弁証法――ヘーゲルの単なる弁証法を否定弁証法との違いを意識して呼びなおすならば、そう呼びなおすことができるだろう。「否定の否定は肯定、公的的なもの、是認的なものである、ということ」はヘーゲル哲学の根底に存在している想定の一つである(P.28)。この思考過程はヘーゲルがおこなった「抽象的な主観性への批判」にわかりやすくあらわれている、とアドルノは言う。「たんなる対自存在としての主観性、つまり批判的に考える、抽象的で否定的な主観性――ここに否定性の概念が本質的に登場するのですが――が自分自身を否定し、自分自身の制限されたあり方を自覚しなければならない」。「自らの否定によって得られる肯定性(実定性)において、つまり社会や国家、客観的な精神、最終的には絶対的な精神の諸制度において、そのような主観性は自己自身を止揚する」(P.29)。我々の主観的な意識とは、それ自体ではなんら規定のされることのない抽象的な存在にすぎない(抽象的な主観性)。そして、それは自らに批判的な/否定的な存在である、社会的な客観性(他者、社会)、あるいは客観的な意識を通じてはじめて、実定的なものとなる。そうであるがゆえに、ヘーゲルは制度なるものを正当化している。「制度は不可欠であるということ、しかも主体がそもそも自己保存を行うためにも不可欠である」(P.31)。


 しかし、この点こそがヘーゲルに対する批判的考察が開始されるべき地点である。そしてその批判的考察が否定弁証法として始められるのだ、とアドルノは言う。アドルノのヘーゲルに対する批判は「否定の否定は肯定性に帰結するのではありません」(P.33)というところからはじまり、「肯定そのものをそれ自体で価値へと高めるのではなく、まさしく、何が肯定されているのか、何が肯定されるべきで何がこうていされてはなないのかが、問われねばならない」(P.36)というところに辿り着く。ヘーゲルにおいては「否定の否定による肯定」が単純に物神化されている。肯定的なものという概念自体が含んだ、「実定性(所与のもの、鼎立されているもの、現に存在するもの)」と「肯定性(肯定に値するもの、よいもの、ある意味で理念的なもの)」という二重性が充分に吟味されていないのである。


 肯定的なものとして現れるこのものは本質的に否定的なもの、すなわち批判されるべきものである――このような否定弁証法の態度を、アドルノはアウシュヴィッツ以降の哲学として想定している。そこでは「現実的なものは理性的である、すなわち存在するものには意味がある、という肯定的な想定は、もはや不可能」(P.37)だ。否定弁証法的な態度をもってでしか、我々は現実と出会えないのだ。





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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(紹介&第1回講義メモ)

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否定弁証法講義
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 読み始めました。本はアドルノの大著『否定弁証法』が刊行される前に、彼がフランクフルト大学で行った「否定弁証法についての講義録」。ただし、全25回中、前半の10回までしかテープ起こし原稿が残っていないため、講義録は不完全な状態である。それを補うように、アドルノが講義中に参照していた「講義メモ」(これを見ながら彼は即興的に講義をおこなっていたらしい)を収録している。最初「『否定弁証法』入門って売り方してるけど、このマニアックさだと虚偽表示になっちゃうよなぁ……」と思ってしまったが、読んでいてだんだん面白くなってきた。特に講義メモ部分の読解は「テオ・マセロの編集が入る前の、マイルス・デイヴィスのスタジオテイク集」を聴くような面白さ。とても面白いので以下にざっくりと要約めいたものを書いておく(ほぼ自分用)。




 否定弁証法とはなにか。それは、アドルノがヘーゲルから批判的に継承した、それ自体で理論の形をなす概念である。否定弁証法とは、いわゆる建築的な論理の道筋をたどらない。テーゼとアンチテーゼが止揚されることによってジンテーゼとなる……というような体系的思考はここでは無用である(すでにその体系はヘーゲルにおいてさえも重要視されていないのだが)。いわば否定弁証法とは崩壊の論理なのである。また、そこでは概念における矛盾が中心的な役割を果たしている。


 概念における矛盾(例証)。「私が何らかの一連の特徴や一連の要素を一つの要素を一つの概念のもとに包摂する場合、それは通常の概念形成においては、それらの諸要素から互いに共通の一つの特徴が抽出される、という形で起こります。そして、この一つの特徴が概念であると言われます。すなわち、この特徴を有するすべての諸要素を統一しているものです。さてしかし、私がこの概念のものとに包摂するとき、つまり私が、Aとはこの統一的な特徴にもとづいてその概念のものとで考えられているすべてである、と語るとき、私は必然的に無数の規定のことも一緒に考えています。それらの規定は、個々の要素において、それ自体としてはこの概念に組み込まれないものです。したがってそのかぎりで、この概念はそれが包摂している当のものよりつねに劣っています。Aであると言われるすべてのBは、つねにまた他なるものでもあって、つねにA以上のもの、述語的判断においてそれが帰属させられている概念以上のものでもあります」(P.17-P.18)。A=Bであるというとき、BはAではない……という単純な理由によって、A=Bという判断はそれ自体において矛盾に満ちていると言わざるを得ない。


 我々の生きる社会を一つのモデルとするならば、以上のような矛盾はこの社会にも満ちている。しかし、我々の社会は「それが抱える矛盾とともに、あるいはそれが抱える矛盾にもかかわらず生き延びているのではなく、それが抱える矛盾を通じてこそ生き延びている」(P.20)のだ――「どの国々においても、社会的生産の非常に大きな部分を絶え間なしに、絶滅の手段に、とりわけ核兵器とそれにまつわるものに費やすことによってのみ維持されている」(P.21)。また、矛盾は客観的現実や客体の領域を規定するものでもある。





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長谷川宏『新しいヘーゲル』

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新しいヘーゲル (講談社現代新書)
長谷川 宏
講談社 (1997/05)
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 難解な日本語に訳されていたヘーゲルの著作を、平易な文章へと訳し直し続けている著者が書く「平易なヘーゲル入門書」……なのだが、読んでいる間の感想が「ひたすら退屈」というところに落ち着いてしまうような一冊。確かに読みやすく、ややこしい話も易しく解説されているのだが、教科書的なヘーゲル解釈が延々と続いてしまって「ヘーゲルの面白さ」だとか「ヘーゲルを読む意義」だとか、もっと深く突っ込むと「現代においてヘーゲルを読むことの有効性/実際性」だとかが全く伝わってこない。ヘーゲルを面白いものとして読者に提示することに失敗しているという点に限っては致命的な欠陥を持っていると思った(これは入門書としてもやや致命的である)。また、この本のなかで著者はヘーゲルを以下のように位置づけている――「1.ヘーゲルは難しくない」、「2.ヘーゲルの思想は西洋における近代思想の代表である」。この2点も読んでいて「なんだかなぁ……」と思わされる点でもあった。


 「1.」について著者はこんな風に言う――ヘーゲルが必要以上に難解になっているのは、一重に明治以降の日本の哲学界が悪い、洋学である哲学を有難がって難解な言葉で翻訳してしまったからだ。または「ヘーゲルの社会的な生活実感は、合わせることや『和』を基軸とするわたしたちの生活実感とは、まったくちがう次元にあったといわねばならない」、だからヘーゲルは我々には難解なのだ……と。そして、ヘーゲルをまともに理解するために、著者はヘーゲルが生きた時代まで話を遡らせ、いわば“裸のヘーゲル”に向き合おうとする。それはひとつの正しい方法なのかもしれないが、ヨーロッパの哲学者だってヘーゲルが生きた時代のことなんか本当には知らないはずなのだから「我々(日本人)には難解」という理由はならないだろうと思ってしまう。そもそも「ヘーゲルは難しくない」という言い切りがそもそも無茶だろう……。


 「2.」については、著者と私の間にある「近代観」が違いすぎた。ヘーゲルが近代を代表する思想家のひとりであることについては多くの人が認めるところだ。しかし、著者がここで掲げている「近代思想」にはたぶん、平等主義やヒューマニズム、あるいは自由の大切さ……などなどのキャッチコピーが含まれているところに問題がある。ここで著者の「近代観の一面性」が充分露呈すると言ってもいいのだが、「ヘーゲルを典型とする西洋近代の思想とナチズムの思想と行動との落差は容易に埋まらない」という問いかけはどうだろうか――著者は、ヘーゲルを生んだドイツの近代が、何故、ナチズムという「反近代主義」を生んだのか、と真剣に問いかける。アドルノ読みからすれば、こんな問いかけは「ナチズムが反近代主義なのではなく、ナチズムこそ究極の近代主義のひとつの形なのであって、そこに疑問はいまさら抱かないよ」と言いたくなるところである。


 と、ケチをつけまくったがちゃんと読むと「あ、なるほどこれはこんな風に説明すれば分かりやすいか」とか勉強になるのでそんなに悪くはない……ような気もする。ヘーゲルの自然概念なんかのくだりは普通に面白かった。あ、あと新年あけましておめでとうございます。今年も昨年と変わらず、こんな感じで適当な本の感想を書いていきます。よろしくお願いいたします。





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