Miles Davis/Filles De Kilimanjaro

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Filles de Kilimanjaro
Filles de Kilimanjaro
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Miles Davis
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 マイルス・デイヴィスの『キリマンジャロの娘』を聴いた。これでテオ・マセロとマイルスが組み出して、アコースティック(スーツ着用期)からエレクトリック(変な服期)へと移行する過渡期のアルバムはほぼ押さえたと思う。このアルバムの次に『In a Silent Way』があって、ジョン・マクラフリンが参加したりするのだが、『キリマンジャロの娘』はその下準備をしているみたいな印象。異様にクールな雰囲気があって、サウンドは『マイルス・イン・ザ・スカイ*1』のときよりも楽曲がアブストラクトな感じ。『マイルス・イン・ザ・スカイ』と『キリマンジャロの娘』の録音時期は同じ1968年で、半年も違わないのだが、音楽は結構違っている。毎日何をして過ごしたらこんな風になるのかまったくもって不明。


 相変わらずトニー・ウィリアムスのドラムが大変なことになっていて燃えた(ひとりだけめちゃくちゃ忙しそう)。彼のドラム主導で音楽が盛り上がっていくのがすごく分かる。徐々に徐々に昂揚していく。そこがたまらなく良い。夜中に聴いたら確実に危ない。






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Adriana Calcanhotto/Mar〓

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Maré
Maré
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Adriana Calcanhotto
Sony/BMG Brazil (2008-06-10)
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 ブラジルの女性ミュージシャン、アドリアーナ・カルカニョットの存在はid:mthdrsfgckrさんのブログで知った。今年の夏頃に発売された新譜を今更に聴く。プロデュースはアート・リンゼイ大先生。音楽をデザインする能力に長けた人だなぁ、自分がやりたい音楽の形がものすごく見えてる人なんだろうなぁ……と思わせる仕事ぶりである(ちょっと控えめにギター・ノイズで演奏もしている)。大体このアルバムを買ってみようと思ったのも、彼がプロデュースしたという情報があったからなのだが、自分のなかで彼の存在がそのようにリスペクタブルなことになっていることに驚いたりもする。よく考えたらブラジルの音楽が特別好きなわけでもないのに。結果的に内容が好きになれたので良かったが。



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 まぁしかし、この手の音楽はどれも同じに聴こえてしまう。ボッサという音楽の形式(あるいは『これはボッサである』という固定観念)が割と厳格に定まっているせいもあるかもしれないけれど、単に知識不足、それから私に貧しい耳のせいであろう。かといって、嫌いなわけではなくて、今回みたいに「ああ、これは良いアルバムだなぁ」と思ったりする。どれも同じに聴こえるのに。なので、神のお告げだとか、気まぐれでも起きない限りボッサには手を出さない。



ほとんどのインド料理店はさまざまな方向性こそあれ、アヴェレージはみな同じようなもんで、それぞれ同じように旨い。と思ってしまう。(中略)みんな同じだ。で、じゃあ詰まらないかというとそんなことはなく大好きだったりする。(中略)この不思議な、不感症的な愛着は何だろうか。



 (菊地成孔『スペインの宇宙食』P.219-220より)そういえば、スティーヴ・ライヒの音楽についても同じように感じる。ライヒの場合は、ジョン・アダムズの曲と区別がつかなかったりもする。





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「ジャズ」

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Stardust
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John Coltrane
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 先日旧友と会うために仙台へと遊びに行ったときのこと。仙台市の有名な牛たん料理のチェーン店で食事を済ませたあと、友人は「前から行ってみたいお店があるんだ」と言った。そのお店は「カウント」という名前のジャズ喫茶で、その日初めて私は「ジャズ喫茶」という場所に足を踏み入れることになる。


 「カウント」のマスターは角刈りで初老の永六輔そっくりな方で、愛想が良いのか悪いのかよくわからないその対応に私と友人はドギマギしながら、古びた革張りのソファーに身を預け、そこにある巨大なスピーカーでジャズを聴いた。店内には、私たちのほかに常連風の中年サラリーマンや、私たちと同じように「一見さん」で来たカップルがいて、彼らが私たちと同じようにドギマギしているのが可笑しかった。


 音源は主にレコードで、コルトレーンやカーティス・フラーの演奏なんかを聴いたと思う。店の名前と裏腹にカウント・ベイシーの曲は一曲も流れなかった。スピーカーの脇に置かれた譜面台には、今再生されているレコードのジャケットが置かれていたのだが、それらはどれもどこかで目にしたことがあるものばかりだった。


 強烈に「ああ、『ジャズ』ってこういうものだよな」と思ったのはそのときである。括弧で括られ、固定観念と化した「ジャズ」。それは現在進行形で「ジャズと呼ばれている音楽」とは録音のテクスチュアからして、まったく異なっている。ただこれは「昔の方が良かった」という話ではないのだけれど、「カウント」で聴いた音は「ジャズ」という言葉にものすごくしっくりとハマッた。


 菊地成孔の作品を聴いていて、ずっと感じてしまう違和感(作品そのものは素晴らしく思っているのだが)の原因は、この「あのジャズ」と「このジャズ」が甚だしく乖離していることにあるのかもしれない。





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『アメリカの黒人演説集』(荒このみ編訳)

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 バラク・オバマが次期アメリカ合衆国大統領に選出されるとほぼ同時、素晴らしいタイミングで出版された岩波文庫の新刊『アメリカの黒人演説集』を読み終える。これは大変興味深く読めた。ここには19世紀前半の黒人反奴隷制論者のものから、最新のものではバラク・オバマによるものまで2世紀弱に渡って、様々な内容の演説が収録されている。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのとても有名な演説(「私には夢がある」)や、ノーベル文学賞受賞者であるトニ・モリスンのものなど目を引くものが多くあるが、やはりマルコムXによる演説に痺れてしまう。「投票権か弾丸か(The Ballot or The Bullet)」、暗殺される1年あまり前に行われたこの演説の模様は、Youtubeですべて聞くことができる。マルコムXの雄弁で、攻撃的で、澱みない言葉は、素晴らしく音楽的である。



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即刻、事を起こさないと、投票権か弾丸か、どちらかを使わねばならなくなる。1964年の今は、投票権か弾丸か、どちらかなのだ。時間がなくなる恐れなんてもんじゃない。とっくに時間切れになっている。



 この本を読んでいて他に面白かったのは、時代を辿って読み進めていくと、人種差別反対を主張する根拠となっているものにも変化があらわれる、ということである。


 例えば、この本の中で最も古い演説、デヴィッド・ウォーカーによる「奴隷制度のもとのわれわれの悲惨な状態」(1829年)では、白人による黒人のひどい扱いを不当だ、と示すために旧約聖書がひかれる(「エジプトで支配されていたイスラエルの民のほうが、白人支配下のわれわれよりもましだったことをさらに証明しよう」)。アメリカの白人の多くが、キリスト教徒であるにも関わらず、なぜ黒人奴隷はここまでひどく扱われているのか、不当である。ウォーカーの主張はそのようなものだ。


 しかし、19世紀後半に入ると、もはや旧約聖書は省みられない。代わりに持ち出されるのは「アメリカの繁栄は、一体誰によってもたらされたのか?(黒人がいたから、白人は今良い目を見てられるんだろ?)」ということ、そして、合衆国憲法である――憲法は人民の自由を保障しているのに、私たちは保障されていない!この2つの準拠点は、その後20世紀に入ってからも、ほぼそのまま継承されていると言って良い。


 これらの変化は、素朴で迷信深い黒人から法意識・歴史意識の高い教養深い黒人への“進化”として見られるべきではないだろう。むしろ、ここでは「アフロ・アメリカンによるアメリカ国民としての意識変化」が注目されるべきだ。アメリカの繁栄にしても、合衆国憲法にしても、それを準拠点として用いることは「我々はアメリカ人である」という声高な主張である。この準拠点の変化は「アフリカから連れて来られた人々」が「アメリカ人」になる過程を記録しているようにも思えた。





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ニコラ・ベネデッティのヴィジュアル革命

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Nicola Benedetti - The Lark Ascending - YouTube

 若手女性ヴァイオリン奏者、ニコラ・ベネデッティが最近気になっている。1987年生まれ、現在弱冠21歳にしてジョン・タヴナー*1の作品に取り組むなど新人離れした選曲センス(デビューはシマノフスキの協奏曲。そんな新人いたか?)と言い、安定感のある演奏力と言い、ここ最近男性ヴァイオリン奏者にパッとした人がいない(気がする)せいもあり、存在感が大きい。


 あと、やっぱりヴィジュアルがこの人はすごい。セレビッチ顔っつーの?割と地味顔が多いクラシック界において、この華やかさは異色である。冒頭にあげたのは、ヴォーン=ウィリアムズの《あげひばり》のPV。クラシックでPVが製作されているのも異例だと思われる。



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 こちらは来日時(2006年)の、ラヴェル《ツィガーヌ》。胸元が大きく開いたドレスが、演奏をより煽情的に響かせる。素晴らしいおっぱいだ……。このとき、まだ10代かよ……。



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 さらに2004年のシマノフスキ。顔は今と比べるとちょっと垢抜けていない感じがするが、演奏は堂々たるもの――というか、かなりの名演だ。なぜ、彼女がこんなマニアックな作品に取り組んだのか大きな謎が残るが、おそらく彼女が演奏していなかったなら聴く機会がなかったという人も多いだろう……ということで良い仕事。さすがにヒラリー・ハーンのような衝撃、とまではいかないが、地に足が着いた演奏にはどれも好感が持てる(メンデルスゾーンの演奏も、奇をてらうところのない正統派、という感じで良かった)。いずれにせよ、まだまだこれからの演奏家なので今後、どういう成長を遂げるのか楽しみだ。



Nicola Benedetti Plays Szymanowski, Chausson, Saint-Saëns

Deutsche Grammophon (2006-04-04)
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Nicola Benedetti plays Mendelssohn, MacMillan & Mozart

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Nicola Benedetti Plays Vaughan Williams and Tavener

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*1:ビョークとも競作があるイギリスの現代音楽家





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古川日出男『聖家族』

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聖家族
聖家族
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古川 日出男
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 古川日出男の最新作。舞台は東北、奇しくも実家(福島県)から帰ってくる新幹線のなかで読み終える。800ページ弱、2段組の超ボリューム。これを読んでいた姿を見た私の母が「あんた、国語辞書なんか読んで、なにしてんだい?」と問いかけたほどの圧倒的な分量で綴られた、汎東北的な神話。『ベルカ、吠えないのか?』でも見られた血縁関係の系譜学的ストーリーは「すわ、中上健次か!すわ、ガルシア=マルケスか!」と思わずにはいられない……のだが、これはちょっと収まりが悪い感じの読後感でものすごく残念な気になってしまった。


 前半は青森県の「狗塚家」の血筋について語られ、後半では福島県の「冠木家」の血筋について語られる。東北の北端と南端にある一族の物語が、交流し、循環するようにして物語は閉じる(あるいは閉じない。循環なので)。けれども、後半の「冠木家」の方のエピソードが不足しているようで、かなりバランスが悪い。単純に量の問題なのか、原因は微妙だけれど(なんか魅力的な登場人物が出てこないし……)、バランスを取るためにあと400ページぐらい必要な気がした。


 しかし、前半のロードノベルの形式を取った部分は本当に面白い。読んでいて震えが止まらなかったぐらい。狗塚家に生まれた兄弟が東北を巡り、そのほかにも東北各地の観光地を舞台にしたショートストーリーが挿入されるこの部分は、ほとんど「観光小説」と言っても良いぐらいである。「この小説を読むとダブリンの街が歩ける」と評されたのは、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』だったろうか。小説のなかでは「地図」が重要なモチーフになっているのだが、この小説自体が地図として読むことが可能であると思う。


 また前半部分では「父と息子」という神話的なモチーフも前面に押し出されている。互いに無視しあう父と子(しかし子の方では、父を意識せざるを得ない)との関係性は『海辺のカフカ』も髣髴とさせるのだが、古川日出男の場合、父殺しを描かずに、息子が父を完全に忘却する(交流を断念する)ということによって息子が父を乗り越えることを描いていた、と思う。必然的にそれはカタストロフを回避する。結局のところ、この回避が後半のグダグダ感にも繋がっているような気もするのだが……。


 「妄想の東北」、これもまた作中に何度も登場するフレーズである。これは東北人として思うところがある言葉だった。東北ってソフィスティケートされた観光地と田園風景ぐらいしかない、何もないところだと個人的には思っている。だから、妄想を抱かなければ神話は描けないのだ、とこの作品を読みながら考えてしまった。熊野や南米のように自然と神話が立ち上っていかない、東北とはそういった土地であると思う。





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紗矢香、お前は美しい……けど

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チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
庄司紗矢香
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 所用でこの3連休は実家に帰ってきているのだが、用事が済むととくにすることもないので実家でビールを飲みながらテレビばかり観ている。大相撲とか(優勝決定戦、久しぶりに熱い一番だったなぁ……モンゴル人力士のガチファイトってなんであんなに面白いんだろう……)。実家には大きな液晶テレビがあって、これでテレビを観るのは結構楽しい。BSも入るので、映画もクラシック番組もたくさん観れる。それでさっきはヴァイオリンの庄司紗矢香によるチャイコフスキーの協奏曲を聴いていた。オーケストラはサンクトペテルブルク響、指揮はユーリ・テミルカーノフ(しばらくぶりにこの人の顔を見たが、なんか老け込んでて誰かわからなかった。あと黒田恭一も老けたなぁ……あれじゃタダの偏屈なジジイだよ……)。


 ちょうどこの演奏(今月の7日)は生中継をFM放送で聴いていたのだが、とにかくどっしりした安定感ある演奏で、まだ25歳だって言うのにほとんど巨匠みたいな演奏ですごかった。映像で観ると、ホントにヴァイオリンがヴィオラに見えちゃうぐらい小柄な体格なのに、どうしてあんな演奏ができるのか本当に不思議だ(それから、最近またちょっと綺麗になったよね……)。彼女の先生はダヴィッド・オイストラフの弟子だったザハール・ブロンということもあり、彼女の演奏に「オイストラフの若い頃ってこんなだったんじゃなかろうか」と今は亡きソ連の巨匠の幻影みたいなものを見てしまうほどである。豊かな音色と、書かれた楽譜のなかにある遊びの部分を目一杯使った自由なルバートの感覚は、とても健康的だ。


 とはいえ、ずっとこういう演奏を続けられるのも心配な気もする。庄司紗矢香、あまりにも健康的で、あまりにも正統派で、あまりにも真面目で、素晴らしい演奏過ぎるのだ。そこにはブレがほとんど感じられない。ここにはたぶん庄司紗矢香という演奏家の慎重さもあると思う。パガニーニ国際コンクールで優勝し、国際的なデビューを果たしてからもう10年近くの歳月が経とうとしているのに、まだ、彼女が発表している録音は4枚しかない。もちろん、演奏会で弾くレパートリーには、もっともっと多くの作品が加えられている――そして、その演奏は素晴らしい。でも、録音はしない。マジで自分が納得いく形になるまで録音はしない、そういうポリシーを持って活動をしているんじゃないか、と思う。想像だけど。だから、彼女の演奏はブレがない。熟慮と訓練によって、ブレは極限まで削ぎ落とされている。


 けれども、そこからは「狂い」もまた失われてしまう。だから、ゾクゾクくるような、理解を超えたような演奏は聴けないのではないか、と心配になる。嫌な言い方をすると「このままじゃ、天才的に良く出来た優等生で終わってしまうんじゃないか」と。彼女が出演する演奏会に行ったら、とても満足して会場を後に出来ると思う。それもかなりの高確率で。「あー、良かったねぇ……」とニコニコしながら帰りの電車に乗ったりできるだろう。でも、びっくりはしないんじゃないかな、という想像もできる。「うわー……なんかすごいもの聴いちゃったよ……」とはならなそうである。そして、こういう期待感がないとなかなかチケットを取って生で演奏を聴きたい、という風にはならなくなってしまう(とくに郊外に住んでいたりすると)。


 なんだかものすごく贅沢なファンのワガママを書き連ねてしまったが、来年の1月に来日ツアーをするそうなのでこれは聴きに行っておきたい。結局、行くのだ(好きだから)。来年は年始からサントリー・ホールで(追記;鎌倉芸術館にしました)紗矢香タン、ハァハァするぞ!





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上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』

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スピノザの世界―神あるいは自然
上野 修
講談社
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 このスピノザ入門本。思想系の本を読んでいるとまれにスピノザの名前が出てくることがあり、いつか読もうと思っていたのだが、これはかなり面白かった。「スピノザは、ほとんど困惑させるほどまでにミニマリストなのである。(中略)ごちゃごちゃ言わず、ただ、できるだけ速やかに事物自身の語りに到達する(P.10)」だとか「いま・ここにある世界は必然的であって、現にいま・ここにそうなっているのだから、それ以外にはありえなかった」だとか、まるでアドルノと正反対だなぁ……と思う。


 アドルノほど「ごちゃごちゃ言って、事物自身の語りに到達しない(そして事物自身は語らない)」スタイルの思想家はいなかったろうし、アドルノほど「いま・ここでそうならなかった可能性」に過敏だった者もいなかった。アドルノは『否定弁証法講義』において<偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル>と述べる。これはスピノザの出した命題を逆にしたものだ。だが、アドルノとスピノザの思考がまったく相容れないものか、というとそうでもない――というかスピノザの用語を用いて、アドルノの音楽論を説明すると個人的には結構しっくり来てしまうところがある。同じように、デリダの用語を用いて、アドルノの音楽論を説明することもできるのだが、こちらよりも上手く馴染む気がする。


 スピノザの言う実体(無限の存在)と様態(実体を限定したもの)の関係性と、アドルノの楽譜(書かれたもの)と演奏(書かれたものを限定したもの)の関係性は上手い具合にマッピングできる気がする。楽譜はいかようにも読むことが可能である。そこには無限の可能性が存在する。演奏とはその無限の可能性の一部を切り取って、現実に鳴る音にする行為に過ぎない。このとき、切取られなかった部分については捨て置かれることとなる。楽譜=演奏という結合は、不可能である。楽譜はすべての属性を持つが、演奏は楽譜が持つ属性の一部しかもたない。楽譜という全体があり、演奏という部分がある(演奏のなかに楽譜があるのではない)。以上の図式は、そのまま音楽と批評の関係性にも当てはめることが可能である。音楽のなかから、意味を探ろうとする批評は、音楽のなかから一部の属性を切取る行為に過ぎず、音楽と批評は一致しない。アドルノにはつねにこの同一となることへの断念がある。なので、偽りの同一性を厳しく批判していた。


 かなりとっちらかったメモ書きみたいになってしまったが、会社に行く時間なので、ここでおしまい。最近はまたアドルノについて少し考えています。全然、本の内容に触れられなかったので最後に、スピノザはどんなことを言っているか紹介しておくと……。



己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えておけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。



 以上は立川談志が弟子の立川談春に語った言葉だが、大体スピノザも同じことを言ってる、と思う。つまり談志はスピノザなのだ。たぶん。





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THE WHO@日本武道館

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Endless Wire
Endless Wire
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The Who
Republic (2006-10-31)
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 ザ・フー初の単独来日公演を観に行ってきた。とはいえ、このバンドに大した思い入れがあるわけではないのだが(アルバムを2、3枚よく聴いていたって程度……)、ホントに聴きに行って良かったな、という素晴らしい内容のライヴ。セットリストには最新アルバムからの曲もあり「やべぇ、まったくしらねぇ……」という感じだったけども(他のお客さんも結構冷めた感じ)、曲自体は良い曲が揃っていたので予習して行ったらもっと楽しめたのかなぁ、っていうのが個人的に残念。本当に良いバンドっていうのは、曲なんか知らなくても楽しめるんだよな、って思って「ザ・フー、すげぇなぁ……」という感じだった。ジジイが腕をグルグル回しながらギター弾くだけで客が盛り上がるバンドなんか無いよ……。


 チケットを取ってもらった友人のおかげで、かなり良い席で見れたんだけども、ロジャー・ダルトリーのマイクをブンブン回すアクションも映像で観るとかなりカッコ良いのに、生で観るとそこまでじゃなくて、しかも結構動きが緩慢で……というのも良かった。緩慢さは年寄りだから当たり前だけど、全然だらしないところが無くて「プロだわ……この人たち……」と感心する。あと、ザック・スターキーのドラムが爆音だったのも感動した。





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ケータイ小説『すべてを押し流す水の流れ』を更新しました!

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ケータイ小説『すべてを押し流す水の流れ』第28話


 前回の更新が3ヶ月近く前……。途中で短編を書くのに一生懸命になってしまい、ほぼ書き進めるのを放棄していたのですが、ふと書きかけの文章を読んでみたら「あれ……自分で読んでちょっと面白い……」と思ってやる気になったので続きを書きました。ケータイ小説『闇夜(やみよる)』のid:nowhere_personこと、覆面作家、村上F春樹先生に負けないようにこの続きも書けたらなぁ……と思います。





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カールハインツ・シュトックハウゼン《グルッペン》

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 Youtubeを観ていたらカールハインツ・シュトックハウゼンの《グルッペン》の映像が見つかった。こちらは3つのオーケストラを使用して、音を塊として操作する……云々というトーンクラスター技法の先駆けにもなった、と評される作品である(確か近藤譲があまりの難解さに『現代音楽はもう終わった』みたいな発言をしていた気がする)。とにかくギネス級の規模の大きさであるが、こちらの演奏は3つのオケを指揮する3人のメンツがすごい。サイモン・ラトル、ジョン・カレヴェ、そしてダニエル・ハーディング……と横綱みたいな人たちが揃っている(1998年の演奏、ダニエル・ハーディングが美青年過ぎてやばい。当時まだ23歳!)。


 この作品をBBCフィルハーモニックを今年演奏していて、それを生で聴いた友人から話を聞いたのだが、演奏会場で聴くと(視覚的にも)かなりすごいらしく、会場のロイヤル・アルバート・ホールのアリーナ席にもオケが一杯配置されていて、マリンバ奏者の隣にお客さんがいる……みたいな感じらしい。この映像でも観ていて相当すごいのだがやはりモノラルの音源では作品の内容は10分の1も伝わらない気がする。もうすぐシュトックハウゼンが亡くなって1年が経とうとしているが、日本でも演奏される機会がないかなぁ、と思う。



Stockhausen: Gruppen; Kurtág: Grabstein Fur Stephan Stele

Deutsche Grammophon (2008-09-30)
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 録音ではこちらのクラウディオ・アバドの演奏が有名だが、近年はもっと良い演奏がある、とのこと(たしかミヒャエル・ギーレンが指揮したものだったか……?)。DVDオーディオだのSACDだの最近では高音質・多チャンネルで再生可能なメディアがいろいろあるけれども、本当のところ、こういうものこそ録音して欲しいなぁ、と思う。まだ、多チャンネルでの再生環境を持ってないけれど……。





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J.G.バラード『太陽の帝国』

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太陽の帝国
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J.G.バラード
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 J.G.バラードの作品を初めて読む。『太陽の帝国』は、この上海生まれのイギリス人作家が、太平洋戦争下の上海で体験した出来事を基にした半自伝的小説のこと。「SF作家」として語られることの多いこの作家への導入が、この作品で妥当であったのかどうかは分からないがとても面白かった。日本の侵攻によってそれまでの上流社会的な生活を奪われ、混沌へと投げ込まれたひとりの少年の視点から描かれた「世界の崩壊」は耽美なまでに美しく、また、少年が抱くアメリカや日本への憧憬の無垢さに心を打たれるものがある。1987年にスティーヴン・スピルバーグによって映画化されているそうで、機会あればそちらもチェックしたい、と思った。主人公の少年を演じているのは子役時代のクリスチャン・ベールだとか。作品中には「自分が中途半端に覚えた手旗信号を、日本の兵士に送ってしまったら戦争が始まってしまった!どうしよう!!」と少年が罪悪感に苛まれるシーンなどがあり、こういった世界と私が短絡的に結びついている幼年期特有の思考描写もとても良かった。


 しかし、かなり救われない話である。この荒廃した世界の描写は、スティーヴ・エリクソンにも影響を与えていると思うのだが、エリクソンは一貫して愛を描いているのであり、それたとえ狂った誇大妄想のようなものであっても、最後には一応の決着がつく。しかし、『太陽の帝国』においては、そのような終止があるわけではなく、すべてが変ってしまった(元には戻れない)、という寂寥感のみがある。主人公の少年は、理解をしてくれる相手を失ったまま生きなくてはならないのだ――日本の外国人捕虜収容所においても、彼は理解者を見つけることができない。日本の軍人や同じ収容所に捕まっているアメリカ人はもちろんのこと、国籍を同じにするイギリス人からも上海生まれ(本国を知らない)という理由で、彼は徹底した他者として扱われる。日本に2つの原爆が落ち(長崎に落とされた原爆の光を少年が見るシーンがあるのだが、そこがものすごく美しくて良い……)戦争が終わり、混乱の中で離れ離れになった家族と少年が再開しても、戦争の間に起こったさまざまな出来事によって、再開した父と母は別人のようになっている。元いた(幸福な)世界に戻ることは不可能で、少年の周囲にある世界は戦争が終わったあとも崩壊したまま、荒野のまま、持続されてしまう。このしんどさはもうなんか……。





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感性と解釈;サンソン・フランソワのピアノ演奏から

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Chopin: Piano Works
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 ふとしたことがあってサンソン・フランソワが演奏したフレデリック・ショパンの作品を聴きかえした。私はこの20世紀に活躍したフランス人のピアニストがとても好きである。まず、なんと言っても顔が良い。脂肪分が高そうな食事とワインによって豊かに蓄えられたであろう頬の肉と、口の上に乗っかった品の良いお髭はまさに「厭らしいフランス人中年男性(すごく精力絶倫)」といったイメージを見事に具現化したようで、言葉の意味はよく知らないが彼の顔を見ると「エスプリ」という言葉が頭に浮かんでくる――そんなことはかなりどうでも良いのだが、これまで漫然と聞き流すばかりだった彼のショパン演奏をじっくりと聞き返したところ、あまりのすごさに腰が抜けそうになってしまった。


 とくに彼の《4つのバラード》は、聴いていると体の中でふつふつと血が沸くような思いに駆られる。録音されたのは1954年で、音質はかなり悪いのだが(モノラル録音)、軽い砂嵐のようなヒスノイズの中からでも、彼のトーンの美しさは分かる――どんなにテンポが速かろうが、その音色は決して濁らず、常にエレガンスを漂わせているのだ。しかし、この演奏のすごさは強烈なストリンジェンドやルバートによって生まれる波打つようなドライヴ感にあるだろう。鬼気迫る勢い……だが、それをさらっと弾きこなしているような余裕さえ感じる。まさに天才のみに許される別世界の音楽、という風に思う。



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(フランソワによるショパンの「ワルツ」第11番)しかし、そこにはまったく正統性だとか論理性といったものは感じられない。はっきり言ってかなりむちゃくちゃな演奏だ。これはショパンに限らず、彼の演奏全般について同じことが言える気がする。しかし、むちゃくちゃな演奏にも関わらず、それらは素晴らしい演奏だと断言することができる。おそらく現代のピアニストで彼のように演奏できるのは、マルタ・アルゲリッチぐらいのものだろう。ほとんど「のだめカンタービレ」の世界と言っても過言ではない。ショパンの楽譜はここでは解釈されるものではなく、フランソワの感性が音として現実に現れるための媒介に過ぎない。論理的に組み立てられた解釈ではなく、気まぐれによって常に揺れ動く感性をフランソワのピアノには感じる。



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(フランソワによるクロード・ドビュッシーの《喜びの島》)感性的な演奏行為、これは現代においてとても難しいものとなっている気がする。おそらく現代のピアニストは、フランソワのように素朴に演奏することを許されていない。解釈とは、素朴に演奏することができなくなった演奏家の苦しい模索を意味する言葉なのかもしれない。





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THE SEA & CAKE『Car Alarm』

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Car Alarm
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The Sea and Cake
Thrill Jockey (2008-10-21)
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 先日、渋谷のHMVに足を踏み入れたときのこと。そこで洋楽コーナーに行ってみたら、試聴機に入れられてプッシュされているバンドの名前にまったく聴き覚えがなく「やべぇ……ロックのことが全然わからなくなっている……」と思ったのだけれども、まぁ、一通り試聴してみて「こういうのが今流行っているんだなぁ」と漠然と現代系のロックのことを捉えようとするのである。大体にしてそれらの漠然とした把握は、「これ、私はダメだ……」なんてハマらないことが多くて取り残された!みたいに寂しくなる。が、THE SEA & CAKEのアルバムは良いな、って思った。全然新人じゃないが。



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 いわゆる「シカゴ音響派」として語られている人脈によって結成された、このバンドの音源を聴くのは実は初めてだったが、ポストロックの方法論でド直球なポップ・ソング製作をするとこういう音になるのだなぁ、と思って今更ながら(バンドは今年で結成15年だという)ハッとさせられるものがある。まぁこうして「シカゴ音響派」だとか「ポストロック」などという言葉だけで、想像される音に居心地の悪さを感じてしまう人もいると思う。っていうか、私もそういう音の佇まいからして叙情系、っつーかエモい(?)みたいなバンドってとても苦手で(すげー居心地悪いんだよな)、そしてこのアルバムに収録されてる音ってそういう居心地が悪い音なんだけども、なんかその居心地の悪さを突き抜けて来る楽曲の良さがある気がする。


THE SEA & CAKE(MySpace)





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「巨匠ピカソ愛と創造の奇跡」@国立新美術館

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Pen (ペン) 2008年 10/15号 [雑誌]

阪急コミュニケーションズ



 本日は国立新美術館へ。この新しい美術館へと初めて足を踏み入れたんだけれども、黒川紀章ってすげーのなぁ!って思った。晩年、都知事選に出馬してるのを見て「何この人、なんかサイコな人なの?」とか思ってたけど、ホント、カッコ良い建物を作ってたんだなぁ……なんかサイバーパンクの世界みたいな空間だった。


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 で、お目当てはサントリー美術館との共同開催のパブロ・ピカソ展。画家の生きた時代を作風の変遷で区切った展示は、ひとりの天才が生涯続けた模索のプロセスを覗くことができてとても興味深かった。時代によって、キャンバスに描かれたものの雰囲気はまったく異なっている。しかし、そこにはそれまでに描いてきたものの要素が強く残されているのが見てとれる。変化のなかには、連続性がはっきり表れているのだ。ピカソのように作風を変え続けた20世紀の芸術家に、音楽界ではイゴール・ストラヴィンスキーがいるけれど、彼の音楽の変化には果たしてそのような「線」が見出せただろうか、と絵を眺めながら思う。パリで出会ったストラヴィンスキーとピカソは親友とも呼べる関係だったと聞く。そのせいか、彼らを併置して語るものは多い――そしてこのとき、彼らとアルノルト・シェーンベルクは対照として置かれるのだ。



ストラヴィンスキーは、音楽史の終焉をクールに見定めつつ、あえて変則技を使って、なお残されているわずかな可能性を汲み尽くそうとした人だった。それに対して、もはや誰一人自分に耳を傾けてくれる人がいない荒野へ踏み出そうとも、断固として音楽史を前進させようとしたのが、シェーンベルクである(岡田暁生『西洋音楽史』より)



 ピカノの絵の変化のなかに見出せる連続性を考えれば、むしろピカソはストラヴィンスキー側にいる人間ではなく、シェーンベルクの方に近いのではないか、と絵画にはほとんど門外漢でありながら考えてしまう。ピカソに自らの手法によって、絵画史を前進させようとするような誇大妄想的な意思があったかは定かではないが、おそらく変化は常に自分の絵の「前進」であったのではなかろうか。他者からの評価がどうあれ、「過去よりも今の絵のほうが良い」という強い確信があったのでは、と邪推してしまう。もしピカソがそのような態度で創作に向かっていたのだとしたら、同じカメレオンのような変化かもしれないが、ストラヴィンスキーとはまるで異なったものだったと思う。





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大井浩明のベートーヴェン全集プロジェクト

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ベートーヴェンフォルテピアノのためのソナタ集 Plaudite Amici V
大井浩明
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 ベートーヴェンのピアノ・ソナタについては、基本的にバックハウスが演奏した全集と、ホロヴィッツやリヒテルの名演奏が残されているいくつかの曲を押さえておけば事足りてしまうんじゃないか、と思っている私だが大井浩明によって進められている「全集プロジェクト」には思わず食指が動いてしまった。何せ「ベートーヴェンが作品を作曲した当時のフォルテピアノによって演奏する」という極めて個性的な演奏である。しかも、リスト編曲による交響曲のピアノ版もすべてカヴァーするのだとか。やはり、独学でクセナキスを演奏するまでに至ったという異色のピアニストだけあって、やることが違う……。


 10月末にリリースされた全集の第1弾では、《月光》が収録されているものを一枚購入した。よく考えたら、現代のピアノではない古楽器で演奏されたベートーヴェンを聴くこと自体初めてだったのだが、この1800年頃のフォルテピアノを再現した楽器による演奏を聴くと、現代のピアノ(スタインウェイとかヤマハとかが作ってる黒くて大きいあのグランド・ピアノ)がいかに洗練された楽器であるのかが分かる。これは新鮮な体験だった。フォルテピアノは音域によってかなり音色も違って響くし、何か少し不恰好な、エレガンスに欠いた趣がある――しかし、それがベートーヴェンのイメージと合っている、と思えなくもない。


 今のところ、この「新しい響き」を楽しむ段階に留まっているのだけれども、続きが楽しみだ。





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ブーレーズの新譜がモーツァルト!とベルク!

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Mozart/Berg 13
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 まさか21世紀になって“あの”ピエール・ブーレーズがモーツァルトの新録音を出してくるとは思わなかった。しかも、カップリングがアルバン・ベルクの《室内協奏曲》というのだから、ついに気が狂ったのか、ボケたのか……と心配になってしまう――この誰も思いつかないであろう組み合わせについては、ブックレットにおいて語られているので気になる方はチェックされたし。ベルクの《室内協奏曲》のソリストとして招かれた内田光子(ピアノ)とクリスティアン・テツラフ(ヴァイオリン)を交えたインタヴューはとても読み応えがあり、「ベルクと最も似ている作曲家はシューマンだ」と語る内田の鋭い視点などにはハッとさせられた。いつか内田が語る音楽論集が刊行されたらぜひとも読んでみたい。きっと彼女の音楽と同様、彼女にしか語ることのできない文章になるだろう。


 しかし、さすがのブーレーズである。ここで聴くことのできるモーツァルトの《グラン・パルティータ》の斬新な解釈と言ったら、従来のモーツァルト像をことごとく打ち壊すような破壊力だ。とにかくモーツァルトの天才が輝くような、生き生きとした音楽の動きは抑制……というか抹殺されていると言っても良いレベルであり、生きたまま凍り付けにされたようなモーツァルトが展開されている。これを普通のオーケストラで演奏したら、退屈で聴けたものではないだろう。ブーレーズの手兵、アンサンブル・アンテルコンタンポランの管楽器奏者たちが奏でる演奏があってこそ、ブーレーズのモーツァルトは破壊力を持つ――ここまで瑞々しい木管楽器の音色が収録された録音もこれまでに無かった、と思えるぐらい、彼らの演奏は素晴らしい。また、本来、コントラバスで演奏されるパートをブーレーズはコントラファゴットで演奏させている。これが音色の統一感をさらに高めており、音量的にはそれほど大きくないであろう13人の管楽器奏者の合奏を圧倒的な存在をもって響かせる。クレジットはないが、このコントラファゴット奏者がむちゃくちゃに上手い……。


 そして、ベルクの《室内協奏曲》だが、こちらは打って変わってベルクを後期ロマン派の系譜へと位置づけなおすようなロマンティックな名演奏――甘美になりすぎず、研ぎ澄まされた美しさは、ブーレーズのマーラー解釈にも似て、肌の裏側がざわめくような感じがする。ソリストの内田とテツラフももちろん素晴らしく、特に内田のピアノはベートーヴェンやシューベルトの演奏よりもずっと素晴らしく聴こえてしまう――個性的な指揮者と組んだときに、彼女の個性と指揮者の個性がぶつかりあうところは、やはり素晴らしく刺激的である。





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菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール『記憶喪失学』

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記憶喪失学
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菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール
ewe records (2008-10-29)
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 菊地成孔の新譜を聴く。これはもう大名盤。オーケストラが演奏する無調から一気にサックスによるテーマへと流れ込んでいく一曲目の導入部からしてもう背筋が凍りつくようなほどの美しさであり、これ以上隠微な音楽は音楽史上を振り返っても他にアルバン・ベルクの歌曲か晩年のマーラーが書いたアダージョぐらいしか思いつかない。とにかく素晴らしい作品で、菊地成孔の雑多/多彩なディスコグラフィ中においても「最高傑作」として推薦できる。


 楽曲では、菊地とともにオリジナル作品の作曲者として名前が記されている中島ノブユキによる「ソニア・ブラガ事件」が最高だ――ジョン・アダムズのセンスをもっと性的に、ファッショナブルに教育しなおしたよう。ポップ・ミュージックを称しながら、ここまでしっかりとしたコンポジションを聴かせるのはちょっと異例な気がするぐらいで、天国のフランク・ザッパが嫉妬で狂いそうな作品である。菊地の筆による作品はこれよりもずっと演奏的/即興的に響き、このコントラストも興味深い。


 尚、この作品は「映画」をテーマとして取り上げており、さまざまな映画のサウンドトラックをカヴァーもアルバムに収録されている。ここで登場する映画をいずれも観たことはないが、それら楽曲は映画音楽がジョン・ウィリアムズ的なケバケバしい荘厳さによって嘘っぽく塗り固められる前のセンスで作られているように感じられる――しつこいほどにポルタメントをかけたストリングスの演奏は、今ではもう失われてしまった映画音楽特有の甘ったるさの再現として聴くことができた。





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KRAFTWERKとモダン演出オペラ

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D


 近年のクラフトワークのステージ演出は、モダン演出されたオペラに根ざしたものなのではないか。完全な思いつきだけど……。



D





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橋爪大三郎『はじめての構造主義』

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はじめての構造主義 (講談社現代新書)
橋爪 大三郎
講談社
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 橋爪大三郎による構造主義、というかレヴィ=ストロース入門の本を読む。構造主義の人について、フーコーやデリダについてはピンポイントでなんとなく知っているつもりでいたのだが、じゃあ構造主義ってなんなんすか?的なマッピングが上手くできていなかったので、この本を読みながら少しその整理ができた気がする。構造主義が生まれてきた歴史的背景みたいなものも知れて面白かった。驚いたのは、これが20年も前に書かれた本である、ということで「20年前から思想界隈の話ってあんまり変化がないのか?」と思ったりもした。トレンドの人がちょいちょい変るだけで、天地がひっくり返るようなことを言う人ってなかなかいないものなのだな、よく知らんけど、とアホの人のように考えてしまう。現代思想にあまり興味がなくなってきている……ということなのかもしれない。なんか自分の生活とリンクするものが希薄に感じてしまう。逆に構造主義によって乗り越えられた、とされているマルクス。これは大変自分の生活とリンクして考えられる。自分をとりまく問題として捉えられる。これはマルクスの影響を受けたフランクフルト学派の人たち(と言っても、アドルノぐらいしか読んでいないけれども)の本を読んでいるときも同じような感覚がある。今だからこそ、ハーバーマス読んでみようかなぁ、とか思うし。





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レミ『メモワール――1940-44 自由フランス地下情報員は綴る』

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 法政大学出版会の『叢書・ウニベルシタス』シリーズの装丁が好きで、ふらりと立ち寄った古本屋なんかで安く売っているのを見つけると大した興味もない本でも買って読んでしまう癖がある。


 ナチス・ドイツ占領下のフランス国内で、レミという偽名を使って抗独情報活動をおこなっていた男が綴った『メモワール』という回想録もそのような経緯で読んだ。一言でこの本の内容をまとめておくと「第二次世界大戦中のスパイ日記」というところになる。だが、ここに綴られている日々や活動の記録は「スパイ」という言葉から想像される諸所の事柄(『007』的なサムシング)とはほとんど無縁であり、かなり地味。ほとんど毎日シャルル・ド・ゴールがいるイギリスへと無線機で情報を送っているだけである。にもかかわらず、ゲシュタポに捕まったらタダでは済まされないことは確実であり、地味なのに命がけ……という極限状態の記録はなかなか読み応えがあった。また、附録についてくる「ド・ゴール演説集」や「ナチス・ドイツをバカにする小噺集」も面白かった。


 「なぜ危険をおかしてまで、抗独情報活動へと参加するのか」。読みながら気になっていたのは、この点である。おそらくそれは「ドイツは必ず負ける。だから、反ドイツでいたほうが将来的に得する」というような合理的判断からおこなわれているわけではないだろう。危険をおかしてまで抗独情報活動へと人を向かわせる根幹には、愛国心が駆動しているように思われた。そこで思い返したのは姜尚中による「愛国」についての議論である。



愛国の作法 (朝日新書)
姜 尚中
朝日新聞社
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 この本の中で姜は近代国家における国民の意味づけを「エトノス(感性的。自分が生まれた国だから愛するという態度)」と「デーモス(作為的。社会的契約によって紐帯が生まれる合理的態度)」とにわけている。ペタン政権や親独派フランス人を「売国奴」と罵るレミのメンタリティは、明らかに前者に属しているように思われた。しかし、姜の議論を参照すれば、レミが「売国奴」と罵る相手にも愛国心はあったと考えることもできるだろう――例えば、そこで「売国奴」たちに自分たちの自由を犠牲にしてまで、戦争を避けたほうが国益となる、という目的意識があったならば、ナチス・ドイツに協力することは「売国」と単純に呼ぶことはできない。こうなると、戦後多くの親独家(フィリップ・ペタンもまたしかり)が裁判にかけられ有罪判決をうけているという歴史的事実が果たして妥当であったのか、という疑問も生まれるだろう。





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ミシェル・ゴンドリー監督作品『僕らのミライへ逆回転』

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Be Kind Rewind
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Original Soundtrack
Naive (2008-01-22)
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 今日は、ミシェル・ゴンドリーの新作も観た。これは個人的な泣きのツボをバシバシ突いてくる作品で、上映中4回泣いた(登場人物が、無垢な感じで頑張る映画、みたいなのに弱いかも知れない……目が綺麗な黒人のこどもとかにも……)。トレーラー住まいのナード臭い役をジャック・ブラックが演じていて、最初出てきたときから「マジで風呂に入っていなさそうな髪型」とか変なTシャツとかから溢れてくる存在感が圧倒的であり、過剰である。スクリーンに映っている間、常に笑えるポイントがある役者ってすげーよなぁ……と思ったりした。



D


 映画のストーリーにおいては、ファッツ・ウォーラーというジャズ・ミュージシャンがかなり重要な役割を果たしている。このミュージシャンは、デューク・エリントンなんかと同世代の人なんだけれども、モダン・ジャズが隆盛する頃になくなっているため「ジャズ≒(ビ・バップ以降の)モダン・ジャズ」となっている昨今においては、名前ぐらいしか知られていない人だと思う。ジャズがアート化される前に活躍して亡くなった人なので「ジャズ史上ではほとんど重要視されていない」と言っても良いかもしれない。しかし、このモダン・ジャズ以前の黒人ジャズ・ミュージシャンのアメリカ文化における位置には興味深いものがある。ファッツ・ウォーラーにしても、ルイ・アームストロングにしても「エンターテイナー」なのであり、それはチャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスのように「アーティスト」としては捉えられていないだろう。これは西洋音楽史における古典派とロマン派のの扱われ方にも似たところがあるかもしれない(エンターテイナーとアーティストの境目には、それぞれ、チャーリー・パーカーとベートーヴェンがいる)。映画の内容から話が大幅にそれたけれど、アーティスト化される以前のジャズ・ミュージシャンについての言及はあまりにも少ない。ホントに映画とは関係ないが、ビ・バップ以前にも今後は目を向けていきたいなぁ、とも思った。





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ジョン・ウー監督作品『レッドクリフ』

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 (三国志についてまったく知らない私が)『レッドクリフ』を観てみた。むちゃくちゃ金がかかけて「なんかお人よしのオッサン(劉備)のために、オッサンたちがいっぱい頑張る映画」を作った感じが最高。観たのは吹き替え版だったんだけど冒頭から「ここまでの流れ」(『三国志演戯』の後半ぐらいから話が映画は始まっている、らしい)の説明が入り「説明から入るって斬新!」と思った。が、たぶんこれは日本版で特別に挿入された部分じゃなかろうか。ちょっとウザったいぐらいにこういった親切が効いていて、三国志を知らなくても楽しく観れる。しばらくスクリーン上から消えていた人物が再登場したときに、説明の字幕が入ったりして「こいつだれだっけ!?」と不安になる心配もない。


 とにかく濃厚な殺陣シーンが素晴らしく、ぶっちゃけそれ以外はかなりこじんまりとしている風にも思えるような映画なのだが、そのメッセージ性の無さが素晴らしい。『ワイルド・バンチ』ばりにスローモーションを駆使して血飛沫が舞い、今日で一生分の「槍が人体を貫通する映像」を観た気がした。劉備軍の猛将たちの強さが超人的に描かれており痛快。飛んできた槍を掴んだり、面白い顔のオッサンが奇声をあげながら馬に体当たりするのがツボで爆笑しっぱなし。もしかしたらこんなに笑った映画、久しぶりかもしれない……。


 2部作なので後半は来年4月公開とのこと。結構、続きが楽しみ。ちなみに面白シーンの数々は公式サイトのキャストのページでほとんど観れてしまうので、びっくり。





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