莫言『転生夢現』(上)

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転生夢現〈上〉
転生夢現〈上〉
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莫 言
中央公論新社
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 id:ayakomiyamotoさんの猛烈なレコメンドで興味を持って『転生夢現』を読み始めた。まだ下巻に手をつけてはいないのだが、半分まででだいぶ書いておきたいことが溜まってきたので記しておく。言うまでもなく、ものすごく面白い作品であるので、そうしたくなったのである。





 この莫言という作家について「ガルシア=マルケスに影響を受けたマジックリアリズムが……云々」と言われているそうだけれど、この作品を読む限りは、ラテンアメリカの作家というよりかは、むしろラブレーあたりに影響を受けているのではないか、と感じた。中華人民共和国成立直後の土地改革によって殺害された地主がさまざまな動物に生まれ変わり、人間であった頃に治めていた土地のその後を人間ではないものの目線から語る。ロバや牛や豚の目線から諧謔的に語られる世界は、中華人民共和国の政治的変遷とリンクして変化していく。





 語り口は柔らかでユーモラスであるのだが、かつての共産主義に対しての批判的なまなざしは強く、直接的であるように思われる。この直接性はガルシア=マルケスからはあまり感じられない。この本を読んでいて思い起こすのは『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。この『転生夢現』をマジックリアリズムと呼ぶのであれば、この形容はラブレーにも適用できるのであろう。ルネサンス時代にマジックリアリズムは存在したのであり、このような手法を今更取り立てるのは、言わば「語るための契機」に過ぎない。手法は内容ではない、ということを改めて感じたりもする。





 小説は中華人民共和国の歴史そのものと言っても良いのかもしれない。私はほとんど現代史を知らないのだが、この本に書かれている中華人民共和国の様相には強く興味を喚起された。海を挟んですぐ隣の国について、これまで何も知らなかった点を恥ずかしく思いつつも、その隣国がとんでもない歴史を持つことを知ったときの驚異の大きさが恥ずかしさを勝る。というか、生まれ変わった地主の息子たちのその後の成長や愛憎劇よりも、物語上に登場する中華人民共和国の政治のほうが面白く感じられるほどで、現実の中華人民共和国の政治それ自体が笑えないギャグの水域に達しているように思った。





 上巻は文化大革命の末期で終わっているのだが、文革前の大躍進政策もすごい(これらの歴史的事実についてはwikipediaで調べれば、詳細があるので改めてここでは書かない)。「ファシズムもコミュニズムも、理想が現実の遥かに先をゆき、その結果暴力が蔓延する点では同じ」というようなことをアーレントかアドルノの本で読んだのを思い出してしまう。腕を組み、首をひねりながら考えてしまうのは「どうしてそのように無茶な政策を推進してしまったのか」という点に尽きる。真っ当な頭を持つ人間であれば、金属工学の専門家がいない農村に溶鉱炉を作ることなど無謀であることなど、すぐに理解できるはずだ。にも関わらず、それが行われる。あらかじめ失敗が運命付けられたようなものが、どうして現実に行われたのか。





 考えられるのは2点。1点目は為政者(つまりここでは毛沢東)「成功するだろう」と本当に思っていた、ということ。2点目は「無理だ」と思いつつも、体裁的な問題により引っ込めることができなくなった、ということ。どちらにせよ、強い理想が現実を見えなくしているところがある。これは日本が過去に起こした戦争についても、同じことが言えるかもしれない。多くの日本人が「負けると分っている(はずの)戦争をなぜおこなってしまったのか」と反省するのを目にするが、これには少々引っかかるところがある。歴史を事後的に評価する地点では、どんなことでも言えてしまうのだから。本当に問うべきなのは「負けるだろう、現実的ではないという判断がなぜできなかったのか」ということではないだろうか。





 地主の生まれ変わりの動物の目線から語られる村の人物の多くも、その理想へとコミットしていく。しかし、彼らの多くが本当に些細なことで失脚したり、挫折をしたりするところにも「純粋な理想」の恐ろしさのようなものが表れているように思う。例えば、胸に輝いていた毛沢東のバッジをうっかり便所に落としてしまうことによって、それまで村の指導者だった人物が一気にキツい労働を強いられる立場に落ちてしまう。ここからは「もしかしたら、その人物が失脚しなければ、わずかでも理想が現実に近づいていたかもしれないのに、純粋な理想から外れる些細な出来事によって、自らの首を絞めるような状況」を読み取れる。





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クリント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』

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クリント・イーストウッド
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 クリント・イーストウッドの新作。日本公開前からものすごく楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい出来栄えで、若干盛り込みすぎな部分があるものの(ヒューマン・ドラマとサスペンスがごった煮になっていたりする。しかもサスペンス部分は超ハードで本格的に恐ろしい)、中盤で号泣してしまったし、やはりエンディングはイーストウッドらしくモヤモヤっと心にわだかまりが残る感じとなっていて大満足だった。そして、今回も音楽の使い方が異常。イーストウッドが書く映画作品については過去にエントリをあげているけれども、イーストウッドはあえてこういう風に音をつけているのかどうか、ものすごく気になってしまう。悲しいときには単調の音楽をつける……というような常套句的演出がほとんどない。常にあのなんとも言えないアブストラクトな音楽が流れているので、それはそれで不穏さを煽ってくる。警察がアンジェリーナ・ジョリーを貶める部分では、本当に不快な気持ちになってくるのだが、この不穏な演出がこの不快さを増長しているのではないか、と思えるほどだ。しかし、生理的な部分へと訴えかける力の強さもはや、この監督の作風なのだろうなぁ、と思うところもあり、むしろこのモヤモヤ感や不快感に拍手を送りたくなってしまう。





 この作品から私が読み取ったものは主に2つ。1つは「システム」についてである。序盤から中盤にかけての物語では、腐敗したロサンゼルス市警によって、アンジェリーナ・ジョリーが、人権であるとか尊厳であるとかを蹂躙されまくる過程が描かれる。そこでの警察権力の姿は、村上春樹がスピーチで批判をおこなったシステムの姿と多く重なる部分があるのだが、この様相をもう少し社会学的な表現に置き換えると「システムの暴走」という風に換言できるであろう。そもそも警察権力のシステムとは、人権を守り、法を守らせるためのシステムとして社会におかれたものであろう。警察とは、この目的のために時に暴力を行使することが許されている特権を持つシステムである。





 しかし、この映画内で描かれる警察システムの姿は、その本来の目的が忘却され、警察システムのために警察システムが作動する、というような言わば「自己目的化」が徹底されたものである。警察システムが振舞う論理の無茶苦茶さはあまりに強引過ぎ、笑いさえ引き起こすものであるのだが、この点は、いかにカフカが現実を如実に描いていたのか、を論証するかのようだ。中盤以降でこのシステムの暴走は、他のシステムによって抑制される。このとき警察システムの前に現れるのが、教会であったり、法であったりするところは、実に興味深い。まさに「事実は小説より奇なり」といったところである。警察システムの暴走を厳しく非難する弁護士の姿がものすごくカッコ良く撮られている。この部分はまさに警察システムが、法システムのサブシステムに過ぎないことを明示的にしたものであるように思えた。そう言った意味で、勧善懲悪的な物語がこの映画のなかには含まれていると言えよう。しかし、教会が警察に対抗するものとなっている状況は、あまりにも今私が生きている社会とは異なっていることもあってとても面白く思った。時折、日本の警察には不快な思いをさせられることがあるのだが、この映画を観て態度が改まったりしたら良いのになぁ、などと淡い期待を覚えたりする。





 2つめは「魂の救済」についてである。映画のなかには、3人の救済されるために行動を起こす人物が登場する。彼らはそれぞれタイプがまったく異なっていて、ある人は救済のために罪を告白し、ある人は逆に罪を告白しない。そして最後の1人は救済のために、希望を持ちながら実ることのないであろう努力を続ける。しかし、救済を求めるひたむきさの部分については、いずれも同じなのだ。私はこのひたむきなものの表れに、ものすごく感動してしまうところがあった。このようにひたむきで、純粋な感情の表出は物語のなかでしか味わえないだろう、という感じがする。実際に、救われたかどうかは置いておいて、私はそういった行動を支持したい、と思う。





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諸星大二郎『夢の木の下で』

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夢の木の下で (Mag comics)
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 仕事が終わって帰宅してから同人誌*1用の小説を書いていたのだが、その途中で「私はもしかしたらものすごく諸星大二郎に影響を受けているんじゃなかろうか……」とハッとして気がついて、本棚から探し出して再読したのがこの『夢の木の下で』という短編集である。諸星といえば『暗黒神話』や『孔子暗黒伝』といった長編が有名だが、私はこの短編集が一番好きで標題作「夢の木の下で」とこれに繋がる「遠い国から」という連作、また「壁男」などを収録したこの本は学生時代から何度も読み返した記憶がある。





 今回再読して改めて気がついたのだが、諸星大二郎という漫画家の書くストーリーには「一般の生活世界と趣がまったく異なる異世界との交流」というモチーフが頻出している。異世界を知った一般世界の人間には意識の変化がおこり、これまで自明のようであった自分の「当たり前の生活」に不安を抱き始め(存在論的不安である)、異世界へと旅立とうとしたり、自殺したりする。しかし、ここで興味深いのは、交流した先の異世界にも変化が生じる点である。





 例えば「壁男」(人家の壁の中に自意識をもった壁男という妖怪のような存在がおり、人間の生活を観察している、という話)では、壁男と交流をもった女性が、壁男の世界へと入り込んでしまう。ここで壁女となった女性は異邦人的存在であるのだが、この異邦人が徹底的に無視されるわけではなく、むしろ、問題を引き起こす異質な他者として扱われる点が特に面白い。そこでは壁女を迫害する者もいれば、逆に保護しよう(そして愛そう)とする者も現れる。この2つの反応の違いによって分けられた壁男世界では、次第に権力闘争が生じる。この争いは壁女迫害派(=保守)と壁女擁護派(=革新)という風に色分けできるだろう。そして(ネタバレになってしまうが)この闘争によって壁男世界は崩壊してしまうという悲劇的結末へと帰着する。





 思うにこの「壁男」という作品は、単なる空想話、あるいはホラーとして片付けられるものではなく、社会的なものをリアルに映し出したものである。これが映し出しているように思われるのは、主に2つ。1つは「未知なるものに触れることが必ずしも良い結果を生むわけではない」という書いてしまうと当たり前のように思えてしまう事柄である。もう1点は「変化は不可逆である」ということ(これも当たり前のことかもしれないが……)。これは変化の訪れから、世界への崩壊へと向う悲劇によって間接的に描かれているように思う。






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宮藤官九郎監督作品『少年メリケンサック』

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 宮崎あおいが可愛い……という2時間を楽しむ映画みたいなもので、それ以外はよくわからなかった……が、本当に主演女優である宮崎あおいがすごくて「ああ、役に入り込むというのはこういう感じなのだなぁ」と思った。大袈裟な喩えを出すならば、もはやトランス状態に入った巫女という感じがし、まったく性格は異なるけれども昨年『ダークナイト』に出演していたヒース・レジャーのジョーカーを彷彿させるような鬼気迫る演技である。彼女の一挙手一投足が自然なのだ。演技である、ということを忘れさせるぐらいに。そして、とにかく可愛い、と。映画は決してつまらないわけではなかったけれども、爆発的に笑える箇所や物語の盛り上がりには欠け、そういうわけで「宮崎あおい可愛いなぁ……」とクスクスという笑いが持続的に展開される感じで2時間が終わる。心に留まるような映画ではないのであろう。悪くない。とても上から目線で言ってしまうとそういうことである。





 音楽は向井秀徳。これはなかなか良かった。「向井ってこんな曲も書けるのかぁ……」ととても歓心させられるところがいくつかあり(BUMP OF CHICKENみたいな曲を提供してるのには驚いた。ギターの音はあきらかに“あの”テレキャスターの音なのでとても面白い)、また、向井秀徳の嗜好が伝わってくるような音楽がサウンドトラックで使用されている。強烈なダブであったり、エキセントリックな打ち込み祭囃子であったり、彼のファンであらばニヤリとさせられるところだろう。私はこの映画を観て「意外に器用なアーティストなんだなぁ」と思ったりした。



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 些細なところでは、劇中で宮崎あおいがハンディカメラで撮影しているバンドのドキュメンタリ映像(一応、メタフィクション風の構造になっているのだが、この構造がうまく機能していない感じもする)のなかに映る遠藤ミチロウ(彼は物語の登場人物としても出演している)が相変わらずカッコ良くてちょっと感動した。





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デヴィッド・フィンチャー監督作品『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

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 とても良い映画。収束したと思われたシークエンスが意外なところで再度物語に復帰してくるところなどがとても小気味良く、途中自己啓発みたいな金言が挿入されるにも関わらず、違和感なく、気持ち良く鑑賞することができた。スコット・フィッツジェラルドの原作は読んでいないが(どこまでが原作に寄っているのかまったくわからない)、ブラット・ピット演じる主人公の幼年(老人)時代にニューオリンズ・ジャズらしき音楽が流れているところなどにグッとくる。最初の舞台はニューオリンズなのだ。とくに舞台がニューオリンズでなくてはならない理由などないのだが、ジャズが流れていることによって原作者のことが意識にあがってくるのだ。ジャズ・エイジ、ジャズの時代。それはフィッツジェラルドが最も輝いたと言われる時代である。それからブラット・ピットとケイト・ブランシェットの蜜月のあいだに流れるビートルズも良かった。




 観ている途中で思ったことなのだが、この物語は多くの部分を『フォレスト・ガンプ』と共有しているところがある*1。主人公が他者の人生を観察し、さらにその他者が主人公の人生を通過して死んでいく、そして主人公はその死を観察するという部分において。だが、『フォレスト・ガンプ』の主人公が常に無垢なる存在、永遠に子供のような感性のまま、観察をし続けるのに対して、ベンジャミン・バトンは観察によって、死によって成長を続ける。さらには自分が若返ることに対しても重みを背負うようになる。積み重なっていくしんどさは、ガンプにはないもので、私はこのどんどんしんどくなっていく感じが良いと思った。「私はあなたがたに精神の三段の変化を語ろう。いかに精神が駱駝となり、獅子となり、最後に子供となるか、を」(ニーチェ)。主人公のしんどさは最後、忘却によって救済されることになる。この収束の仕方もせつなくて好ましい。





 それから、ベンジャミン・バトンの人生の黄金期ともいえる部分でスクリーンに映し出されるブラット・ピットのカッコ良さも素晴らしい。本当にとにかくカッコ良い。ここはブラット・ピットという俳優が起用されなくてはならない必然性を強烈に感じてしまった。白いTシャツに、ブルー・ジーンズ(ジェームス・ディーンのイメージと重ねざるを得ない)だけをまとい、バイクで疾走するブラット・ピットの絵の素晴らしさは輝かしいぐらいである。このシーンを観るためだけにこの映画を観ても充分おつりがきそうなぐらいカッコ良い。






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蓮實重彦『映像の詩学』

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映像の詩学 (ちくま学芸文庫)
蓮實 重彦
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 このところ映画関連のエントリが続いているのは、この本を読んでいたことと無関係ではないだろう。批評というジャンルに位置した文章をアドルノが書いたものしか読まない(読んでいない)、という具合に偏っている私だが、蓮實重彦のこの映画論集はなかなか稀有な読書体験を与えてくれた。それはこの本に書かれた文章のほぼすべてが、私にとって無意味である、という意味においてである。この本のなかで触れられる映画のなかで、観たことがあるものはジョン・フォードとハワード・ホークスとルイス・ブニュエルのいくつかに限り、それ以外の作品について語られたとしても、いったい何を語っているのか皆目見当がつかない有様。例えばベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』にしても「踊り続けることがファシズムへの抵抗なのである……云々」と有難そうな文句が並んでいても、へぇ……そうなんだ……(観てないからわかんないケド)と思うしかない。ただ、そのように無意味な読書がつまらない読書とイコールで繋がるか、と言えば、そうではなく(逆に語られた内容が理解できても、つまらない読書もあり得る)、批評とはなんのためにあるのか、だとか批評論――というものがあるのだとしたら――について考えるには大変有意義な本であった。





 以下に読みながら考えていたことをメモ程度に記しておく。





 ひとつはこの本が書かれた1970年代という状況と、現在とでは批評が書かれる状況について意識せざるを得ない、ということ。今調べたところによれば、家庭用ビデオ再生機が普及しはじめるのは70年代後半を過ぎた頃のようである(VHSが開発されたのが76年のこと)。おそらくは蓮實重彦も、映画の詳細を確認するためにビデオを再生することなど不可能な状況で文章を書いているのだと思う。よって批評はおのずと記憶を頼りにしてかかれざるを得ない。この本に収録されたハワード・ホークス論にはこんな記述がある。



それが途方もなく美しいのは、このライターのぶっきら棒な往復運動が、2人の登場人物によってまるでなかったように忘れさられてしまうからだ。あるいはライターではなくマッチ箱だったかもしれないが、というよりいまやマッチ箱であったという確信の方が遥かに強いのだが、とにかくこの喫煙具はヒッチコックにおけるがごとき濃密な説話機能を担ってはおらず、ひたすら無償の運動を生きるばかりだ。



 このように不確かな記述は、詳細を確認しようと思えばできてしまう時代において許されないものだろう(ソフトが流通していない新作を語る場合では違うのかもしれないが)。しかし、確認できないことによって、記憶頼りにしなくてはならないという状況は、記憶と言葉との遊戯性を批評に与えているようにも思う。批評の記述が、スクリーン上で起こった事実に厳格に沿わなくとも許されてしまう(もちろん大幅な逸脱は許されないのだろうが)。ここから正確な記述の意味についても問うことができるだろう。「喫煙具」はライターであっても、マッチ箱であっても良い。それについてツッコミを入れるということは、粋/無粋の問題になり、本質的な有効性を持たないのではないだろうか。





 もう一点はやはりアドルノ絡みのことである。アドルノと蓮實の態度にはかなり似通ったものがあると強く感じた。



作家の内面など覗き窺ったところでとりたてて刺激的な体験は期待されようはずもなく、たかが人間にすぎない連中がせい一杯人間に似ようとする退屈な儀式につきあわされてうんざりするのが関の山で、それぐらいなら、フィルムの表面に虫眼鏡でも向けて、人間のものだの動物だのを思わせる……(以下略)



 アドルノが徹底して楽譜を読むことによって(楽譜というテキストから)批評を生み出そうとし、楽譜の外部にある作曲家の人生や人格の心理を批評から排除しようとしたのと同様に、蓮實もまたスクリーン上にある映像の動きを注視することによって批評を生み出そうとする。アドルノと蓮實の批評の間で共有している部分とはこればかりでなく、この本に収録されたゴダール論の一部である「『万事快調』隠蔽と顕示」で触れられた、ほぼ映画批評論となっている一説にも、彼らの共有の痕跡がある。ちなみに私はゴダールの作品を1本も観ていないのだが、この部分はこの本で最も面白く読めた。蓮實が語る映画理論への反駁は、アドルノの体系学への批判とほぼ同意義であろう。



……「方法」がこちら側に、つまり行動し思考し語る主体の側に確立する場が残されていて、その確立の基盤となるのが、虚偽を真実から選別し、細部を総体へと統合するものが「理論」だなどと本気で信じられている。だが、「理論」をめぐるそうした思考の歩みそのものが、すでに排除と選択の身振りに律せられ、部分の全体への従属というイデオロギーに支配されていることを忘れ、その忘却を恰好の口実として「理論」を先験的に権威づけようとする言葉とは、煎じつめれば、世界から変革への可能性を奪おうとする抽象的反動性に犯された言葉にほかならぬのだ。






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井口昇監督作品『片腕マシンガール』

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 会社の上司が「これを観ろ!」と言ってDVDをくれたので観た(一緒にいただいたのは野村芳太郎の『鬼畜』)。上司が私をどうしたいのか、果たしてこの会社に入ってよかったのか、さまざまな不安が脳裏を過ぎったが、そこは日本のサラリーマン。上司の命令は絶対である。正座で鑑賞した。胃のあたりに軽い不快感を感じながら……(スプラッターとかホラーとか基本的に苦手なので)。でも、尺の短さもあって退屈しないで観れたので良かった。しばしば「くだらねー!」と声を出して笑ったが、単にそれだけのために1時間半を費やすことの虚しさみたいなものが木枯らしのようにやってきてしまう。それでも『20世紀少年』よりはマシだったから多少救われた感じもするけれど、虚しくなるか、満足感があるか、で映画ファンとしての純度が判別できるのかもしれない……。後者であれば(嫌味でなく)尊敬に値すると思った。





 女子高生、人体破壊、血、忍者、引用……さまざまな記号が散りばめられた、というか記号の集積によって成立したコラージュ的な物語の流れは、あからさまに、不自然な流れ方をする。このご都合主義と揶揄できそうな不自然な流れは、ギャグとして取り扱うべきものなのだろう。観客はそこで製作者側の外部からの介入を強く感じる。そして「なんでそうなるのだ!」というツッコミは物語ではなく、物語の裏側(外側)にいる製作者に向けられる。私の貧しい映画体験のなかでここまで介入を感じたものはなかったので、そこが新鮮だったりもした。





 ここまで強烈な不自然さを目のあたりにすると、自然に流れていく物語も相対化できてしまいそうだ――しかし、相対化というよりも、不自然な物語も、自然な物語も根本的には同質なものであるような思いのほうが大きい。不自然であっても、自然であっても、物語は製作者の都合によって常に流れるものなのだから。こう考えると「ご都合主義だからダメだ」とか「自然だから良い」とか「論理的で素晴らしい」とか「非論理的で馬鹿らしい」といった価値判断がなんだか不当なもののように思えてくる。





 「くだらねー」とか言いつつも、映画を観るという行為そのものについて考えさせられた一本だった。





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ミシェル・ゴンドリー監督作品『エターナル・サンシャイン』

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 BSで観る。ミシェル・ゴンドリーの作品を観たのはこれで2本目だが、特殊技術に頼り切らない(技術を見せ物的に、作品内容として使用しない)映像の作り方にハッとさせられるときが多々あって好感が持てる。スタイリッシュ。この監督は追憶だとか過去をテーマに据えているのだろうか。これらのテーマには、しみったれ感がつきまといがちだが、これがなんとも個人的なツボをついてくる。この作品を観て「この監督、好きかも……」と思った。





 “私”にできることは、現在という観測地点から過去を時折確認することに過ぎず、未来とは本質的に不確定なものであり、過去の経験から推測するものでしかない。しかし、過去を操作することもできない。それは過去になった時点で過去として確定され、更新することが不可能である。





 だが事実的な過去と記憶の間にはある程度の遊びがある。強い思い込みや錯誤によって、“私”は過去を事実とは違ったように認識することが可能である。よって、“私”が未来の推測のために参照するのは過去ではなく、厳密に言えば記憶なのだ。





 こう考えると、記憶を操作することとは未来を操作することに密接に関連づけられる。この映画に登場する記憶の消去サービスとは、単に過去の認識を書き換えることではなく、未来を望ましい方向へと向かわせる手段として描かれる。





 興味深いのは、未来を変えるために記憶の消去をしたにも関わらず、消去した過去を反復してしまう人物たちである。この人物たちに更新できない、人間の(というか個人の)本性が表れる。これはあたかも運命的であり、予定調和的である。この変えがたい本性のようなものによって、キルスティン・ダンストがものすごくしんどい思いをするところが良かった(良くないケド……)。





 それから、もう一点。記憶消去サービスのスタッフが、サービスを受けた女性に一目惚れをし、消去した彼女の記憶を参照しながら彼女に取り入ろうとするシークエンス。これも救われない感じがして良かった。彼の自分の存在を半ば殺すようにして、消去された記憶の男になりすます。愛されるのは、自分ではなく、記憶の男である。これはほとんど悲劇のような救いがたさだ。自分が愛される実感を得るには、彼は愛されている役割を脱ぎ捨てなければならない。この葛藤が彼のアプローチ方法には決定されている。また、結局このアプローチ方法も失敗に終わるところに、恋愛における恋愛対象の交換不可能性が表れでているように思った。





 あとケイト・ウィンスレットの肉感的な肢体が良かった……。





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黒澤明監督作品『七人の侍』

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 祖父の四十九日があるので帰省しているところに、BSで黒澤明の『七人の侍』が放送されていたので家族と一緒に観た。祖父が好きだった映画である。この作品を観たのはこれでたぶん3度目だが、初めて観たのは祖父がレンタルで借りて来たときだったはずだ。


 


 序盤の侍集めのシーンで薪割りをする侍が登場したとき、母が「あんな綺麗な薪なら誰だって割れる」と言った。曰わく、“本当の”薪というのは節くれだち、形も不均等だから難しいのだそうだ。まったくどうでも良い一言だが、この一言で映画には色んな見方があるものだ、と関心してしまった……と同時に、これは隣で一緒に映画を観ている“家族”が他者として表れる強烈な瞬間でもある。同じ映画を観ていても、昭和中期(ちょうど『七人の侍』が公開された頃)に東北の貧乏農家に生まれた母と、それから約30年後に生まれた私とでは、まるで見えているものが違うのだ。





 こう改めて書いてしまうと、まぁ、当たり前と言えば当たり前の話である。しかし、母と私という共有しえない体験を常にし続ける他者同士が、家族という社会的な関係性を築いている、というこの事実、これは驚異的なことなんじゃないだろうか、とも思う。この素朴な事実に驚異を感じられれば、少し他者に対して寛容さを持つことができそうだ。





 それはさておき『七人の侍』について、今回思ったことを書いておく。





 村の20軒の家を守るためには村外れにある3軒を犠牲にしなくてはならない、戦とはそういうものだ、と劇中で志村喬は厳しく言い放つ。戦とはそういうものだ。この一言によって全体主義が承認される。このギリギリの状況では全体の勝利を、全体の力を総動員することによって(マイノリティの犠牲を払うことによって)でしか得られない。『七人の侍』における状況とは、太平洋戦争下の(国家総動員法施行下の)日本の状況とうまく布置できよう。





 この例外状態の終わりが侍と農民の娘との恋愛関係の終焉によって明示されるのが良い。しかし、例外状態において払われた犠牲についてはほとんど問題にされていないのではないだろうか。ラストに映し出される戦死者の埋葬跡の遠景には、おそらく追悼のまなざしがある。だが、そのまなざしはあまりにも弱々しく、勝利の喜びのなかで霧散してしまう。だからこの勝利が全体主義によってもたらせたものであることを観客は忘れてしまうのだ。この名画が孕む大きな問題とはここにあるだろう。





 映画が終わったとき、父が「こんな映画はもう撮れないよ」と感嘆したように言った。父の言葉はたぶん「黒澤明のような才能を持つ監督はもういないから……云々」という意味だろう。しかし、私はまったく別な意味で「このような映画はもう撮れない」と考える。犠牲を忘却するかのように、勝利を素朴に喜ぶ農民たちがラストに登場するけれど、この素朴さがもはや許されていないのだ。アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である(アドルノ)。





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ジョン・バンヴィル『コペルニクス博士』

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 アイルランドの作家、ジョン・バンヴィルの作品を読むのは、この『コペルニクス博士』が初めてである。内容はタイトルがそのままで、地動説を提唱したコペルニクスを主人公にしたもの。これは大変に知的な小説だった。ギリシャ以来の天文学の知識や哲学についての記述(それが正しいものなのか判別はできない)が盛り込まれており、幻惑させられるようなところがある。この作家はほかにもケプラーを主人公にした作品も書いているそうだが、これも同じようなテイストなのだろうか。南米の作家のような吹き出したくなるような想像力の発露があるわけではなく、かなり硬い文章で綴られているので読みづらいところがあるかもしれないが、こういう硬さからも知性的な印象を受ける。





 コペルニクスの誕生から死までを追っている。なかでも、天文学の研究に身を捧げようと決意するまでを描いた第1章が良かった。作者はコペルニクスへと世界の根源的な未規定性への恐れを投影している。自分はなぜここに存在しているのか、こういった実存的不安を持つコペルニクスが天文学へと打ち込みはじめるのは、その学問が世界の成り立ちを解き明かす鍵となっているのではないか、という思い込みからである。天才である彼は、はじめからプトレマイオスを信じていない。しかし、地動説を提唱するには勇気がいる。自分の説によって人は幸福になれるのか、地動説によって地球は矮小化さする(地球=私たちの世界は世界の中心ではない!)、それは絶望を与えるのではないか……こういった別な不安にコペルニクスは悩む。必然的に彼が抱くのは孤独である。誰にも理解されない、孤独。これはイタリア留学中にであった貴族との恋愛(ちなみに同性愛)を経由して、一旦解消されそうになるのだが、結局のところ愛によっても満たされない。コペルニクスは天文学をやるしかない、それしか残されていないのだ、というところで第1章は終わる。この切実さが胸を打つ。翻訳者による解説では「ポストモダン小説云々」とされているのだが、こう読むと大変にオーセンティックな近代文学という感じがする。





 ただし、その後があまりよくない。天文学にも救われない(天文学は天文学でしかない)という絶望に襲われながら、そこにしがみつかざるを得ない惨めなコペルニクスがこの後登場する。このあらかじめ決定されたような敗北を、作者はうまく描けていないような気がする。一言で言えば、まだるっこしい。哲学的な内容を含んでいるように思うのだが、これを読むならそもそも哲学の本を読んだほうが良いのではないだろうか、と率直に思ってしまった。それから、コペルニクスの兄の役割についても不満が残る。この兄は、コペルニクスとはまったく正反対の生活を持つ放蕩者であり、梅毒で死んでしまうのだが(ほとんどコペルニクスの妨害者という感じである)、中盤でかなりあっさり死んでしまうのですごく勿体無いような感じがする。





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ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ブロディーの報告書』

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 ラテン・アメリカの作家のなかでも、このホルヘ・ルイス・ボルヘスはちょっと毛色が違った存在だと思っている。ガブリエル・ガルシア=マルケスやカルロス・フエンテス、あるいはバルガ・リョサたちが想像力を外向きに外向きに発展させていき、熱が放出されるような幻想を描いているのに対して、ボルヘスはなにか想像力の進む方向がまるで逆で、内向きのように感じるのだ。彼が書いた数多くの短編に触れるたび、どれも迷宮に足を踏み入れたような不安が湧く。主題はいくぶんつかみづらく、晦渋な文体で書かれた、まるで韻文のような(これは彼のキャリアのはじまりが詩人であることと関わっているのだろうか?)スタイルには、ほとんどホラーに近い――以上のようなことをボルヘスの『砂の本』、『伝奇集』、『不死の人』といった作品集を読んでいたときに考えていた。だが、この『ブロディーの報告書』(1970年)を読んだら、前述した作品集のどれとも少し異なった印象を受け取ってしまった。





 「成功したか否かはともかく、作者が書こうとしたのも、直截な短編であった」とまえがきでボルヘスは語っている。この作品にはアルゼンチン的な主題の代表であるガウチョが多く登場し、ほとんどリアリズム的に描かれている。このような描き方を彼が言う「直截な短編」とみなして良いかどうかはわからないが、個人的にはこの時点でかなり驚きであった(ヘミングウェイが選びそうな主題である)。しかし、ここに神話的なモチーフや、幻想が練りこまれているのだから一筋縄ではいかない。なかでも『ロセンド・フアレスの物語』という作品は、実に不気味である。これはボルヘスが酒場で出会った老人が語る、自分の若かりし頃の昔話という体裁をとる。老人はかつて怖いもの知らずのガウチョだった。しかし、あるとき、自分に喧嘩を売ってきた別なガウチョのなかに「自分の分身」を見出してしまう。これが老人がガウチョの世界から足を洗うきっかけとなる。突然に自分を映す鏡のような存在(ドッペルゲンガー)が現れるところが、かなりあっさりとまるで良い話のように語られているのが余計に恐ろしい。




 『ブロディーの報告書』を読んだあとに『砂の本』を少し読み返したのだが、ここで取られた手法が『砂の本』にも引き継がれているようにも思えた。『砂の本』になると晦渋さや薄暗さが増した印象があるが、これは幻想と現実のバランス感覚が前者のほうに傾いたかのようだ。逆に『ブロディーの報告書』は後者に重きを置く。読みやすいのはおそらく『ブロディーの報告書』なのだが、現在絶版中なのがとても残念だ*1。「ボルヘス入門」にはうってつけのような気がするのだが。表題作「ブロディーの報告書」も、「スコットランド人宣教師が書いたカフー族(おそらく実在しない民族であろう)の国の滞在記」を翻訳したもの、ということになっていて、ボルヘスの妄想力が全開で最高である。



語り伝えられるところによれば、ネルソン兄弟のうち弟のほうのエドゥアルドが、1890年代にモロンで病死した兄クリスチャンの通夜の席で、すすんでこの話をしたということだが、これはどうも眉唾くさい。(『じゃま者』より)



 それからこれは、改めて、の感想なのだがボルヘスの短編はどれも冒頭の一文がむちゃくちゃに面白い。いきなり「なんだこれは……」というところが話が始まるので、毎回驚きながら読むことができる。「アルゼンチンといえばボルヘスばっかりで……」という批判的な声もあるようだが、面白いものは面白いのだ。




*1:ネットでも古本が安く入手できるみたい。私は神保町にてこれを300円で購入した





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Holger Czukay/Movies

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 こんな零細ブログにも月に2000円ぐらいのアフィリエイト収入があって(買い物してくださる方にホントに感謝!)、毎回それで得たアマゾンギフト券はすぐさまに「欲しかったけど買ってなかったもの」、「昔持ってたけど失くしたりして買いなおそうかと思っていたもの」、「誰も買いそうにないもの」といった商品の購入にあてている。で、今月はホルガー・シューカイの大名盤『Movies』を買ったのだった。



D


 もはやエレクトロニカの古典中の古典と化した感のあるアルバムだが、実は人に借りただけで持っていなかった。一時期「自分のHDDには、自分で買ったCDの音楽データしかいれないぞ!」と思い立って、100GBぐらいの音楽データを消したことがあるのだが、そのとき一緒に消してしまっていたため、聴くのはかなり久しぶり。


 聴きなおしてみたら内容が素晴らし過ぎて感動してしまった。時を経ても価値が落ちない音楽、半ば普遍的な価値を持つ音楽のひとつにこのアルバムもおそらくは数えられるのだろう。なんかスクエアプッシャーみたいな曲とかあるんだよな……。





 今回購入したのは最近になってリマスタリングが施された盤なのだけれども、びっくりするぐらい音が太くなっていてこれも感動。クラブにある大きいスピーカーで聴いたら、脊髄あたりにドシンと響きそうな音になっている。ここ数年で、CANのアルバムのリマスター再発などもあったけれど、そちらも含めて随時買いなおそうかと思ったほど良い。



D


 あと、ホルガー・シューカイってジョー・ザヴィヌルにそっくりだよねぇ……。



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ハーフ・マラソン完走したよ日記

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マラソン初心者に伝えたい!失敗しないシューズの選び方 - 「石版!」


 先日、上記のエントリを書いてみなさまにたくさんのブックマークをしていただいたけれども、昨日がその本番の日だったのである。初レース、初ハーフ・マラソンと初めてだらけだったけれど、無事完走。タイムも目標の2時間を切って1時間50分ぐらいとなかなかの上出来な感じ。で、今回はハーフ・マラソン童貞を捨てるまでの過程を振り返ってみたい。




  • 練習


 レース参加を決めたのが12月の後半で、準備期間は1ヵ月半ぐらい。時間は多くなかったので、暇があるときはとにかく走りこんだ。だいたい普通は5キロぐらいの距離を週に2回。5キロぐらいだと20分ぐらいで走れたので、仕事で家に帰ったのが22時ぐらいになってもなんとか気合を出せば練習できた。





 それから12キロぐらいの距離を2回ぐらい走ってみた。これは会社のマラソン大好きおじさんに相談したら「ハーフでも初めてなら、練習で10キロ以上走らないとつらいよ」と教えられたので。いつも音楽を聴きながら走るのだが、2度目はブルックナーの交響曲第8番を聴きながら走って、走り終わったのが3楽章の途中(だいたい45分ぐらい)だったことに気がついて「なんだ、俺結構走れるんじゃん」と思ったりして、この練習で自信もついた。





 練習のときにはだいたいペース配分と呼吸、あとはフォームなどをランニングについて書かれている本を立ち読みして得た知識などを思い出しながら走ると楽しかった気がする。やはりマラソンみたいな「ただ走るだけ」みたいなスポーツでも頭を使って練習しないとダメな気がする。疲れたときこそ、腕を振る、とか。本によって書いてあることが違ったりするけれども、そのあたりは自分が楽な方法を選択すれば良い。




  • 道具


 シューズのほかに買って良かったと思ったものは、テニス用のヘアバンドと5本指ソックス。私は前髪が長いので、走っていると目に入ってきたり、汗で濡れた髪が額に張り付くのがウザかったのだが、ヘアバンドをしたら何も問題がなくなった。目に汗が入ったりすることもなくなったし、とても便利。難点はヴィジュアルがややイタい感じになることだ……。


 


 5本指ソックスは12キロ走ったときに足に6つもマメが出来てひどかった(走っている間は平気だが、次の日につらい)ため、ネットで調べたら「5本指ソックスが効果的」とあったので。これは本当に良かった。2度目の12キロのときにマメが出来なかった(皮が硬くなったのもあるだろうけど)。でも、本番を走ったらやっぱりマメができる。マメ問題は結局のところ、練習しているかしていないかの差なのかもしれない。




  • 本番


 10時半までに受付で、11時半スタートのレース。「受付してから1時間も寒いなか何するんだよ……」と思ったが、意外に時間がない。着替えをして、荷物を預けたりしていると時間はすぐに経ってしまう。とくに荷物を預けるのに今回は長蛇の列ができていて、結局係員のおじさんに「レースはじまっちゃうから、とりあえずここに置いておいて!見ておくから!!」と言われてしまった。荷物預かりの料金200円が浮いたのは良かったが、スタートは5分以上ぐらい遅れてしまう(正確なタイムはICチップ的なもので計るから良いのだけれど)。運営にも不手際があったみたいで、私を含め、大半のランナーがスタート・ゾーンに入る前に、号砲が鳴るのを聞いていた。



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 『ZAZEN BOYS4』を爆音で聴きながらスタート。レースの序盤はとにかく人が多く、自分のペースで走ることはほぼ無理。ほとんどみんなで一緒になって軽いランニングをしているみたい。それはちょっとイライラするので隙間を見つけたらスッと抜かすのを繰返す。これでちょっと体力を使ったかもしれない。「こんなに追い抜かして、大丈夫か……?」と不安になる。あと、給水所に近寄ろうとする人が急に前に入ってきたりするので、注意しないと危ない。たんたんと走って、5キロぐらい過ぎたあたりで先頭集団(箱根駅伝に出るような人たち)が折り返してきたのとすれ違って苦笑。ものが違いすぎると思った。





 ちょうど10キロを過ぎたあたりで、『ZAZEN BOYS4』が終わる(45分ぐらい)。気がついたら練習と同じぐらいのペース。街頭で応援してくれている人たちの声がイヤホン越しに聞こえてくるのでものすごく励まされた。見ず知らずの人たちなのに。



Death Magnetic
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 中盤からはメタリカ『Death Magnetic』を聴きながら。これがものすごくハマった。ジャギジャギのギターが耳に突き刺さり、ドラムのブラストが入るたびに脳内麻薬的な快楽成分が出てたと思う。完璧にランナーズ・ハイ。異様なテンションで15キロ地点まで快走する。給水は大事。だが、紙コップで配られるスポーツ・ドリンクを走りながら飲もうとすると、絶対にこぼして後から手がベタベタになるするので注意。給水は意外と難しい……と思った。テレビで観ているランナーの人たちの飲み物がちゃんとした容器に入っている理由を理解する。





 ただ、終盤はメタル効果も薄れ、太ももの痛みがどうしようもなくなり大きくペース・ダウン。最後の5キロはほとんど「歩いたら、残りの距離を歩かなくちゃいけなくなる」という恐怖感に煽られて、気合だけで走っていた気がする。地獄。自分が走った距離を示す看板だけが心の支えで「あと4キロ……」、「あと3キロ……」、「あと2キロ……」と心の中で、念仏を唱えるようにして進む。





 残り1キロのところでちょうど『Death Magnetic』も10曲中の9曲目「Suicide & Redemption」になる(9分ぐらいある長いインスト曲)。最後に支えてくれたのがこの曲で、カーク・ハメットが弾く長いソロのところで、ゴールまで300メートルぐらいになる。ここで最後の力を振り絞って猛ダッシュしてゴール(その余力があれば、終盤にもっと頑張れたのかもしれない)。猛ダッシュの間にすでに感極まって泣きそうになる。改めて、メタルという音楽に感謝したいような、霊験あらたかな気持ちになった。




  • 感想と今後の課題


 こんな感じで私の初ハーフ・マラソンは終了したが、終わったあとの感想は「フル・マラソンは絶対無理」ということに尽きてしまう。よく「ハーフを走ったら、フルに行きたくなる」とか聞くのだが、そういう人は元々すごく練習していたか、気がどうかしているとしか思えない。残り5キロで地獄だったのだからフルなら地獄が5倍強になるわけで、考えただけで救急車を呼んでしまいそうだ。ただ、一度レースに出るとハマるという気持ちはものすごく分かって、ハーフならまた走りたい、と強く思った。





 なので、今後の課題。





 まず、目標タイムを1時間半においてみる。となると解決しなきゃならないのは「後半のペース・ダウン」。10キロまで45分でいけたのだから、前半のペースを最後まで維持できれば次の目標をクリアできるわけである。解決するには、おそらく練習するしかないのであろう。走りこみを続けること、これぐらいしか思いつかない。





 あと、トレーニングのときに飲むプロテインを「体を大きくしたい人向けタイプ」(これが一番安くて量が多いのだ)のものから「持久力をつけたい人向けタイプ」に切り替えていも良いかもしれない。レースに出ていた人のなかで、カッコ良い江頭2:50みたいなタイツみたいなの(上下そろえると、GANTZ)を着ている人も多かったので、ああいう恥ずかしい感じのウェアを用意してみるのも良いかもしれない。





 こういう雑誌を立ち読みして研究だ!





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