アンネ=ゾフィー・ムター/バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ

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バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ
ムター(アンネ=ゾフィー)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2008-05-21)
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 先日、HMVに行った際「輸入盤が手に入るようになるまで買うのを待っていよう」と思いながら買いそびれていたアンネ=ゾフィー・ムターのアルバム(日本盤)が、2割引きになっていたので購入した*1。昨年発売されたこのアルバムでは、ムターはヨハン・セバンティアン・バッハのヴァイオリン協奏曲第1番・第2番と、タタール出身の作曲家、ソフィア・グバイドゥーリナの《今この時の中で》というヴァイオリン協奏曲を取り上げている。数年来、グバイドゥーリナへの関心を持ち続けているので私の興味は断然後者にあった。彼女がムターに献呈した作品がどのようなものであるのか。それが気になっていた。





 旧ソ連時代に不遇のときを過ごしたこの作曲家は、1980年代に入ってからギドン・クレーメルらの紹介により急速に知名度を高め、ギヤ・カンチェーリ、アルフレート・シュニトケらとともに「ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家」と呼ばれることになった。彼女は今では現代音楽界で最も注目されている作曲家の一人である。この変化にはもちろん状況の変化(ペレストロイカとか体制の崩壊とか)の要因がある。しかし、一方で私は別な要因が彼女の作品、というか、作品作りの態度のなかにあったのではないか、と思う。





 先日私は「商品ではない芸術が今日においてあるとしたら、それは個人的な祈りに近いものなのではないか……」などと愚にもつかないような雑感を記したけれど、このとき念頭にあったのは実のところグバイドゥーリナの作品だった――ロシア正教会の信仰を作品の基盤的なテーマに選び、その世界観を音楽作品のなかで描こうとする彼女の作品は、祈りに近いものであるように思われるのだ。そこでは神と私という関係性が意識される。これはとても個人的なものとして私は捉えている。それは《今この時の中で》でも同様で、(地獄のモチーフであるという)執拗なオスティナートと、(天国のモチーフであるという)長調の広がりある和声が交互に登場するなかを、独奏ヴァイオリンが迷いつつ進み、最終的に天国的な世界へと昇華される、という構成のなかにグバイドゥーリナのパーソナリティを投射してみることができるだろう。





 そこには聴衆というものが存在しない。啓蒙すべき大衆も、アカデミックな楽壇も現れない。しかし、だからこそ、彼女が注目を集めることができた(聴衆を獲得することができた)のではなかろうか。これは他の「ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家」にも共通して言えることかもしれないが。彼・彼女たちの作品とはどれもそのように個人的なもののように聞こえる。少なくとも西欧のアカデミックな楽壇の象徴的人物でもある、ピエール・ブーレーズとは明らかにまったく違った態度によって作曲をおこなっていた、といえるだろう。





 ただ《今この時の中で》は、彼女が以前に書いた《オッフェルトリウム》(ギドン・クレーメルに献呈)よりも優れたヴァイオリン協奏曲だとは思わなかった。結局のところ、それは個人的な好みに過ぎないが。それからムターのバッハ演奏も凡庸であるように感じた。グバイドゥーリナとバッハをカップリングする、という試みは至極真っ当なものである、と思われるのだが、いまいち引っかかるところがない。




*1:今、アマゾンで売っているのをチェックしたら1500円になっていたので少しショック





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マルセル・モース『贈与論』

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贈与論 (ちくま学芸文庫)
マルセル モース
筑摩書房
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 社会学の古典的な名著をかなりいい加減に読む(かなり大量の注釈がついていたが全部飛ばした……)。新訳のせいかとても読みやすかったが、あまりに読み易すぎていい加減に読んでいたら、さくっと読めてしまった。クロード・レヴィ=ストロースやジョルジュ・バタイユ、さらにはジャン・ボードリヤールにも影響を与え……云々というということもあり、『贈与論』に言及した文章はこれまでにいくつも目にしてきたが、割とあっさりした著作で拍子抜け(そういった影響の強い本とは、大概ものすごく難しいものだと思っていたので)。それからこの本を読むまでマルセル・モースがエミール・デュルケムの甥っ子だという事実を知らなかった。彼は幼少の頃からデュルケムの教えをうけていた、とか。なんだかすごい幼少時代である。羨ましいかどうかは別として、おじさんがものすごく偉い先生ってどういう気持ちなのだろうか。





 有名なので今更説明することもないかもしれないが、『贈与論』で記述されているのは、主に“未開社会”における「ポトラッチ」という慣習についてである。これはある人が贈り物をしたときに、その贈り物を破壊する、という行為である。第1章から第2章までは、この奇妙な慣習についてミクロネシアやポリネシア、インディアンなどの事例をつぶさにみていくことによって「ポトラッチは特殊な習慣ではなく、広く認められる習慣である」という分析をおこなう。この際、モースはこのような贈与行為によって社会関係が生まれていることも主張する。ポトラッチは単なる無意味な奇習ではなく、部族間や部族内の連帯を高めるために(社会の紐帯を強めるために)有用な行為である、と説く。





 その後、第3章から第4章で展開されるのは「実はこの習慣、ヨーロッパにもあるんじゃないの?もちろん今もその名残があるんじゃないの?」という分析である。経済活動はそれまで人間の合理的理性が発達し生まれたものだと言われてきた――だから、ポトラッチなんか野蛮なことやっている“未開社会”では経済活動なんか生まれないのだ、みたい考えへの反証がまたそこではおこなわれる。ポトラッチにしても、他の贈与関係にしても原理的な部分は現代の“合理的な社会”と変わりがない。「こうした道徳は永遠である。それは最も進化した社会にも、未来の社会にも、創造しうるいっそう未発達の社会にも共通である」。





 解説でも触れられているが、以上の過程はものすごく美しい。「うむ!」とムダに唸りたくなるほど、バシッとキマりまくっている。面白かったので、ほかのモースの著作にも手を出したくなった。





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村上春樹『約束された場所で――underground 2』

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約束された場所で―underground 2 (文春文庫)
村上 春樹
文芸春秋
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 村上春樹の(インタビュー時点で“元”を含む)オウム信者へのインタビュー集を再読*1。ページを開いた瞬間に「ああ、やっぱり面白いな……これは一晩で読んでしまいそうだな……」という予感があったのだが、明け方まで起きて読みきってしまった。とても強く心が惹かれる本である、と言うのも、この本に収録された信者の言葉に大きな共感を持って読めてしまうからだ。インタビューに答えている人たちの多くは、当時(1998年)30代前後で私とは世代がまったく違う、にも関わらず、彼らが入信前に抱いていた漠然とした世界に対する不安感/不信感などはとてもよく理解できる。正確に言うと、ほとんど自分の経験として受け止めることができる。だから、心が惹かれるのだ。こういった世界に対するネガティヴな反応の仕方(とくになんの出来事もないのにも関わらず、世界を憎悪する)は、ある程度普遍的なものなのかもしれない。時代/世代的なものではない。私(1985年生まれ)は90年代のちょうど半分を十代の時間として過ごしたけれども、1995年生まれでもうすぐ終わろうとしているゼロ年代の半分を十代の時間として過ごしている人にも、いるのだろう、と何の根拠もなしに推測してしまう。要はそういったネガティヴな感覚をどのようにして解消していくのか、が時代によって違う、というだけの話なのだろう。この本に登場するインタビュイーにとっては、それがたまたまオウム真理教という団体だった。私の場合は、社会学という学問だった(と思う)。私より10歳下の中学生だって、そのうちなにかを見つけたり、見つけられないまま死んでしまったりするのだろう。そうであるならば「なぜ彼らは世界を憎悪するのか」を問うのではなく、「どのように世界に対するネガティヴな感覚を解消するのか」を問うほうが重要に思えてくる。




 おそらく先日再読した大澤真幸の本*2もまた「オウムはどのように世界に対する憎悪を解消したのか」という問題の分析を試みた本としても読める。そこでは、自らの意思を尊師である麻原彰晃に全面的に預けることによって、問題の解消を図ろうとした、というようなことが書かれている(だが、それゆえに地下鉄サリン事件のような事件に至ってしまった、という分析へと以上は繋がっていく)。一方、この『約束された場所で』はまた違った事実を我々に教えてくれる。インタビュイーのなかには、明らかに麻原への不信感が元から存在していた、にも関わらず、オウムの出家信者として“現世”から離れてしまった人物が何人も登場している。彼らの多くが、世界をネガティヴに思うあまり精神、だけでなく体調も悪化させてしまっているのだが、オウム真理教が教えたヨーガなどでそれらの体調悪化が直ってしまったからオウムへと入信した、というようなことを語っている。麻原はどうかと思うが「へえっ、これはすごいんだ」だから入ろう、と。このような入信動機を「世界への不信と、救済願望」と、(新宗教で見られるような)「現世利益」とで区別することができるだろうか。どちらも救われる、という意味では区別ができず、またその意思や実践は麻原彰晃とはまったく関係のないところで動いているようにも思う。



癒されることを求めた彼らが、なぜ「サリン事件」という救いのない無差別殺人に行き着いたのか。



 これはこの本(私が持っているのは文庫版だ)の裏表紙に書かれた文句だが、実際のところ、このインタビュー集でそのような問題について探求される箇所は一切ない。しかし、著者が「やっぱり教義に問題があったのではないか」という意見を出している箇所はある(この点は大澤と同様であろう)。だが、この本を読みながら思うのは狭義云々の問題ではなく「そういう世界に対して不信感を抱いた人たちがたくさん集まったら、世界に対して戦争をしかけるのも当然じゃないか?」ということである。だが、重要であるのは、それがやれるか、やれないか、という問題だ(私にはできない)。大澤はそれを「自らの意思を尊師である麻原彰晃に全面的に預けること」と分析している。しかし、やれ、と師事した麻原彰晃はそのときどうなるのだろうか。彼もまた世界からの疎外を感じながら生きてきた人物であろう。だが、彼がそこから抜け出して作った教団は次第に嫌ったはずの世界を模しはじめる(官僚主義的な組織体制のほかにも、功徳を積まなければ位が上がらないなどは学校的システムそのものだ)。地獄だと思って逃げ込んだ先がまた地獄だった、そんな状況ではなかったろうか。





 これとは別に、今回再読したときには「今、この人たちは40代なんだよな……この人たちは今何をしているんだろう、何を思っているんだろう」という風にも思った。




*1:一度目に読んで考えていたことはこちらに記してある


*2大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』 - 「石版!」





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ル スコアール管弦楽団第26回演奏会のお知らせ

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ル スコアール管弦楽団第26回演奏会


日時:2009年6月28日(日)14:00開演予定


場所:すみだトリフォニーホール 大ホール


曲目:


R.シュトラウス/アルプス交響曲


プロコフィエフ/スキタイ組曲


指揮:千葉芳裕


入場料:全席自由 1,000円

ル スコアール管弦楽団*1



 今月の頭から6月に出演する練習がはじまった。今度の演奏会も、プロコフィエフの《スキタイ組曲》とリヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》という、なかなか重量級のプログラムなのでなかなか大変である。しかも久しぶりに全曲に出番があるし(プロコフィエフで2番ファゴット、リヒャルトで4番ファゴット兼1番アシスタント)、どちらもとても面白い曲なので苦ではないはず……と念じることによって、頑張りたい。



D


 《スキタイ組曲》は、プロコフィエフの初期作品。ディアギレフのバレエ・リュスのために書かれたものが「これ《春の祭典》とかぶってない?」とダメ出しをくらってお蔵入り、それを管弦楽組曲として書き直したものだと言う。なんだか曰くつきの作品であるが「古代の民族が邪神と闘う」という筋書きは、たしかに《ハルサイ》とかぶっていて、ディアギレフがダメ出ししたのもなんとなく理解できる。


 


 上にあげたのは、ワーレリー・ゲルギエフ指揮/ロッテルダム交響楽団の演奏(第1曲と第2曲の抜粋)。ゲルギエフの顔が邪神っぽくて、えらいことになっているが、何年か前にリリースされたCDに収録された演奏よりも高速のテンポ設定となっており、高揚感がすごい。微妙にアンサンブルが乱れている気がするが。



Prokofiev: Scythian Suite; Alexander Nevsky

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D


 メインのプログラムである《アルプス交響曲》はタイトル通り、リヒャルト・シュトラウスがアルプス山脈を登ったときの印象を音楽化したもの(今回のプログラムは古代人になって踊ったあとに、山に登る、という壮絶なものなのだ)。ホルンだけで8本、と通常の倍以上の編成でガン鳴らす超絶スペクタル作品である。もうこれは素晴らしい作品で、私は一度練習に参加しただけで涙がでそうになってしまった。生でこの音圧を体験していただきたい、と思う。クライマックスらしい展開がいくつも盛り込まれているところで、いつも何度でも達してしまいそうになるよ……。





 動画はルドルフ・ケンペ指揮/シュターツカペレ・ドレスデンの演奏(調べたところによれば、初演もこのオーケストラだったという)。曲の構成とリンクした映像もよくできている。



R.シュトラウス:アルプス交響曲
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*1:楽団のサイトで無料招待券の受付中





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ザ・ジューグン・イアンプ/俺とお前のMD構想

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 DS-10をイジッてたらとても任天堂製品から出ているとは思えない、凶悪な音ができたので公開いたします。ニューロンとシナプスの結び目を強引にほどいて脳をスポンジ状にするような胎教とかに悪そうな音が10分以上続くので、本当に物好きな人だけ聴いてください。



KORG DS-10(Amazon.co.jp限定販売)
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フランセス・アッシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』

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人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫)
フランセス アッシュクロフト
河出書房新社
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 原題は「Life At The Extremes」。タイトルだけからすると、ナパーム・デスとかライトニング・ボルトとかそういうエクストリームな人たちを愛好する人々の人生を追った本かと思いがちだが*1、実際のところはイギリスのオックスフォード大学で生理学を教えている科学者が書いた「人間は極限状態にどこまで耐えられるのか」を詳細に示した本である。全7章の内訳は以下の通り。





  • どのくらい高く登れるのか

  • どのくらい深く潜れるのか

  • どのくらいの暑さに耐えられるのか

  • どのくらいの寒さに耐えられるのか

  • どのくらい速く走れるのか

  • 宇宙では生きていけるのか

  • 生命はどこまで耐えられるのか



 この本では人間だけに留まらず、他の種の動物や微生物などにもフォーカスがあてられ、また、そういった極限状態に対して生命の身体はどのような反応を示すのかも紹介される。言ってしまえば、一種の科学雑学本なのであるが、とても面白かった。著者(女性)の語り口もとてもユーモラスで「きっと良い感じのオバサンなのだろうなぁ」と想像がつき、調べてみたら本当に良い感じのオバサンだったので余計に親しみを抱けてしまった。


f:id:Geheimagent:20090326220126j:image:left

 しかし、雑学本とはいえ得るものもかなりある。個人的には「どのくらい速く走れるのか」で紹介される、長距離ランナーが用いると言う「カーボローディング」*2という食餌計画の話などは、(私も長距離を走りたいと思っているので)とても参考になったし、他にも感動してしまう部分さえあった。なかでももっともグッときてしまったのは「どのくらい高く登れるのか」におけるこの部分だ。少し長くなるが引用しておこう。ここでは、中南米におけるスペイン人の侵略の歴史と高度が人体に及ぼす影響が紹介される。


スペイン人は標高約4000メートルにポトシの町を建設したが、ここはまさに辺境の地で、女性や家畜は出産のためにふもとへ下りなければならず、子どもが生まれてから1年は低地で育てた。先住民の女性は妊娠も出産も影響を受けなかったが、高地で生まれたスペイン人の子どもは死産か、生後2週間以内に死んだ。町の建設から55年後の1598年、クリスマスイブにスペイン人の子どもが初めて元気に生まれ、聖ニコラウス・トレンティヌスの奇跡と称えられた。「奇跡の子ども」は6人生まれたが、みな成人する前に死んだ。それから2、3世代をかけて、おそらく先住民との混血が進んだために、人間の出産をめぐる障害は克服された。しかし牛や馬は不妊の傾向が続き、結局、スペイン人は都をリマに移した。*3


 この一節に、ちょうどラテンアメリカの小説家が書くような長大な大河小説に匹敵する感動を抱かざるを得ない。ここには歴史の大きな物語――人間の身体の高地への適応と言う――が凝縮されている。あと「体にフィットするズボンはセクシーに見えるが、皮肉なことに、実は男性の生殖機能を衰えさせている。精巣を締め付けて熱の発散を減らし、ひいては精子の生成を減らしているというわけだ*4」という記述も気をつけようと……思った。


 




*1:思わないよ!そんなのあったら読みたいけど!モッシュで首を折ったりとかしてそう……


*2:狭義の直前に炭水化物中心の食事をして、筋肉に最大限のグリコーゲンを蓄える方法。グリコーゲンは筋肉がパワーを発揮するときの最大限のエネルギー源


*3:強調は引用者


*4:精子は高温に弱い





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菊地成孔 南博『花と水』

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花と水
花と水
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南博 菊地成孔
ewe records (2009-03-25)
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 CDを再生した瞬間に鳴るピアノの和音によって思い出したのはテオドール・アドルノがジャズを痛烈に批判したエッセイの一節だった。私はここで机の上にあった『楽興の時』を紐解いてその部分を正確に引用しよう――「ホットな律動法を例外として、ジャズの精妙な技術上の特色のすべてが、印象主義の様式に源を発しているのであって、印象主義はジャズというまわり道を通って始めて社会に広く受け入れられるようになったと言っても、あながち言い過ぎではないのである」。この言葉と同時に思い浮かべたのは、クロード・ドビュッシーによって書かれた水の印象に基づくピアノ作品である。ジャズ、印象主義、ドビュッシー。そして、水。よく知られているように、かのフランスの作曲家は同じ印象主義という括りで語られる同時代の画家たちと同様に、東洋への強い憧憬を持っていた。オリエンタリズム、ジャポネズム。「ジャズ・ジャポネズム最新の実践」と謳うアルバムだけはある。冒頭からこのアルバムには水が満たされていた。





 一方、花はどうであろうか。何がここでは花開いているのだろうか――まず第一に言えることは、イメージが咲き乱れている、ということだ。このことは冒頭から続けた私の他愛もない連想ゲーム(もちろんこんなものは批評でもなんでもない)からも導き出せる。そして第二に、この演奏自体に花のイメージが付与できるのだろう(ここでは水のイメージと花のイメージとが共存している)。しかし、その花は自然のなかで無垢なまま育つ花ではない。切取られ、花瓶のなかで、あるいは剣山に刺された状態で、水を与えられることによって始めて輝く花である。言うまでもなく、それは人工的に作り出された状態であり、芸術というよりかは、商品としての性格のほうが色濃く出ているように思う。





 これは芸術ではない。ここで再びアドルノの言葉を借りるならば「規格化された商品」に過ぎない。それも芸術の形式を高度に模した、限りなく芸術のポーズを取ろうとする商品である。だが、高度に芸術の形式を模した商品は、商品と区別との境界線を曖昧にさせる。それは自ずと、今日において商品ではない芸術がどこにあるのか、を問うものでもあろう。それが芸術であるか、商品であるかを区別するのは、芸術/商品の発信者がどのように制作物を区分するかに左右されてしまう。このことは音楽に限った話ではない。映画にしても、小説にしても、同じことが言えるだろう――商業ベースで制作されたクリント・イーストウッドの作品がなぜ心を揺るがすのか。このような時代をアドルノは予期できなかったにちがいない。それはもしかしたら我々のメンタリティが高度に規格化されてしまっただけの話かもしれないが。商品ではない芸術が今日においてあるとしたら、それは個人的な祈りに近いものなのではないか……などと漠然と考えてしまう。





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BECK来日公演@NHKホール

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Modern Guilt
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Beck
Iliad / Hostess (2008-07-08)
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 ベックの来日公演に行ったのは、会社の女の子(とても可愛い)に誘われた、という理由が一番でとくに大した思い入れがあるわけではないのだが、とても楽しかった。始まる前から「立ち上がってノリノリな感じで観るライヴじゃないんだろうなぁ」と思っていたのだが、座席が3階席だったこともあり、静かに1時間半ぐらいのパフォーマンスを聴く。周りのお客さんもほとんど、静かに座って聴いていて、ノリノリな感じで聴きたかった人には居心地が悪かったかもしれないけれど、座ってロックを聴くというのがちゃんと許されているところになにかロック文化の成熟を見たような気がした。年齢層も割りと高め。





 演奏されたのは、新譜からのもの中心に、あとは大体『Sea Change』以降の曲が多かったように思う。リアルタイムでベックを聴き始めたのはこの『Sea Change』からで、それから既に3枚もアルバムを出しているのか……と思うとなかなかすごい感じがするが、どの曲がどのアルバムに入っているのかまったく判別が付かず「俺ってホントにベックに思い入れないんだなぁ……」と思った。曲名もまったく覚えてないし……。



D


 聴いていて思ったのは「メロウなときのベックは本当に良いなぁ」ということ。ダンエレクトロのエレキギターから、ボディの小さいアコギに持ち替えてからの彼のパフォーマンスは本当に素晴らしかったと思う。テクノロジーを巧みに利用して、活きの良いプロデューサーと一緒に作る“斬新なロック・サウンド”よりも、私は実のところ、このアーティストのかなりオーセンティックなポップ・センスが発揮される部分が好きだ。





 あと、初めてNHKホールに行ったけど「ここで毎年紅白をやってんのかー」とか少し感慨深いものがあった。テレビで観たことがある場所に実際に足を踏み入れるというのは不思議な感覚。建物の中は古い文化会館みたいなにおいがした(内装の感じとかで、福島県文化センターを思い出したのは超個人的な思い出だ)。





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奥村隆『ジンメルのアンビヴァレンツ』

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奥村隆『ジンメルのアンビヴァレンツ』(PDF)


 何気なしに学生時代の恩師が書いた論文を読んでみた。これはゲオルク・ジンメルのヴェーバーやデュルケム、そしてマルクスとはちがった社会の捉え方を検討したもの。こういった社会学についての文章を読むのはひさしぶりだったけれど、とても面白く読む。「個人に対し、社会が存在する」という構図ではなく、さまざまな要素が絡み合って、個人のように見える、あるいは社会のように見える(個人も、社会も確固たる実在性を持っているとは言えない)という議論をジンメルは提示し、そのような“見える化”を彼は「相互作用」という風に呼んだ。同語反復のようだけれど、この相互作用によってこそ、社会や個人が成立するのだ。奥村はこの観点を『エリアス・暴力への問い』で、ジンメルとエリアスの観点の類似について指摘する際に参照しているが、読んでいて思い出したのは馬場靖雄の『ルーマンの社会理論』であったりもする――システムの構成要素はコミュニケーション、とか。





 奥村はジンメルのこの観点を「社会という悲劇」を発見しないもの、として評価する。ここで言われている「社会という悲劇」は、村上春樹の表現を借りるなら「壁に卵が押しつぶされるような状況」と換言することができるだろう。論文の冒頭では、ヴェーバーやデュルケムやマルクスが発見した悲劇について触れられている。しかし、ジンメルはそのような発見をおこなわない。「ここには目的もない。結果もない。悲劇もない。真実もない。ただ、関係のための関係、コミュニケーションのためのコミュニケーションが続いていく」。これがジンメルが描いた社会の姿である。悲劇を発見した社会学者たちが描いたものを、彼は遊戯的なものとして捉えることによって、発見を自ずから回避する。「社会という悲劇」のなかで描かれたものが、社会の目的のために個人の目的が抑圧される、だとか社会のなかで個人の目的が達成されない、という状況なのだとしたら、ジンメルは逆に目的が達成されることが悲劇と化す、というような見方をする。この点はとても興味深い。奥村が紹介しているジンメルの「コケットリ」についての例を以下では引用しておこう。



男が女を好きになり(そこにはエロティックな衝動という「内容」があることだろう)、彼女を求めるが、女は「与えることを仄めかすかと思えば、拒むことを仄めかすことで刺戟し、一方、男性を惹きつけはするものの、決心させるところまではいかず、他方、避けはするものの、すべての望みを奪いはしない」。(中略)もし拒否したり彼のものになったりしたら、その瞬間に彼女はある内容・リアリティに釘付けされて、その動きは止まり、魅力はなくなるだろう



 男が女を得る、それが達成された時点で相互作用は終了してしまう。奥村の論文のなかでは、ジンメルが使用した以上のような喩えがいくつも引用されている。そこではつねに目的の達成が、分離や断絶を生み出すことが意識される。男が女を得ることによって、一見、結合が生み出されたように見える、が、その時点で魅力を失う、という分離が生じる。結合と分離が同時に発生する、というジンメルの“センス(と奥村は呼ぶ)”は私にも興味深く思われた。





 ジンメルは相互作用がつねに続いていくことをあるべき社会の姿である、として考える。奥村はこれを評価する一方で、この終わりのなさもまた、ひとつの悲劇なのではないか、という見方も与えている(これがタイトルの『アンビヴァレンツ』と繋がっている)。ジンメルは「『社会という歓び』は、『結合』するほど、近いほど、温かいほど、理解するほどいい(『歓びだ』だ!)、とする『通俗的見解』」を切り捨てる。しかし、我々の根源にはそのような「通俗的見解」を希求するような欲望が根深く存在しているのではないか(例えば、他者と完全に同一になりたい、というような)、というのが、奥村がジンメルに感じるアンビヴァレンツであったように思う。





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エルヴィン・パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』

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“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)
エルヴィン パノフスキー
筑摩書房
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 id:la-danseさんから以前に「アドルノの音楽批評には、パノフスキーとレヴィ=ストロースと通じるものがある」というメッセージをいただいたことがある。そのメッセージをいただくまでパノフスキーという人については名前も知らなかったのだが、ちょうど最近になってこの『<象徴形式>としての遠近法』が文庫化されたこともあり読んでみた。これは、古代から近代に至るまでの芸術作品における遠近法の変遷(局面遠近法から平面遠近法へ)に、人間の認識方法や精神構造の変化を読み取る、というなんだかすごい本なのだが、本文よりも註のほうがヴォリュームがある、という点もおそろしく、美術についてほとんど門外漢である私にとって註までカヴァーできるほどの体力はなかったため、本文だけ読むことに努めたらあっという間に読み終えてしまった。本当に短い論文にも関わらず、刺激的な部分が多い。



哲学の負うべき課題は、現実のなかに隠されてすでに存在している意図を探りだすことではない。そうではなく意図なき現実を解釈することなのだ……(テオドール・アドルノ)



 パノフスキーの批評とアドルノの批評とのあいだにある近似とは、まさしく以上に引用したアドルノの言葉に集約される。そこでは作者が作品込めたであろう意図(意味)は参照されず、むしろ、作品の構造、あるいは作品に用いられている技法に対して哲学が布置することによって、「意図なき現実を解釈する」――そこでは作品と哲学とが拮抗しながら、意味しあう関係性を結ぶ。パノフスキーは作品の構図を分析し、そこで行われている技法を明晰に解き明かす。しかし、その分析のみで批評を終わらすとするならば、批評はアドルノの言うところの「廃墟」に過ぎなくなる。だが、そこで分析した構造を、作品から哲学へ、哲学から作品へと跳躍する批評の架け橋とする。両者はこの点を共有している。





 もう少し何かを言おうとするならば『イコノロジー研究』にも触れなければならないのだろう……。なんにせよ、もう少し勉強が必要である。





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大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』

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増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)
大澤 真幸
筑摩書房
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 先日、会社で組んでいるバンド*1の集まりで飲んでいたときに、偶然オウム真理教の話になった。そのとき、バンドのメンバーであるひとりのオンナノコ――20歳ぐらいの――が「オウムって何をした人たちですか?」となんの思惑もなしに言った。そのなんの思惑もないところが私には衝撃的だった。だからこそ、読む順に積まれている積読本の山の真ん中あたりからこの『虚構の時代の果て』を選んだのだと思う。無論、私が受けた衝撃とは、ごく個人的な経験からくるものであろうが、このタイミングで(宮台真司と並ぶ)日本の社会学界のビッグネームである大澤真幸が、オウム真理教を取り扱ったこの著作を読まなければいけない。そんな気がした。


既に新書版で一度読んだことがあったとしても、だ。





 単なる“私語り”になってしまうけれども、私にとってオウム真理教という存在はとても大きなものである。地下鉄サリン事件が起きたのが、1995年。当時、私は小学5年生で上九一色村のサティアンに隠れていた麻原彰晃が逮捕された瞬間は、教室のテレビで観ていた。その頃は、テレビをつければオウムについての情報が入ってくる。意識をしなくても、オウムについての情報を浴びることができる。そういう時期だった、と記憶している。麻原が出馬した衆議院議員選挙の選挙活動の映像は、ほとんど毎日放送されていたのではないだろうか。そのおかげで、ひょうきん者のクラスメートは人差し指を立てた手を空中でグルグルと回しながら「ショーコー、ショーコー、ショコショコ……」と歌うだけで、クラス中からの喝采を受けることができた。





 しかしながら当時から私はあの時期のオウム報道に対して、強い違和感を感じていた。とりわけ、教団施設の付近の住民が起こした「オウム教団施設退去デモ」に、私は強く反応した。私が感じていた違和感を端的に表す言葉は『虚構の時代の果て』でも述べられている。「……オウムを正面から批判したり攻撃する者の方が、しばしば、オウムに似てくるという構図」(P.281)。これである。オウム真理教という組織は、暴力を行使し、そして殺人を犯した。しかし、それを糾弾する側もまた暴力的に糾弾をおこなっているのではないか、だとするならばオウムも、それを糾弾する側も限りなく同じ立ち位地にいるのではないか。もっとも教団施設の立ち退き活動が活発な地域として報道されていたのは、たしか中野区だった気がする。中野区の住民が「オウム、出て行け」などと書かれたプラカードを掲げている映像を見る度に私は「オウム信者は可哀想だ」と思った。





 そこにはオウム信者に対する一種の共感が存在していたのだろう、と今では思う。



……われわれの多くは、オウム信者についての情報を大量に集め、彼らについて知れば知るほど、彼らが大方われわれとよく類似し、われわれと近接していることを発見してしまう。(P.32)


 大澤は本の序盤でこのように書いているが、私にはそれはとてもよく理解できる。これまでに「オウム信者についての情報を大量に集め」た経験がなくとも*2。オウム信者と私の間には、距離がほとんどない、そして(生まれた場所や時間が違えば)私もオウム信者になりえた可能性は充分にある、という直観が私にはある。そして、それは私だけではないはずなのだ。オウムを糾弾する側でも、なにかの巡り合わせが重なれば、オウム信者になっていた、という可能性は充分あり得る。しかし、それは多くの場合、意識されていない。だからこそ、糾弾する側は暴力的に糾弾することができるのであり、さらにはオウム信者が可哀想なのだろう。





 誰もがオウム信者になりえた、という可能性は、誰もが地下鉄で(あるいは松本の住宅地で)サリンを吸って死にえた、という可能性とほぼ重なる。これらもまた意識されていない事柄である。事実、私にしても丸の内線や千代田線、日比谷線を利用するときに時折「ああ、ここで何人かの人が死んでいるんだな」という風に思い返すだけで、普段、(生まれた場所や時間が違えばあのときに)サリンを吸って死にえた、という可能性を忘却してしまっている。





 なりえた、あるいは、死にえた、という可能性は大澤が増補の部分で述べた以下の言葉と対応しているように思える。



われわれは、オウム事件以降、類似の犯罪、類似の暴力が反復される時代に突入した。この種の出来事が、まるで幽霊のように、現代社会に、われわれの社会システムにとり憑いている。どうして、反復されるのか?オウム事件が、真に徹底して<反復>されていないからだ、と答えたらとしたら、逆説を弄しすぎであろうか?



 この意見には全面的に同意をせざるを得ない。「真に徹底して<反復>」し、そして、それらに対する“総括”がおこなわれていない、それらを乗り越えていないからこそ、類似のの暴力は繰り返される――それらを乗り越えるために、我々は今一度<他者>を捉えなおさなければならない。にもかかわらず、我々は依然として突然現れた暴力的な他者――例えば宅間守や、加藤智大、対象を人から外せば北朝鮮、という国家――に対して、理解不能な他者のレッテルを貼り、忘却を待つだけの対処しかおこなっていない。




*1:既に脱退


*2:サリン事件について、村上春樹の『アンダーグラウンド』、『約束された場所で』を読んだことがあるくらいだ





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読売日本交響楽団第480回定期演奏会@サントリーホール

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指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ


ソプラノ : インドラ・トーマス


アルト : シャルロット・ヘルカント


テノール : ロイ・コーネリアス・スミス


バス : ジェームズ・ラザフォード


合唱:新国立劇場合唱団


【曲目】


ベートーヴェン/荘厳ミサ曲「ミサ・ソレムニス」



 半年ぐらい楽しみにしていたスクロヴァチェフスキの演奏会に行く。曲目はベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)》で、後期ベートーヴェンの名曲のひとつにも関わらず、演奏機会があまりないため今回は見逃せなかった。「第9と並ぶ素晴らしい曲なのに、なぜ演奏されないのか」と公演前に偶然会った知人(高校のオーケストラの先輩)と話をしたけれども、初めて生演奏に触れて気がついたことがある。「この曲、めちゃくちゃ難しい……」と。第9もかなりの難曲であるのだが、《ミサ・ソレムニス》の方が2割増しで難しいのではないか。技術の限りを尽くしたような複雑なフーガはもちろんのこと、宗教曲という性格の難しさも感じるし、また「ベネディクトゥス」における長いヴァイオリン独奏の出来や、歌手の力量によってもまるで音楽の聴き映えが変わってしまう。





 そのような観点からすれば今回のスクロヴァチェフスキの演奏はとても良かったけれど、一生心に残るような水準に達してはいなかった。私の耳にはソプラノがいささか艶やか過ぎて感じたし、前半はやや散漫な印象を受けた。それでも中盤でテンポが何気なく変化する(劇的な効果があるわけではない)箇所で、スクロヴァチェフスキが音楽に与えている呼吸を強烈に感じ、そこで涙が出てしまう。彼が得意とするブルックナーのように、肌を震わすほどの圧倒的な音量の音楽は《ミサ・ソレムニス》には存在しない。しかしながら、彼の音楽は必ずや琴線に触れてくる。その秘密が彼の呼吸にあるのではないだろうか。細やかなアーティキュレーションやダイナミクスの変化に呼吸は宿り、そして音楽に生命を与えるのだ。


 


 思うに、そう言った“生きた音楽”に触れたときの感覚とは、安易な癒やしではありえない。そうであるからこそ、私は決して安くはないチケット料を払い、電車を一時間も乗り継いでコンサート・ホールまで足を運ぶのだろう。





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ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2――エッセイの思想』

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ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)
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 ひさしぶりに思想っぽい本などを、と思いヴァルター・ベンヤミンを読もうとしてみた。この思想家/批評家については学生時代にかった同じちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション1』を何度か読んで「これは難しい……生理的にあわないのかもしれない」と敬して遠ざけてきたのであるが、ここにきてなんとなく読んでみたら初めて面白く読めた。比較的短い批評や小論などを集めたこの『ベンヤミン・コレクション2』はもしかしたら一番ベンヤミン入門に適しているのかもしれない。




 まったく知らない、名前すら聞いたこともない作家についての話を読むのはなかなかくたびれたけれども、一番最初に収録されている蒐集家のフェティッシュな快楽と、蒐集物と蒐集家の関係性を論じた「蔵書の荷解きをする」という原稿から惹きつけられるものがあるし、カフカ論やプルースト論などもとても面白く読めた。ベンヤミンと親交を結んでいたテオドール・アドルノもプルースト論を書いているが*1、アドルノとベンヤミンの文章を比較するとはるかにベンヤミンのほうが優れているようにも思う――ベンヤミンの批評のほうがプルーストをうまく媒介している、というような意味で。単にベンヤミンの翻訳者のほうに、流麗な日本語が書ける人が集まってしまっているせいかもしれないが、喩えるならアドルノの文章がプルーストのひきこもった部分と繋がるのに対して、ベンヤミンの文章はプルーストの華々しい社交界での経歴と繋がっているかのようである。この本をきっかけにまた『失われた時を求めて』を読もうかという気になったのも良かった。





 しかし、これら以上に個人的な興味を惹いたのは「翻訳者の使命」という小論である。このなかでベンヤミンは翻訳の限界についてこのように述べている。



翻訳において個々の語に忠実であれば、それぞれの語が原作のなかにもっている意味を完全に再現することは、ほとんど必ずといっていいほどできない。なぜなら、語の意味は、原作に対するその詩的な意義からすれば、志向されるものにおいて汲みつくされるものではなく、ある特定の語において志向されるものが志向する仕方にどのように結びついているかによってこそ、その詩的意義を獲得するからである。(P.404 強調は引用者)



 ここでベンヤミンが言っていることを、少し細かく説明してみると「文学作品における言語の意味(言語が指し示すもの)とは、言語の音(志向する仕方)と不可分に結びついており、翻訳はその結びつきを解いてしまう。よって、“意味”は完全に再現することはできない。結びつきを解いてしまった時点で、言語の意味は変容してしまうのだ」ということになるだろう。いかに文法的・実際的な意味的に正しい翻訳がおこなわれたとしても、それは完璧に、原作のなかにもっている意味を再現することはできない。だから、翻訳者はあらかじめ宿命的にその行為の失敗を運命づけられた存在である。しかし、ベンヤミンはこうも述べている。



……ひとつの言語形成物の意味が、その伝達する意味と同一視されてよい場合でも、意味のすぐ近くにあってしかも無限に遠く、その意味のもとに隠れてあるいはいっそうはっきりと際立ち、意味よって分断されあるいはより力強く輝きつつ、あらゆる伝達を超えて、ある究極的なもの、決定的なものが依然として存在する。(P.406)



 込み入った反対語の反復によって表された「決定的なもの」をベンヤミンは「純粋言語」と名づけた。文字通りそれは言語の音や法則から分断された、象徴されたものの意味であり、文学作品の核なのだ、と彼は言った。そして、その核を解放することこそ、翻訳者の使命なのだ。ここでのベンヤミンの論法は非常に面白い。翻訳は再現する(原作に忠実である)ことを放棄しなくてはならないが(なぜならそれは必ず失敗するからだ)、翻訳をすることによって、純粋言語をあるひとつの言語に拘束された形から解放することができる、というのが彼の言い分であり、ゆえに彼は翻訳の自由を正統性のあるものとして評価した。





 以上のベンヤミンの論旨は、アドルノがしつこく論じた音楽作品と音楽批評の関係性についてと類縁性を持っている、と私は思う――というか、言っていることはまるで同じのように感じられてしまう。両者はそれぞれ、翻訳と批評を作品の本質的な意味(ベンヤミンであれば純粋言語、アドルノであれば『浮動的なもの』)を別な言語/言葉で再現することの不可能性を指摘しつつ、一方で、あたかも原作(作品)に忠実でなければほうが、原作から離れたほうが、純粋な意味を掬い取ることができる、と言っているように思う。やはりこの部分が私の興味をかきたてたところだった。






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アルノルト・シェーンベルク/弦楽四重奏曲第2番

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Zemlinsky: String Quartet; String Quintet; Schoenberg: String Quartet; Trio

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 会社から帰る間に唐突に物憂げな音楽が聴きたくなってシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番を聴いた。弦楽四重奏曲という名前をつけられながら、途中でソプラノ独唱が加えられる、というかなり謎の形式を持ったシェーンベルクの初期作品である。この頃から形式の破壊ははじまった、といえるのかもしれないが、音楽は実に後期ロマン派直系のもので、調性から無調へと到達する臨界点ギリギリのところを行きつ戻りつするようなところが素晴らしい。私が聴いているのは200年以上の歴史を持つ超老舗ブランド、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団の演奏なのだが、彼らのため息をつくような弦楽器のニュアンスはこの曲の持つ危うい雰囲気とぴったりと非常に好ましい。聴いているだけでかなり演奏が難しい曲だということが伝わってくるし、それだけに微妙に技術的に怪しげな箇所もあるのだが、完璧な演奏をする、ということだけが音楽のすべてではない。



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 第1楽章と第4楽章。シェーンベルクの初期作品ではこの曲が最も好きかもしれない、と今日になって思った。





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ザ・ジューグン・イアンプ/念仏とテクノ

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 ほとんど反響がなかったので、なかったことにしたほうが良いのかもしれませんが、ザ・ジューグン・イアンプの新曲をアップします。新曲っていうか、毎回遊んでいるのを録音しているだけなんですが、DS-10はダメなジャーマンNWみたいな曲がさくっと作れてしまうところが素晴らしいと思います。



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 ホントはこんなのになりたいんだ!リエゾン・ダンジュルース、超リスペクト。





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東京楽友協会交響楽団第86回定期演奏会@すみだトリフォニーホール大ホール

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 せっかくの休日なので書を捨て、街へ出て、森ガールでもハントしようかと外に出たのは良いものの肝心の森ガールらしきガールはどこにもおらず「メディアに騙された!フリーメイソンの陰謀だ!!」と強烈な被害妄想に駆られ(見つけたのは『アルパカかわいいー!』と30回は連呼していたであろう妙齢の女性2人組だけでした。彼女たちは『かわいいー!』と言い続けていなければ死んでしまうのではないだろうか。泳がなければ死んでしまう鮫のように。肉食の鮫……それはつまり肉食系女子を象徴する符牒でもある)絶望的な気持ちになったため、錦糸町へと向ってコンサートを聴いた。本日聴いたプログラムは以下。



ワーグナー:歌劇《タンホイザー》序曲


リヒャルト・シュトラウス:《4つの最後の歌》


ツェムリンスキー:交響詩《人魚姫》



 見事に後期ロマン派尽くし、といった感じの重量級プログラム。お目当てはもちろん、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーの交響詩《人魚姫》。彼は西洋音楽史において、マーラーとシェーンベルクを繋ぐ人物として近年徐々に注目度を高めている作曲家である。プログラム解説によれば、今回演奏された作品は20世紀初頭に初演されて以来、一度も演奏されずにスコアが紛失、1980年代に再発見されて「蘇演」された、というなんだか曰くつきのものである。もちろん、聴くのは初めて。この作曲家については以前に代表作である《叙情交響曲》をCDで聴いたことがあるだけで「なんだか難しい作曲家であるなぁ」という感想を抱いていたのだが、《人魚姫》は割かしマトモな作品であった。これは全3楽章構成にわたるもので、形式的に言えば交響詩というよりも、交響曲に近い。しかし、なにかの描写として用いられるモチーフの使用には、交響詩の祖であるフランツ・リストの直系であるかのような印象を受けた。作曲年代からすれば、ツェムリンキーの初期の作品となろうが「こういう割かし平明な作品(だが演奏はとても難しそうな……)も書いていたのだなぁ」という風に勉強になった。





 中プロの《4つの最後の歌》について、私はこの作品の良さがほとんど分っておらず、今回も分らないまま終わってしまった。実演に触れたのは今回で2度目なのだが(そういえば前回もアマチュアの演奏だったが、そのときはオーケストラの技術的な問題が多々あった)やはりピンと来ない。全体的に暗い曲で、さらに作曲家の最晩年の作品ということもあり、とかく「死のテーマが云々」などと言われがちな曲なのだが、この作曲家の場合、生涯のほとんどを成功者として過ごしていると思うので、年を取ってから暗くなられてもなんだかなぁ、という感じがしないでもない。そもそもこの作曲家は、典型的なアポロン肌の芸術家であり、ディオニュソス的な才覚には決定的に恵まれていなかったのではないだろうか……と今日の演奏会を聴いていて思ってしまった。単なる印象論に過ぎないし、『悲劇の誕生』も読んでいないけれども……。





 東京楽友協会交響楽団は私と同じオーケストラに所属されている方がコンマスをされているつながりで今回初めて聴きにいった(他にも私と同じオケ所属されている方がたくさん乗っていた)のだが、全体的なレベルがものすごい高い楽団でとても驚かされた。今回すべての曲でソロを取られたコンマス様、大変お疲れ様でした(素晴らしかったです)。





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ザ・ジューグン・イアンプ/習作1

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 誕生日プレゼントにニンテンドーDSiをいただいたので、DS-10を購入し、適当にプレイしたものをアップしてみる。「ザ・ジューグン・イアンプ」はこのDS-10を使用して楽曲制作をおこなう際の新名義。今後はおなじDS-10ユーザーであるid:Delete_Allと「ザ・ジューグン・イアンプ&アナル・パール判事」というユニット名で活動を行う予定である。



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マーラーの交響曲第7番について

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マーラー:交響曲第7番
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 先日、マーラーの交響曲第7番を聴きながら12キロ走った、というようなことを書いたけれども、マーラーが書いた11曲の交響曲*1のなかでも私はこの作品が今最も好きである。“今”と書いたのは、季節や気分によって最も好きな番号がころころ入れ替わるせいだが、この第7番は位置づけが安定している。彼が書いた後期のなかでも、最も多様な音楽的要素が様々な色が揃ったブロッグが詰まったおもちゃ箱をひっくり返したように登場するところと、第9番のようになんだか気が遠くなるような気分に陥ることがないところがその理由である。混沌とした遊戯的な音楽が絶妙なバランスで綱渡りしているようなところも素晴らしい。



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 Youtubeで検索をかけたら一番に出てきたのが、このマイケル・ティルソン=トーマス指揮サンフランシスコ響による演奏。これはなんだかアポロン感が全開の演奏で、マーラーのデモーニッシュなイメージからは少し遠い演奏のような気がするが、こういったマーラーも聴いていて楽しくなってくる。このパワフルな金管の響きは生で聴いたらきっと鳥肌が立ってしまうだろうな……。



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 第4楽章のアンダンテ・アモローソもとても楽しげ。全5楽章のこの作品のなかでも、この牧歌的な楽章はギターとマンドリンが特殊楽器として使用されていて、とても面白い響きが聴ける。この作曲家は無茶な演奏の指定をしておいて、そのときに出る特殊な音色を要求するようなところがあるのだが(合理的に響くオーケストレーションではなく、合理的ではない響きのオーケストレーションを研究するかのように……)、それとは別に打楽器の使用について考えてみても、音色に対して相当のこだわりを持っていたのではないか、と思う。



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 終楽章はメタルだ!




*1:第10番は未完





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誕生日

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f:id:Geheimagent:20090124230929j:image


 本日、24回目の誕生日を迎えた私ですが、なんか奇跡的に仕事が早く片付いたため、定時退社をおこなった後に12キロ走りました。誕生日プレゼントも誕生日パーティもありません。マーラーの交響曲第7番を聴きながら走っている間「きっと24歳は、こんな混沌とした年になるに違いない」という予感がしました。10代のころ、とくに理由もなく「24歳までに何も成し遂げられなかったら、潔く死のう」と強迫的に思いつめる毎日を過ごしていたのだけれども、いざ24歳になってみるとまだまだなにもやっていないし、とくに死ぬ理由も見当たらず、それどころか最近「ああ、なんて人生とは短いのだろう。そうだ、長生きしよう。100歳ぐらいまで」と唐突に思い立ち長生きしようと決意したこともあって「あと100歳まで76年間もある!!」と思いました。100歳まで長生きするために、これからフランス語を学んでですね、クロード・レヴィ=ストロースかオスカー・ニーマイヤーのところに弟子入りしようかと思っています。長生きの秘密を知るために。





 写真は誕生日とも私とも関係なく、id:Delete_Allが30代っぽいセンスのポーズで写真に写ろうとしている瞬間を捉えた一枚です。HDDのなかに眠っていたのを、なんとなく蔵出し。





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莫言『転生夢現』(下)

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転生夢現 下 (2)
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 『転生夢現』読了。文化大革命の狂乱の真っ只中、狂気と愛憎が最高潮に達し、破壊へと結びつくところで上巻は終わっているのだが、下巻はいわば上り詰めたところから下っていくような流れをとる。毛沢東の死によって文革が中途半端な形で終焉を向え、そこから一気に人民の間の熱は冷めていく。この冷め切った状況のなかでやってくるのは、また別な混沌であるところが面白いのだが、個人的な好みが戦争的な熱のある状態の描写に傾いているため、下巻はちょっと読むのがくたびれた。





 面白く読めたのは、カリスマ的指導者の死によって何もかもが一遍に変ってしまう――村の指導者になった男は汚職や権力に塗れながら成り上がろうとし(おそらくそれは革命への失望からであるのだが)、彼の前任者であった男は酒に溺れ正気を失っていく、とか――ところまでで、その後は、愛無き結婚に嫌気が差した男が若い女と不倫して……みたいな昼ドラみたいなドロドロのテンションの話が続いてしまう。この泥沼状態(このとき舞台は1990年代に入っている)がその当時の中国の状況とリンクしているのかもしれないが、よく分らない。





 ただ、大規模な開放政策のなかで建物の洋風化が進んだけれど、下水設備がちゃんとしていないので大雨が降ると、汚泥で街全体が臭くなる……という描写はとても良かった。ひとつの街に異なる時間軸が共存している不可思議な状況、これもまた混沌といえば混沌なのかもしれないが、街の人々はそれが当然であるかのように振舞っているところに惹かれる。おそらく作者は「これがワシのマジックリアリズムじゃあ!」と気合を入れて書いたであろう(いい加減な推測)。





 泥沼不倫劇が終幕すると第5部に入り、ここからは(あくまで小説の登場人物としての)莫言自身によって語られる。莫言の語りはかなり駆け足で、90年代末から2000年、新しいミレニアムの幕開けまでを追っていく。この第5部で、それまでの登場人物がバタバタと悲劇的な、シェイクスピアの悲劇か!ってぐらい死ぬ。その死に様が皆、ものすごく劇的なので最後にひともりあがりあるのだが、如何せん短い……。





 と上巻とは打って変わって文句ばかりの感想になってしまったが、ところどころ面白い箇所はあったので、読んで良かったなぁ、と思いました(小学生みたいなまとめ)。




  • 関連エントリ


莫言『転生夢現』(上) - 「石版!」





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荒木飛呂彦『STEEL BALL RUN』(17)

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 大統領のスタンドが難しい!!





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SLY MONGOOSE/MYSTIC DADDY

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 杜の都にてヤバい仕事に従事する傍らDJ活動をこなしていらっしゃるid:mthdrsfgckrさんのブログでスライ・マングースの新譜が出ていることを知った。このバンドを初めて観たのは昨年の荒吐ロック・フェスにおけるザ・ハロー・ワークスのパフォーマンスでだったが、音像から立ち上ってくる「ものすごいやり手のキャリア感」と「黒っぽいのにスクエアな特殊グルーヴ感」に打ちのめされ、長らく気になっていたのである。スライかつマングース。かなりどうでも良いが、なんかエロい言葉っぽいぞ、スライ・マングース。ジャケットはメタリックなJBみたいだ。





 のっけから90年代に入ってからのキング・クリムゾンみたいなシンセからドローンが続き、その後に変拍子ファンクになだれ込むという冒頭からして最高である。スカだのダブだのファンクだのさまざまな黒っぽい(あるいは草っぽい)要素を消化しつつも、全体を覆っているのはニューウェーヴ/ポストパンク的な暗さな感じもし、オーガニックな雰囲気に拮抗するような鋼鉄のビートを醸し出しているところが素晴らしい(もはや何を言っているかよくわからんが、なんか草っぽい音楽なのに、暗いって新しくない?)。それが爆発しているのは、石野卓球(!)がヴォーカルで参加している楽曲で、「卓球氏の声がまるでJohn Lydonのように聴こえる」と評したmthdrsfgckrさんのあとに付け加える言葉がない。





 で、こういうものを聴いていると「昨今のニュー・エキセントリックなんかしょんべん臭くて聴いてらんねぇよ」と思うのである。ホントに。



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 エキセントリックというなら、これぐらいエキセントリックになってもらわないとねぇ……(The Honeymoon Killers)。





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大友良英/NHKドラマスペシャル『白洲次郎』(OST)

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NHKドラマスペシャル『白洲次郎』(iTunes Store)


 会社に入ってから大友良英の音楽を聴くことがめっきり減ってしまったのだけれど、今回ドラマのサウンドトラックがiTunes Storeで配信になったということで久しぶりに聴いてみた……ら、すごかった。ドラマの第一回目の放送は都合があわなくて観れなかったけれど、このすごい音楽がどんな風に使用されているのかとても気になるし、音楽単体だけでも素晴らしい。今回の楽曲群は、大友良英ニュー・ジャズ・オーケストラでの音のテクスチュアの広がりによって音楽を展開していく系の要素はかなり薄くて、もっと楽曲というか、「曲っぽく聴こえる」要素が濃い(その意味では、普通のロックっぽく聴こえるところがある)。脳裏に浮かんだのは、アート・ベアーズとかスケルトン・クルーとかレコメン系のバンドの音、というかフレッド・フリス即興と作曲が強く結びついた実験的ポップス。





 今回のサントラにはフレッド・フリスも1曲新曲を提供しているんだけれども、これも素晴らしい。フリスがシンプルなギター弾き語りで素朴に歌を歌っているのを聞いて「この人、こんなに歌えたんだ……」と驚かされたところもありつつ、彼のこういう弾き語りアルバムが出たら良いのにな、って今後が楽しみなったりもする。個人的には、フリスのこの1曲が聞けただけでも大満足なところ。しかし、これと双璧をなすようにして浜田真理子のピアノ弾き語りが収録されていて、さらに満足感を高めてくれる。ワーグナーの《結婚行進曲》の引用や、レナード・コーエン(というよりも、ジェフ・バックリィか?)の引用が飛び出した瞬間の、胸に突き刺さる感じといったらない。こんなのドラマのなかで流れたら泣いちゃうよ……。





 あと鬼怒無月率いるサルガボの演奏もこのサントラで初めて聴いた。これもネオ・ピアソラ感漂う演奏の温度がものすごく高くてエロい……。とくに喜多直毅の摩擦音が強いヴァイオリン(1曲ごとに弓の毛が4、5本切れていそうな音)がツボ過ぎる。自分にとってアルゼンチン・タンゴの何が魅力かと言えば、バンドネオンの音色ではなくてこの乾いたヴァイオリンの音色なのかもしれない、とか思った。それから、久しぶりに菊地成孔が大友のバンドで演奏するときの「いななく様な音色のサックス」が聴けたのも良かった。





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ジョン・フォード監督作品『リオ・グランデの砦』

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 つい先日、蓮實重彦の本を読んだ*1絡みで、久しぶりにジョン・フォードの作品を観てみる。インディアンと闘う騎兵隊を題材にした作品であるが、その騎兵隊の隊長のもとに15年間会っていなかった息子が配属されてきて、お父さんは気になって気になって仕方がないよ……!という感じのホーム・コメディっぽい話が展開されており面白かった。ヒゲ面のジョン・ウェインが窓からこっそり息子を眺めているシーンがとくに良い。あと、唐突にインディアンが変な歌を歌っているシーンになるところが2回もあって面白かった。





 インディアンとの銃撃戦や、荒野を駆け抜けるたくさんの馬の姿を見ていたとき「昔の人はこういうシーンでものすごく興奮したりしたのだろうか……?」と素朴な疑問が浮かんだ。うっひょー、馬すげぇ!みたいにして。たしかに荒野をたくさんの馬が一生懸命走っているシーンというのはなかなか迫力があってすごいのだが、人間がのけぞりながら飛んできた銃弾を避けるようなシーンに慣れてしまった昨今の人間である私には、どうにもたくさんの馬はスペクタルとしての強度に欠けるような気がしてならない。今だったなら同じくたくさんの馬を撮るにしても、もっとカットをぶつ切りにしたり、インディアンの顔がアップにしたりして、カッコ良く撮っているような気がする。





 仮定を確定として話を進めてしまうと、かつて「うっひょー、馬すげぇ!」と驚いていた人々と、「馬はたしかにすごいけど、そんなでもない」という私との間では、認識に大きな違いがある。この違いについてもぞもぞ考えるのは楽しい(結論はとくにない)。






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