ジョン・ウー監督作品『レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-』

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 遅ればせながら『レッド・クリフ』の完結編を鑑賞。前作の感想にも書いたとおり*1これを観るまで、ホントに何一つ『三国志』に関する知識を持ち合わせていなかったのだが、それでも筋が分からなくならずちゃんと観れたので良かった。





 しかし、前作と比べるとイマイチ楽しい気分にならなかったのは少し残念。登場キャラクター全員にちゃんと見せ場的なシーンを(無理に)用意したせいか、やや散漫な印象を受けた(前作で、大丈夫か?と心配になるぐらい『性格の良いオジサン』でしかない劉備でさえ、良いところ見せる)。映画のリテラシーが限りなくゼロに近い私でも「その話はいらないだろう……」と思わざるを得ない話の盛り込み方もあり、煮え切らないまま終わってしまうのである。孫権と曹操が対峙しようという直前のシーンと、前作の虎狩りが重なる、などの意図は分かるのだが、効果的に決まっているわけでもない。





 だが、決してつまらなかったわけではなく、孫権が射る矢が曹操の頭をかすめた後に、曹操がものすごい表情で「あ゛ーーー!!」と叫ぶところや、口の中にとても苦い薬草的なものを常に含んでいるような中村獅童の表情(最後は自分の身を犠牲にして敵の正面に突っ込み、爆死!やっぱりそういう役柄なんだ!!)など、すごく笑えたし、それからこれから闘いが始まろうという時に、皆でお団子を食べているシーンなども面白かった。原作にそういう話があるのだろうか?知らないだけに「闘いが始まる前に団子!?」と虚を突かれた気分になる。むしろ、これは原作を知らなくて得したような点である。





 なんだかよくわからない感想になっているけれども、一番驚いたのは自分がちゃんと前作を覚えていたことだったりする。それだけに今回もメロドラマ的な要素を絞って、面白い顔のオッサンが暴れる、ただそれだけ、みたいな映画だったら良かったのになぁ、と思った。今回は超面白フェイスの持ち主である張飛があんまり目立たなかったし……。






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クリント・イーストウッド監督作品『グラン・トリノ』

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 一年にイーストウッドの新作が二本も観れてしまうなんて、なんて幸福な年なんだ、2009年は……という感じで楽しみにしていた新作映画。熱心な映画ファン、というわけではないけれど、こうしてリアルタイムに「公開が待ち遠しい……!」という作品があることは幸福で、生きるって楽しいな、とマジで思う。観る前から「どうせ泣いちゃうのだろうな」と思っていたが、観終わった後にトイレに入って鏡を観たら、目が真っ赤。素晴らしい、というか感慨深すぎて「しばらく音楽とか本とかインプットしなくても良いや……」という感じで打ちのめされる。イーストウッド作品に触れる度、毎回どよんとした重い気持ちに打ちのめされるのだが、それとはまた別種の打ちのめされかただ。感想を書くのも憚られたが、帰宅後、カレーを作っているうちに書く気になったので書いておく。





 イーストウッドの最新主演作、という時点でスクリーンのなかだけで起こったことのみを鑑賞するという行為は幾分難しい作品である。大好きな俳優だし、好きな作品もいくつかある監督がいつ遺作になってもおかしくない時期に撮った作品ということもあり、それは必然的に特殊な(ベンヤミンをかじった人間であればアウラと呼ぶような)雰囲気を映画は含んでしまう。私個人の話に限れば、昨年亡くした祖父の姿とイーストウッドが重なってしまって、イーストウッドがアップで映し出されるたびに「間違いない、俺のじいちゃんはイーストウッドだったんだ」とよくわからない気持ちに陥ってしまった(ちなみに私の祖父とイーストウッドは一歳違い)。「いつ遺作になってもおかしくない時期」の作品ということを考えれば、監督は「ひとつのケジメ」としてこれを製作したのではないだろうか、というのが容易に想像がつく。さながら生前葬のような映画で、本当にこれが俳優引退作だとしたら、次回の監督作品をこれまで以上に期待しまう。





 人種問題であるとか社会的テーマは盛りだくさんな作品であるけれど、キリスト教的な物語がことに目に付く。新米神父(牧師?細部の記憶が曖昧だ)に懺悔をしつこく薦められ、最後には自分の罪を洗いざらい告白する、という回心の物語でもあり(告白の聞き手は、その神父に留まらない。ドア越しにイーストウッドが語る罪は、懺悔室でのシーンと重なって、とても鮮やかだ)、さらには受難を受け入れることによって罪を浄化する物語でもある。最後に十字架の形で倒れるイーストウッドの姿に、イエスを重ねてしまうのは、あまりに単純すぎるとしても、私は直感的にそのように受け取ってしまった。





 とはいえ、この受難によって、グラン・トリノを受け渡される少年の下に、救いが届けられる。この悲劇によって、救済が行われる明快な構図は、これまでのイーストウッド作品にまるで観られなかったものではないだろうか。彼のフィルモグラフィーを網羅した上での見方ではないけれども、この推測がもし正解に近いものであるならば、この終幕はクリント・イーストウッドという映画監督を語る上でとても重要なものに思える。たとえそれが晩年の気まぐれのようなものだったとしても。





 細かに挿入される(かなりブラックな)ユーモアや、やけにリアリティを感じる音楽(モン族出身のアメリカ人が集まっている地下室で、おそらく彼らの言葉でラップをやっているすごいヒップホップが流れたりする)、あるいは、スタッフ・ロールで流れる音楽でワンコーラスだけヴォーカルを取るイーストウッドの決して上手ではない歌声など、細かなところでも面白いところが多く、大変情報量が多い映画でもあったと思う。登場する車に与えられた意味深さも面白かった。





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フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』

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 アルゼンチン出身でパリで活躍したという作家、フリオ・コルタサルの短編集を読む。アルゼンチンの作家、というとすぐさまホルヘ・ルイス・ボルヘスの名前を思い浮かべるが、コルタサルもボルヘス同様優れた短編作家であったという。コルタサルの作品に触れたのは今回が初めてだったけれど、ボルヘスほど衒学的な趣はなく、むしろ洗練された引き締まった幻想(というのは少し変な表現だけれども)に連れ込まれるようなところを感じる。土着的なところが強く現れているわけでもないし、正直そこまでハマれなかった部分もあるのだが、いくつかの作品は面白く読んだ――表題作となっている『悪魔の涎』はミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』の下敷きとなった作品(映画については未見)、『追い求める男』はジャズ評論家の視線から語られる(おそらくチャーリー・パーカーがモデルとされている)サックス奏者の物語。後者は、語り手の批評論とサックス奏者が語る時間・音楽論がなかなか興味深かったが、どちらについてもそこまで惹かれるところがない。





 むしろ『パリにいる若い女性に宛てた手紙』という「よくわからないけれど、口の中から小兎が生まれてくる話」や『占拠された屋敷』(これがボルヘスに認められ、コルタサルの出世作となったとか)という「なんだかよくわからないものによって住んでいる家が占拠されてしまう話」とか、読んでいて妙に不穏な気持ちになってくる小品のほうに私は惹かれてしまう。兎が喉を通るときに毛がモサモサして……みたいな細かい描写がとても嫌だ。あと『南部高速道路』という比較的長い作品も良かった。「パリへと向うハイウェイ上で渋滞が起こり、何日も身動きがとれなくなってしまう……」というルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』みたいな話なのだが、問題となる渋滞が解決されようというとき、主人公の胸中におこる変化――異常状態に感染してしまったかのように、むしろ平常ではなく異常を求めてしまう――がとても良かった。うわー、これ嫌だなぁ……と思いながら読める話は結構好きだ。





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PRINCE/LotusFlow3r

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 プリンスの新譜。00年代後半に入ってからほぼ毎年猛烈にクオリティが高いアルバムを発表している殿下であるが、今回は3枚組(うち1枚はプリンスがプロデュースしたBria Valenteという女性アーティストのアルバム)というキチガイ染みたボリューム。この枚数だと「アウトテイク集なんじゃねーの?」と不安になったが、それはまったくの杞憂で前作『Planet Earth』以上にギター弾きまくりで、異様にブルース色、ジャズ・ファンク色が濃い一方で、バラード曲もすごく良い曲が揃っている1枚目、時代錯誤感溢れるディスコ・チューンがある意味で時代の先を行き過ぎている2枚目、という激アツなアルバムなのだった。ジャケがひどい(イタリアのヘヴィメタ・バンドみたい)、紙のケースからCDが取り出しにくい(買った日にケースが破れてしまった)など、ものすごく些細なことに目を瞑れば、間違いなく「プリンスは最新作が常に代表作」説を強めるものとなろう。猫も杓子もUTADAでさえも、エレクトロな音作りに走っている感のあるトレンドをまったく無視して*1制作している感じがあるのだが、近作では最もポップな仕上がりになっているんじゃねーのか、なんても思う不思議なアルバムである。すごい。みんな買ったほうが良いよ!!



D


(「Crimson and Clover」。こんなにひどいPVもなかなかない)追記;最初1枚目の方が聴き易くて良いなぁ、と思っていたけれど、本当にすごいのは2枚目な気もする。聴いてて苦笑が堪えられないほど、90年代っぽい音が満載なんだけれども(それを最新機材でパワフルな音圧にしたみたいな。音が妙に生々しい)、これは“まだ”他の人には真似ができない音なんじゃなかろうか。聴きようによっては「90年代にプリンスがやれば良かったこと」を今になってやっているだけにも思えるし、本当に空気が読めてないだけかもしれないけれど、その唯我独尊っぷりに痺れてしまう。マジで最高。想像だけれど「あ、これ今やっても良いんだ!」と勇気をもらったアーティストもいるんじゃなかろうか。




*1:結構派手にヴォーカルにエフェクトを使っている曲があるけれど、それはプリンスのお家芸みたいなものだ





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BOMBAY BICYCLE CLUB/Always Like This

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 id:clicheさんのブログ経由でボンベイ・バイシクル・クラブというバンドを知る。このところ若いバンドの音源などに手を出すことがめっきり減り(というのも、ロックに対してさほど思いいれとかが無くなってしまったからなのだが)氏がかなりの勢いで息巻いているのが私にも理解できるぐらい新鮮な音を鳴らしているバンドである*1。ロックとダンス・ミュージックってものすごく食い合わせが悪いんじゃねーのか、と思ってたけど、そういう固定観念みたいなのをガッツリ取り外してくれる気がするし、やっぱり「ケンカとか弱くて、ボーダーのTシャツを常に着用していそうなサブカル文系ライクなヴォーカル(あくまでイメージ)」がダンサブルな人力ビートと自然に溶け合っている、というのがインパクトが大きかった。ヴォーカルは痩せ型長身メガネ……とピンポイントな層を狙いすぎな感じがしなくもないけれど。



D


(↑ものすごく手作り感のあるバンドの映像。オフィシャルのPVは埋め込み無効なので適当に貼っておく)音の感触としてはシカゴあたりのものに似ている気がするけれど、そこまで実験的であったり、テクニックで押してくる感じでもない。かと言って逆に下手クソというわけでもないし、なんかよくわかんないけど、良いバンドだなー、と思う。これも来日したら観たい。




*1:なぜかアマゾンではアナログ盤しか取り扱いがないためiTMSで購入





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アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『すべては消えゆく』

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 (ブログに記録しているところによれば)およそ一ヶ月半ぶりに小説を読む。しばらく小説に遠ざかっていたのは「小説ばかり読んでいるとバカになる」と思っているからなのだが、久しぶりに読んだら「やっぱり、小説って面白いよなぁ……バカで良いよ、もう……」などと思ってしまう。それは一重にマンディアルグの筆力によるものであろうが。そう、マンディアルグである。フランスの幻想小説の大家の最後の長編を読んだのだ。これは、三島とダンテとジョイスをごちゃまぜにして、それをものすごく込み入っていながらも美しい文章で書き下ろし、かつ、官能小説すれすれのエロティックな描写を挿入したというとんでもない作品だった。話の筋として大した話ではない――ユゴーという初老の男性が地下鉄に乗ったら、車内で化粧をする美女に出会い、その美女に導きのままにパリを練り歩き、さらには異界的な官能の館へとたどり着く……そして……――のだが*1、主人公の妄想アクセル全開さ加減が最高で、自然に私はこの初老の主人公に対して、id:Delete_Allというブロガーの姿を重ねてしまいとても面白く読めた。ということで、id:Delete_Allに全力でオススメしておくが、きっと彼ならばこれを自分の小説として読んでくれるだろう。



「われわれのダンスはもう十五分以上も続いているし、わたしがこの遊戯の導き手だとはいいながら、込みあげはじめた溶岩をもうこれ以上抑えることができそうにない。これを最後の一滴まで飲みほすことがお前の役目、いや、それこそお前の二股かけた職業の務めであり、お前がわたしという補佐を得て、祭祀を司るつもりがあるというのなら、お前の務めに女神ケレスの大祭司の役をつけ加え、長い日照りのあとに雨を降り注がせる儀式を執りおこなうことにしよう」



 なんという過剰なメタファーであろうか。しかしながら、この表現の意味するところは隠喩に用いられた言葉の本来の意味を乗り越えて、性的な意味をやすやすと伝えてしまう。このとき、不思議なのは表現を表現する「字面」そのものが性的に思えてくることだ。実のところ、官能小説、というジャンルの小説に触れたことは無いのだが、そのジャンルにおいて用いられている隠語の数々にしても、もはや字そのものが性的に読めてしまう。「蜜壷」あるいは「恥丘」という風に(それにしても、なぜこのような隠語には画数が多くてカッコ良い漢字が用いられているのだろうか)。以上はデリダ的に考えられるべき問題であり……云々、えーっと面白かったです。




*1:モチーフの変奏などは大変面白い。むちゃくちゃに洗練されていて、構造がすごくよくわかる





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ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動――人類の運命を変えた二万年史』

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古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 (河出文庫)
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 考古学などに対して特段興味があったわけではないのだが、河出文庫に収録されている科学史の本には面白い本が多いので読んでみることにした。副題に「人類の運命を変えた二万年史」とあるように、人類誕生(本書で最初に主役になる人類はクロマニョン人)から西暦1200年ぐらいまでの歴史と気候の関係を壮大な密度と濃い情報量で駆け抜けるとても面白い本で、これまで私には「気候が歴史を変えてしまう」というこの本の歴史観の根幹を成している観点を持たなかったので一層興味深く読めた。経済でも、思想でも、英雄でもないものが歴史を変える、というよりも、気候が経済や思想や英雄を変えてしまう、という記述は新鮮に感じられた。





 たとえば、キリスト生誕以前から西暦900年まで、10世紀以上シャーマン兼支配者である君主の元に反映したマヤ文明が崩壊した原因については「3度におよぶ大干ばつ」があげられている――干ばつはまず、農耕に影響を及ぼし、経済および民のライフラインを破壊する。それは同時に王国の民が抱いていた君主に対する信頼にも傷をつける。神(超自然的な存在)と民との間を仲介し、民に豊かさを与えること、それが君主が君主である証であったはずなのに、それが果たされないのであれば、カリスマが失墜するのは当然であろう。以上のように気候は、経済や思想や英雄を変えてしまうのだ。そして、同じような事例は、マヤ文明に限った話ではなく、エジプト文明やティグリス・ユーフラテス文明でも起こったようである。





 現代にいきる我々は、そこまで気候が生活に影響を与える実感というものを感じないでいる。それは一重に科学技術の発展のおかげであり、気候の変動に対する対処知識が人類史に蓄積された結果でもある。1万年以上前から気候が一千年単位で大規模に変動する期間を乗り越え(その間、人類は気候に合わせて土地を移動し続けた)、大変動以降は定住することによって対処方法を発展させ、それが現代につながっていったのだ。しかし、著者は以下のようにも書いている。



ニューオリンズは100年ごとに訪れる洪水にたいしては安全になったが、1000年、あるいは1万年に一度の規模の洪水に関しては、無事を祈るばかりである。



 なんだか不安を呼ぶような文章であるが、しかし、この観点がこの本のミソでもある。著者曰く「定住すること即ち、気候の変動に対して脆弱性をあらわすこと」なのだ。気候が変動したならば、それに合わせて住む環境を移動する――狩猟民や野生動物たちがおこなってきた、この対処方法を著者は合理的な態度として評価する(というか対処方法がなかったからそうするしかないのだが)。反対に同じ場所に定住するということは、対処方法がない状況の際に、本当に対処方法を無くしてしまうリスクを背負うことだ、と著者は主張する。そして、現代でもそのリスクをまったく失われていないのである。我々の社会が、かつてのマヤ文明のように崩壊するというリスクは、存在しないわけではない。



遠い過去を知ることは、先行きの見えない未来を予測することなのだ。長い時間の尺度で見ると、私たちがよく知っている20世紀が、地球の歴史のなかでも稀に見る気候に恵まれた1世紀だったことがわかる。



 以上は訳者あとがきからの引用だが、この言葉は非常に胸にしみ、(日本を含む)先進国におけるこの豊かさも、まるで地球の気まぐれがあってこそもたらされたものであるように思えてくる。「地軸の傾きを直すことすらできない」人類は自然と共に生きるしかない。ただ、この“教訓”がエコロジーと直結するかどうかは微妙であるが(人類が温室効果ガスを増やそうと、増やすまいと、いずれかならず気候の変動が起きるならば、使い放題でも良いじゃん、という考え方もできるだろうから)。





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SAVATH & SAVALAS/La Llama

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La Llama
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Savath & Savalas
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 ギレルモ・スコット・ヘレン*1が今月アルバム4枚連続リリースということなのだが、この気が狂ったかのような怒涛のラッシュを寡聞にして知らず、先ごろ、第2弾リリースとなったサヴァス&サヴァラスの新譜を購入した次第である。これはなんだかものすごく不思議な手触りの音楽が展開されたアルバムだった。前作の『Golden Pollen』と比べるとややシンプルな歌モノ路線っぽいところは後退し、全編に渡ってやや不穏な気持ちになる幽玄な音がちりばめられており、いわば“抽象的な音楽”に仕上がっているのだが、妙に爽やかな気持ちで聴ける。なんなのであろうか。時折、「ネオアコか!(エレクトロニカなのに)」とツッコみたくなるほどド直球に爽やかな曲も出てくるし。



D




*1:a.k.a プレフューズ73





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日渡早紀『ぼくの地球を守って』

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 日渡早紀『ぼくの地球を守って』を読了。この漫画については小学生の夏休みにほとんど毎年BSアニメ劇場でアニメが放送されていた記憶があるが、毎年プールやセミ捕りで忙しいために、第1話しか見られないという事態が続き、結局10年以上「クソ生意気なガキに噛みかけのガムを食べさせられる漫画」以外の印象しかもっていなかった。その後、大澤真幸の本などでこの作品が巻き起こした「前世ブーム」を知ることとなり、今日になってようやく作品の全貌を知ることができたわけだが、正直、直前に萩尾望都を読んでいたこともあり「そこまで反響を呼ぶほどの作品なのだろうか……」と首をかしげる結果となってしまった。いや、明らかに比べる対象が悪いのだが(逆に言えば『萩尾望都ってすげぇんだな……』と大変勉強になった)、話としては割合凡庸な気もするし、何より物語が進むにつれて、徐々に辻褄があわなくなっていく部分に対して作者が「辻褄があわないけれど、どちらが正しいのかは読者にお任せします」という弁明を挿入しているところが変に気に障ってしまう。ほかにも『聖闘士星矢』や『哭きの竜』のパロディといった読み手と作り手の共犯関係が築かれるような部分がイチイチおたく的な感性の表れとして読めてしまう。こういった内輪ウケを求めるような表現は、作品の評価とはまったく別な部分で(というかまったく評価できないのだが)興味深く思う。1987年から連載が始まったこの作品には、ニューエージや新興宗教といったカルチャー以上に、こういった時代的なノリが反映されているのではないだろうか、と思わなくも無い。





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Caetano Veloso/Zii E Zie

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ジー・イ・ジー
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カエターノ・ヴェローゾ
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 カエターノ・ヴェローゾの新譜を聴く。すでにid:mthdrsfgckrさんがレビューを書いておられるが*1、これは私も名盤だと思う――しかも「ここまでクオリティの密度が高いポップ・アルバムを聴くのは、ちょっと久しぶりかもしれない……」と恐れおののくレベルで。





 この『Zii E Zie』というアルバムは前作『Ce』と同じ体制(プロデュースはペドロ・サー&モレーノ・ヴェローゾ)で制作されたアルバムなのだが、前作とはかなり趣は異なっている。喩えるならば、前作が「カエターノ・ヴェローゾがオルタナ・ロックをやったらどうなるか」と模索した野心作であるのに対して、今作「オルタナ・ロックでカエターノ・ヴェローゾの音楽をやったらどうなるか」を模索する野心作、とでも言えるだろうか。非常に刺激的な音に満ちているのにも関わらず、異様に自然で爽やかな聴き心地が素晴らしくハマっている。



D


(↑アルバムの一曲目を飾る『Perdeu』のライヴ映像)





 楽曲は多彩でありながら、サウンド・メイキングは実にシンプルで、ドライと言ってしまっても良いぐらい無駄の無い作りになっているのだが、ギターがあり、ベースがあり、ドラムがいる(たまにフェンダー・ローズが入る)という非常にオーソドックスなバンド編成でここまで聴かせられるのが驚異的な感じもする。やはり演奏が無茶苦茶上手い。特に艶やかなカエターノ御大のヴォーカルに花を添えるペドロ・サーのギターが今回も素晴らしい――決して饒舌に前に出てくる感じではないのだが、彼がソロで聴かせるスモーキーなファズや、フィードバック・ノイズに痺れてしまう。





 なんとなく思い出したのは、ウィルコの『A Ghost Is Born』で「オルタナMPBがここに完成した……!」というような妄言のひとつも吐きたくなってしまう。来日したら是非とも体感したいものだ。






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萩尾望都『マージナル』

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 しつこく萩尾望都強化週間なのだ(でも今度ので一旦終了)。この『マージナル』は冒頭からいきなり性的な同性間セックスの描写(しかも男娼宿)から始まって、かなりド肝を抜かれたけれども*1とても興味深く読む。この『マージナル』という作品は先日読んだ『レッド・スター』以上に、漫画版『風の谷のナウシカ』と似ている。どちらも終末後の地球を描いた作品であるし、さまざまな組織の思惑が絡み合い争いがおき、再度終末が訪れるかのように思われるのだが「希望」によって収束されていく……という流れはほとんど同じだ。おそらく両者の設定から要素を抽出して、組み替えることによって、同じ物語が出来上がってしまうのではないだろうか、と思えるぐらいに。たとえば『マージナル』の地球では、「カンパニー」と呼ばれる巨大組織が人為的に環境を管理している(そうでなければ、地球に人は住めない)ということが明らかにされるのだが、これも『ナウシカ』で「実はナウシカたちも穢れた環境に適応するように操作された人類である」と明らかにされる点と重なって読めてしまう。




 ただ、以上のように「ここが似ている」「あれは同じ」と指摘するのはさほど重要には思われない(こじつけようとすればいくらでも出来てしまうからだ)。ここでより重要に思われるのは「どうして彼らは地球に拘った作品を描いたのであろうか」という点である。漫画版『ナウシカ』の連載が始まったのは1982年*2、『マージナル』は1985年。それが当時のトレンドであったのだ、と言われればそれまでなのだが、私は「どうして彼らは、一旦破滅してどうにもならなくなったように見える地球を描き、そしてその地球に希望を与えるような物語を書いたのだろうか」という点が気になってしまった。とくに『マージナル』では地球への拘泥にも近いものが明示的に描かれる。カンパニーの人間が「あのような荒廃した惑星を維持することに費用を払うより、あんなものは捨て置いて、もっと生産的なものに投資すべきである」という言うとき、地球に住んでいるわけでもない人物がその意見に反抗する。このときの反抗には、いわば地球を魂のふるさとするようなナショナリズムが読み取れるのではないか(一方、『地球など捨ててしまえ』という意見は、大変合理的というか消費的な態度が読み取れる)。また、地球に住んでいる人々の側からも反抗がおこる。これもまたナショナリズムなのであろうが、こちらの側は実益的に動くナショナリストたちの姿を映し出す。彼らは合理主義者なので、必要があれば破壊活動もする。このような人々の姿は『ナウシカ』では見られないように思った――『ナウシカ』をものすごく暴力的にまとめてみると、自分の利権に拘泥し汚染された地球をさらに破滅へと向わせる人々を、一人の少女が融和へと向わせる(ミメーシスをもって)、というぐらいには言えるだろうか。これはやはりシンプルな図式である。





 『マージナル』はもっと事態が複雑化している。ただ様々な思いが錯綜しているおかげで、情報量が増え、中盤から終盤にかけてはかなり頑張らないと物語についていけない。ただ、そこに一種のリアリティを感じなくもない(一人の少女がノーパンで空を飛んだって融和が生まれるわけではないだろう)し、そこでのごちゃごちゃとした動きがとても面白く読めた。私がとても面白く感じたのは、この混沌とした情勢のなかに、ひとりネズという人物が巻き込まれてしまうところであった。彼はとくに主張とかもなく、まぁ穏便に物事が進めば良いなぁ、ぐらいにしか世界を捉えていないのだが、途中で地球を管理する側と管理される側の間に挟まれて右往左往するハメに陥る。タイトルの「マージナル」という言葉を社会学的に考えるならば、彼こそがもっとも「境界的」な人間、マージナル・マンということになるのではないか。もっとも、彼にはその境界に立ち、世界を観察する余裕など残されていないのだが。




*1:というのも萩尾望都という作家は、少年愛・同性愛であっても性的な含みがないのかと思っていたからなのだが。このプラトニックな点については松岡正剛も指摘している。松岡正剛の千夜千冊『ポーの一族』萩尾望都


*2:ちなみに『AKIRA』も1982年だ





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萩尾望都『ポーの一族』

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 萩尾望都強化週間が続くのである。





 この『ポーの一族』を読んでいる間は、すごいなぁ……という嘆息の連続で、本当に最後の最後まで登場人物の「エドガー」と「アラン」が、エドガー・アラン・ポーのもじりだということに気がつかなかった。とくに終盤の「ええっ、ここまでの話、全部伏線だったのか!?」という驚きは物語を読む上で最上級の快楽だと思う。連載漫画とは思えない隙の無い連なりにも感激。永遠の命を持つ主人公(諸々の制約つきではあるけれど、永遠の未来が約束されている)が、徹底的に過去にしがみ付きながら生きている、というところが興味深く、プルーストを思い出したりもする。





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斎藤環『心理学化する社会――癒したいのは「トラウマ」か「脳」か』

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 このところ、学生時代に講義やゼミの発表で参照されていた(が、当時は買えなかったり、後回しにし続けてきた)本が続々と文庫化されている。で、ついつい読むペースを考えずに購入してしまいがちである。こういうのはほとんど「こどもの頃買えなかったおもちゃを大人になってから集めてしまう」ような現象に近いのではなかろうか。まぁとにかく、追っていくのが大変だ。




 今回もそういう類の本ではあったのだが、このタイミングで初めて斎藤環の著作に触れようと思ったのは、なにより「斎藤環-茂木健一郎の往復書簡」*1が先日連載終了が宣言されたことである(茂木健一郎の往信が一切ないままに)。これがあったから、私は最近茂木健一郎という人が気になって仕方が無い(氏の著作に『脳とシューベルト』という副題の本があるのを見つけ、ズッコケそうになったぐらいに)。『心理学化する社会』が書かれたのは2003年のことだが、このとき既に「汎脳主義」的なものへの批判的な指摘が書かれていて面白い。当時はまだ大衆領域において茂木が大ブレイクを果たす前だと思うのだが*2、斎藤の指摘はいまなお有効であろう(それは『汎脳主義を受け取る側』の問題でもある)。





 読む前は「結構難しい本なのかな……ラカン派の人だっていうし……」と想像していた文章も、実際は軽妙で、というか最後のほうまでラカンなど登場しない。あくまで「この心理学人気、気持ち悪くない?」という違和感を感じているサブカル好きの精神科医が軽妙に語ったような節がある。とくに「はじめに」で述べられている以下の文章に痺れてしまった。



でも僕が思うに、癒しブーム最大の罪は、尊敬に値するコメディアン・片岡鶴太郎をひどい勘違いに追い込んでしまったことだろう。なにしろ「癒し」は、確実に商売になる上に尊敬までされて、「自分探し」の究極の上がりみたいなものだ。おそらく鶴太郎はもう、こっち側には帰ってこないだろう。



 とはいえ、胸がチクチクと痛むような内容の本である。「俗流心理学(精神分析・脳科学)者」たちへの至極まっとうな批判に満ちた本書を読みながら「果たして自分はここで批判されている人たちを批判できるだろうか」ということを考えてしまった。私はこのブログにおいて、頻繁に社会学の術語を用いながら作品分析的な文章を書いている。私と彼らの間のには道具立てという違いこそあれど、本質的にはなにも違わないのではないか……ということを考えていたら最終章で「精神分析からシステム論へ」という指摘がされており、ぐうの音も出なかった。





 社会分析のツールがシステム論的なものへと転回し、現在はそのピークなのかもしれない。この現象について、斎藤も「文庫版あとがき」で昨年の「秋葉原での通り魔事件」を巡る言説に触れている。



この事件で特異だったのは、犯人に関するプロファイリングめいたコミュニケーションがほとんど前景化せず、事実上、若者における不安定就労の問題として処理されたことである。



 一方、私が個人的にこのシステム論的な転回について思うのは、なにかを論じようとしたときに、おもにインターネット上において展開されているシステム論的な知識を有した人たちによる言葉・分析が似通ったものになってきているのではないか、ということだ。宮台真司や大澤真幸といった良い(?)お手本がいるおかげで、彼らの本を読んでさえいれば、誰もが簡易的な分析のツールを得られる、という状況が出来上がっている、と私は思う。私自身もその状況に組する者であることは確かなのだが。




 こうした状況が実害を呼び起こすものではないかもしれない。ただし、それでは何のためのインターネットであるのか、何のためのブログであるのか、という風に感じる面はある。問題を単純にすれば、同じような文章が書かれていて、しかもそのような文章を自分も書けてしまう、そういった状況にいる場合、読み手が出会うものが他者であるという可能性が削られていく。そこに一抹のつまらなさを感じてしまうのだ。誰が書いていたかは覚えていないけれど、『ダークナイト』の感想に、多くの人が裏で示し合わせたかのように「9.11以降の……」という言葉があって、それがつまらない*3、という意見と以上の私の意見は問題を同じくしているかもしれない。





 感想が本の内容から大幅に脱線してしまったが、とても面白い本だった。




*1書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」


*2:茂木健一郎のブレイク時期は2006年ごろだという。書籍出版 双風舎


*3:本書の「文庫版あとがき」にも斎藤による『ダークナイト』評があるが、これは「9.11以降の……」型『ダークナイト』批評の最もブリリアントな文章であろう





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萩尾望都『スター・レッド』

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スター・レッド (小学館文庫)
萩尾 望都
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 続けて萩尾望都『スター・レッド』を。未来の人間が皆一様にタツノコプロがデザインしてそうな服を着ているのが面白いのだが、なんだかページが進むごとにまったく予想が出来ないほど話のスケールが大きくなってくる異様な作品だった。すごいな……なんか……と半ば呆れながらも、思い出したのは『伝説巨神イデオン』と『鳥人大系』(手塚治虫)。人類が異質な他者と出会うことで抗争が生まれ、さらにその構想の中に超越的な第三者(神的な存在)が現れ悲劇的な調停をおこなう、というモチーフをこれらの三作品は共有している。とくに『スター・レッド』における「アミ」という超生命体と『イデオン』における「イデ」はおどろくほどよく似ていると思う。『スター・レッド』の連載時と『イデオン』の放映開始は1年ぐらいしか違わず、70年代後半のSF脳を持つクリエーターのなかには、このような「愚かなる人類への反省のまなざし」みたいなものが共有されていたのだろうか……(たぶん偶然だと思うケドも……)。



D

 登場人物が全員死亡という潔すぎる絶望的なエンディングを迎える『イデオン』*1と比べると『スター・レッド』は曲がりなりにも(どうなるかわらかにけれども)未来への希望というものが残されているため、やや救われる。このエンディングはもしかしたら『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』にも通ずるのかもしれない。ただやはり、ここまであげられたどの作品でも「野蛮な人類の争い」が描かれているのだが。ふと思いついたのは『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、以上のような作品とテーマが似ているようで、抗争の構図がまったく異なっているのではないか、ということだ。NERVが戦う相手は、異質な他者ではなく、最初から神的な存在である。この転回は非常に重要であるように思われる。のだが、今のところ、どうして重要であるかが思いつかないので適当にキーボードをタイプする手を休めておこう……。




*1:この終幕というか終末は、最高に好きである





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クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』

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 御歳100歳、知の巨人というかもはや仙人の域に達しているレヴィ=ストロースの世界的ベスト・セラーを読む。長らく学術書だとばかり思っていたのだが(『構造と力』みたいに学術書が売れるみたいなケースだと)、実際のところは、レヴィ=ストロースがアマゾンやインドにフィールドワークをしたときの記憶をエッセイに転写したような内容だった。翻訳が良いのか、文章が衒学的にさえ思えるほど晦渋で素晴らしく「これは確かに文学扱いされてもおかしくないな」と納得。出来事が時系列的に並んでいるわけではなく、我々の記憶がそうであるようにいくぶん錯綜した体裁を取るところも面白い。とくに冒頭の「出発」(ここでは旧大陸から新大陸への旅路などが綴られる)から、やっと南米にたどり着いたかと思うと、いつの間にか話がインドの話になっているところなど、ほとんどレヴィ=ストロースの記憶の密林へと迷い込んだような気分にさせられた*1。学術的には専門外でとくに得るものがないのだが、私はこういうタイプの小説が書きたいのではないか、などと思う。



恐らく彼だけは、文字というものの機能を理解していたのに違いない。そこで彼は私にメモ用紙を一冊要求し、彼と私は、一緒に仕事をするのに同じ道具を手にしていることになった。私が訊ねたことに口頭で答える代りに、私が彼の答えを読み取るべきだとでもいうように、彼は紙の上に曲がりくねった線を描いて見せた。彼自身、自分の作り出したこの喜劇に半ば填まっているという形だった。首長は、自分の手が一本の線を描き終わる度に、意味がそこから湧き出てくるはずだとでもいうように、不安そうに線を検分する。そして、いつも同じ失望が彼の表情に現れる。



 そういうわけで、私はレヴィ=ストロースが冒頭で批判している「探検家の話を聞きに講堂に集まる人」のような態度でこの本に接し、「インディオはこういう生活をしているのかぁ……ふーん……」、「マテ茶ってどういう味がするんだろうなぁ……」などと楽しんでいた。上に引用したのは、文字をもたない民族であるナンビクワラ族の首長が、レヴィ=ストロースが文字を書いているのを真似た、という出来事を綴る一節。こういうのが、あまりにも胸にキテしまう。そのような視点は、もちろん上から目線のもの(持てるものが持たざるものを見下ろして『無垢だ』と評価するような態度)には違いないが。




*1:著者自身は「あらかじめ企てた訳でもないのに、一種の知的『移動撮影(トラベリング)』が、私をブラジル中央部から南アジアに連れて行った」と書いている





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萩尾望都『トーマの心臓』

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トーマの心臓 (小学館文庫)
萩尾 望都
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 初めて萩尾望都の作品を読む。「これは……なんか『若きヴェルテルの悩み』と通ずるものがあるな……」と冒頭からクラクラするぐらいの展開に慄きながら一気に。





 この作品のなかで取り扱われている愛をロマンティック・ラヴの一種の典型と見てもいいのだろう。そのような愛の形式は、日常的に執り行われる「恋愛」とはまるで異質なものだ。たとえば、愛するという理由において、そこでは「一緒にいると居心地が良いから」というカジュアルな理由は採用されない。ロマンティック・ラヴはより重く「彼ならば救済を与えてくれる」というような理由で彼を愛する。そこでは、私と彼が肉体的にではなく、精神的に和合するような状況さえ望まれる。





 おそらくそのような愛の描かれは、この作品にだけではなく「漫画」というジャンルにおいて半ば一般的に認められるものなのかもしれない。少女漫画に限った話ではなく、少年漫画にも。ただ、少年漫画においては(ここで念頭においているのは『BOYS BE…』であったり、桂正和の作品である)肉体と精神の順番が逆で、まず肉体に欲情したものが、次第に精神的なものへと行き着く、というプロセスを取っているのではないか。





 もっとも、個人的に興味があるのはそこではなく、もっと別なところにある。この『トーマの心臓』という作品が、時を経た今でも尚、十代の少女に読まれているのだとしたら、この作品を読んだ彼女たちはどのようにこれを受け取るのだろうか、という反応――この点に興味がある。今私は、この作品中の愛と、日常的な恋愛とはまるで別なものである、ということを知っている(性格に言えば、私個人は別物である、と思っている)。ただし、彼女たちが知っているかどうかはわからない。仮にそういったことを知らない彼女が、これを読んだ場合、どのように感じるのか。このあたりを2時間ぐらいテープを回して聞いてみたくなる。




 ここまでほとんど話の筋に触れていないのだが、ちょっと漫画という域を超えた話である、とも思った。一旦、救済の手を差し伸べられながらも、(事情があって)それを拒絶した主人公ユーリのもとへと再度救済の手が差し伸べられる。このとき、彼は一度目の拒絶への罪の意識、あるいはそれ以前の罪へとようやく向き合うことができる。ここでは二度目に差し伸べられた救済の手を前にしたユーリの選択がとても興味深い――彼はその手を受け取らず、絶対的な救済の象徴であろう神のもとへと走るのである。この選択は複雑なものであろう。差し伸べられた手を受け取れ、私は救われるのだろう、しかし、その手を受け取る価値が(罪深い)私にあるのか、このような葛藤がユーリの胸中にある。「愛される妥当性が自らに存在するのか」。このような問いは、アイデンティティの問題とも結びつくものであろう*1




*1:作品中ではほかにもアイデンティティが問題として登場する。ユーリにしても他に「ドイツに生まれ、ドイツ語を話しているにも関わらず、ドイツ人とみなされない(みなしてくれない人が存在している)」という悩みを抱え、それが権力への意思として発揮される





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読売日本交響楽団第481回定期演奏会@サントリーホール

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指揮:下野竜也


男声合唱=東京混声合唱団


芥川也寸志(没後20年):エローラ交響曲


藤倉大:読売日響委嘱作品《アトム》【世界初演】


黛敏郎(生誕80年):《涅槃交響曲》



 マエストロ下野の読響定期を初めて聴きに行く。超絶良い演奏会。帰りに下野さんと偶然お会いして「素晴らしい演奏会でした!」と伝えると、アルコール混じりの笑顔で握手していただけた(柔らかい手……)のも感慨深いのだが、収穫が多い演奏会で「こういうのがオーケストラを生で聴く醍醐味だよな」と思った。ここで今日の演奏会をプログラム順に振り返ってみよう。





 まず前プロの芥川也寸志だが、これは私がこれまで抱いていた芥川のイメージが覆されるような演奏だった。私はこの作曲家のことを、変拍子の印象的なリフレインを多用し(いわばカンザスシティのリフ・ミュージックのような)、ハーモニックな感性には欠ける粗野な作曲家、とばかり思っていたのが、冒頭の弱音だけでそれらのいいかげんかイメージは吹き飛ばされてしまう。《エローラ交響曲》の弱音の使い方は実に繊細で、耳がキュッと舞台に向かうような気持ちがした(それは指揮者の解釈によるものも多いのだろうが)。もちろん、ダンサブルとさえ言える変拍子のリフレインも最高なのだが、この繊細な弱音音楽と、印象的なリフレインが組み合わされることによって初めて、芥川也寸志という作曲家が聴取可能なものとして成立するのではないか、と思う。どちらか一方を残せばやはりつまらない。実際のところ、芥川也寸志という作曲家はハーモニックな音楽を書くのは苦手だったのでは? と思うのだが、それを乗り越えるだけのリズム語法を身に付けていたのだろう。





 中プロ、藤倉大の世界初演作品も良かったと思う。まず第一に、この作品に日本的なもの、アジア的なものを感じなかった、という点だけで個人的には評価に値する。脱臼でも諧謔でもない彼の音楽は、おそらく(よく知らないが)西欧のモードに則るものであろう。前半から中盤にかけてのラッヘンマンばりの特殊奏法の嵐には少し面食らいながらも、後半のメシアンを想起させる和声は美しかった。作曲家のやりたいことは明確で、おそらくこれが理解できなかったのだとしたら、それは「音楽に集中出来ていなかったのだ」と言い返すことができるだろう。





 しかし、メインの《涅槃交響曲》は素晴らしかった。これほどまでに「来て良かった。生きてて良かった」と思える演奏はなかなかない。その思いはもちろん個人的な思い入れによって形成されたものではあるが、《涅槃交響曲》の「生」と「録音」の効果の違いも大きい。大規模なオーケストラが、ステージのほか2箇所に配置された効果は、録音ではまず味わえない。左右後方から聞こえてくる音(ステージから客席に向って右側が低音、左側が高音)におもわず「本当はこんな作品だったのか!」と思わずのけぞってしまった。終始感激。とくに終盤で、男声合唱がヴォカリーズによって雅楽的な旋律を歌い上げる部分で昇天しそうになった。名曲過ぎる。年末には第九、で構わないが、日本のオーケストラは毎年御盆に《涅槃交響曲》を演奏すべきだ。





 以下、《涅槃交響曲》を聴きながら考えたことをメモしておく。まず思い出したのは(たしか)川島素晴が「鐘の音をあんな風にオーケストラの音へ変換するのは不可能である」と言っていたこと(《涅槃交響曲》は、東大寺の鐘の音色をコンピュータで解析し、その分析結果をオーケストラに置換したもの、とされる)。これは不思議だったのだが、録音で聴くと鐘らしく聴こえた音が、今回生で聴いてみたらどう聴いても鐘には聴こえない。川島の発言が一種のゲシュタルト崩壊を呼び起こしたかどうかは分からない。しかし、これによって《涅槃交響曲》という作品の詳細を聴くことが出来た部分はある。





 よく聴けば、メシアンとよく似た部分がある。というか、黛敏郎はもしかしたら《トゥーランガリラ交響曲》を念頭に置きながら《涅槃交響曲》を書いたのではないか、と邪推してしまうほどよく似た部分があるのだ。とくにピアノの独奏部、これはメシアンが作品に用いた鳥の鳴き声に聴こえた(《鳥のカタログ》にこんな曲があったような……)。鐘の音を模したものと、鳥の鳴き声を模したもの。発想としてはよく似ている。これがもし偶然だったとするならば、鐘と鳥が器楽化すると似てしまう!という奇跡に驚くしかない。ただ、その可能性は限りなく、少ないような気がする。しかし、言うべきことはこれをパクりだ!と糾弾することではない。むしろ、1958年の時点で仏教というとても東洋的な題材とメシアンの語法をこれほどまでに洗練させた形で提示できた作曲家が存在していたことを評価すべきなのだ。



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 欲を言えば、男声合唱はもっと数がいても良かったのではないか、と思う。第2楽章に入って合唱がお経を唱えるところで思い出すのは、いつも上記のCDに収録されている「地獄の王、マハーカラへの声明」なのだが、これに比べると今回の合唱は地獄感(?)にやや欠けた(バスのソロは素晴らしかった!)。もっと地の底から響き渡るようなお経が聴きたかった。そのためにはあと2倍ぐらい人が必要であろうが……。



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Caetano Veloso/A Foreign Sound

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異国の香り~アメリカン・ソングス
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 カエターノ・ヴェローゾの新譜がもうすぐ発売されるけれど、2004年の『A Foreign Sound』というアルバムを聴く(ディスクユニオンで840円だった!)。「異国の香り――アメリカン・ソングス」という邦題のこのアルバムは、カエターノ・ヴェローゾがジャズ・スタンダードやボブ・ディランやニルヴァーナなどをカヴァーする、という内容。このブログでニルヴァーナをカヴァーしている映像を以前に紹介したけれども*1、全編にカエターノ・ヴェローゾの鬼才っぷりが爆発している感じが満載である。DNAの「Detached」(この選曲も異常だ)を弦楽オーケストラでカヴァーするなど、カエターノ・ヴェローゾという人がとんでもないジジイであることが分かる。↓はDNAのオリジナル版。



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