おはようございます。

0 件のコメント






0 件のコメント :

コメントを投稿

竹内玄玄一『俳家奇人談・続俳家奇人談』

0 件のコメント



俳家奇人談・続俳家奇人談 (岩波文庫)
竹内 玄玄一 雲英 末雄
岩波書店
売り上げランキング: 265337



 「有名な俳人たちの面白エピソード集」かと思って中身を見ずに買ったら、江戸時代に書かれた本で文章が古文。「そういえば岩波の黄色は、日本の古典文学だった……」と思い出しながら読んだ。最初に『俳家奇人談』が刊行されたのは1816年のこと。室町時代から近世中期にわたって活躍した俳人たちの風雅談や奇談を集めたこの作品は、明治時代まで売れ続けた大変なロングセラーであったらしい。決して読みやすかったわけではないが(古文を読むなんて、大学受験以来)なかなか面白かった。『続』も含めると約150名の俳人たちの代表作(そこには蕪村や芭蕉のような誰もが知っている有名人も含まれている)も読めて、俳句の勉強にもなる。特に辞世の句が紹介されているところが良い。なかでも園女という人が詠んだ辞世の句が気に入った。



秋の月春の曙見し空は夢か現か南無阿弥陀仏



 およそ200年前の人たちのセンスと現代の我々のセンスが同じなわけがないので、爆笑エピソードはないけれども中には落語のようなオチがある話もある。あと俳句を詠んであげたら、病気が治った、という不思議な話がところどころに見受けられて「『壮快』か!」と思った。





0 件のコメント :

コメントを投稿

レオシュ・ヤナーチェク《シンフォニエッタ》

0 件のコメント



D


 村上春樹『1Q84』では、レオシュ・ヤナーチェクの《シンフォニエッタ》という作品が重要なアイテムとして登場する。少し熱心なクラシック・ファンでもない限り耳にすることはない、ややマニアックな作品だが私はこの作品を自分が現在所属しているオーケストラの演奏で聴いたことがある。第1楽章のファンファーレは、12人のトランペット奏者を含む金管楽器とティンパニのための音楽で、舞台上のトランペット奏者は椅子から立ち上がって演奏することもある。12人のトランペット奏者が横一列に並んだ様子は、かなり壮観。もしかしたら今後演奏機会が増えるかもしれないので、その目でその姿を確かめるのも一興かもしれない。



D


 個人的にはEL&Pの「Knife Edge」の方がなじみがあったりする。





0 件のコメント :

コメントを投稿

村上春樹『1Q84』

6 件のコメント



1Q84(1)
1Q84(1)
posted with amazlet at 09.05.30
村上春樹
新潮社
売り上げランキング: 2




1Q84(2)
1Q84(2)
posted with amazlet at 09.05.30
村上春樹
新潮社
売り上げランキング: 3



 久しぶりにコンテンポラリな日本の作家の小説を。そしてこれが久しぶりに「小説を読むってこんなに楽しいものだったんだ!」という感覚を味あわせてくれる素晴らしいものだった(最後にそんな気分になったのは、なにを読んだときだろう)。購入したのは2日前のことで、それから暇さえあれば貪りつくように読まされてしまった。そういう引力をこの作品は有している。そして、村上春樹流の言葉で、その引力に捕らわれた様子を表現するならば「どこか別な場所へと連れて行ってくれる」ようなものである。





 村上春樹が書くような文章によって、そういった結果が生み出される、ということはとてもすごいことなのではないだろうか、と読んでいる間に考えた。なぜなら、そういった力を持つ物語を書くには、衒学的だったり、異様な勢いがある言葉が必要だ、と思っていたからだ――例えば、中上やラテン・アメリカの作家たちのように。物語に限定しなければ、私にとってアドルノの文章はそのように作用している。だが、村上春樹の文章はそうではない。過剰とも言える比喩が多用されるにしても、あくまで流れは自然である。それは力づくに、ではなく自然に導くようにして、私をどこかに連れて行く。





 そこで私は、大いに楽しい時間つぶしができる。もうひとつ、なにかを考えるきっかけ(あるいは媒介)を与えられる。この2点があればその作品は読む価値がある、という風に(少なくとも私には)言える。繰り返すようだが、『1Q84』という作品は私にとって、大いに楽しい時間つぶしができるものであり、そして、なにかを考えるきっかけ/媒介を与えてくれるものだった。





 作品の内容について、ここでは触れるべきではない(『なにも知らずに読んで欲しい』というのが作者や出版社の意向であるので避けておく)が、できる限り内容を紹介しないように思ったことを書いておく。村上春樹の仕事のなかで『アンダーグラウンド』というインタビュー集は、大きなターニング・ポイントとなっている、という風に私は思っている。そして、この作品もまたポスト『アンダーグラウンド』的なものだ、という風に思う。もっと言ってしまえば、ポスト・オウム的な小説である。





 物語にはエホバの証人や、ヤマギシ会、そしてオウム真理教のような団体が登場し、それらの団体が持っているであろう問題が述べられ、間接的に審査にかけられる。そこで問題となるのは「その団体が与えている問題解決の方法は、極めて限定的なものである」ということだ。彼らがおこなう《治癒》は、汎用性を持たず、そして何らかの代償を払わなくてはならない。例えば、全財産を投げ出し、自らの主体的意思を投げ出せば、「あちら側の世界」へと入ることができる。たしかにそれは現実的な世界が生み出すしんどさから解放されるための手段として有効かもしれない。しかし、問題がないわけではない(主体的意思を持たない人間の幸福、とは果たして幸福なのか)。それらの団体は常にものごとの良い面しか伝えようとしない。『アンダーグラウンド』の続編『約束された場所で』で提示された疑念がここでも反復される。





 また、治癒をとりあげて作品を眺めてみると、この作品全体が治癒の物語と呼ぶこともできよう。おそらくそれは斎藤環がうんざりする類の典型的な「トラウマ話」と呼ぶことができる。このような物語は、言ってしまえば『リーサル・ウェポン』と同様だ。しかし、『1Q84』では治癒が最終的な救済として描かれることはない。そもそも主人公たちが受けた傷は、別なものによって埋められるだけで、彼らは「あちら側」に旅立つことなく、「こちら側」にとどまったまま、生きることを選択する――これはそもそも治癒とさえ呼べないかもしれない(起こってしまったことを打ち消して、問題が生じる前の状態に戻すことは不可能であることがここでは明示される)。





 とどまり続けることがこの作品のなかでは肯定されているのだろう。あちら側に足を踏み入れることなく、別な生き方を選択することの可能性が提示されている、と言っても良い。全面的かつ最終的な救済はありえない。しんどいことは再びやってくる。しかし、それを受容しなければ、また別な幸福の可能性もあり得ないものとなる。それは的を射た意見だし、同意もできる考え方だと思う。





 とても面白い本ではあるが、感動などとは無縁の本で、読んだあとにいくつもののしこりが残る(かなり嫌な気持ちになる部分も多い)。しかし、そのしこりもまた受容されなければならない種類のものであろう。ここに留まり続けることに同意するならば、問題を反復的に問い直し続けることは必要なことなのだ。





6 件のコメント :

コメントを投稿

7月までの現代音楽演奏会;演奏会のチラシより

0 件のコメント


 現代音楽のコンサート会場で配られるチラシというのは、大抵現代音楽関連のチラシなので情報源として大変役に立つ。今回もらったチラシはどれも行きたいものばかりなのだが、どうにもスケジュールの都合がつきそうにないので特に気になったものを悔し紛れにここに列挙してみる。id:mochilonくんや、id:MASSYくんあたりが聴きに行って感銘を受けてくれば良いと思う(投げやり)。



6/11(木)


低音デュオ(松平敬&橋本晋哉) 2nd LIVE@公演通りクラシックス




  • 曲目


湯浅譲二《天気予報所見》、カーゲル《バベルへの塔》、他



 ラッヘンマンの演奏会でもソリストを務めた橋本氏と、シュトックハウゼンのスペシャリストでもある松平氏によるデュオ。曲目にはとりあえず知っている作曲家の名前を抜粋しておいたが、ほかはまったく知らない。が、超おもしろそう。なんで平日なんですか!



6/16(火)


片岡綾乃(パーカッション)リサイタル@東京オペラシティ リサイタルホール




  • 曲目


ケージ《イン・ア・ランドスケイプ》、バッハ《無伴奏チェロ組曲》第6番、他



 東京オペラシティのB→C(バッハからコンテンポラリーへ)シリーズ。このシリーズ、前々から興味はあったのだけれども、一度も行ったことがない。曲目にはとりあえず知っている作曲家の名前を抜粋しておいたが、ほかはまったく知らない。が、超おもしろそう。なんで平日なんですか!



7/16(木)



101年目からの松平頼則II@杉並公会堂 小ホール




  • 曲目


《律旋法によるピアノのための3つの調子》、《雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ》、他



 雅楽と西洋音楽を融合させた作風でカラヤンも魅了した、という作曲家の特集。これも楽しそうだなぁ……(よくみたら、ファゴットで以前2回ぐらいレッスンを受けたことがある方が参加している)。なんで平日なんですか!



7/24(金)


リュック・フェラーリ・リサウンズ@すみだトリフォニーホール 小ホール




  • 曲目


フェラーリ《パリ-東京-パリ》、《小品コレクション、あるいは36の続き、ピアノとレコーダーのための》(日本初演)、鈴木治行《Scabrous》(世界初演)



 フェラーリは特段好き、というわけではないが、これはなかなかすごそう。なんで平日なんですか!





0 件のコメント :

コメントを投稿

ヘルムート・ラッヘンマン オーケストラ作品展「協奏二題」@東京オペラシティ コンサートホール

0 件のコメント





  • 曲目


《アカント》オーケストラを伴う独奏クラリネットのための音楽


《ハルモニカ》独奏テューバを伴う大オーケストラのための音楽




  • 演奏


岡静代(クラリネット)、橋本晋哉(テューバ)


飯森範親(指揮)/東京交響楽団



 二日連続で生で音楽を聴くことなったけれども、本日は趣向をガラリと変えてヘルムート・ラッヘンマンの音楽を。演奏されたのはどちらも日本初演で、おそらく再演にはしばらく時間がかかりそうだったから行くしかない!と思って会社を午前で早退して聴いてきた(本当は一昨日の室内楽プログラムも聴きたかった!)。その結果は、素晴らしかった。やはりラッヘンマンの音楽はとてもユニークで、音の素材が限りなくノイズに近いものであってもすごくユーモラスなものとして耳に入ってくる。そして、それを私は音楽というよりもある種の謎かけのようにして受け取ることになる。その謎かけは常にショッキングなものであったし、大いに耳を楽しませてくれる。そういうわけでますますこの作曲家に興味が湧いた。





 今回選ばれた二作品は、《アカント》が持続音がほとんど使用されないミニマリスムの極北みたいな作品で、《ハルモニカ》はもっとダイナミックに音のうねりがある作品。両作品にパッと聴いた感じで共通しているのは「オーケストラを使用しているのに、『マトモな音』はほとんど演奏させない」という特殊奏法のオンパレードによって構成された、大変エレガントな作品であることぐらいなのだが、この対比も良かった。


 各楽器奏者の特殊奏法の視覚的効果も面白い。マウスピースを外したクラリネットを鼓のように叩いたり、鉛筆(?)でテューバの管体を叩いたり、と奏者としてはあんまりやりたくなさそうなものがあったけれど、次に何が起こるのか目が離せず。木琴を弓で弾く音がすごく好きなので生で聴けて感動した。





 あとロビーに展示されていた《ハルモニカ》のスコアも自由に読めたことも収穫。こういった現代作品というのは大抵ものすごく難しく書いてあるのかと思ったら、すごくカッチリと書いてあって読みやすいので驚いた(読んだ部分が、休符の多い部分だったせいもあるけれど)。演奏前のラッヘンマン自身によるプレ・トークも充実していて(ちなみに伸長190センチぐらいありそうな長身)、とても良い演奏会だった。





 今回の演奏会は、東京オペラシティ主催の同時代音楽フェスティバル「コンポージアム 2009」の一環。最終日である31日は、ラッヘンマンが審査委員を務めた武満徹作品賞の本選演奏会があるので、時間があれば行ってみようかと思う。来年はトリスタン・ミュライユの特集はトリスタン・ミュライユだそう。2012年まで予定が決まっているみたいだが、12年の細川俊夫が待ち遠しい!





0 件のコメント :

コメントを投稿

MAGMA 40th Anniversary Tour In Japan@Shibuya O-EAST

0 件のコメント



ライヴ
ライヴ
posted with amazlet at 09.05.28
マグマ
インディーズ・メーカー (2009-04-10)
売り上げランキング: 16017



 結成から40年になるフランスのプログレ・バンド、MAGMAのライヴを観た。かれこれ7年(私の人生の4分の1ぐらい)ぐらいこのバンドを聴いてるけど、生で聴くのは今回4度目となる来日公演が初めてで、念願かなって、という感じ。大抵こういう機会には「観れた!」という感慨の方が、ライブの内容を勝ってしまうことだけでとりあえず納得してしまうのだけれど、MAGMAは違って、マジで最高だった。明日以降のライヴを観る人も期待して良いと思う。これまでにライヴを観た海外のバンドで一番良かった気さえした。


 


 改めて彼らの音楽に触れてみると、なんとも個性的な音楽だなぁ……という気持ちが強くなる。バンドのリーダー、クリスチャン・ヴァンデが叩くドラムはいわゆるジャズ的なもの、それもマイルス・デイヴィスと一緒にやっている頃のトニー・ウィリアムスだったり、エルヴィン・ジョーンズを彷彿とさせるのに、その上に載っているのは、異教じみた暗いリフレインだったり、童謡のようにアルカイックな美しさを持つメロディだったりする。様々な要素がメンバーの高いプレイヤビリティによって結合されたこの音楽は、カテゴリ化されることを強固に拒むような感じだ。ライヴの前半に演奏された新曲2曲(演奏時間はあわせて50分ぐらい)は、特にその反カテゴリ性の極地というか。強いていうならば、バッハの《マタイ受難曲》を聴いているときのような敬虔な退屈とでも言うべき稀有な感覚に襲われる。なんなのであろうか……、40年やっているとこの境地に至ってしまうのか……。





 アンコールは2回。最後はクリスチャン・ヴァンデがドラムを叩かずフロントに立って絶唱(ドラムなのに明らかにメインの男性ヴォーカルより上手い)。これも声によってシーツ・オブ・サウンドを試みるような圧倒的なパフォーマンス。2時間ほとんど休憩もなしに演奏が続いたのだけれども、本当にあっという間だった。毎年ぐらいのペースで来日して欲しいよ!



D





0 件のコメント :

コメントを投稿

ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』

0 件のコメント



ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)
ゲオルク ジンメル
筑摩書房
売り上げランキング: 169248


 ゲオルク・ジンメルという社会学者については「ちょっとマイナーな人」ということができると思う。私は社会学部出身で学生時代は一応体系的に社会学を学んできた人間であるけれども、その講義のなかでジンメルが引かれることはおそらく一度もなかった、と記憶している。世代的にはマックス・ヴェーバーやエミール・デュルケムといったメジャーどころ(彼らの業績については、講義で習った)と同時代人ということもあり、名前は知っていたのだけれども、今日まで読む機会を得なかった。きっかけとなったのはやはり、最近になって私のゼミの先生がジンメルに関する論文を書いていたことである*1





 この『ジンメル・コレクション』には、ジンメルが遺した短いエッセー形式論考を19本収録している。全体は4部に分けられていて、それぞれ「恋愛」、「美術」、「美学」、そして「社会」とテーマが決められているのだが、冒頭の「愛の哲学断章」は以下の文章からはじまる。



エロスの憧れや夢をもう経験してしまった女の子が恋に落ちたときには、男がいつもいいところだけを見せるのは比較的簡単です。



 なんだそれは!という感じで、いきなり名著決定の判を押したくもなる。これ以降ジンメルは男女間におけるパワー・バランスを、経済的な交換と置き換えることで読み替えることで説明していくのだが(「どんな恋愛関係でも、有利なのはそれほど惚れていないほうです。あまり惚れていなければ、自分で条件を示すことができますが、惚れているほうは、それにふりまわされるのです」)、興味深いのは恋愛において惚れている方(弱者)と惚れられている方(強者)のどちらが幸福であるか、と問うた時、実は「より深く愛している方」と明示していることだ。条件を飲み続け、一見虐げられるように見える弱者のほうが実は幸福である。ここにはたやすくマゾヒズム的な性質を見出すことができよう。だが、そのマゾヒズムをジンメルは非難しようとはしない。ただ、そのようなものとして描き出すだけだ。ごく当たり前のもの、自然なものとして認識される恋愛関係から、奇妙なもの(ここでの例で言えば、マゾヒズム)を抽出するジンメルのまなざしはとても面白い。





 ただ、「恋愛」のパートに収録されているほかのエッセーについては、この時代の男女の性に関するジェンダー論的な土台がよくわからないこともあり、よくわからない、で終わってしまったが。とくに売春という「社会問題」を扱った「現代と将来における売春についての覚え書き」というエッセーでは、貧乏な娼婦は「問題」として扱われるのに、高級娼婦はもてはやされるこの状況はおかしいだろ!というジンメルの憤りは理解できるのだが、それが結婚制度を打破することによって解決しえる、というような論旨は到底受け入れることができない。ここでジンメルは「結婚システムから疎外された人々が、売春がおぞましいものであるというイメージを生産している」というような分析をおこなっているのだが、結婚システム(恋愛のシステムといってもいいのかもしれないが)を排除することによって、誰しもが自由に性愛を享受できる社会が訪れるなんてことはないだろう。性的に自由な社会(たとえば現代のように)であっても、自ずと疎外される人々は生まれるであろうし、ほとんど太陽寺院かヴィルヘルム・ライヒのようにしか読めない。ただ、こういった突拍子もない夢想レベルの話も面白いのだが。





 次に続く「美術」パートも、我々が美術作品を鑑賞する、その鑑賞するときの態度が浮かび上がるようなエッセーがあって面白い。それらは「取っ手」や「額縁――ひとつの美学的試み」といったエッセーにおいて説かれているのだが、ジンメルによれば美術作品とは、我々の目的意識とは隔絶したところで


それがそれ自体を目的としながら「統一性」を保って存在している、という。いわば美術作品は何らかのために存在しているのではなく、自らが美術作品であるために存在している、という自己言及的なものである、と(以上と同じ論旨をカントも語っていたかもしれない。どこで読んだかは覚えてないが)。この論旨自体はとくに目新しくないことかもしれないが、ジンメルはその「外部の目的との隔絶」を作り出すものとして、額縁という存在に注目し、あるいは美術的な水入れの取っ手が「隔絶」と「外部の目的」の両者へ働きかけることに注目する。ここでのジンメルがものすごく一生懸命に「どのような額縁が適切であるのか」や「どのような取っ手が適切であるのか」を吟味しているのがとても面白い。





 また「社会」のパートでは、貨幣が社会に及ぼした影響について、昨今のいわゆるグローバリズム社会への予言ようなところがある。ジンメルには『貨幣の哲学』という著作があるのようなので、こちらをチェックしてみたくなった(ただし、無茶苦茶高い)。



貨幣の哲学
貨幣の哲学
posted with amazlet at 09.05.24
ジンメル
白水社
売り上げランキング: 567071







0 件のコメント :

コメントを投稿

旧前田公爵邸を訪ねた

0 件のコメント


f:id:Geheimagent:20090523142941j:image


 いまさらですが、どうやら文章だけを書き連ねているブロガーよりも、写真が撮れて文章が書けるブロガーのほうが人気がでる、という事実に気がつきましたので、今後は私も嫌がらせのような長文をこれまでどおり書く一方で、写真を適当に載せようと思い立ち、本日は駒場公園にいってきました。透き通る新緑がとても綺麗で良かったです。


f:id:Geheimagent:20090523142055j:image


 ここには元々加賀百万石の領主であった前田利為公爵の邸宅だったそうで、公爵が住んでいたお屋敷が一般に無料で公開されています。公演の東門から入るとまず前田公爵邸和館がある。


f:id:Geheimagent:20090523142130j:image


f:id:Geheimagent:20090523142237j:image


 なかはだだっ広い畳の間なんだけれど、細部の作り込みが良い感じです。あとものすごくスクエアなものを感じる空間の作りになっていて、足を踏み入れただけで背筋が伸びそうになります。


f:id:Geheimagent:20090523142228j:image


 欄間。


f:id:Geheimagent:20090523142550j:image


 ランプシェード。なんかかわいい。


f:id:Geheimagent:20090523145008j:image


f:id:Geheimagent:20090523143143j:image


 しばらく歩くと洋館が見えてきます。カッコ良い!


f:id:Geheimagent:20090523143419j:image


f:id:Geheimagent:20090523144201j:image


 中はかなり広くて、歩いていると自分がどこにいるか把握できなくなってきます。


f:id:Geheimagent:20090523144218j:image


f:id:Geheimagent:20090523143659j:image


f:id:Geheimagent:20090523143628j:image


f:id:Geheimagent:20090523143737j:image


 とくに言うことがなくなってきましたので終わります。





近代建築散策:旧前田侯爵邸洋館





0 件のコメント :

コメントを投稿

エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』

0 件のコメント



イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)
エルヴィン パノフスキー
筑摩書房
売り上げランキング: 152160




イコノロジー研究〈下〉 (ちくま学芸文庫)
エルヴィン パノフスキー
筑摩書房
売り上げランキング: 193589


 イコノロジー(図像解釈学)の創始者である、エルヴィン・パノフスキーの主著を読む。手に取ると上下巻でかなり分厚い本に思えるのだが、その実、半分ぐらいは原注と参考文献案内、そして索引だったりするので結構あっさりと読めてしまうにも関わらず、これは大変に面白い本だった。序論の部分で、パノフスキーが取るイコノロジーの立場や方法論が入るため、「イコノロジーってなんぞや?」という方にも安心な設計である(当の私もイコノロジーなんかまったく知らなかった)。以前に彼の『<象徴形式>としての遠近法』*1を読んだときにも感じたが、恐ろしいほどの情報量に対して、とても分かりやすい文章が続くのも良い。これは翻訳が素晴らしいのだろう。





 タイトルは『イコノロジー研究』となっているが、本の主題は副題である「ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ」について。パノフスキーはそこで、中世からルネサンスにいたるまでの思想の変遷を、同時代の絵画のなかに見出そうとしている。これはまったく逆の言い方もできる。同時代の絵画のなかに、中世からルネサンスにいたるまでの思想の変遷を見出す、と言う風に。そういうわけで、この作品は「中世&ルネサンス思想史の本でありながら、中世&ルネサンス美術史の本である」という性格を持つ。この二重性がとてもエレガントな形で、整理され、提示されるところは魅力的だ。そもそも「(私の主な興味の対象である)アドルノとパノフスキーは似ている(かもしれない)」というコメントから読み始めたパノフスキーだったが、このよく整理されたところに、まずはアドルノとパノフスキーの隔たりを感じてしまう。




 とはいえ、序論で展開されたパノフスキーの方法論を読めば、両者の方法論の近似を感じてしまうのは確かだ*2。アドルノがパノフスキーのように自らの方法論をここまで整理して提示した、という例を私はまだ見たことがないが、このあたりは性格の違いなのかもしれない。アドルノとパノフスキー。どちらもドイツに生まれたユダヤ系の学者であり、第二次世界大戦中はアメリカに逃れた経歴を持つ人物である。彼らの同時代性について語る行為もまた魅力的なものと感じる。





 しかし、アドルノが音楽を哲学への媒介(逆に、哲学を音楽への媒介)として用いたのと、パノフスキーが美術史を思想史への媒介(逆に思想史を美術史への媒介)として用いたのとでは、違いが生まれてしまうのは必然的なことだろう。簡単に言ってしまえば、前者が「そうであるもの」を語ろうとして生まれた態度なのに対して、後者は「そうであったもの」を語ろうとして生まれた態度であるからだ。「そうであるもの」、あるいは「そうでありつづけるもの」を語ることが未整理なものとなるのは致し方ないといえば致し方ない。その未整理であることを美学的に捉えて評価することは危険なことかもしれないが。





 『イコノロジー研究』の話に戻ると、私はこの本に書かれている思想史の部分を大変面白く読んだ。もちろん、中世・ルネンサンスに関する知識をほとんど持たなかったから、新しい知識として得られたせいでもあるのだが、東ローマ帝国崩壊後に、ギリシャ哲学が西ヨーロッパに流入し、そこでギリシャ哲学とキリスト教とが融合し始めるあたりにも触れられており、このあたりのダイナミックな思想史の変遷が刺激的なのである。まさに歴史はロマン。異教と異教が奇跡的に融合し、さらにはネオプラトニズム、という今で言うロハスみたいな集まりが生まれてくるところは「いつの時代にも『人間、自然な姿が一番!』みたいなことを言うヤツはいるのだなぁ」と感心してしまった。15世紀の北イタリアでのネオプラトニズムの中心となったマルシリオ・フィチーノは、質素な食事をしながら様々な芸術家・思想家・詩人と親交をもったそうである。彼の影響下には、あのミケランジェロもいて「ミケランジェロも坂本龍一みたいなヤツだったかもしれないのだなー」とか思う。




*1エルヴィン・パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』 - 「石版!」


*2:イコノロジーについてはWikipediaにも記述されているので、そちらを参照されたい。ここでは詳細を省く





0 件のコメント :

コメントを投稿

人のふんどしで相撲をとりつづけます。

0 件のコメント



 だんだん上手くなってきた気がする。





0 件のコメント :

コメントを投稿

Ginger does ’em all@鶯谷What’s Up

0 件のコメント



SWEET BROWN ADDICTED
SWEET BROWN ADDICTED
posted with amazlet at 09.05.19
GINGER DOES’EM ALL
インディーズ・メーカー (2008-10-08)
売り上げランキング: 180065



 そういえば書き忘れていたが、この前の土曜日にはファンク・パティシエことGinger does 'em allのライヴに行ったのだった。鶯谷というやたらとラブホテルが多く、5分に一度は手を繋いでこれからがっつりと夜を愉しもうとするカップルとすれ違う土地に足を踏み入れる機会は、まずこの人のライヴでしかない。というか、ライヴは楽しみの三分の一ぐらいで、もう三分の一は、彼が作るお菓子――今回はフランボワーズのマカロン、最後の三分の一は「バーターか!」と突っ込みを入れたくなるほど高い確率で共演しているid:Dirk_DigglerさんのDJプレイを聴くためなのだった。



D


 機材不調のなか、DDさんがプレイする古今東西の「しつこいフュージョン特集」はいつも最高だ。かつて喜怒無月が「アメリカのフュージョン系のミュージシャンは、カンタベリー系のミュージシャンとは比べものにならない(ぐらい上手い)」という発言をしていたが、彼のプレイを爆音で聴くことによって、我々はその言葉を肌で理解することができる。例えば、トニー・ウィリアムスのドラム版シーツ・オブ・サウンドにしても、Youtubeの荒い音色ではその真価を捉えることができないだろう。トニー・ウィリアムスとは、律動と言うよりも、それは圧倒的な密度を持ってやってくる驚異である。あと「ドイツにもフュージョンがあるのかぁ……」と大変勉強になった。基本的にここで聴く音楽はいつもしっかりと刻まれていて忘れない。ラリー・コリエルも、アル・ディ・メオラも……(ある意味でのギター・ポップの祭典だ!)。



D





0 件のコメント :

コメントを投稿

コンポージアム2009「ヘルムート・ラッヘンマンを迎えて」

0 件のコメント


コンポージアム2009「ヘルムート・ラッヘンマンを迎えて」

 久しぶりに現代音楽の話題を。東京オペラシティ文化財団主催の武満徹作曲賞が今年も開催されるそう。今年の審査員はドイツの巨匠、ヘルムート・ラッヘンマン。昨年のスティーヴ・ライヒのときも記念演奏会的な催しがあったけれども、今年もあるようだ。こういった大きなコンサート・ホールで作品に触れる機会はなかなかないと思われるので、現代音楽に少しでも興味がある方は絶対に行くべきである、と思います。私も出来る限り演奏会に足を運びたい、と思っている。演奏会があるのは26日(室内楽プログラム*1)と28日(協奏曲プログラム)。中日の27日はフランスからMAGMAが来日し、こちらは既にチケットを抑えている。フルで行ってしまえば3日連続コンサートになってしまうが、どうしても観たい。





 ラッヘンマンの音楽については、何度かこのブログに文章を書いているが、どれもいまいちまとまりにかけ、その魅力を充分に紹介してきれていない、と読み返して思う。現在N響アワーの司会を務めている西村朗によれば「彼の音楽は、既存の音楽に対しての《異化》である」とのことであるが、ここではもう少し素直な聴き方をオススメしてみたい。特殊奏法を多用する彼の音楽はたしかに、既存の音楽に対して、というか、既存の「音の響き」(この楽器はこういった音色を持つ楽器である)というようなイメージを書き換えてしまう。たしかにそれは一定の破壊力を持った音楽だ。しかし、あえて私はそのように構えた聴き方を拒否してみたい。そのような批評的な意味づけは、ラッヘンマンの音楽が持つ豊かさを限定してしまうのではないだろうか、と思うからだ。





 ラッヘンマンの師でもあったルイジ・ノーノの音楽に対して、ラッヘンマンの音楽はもっとユーモラスな面で優れている、と私は思う。そこには楽譜に書かれたもの以上の想像力を書きたてる力がある。正確に言えば、ラッヘンマンが楽譜に書いた音とは、書かれていたとしても、実際の演奏に触れない限りは把握することができないものだ。おそらく、そこには細やかな奏法上の指示があろう。しかし、それらは音にならない限り、理解することはできない。だからこそ、聴く価値がある。書かれた楽譜は、目で追うことができる。しかし、ラッヘンマンの音楽は本当に耳で聴かない限りは、追うことができないのだ。



Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso

Kairos (2008-01-14)
売り上げランキング: 17067




D


《グラン・トルソ》




*1:確認したところ、現在当日券のみの取り扱いらしい





0 件のコメント :

コメントを投稿

カール・マルクス『資本論』(六)

0 件のコメント



資本論 6 (6) (岩波文庫 白 125-6)
マルクス
岩波書店
売り上げランキング: 44604



 昨年から続いていた「マルクス・マラソン」だけれども、もう走れません(この巻の半分でギブアップ!)。たぶん、これを読破できた人は並みの人ではない。そのとき既に人は、スーパーマンロードの試練を乗り越えて超人となっているのではなかろうか……(ウララー!)





0 件のコメント :

コメントを投稿

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『薔薇の葬儀』

0 件のコメント



薔薇の葬儀 (白水uブックス―海外小説の誘惑)
アンドレ・ピエール・ド マンディアルグ
白水社
売り上げランキング: 118882


 去年から結構集中的に読んでいるマンディアルグの短編集を読む。書かれた時期は70年代の後半から80年代で、短編集としてはこれがマンディアルグの最後の本となる。ここまでかなり面白く読んできた彼の作品だったが、これはちょっとよくわからなかった……。基本的なテイストというのは『城の中のイギリス人』*1や『すべては消えゆく』*2といった作品でみられるような「衒学的な文体で書かれた怪奇幻想な変態小説」という感じなのだが、どういうわけかハマらない。訳文のせいかもしれないのだが、そこまで面白く読めなかった。それが「森のなかを車で走ったら自転車乗りの少女を轢いてケガをさせてしまった男が、手当てのついでにその少女をモノにする」というすごい話であってもだ。うーん……。日本のモチーフが登場するところが重要視されているようだが、これもよくわからない。本の裏表紙にはこんなことが書かれている。



三島や谷崎への接近はマンディアルグの世界にさらに豊穣な実りをもたらした。



 ちなみにマンディアルグは三島作品のフランス語訳もおこなっている。ここでのマンディアルグは、三島や谷崎のほの暗い暗黒風味なエロスをヨーロッパ風に再構成する試みを行っているように思う。しかし、そこで出来上がったものに魅力を感じないのである。そこで登場する日本のイメージは、妙にうさんくさく、ハリウッド映画に出てくる日本人役の中国系アメリカ人のような違和感と、スティーリー・ダンの『AJA』のジャケットのようなオリエンタル感を持つように感じ、おそらくそれは“あえて”そのようなイメージに仕立て上げたのだろうが、とにかくハマれない。





 表題作「薔薇の葬儀」などその典型で、この作品には忍術的な殺しの技術を身につけた日本人女性四人組がでてくる。名前はダイニ、イヨ、イヌキ、アオイ。この四人組の女主人というのがナカ・ハンというなぜか白塗りの妖術使いのような女性で「中国のハン(漢)王朝の王子の末裔らしい」という設定がなされている。なにそれ……。いや、暗黒舞踏とか川久保怜とか色々とイメージをかきたてる日本が当時のパリには存在したのかもしれないが……。






0 件のコメント :

コメントを投稿

調子に乗りました。

0 件のコメント



「ワスはマトモ星から来たマトモ星人と言う者なんだケド……。今日なんでこんなところにワスがいるかって言うと、ワスの星と西荻星との間に戦争が起きたからなんだよね……。ワスは、ほら戦争なんか参加できないじゃんかー、だからこうして地球まで逃げてきたわけですよ……」






0 件のコメント :

コメントを投稿

怒られなかったので。

0 件のコメント



 続きません。





0 件のコメント :

コメントを投稿

カッとなってやった。

0 件のコメント




0 件のコメント :

コメントを投稿

空中キャンプ『下北沢の獣たち』

0 件のコメント


f:id:Geheimagent:20090513223139j:image

 先日の文学フリマで入手した本は2冊*1。そのうちの1冊が空中キャンプさん(id:zoot32)の『下北沢の獣たち』で、これを今日読み終えた。イベント当日は、行列ができるほど空中キャンプさんのブースは賑わっていて、UMA-SHIKAの2倍ほどの部数が出たそうである。たった1人でこの集客力……!と目を丸くするほど驚いて、イベント終了後に「次回は一緒にやりましょう!是非!」と営業させていただいたのは言うまでもない。





 内容の方も素晴らしく、いや、これはお世辞でなく素晴らしかった。収録された3本の短編に出会えただけでもイベントに参加した意義を感じるぐらい、とても感銘を受けた。あっという間に読み終えてしまうぐらいの短さ、にも関わらず、登場人物がとてもよく動いていて「ああ、こういう風に物語を動かせば良いのかぁ」と勉強になった。こういった優れた短編が、文芸誌以外の雑誌に掲載されていたら良いのになぁ、と思う。ちょうど『エスクァイア』誌にフィッツジェラルドが作品を寄せていたようにして。ファッション誌であっても良い。『mini』とか『PS』とかに載っていても、おかしくはないと思う(それはチャーミングな表紙の印象との相乗効果があるかもしれない)。





 私は空中キャンプさんの文章によく「社会学的なものの考え方」を強く感じることがある(直接お訊ねしたことはないけれど、かなり専門的に勉強された方なんじゃないか、と想像している)。それは普段書かれているブログのエントリについても言えることだし、もちろん、今回の作品集にも反映されているように思った。例えば、表題作「下北沢の獣たち」では暴力の正統性の問題が、「アイコ六歳」では自由の問題が、「ひとすじのひかり」では現実のあやふやさと言った問題が、それぞれ問われているように感じる。とくに「下北沢の獣たち」のラストで、猫の視線から批判的に描かれた「まっとうのように見える人間の気持ち悪さ」のようなものは胸に刺さる。個人的にはこの作品を最も興味深く読む(『下北沢のアイヒマン』という言葉にもやられた!)。




*1:どちらも交換していただいたもの





0 件のコメント :

コメントを投稿

アラン・ムーア(原作)デイヴ・ギボンズ(作画)『ウォッチメン』

0 件のコメント



WATCHMEN ウォッチメン(ケース付) (SHO-PRO BOOKS)
アラン・ムーア
小学館集英社プロダクション
売り上げランキング: 189


 先日『ウォッチメン』の映画を観て*1大変感銘を受けたので、原作も。これが私の初アメコミ体験となったのだが「グラフィック・ノヴェル」という言葉が、非常に納得がいくものとして受け取られるような作品だった。奇しくも物語の舞台となっている1985年は、スティーヴ・エリクソンが『彷徨う日々』でデビューした年であり、なんとなくエリクソンとの同時代性も感じてしまう。また、改めて「よくこれだけの情報量が詰まった作品を、映画にしたなぁ……」と改めて映画版を賞賛したい気持ちにもなる。細部は若干異なるけれど、ほぼ完璧な映画化だ、と思ったし、むしろ映画版はその細部の変更によって、より一層作品を研ぎ澄ました印象がある。





 逆に原作には、物語のディティールを深いものとする資料が章の間ごとに挿入されていて、これがとても面白い。とくにオジマンディアスに対するインタヴュー記事や、ロールシャッハの精神鑑定結果などは素晴らしい。物語の結果を暗示するかのような効果的な使い方に感銘を受けた。『20世紀少年』もザック・スナイダーならもっとマシだったのかもしれない、などとどうでも良いことを思ってしまったが、これは原作がやはり大したことがなかったのだろう……。





 圧倒的な情報量を噛み締めながら読んでいくと、この作品が実によく「アメリカ批評」となっているかがよくわかるような気がする。オジマンディアスにしても(究極的な世界平和の実現のための権力の行使)、ロールシャッハにしても(善悪の二元論)にしても、強くアメリカ的なキャラクターとして読めるのだ。もちろんその「アメリカ的」というイメージは、私はアメリカの政治学や歴史について専門的に学んだ人間ではないから、いくつかの本を読みかじって得た知識から得たものに過ぎないけれども。注目すべきは、オジマンディアスとロールシャッハに共通する「高潔さ」である。この点において、彼らふたりの本質は、鏡のような関係にあるように思った。ふたりは高潔に、悪を憎むからこそ、暴力を振るうのだ。換言するならば、高潔さが暴力を行使することに対しての正統性を生産する、といったところだろうか。



性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)
鈴木 透
中央公論新社
売り上げランキング: 167468




こういった事実からもアメリカという国の根幹にある精神が浮かび上がってくる。その一つは(ピューリタン的な)「苦難を遠ざけるのではなく、それと対峙し、克服しよう」という態度。そしてもう一つは「その対峙を合理的に行っていこうではないか」という姿勢だ。この二つの根本から導き出される“手段” が「暴力」、それも「白人によって振りかざされる圧倒的な暴力」というのは実に分かりやすい(そして分かりやすい故に、なおさら深刻である)。




 その暴力の事例として「リンチの伝統」が挙げられ、現代もなお、その伝統は脈々と受け継がれている、と筆者は分析する。9.11以降におこった戦争なども全てこのリンチの伝統と対して布置されているところは、少し言いすぎな感じもするが納得がいってしまうような話だ。*2


 それゆえに考えてしまうのは「高潔さの恐ろしさ」についてでもある。オジマンディアスは高潔さゆえに大量殺戮をおこない、ロールシャッハは高潔さゆえに自滅する。さらに前者の暴力が、まことに合理的な価値観によって正当化されてしまうというのであれば、ますます問題だ。これを「アドルノ的な問題」として扱うのは、少しもこじつけではない、と私は思う*3






0 件のコメント :

コメントを投稿

アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』

0 件のコメント



移動祝祭日 (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
売り上げランキング: 9040



 久しぶりにヘミングウェイの作品を読む。これは彼の遺作となった短編集で、最初の奥さんとふたりでパリに移住してからの日々を回想した私小説的な内容となっている。パリに移住したのが1921年、当時ヘミングウェイは22歳(今の私よりも若い)。まだ駆け出しの頃の彼が、奥さんと貧しいながらも協力して幸福な暮らしをしている様子が素晴らしいのだが、ガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、そしてスコット・フィッツジェラルドといった豪華すぎるメンバーとの交遊録としても読める。





 とくにフィッツジェラルドは重要な人物として登場する。本の後半は、彼との出会いと別れまで綴った短編が連続し、素晴らしい才能を持ちながら、妻ゼルダの悪癖によって自滅してしまった(とヘミングウェイは綴っている)彼のあまり幸福とは思えない人生が大変ユニークなエピソードとともに回想されるのは面白い。とくに『サイズの問題』という「男性器の大きさで悩むフィッツジェラルド(このとき既に幾つものの傑作を書いた一流の作家として世間で認められているのに!)が、その悩みをヘミングウェイに打ち明ける、という出来事を後年フィッツジェラルドの死後に回想する」という短編は、前半の思わず笑ってしまう(が、どれだけ当時のフィッツジェラルドが神経を弱らせていたのかが、伺い知れる)エピソードと、後半の素晴らしい作家であり友人を失ってしまった喪失感とのコントラストが効果的だ。


もし読者が望むなら、この本はフィクションと見なしてもらってもかまわない。だが、こういうフィクションが、事実として書かれた事柄になんらかの光を投げかける可能性は、常に存在するのである*1



 翻訳と解説は高見浩。氏の文章は、繊細さと力強さのバランス感覚や生き生きとした言葉選びに優れていて、今回も素晴らしかったのだが「ヘミングウェイは、こんな風に回想しているけれど、実際はどうだったの?」を検証するかのような解説もとにかく面白い。




*1:『はじめに』より





0 件のコメント :

コメントを投稿

インテリ高級ホストを審議する

2 件のコメント


 実家でテレビを観ていたら、NHKの『新日曜美術館』の司会が姜尚中だったので驚いた。近年専門の政治学とはほとんど関係ない(としか思えない)ところで大ブレイクを果たし、紅白の審査員をつとめるなど姜先生の活躍の広がりには「やーねー!」のシュプレッヒコールを浴びせかけたい気分になるが、司会席に座る氏のなんだか不本意そうな仕事ぶりには苦笑を禁じえないものである。しかし、ファンとして素直に考えてみれば、あの美声が毎週テレビで聞けることは喜ぶべき事態なのかもしれない。


姜尚中先生、亀山郁夫先生でインテリ高級ホスト3羽ガラス!(あと1羽未定)*1



 さて、この発言である。今終わろうとしているゴールデン・ウィークのしめくくりに、ここで未定となっている「一羽」に相応しい知識人を審議する、という試みもまた一興であろう。まず、ayakomiyamotoさんが選ぶ、現在のラインナップを確認しておこう。


f:id:Geheimagent:20090506154227j:imagef:id:Geheimagent:20090506154228j:image


(写真左から、姜尚中、亀山郁夫)こうして並べてみるといくつかのポイントが浮かび上がる。まず、第一には「メガネ」。やはりメガネが知識の象徴となる効果はいまだに根強いのであろうか。この場合、選択されるべきメガネは「縁なし」あるいは「金属フレーム」となる。「セルフレーム」のメガネはホストには相応しくない。セルフレームのメガネは、知識階級というよりもサブカルや草食系をイメージさせてしまうからだ。それから「国際的なイメージ」も重要だろうか。ロシア文学者である亀山郁夫はもちろん、姜尚中もまたドイツへの留学経験があり、語学も堪能であろう(たぶん)。以上のポイントを抑えながら選ぶならば、松岡正剛あたりが適しているのかもしれない。落ち着いたバリトンの声質なども好印象である。



D


 しかし、こうして三人全員が中年をとうに過ぎた男性になってしまうと「ホストなのか、執事なのか分からない」という問題が発生する。この問題を解消するために、もう少し若手、例えば北田暁大などを選ぶのも良いかもしれない(ただし、サブカル臭的なものに対して若干目を瞑らなくてはならないかもしれないが)。






2 件のコメント :

コメントを投稿

諸橋近代美術館

0 件のコメント


 ゴールデン・ウィーク中は実家(福島県)に帰っていたのだが、そのついでに裏磐梯にある諸橋近代美術館に行ってきた。ここはゼビオ創業者である諸橋廷蔵のコレクションが収蔵されている。コレクションはサルヴァドール・ダリの作品が中心。それらが常設展示されているのを観ると「福島の山のなかに、こんなすごい作品を集めておいて良いのか?」と思ってしまう。





 とくに《テトゥアンの大会戦》。天井まで達しようかという巨大なキャンバスに描かれた判じ絵的な戦争の情景は、分析を拒むほどに迫力があってすごかった。印象派の強い影響が感じられる初期作品の展示や、『アンダルシアの犬』がエンドレスで上映されているところも良い。作品の傍らに展示された詳細な解説などを読むにつれ、シュールレアリスム絵画とは分析され、意味を与えられることによって作品としての完成を見るものなのかもしれないなぁ……などと思う。





 もう一つの常設展は「印象派と20世紀の巨匠たち」。こじんまりとしているのだが、ルノワール、ゴッホ、ユトリロ、シャガール、ピカソなど、人気のある“巨匠”たちの作品がある。コレクションには他にも、キング・クリムゾンのジャケットに採用されているパメーラ・クルックの作品もあるらしい。これも観てみたいものである。





 企画展は「ルオー展」。厚塗りされた絵の具が不思議な立体感/遠近感を産む作品があり、ずっと眺めていられるようなものが多かった。とくに何かが理解できる、というものでもないのだが、写真ではなくホンモノを観る意味みたいなものを感じて満足。


f:id:Geheimagent:20090504113951j:image


f:id:Geheimagent:20090504114037j:image


f:id:Geheimagent:20090504124327j:image





0 件のコメント :

コメントを投稿

ザック・スナイダー監督作品『ウォッチメン』

0 件のコメント



Watchmen
Watchmen
posted with amazlet at 09.05.02
Original Soundtrack
Reprise/Warner Sunset (2009-03-03)
売り上げランキング: 9361



 完全に出遅れてしまったが、周囲の友人の評判が良かったので観に行く。新宿バルト9のミッドナイト上映。この劇場には初めて行ったけれど、こういう売り方の映画館もありなの……?という感じでハードコアな映画ファンの方からすこぶる評判が悪いのもさもありなん、と言った様子。





 しかし、それとは関係なしに映画は最高に素晴らしく、いたく感激した。まず冒頭でボブ・ディランが爆音……っていう時点で持ってかれ、ガチガチにキマりまくった映像美に痺れ(アメコミというよりバンド・デシネが動いているようなイメージ)、ストーリーに酔った。ひょっとしたら昨年の『ダークナイト』以上に好きかもしれない。もちろん、善悪の相対化と言った命題の鮮やかな扱い方においては『ダークナイト』に軍配があがるのだが、『ウォッチメン』はそこを鮮やかには描き出さない、ということで逆にもっとデリケートに善悪、そして「いかにして人は善をおこなうか」という問題を取り扱えているように思う。





 基本的に登場するヒーローたちには皆「善行をする」という前提が課せられているのだが「どのように善行をするか」という部分で各ヒーローのやり方に違いが生まれている。また、善行は、力のない(アメリカの)民衆に施される。言わば、ヒーローたちは迷える仔羊に教えを与える神父なのである。冒頭で殺害されるコメディアンもまた神父だ。だが、ヒーローとして活躍する間に彼は「我々が善行を施しても世界は変わらない」という虚無的な地平に立ってしまう。物語の途中で紹介される彼の悪行は、虚無から来る人間的な迷いとも取れる。





 この迷いはその後も物語上に影を及ぼしているのだが、コメディアン亡き後しばらくの間はヒーローたちの素朴な態度を取る様子がスクリーンを支配する。ここで素朴な、と言う言い方をしたのはそこでの善が単純に「とりあえず、目下の悪を倒す」という意味で用いられているからだ。それによって素朴なヒーローたちは「当座のところの善」という立ち位置を手にすることができる。ヒーローが素朴な活躍を行い続ける限り、善は確保され続ける。当然、このとき善そのものが問われるということはないだろう。善悪を巡る問題の顕在化は、物語の最終局面まで待たねばならない。





 問題が顕在化したとき、三つの勢力が錯綜しつつ善を巡って闘争をおこなう。三つの勢力を簡単に整理しておく。まず第一に「完璧に悪を取り除くことによって、完璧な善を為すヒーロー」がいる。そして第二に、これまで物語の中心にいた「素朴なヒーロー」も戦いに参加する。さらにもはや善悪を超越し「神的な位置にいるヒーロー」が両者を俯瞰するような位置に現れる(この神は、勝敗の審判役も果たす)。一見この三者の間には闘う余地など内容に見える。善悪を超越した者にはもはやどうでも良い問題であるし(一度関係してしまったものに対するケジメとして闘っているのに近いか)、完璧な善と素朴な善ではどちらも善を行うことに違いはない。





 しかし、ここで完璧な善を行おうとしたものが「自らが悪を為すことによって、より悪い悪を封じ込める行為」(毒をもって、毒を制する策)だったことに、問題が生まれるのだ。素朴なヒーローはこの策を承認できない。何故ならヒーローが悪を行ってしまえば、それゆえにヒーローは「善ではないもの」へと身を貶めてしまうからだ。面白いのが、「究極の善」を目指していたはずのものが善というには不純なものを含み、素朴なヒーローたちが純然と(悪ではない)善を求めはじめる、という一種の逆転である。




 映画では、このような闘争があった後に「実はすでに毒をもって、毒を制する策がおこわなれた後だった」ということが明らかにされる。そして、見事にその策は思惑通りの結果を結び、虚実によって、悪によって、150万人*1の死によって、世界は救済されてしまう。これを完璧な善を為すヒーローは良しとする態度は大変合理的なものだ。そして超越者もこちら側の立場を理解する。しかし、素朴なヒーローはやはりそれを良しとすることができない。繰り返しになってしまうが、その行為が善ではないからこそ、承認できないのだ。合理的な態度に対して、これを美的な態度としても良いだろう。そこでは濁りのようなものは許されない。それゆえに、自らの存在の抹消を望むヒーローが現れてしまう。この葛藤は善悪をめぐる問いが、自らの存在をめぐる問いと接続されていくもっとも極端な例として興味深かった。




*1:桁が違うかも





0 件のコメント :

コメントを投稿