WILCO/Wilco (the album)

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Wilco (The Album)
Wilco (The Album)
posted with amazlet at 09.06.30
Wilco
Nonesuch (2009-06-30)
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 結成十五年目となるウィルコの新譜を聴く。初のセルフ・タイトルということでどんなものかと思って聴くと、やはり期待を裏切らない、骨太で、包容力があって、しかもこれまで以上にポップな素敵なアルバムなのだった。「二十一世紀のザ・バンド」と呼んでも、うなずかない人がいないのではないだろうか……という感じで、男っぽいバンドなのだが、ヴォーカル、ジェフ・トゥイーディーの声は妙に爽やかになっており「こんな声だっけ……? 」と驚きつつも、若い頃のエルヴィス・コステロから角を削ったような歌声と演奏とのギャップが素晴らしいではないか! なんだかすごいぞ! これはもう泣ける! あとジャケットのラクダかわいい!



D


 





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勝間和代十夜が、テレビブロスで紹介されるらしいです

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 7月8日発売の『テレビブロス』のなかの「ネット探偵団」というコーナーで勝間和代十夜が紹介されるそうです。不勉強なもので、私、この雑誌がどんな内容の雑誌なのか存じ上げないのですが*1、当ブログもサイト画面が掲載されるそうなので、興味がある方はチェックしてみてください。どういう風に使われるのか、まったく知らないので私も楽しみです。





 そういえば、以前にお台場にあるテレビ局の小倉さんの番組から電話取材を受けたことがあったんだけれども、アレはどうなったんだろうなぁ……。




*1:たぶん「テレビ」に関係している内容なんですよね? テレ・ビブロスだったら「ビブロスってなんだろう?」って思います





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プラトン『プロタゴラス――ソフィストたち』

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プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)
プラトン
岩波書店
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 プラトン強化週間の一環として読む。タイトルにあるプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」という言葉を残したことで有名なあのプロタゴラス。この人は、当時のギリシャで当代随一のソフィストとして有名だったそうで、なんでもその巧みな弁論術を弟子に教える代わりに、ものすごくお金をもらっていたらしい。





 『プロタゴラス』では「ヤァ!ヤァ!ヤァ!プロタゴラスが(僕らのポリスに)やってきた!」という感じで、ソクラテスの教え子的なヒッポクラテスという若者が目を爛々と輝かせながら「おいらもプロタゴラスの弟子になろうと思うんだけど、ソクラテスも一緒にこない?」みたいなことを言って、ソクラテスを連れ出すのであるが、プロタゴラスが滞在している家にいくまでの道すがら「そもそも、ソフィストって何者なのよ」という風にソクラテスが問いかけはじめ、せっかく期待に胸を膨らませているヒッポクラテスをげんなりさせる――というところが面白い。





 ここから既にソフィスト批判は始まっているのであり、批判はソフィストの取り巻き連中にも及ぶのである。「彫刻家は彫刻の専門家、詩人は詩の専門家。だけど、ソフィストって一体何が専門なわけ?」とソクラテスは言う。ヒッポクラテスは答えて曰く「そりゃあもう、人に知識を授けることの専門家でしょうよ」。ここでソクラテスはヒッポクラテスをたしなめる。「君さぁ、やたらとプロタゴラス、プロタゴラスって言ってるけど、彼が本当に良い教師かなんか知らないでしょ? 大体さ、君は知識を授けてもらいにいくぐらいなんだから、プロタゴラスが良い教師かどうかなんか判断する知識もないわけじゃん? 気をつけたほうがいいよ、ホンツに……」――みたいな感じで。





 そんなわけでソクラテスははじめからプロタゴラスに対して懐疑的であり、そういうわけだからいざプロタゴラスに会ったとしても、ガチな議論バトルが始まることは必然なのである。ここで議題となるのは「徳というものは、果たして人に教えられるものなのでしょうか?」ということ。当然、プロタゴラスはそういうことを教えるのを職業としているので「何いってるの? 教えられるに決まってるじゃん!」と言うのだが、ソクラテスは「いやいや、ワスは教えられないと思うんですよ……。いや、もしかしたらワスがバカだからそう思ってるかもしれないケド……」とか言いつつ、プロタゴラスに対して、速射砲のように次々と問いを投げかけていく。





 ソクラテスの問答法とは、プラトンによって書かれたどの本を読んでも基本的には同じである。まず「ワスは恥ずかしいぐらいに無知なもんで、ひとつずつ確認しながら教えていただきたいんだケド……」という感じで始まって、問いを投げ続け、それに相手が答えていくと、相手は始めに言った答えと矛盾した答えにいつのまにかたどり着いてしまう、というものである。その矛盾に対してソクラテスは「あれ? さっきと違うこと言ってるよねぇ……?」という感じで大変嫌な指摘を行う。ちなみに『プロタゴラス』では、ある種の「何を言ってるかわからねーと思うが……」スタイルの術にハマったプロタゴラスが、ソクラテスに対してものすごくイライラしているところが面白かった。




 で、いろいろあって、最終的な決着がつかずにソクラテスとプロタゴラスの対話は終わるのだが、両者の立場の違いは明らかにされる。両者はともに、徳というものをある種の知識である、というところについては共有している。しかし、プロタゴラスがその知識を、何らかの技術と同様に、教えられたり本を読んだりすれば身に着けることができる、という立場をとるのに対して、ソクラテスは「確かに徳も知識の一種には違いないが、徳はもっと複雑で、プロタゴラスが言うように教えられればすぐに身につくようなものではない(第一そのようであったならば、もっと世の中は良くなってるだろう。ここで「徳=技術のように教えられる知識」ということは事実に則していないことが明らかにされるとするならば、そのような認識は間違っているのではないか)」というところで、プロタゴラスとは一線を画す。ただし、ここでソクラテスが「じゃあ、徳とは、どのような知識なのか、どのようにして身につけられるのか」という点についてはここでは明らかにされない*1





 全然本の内容とは関係ないのだが、このような議論が古代ギリシャでは実際におこなわれていたとするなら「こいつら、よっぽど余裕のある生活を送っていたんだろうなぁ……」と思ってしまう。まるで週に五日間「も」働いている自分の生活が、人間として間違っているのではないか……? と思われるぐらいに。




*1:このあたりは『国家』などで触れられていたか?





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ピンク・フロイド/ライヴ・アット・ポンペイ

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Live at Pompeii (Dir) [DVD] [Import]
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 会社の上司がDVDを貸してくれたので観直す。改めて、ピンク・フロイドのロック・バンドとしての完成度の高さやすごさに気付かされた。異様に研ぎ澄まされて、腕に静脈が浮きまくったロジャー・ウォーターズが、太陽をバックに銅鑼を打ち鳴らすシーンや、ガスがポコポコと噴出して泥沼(?)の表面に泡を作っている映像のカッコ良さは元より、この映像を観ているとフロイドの物語的に展開する楽曲の盛り上がりは素晴らしい……と改めて思う。そこに驚くべきコード展開や、目を引く超絶技巧などないものの、なにかこの「盛り上がり方」だけで、このバンドは世界的なヒットを記録しているんじゃないか、という気さえする。インタヴュー・シーンなどは「アーティスト気取りのロック・ミュージシャンが、なんか言ってます」風で退屈なのだが、特異的に良くできたロック映画だ。



D


(エコーズ PART1)それとこの映画には、『狂気』のレコーディング風景なども収録されているのだが、ここで観ることのできるアナログ・シンセを操作している映像はかなり興味深いものだった。デジタル・シンセとアナログ・シンセは、まるで別物で、アナログ・シンセと言う楽器が著しく「再現性」が低い楽器なのではないか、と思ってしまう。インタヴューでは「機材を使いこなすには長い時間がかかる」というような発言もあるのだが、おそらく、それでもどういうパラメータ操作をすれば「この音」が作り出せるか、あるいはどうすれば「あの音」が作れるのか、とはかなり曖昧なものだったのではなかろうか。そうだとするならば、我々が録音で聴いている「あの音」とは、限りなく偶然に(実験的な試みの中から)生まれ、たまたま収録されることになった、という音なのであろう。こういう風に考えると、なんだか、今まで「なんて素晴らしいアルバムなのだ!」と思って聴いてきたアルバムが、さらにありがたく聞こえてくるるようである。



The Dark Side of the Moon
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Pink Floyd
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マイケル・ジャクソン

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 今朝、マイケル・ジャクソンが亡くなった、というニュースを聞いて、瞬間的に「もしかしたらグレン・グールドが死んだとき、グールド・ファンが味わったショックとはこのようなものなのかもしれない」と思った。奇しくもふたりは同じ50歳で、「日常的に服用していた大量の薬が死因」と噂され、あまりにも急に死んでしまった。


 


 同時に、両者はメディアというものと切り離して考えることができない人物であると思う。一方は、録音メディアを使用して、解釈を伴った演奏行為を脱構築してしまった(いわば最もピアニストから遠い)ピアニストであり、もう一方はゴシップ・メディアを通してのみ人前に現れるように晩年を過ごしたアーティスト。彼らはどちらも何かに伝えられることによって、現れる。だから、死んだ、という実感が沸かないのは当然なのかもしれない。その実感のなさが余計に不気味だ――三沢が死んだときに味わった実体が失われてしまった! という強烈なショックは存在しない。


 


 もちろん、こんな感じ方は1985年に生まれた私に限った話かもしれない。現に、同じ職場で働いている、リッチー・ブラックモアが大好きなバカテクギタリストのおじさん(洋服はギャルソンの服にしか着ない)は「カッコ良かったよね。同い歳だから、ショックだよ」と言っていた。結局のところ、大好きだったのに「現役」であることをリアルタイムで感じる経験が一度もないまま、マイケルが亡くなってしまった。この点は、とても残念だ。





 そのおじさんと話していて、フレディ・マーキュリーが亡くなったとき「君たちにはわからないかもしれないけれど、僕がどれだけ彼のことを羨ましく思っていたか……」というような(意味深な)追悼メッセージを、マイケル・ジャクソンが残していたことを思い出す。「なにが羨ましかったんだろうね」。「フレディ・マーキュリーが自分の性格とか性癖だとかをオープンにできて、そのうえで存分に自己表現ができたことじゃないですかね。マイケルって、たぶん、そういうのができないタイプの人だった、と思うんですよね。開放型じゃなくて抑圧型というか」というような会話をする。たぶん、マイケルがプリンスのことを嫌いだったのは、そういうやっかみがマイケルの方にあったからではないだろうか、とも思う。





 冥福をお祈りいたします。





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ロード・ダンセイニ『世界の涯の物語』

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世界の涯の物語 (河出文庫)
ロード・ダンセイニ
河出書房新社
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 『世界の涯の物語』を読み終える。ロード・ダンセイニのふたつの初期短編集『驚異の書』と『驚異の物語』を収録されている。ここではダンセイニが残した品の良く、気の利いたユーモアが散りばめられた、幻想小説・魔法小説が読める。どれも読んだあとに、いくばくか豊かな気持ちになるような作品ばかりなのが素晴らしい。この作者の著作は以前に『影の谷物語』*1を読んで「こういう風に、豊かな気持ちになる文学とは、豊かな身の上からしか生まれないのではないか」などと思ったが、今回も似たようなことを感じる。





 『驚異の書』は魔法使いや、盗賊、神々や神話上の種族(ドワーフやエルフ)といったものが活躍する異界を描いた幻想小説が主体となっているのだが、それに続く『驚異の物語』では、現代のなかに突然魔術や幻想が現れて、面白おかしい状況が生まれる、という言ってしまえば「笑い話」みたいな物語が多い(『驚異の書』に収録された作品の続編もあるが)。例えば、現代の機械や文明といったものを悪と思った魔法使いが、ロンドンでそれらの文明の利器をどうにかして封印しようとする……みたいな風刺的な作品も見られる。





 ただ、この『驚異の物語』が発表されたのは1916年、第一次世界大戦の真っ只中であり、かつダンセイニも従軍している間に書かれていた、という事実を知って驚いた。この作品のアメリカ版が出る際に寄せられた「序文」にはこんなことが書かれている。



まさに今、ヨーロッパの文明はほとんど死にかけているようで、その傷だらけの地には死の他には何も育たないようにも見えるが、それでもこれはほんのひとときだけのものであって、夢がふたたび戻ってきて昔のように花開くのだろう。(中略)今はもうこれ以上、戦争について書くことはないが、ヨーロッパからの夢の本を読者の方々に、燃えている家から最後の瞬間に価値あるものを、それがたとえ自分にとってだけであっても、外に投げ出している人のように、わたしは捧げよう。



 なんだか感動的な文章である。ここから死にかけたヨーロッパから、戦局を傍観していた(この文章が書かれた1916年当時、アメリカはまだ参戦をしていない)アメリカの読者に向けて、このようにユーモラスな短編集を送ったダンセイニの切実さみたいなものを受け取ることができる。その切実さは、おそらく現代においても有効に伝わるものであろう。その証拠に、私はこれを、なかなかにしんどい現実を忘れさせてくれる、心地よい夢を与えてくれる本として読めたのだから(ちょっと言いすぎかもしれないけれど)。休息の時間をこういった作品に触れることに費やせることは、なかなか幸福なものである。






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コルネーリウス・タキトゥス『ゲルマーニア』

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ゲルマーニア (岩波文庫 青 408-1)
コルネーリウス・タキトゥス
岩波書店
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 タキトゥスによる西暦九八年の書物。ローマ時代の歴史書のなかではカエサルの『ガリア戦記』と並ぶ書物、と言われるだけあって、かなり面白かった。『ガリア戦記』が書かれたのは紀元前五〇年代のことだから、おそよ一五〇年の差があるため「同時代の本」とは一概に言うことはできないけれども、当時の「異国情緒」に対する憧憬には共通するものがあるように思う。





 タキトゥスはゲルマーニー(ゲルマーニア地方に住む各種部族)のことを、基本的には「ローマとは比べ物にならないくらい野蛮で、劣ったもの」として描いているのだが、ある部分では「ゲルマーニーは、もしかしたら俺たちローマ人が忘れてしまったサムシングを持っているのかもしれない……」的に評価するところもある。例えば、ゲルマーニーの婚姻の風習について「ローマでは、婚姻が乱れきっていて、重婚なんかしほうだいだけれども、アイツらは基本的に一夫一妻制。その慎ましさがいいよねー」みたいに書いている。この意識が実に面白い。いつの時代も今あることを批判して、古きものを良しとする人はいたのだなぁ、と思ってゲラゲラ笑いながら読んだ。





 全体は二部に分かれており、前半はゲルマーニアの土地や習俗についての記述、後半はゲルマーニアに住む諸族についての詳細な記述となるが、断然面白いのが前半部分(後半も、ローマから距離が離れれば離れるほど、その部族についての説明が、抽象的なものとなり、スカンジナビア半島の諸族にいたれば、頭が人間だが体は獣の人が住んでいることになっているなど、最高)。ここにはローマ人たちが「高貴なる野蛮人」と評したゲルマーニーたちのおもしろおかしい風習の記述が満載である。





 例えば、彼らには新月のとき、あるいは満月のときに集会を開いて、会議や裁判をする、という決まりごとがあったらしい。しかし、そういう決まりごとがある、ということがわかっているにも関わらず、その決まった日に、彼らが集まることはない。そのため「第二日、あるいは第三日も、集まる彼らの躊躇のために費やされる」。どうやら、ゲルマーニーの人々は相当に気の長い人で、しかもすごくいい加減な人だったらしい。また、成年(=戦士)と認められた男子が公衆の面前に姿を見せる際は、いかなるときも剣や盾などの武装をフルに着用することがマナーであったそうである。飲み会のときも基本フル武装。時間にはルーズなのに、そういうところを守っていないとダメらしい。





 まぁ、今から一九〇〇年ほど前の民族について知ったところで、現実に役立つことなど一切ないのだが、最近はこういう本が一番安心して読んでいられる気がする。





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プラトン『ソクラテスの弁明』ほか

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ソクラテスの弁明―エウチュプロン,クリトン (角川文庫)
プラトン
角川書店
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 積読がなくなったので、なんともなしに「そうだなぁ、プラトンの未読のものでも全部読んでみるか」と思い、先日一挙購入したのだが、せっかくなので買ったものを読み進める前に既読の『ソクラテスの弁明』から再読することにした。購入したものは、岩波文庫のものであるが、私がすでに持っていた『ソクラテスの弁明』は角川文庫版。こちらには岩波だと『プラトン著作全集』に入っていない(?)、『エウテュプロン』が収録されているので、ちょっとお得かもしれない。ざっくり収録作品を紹介しておくと、『エウテュプロン』が、ソクラテスが裁判にかける直前にエウチュプロンと「敬虔なもの」について議論を重ねる対話、『ソクラテスの弁明』ではかの有名な「無知の知」について語られ、そして『クリトン』では脱獄を勧めるクリトンに「悪法もまた法なり」と説く……といったところだろうか。





 久しぶりに読んだら今になって面白く読める。ソクラテスの論法は、論理学のそれに則したものなので、結構頭を使わないと読み飛ばしてしまいがちになるのだが、しっかりと読むとちゃんと理解できるように書かれているので、読んでいてとても楽しくなってくる。なかでも『エウテュプロン』は面白かった。この文庫版に収録された三篇のなかでは、もっともマイナーな部類に属するのかもしれないが(というか、『ソクラテスの弁明』や『クリトン』がメジャー過ぎるのか)一番面白く読んだ。





 上述したとおり、ここでソクラテスとエウテュプロンの間で取り交わされる議題は「敬虔なもの」についてである。ソクラテスはここでエウテュプロンにしつこく問いを投げ続けることによって「敬虔なもの」の定義不能性へとたどり着くことになる。この過程がとてもしつこく、いやらしいので、これを読んでいると「ソクラテスって嫌なやつだなぁ……そりゃあ反感を抱く派閥も生まれるよ……」とか思う。エウテュプロンは言う敬虔なものについて、それは「神に愛されるもの」で、かつ「敬虔だから神に愛されるもの」だ、という。それに対して、ソクラテスは「神に愛されるもの」と「敬虔なもの」とはまるで別なものだ、と返す。





 曰く、神に愛されるものは、神に愛されているからこそ、神に愛されるものだ、と言える(神に愛されるものである、という本質がそのもののなかに含まれているから、愛される、のではない)。エウテュプロンは、敬虔なものは敬虔なものだから、神に愛されている、と言ったが、それでは神は敬虔なものが「敬虔である」という本質を持つものを、その本質のゆえに愛することになってしまう。だから、別なものなのだ、と――これを聞かされたエウテュプロンは、用事を思い出した! とかなんとか言ってそそくさと帰ってしまうところがまた良い。





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古澤健『ドッペルゲンガー』

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ドッペルゲンガー (竹書房文庫)
古澤 健
竹書房
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 縁あって*1黒沢清監督作品の映画『ドッペルゲンガー』のノベライズを読む。映画のほうは観ていないのだが、これは面白く読んだ。野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』みたいな文体で、セルバンテスもかくや! と思わせる脱線と脱臼の連続があるところがツボにハマる。とくにドッペルゲンガーが本体*2のために、ガテン系のバイトをしてお金を作る、というところが素晴らしい、と思った。そんな優しいドッペルゲンガーがいたら……なんかハートフルな気持ちになってしまうではないか……。





 とはいえ、これはかなり正統派の精神分析学的小説とも思われるのだが、興味深いのは、欲望に対して率直に行動するドッペルゲンガーに対して(大変貧しいフロイト理解のもとに定義付けるとエス)、本体がそれに超自我として働きかけ、どこにも中心が存在していない、という点であろう。逆に言えば、エスと超自我という二項対立によって、中心のなさは浮き彫りになり、作品のなかにもある「本当の自分なんてくそ食らえだ」というセリフへと繋がっていく。物語上、対立していた一方の極が死ぬことによって、分裂していた自己が統一されていくのだが、最終部で主人公、早崎が見せるある種の偏りとは、「本当の自分」とかいう回答のようなものを回避しながら、放浪する自我を描いているようにも思う。





 このような「本当の自分」の回避は、ほかの登場人物からの扱われ方からも明らかなのかもしれない。たとえば、ヒロインである永井にしても、早崎と不倫関係にある教子にしても、不可解な、「中身のない人物」として描かれるし、また、最終部で早崎と敵対する君島にしても、当初自我のかけらもない無気力人間として描かれながら、途中で早崎からの承認を得ることによって突如生き生きとするのだが、途端にとっちめられてしまう。とにかく確固たる自我、というか、俺は俺! と主張している人物がいない――一番主張しているのが、ドッペルゲンガーと本体とで二人存在する早崎なのだが、もはや二人の早崎(俺)が存在している時点で、その主張は無効化されてしまうだろう。





 徹底してコメディ・タッチで描かれているにも関わらず、そのような自我論的な問いにおいてはかなり野心的な作品、というか「よくここまで好き勝手やれたなぁ……すごいなぁ……」と思ってしまうのだが、まぁ、とにかく面白かった。




*1id:Dirk_Digglerさん、ありがとうございました


*2:? 最初からドッペルゲンガーと本体のどちらがホンモノであるのかが、かなりわかりにくくなっているので、『?』という留保をしておく





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DAVID BYRNE & BRIAN ENO/Everything That Happens Will Happen Today

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Everything That Happens Will Happen Today
David Byrne;Brian Eno
Todo Mundo (2008-11-25)
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 昨年出ていたデヴィッド・バーンとブライアン・イーノのアルバムを今頃になって聴いたが、めちゃくちゃに素晴らしいポップ・アルバムなのだった。デヴィッド・バーンについては、トーキング・ヘッズ以外ほとんどフォローしていないのでなんとも言えないのだが、ブライアン・イーノに関して言えば、これは間違いなく彼の長いキャリアのなかでも最もポップな仕事だろう。





 はっきり言ってこのメンツ(フィル・マンザネラやロバート・ワイアットといった豪華ゲストも参加! でも全然目立っていない!)でアルバムを作って、悪いモノが出来上がるわけはないのだが、さすがにここまで完成度が高い音楽を聴かされると度肝を抜かれてしまう、というか。いやはや、なんというか、最高だよ!! アンビエント作品を予想していたのは、思いっきり裏切られてしまったけれど、何かデヴィッド・バーンとブライアン・イーノがポップ・ミュージシャンとしての境地に達してしまった瞬間を垣間見た気がする。





 このアルバムを聴きながら考えていたのは、不思議とベックのことだったりするのだが、というのもここで鳴り響いている自由で、遊び心に溢れ、かつ多彩な音の数々というのが、ナイジェル・ゴッドリッチと仕事し始めた頃のベックのアルバムを彷彿とさせるからだった。たぶん、おそらくだけれども、後十数年後にベックがまだ音楽を続けていたら、きっとこういうアルバムを聴かせてくれるんじゃないかな、なんて想像する。



D


 何度でも最高!! って言いたくなるそういうアルバムなので、まだ買っていない人は早く買ったほうが良い!!!





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仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』

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今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)
仲正 昌樹
講談社
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 風邪をひいていたので会社を休んで一日中ベッドのなかにいるあいだ、この本を読んでいた*1。これは大変面白い本だった。近年、各所で「生き生き思想」*2を批判しておられる仲正昌樹のアーレントに関する著作。



「分かりやすい」ことを売りにする「政治思想」(あるいは「政治思想研究」)は、勇ましく威勢がいいので、「政治」をスポーツやゲームのように敵/味方の勝ち負けの問題と考えているような人たちにはウケがいい。(中略)「社会的・経済的格差を是正し、各人の社会的生存権を実質的に保証する公正な社会システムを構築するための理論」とか、「グローバリゼーションに対抗し、国民国家としての伝統を保持する戦略に繋がる理論」というような感じで。



 のっけから、ここでも「生き生き」批判をされているのだが(名前はあがっていないものの、ここで誰が批判されているのかは容易に想像がついてしまう)、この批判も至極まっとうなものとして受け取られた。なぜ生き生きがいけないのか、これを私なりにもっと噛み砕いて説明しておくと、生き生き思想に熱をあげると、次第にその人は生き生きとしなくなってしまう、という風になるだろう。そもそも、その生き生き思想自体、党派性を含むものであるから、そのようなものに組すれば、他者を受容する複数性/多様性をもった視点は失われていく(だろう)、と。生き生きと格差社会を敵と考えているうちに「何だかわからない「格差社会」なるものと闘わねばならないという論調が広がり」「思考停止状態」に陥る。





 アーレントは『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン』といった著作で、そのような個人が党派や思想といったものに取り込まれる形で、強大な暴力を生んでしまう事象をつぶさに分析している。そこではポグロムやホロコーストといったおぞましい暴力が、歴史上の誤りではなく、当然の結果として扱われる。もちろん、それを肯定するわけではなく「こういう風に動いたら、必然的にそうなってもおかしくないよね」という意味での当然の結果、であるが。





 一方で、アーレントが理想とする政治の姿とは、古代ギリシャの都市国家における政治のありようである。そこの政治は党派的におこなわれるのではなく、市民ひとりひとりが責任をもって「自由な」発言をすることが許され、議論が重ねられてきた。個人が、他者の視点を受け入れる複数性を保ちながら、働きかける「活動」をおこなってきたのである。アーレントは『人間の条件』のなかで、このような「活動」こそを人間の条件として重要視した。





 しかし、そのような政治のありようはあまりにも理想的過ぎる、ということは誰の目にも明らかだ。そのような政治のありようはすでに失われてしまったのだし、逆に古代ギリシャのごとき人間性の復興を高らかに謳うこともまた、思考停止の危険を孕んだ党派性をもつ政治に他ならなくなるだろう。仲正のアーレント評価も「「思考の均質化」だけは何とか防ぐというミニマルな目標を追求した控え目な政治哲学者」と控え目なものとなっている。





 この本を読んで「えー……アーレントってそんなところに落ち着いちゃうの……」と拍子抜けしてしまう人がいてもおかしくはない。私自身「えー……アーレントってその程度で落ち着いちゃうのか! それじゃあ、アドルノとあんまり変わらないじゃん! 」と思ってしまったクチである。ここで暴力的な要約によってアーレントとアドルノとの共通点を探っておくと「ともに問い続けること、考え続けること」を重要視した思想家である、ということが言えるだろうか。仲正の非常に整理されたアーレント論を読みながら、うっすら考えてきたことは、アーレントはここまで似たものを持つアドルノをどうしてあのように毛嫌いしていたのだろうか、ということであった。





 アーレントがアドルノを嫌った理由のヒントがこの本のなかにもなくはない。アーレントは『革命について』という本の中で、フランス革命とアメリカ革命(アメリカ独立戦争)というふたつの革命を大きく取り上げているが、そのうちフランス革命のほうにはかなり批判的な態度を示している――それは、フランス革命が「不幸な人々を解放するためにおこなわれたもの」だったからだ。そこには不幸な人々に対する共感がある。



アーレントに言わせれば、そうした共感の“政治”は、討論を活性化してパースペクティヴを複数化することには繋がらない。むしろ、「不幸な人々」に共感することを、人間としての正しいあり方として押し付ける排他的な価値観に繋がりやすい。場合によっては、苦しんでいる人たちに共感しない者たちを、最初から人非人として排除しようとする傾向を生み出す。


 その排除しようとする傾向こそが、ロベスピエール時代の恐怖政治であった。弱きものへの共感は、そのような危険性を孕むものだ、とアーレントは指摘する。共感することが危険なものなのであれば、おそらく、共感を求めること(例えば、自分が弱いものである、ということを主張すること)もまたアーレントにとっては受け入れられないものだっただろう。そして、その点がアーレントがアドルノに対して「家に入れることすら厭うほどの嫌悪感を抱いていた*3」理由だったのではなかろうか。





 アドルノを取り扱った文章を読んでいると、アドルノに対して共感する文章に出会う機会は少なくない。そこでアドルノは「ナチズムによって傷つけられた人」として扱われている。もちろん、アドルノ自身が「私は傷つけられた人である」という主張をあげていたわけではなかったが、少なくとも「傷つけられた人である」ことを隠そうとはしていなかったようにも思えるし、アドルノを傷つけたであろう事件(=ファシズム)に対して(アーレント流にいえば)大げさに、過剰に反応していた。だから、アーレントはアドルノを嫌っていた、と考えることはできるだろう。アーレントにとって、アドルノのファシズムに対する反応は、弱者が共感を求める行為としてしか思えなかったのかもしれない。







  • 関連


ハンナ・アーレント『人間の条件』 - 「石版!」


ハンナ・アーレント『革命について』 - 「石版!」




*1:などとブログに書いてしまえば「もう会社にこなくて良い」と言われてしまいかねない昨今であるが、それはさておき


*2:わかりやすくて、若者ウケしやすく、やや扇情的な言説


*3ハンナ・アーレント - Wikipedia





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大澤真幸『資本主義のパラドックス』

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資本主義のパラドックス―楕円幻想 (ちくま学芸文庫)
大澤 真幸
筑摩書房
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 一九八〇年代後半から九〇年ぐらいまでに発表された大澤真幸の近代論集であり、資本制論集。「ちくまの本で大澤真幸のプロフィール欄に使われている写真は、どういうシーンで写されたものなんだろうなぁ……(ややハニかみながら、首をかしげている)」と思いながら読む。全体は三部に分かれており、それぞれ「幻想としての資本主義」、「近代という運動」、「週末としての資本主義」というタイトルがついている。なかでも第一部はとても面白かった。




 問いは我々が日常的に用いている貨幣とはどのような性質をもつものか、そして、なぜ機能可能なのか、というとても身近なところから始まる。重要なのは、信用である、と大澤は言う。しかし、その信用は無根拠によって支えられている。たとえば、お金になりそうなアイデアを持っているが、それを現実に実行するための資金がない、という人がいるとする。そのような場合、おそらく彼は資金を借りるために、銀行に融資をしてもらいにいくだろう。いろいろあって*1彼はお金を借りられることになった。次の日に彼の銀行口座には、お金が入っているだろう。





 このとき、銀行は彼に信用を与えたことになるだろう。正確に言えば、彼が持っている「お金になりそうなアイデア」に対して信用を与える。これによって彼はお金を得ることができた。しかし、これは考えてみれば不思議な話でもある。それは、この取引によってお金になりそうなアイデアというまったくどこにも現物が存在しないものからお金が生まれたことだ。大澤が指摘する信用の無根拠さとは、簡単にいうとその現物(保証)がどこにも存在しないところから、流通される貨幣が生まれる、という不思議さになるだろう。





 無根拠なまま信用が与えられるメカニズムには、未来への信用が必要不可欠である。銀行が信用を与えるのは「きっと、この人は将来利子をつけて貸したお金を返済してくれるだろう」という信用をしているからだ。だが、この信用もまた無根拠なものとならざるを得ない。では、どうしてそのような未来への信用が可能となるのだろうか……?





 ここから大澤の探求が大きく跳躍していく。十七、十八世紀にヨーロッパに現れた錬金術師の分析へ。この跳躍から二、三のポイントを経由しつつ、はじまりの地点である「無根拠な信用が可能となるメカニズム」へと戻ると、そこでは信用を与える主体にとっての、他者である信用を与えられる主体の現れ方がキーになっていることが見えてくる。これは非常に議論の運び方として鮮やかで、こういうものを読むのは社会学者の著作を読む楽しさの醍醐味のひとつであろう。大変勉強になった。





 しかし、続く第二、第三部はどうも切れ味が悪く感じられてしまう。大澤は第二部ではモーツァルトから近代の主体意識の萌芽を分析し、第三部ではディズニーランドという空間を成熟した近代の主体意識のマッピングを試みている。議論の枠組みとしては、第一部と同様であるのに、それほど効果的な議論ができないないように思えてしまう。なぜなのだろうか?





 少し思い当たるのは、分析の対象と分析の結果とのあいだで上手く距離がとれていないのではないか、ということだ。例えば、モーツァルトという分析の対象があって、近代の主体意識という結果がある。大澤はふたつの構造の類似性・同質性によって、対象と結果を結び付けようとする(このやり方は、第一部でも同様である)。だが、ここでは類似性・同質性に頼りすぎているのではないだろうか、と感じられたのだ。しかし、これもまた勉強になる。以前「似ていることを指摘するだけの議論には意味がない」という話をされたことがあるが、これを読みながら、少しその言葉の意味が理解できた気もする。





 最後にどうでもいいところでツボだった点を以下に引用(正確には孫引きだが)。



十七、八世紀の宮廷社会の風俗のなかでも、ひときわ奇妙なのは、寝室で華麗な便器がたんに便器として使われるだけではなく、寝室の主の公的な座になっていたことである。極端な言い方をすれば、「便器の玉座」があったのである。


 下品伯爵*2もびっくりだね!




*1:査定とかそういうの


*2下品伯爵の一日 - はてなハイク





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ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』

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暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
ヴァルター ベンヤミン 野村 修
岩波書店
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 以前にちくま学芸文庫版の『ベンヤミン・コレクション』で既読の論考・エッセイなどを含んでいたが、表題となっている論文『暴力批判論』読みたさに読むが、翻訳が悪いのか(新しい訳のはずなのだが)、これはちょっと楽しく読めなかった。ちくま版の浅井健二郎と比べると、今回の野村修訳は文章の流れが良くない気がする。とても美しいとは言えない悪文も並び、この文庫のなかに『翻訳者の課題』(ちくま版では『翻訳者の使命』)というエッセイが含まれているのが皮肉に感じられるほどだ。単に私の頭が悪いせいかもしれないが、ここに収められている作品のほとんどが、ちくま版で読めることを考えれば、岩波版は選択すべきではないのかもしれない。このあたりは好みの問題もあるだろうけれど「こういう文章を書くと、わかりにくくなる」という勉強をしている気分になってしまった。




 そういうわけで今ひとつつかみどころのない、やや不毛な読後感を抱く結果となってしまったが、ここに収録されたいくつかの作品とアドルノの作品との対応について考えられたことは、収穫だったかもしれない。ベンヤミンとアドルノの関連を強く感じた作品は、『一方通行路』と『一九〇〇年前後のベルリンの幼年時代』(どちらも抄訳である)。前者はアドルノの『ミニマモラリア』と、そして後者は未完のベートーヴェン論*1の前半部分を想起させる内容であると思う。





 前者ではアファリズム的な形式が共有されている。しかし、より重要なのは後者の共通点であろう。ベンヤミンが自伝的に語る子ども時代の感覚と、アドルノのそれとは強く重なり合っていて、両者は理性によることのないミメーシス的な認識を指示しているように思えるのだ。アドルノが《ワルトシュタイン》について「子供の頃の私の方が、真実にちかいところにいたのではあるまいか」と語ったのと、ベンヤミンが靴下から学んだものとの間において。




 もちろん、表題作『暴力批判論』も(もっと訳がよければ、あるいは自分の頭がよければ)面白かったが、『雑誌《新しい天使》の予告』という発表されずに終わった雑誌の予告文も面白かった。これらの作品には思わず線を引いておきたくなるような金言・箴言が満載*2


R0010055




*1:アドルノの死後に『ベートーヴェン――音楽の哲学』として編集されて発表された


*2:ベンヤミンの著作を読んでいると「これは重要かも」と思って、線をひいておきたくなるような文章が多すぎる気がしないでもないが





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祖父の遺産

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R0010061


 昨年死んだ祖父が、私に内緒で植えていた「私の子どものためのサクランボ」が今年初めて実をつけた。





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真夜中にドビュッシーを

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D


 ふだんほとんどフランスの作曲家によって書かれた音楽を聴くことはないのだけれど、ふとした瞬間に「ドビュッシーでも聴くか」となったとき(その瞬間は大抵、真夜中の、そして程よい具合にアルコールによって思考回路が鈍ってきたときに訪れる)のハマり具合と言ったら、ちょっと他のものとは比べようのない快感だ。音に酔う、という表現がまさに真っ当に思えるのだが、しかしながら、どうしてこの不協和音の連続のなかから快楽が生まれ出てくるのだろうか。アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリの感動的なまでに精確な演奏は、緊張から解決へと向う和声の原則から逸脱した不健康な美を律することによって、より一層、美を鋭いものにしているようにも思われる。



D


 一方でミケランジェリとは正反対に、自らの才能の赴くままに演奏をおこなっているとしか思えないサンソン・フランソワの演奏も捨てがたい。フランソワのドビュッシーを聴いていると「天才とはこの人のためにある言葉に違いない」という風に思う。解釈に揺らぎがないのではない。むしろ、解釈に揺らぎしか見出せない、自由な音楽がそこにあったからこそ、彼を天才と呼ぶのである。



ドビュッシー:前奏曲集 第1巻、映像第1集、第2集
ミケランジェリ(アルトゥーロ・ベネデッティ)
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ドビュッシー:ピアノ曲集第2集~映像、他
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マックス・ヴェーバー『職業としての政治』

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職業としての政治 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー
岩波書店
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 のっけから「諸君の希望でこの講演をすることになったが、私の話はいろんな意味で、きっと諸君をがっかりさせるだろうと思う」なんて始まるので、そんな導入って……!と爆笑したが、とても面白く読む。『職業としての政治』は、マックス・ヴェーバーが1919年、第一次世界大戦が終わり、ヴェーバーが死ぬ前年に行われた講演をもとにした本。分量としては大変短い本なのだが「支配の正統性の3分類」や「国家と暴力の関係性」など、今なお姜尚中や宮台真司に引用されているトピックや、この時点ですでにドイツにおけるファシズムの到来に対する予言染みた言葉などがあり、読んでいて大変に興奮した。思うに、ここで行った政治のシステムについての分析はいまだに現役である。議会における政党政治の発展と共に、選挙が高度にシステム化され、また政治家は何らかのアクションを起す人、ではなく、政党が議会にもつ単なる「議席」に過ぎなくなっていく――など、普段政治に対してまったく興味がもてない私でも、なんとなく納得がいく。もしかしたら、今読むべきヴェーバーの作品はこの本なのかもしれない。





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カメラ買いました

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f:id:Geheimagent:20090609215822j:image

 未曾有の経済危機の最中、今夏も無事ボーナスがもらえる(はずな)ので、先走ってカメラを買いました。こうしてお金をガンガン使わないと、カルマが溜まっていくような気がしてねぇ……。フラストレーションを物欲として発散しているわけであります。手ごろな被写体が部屋の中になかったので、自分の楽器(ファゴット)をこのカメラの売りになっている「1cmマクロ」で撮影してみた。これはファゴットの左手親指で操作するキー*1。よく考えたら、クラリネットやフルートほどメジャーではない楽器のため、こうした画像は珍しいかもしれない。



RICOH デジタルカメラ CX1 ブラック CX1BK
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 ちなみに買ったのはRICOHのCX-1というヤツでした。




*1:ごく一部。左手親指で操作するキーは計9個。そのうち、2個ぐらい使い方がわからないキーがある





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炭山アキラ『入門スピーカー自作ガイド』

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 実際に番組を目にしたわけではないのだが、先日のタモリ倶楽部は「塩ビパイプで自作するスピーカー」の特集だったらしい。それで「今年の夏はスピーカー自作に取り組もう」と思い立った。私もいつまでも貧乏な学生とは違うのだ、貧弱なオーディオ・システムで音楽を聴くような年齢ではないのだ!ふかわりょうに作れるなら私にだって!――というわけである。とはいえ、どういう風に作れば良いかよくわからなかったし、かつて青少年のバイブルだった『ホットドッグプレス』にも「恥ずかしくない童貞の捨て方」は紹介されていても、スピーカーの作り方は紹介されていなかったはずなので、まずは入門書を読んでみた。





 これはアマゾンのカスタマー・レヴューにも「入門に最適」とあるとおり、大変わかりやすくて面白い本だった。「大丈夫、君にもできる!」という感じで励まされる感じも良い。基本的なスピーカーの構造や、スピーカーの特性を示した数値の意味も体系的に学ぶことができるのも収穫である。私は何事も、基礎の基礎から(例えばプログラム言語なら『Hello, world!』からみたいに)勉強しないとまったく身に付かないタイプの人間なので、こういう風にステップを踏みながら知識を紹介してくれる本は助かる。





 あとは、スピーカーの正しい設置方法などについても詳しく書かれていて、これはすぐにでも実行したいと思った。「ミニコンポに同梱されているような市販の小型スピーカーも、床に置いて再生しちゃいけない(低音が床に反射してぼやける)」とか、へぇー、って感じなのだが、今まで思いっきりスピーカーを床に置いて音楽を聴き、まったくの無頓着だった自分としては「もしかしたら、別に良いスピーカーなんか要らないんじゃないのか……?」と思わなくもない。





 本の内容と離れてしまうけれど、音楽ファンとオーディオ・ファンは実のところ、まったく違った人種であるのだ、ということも再確認してしまう(もちろん、音楽ファンかつオーディオ・ファンという人もいるのだろうけれど)。両者が音楽を鑑賞する態度における違いを、アドルノと絡めながら語ることも可能であろう。そのように語ることの意味はさておいて。



アドルノ 音楽・メディア論集
テオドール・W. アドルノ
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 ちなみにアドルノが録音の音質に触れている文章は『音楽・メディア論集』にいくつか収録されている。そのひとつは『ラジオ・シンフォニー』という論文で、ここでのアドルノは批判的である――「ラジオによるこれらの変化*1すべてがシンフォニーを室内楽に変えてしまう」と。この変化によって音楽の構造は破壊され、同時に、聴衆の耳も破壊されてしまう、とまでアドルノは述べている。この論文が発表されたのは1941年。しかしこの後、録音技術が発達し、LPレコードが普及した頃に書かれたエッセイ*2では、そういった批判が180度方向転換し絶賛に変わる。「LPレコードの登場によって、音楽を考えうる最上の姿で鳴らすことが可能となるのだ」(!)と。





 以上の録音に対するアドルノの態度の変化は大変面白いのだが、彼がオーディオ・マニアのように「良い音(あるいは好ましい音)を追求する」といった態度を推奨したかどうかは不明である。想像に過ぎないが、おそらく、そういった態度には辛辣な言葉を残しそうではある。音に対するフェティシズムは構造的聴取の妨げになる……云々とか言いながら。





 思ったより脱線が長くなってしまったが、とにかく、今年の夏はスピーカーを作って、より一層巣篭もり消費に明け暮れるのである。




*1:ダイナミック・レンジの縮小や、細部が不明瞭になることなど


*2:『オペラとLPレコード』。1969年、アドルノの最晩年に書かれたもの





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ガイウス・ユリウス・カエサル『ガリア戦記』

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ガリア戦記 (岩波文庫)
カエサル
岩波書店
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 最近、徐々に自分のなかで歴史熱が再燃し始めているため、カエサルによる『ガリア戦記』を。さすがに2000年ぐらいの歴史がある本だけあって、とても面白かった。一説によれば、この本はカエサルが毎年戦地からローマの元老院に向けて書き送った詳細な報告書がもとになっているそうである。この報告書が元老院のなかで熱狂的な評判を呼んだことが発端で、カエサルが本にまとめたのではないか、とのこと。確かに文章は簡潔で、ほとんど装飾といったものがないところに報告書っぽいところが見受けられる。





 紀元前50年ごろの戦争で、すでに1万人単位で人が動いたことを知って「昔から戦争って大変な出来事だったんだなぁ……」と思った。移動手段も基本は徒歩なので、必要がある場合は一晩中歩き続けなければならない。自分なら絶対嫌だなぁ、とか思う。カエサルのガリア遠征は7年にもおよんだというから、これだけ長いあいだ兵士をまとめていたカエサルという人は、軍人としても政治家としてもホントに優秀な人だったのだろう。カエサルが戦場に現れただけで、味方が盛り返したり、敵が逃げていったりするのも、なんとなく理解できる。




 あとは途中に少しだけ出てくる、ガリアとゲルマニアの風習や、その土地の珍しい動物情報も面白かった。特にゲルマーニー人は、生まれてから「いちばん長く童貞を守っていたものが絶賛される」らしい。ゲルマーニー人は「20歳前に女を知るのは恥としている。このこと*1については少しも隠し立てしない」のだ。カエサルがどうしてこの文化を伝えようとしたのかはよくわからないが、いつの時代もこういう話はウケてしまうのかもしれない。




 珍しい動物では、アルケース*2というのがいる(どうやら山羊に似た生き物らしい)。





 こいつは倒れると自分で起き上がることができないそうである。なので、寝るときは横にならず、木にもたれかかって眠る。猟師たちはアルケースたちが寝床にしている木をみつけると、その木を根っこから引っこ抜いて、グラつくように地面に戻しておくらしい。そうすると、夜になって寝床の木にもたれかかった瞬間に、アルケースは寝床もろとも倒れてしまい、朝になるとその地点でもがいているのが見つかる――そんな賢くない野生動物がいて良いのか……と呆れてしまうが、山羊っぽい動物が起き上がれずにもがいている姿を想像したら、とても楽しい気分になった。





 岩波文庫版はかなり古い訳だけれども、読みにくいことはなかった。部族名や土地の名前がたくさん出てくるので、最初のほうに載っている地図のページに付箋を貼って読むと良い(カエサルがどのあたりで戦っていたのか、よくわかる)。




*1:つまり童貞であること


*2:プリニウスの『博物誌』にも登場するのだとか。ますます『博物誌』が読みたくなった





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にせんねんもんだい/Fan

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FAN
FAN
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にせんねんもんだい
インディーズ・メーカー (2009-05-03)
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 本日は、三人組ガールズ・ノーウェーヴ・バンド(?)にせんねんもんだいの新譜も聴く。これもなんだかすごい内容なのであった。ここ数年、買ったCDはiPodで聴く用に、すぐHDDへと落とすのであるが、そこで表示されたのが35分とちょっとを1トラックで、というまるでプログレのような情報。この時点で結構驚いてしまうのだが、再生してみると延々ミュートしたギター(たぶん)がループしているだけで、8分過ぎないとドラムが入ってこない、という鋼鉄のミニマリスムが敷かれているところでさらに驚く。どこかで爆発的な展開があるのだろう、と予測しながら聴き進めると、とくにそう言った展開もなく、気がつくと35分過ぎている。すごいのは、この「なんだか知らないが35分聴けてしまう」という部分。この恐ろしく単調な反復が呪術的なレヴェルでリスナーの耳に作用しているとしか思えない(恐ろしく単調な反復がものすごい強度を産んでいる、という事もできるかもしれない)。反復のなかに新たな要素が加わっていき、リニアに音楽が盛り上がっていくこの感じに、気分がものすごく自然に同調していける音楽は久しぶりで、またにせんねんもんだいのライヴを観に行きたくなった。





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SONIC YOUTH/The Eternal

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The Eternal
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Sonic Youth
Matador (2009-06-06)
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 友人・知人のブログですでに絶賛の模様であるソニック・ユースの新譜を聴く。このところ、仕事が毎日22時過ぎまで続き、かなり心身共にくたびれていて「酒でも飲まないとやってられないよ!」と思いつつも、平日は次の日も仕事があるから飲めない……(余計にどんより)というサラリーマン・ライフを送っているのだが、そんなエヴリデイで心に溜まった業や穢れを一気に洗い流してくれるような傑作!!拝啓、ソニック・ユース様。一生ついていきます!!!と叫びたくなった。



D


 一曲目からこんな感じである。若干曇ったテクスチュアのなかから腹にどっしりと打ち込まれるようなギター・ノイズが響いた瞬間、魂ががっつりと持っていかれてしまった。このバンド、枚数を重ねるごとに疾走感と重量感という相反する要素がどんどん先鋭化しながら、不思議に調和し「めちゃくちゃに走っているけれど、むちゃくちゃに重い」という衝撃的なロック・アルバムを出し続けている気がする。とにかく、今回も最高です。キム・ゴードンのヴォーカルもブチ切れてて驚いた。





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ジークムント・フロイト『モーセと一神教』

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モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)
ジークムント フロイト
筑摩書房
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 私はこれまでに書いた拙い小説のなかで、何度かフロイトへの言及をおこなっているが、実はこの『モーセと一神教』がフロイトの著作に触れる初めての機会である。これはフロイトの最晩年の作品。文中で何度も「これを最後まで書き終える力はもう私には残されていない」など、明らかに自身の死が意識されているのだが、読んでいてその情念がビンビンに感じられるようなすごい著作だった。




 フロイトはここで「モーセというユダヤ教の立法者であり、預言者は実はエジプト人だった」という仮説から、一神教の起源はユダヤ教独自のものではなく、エジプトのファラオ、アメンホテプ4世(イクナートン)時代のアートン信仰を起源としている……という説にたどり着く。いまさら私が言うまでもなく、フロイトはユダヤ人である。その彼がどうしてこのように自らの民族的アイデンティティを大きく揺るがすような論文を書かなければいけなかったのか(しかも、学術的な枠組みを大幅にはみ出していることを知りながら)。そこには、この作品の第三章*1が書かれた状況が関連しているのかもしれない。第三章が書かれたのは、ナチス=ドイツによるオーストリア併合ののち、フロイトがイギリスに亡命した後のこと。「進歩が野蛮と同盟を結んでしまっている」時代に母国を追われた心境から、自らの出自に対してメスをいれる決意をした、というのは想像に難くない。





 繰り返すが、とにかく(さまざまな意味合いにおいて)すごい著作であり、読んでいてスリルを感じてしまった。フロイトの「モーセ=エジプト人」説の真偽について何かをいうほどの知識は持たないが、たとえそれが妄言であったとしても、自らの先祖に向って歴史的な精神分析を試みようとするフロイトの試行錯誤は大変面白い。彼が語る歴史の流れを暴力的に要約すると以下のようになるだろうか。







  1. 一神教の起源は、アメンホテプ4世。世界帝国的に規模を拡大したエジプトは、異人種たちをも取りまとめなくてはならず、そのために多神教を禁止し、信仰の対象を絶対の唯一神であるアートンに設定した。

  2. しかしアメンホテプ4世は急逝し、エジプト国内では多神教の反動が勃発する。このとき、モーセはアメンホテプ4世の家臣であり、亡き王の意思を引き継いで、奴隷だったユダヤ人を引き連れてエジプトを脱出した。

  3. 脱出したモーセはそこで再び一神教をユダヤ人に強制する。さらにエジプトの風習であるという割礼を彼らに強いた(フロイトはこの時期の宗教を、モーセ教と名づける)。

  4. しかしモーセは、自分が導いて奴隷の身分から抜け出させたはずのユダヤ人たちに暗殺されてしまう。その後、ユダヤ人は土着的な神である火の神、ヤハウェを信仰し始める(ヤハウェ教のはじまり)。





 元来、ヤハウェは多神教の神のひとつに過ぎなかった。これがどうして唯一神へと変化してしまったのだろうか? この理由について、フロイトはユダヤ人によるモーセ暗殺の影響がある、としている。この暗殺はいわば「父親殺し」である。モーセは殺されたがこの父親殺しの罪は、ヤハウェ教を信仰するユダヤ人のなかに影のように潜んでしまった。その罪の影は、古代ギリシャ人が歴史を叙事詩・神話として膨らませて語ったように、叙事詩的に膨らみ幾世紀もかけてヤハウェ教をモーセ教へと書き換えてしまったのである(!)。




 もうなんか参った! と叫びたくなるような、精神分析四次元殺法であるが、私はこういうのが大好きなのである。雑感だがヴィルヘルム・ライヒ*2がああなったのも、なんとなく納得がいくような……まさにこの創始者あって、この弟子あり、みたいな。




*1:実際には、三つの論文が書かれた順に収録されているのだが、フロイトは二つ目の論文の後に、仕事を一旦中断していた


*2ヴィルヘルム・ライヒ - Wikipedia





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ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』

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イロニーの精神 (ちくま学芸文庫)
ウラディミール・ジャンケレヴィッチ
筑摩書房
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 ジャンケレヴィッチの『イロニーの精神』をなんの目論みもなしに読む*1。この著作については、ここ十年ぐらいの社会学関連の本のなかで、かなり頻繁に引かれていることもあり、読む前からなんとなく内容を知っていたのであるが、それでも面白く読めた。ただ、文章はかなり抽象的で、具体的な事例としてあげられるのは文芸作品か音楽作品のみ、という感じなので、その方面の教養がなくてはちょっと難しいかもしれない(訳注などもとくにない)。ジャンケレヴィッチには、ドビュッシー論やフォーレ論などもあるそうだから、そちらも読んでみたく思った。





 さて、この本で説明される「イロニーの精神」であるが、この内容については冒頭の一ページちょっとのなかに集約されているように思う。この部分を、ざっくりと要約してみると以下のようになる。





 イロニストは危険を恐れない(危険をすでに知っている)。だが、あえて彼らは危険と戯れようとする。その戯れのなかでイロニストは、危険を恐れるふりをしながら、危険へと赴く。このとき、イロニストに襲いかかる危険は、襲いかかる度に死滅させられる(なぜならそれはイロニストにとってもはや危険ではないからだ)。ゆえに、イロニストは危険を恐れるものよりも自由だし、決然と危険に立ち向かおうとする人物よりも自由である。「危険を恐れるふりをする」というまなざしが、イロニストを危険に飲み込まれることから救うのである。





 第一章、第二章では以上に要約したイロニーがどのような効果をもたらしたのか、また、歴史上のイロニストたち(ソクラテスやバルタザール・グラシアン、あるいはフランス近代の作曲家・作家)の作品のなかにどのようにイロニーが反映されていたのか、を検証するような内容。続く第三章、これは「イロニーの罠」と題されているのだが、「あえて○○する」態度が次第にイロニカルな性格を無くしてしまいベタに転じてしまう、というような事例が紹介されている。





 この「あえて○○する」というキーワードであるが、これは宮台真司のここ数年のキーワードである。この意味は「この不透明な時代を生きぬくためには、あえて○○する、というような態度で飄々とサバイヴせよ!」という感じだったはずである。それで、宮台は「あえて亜細亜主義」と息巻いている。しかし、この裏を取ってみると、イロニカルなまなざしがもたれているため、別に亜細亜主義である必要はない。だが、新自由主義だと救われないので、却下という風に○○は○○だからダメという風に判断はおこなわなければいけない。すると、あえて亜細亜主義である、と。この判断を下すために「日本国民の民度を上げなくてはいけない」らしい。かなり暴力的な要約で、しかも全面的に間違っているかもしれないが、なんかそうみたいです。





 ただ、この『イロニーの精神』を読みながら考えたのは「あえて○○することも、結構しんどそうだよなぁ」ということである。そこでは自らを客体化する不断のまなざしが必要である(いつのまにかベタになってしまわないように)。さらに、そのような態度は「一体感」というか「高い充足感」みたいなものも不可能としてしまう。これによってファシズムは避けられるだろう。しかし、常に自分で自分をモニタリングしながらあえて何かにコミットするのでは、半勃起状態のような煮え切らないモノを抱え込まなくてはいけないのではなかろうか。




*1:先日代々木公園で開催されたタイフェスでビール三本飲んだら、いつのまにかリブロで勢い良く本を買ってしまっていたのだ





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