サントリー音楽財団創設40周年記念 サマーフェスティバル2009 特別演奏会 シュトックハウゼン<グルッペン> @サントリーホール 大ホール

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ジェルジ・リゲティ:≪時計と雲≫ 12人の女声とオーケストラのための


カールハインツ・シュトックハウゼン:≪グルッペン≫ 3群のオーケストラのための


指揮:スザンナ・マルッキ(オーケストラII)/パブロ・ヘラス=カサド(オーケストラI)/クレメント・パワー(オーケストラIII)


管弦楽:NHK交響楽団


女声合唱:東京混声合唱団


 個人的に今年の夏を締めくくる大イベント、シュトックハウゼンの≪グルッペン≫の生演奏を聴きに行ってきた。これはなかなか刺激的、というか、衝撃的な体験。当ブログでは以前にもこの作品について触れたことがある*1けれど、やはりYoutubeにあげられている映像や、録音ではまったくその真価が伝わらないとんでもない作品であるなぁ……とド肝を抜かれてしまった。





 この≪グルッペン≫という作品が持つ大きな特色として、三つのオーケストラが使用されていて、それらのそれぞれオーケストラは会場の別々な位置に配置される、ということがあげられる。今回の演奏会では作品を、二度演奏し、一度目と二度目で違う場所から聴くことができる、という試みがなされていた。


f:id:Geheimagent:20090831230033g:image


 私は今回、一度目をオーケストラ群に囲まれる中心で聴くことができた。一度目の演奏では、金管楽器や打楽器の咆哮が自分のまわりをぐるぐると回る効果をよく体験できたが、弦楽器などの音があまり聞こえず、また、オーケストラの位置が近すぎて細かい動きについてはほとんど何をやっているのかわからない。三人の指揮者が互いにどういった指示を出し合っているのか、についても、そこからはまったくわからなかった。「たしかにこれは理解不能な音楽の極北と揶揄されても仕方が無いかもしれない」と思ってしまった。





 しかし、二度目にオーケストラをすべて俯瞰できる二階席で聴いたところ、かなり印象が違って聞えた。ほとんど別な音楽のように聞えるのである。その位置からは、それぞれの指揮者が担当しているオーケストラが今なにをしているのか、そして相互的にどういう関係で動きあっているのかが把握できるし、弦楽器の音もちゃんと聞える。だが、音に囲まれる、という効果はこの位置では味わうことができない。三つのオーケストラは、三つのオーケストラでなく、ただ単に通常より大きなステージに配置された巨大な一つのオーケストラに聞えてしまう。





 二度の演奏を聴き終えて、結局のところ、この作品を「どの位置で/どの距離で聞くのが正解なのか?」という問いに対する答えは出せない、ということに気がついてしまう。そこで思い出したのが、武満徹が書いた「スペース・シアターに関する基本理念」という文章だった。これは1970年の万国博覧会で建設されたスペース・シアターの音響設計を武満が担当した際に書かれた文章である。



 これまでのコンサート・ホールにおける鑑賞形式は、特殊に方向付けられた空間での固定の音(源)の量的体験であり、便宜的に規定された演奏の場――ステージ――と、空間的にきわめて限定された場――客席――として質的空間は単純な二つの量的空間に区別されていた。そこでは、音それぞれが内にもつ固有の質的空間というものも一括された量に置換えられている。/あらかじめ仕組まれた二つの量的空間は運動を起こすことがなく、人間の体験(空間的・時間的)は質的体験としておこなわれず、画一化された仮りのものであった。(中略)まず、固定された客席という観念を、コンサート・ホールの構造からなくそう。/そして、コンサート・ホールの空間構造は、質的に異った無数の空間が重層している状態として想像されるべきである。



 武満の構想した理念と、≪グルッペン≫によってもたらされる効果には極めて近いものがあると言えるだろう。武満がコンサート・ホールという場そのものを改造しようとしたのに対して、シュトックハウゼンが既存のコンサート・ホールのなかで「質的に異なった無数の空間の重層」を実現した、という違いはあれど。





 私は今回≪グルッペン≫を聴いたことによって、この試みのラディカルな部分を改めて実感できた気がする。通常、コンサートというイベントのなかで、観客たちは同時的に一回性の「同じイベント」を体験する(はずである、と考えられている)。しかし、≪グルッペン≫においてはそのような「同じイベント」が観客たちのなかで共有されることはない。聴いていた場所によって、聞えてる音がまるで違うのであれば「同じイベント」を共有できないことになる(「無数の空間が重層」)。





 だが、ここで「無数の空間が重層しているのは、通常のコンサートでも一緒ではないか? コンサート・ホールで指定されたS席とC席では、聞こえている音は違うだろう」という指摘も可能だろう。ただし、それは事後的に確認されたものである。それまで「通常のコンサート」における空間の重層は隠蔽されており、「特殊なコンサート」によって初めて明示化されるのだ。そして、無数の空間が重層していることが隠蔽された状態で音楽を聴いていた、という事実は「画一化された仮りのもの」を聴いていた、ということを意味する。隠蔽された事実が明らかになった場では「音楽が(適切に)鑑賞する」という根本的な態度も問題化される。





 尻切れトンボな感じになってしまうが、本日はこのあたりで感想を書くのを止めておこう。前プロで演奏されたリゲティの作品も良かった。あと会場に久石譲がいた!






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村上春樹『村上朝日堂はいほー!』『うずまき猫のみつけかた』

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 夏休みはもう終わりだと言うのに、個人的なお休み気分になってしまったので、ボヤーッとしながら村上春樹のエッセイを二冊続けて読み終えました。読んでいて「ああ、こういうことが言いたくて、ああいう小説を書いてたりするんだな」と考えるヒントになるような点もいくつかあり、なかなか面白く読む。例えば、システムが嫌い、であるとか、原理主義が嫌い、であるとか、そういう、およそ個人の自由とか、主体の自由に反しそうなものに対しての嫌悪感、そういうものを確認できるのですが、それは小説の内容ともリンクしていく気がします。





 とはいえ、そういう考えに対して、私が全面的に同意できるわけではなく「ふーん、こういうことを考える人もいるんだなぁ」とか思うだけなんだけれども、やっぱりここまで「目の前に自由があったら、それを選ぶべきだ!」と主張するのは特殊な人なのかもしれない、とも思う。例えば、『はいほー!』では、学校における制服について語っている部分があるのだが、着るものの自由を奪う(選択肢を目の前から消してしまう)ということが悪いことのように語られる。「着たいものを着るのが正しい」という主張はたしかに真っ当なようにも思えますが、しかし「着るものを選ばなくて良い(とりあえず、それを着ていればOK)」という簡便さについてそこでは全く考慮されていません。そのあたりが少しひっかかる。





 多様性があったほうがいい、選択肢は多いほうがいい。こういった主張を否定するわけではないけれども、選択肢が多いことのリスクについて考えなければ、その主張は「自由原理主義」へと簡単に転落してしまう気がします。





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SANTANA/Caravanserai

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 社会学者の真木悠介はどういうわけかその著作のなかで、サンタナの『キャラヴァンサライ』に何度か触れている(私が確認しただけでも二度)。たとえば、『自我の起源』*1の冒頭は「CARAVANSERAI:自我という都市」という章から始まっているのだ――「インドでの修行時代にサンタナに霊感を与えたグルの教えは、わたしたちのほんとうの自己はいくつもの身体とその生涯を宿としながら永劫の転生の旅を続ける。わたしたちの個体とその<自我>はこの永劫のキャラバンの一期の宿(サライ)であるというものであった」。ミュージシャンであるカルロス・サンタナの言葉をここまで深く読み解いた動機には、おそらく真木悠介的にこのメタファーが自分の生死観とガッチリ合いすぎた、というところがあるのだろう。





 今日になって初めてこのアルバムを聴いたのだが、これは不思議なアルバムだなぁ……と思う。おそらくこのスピリチュアルな感じは、ジョン・コルトレーンの『至上の愛』を元ネタとしていることは間違いない。そこには、何がしかの真理らしきものをわかった気になっているミュージシャン特有の無駄な壮大感があるように感じてしまう。こういうそこはかとないインチキ臭さって良いですよね。プッと噴出したくなってしまうのだが、例えば、こういうインチキ臭さは今や許されなくなってしまったものだ、とも思う。






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諸星大二郎『妖怪ハンター 水の巻』

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妖怪ハンター (水の巻) (集英社文庫―コミック版)
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 『水の巻』は九〇年代に入ってから書かれた「稗田礼二郎シリーズ」を単行本化したもの。七作品が収録されていますが、そのうち五作品が稗田先生がサブ・キャラクターとしてしかでてこない「粟木町シリーズ」になっています。このシリーズでは渚と大島という高校生が主人公。これも『古事記』や仏教と言った日本における宗教の歴史を、神話として捉え、それを怪奇漫画として書き換えたような壮大な話です。日本をとりまく海の彼方は、まさに彼岸の世界であり、そこには現実世界とはまた違った世界が存在する。そしてこの物語では「海」を媒介として、異界からやってくる者どもがいくつも登場します。このことは、日本が異界と常につながり続けている、ということも意味しましょう。深い……。日本で・土着で・神話、といえば、すぐさま中上健次という作家を思い起こしますが、諸星大二郎の仕事が中上と類縁性を持っている、というのは言いすぎではないかもしれません。中上が描いた神話にギリシャ悲劇のモチーフを見出せるのに対して、諸星の仕事はあくまで、日本の神話に留まり続けている、という違いはあれど。





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プラトン『テアイテトス――あるいは知識について』

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テアイテトス (岩波文庫 青 601-4)
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 プラトン強化期間の一環として読む。およそ二ヶ月ほど前からこの催しを継続しているが、ついにいわゆる「後期プラトン」に入ってしまった。読んでいない作品も多々あるが、次に『法律』を読んだら、一旦プラトン強化期間は終了し、アリストテレス強化期間に入りたい(そもそもこういった試みは高校生とか大学生とかの頃にやっておけば良かったなぁ、とか思うが、もはや後の祭りである)。で、『テアイテトス』であるが、これはこれまで読んだプラトンの著作のなかでも、最も難解に感じられた。副題に「知識について」とあるように、ここでは「そもそも知識とは何のことであろうか」ということについての議論がおこなわれているのだが、その議論において、これまでのプラトンの著作であったように「魂を良くするためにはどうすれば良いか」といったような倫理的/道徳的問題については触れられず、ひたすら「知識とはどういったものなのか」という議論が続けられる。また、議論は一種の認識論的な領域まで及ぶ。その際、「言語」という枠組みがなければ、認識はできない、みたいな「すわ! 構造主義か!」とか「すわ! デリダか!」といった話が出てくるのだが、なんだか面白く思えなかった。もちろん、その感想は「その問題が、個人的な問題として捉えることができなかった」ことから生まれているのであるが……。知識とは何か、認識とは何か、こういった問題は至極根源的な問題であろう。しかし一方で、それらの問題は(勝間和代流に言えば)「起きていることは、すべて正しい」とも言えるような気がする。そういうワケだから、「この時代の人はこのように考えていた」というような歴史学的な視点を学ぶために、大昔の人の本を読む、という態度はアリだ。というか、そういう風に読んでいたほうが楽しい気がしてきている。





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最近読んだ漫画について

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妖怪ハンター 地の巻 (集英社文庫)
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 ここ数日は貪るようにして漫画を読んでいます。こちらは諸星大二郎の『妖怪ハンター』。稗田礼二郎という異端の考古学者(なぜか劇中ではジュリーに似ている、という設定)が日本各地の伝承を調査に向かった方々にて、怪奇事件が……というオムニバス形式のミステリ漫画。この『地の巻』に収録された作品のいくつかは以前に紹介した自選短編集*1で読んだことがあったのですが、再読してもやっぱりすごかった。これが『週刊少年ジャンプ』に掲載されていた、という事実がまず驚愕。普通に古文調の文章があったりしますし(それは明らかに少年向けじゃないだろう……)、怖い描写が結構ちゃんと怖い(暗闇から死んだはずの人の顔だけがヌッと出てきたりする。その静かに現れる感じが怖い)。でも、深い教養のなかから大嘘が生み出される感じがとても好きです。





 敬愛する作家、矢作俊彦原作による『気分はもう戦争』も読みました。これもとても面白かったです。陰謀モノの戦争漫画(米ソが裏で手を組んで、中ソ戦争が起こり、日本経済に大打撃を与える……という昨今の陰謀論を20年以上前に先取りするかのようなストーリー)なのかな、と思いきや、矢作俊彦と大友克洋が劇中に登場し『ドン・キホーテ』ばりのメタ・フィクションがあったり、西遊記のような戦場パートがあったり、と手が込んだ作りようで驚きました。やっぱり矢作俊彦はすごいよー……。セリフ回しもハードボイルド・モードの矢作俊彦小説そのもので痺れました。劇中大友克洋は「カニ好き」という設定で登場するのですが、これにまつわるエピソードは矢作俊彦のエッセイ『複雑な彼女と単純な場所 (新潮文庫)』で読むことができます。「大友克洋と一緒に北海道までカニを食べに行くツアー」が超絶的にキマりまくったカッコ良い文章で綴られていて大変面白いです。



まんが道 (2) (中公文庫―コミック版)
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 あと『まんが道』の2巻も読みました。こちらはチビチビと文庫を集めているのですが、そうこうしている間に新しい版がでてしまわないか心配(『カムイ伝』はそんな感じで集めている文庫版が絶版になってしまい、中途半端になってしまっている……)。『まんが道』は日本の『失われた時を求めて』みたいな話しだよなぁ……と思ったりします。ブルジョワ階級の話ではないけれど、モチーフはかなり似通っている、と思う。






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なにで書くか、なにを書くか

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2009-08-20 - Any given sunday


 ひきつづき、id:ncyclopectorさんのブログより。「筆記用具、なにを使うか問題」。仕事で仕様書や報告書などを書くときは、もちろんPC上での作業となるわけですが、そういった書類を書く前のメモ書きをとるときに筆記具の問題は大変重要なものとなります。そもそもメモ書きから、PC上でやればスムーズなのかもしれませんが、そのあたりはやはり「肉体的に書く」という行為によってはじめて「理解が生まれる」ような感覚は捨てきれないため、いらない(秘匿情報が印刷されてない)紙の裏側に大量のメモを書くのです。あと単純にディスプレイ上にウィンドウがいっぱい開かれすぎているせいで「メモをとるためのウィンドウを開く余裕がない」というのもありますが。


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で、私がここ最近愛用しているのはトンボの「Reporter 3」。黒・赤・青の3色油性ボールペンなのだけれども大変に書き味が良くて、大きさもちょうど良い。必要なときすぐにペンが握れるように、自席に置いておく用・手帳に挟んでおく用・ペン・ケースに入れておく用……と計3本使っています。クリップ部分にバネが入っていて、折れにくい、という点もすごくポイントが高いです。





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よしながふみ『愛すべき娘たち』

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愛すべき娘たち (Jets comics)
よしなが ふみ
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 id:encyclopectorさんからのレコメンドで読む。これもとても面白い漫画でした。読みながら「この作家は、ホントに観察眼に優れた人だなぁ……」と感嘆しきり。なんとなくですが向田邦子を思い出してしまいます。食卓と家庭の強固に結びついている感じがあって、そのあたりに(最近観た映画では『サマーウォーズ』もそんな感じでしたが)。「一緒にご飯を食べる」、ただそれだけのことにも関わらず、そこには「家庭」という特別な親密さが現れてしまう。この漫画ではとくに食べ物に対してのマニアックな知識が披露されているわけではありませんが『西洋骨董菓子店』における細部にこだわった演出は、そういった「食が即ち親密さに繋がっていくこと」への意識の現われなのかもしれない、とも思います。その意図はもちろん『美味しんぼ』とはまったく異なるものとして機能する。





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ル・ジャルダン・ブルー/モンブラン

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 金曜日の夜に「最近、おいしいケーキを食べてないなぁ……」という思いがふと頭をよぎったので、久しぶりに永山にあるル・ジャルダン・ブルーというお店に行ってモンブランを食べてきました。とくに甘いモノを食べ歩いてきたわけではございませんが、このお店のモンブランが自分内モンブラン・ランキングの第一位。濃い目のマロン・クリームのなかにはギッシリと細かく砕かれたマロン・グラッセが入っていて美味しいのです。これだけだとちょっとしつこくなってしまいそうなのですが、土台となっているタルトのなかにカシスが忍ばせてあり、この酸味がアクセントとなってしつこさをかき消してくれる……という魔術的な一品。







  • ル・ジャルダン・ブルーの地図



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シューマンのピアノ協奏曲について

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Collection 2: The Concerto Recordings (Box)
Martha Argerich
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 先日紹介したマルタ・アルゲリッチのボックス・セット*1をまだ聴いています。ここのところはずっとシューマンのピアノ協奏曲を繰り返し、繰り返し。このボックス・セットを買うまでこの作品に触れる機会がなかったのですが、随所にシューマンらしい筆跡が認められ、ハマると何度でも聴きたくなる作品だと思います。



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 ちょうどYoutubeにもアルゲリッチが演奏している映像の一部がアップされています。録音ではムスティラフ・ロストロポーヴィチ指揮ワシントン・ナショナル管ですが、こちらはリッカルド・シャイー指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管で、録音よりも繊細な印象。上の映像では、第一楽章の冒頭3分弱しか聴くことができませんが、強奏から始まる印象の強さにこれだけで心を掴まれてしまう人もいるはず。


 ただし、このカッコ良い始まり方はほんの一瞬で過ぎ去ってしまい、おセンチ感全開のオーボエのソロに入る……というよく分からない展開に私などは「ああ、シューマンらしい……よく分からない構成だ……」と思ってしまいます。だが、そこが良い! 実際この作品のあとに、前期ベートーヴェンのピアノ協奏曲などを聞くと「ああ、古典派の音楽はなんと形式の美学に優れたことよ!」と感嘆してしまうのですが、シューマンの音楽は混迷のなかでギリギリに成立してしまっているところが素晴らしいのです。この屈折した論理性のなかで醸し出されているシューマンらしさが「良いもの」と思えてくれば、あなたももはやシューマンの虜だ、と言えましょう。



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 Youtubeにはほかにも面白い映像がありました。こちらはベルリン・フィルの公式Youtubeアカウントで公開されている内田光子のインタヴュー映像(HDモードで観ると画質・音質が異常)。「ショパンも、ベートーヴェンも、モーツァルトも、ヨハン・セバスチャンも偉大なピアニストだった。しかし、シューマンはそうではなかった」などの発言が印象に残るのですが、内田光子もまたシューマンにおける作曲のプロセスが「普通ではない」と言っています。私の貧しい英語力では不確かな部分も多いですが「シューマンは論理性ではなく、発想力の人だ」ぐらいのことは言っている気がしました。



D


 それでは、内田光子の独奏によるサイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルの演奏をどうぞ(第3楽章)。





 個人的にはこの作品を聴いているときに頭に浮かぶのは、一度演奏したことがあるシューマンの交響曲第2番についてです。これも大変に不思議な曲で、しかも演奏にものすごく体力がいる(割にはあまり自分の音は聞こえない)という思い出があるのですが、ピアノ協奏曲にも「報われない感じのオーケストレーション」を感じる瞬間がいくつもあります。






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真木悠介『気流の鳴る音――交響するコミューン』

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気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木 悠介
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 見田宗介の真木悠介名義(日本の社会学界でこのように名義を使い分けている人は、この人ぐらいなのか? まるでエイフェックス・ツインみたいである)での代表作を読む。一九七七年の作品。最初の刊行からすでに三〇年以上も経っているが、今なお「鋭い……」と思わせられる作品であった。冒頭、ヤマギシ会について言及している部分があるが、これをほとんど好意的な感じで捉えているのも興味深い。ヤマギシ会といえば、いまやほとんどカルト扱い。基本的には批判的な文脈においてでしか登場しないものかと思っていたのだが、当時はそうでもなかったのだ、と思ってしまった。私自身、ヤマギシ会の存在を知る機会となったのは、学生時代のある授業においてであり、そこではやはり「人間の主体性を奪ってしまう洗脳的なカルト」というような感じで紹介されていた。一九七〇年代後半には、まだコミューンというものが存在しており、希望として捉えられていたのか、と思うと感慨深いものがある。





 本書の全体は三部に分かれており、その大部分が第一部の「気流の鳴る音」に割かれている。この部分は、メキシコの部族社会で生きる呪術者、ドン・ファンのもとに弟子入りをして、その修行生活を記録していた、と言われるカルロス・カスタネダの著作への注釈学、と言っても良いと思う。カスタネダの記録を大量に引用し、それについてコメントをつけていく。しかし、真木悠介のコメントは引用に対して、説明的になることはなく、引用とパラレルに進んでいくような感じがする。不思議な読後感だ。近代に生きる人間の意識が、このパラレルに進行する引用文と地の文の合間の中で、どんどん相対化されていく。このとき、真木の胸のなかにも、ドン・ファンの自由な生き方(世界の捉え方)に対して、素朴な憧憬がある、と言って良いだろう。前近代的な、もはや過ぎ去ってしまい、戻ることのできない意識への憧憬がそこにはある。



ドン・ファンはわれわれを<まなざしの地獄>としての社会性の呪縛から解放する。しかし同時に、それはわれわれの共同性からの疎外ではないだろうか?


執着するもののない生活とは、自由だがさびしいものではないのか?



 この疑問符に込められた葛藤は、まさに「近代」を知ってしまった者、「近代」を自明なものとして生きてきたものの葛藤であろう。我々は近代のしんどさについても知っているし、逆に楽さについても知っている。だからこそ、葛藤が生まれる。ドン・ファンの生き方には、近代のしんどさは存在しない(ように見える)。しかし、近代の楽さもまた存在しないのだ。この葛藤の中に、真の相対化が見出せるような気がする。





 また、第二部の「旅のノートから」も面白かった。こちらは朝日新聞に掲載された、文字通り旅行記のような文章なのだが、大変に文学的なエッセイとなっており、ますます行ったことがない異国に行ってみたい、という思いを刺激させられる。とにかく、真木悠介モードの見田宗介の文章は美しい、と思う。この美的で、かつ知的な文章のスタイルに、大澤真幸が影響を強く受けた、というのは想像に難くない。





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よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』

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 初めてよしながふみの漫画を読んでみた。これはとても面白かった。序盤に隠されながら貼られてきた伏線のひとつひとつが、終盤になって浮かび上がり、ひとつひとつ回収されながら物語が閉じられる、この小さな世界内での完結のあり方が読んでいて、とても気持ち良かったです。





 カムアウトをおこない、自由に不特定多数と性交渉を結ぶ生活を送っている“魔性のゲイ”が作品には登場します。彼はその生活を楽しんでいる。しかし、その一方で満たされない思いを感じてもいる。永遠の安息を与えてくれるような、生涯を共にするような相手が見つからない。ここでは同性婚が認められていないなどの制度上の問題とまったく無関係に問題が発生しています。その彼の満たされなさは、もうひとりの登場人物――ヘテロで女性にもモテるが、結婚できない男――の満たされなさと対比されます。ここでふたりが対比されるとき、この間には「選ばれているが、選ぶことのできない男」と「選ぶことができるが、選ばれない男」という関係を見出すことができる。しかし、彼らふたりが抱えている孤独のようなものは、ほとんど同質なものと捉えることができましょう。このように、ゲイの孤独とヘテロの孤独、これらが本質的に同質なものであることを描いているのだとすれば、この作品は重要な作品だと評価することができる気がします。ゲイの人が読む場合、どのように感じるのか、についても少し気になるところです。





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磯崎憲一郎『終の住処』

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終の住処
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 好きな作家でもない限り、芥川賞受賞作といった「話題作」にはほとんど食指が動かないのですが、磯崎憲一郎が受賞インタビューであげていた好きな作家が、私の好きな作家とまるかぶりだったことがあって、興味を持って読んでみました(初めて読んだ小説が、北杜夫というところまで一緒)。でも、あんまりハマれませんでした。今回、芥川賞の選評もチェックしてみたのですが、石原慎太郎が言っていたことがとても真っ当なモノに思えます――「選者に未知の戦慄を与えてくれるような作品が現れないものか」。また、村上龍もこんな風に書いていました――「作者の意図や計算が透けて見えて、わたしはいくつかの死語となった言葉を連想しただけだった。ペダンチック、ハイブロウといった今となってはジョークとしか思えない死語である」。もうなんだか村上龍の性格の悪さが滲み出てくるようなコメントですが、これも真っ当に感じられます。





 どちらの選者のコメントにも「あー、君の言いたいこと、やりたいこと、わかるよ。わかるよ。でも、もうそれは誰かがやっていることだし、いまさら面白くは読めないねえ」というような感想を持っているところで共通している。僭越ながら、私も同じような感想を抱いてしまいました。作者が言うように、ラテンアメリカの作家の影響が文体からは読み取れる(ただし、ガルシア=マルケスと並べるのは明らかに褒めすぎだ)し、また、説明的な文章が過剰で、物語的な起伏がほとんどない平坦な白昼夢的幻想によって物語が組まれる、という言わば反-物語的物語、とでも言えましょうか。そういう風に作品を把握してしまえること自体に、作品の大きさ(小ささ)がでてきてしまう。また、随所に盛り込まれた幻想的描写にしても、突き抜けたところがなく、そもそもあまり面白くなかったです……。ケツの穴にダイナマイトを突っ込んで爆死するような、そういうダイナミックなものが読みたいんだよ……!





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細田守監督作品『サマーウォーズ』

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サマーウォーズ オリジナル・サウンドトラック
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 今週ほぼ毎日徹夜仕事で「こっちもサマーウォーズだよ! 死んじゃう!」と思っていたのですが、ようやく細田守の新作を観ることができました(仕事はまだ積み残っています)。前作の『時をかける少女』みたいに、ありえないほどイノセントな恋愛映画を想像していて、予想はまったく裏切られてしまいましたが、むちゃくちゃに良かったです。正確に四度、落涙しました。目の前になんらかの大きな危機があり、その問題を解決しようとするある人たちの姿を見た、大勢の人々がまるでその「どうにかしなくてはならない」という思いに感染していく、という話に自分はとても弱いのだな、と思いました。





 また、劇中恥ずかしいぐらいにアニメ的な演出も見受けられるのですが、この分かりやすい/過剰なアニメ的表現があるからこそ、観客の心を強く揺さぶるのであろう、とも思います。大粒の涙であったり、顔色であったり、鼻血の量であったり。それらはありえない「記号的な表現」と言えましょう。劇中に配置されたそれらの記号表現の配置がとても素晴らしいと思います。それから、風景も良くて。『時をかける少女』では、J.S.バッハの《ゴルトベルク変奏曲》をバックに、学校の夏のシーンが映し出されていくところがとても印象的だったのですが、今作ではカリカリ……と紙に文字が書かれていく音をバックに、夏の夜が映し出されていくシーンがとても好きでした。あと谷村美月。中学生の男の子の声で出演しているんだけれど、女の子にしか聞こえない、という問題はあるんですが、それでも良かった。何らかの影を持つ人物を演じているときの谷村美月は、生き生きとしている気がします。





 おおよそのところ文句の付け所がない傑作でした。





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MARTHA ARGERICH/The Collection 2

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 もうすぐお盆休みになりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。私はといえば、お盆休み明けに大規模プロジェクトのカット・オーバーを控えているため、世間様の雰囲気などまったく感じられないまま、多忙な日々を過ごしており、本日も終電を逃してタクシー帰り……という季節感のない生活を送っております。神経を磨り減らすことも多いのですが、誰もいなくなったフロアにて好きな音楽を聴きながら、プログラム・ソースとにらめっこ……というのもなかなかオツなものです。嘘です。辛いです。ただ、音楽が何がしかの心の支えになっていることは本当です。本日はそのような心の支えとなる音楽を紹介させていただきます。





 上にあげましたマルタ・アルゲリッチのボックスは、いまや生きているピアニストのなかでは3本の指に入るであろう巨匠ピアニストの名演を集めた7枚組です。アマゾンだと3000円ちょっとで購入できてしまう、超価格破壊ボックス。何分枚数が多いので私もまだ聴ききれていないのですが、これはアルゲリッチの輝かしいキャリアをほぼすべて押さえることのできる素晴らしいコレクションと言えましょう。素晴らしいピアニストであることは私も重々承知でおりましたが、このボックスに収められた一枚一枚を聴き返しながら「こんなに凄かったのか……!」と惚れ直しております。





 とくに素晴らしいのは、クラウディオ・アバド/ロンドン交響楽団と組んだモーリス・ラヴェルのピアノ協奏曲。これは私が言うまでもなく、名盤のひとつとして数え上げられる録音なのですが、本当に素晴らしい。とくに第2楽章の豊かな情感は、仕事中聴いているとなんだか溢れてくる涙でソースがよく見えなくなるほどではないですか……! 私はこのような美しい音楽を聴きながら息絶えたい……と思うほどの絶品。





 また、このようなボックス・セットを購入することの楽しみのひとつに「ここに入っていなかったら、まず聴くことはなかっただろう」という作品と出会う、という偶然の楽しみがありますが、今回の作品ではフェリックス・メンデルスゾーンの《ヴァイオリンとピアノと弦楽オーケストラのための協奏曲》というのが私にとってのそれでした(ギドン・クレーメルとの共演)。こちらはなんとメンデルスゾーン、14歳のときの作品。この作曲家は38歳で亡くなってしまうのですが「天才早死説」を裏付けるような名曲であります。後期のモーツァルトとJ.S.バッハをお手本にしたかのようなフーガは、とても14歳のときの作品とは思えない堅牢さです。





 それからシャルル・デュトワ(元ダンナ)/ロンドン交響楽団と組んだチャイコフスキーの協奏曲も素晴らしいです。アルゲリッチによるソロは好き勝手暴れまくっている感じなのですが、それを包み込むオーケストラの広がりある音響に飲み込まれてしまいそうになります。





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JUNK FUJIYAMA/A color

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Poppin Records (2009-04-24)
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 「仕事がヤバいけど、あえて休日出勤しないでみよう」と思い、本日は新宿へ買い物へ出かけた。そこで出会ったのだがジャンク・フジヤマの『A Color』というアルバム。これは試聴して15秒でビリビリ来てしまい、買い物カゴに入れてしまった。どういうアーティストなのかよくわからないのだが、公式サイトを見る限り、1984年生まれの新人アーティスト、ということらしい。はっきり言ってこの生年月日を確認して目を疑ったぐらい、完成された最高の「シティ・ポップス」である。タワレコのポップにもあったのだが、山下達郎が好きな人には猛プッシュしたい(声が似すぎ。顔は似てない。あと米米CLUBは関係ない)。公式サイトで是非試聴を。





 キリンジ以降、こういったシティ・ポップスであったり、AORを志向するアーティストってあまりいなかったと思うんだけれども、これは未来を感じさせてくれる。もっともキリンジみたいな変態的なコード・ワークがあるわけではないのだが、今こういう音楽をやる人がちゃんといるのだ、ということがとても嬉しい。





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プラトン『パイドン――魂の不死について』

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パイドン―魂の不死について (岩波文庫)
プラトン Plato
岩波書店
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 プラトン強化期間の一環として読む。こちらは死刑宣告を受け、投獄されていたソクラテスのもとへと、ついに死刑執行の日がやってきて、その直前におこなわれた弟子たちとの問答を収録した作品なのだが、その劇的な設定も良くて大変に楽しく読んだ。刑の執行直前にソクラテスの前へと現れる、刑務委員の下役が「あなたほど高貴な人間はいませんでした」と伝え、涙を流すシーンなど美しい。肉体は魂の重荷に過ぎず、魂をより良くするには肉体を捨てなくてはならない(=死ななければならない)。だから哲学者は早く死ぬことを望むのだ……などなど、結構スピリチュアルな内容も満載なのだが、プラトン入門には『パイドン』をオススメしたいかもしれない。岩波文庫版は訳も新しい。





 議論の中心となっているのは副題にもあるとおり「魂の不死について」である。ソクラテスがさまざまな方面からこれを証明していくのがこの対話篇の主旋律といえるだろう。「最終証明」にたどり着くまでの道のりを大変大雑把に示しておくと、想起説からイデア論まで、ということになるだろうか。プラトン曰く、イデア界という別世界があり、魂もその世界からやってくる。しかし、現世界において肉体に宿った魂は、イデア界にいたときのこと一時的に忘れてしまっているのである。だが、現世界での魂は少しずつ、イデア界にいたときにイデアに触れていたことを思い出していく(それが学習という過程なのだ)。魂はアプリオリに学習する内容を身に着けている、ということがここでは前提とされる。学習とは新しいことを覚えることではなく、思い出すことなのである。例えば、我々は身長が違う二人の人物が並んだとき「どちらが背が高いか」という判断を即座におこなえる。このとき、我々は身長の「高さ」というイデアを認識しているからこそ、そのような判断を行えるのである。しかし、そのイデアを認識する方法を我々はどこから学んだのであろうか? それを証明することはできない。そうであるならば生得的にその認識力を授かっていなければ、おかしいではないか!





 説明すれば説明するほど、第七次元宇宙にアセンションしてしまいそうなのだが、ここでソクラテス(プラトン)が言う「イデア」という考え方は大変に面白い、と思うのであった。実際のところ、「イデアってなんですか? 」と訊ねられたら、ちゃんと説明できる自信はないけれども、ここでは認識の根源となる本質のようなものがイデアと呼ばれているのであろう、と思う。



あるものよりもより大きい場合にはすべて、他ならぬ『大』(のイデア)によって大きい(と判断される)のであり、この『大』がより大きいことの原因である。



 上に引用した箇所(括弧内は私による補足)を読んで、頭がモジャモジャの脳科学者の人が「イデア論はクオリアなんですよ」とかなんとか言う根拠のようなものがつかめた気がする。





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ヴィルヘルム・ディルタイ『近代美学史――近代美学の三期と現代美学の課題』

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近代美学史―近代美学の三期と現代美学の課題 (岩波文庫 青 637-3)
ディルタイ
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(当ブログはアマゾン・アソシエイトで小銭を稼いでいるブログです)「美学」と言われても何を学問する学問なのであるか、さっぱり分かっていないのであるが、ディルタイの名前はちょいちょいとアドルノ関連の本や、イコノロジー関連の本でも目にしていたので読んでみる。古い訳なので少し読みにくく、そのせいで読み飛ばしてしまった箇所も多かったのだが、基本的には面白く読む。





 ディルタイはこの本のなかで、近代美学史におけるライプニッツの重要性について説いている。「節度と秩序とに適った運動には夫々秩序のもつ快さがある」とライプニッツは言う。簡単に言ってしまうと、自然の秩序に適うもの → 良いもの、という原理である。この原理のもとに唯理主義美学、というものが打ち立てられた。これは自然の秩序がどのように形成されるのか、を解明することによって、良いものとは何か、を解明する美学であったらしい。十八世紀のレオンハルト・オイラーという人は『音楽の新理論に就いて』という著作において、以下のように記述をおこなっている。



二つ乃至それ以上の音は、その同時に現れる振動の包蔵する数の比例の把握された時に意に適ふ。之に反して若し何等の秩序も感ぜられないか、或は当然耳に入る筈の秩序が突然中断される時、そこに音に対する不快が生ずる。



 以上のような秩序に対しての説明付けは、音楽というジャンルに限った話ではなく、絵画でも、彫刻でも行われたそうである。個人的には、このように説明付けをしようという動機に対して興味を抱いてしまう。十八世紀といえば、百科全書派の活動も同時期の出来事だが、以上の事柄からはなにか「人間の知によって、世界をすべて説明してみせるぞ(それは可能だ!)」という理性に対しての絶対的な信頼、というか誇大妄想染みた感覚を感じ取ってしまうからだ。





 また、これを読みながら二〇世紀になって現れた「調和を目指さず、不調和を目指す芸術運動」のインパクトについても考えさせられた。音楽に限って言えば、もはや我々の耳は、協和音も不協和音も同等に聴くことのできる、相対化された状態にある。シェーンベルクも、バッハも、同じ音楽として聴かれる耳、それが二一世紀の耳である、ということができるだろう。このような状況のなかでは、それまでバッハしか聴いていなかった人が、突然シェーンベルクに出会った、としてもそのとき感じるインパクトの大きさは、必然的に二〇世紀初頭にシェーンベルクの音楽に出会った者のものとは違ったものであろう。当たり前の話だが。





 知識として「この音楽は、それまでの秩序を破壊した」と学ぶことはできるが、破壊された瞬間のインパクトとは後々の人は知ることはできないだろう。ただ、破壊される以前の秩序について学ぶことによって、多少は破壊された瞬間の人々に近づくことができるかもしれない。そのような想像的追体験をおこなうために美学史について知ることも、無駄なことではないのかな、と思ったりもした。





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