ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #5

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公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
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 本日は第五章「公共性の社会的構造変化」について。後半戦の始まりでございますが、いきなりネガティヴな情報からいきますと、この本正直言って中盤から後半が結構読んでいてつまららない。『公共性の構造転換』といえば「コーヒー・ショップで……」云々といった第二章でのお話ばかりが引き合いに出されている、という印象がありますが、それも確かに頷けるところです。といいつつも、言っている内容については、そこまでつまらないというわけではありません。抽象的な話が続くので退屈なのですが、そこそこ面白いですよ。余談はこれぐらいにして第一六節「公共圏と私的領域との交錯傾向」に入っていきましょう。





 何度か繰り返しておりますが、この論文を大変親切設計な感じで書いたハーバーマス。彼は、この節のはじめでこれまで分析されてきた市民的公共圏の変容について整理しています。うーん、マメですねえ。っていうか、前の章があんまり上手くまとまっていない感じがするので、必然だったのかもしれませんが。ここではハーバーマスによる整理を、もっとザックリやっちゃいましょう。まず、市民的公共性が公権力から離れ、自律的な「社会」を作る。このとき、国家という公権力は、社会の基盤にそびえ立つものにすぎません。言うなれば、小さな政府って感じなんですかね。これは第三章に対応しましょうか。しかし、一九世紀後半になるとだんだんと公権力がまた力を強くしていく。それどころか、今度は市民的公共性事態が公権力のような「権威」を帯び始めていくのでした。これは第四章でなされたお話です。そして、このとき、この節のタイトルである「公共圏と私的領域との交錯傾向」という現象をハーバーマスは認めるのでした。



……民間人の交渉過程に公権力がおこなう干渉は、間接には民間人自身の生活圏から発する衝迫を媒介するものなのである。干渉主義というものは、民間圏内だけではもう決着しきれなくなった利害衝突を政治の場面へ移し変えることから生ずる。(P.198)


 で、この例としてハーバーマスは、一八七三年にはじまる大不況*1以来、自由貿易から保護貿易へと変化した各国の貿易政策などをとりあげています。結論として、市民的公共性は中立な存在であったのは、小規模な資本主義経済社会のレベルにおいてのみであり、資本主義経済が大規模になると全然そんな風に働かないし、なんらかの権力によって統合される必要がでてくるのです(P.200)。間の話をぶっ飛ばしてしまいますが、その一方で、逆に公権力が司っていたサービスなどを委譲されて商売を始める人々も出てきます(P.207)。このとき、私/公のどちらの性格も持ち、同時に、どちらにも分類できない新しい圏が生まれてくるのです。





 次の第一七節「社会圏と親密圏の両極分解」ですが(サクサク行きますよ)、今度はそういった国家と社会の相互浸透が高まっていくにつれて、「家族」という社会の単位はどのように変化していったのか、についてです。思い出して欲しいのですが、かつては「家族」という単位は即ち、経済の最小単位でありました。しかし、市民的公共性の成立以降、経済の単位は市場へと移されます。これは、労働というものが私的な領域から公的な領域へと移行したことと同義でしょう。経済活動がますます大きく発展していくにつれてこの公的な性格は増大していきます。労働がどんどん、家族から離れていく、そのとき、家族には何が残されるのか? その結果として、家族はますます内部へと引きこもることになりました。





 ただし、この家族の「引きこもり」についてですが、単純に、家族が内部にこもって昔より仲良くなった、という風に解釈することはできません。「昔は良かった」論の一種として、「昔の家族はもっと温かかった」などというのがありますが、ハーバーマスの分析もこれに則するかのようです。つまり、内部へと引きこもりつつ、家族の空洞化は進んでいったのです。親密な内面性はどんどん乾いたものとなっていく……とでも言えましょうか。この原因に、ハーバーマスは「個々の家族成員はますます高度に、家庭外の権威によって――社会によって――直接に社会化されるようになる(P.212)」ことを掲げています。また、かつてはサロンなどで交流していた個々の家族も、そもそもサロンという場所がなくなってしまい、交流が生まれなくなってしまう。家族の引きこもり傾向は、家族の都市化とも繋がっているのです。





 このようにして、家族という単位の機能は弱体化します。そのとき、個人はどうなるのか? これに答えるのが、第一八節「文化を論議する公衆から文化を消費する公衆へ」になりましょう。第一七節の最後でも触れられておりますが、そこでは個人がレジャーという擬個人的な営みに参与することによって、家族の弱体化によって失ったものを補填されたつもりになる、というような話が展開されます(なぜレジャーが『擬個人的』なのか、なぜ『補填されたつもり』なのか、については後述します)。「今日、自立化した職業の圏に対してレジャー領域として区切られているものは、かつて市民的家庭の親密領域の中で完熟した主観性が関心の的にしていた文芸的公共性の空間を傾向的に占めるものである(P.215)」。なんか飛躍してる感じがしないでもないですが、次にいきましょう(あと、なんかこの第一七節あたりってちょっと平凡ですよね、今読むと)。





 ちょっとここで第二章に出てきました「文芸的公共性」について思い出してください。これは、サロンやクラブや読書会において形成された論議する公衆によって形成された公共圏でありました。この集いによって、フマニテートという概念が成長し、また、ここで行われた論議は政治性を帯びていた、というお話です。この文芸的公共性についても、家族の空洞化によって失われていきます。そして、その代わりに「レジャー行動(文化消費)」が台頭していく(ハーバーマスの説明によれば、文芸的公共性の発展系に、レジャー行動がある、となりますが)。この文化消費は、文芸的公共性と違って、一切の政治性を持ちません。消費ですからね。消費者は対価を払って商品を購入し、それを楽しむ。これだけです。





 この変化をなぜハーバーマスが取り上げているのかというと、その消費行動が即ち、市場が私的な領域のなかにまで入ってきちゃってることを意味する! この点を強調したかったのだと思います。文化消費以前は、お金を稼ぐための実業の領域と、一緒にコーヒー飲んだり、本読んだりしながら議論しあってた公衆としての領域は分離しており、後者のほうで「私人相互の間の公共的意思疎通(P.216)」が形成されていたのですが、文化消費になるとその分離もなくなって、市場という場に一面化されてしまう。もちろん、同じ趣味を持ってる人たちも世の中にはたくさんいるでしょうから、集まりはできるでしょう。しかし、それは結局個人の自己充足に留まるため、連帯は生まれないのだ、とハーバーマスは言っています(前述の『補填されたつもり』)。さらに、個人的な営みとしての消費も、実は市場に参与する活動なので全然個人的じゃないわけです(『擬個人的』)。



商品交換と社会的労働の圏を支配している市場の法則が、公衆としての私人のみに保留されていた圏内にまで侵入してくるとすれば、論議は傾向的には消費へ転化し、こうして公共的コミュニケーションの連関は、どれほど画一化されたものにせよ、孤立化された受容行為へと崩壊していく。(P.217)



 ほとんどマルクスの疎外論のようですが、上記で引用した部分が第一八節の後半部分に繋がっていきます。この後半部分、結構長いんですが、一言でまとめちゃうと「政治的な議論もまた、消費行動になっちゃった!」ってことになります。新聞もゴシップ記事など満載のイエロー・ペーパーばっかり売れて、マス・メディアは心理的な硬直化を生む側面ばかりが強調されている(そこには公共圏にバカな人が増えてきた理由もあるんですが)。この点についてハーバーマスは大変批判的なのですが、これまでの議論の流れからすれば、彼がお怒りになるのも、もっともなところである、と言えるかもしれません。なんかフランクフルト学派っぽいぞ!





 第一九節「基本図式の消滅 市民的公共性の崩壊の発展経路」は、これまでの話(市民的公共性の崩壊の過程)を整理して「で、社会はどうなったの?」というお話です。これもはっきり言って一言でまとまっちゃいますので、一言で済ましちゃいますね――「連帯もねーし、理念もねーから、なんだかわけわかんなくなっちゃった!」これです。法律を作る段階においても「いまや法規範の概念そのものも実証主義的に、普遍性と真理性の徴表を放棄していくことになる(P.236)」んです。カントの時代は「理性イズ普遍! 理性イズ真理!」と声高に叫ぶことができましょう。絶対王政だったら「俺イズ普遍! 俺イズ真理!」ですし、教会が支配的だったら「神イズ普遍! 神イズ真理!」と言うことができます。しかし、市民的公共性が崩壊した後は誰にも「何をもって普遍とするのか、真理とするのか」という共通見解を出すことができなくなってしまったのです(だって、そういう共通基盤がねーんだもん)。





 以上が第五章のマトメになります。テンションが上がらないので、この回はブライアン・イーノとデヴィッド・バーンの『My Life In The Bush Of Ghosts』を聴きながら書きました。絶対零度のファンクネスが魂に突き刺さりました。



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*1:そんなのあったんですか? って感じですが……





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ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #4

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公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
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 本日は第四章「市民的公共性 イデーとイデオロギー」について見てまいりましょう。この章は社会史の分析よりかは、思想史の分析に比重が置かれておりますので、これまでよりも若干堅苦しい感じがしますが(読んでいても読んだことのない哲学者の名前がいっぱい出てきて、ちょっとキツい……)お付き合いくださいませ。とりあえず、章のはじまりである第十二節に「この章ではこういう話をしますよ」というアナウンスがありますのでまるごと引用しておきます。


市民的公共性の機能の自己理解は、「公論」という論題の中で結晶した。もとより、これが一八世紀後期に明確な意義をうるまでにたどったその前史は長く、今までのところその大筋が見通せるにすぎない。それでもわれわれはこの前史を市民的公共性の理念への導入として扱い(第一二節)、この理念がカントの法理論において古典的に表明された(第一三節)後で、ヘーゲルとマルクスによってその問題性が追及され(第一四節)、そして一九世紀中頃の自由主義の政治理論においてイデーとイデオロギーの相反並存を告白せざるをえなくなる経緯(第一六節*1)を述べることにする。(P.128)



 それでは第一二節に入りますが、この節は「公論(public opinion――opinion publique――〓ffentliche Meinung) 論点の前史」というタイトルがついています。ここで分析の俎上にあがっているのは、タイトルにある「公論」という言葉の意味の(英独仏における)変遷です。ハーバーマスは今日「opinion」という言葉が、単に個人的な「意見」を示す言葉ではなく、社会的な性格を持っていることを確認しています。「しかたがってその社会的性格を示唆するすべての修飾語は、冗語として割愛できるほどである(P.129)」。しかし、もちろんそのような意味が簡単に成立したわけではないのですね。イギリスでは、ホッブズ → ロックという流れよって、重要な意味の分離が生まれ……みたいな話が書かれておりますが、このあたりの細かいことは第一二節を実際にお読みください。大雑把に言っておくと、もともとは単に私的な領域にあった意見から、私的な性格が離れていき、公的な性格が与えられていったか、という話です。イギリスの場合、ホッブズがconscience(良心・意識)とopinionという二つの言葉を同一視したことによって、個々の意見が良心によって媒介された、とか書いてあります。





 しかし、ここで名前をあげられているホッブズは市民的公共性の側に立つ人ではありません。『リヴァイアサン』(読んでませんが)にあるように人間の自然状態は「ワスが! ワスが!」の万人の万人による闘争であるため、君主の絶対的権力によって統制されなければ、国なんかまとまらんだろう……JK、とか言っていた人ですから。で、それに対抗するのがカントだった! というお話が第一三節「政治と道徳の媒介原理としての公開性」ではなされます。





 「いや、やっぱり絶対的な権力とか暴力による支配じゃなくてさ、道徳によって政治がおこなわれなくちゃ、世界全体はよくならんわけですよ。ほら、道徳に則したことってみんなにとって良いことでしょ?」ということをカントは言います。そこで道徳と政治をつなげる媒介としてカントは「公開性」を不可欠のものとしてみなすのですね。特定の人たちだけが参加できるクローズドな政治じゃなくて、みんなで参加できるオープンな政治が現実になれば、政治と道徳はつながるのだ、と。これと同時にカントは啓蒙もまた重要視しましたが、以上を考えればそのカントの主張は当然のものとして捉えられましょう。いくら政治がオープンになってても、そこに参加する市民がとんでもないアホなら、社会が良いほうに向かわないですもんね。このとき、カントは啓蒙もまた公開性を基盤としておこなわなければならない、と言っています。というのも、その方が効率が良いし、閉じてるとどこかに偏りが生まれてしまう、と彼は考えたからです。自由な公開性のなかで啓蒙がおこわなれることで、啓蒙もまたブラッシュアップされるだろう、とカントは考えたのでした。





 ただし「啓蒙によって市民みんなが賢くなって、世界のために良いことをしようという道徳を身に着ければ、政治もよくなる!」というようなカントの考えは、いかにもユートピア的なものだと言えましょう。第一三節の終わりでは、このカントに代表される市民的公共性の理念がヘーゲルによってイデオロギーとして弾劾されることに触れられています。そして、第一四節「公共性の弁証法によせて ――ヘーゲルとマルクス――』に入っていくわけです。カントが夢想した市民的公共性は、理性とほぼ同義でしたが、ヘーゲルはそのようには見なかったのです。「公衆として集合した私人たちの公論は、その統一と真理性を実現するための基盤を、もはや保有していない。それはいまや、多数者の主観的私念という水準へ転落したのである(P.161)」。





 私的な利害関心が、公共へと入り込んでいく状況を、ハーバーマスは「市民社会の解体現象」と呼んでいます(P.162)。ヘーゲルが危惧していたのは、この解体が進むにつれて、国家に対する私意や、暴力が生まれてしまうことでした。これでは時代を逆行する結果となっていまいます。この逆行を防ぐために、ヘーゲルが提案したのは公安政策や職能団体(同業組合)によって、マジョリティによる私的な利害関心の暴走を抑止することでした。こういった抑止機能をもつ集団(≒政治権力)によって、市民的公共性にフィードバックが与えられる。この関係性を弁証法的な関係と呼ぶことができましょう。これに対して、ハーバーマスは「このように制限された私生活圏に所属する公共性の概念も、もはや自由主義的なものではありえなくなる(同)」と言っています。





 市民的な公共性に対して政治権力をあてることを提案したヘーゲルの考えは、マルクスにとっても「無力な復古的な試みにすぎない(P.165)」と思われるものでした。ここからマルクスの歴史観を考えれば、私的な利害関心が一旦市民的公共性に入り込んでしまったならば、その一切を排除することはできないし、元通りに戻すこともできない、という付可逆性を認められましょう。市民的公共性はそのようなものとして、成熟してしまったのです。しかし、このようにヘーゲルを批判したマルクスの市民的公共性批判の内容といえば、ほとんどヘーゲルと変わらないように思えます。「マルクスは公論を虚偽意識として弾劾する。それによると、公論はブルジョア的階級利害の仮面としての真の性格を、自分自身の眼から秘匿しているのである(P.166)」。市民的な公共性は理念として平等を謳いながら、実はブルジョア階級の優位に物事が決められており、不平等である。そして、その不平等はブルショアに認識されておらず、彼らは平等だと信じきっていることをマルクスは批判していました。





 しかし、選挙法が改革されることなどによって、既成の不平等なブルジョワ階級による市民的公共性以外からも、政治的な活動の場に参入することができるようになったことをマルクスは見ていました。これによって、ますます公共の場には私的な利害関心に入り込んでいきます。それどころか「私人相互の間の交渉の一般的規則は、こうして公共の関心事となった(P.169)」のです。この変化をハーバーマスはこの著作のタイトルでもある「公共性の構造転換」と呼んでいるのです。マルクスの主張によれば、このような転換(公共の場に、私的な利害関心が満ちる)によって、社会のなかに内在的な弁証法を見出したのですね。そしてマルクスは、この反対モデルとして、社会主義的帰結を見出したのです。そこでの社会の意思決定は「もはや私有財産にもとづくのではなく、そもそももはや私生活圏内にではなく、公共圏そのものの中に根拠をもつものでなければならない(P.171)」。このモデルが共産主義の骨子となっているのは言うまでもないでしょう(でも、これってカントの夢想から進歩してなくねーか?)。





 でも、現実はマルクスが言ったようには全然ならなかったのですね。前述したように選挙権が拡大されたりなんかして、公共性は拡大されはしたのですが、やはり金持ち優位なヒエラルキーは解消されず、公衆が公共性によって支配されるという目標は成し遂げられなかったのです。このような現実に対して自由主義者たちはどのような弁護をおこなったのか、といいうのが第一五節「自由主義理論にあらわれた公共性の両価的把握 ――ジョン・ステュアート・ミルとアレクシス・ド・トックヴィル――」の内容になります。





 しかし、これらの弁護は、市民的公共性が平等と繋がる、といった話ではなく、むしろ、保守的なものだったのです。ここでは「政治的機能をもつ公共性は、もはや権力解消の理念をかかげず、むしろ権力分配という目的に奉仕すべきである」というのがミルやトックヴィルの主張ですが、ハーバーマスはこのような主張を「こうして公論は、単なる暴力制御にすぎなくなる(P.179)」と評価しております。それどころか、選挙権が拡大したことによって、バカが増えて、論議する公衆の自己決定の質が低下したんで、もうそろそろ選挙権をバラ撒くのやめましょうよ、的なことまで言うのです。ミルやトックヴィルが公然と「制限されたエリーティズム」を主張しているところは大変に面白いです(これらは近年の宮台真司の発言を思い起こさせますね)。こんな風にして市民的公共性の基本構図は崩壊しちゃうのでした。





 以上が第四章のマトメになります。だんだんやる気がなくなってきたぜ!




*1:誤訳? 第四章は第一五節までしかないが、これは第一六節まで語られる、という意味でしょうか。英訳版を確認したらこのような括弧書きはありませんでした。





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菊地成孔 大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』

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 菊地&大谷名義による前著『M/D』は読んでいませんが*1、こちらの新刊『アフロ・ディズニー』はなかなか興味深く読みました。しかし、発売から一ヶ月ほど経過したというのに本の感想なり、評判なりというものを一切目にしないのはどういうことでしょうか。菊地成孔って「今をときめく話題のアーティスト」じゃなかったのか? とはいえ、なんとなくその理由も推察できようというものです。というのも、慶応大学で行われた講義を元にした講義録、という形は、数年前にかなり売れたらしい『東京大学のアルバート・アイラー』と同じですが、『アフロ・ディズニー』では『東大アイラー』で見られたようなギャグ/脱線要素は一切カット。ホンモノの学術的講義録のような文体は、一般的な読者層*2から遠ざけられるのもモットモも言った感じであります。笑える要素はかろうじて、著者二人による後書のみ! というちょっとハードコアな内容。




 しかしながら、この本で語られているいくつかのトピックは、音楽批評、あるいは映画批評に興味を持つ人であれば、必見のものであると思います。それらがあまりに多岐に渡っているため、すべてをフォローしているとは言えませんが、個人的に強く興味をもったモノをいくつかあげておくならば「視覚と聴覚との分断」、「二〇世紀カルチャーの幼児性」がありました*3。精神分析のジャーゴンを用いて、分析をおこなっていく講義は、胡散臭さをプンプン撒き散らしながら「これまで誰も注目してこなかったトピックを掘り出して見せた」という点だけでも評価に値しましょう。



グラスがテーブルから落ちて割れる、ということが目の前で起こった際、もしそれから音が聞こえなかったとしたら、われわれはほとんど白昼夢を見ているかのように思うでしょう。そこでクラッシュ音を脳内で充当させ、それで納得する。ということは、おそらくしないと思います。逆に、ある衝撃音が聴こえ、しかしその原因が視覚的に見えなかった場合、われわれはすぐにそれがどのような原因に結びついているのかを探し、見えなかったその運動を想像力でもって補完して、自身を納得させます。(P.115)



 「目には瞼があり、視覚情報は任意に遮断することは可能だが、耳には瞼がない」という(非常にシンプルだが、意外にハッとさせられる)指摘からも感じられるように、この議論では視覚に対する聴覚の優位が指摘されているように思います。なんか構造主義の概説本あたりで目にした記憶がうっすら蘇ってくる様な話ですが、聴衆論/観客論的には大変興味深い。最近「音楽だけを聴くよりも、音楽と映像とを一緒に視聴できる映画を観ている時のほうが、集中している気がする。これはアドルノが警鐘を鳴らしていた分散的聴取とは真逆の現象ではなかろうか」と考えたことを思い出してしまいました。





 映像論的には、モンタージュ技法は、世界に含まれたノイズ性をリダクションし、物語的なモノへと編集してしまう、ということが説かれます。これもナルホド! というお話でした。コレに対して、音楽が映像に与える効果とは、映像に対してリアリティを与えるものである、と。ここから映像と音楽のシンクロ/非シンクロ性について、ディズニーやゴダールが語られますが、この視点も大変面白いです。この視点から監督、クリント・イーストウッドも語られてしかるべきだと個人的には思っています。





 なお『アフロ・ディズニー』は講義の前半部を収録したモノとなっており、後半部分の予告として豪華なゲスト陣の名前があがっています。後半も実に楽しみになってきました。




*1:マイルス・デイヴィス論……とフォーカスを絞られるとあまり食指が動かない……というか


*2:自分で言いながら、よくわからない線引きですが


*3:この他に議論の骨子となる歴史観として『東大アイラー』でも触れられている「音楽理論史」がありました。こちらは『東大アイラー』のときよりも説明が洗練されているように思えました





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シベリウスの交響曲第6番

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シベリウス:交響曲第6番&7番、タピオラ
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 先日の『N響アワー』*1で放送されていたのを聴いて「これは……なんだか素晴らしい作品ではないか!」と思ったのが、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの交響曲第6番でした。





 マーラーやブルックナー以上にハードコアなファンが多いこの作曲家のファンは口々に「シベリウスは後期が断然に素晴らしい」と言っているのが、完全に理解できた気がします。触れた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど繊細な美しさをもつ第一楽章冒頭からして、気持ちがどこかに持っていかれてしまいます。



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 いきなりクライマックス直前のような緊張感が呈示されますが、この緊張感はなかなか最高地点まで達することなく、じわじわと適度な快感ポイントを漂います。いつ、絶頂はやってくるのか……!と期待が持続するのですが、いつのまにか次の楽想に移ってしまう。



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 つづく、第二楽章も似たような感じで進行していきます。音楽は徐々に高まっていくのですが、劇的な絶頂感は訪れることがない。独特な構成に魅了されると、シベリウスの音楽に病みつきになっていくのでしょう。しかし、これは「どこで終わった/終わるのか分からない」という分かりにくさを生むものでもあります。



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 第三楽章にきて、ドイツ音楽のような劇的な絶頂が訪れる感じでしょうか。「ズズッ、ズズッ」と刻まれるリズムが楽章全体を支配しているのですが、時折、金管楽器が長いクレッシェンドで入ってきて、最後にフォルテッシモで〆るところを聴くと「ああ、シベリウスの音楽ってこんな感じだよなぁ」と思います。



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 第四楽章。この美しい作品が発表されたのは1923年、時代区分的にはこれもバリバリの「20世紀音楽」なのですね。パリやヴィーンといった音楽文化の中心地では、とっくに無調や≪春の祭典≫スキャンダルが起こっており、前衛がバリバリと活躍していた頃に書かれている。それを考えれば、シベリウスがこのような調性作品を書いたことは「時代遅れ」だったかもしれません。





 しかし、シベリウスも時代の流れとは無関係に作曲活動をおこなっていたわけではありません。これ以前に書かれた交響曲第4番(1911年初演)では、かなり調性感が希薄で晦渋な音楽を書いていますし、そういった音楽文化の中心への意識はあっただろう、と推測できます。だが、シベリウスは、第6番のような「美しさ」を選択した。それは調性という過去へ踏みとどまる、という反動的なものではなく、それが自分の音楽である、という選択だったのだ、と考えると、ますます感慨深いものがあります。




*1:司会が池辺先生から西村朗に代わってから、あまり観なくなってしまいました……





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クリント・イーストウッド監督作品『グラン・トリノ』(再見)

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 クリント・イーストウッドの最新作をDVDで観なおしました。劇場で観たときにうっかり見逃していた発見がいろいろあって面白かったです。たとえば、イーストウッドが真っ暗な部屋でひとり、一粒の涙を流すシーンとか(画面が暗すぎて気がつかなかった)。最愛の妻の葬式ですら流さなかった涙があのシーンで流される、というのはちょっと過剰な演出なのかもしれないけれど、やはり胸が熱くなりますね。あそこからイーストウッドは、他者に救済をもたらすための壮絶な受難へと突き進んでいくわけですが、この自己犠牲は晩年のトルストイの思想とも共鳴するかのように思われました。教会で告白を行った後に、イーストウッドが神父に対して「俺の心は安らいでいる」という一言を返すのだけれども、自らが犠牲になるという決意が彼の魂に安息を与えているのだ、と思うと非常に感慨深いものがあります。「恋とは自己犠牲である。これは偶然の依存しない唯一の至福である」(トルストイ)。





 モン族の祈祷師から予言めいた言葉を与えられるシーンは、劇場で観たときからすごく気になっています。今になってもうまく言葉に言い表せないのですが、モン族の祈祷師から与えられた言葉が、イーストウッドの胸にビシビシと突き刺さっていくところに、啓示のような効果を感じます。息子であったり、隣人であったり、イーストウッドと関わりを持つ登場人物は、それぞれ多様に彼を理解している。息子であれば「堅物で、愛のない人間」、隣人の少女であれば「堅物だが、正義感に溢れた強い人間」という風に。しかし、あのモン族の祈祷師はまったく違った立ち位置から、イーストウッドへと言葉を授けるのですね。それは言ってみれば、超越的な視点、もう少し言えば、神の視点、ということができましょう。





 その前のシーンでは、イーストウッドが読んでいる新聞の占いコーナーに「今日が人生の岐路になるかも」的なことが書かれている。これを彼は「くだらない!」と切り捨てるのですが、これがちゃんと暗示になっている。そして、これがモン族の祈祷師による啓示へと繋がっていくのも素晴らしいのですが、この暗示と啓示がその後の物語を支配する……とは言わないまでも、物語の意味を読み取る際の重要なコードとして機能していくように思われます。暗示的な占いもまた、超越的な場所からイーストウッドに与えられる言葉であります。以上のことから、キリスト教的な神の存在を意識せざるを得ない映画であると思いました。





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JIM O’ROURKE/The Visitor

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 ジム・オルークの新譜を聴きました。これはなかなかすごいですよ……。聴く前に彼への最近のインタビュー記事*1に目を通したのですが、この『The Visitor』という作品は約三年の期間で、完全に自分ひとりで録音したものだそうです。なんというDIY精神! そういえば、谷啓も同じように一人多重録音でビッグバンドのレコードを出していた気がしますが、こういうのって結構やりたがる人がいるんでしょうか……?(かく言う私も、一人多重録音でオーケストラ作品を作りたい、っていう一生かなうはずがない夢を抱く者でありますが)





 制作方法だけでなく、内容の方ももちろん素晴らしいのでありました。収録されているのは、一曲四〇分弱というプログレみたいな感じなのですが、静謐な冒頭からシンシンと降り積もる雪のようにゆっくりと盛り上がっていく構成や、ポリリズムの揺らぎが美しい白昼夢でも見るかのような具合なのでした。大変緻密な音楽にも関わらず、とてもリラックスした雰囲気が感じられるのも良いです。また、ここでのジム・オルークのギター・プレイは、ジョン・フェイヒーを思い起こさせるところがありますね。





 CDのジャケットには「スピーカーで聴いてください、爆音で(please listen on speakers, loud)」との文言が付記されておりますが、小さい音量で聴いても良い感じです。ヨ・ラ・テンゴの新譜でも思いましたが、こういう隣の部屋に住んでいる人が、趣味で作ったかのような親密な肌触りの音楽って最近は好きです。






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ポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』

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 ハーバーマス『公共性の構造転換』のマトメに対するモチベーションが絶賛低下中なので『クルーグマン教授の経済入門』を読みました。昨年、ノーベル経済学賞を受賞した大変偉い先生の本が、山形浩生による野崎孝訳サリンジャー風の翻訳でサクッと読める、という超絶的な良書でした。これはマジで超面白かったです。あとがきで訳者がこんな風に書いておられます――「ぼくはこの本を読んで、目からうろこが山ほど落ちた。そうなのぉ!? 生産性って、どうして上がったり下がったりするのかわかってないの!? インフレって経済大崩壊への序曲じゃないわけ!? G7国際サミットって、そんなのどうでもいい代物なの?*1」。この目からウロコ体験は私にもありました。こんなに「え! そうなんだ!」って世界の見方が変わる体験を与えてくれる本ってなかなかないと思います。




 この本で分析の対象にあがっているのは、戦後から90年代半ばのアメリカ経済ついてなので、もちろん現在の状況とはかなり異なっているし、また日本の状況とも違う。でも、理論的な枠組みみたいなものは変わらないし、データを見せられると「うん、そんな数字なら、そうなるわな」と納得させられます。マスメディアによって煽られる出来事と、その出来事がマクロ経済のなかでどれだけの影響力を持つ変数となるのか、この落差がとても面白いと思いました。メディアが煽る社会や技術の変化は、もちろん、それぞれの業界にとっては、重要な物事もあるんだろうけれど(クラウド、とかさ)、そんなので全体が抜本的に変わって、暮らしが良くなったり悪くなったりするわけじゃない、ってことにも今更ながら気づけるし、何がバズワードなのか判断する指針作りもできるような気がしました。今まで私が知らないでいすぎたんだろうけれど*2、オススメしたいです。




*1:以下もいろいろ続くが略


*2:経済学部卒の人はこういうことを勉強するんですかね





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松輪サバ

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 三浦半島、松輪のブランド魚「松輪サバ」を食べました。ものすごい美味しかったです。食べたのは、〆サバと炙りサバの二種。とくに炙りのほうは、脂が染み出してきていて多幸感溢れる味でした。旬の魚っておいしいねえ……。


松輪の魚が旨い!エナ・ヴィレッヂ


 食べたお店はこちら↑ この後、夜に横浜の中華街に行って、お腹がパンパンになるまで食べまくっていたのですが、そのお店で観ていたテレビではベッキーが松輪サバを食べている映像が流れました。





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廣松渉『新哲学入門』

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 宮台真司に多大な影響を与えたという伝説的な思想家、廣松渉の『新哲学入門』を読みましたが、半分ぐらい読んで投げました(つまり読んでません)。これ、難しいよ……。あとがきに「著者は、新書という制約を自覚するにつけ、なるべく簡略にしかもわかりやすく書こうと心がけましたが、程度を下げることはしなかったつもりです」とありますが、ちょっと私には程度が高かったかもしれない……というか、ちゃんと理解するまでじっくりと読む根気が足りませんでした。マルクス研究者としても名高い廣松先生ですが、私が以前『資本論』を半分で挫折したことを考えると、自分のマルクスとの相性の悪さを感じてしまわなくもないです(アドルノとかルカーチとかベンヤミンとかは読めたのだけれど……)。





 とはいえ、まったく得るところがなかったわけでもありませんでした。とくに緒論ではこの手の本が常套句としているように「哲学ってなんだ? なんのための学問なんだ?」という問いへの廣松先生なりの解答がなされていて、これは大変感銘を受けました。廣松先生は、我々が物事を認識したり、思考したりするその根本的な枠組・基盤を「ヒュポダイム」と呼んでいます。さしあたり、哲学とはそういうヒュポダイムを批判する性格と呼んでさしつかえない、と先生は書いていらっしゃいます。これは「なるほど!」と思いました。これまで散々哲学関連の本に手を出してきましたが「昔の人は、なんのためにこんなことを考えたんだろうな」と思わなくもなかったので。





 そんなわけで「○○は××みたいなことを言っていた」、「その後の△△は……」と言ったような哲学史的な話は一切登場せず、本書は近代哲学のヒュポダイムをどういう風に批判すれば良いのか(それを乗り越えることで何が見えるのか)、といった哲学的な営みを紹介するもの、と言えましょう。廣松先生と一緒に考えようよ! 的な。なので、ちゃんと読めばすごく面白そうです。暇な高校生とか大学生とかが、考えながら読むと良いのでは。逆に私みたいに「へぇ~、あの人ってこういうことを言ってたんだぁ~」ということを手っ取り早く知りたい方にはオススメできません。ああ、でも廣松渉入門には良いのかもしれない。





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ホルヘ・ルイス・ボルヘス『続審問』

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続審問 (岩波文庫)
続審問 (岩波文庫)
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J.L. ボルヘス
岩波書店
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 ボルヘスの評論集『続審問』を読み終えました。これはむちゃくちゃに面白かったです。異端的な思想家・科学者・文学者への言及が満載で「へぇ……こんなおかしな人がいたのかぁ……」と大変ためになりました。小説と同じぐらい面白いのですが、彼の小説とこれらの評論は地続きで、書きたいことがブレていないので「小説と評論の面白さが変わらないことは当然だ」とも思います。超オススメ。





 この本のなかでボルヘスは、何度も時間・知識・夢といった彼の小説のテーマにもなっている事柄についても書いているのですが、それらを読んでいると「なぜ、ボルヘスはあんな迷宮的で、なんだかよくわからない小説をいっぱい書いていたのだろう……」ということを考える際のヒントがいくつももらえる気がしました。ちなみに収録されている『ジョン・ウィルキンズの分析言語』という文章は、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の冒頭で引用されていましたね。いくつかプラトンへの言及もあるのですが、個人的にはこの部分が「おお、ちゃんと何を言ってるのかがわかる!」と思えたのも嬉しかった。





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諸星大二郎『妖怪ハンター 天の巻』

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妖怪ハンター 天の巻 (集英社文庫)
諸星 大二郎
集英社
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 このところ集中的に読んでいた諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズですが、こちらの『天の巻』が一番面白かったです。生命の木、人類誕生の源と信じられていた「生命の木」をめぐる一大サーガ。飛行機事故から奇跡(奇跡的にではない)によって生還した兄妹も、後に主人公、稗田の協力者となっていくのですが、このあたりのキャラクター造詣も良かったです。とくに妹の方は、途中で超能力に目覚めてしまい、大活躍。年齢不詳の民俗学者×超能力少女(前髪パッツンの美少女)という組み合わせは、萌えるポイントまで押さえています。恐ろしいぜ……諸星大二郎……。





 こうして諸星大二郎の漫画を読んでいると、彼が書くストーリーは「神話を反復すること」によって成立していることに気がつきます。代表作である『暗黒神話』もそうですし、『妖怪ハンター』シリーズもそうです。現代において、神話のストーリーをなぞることによって、なにかが起きてしまう。これは神話を再生産するのと同時に、現実を神話に書き換えることでもあり、神話を現実に書き換えることでもあるでしょう。これによって、神話の世界と現実の世界とが地続きなものであることを錯覚させられるのですね。




 以前に『水の巻』をブログで取り上げた際に*1、諸星の仕事の比較対象として中上健次の名前を挙げましたが、むしろ、中上よりもフロイトの仕事に近いものがあるのかもしれません。ちょうどフロイトがモーセの物語を、ギリシャ悲劇の物語に読み替え、ユダヤ人という人種そのものを精神分析にかけてしまったように、諸星の仕事も日本人の無意識に潜む何かを解き明かすもののように思いました。






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ギュスターヴ・フローベール『紋切型辞典』

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紋切型辞典 (岩波文庫)
フローベール
岩波書店
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 フローベールの『紋切型辞典』を読み終えました。これは現在、ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』を精読しているところですが、それとちょっと関連しているかもしれない本でした。



ここに編まれたおよそ1000の項目は,衣服,飲食物や動植物に関するもの,礼儀作法の規範,身体と病気についての俗説,芸術家,歴史的人物の逸話と彼らの評価など,多岐にわたる.フローベール(1821-80)はその記述に様々な手法を駆使して,当時流布していた偏見や言葉の惰性,硬直した紋切型の表現を揶揄し,諷刺してみせた.



 以上は岩波書店のサイトから引用してきた解説ですが、この資料の重要性をハーバーマス的な用語で換言するならば、一九世紀の「市民的公共圏」で流通していた言葉が当初のなかに反映されている、という点において重要であるように思われます。とは言っても、私はそういう文化史の専門家ではないため、結局面白かった点といえば、フローベールの辛辣な皮肉や風刺なのですが。





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秋刀魚とキノコの土鍋炊き込みご飯

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R0010315


 超美味しかったです。





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Gruppo Di Improvvisazione Nuova Consonanza/1967-1975

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Nuova Consonanza
Nuova Consonanza
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Gruppo Di Improvvisazione Nuova Consonanza
Bella Casa (2007-12-11)
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 六〇・七〇年代のイタリアで活動していた即興音楽グループ、グルッポ・ディ・インプロヴィゼオ・ヌオーヴァ・コンソナツアについては以前にもこのブログで取り上げましたが*1、最近になってまた別な音源を買いました。いわゆる「音響派」のアブストラクトなサウンドを三〇年先取りするような即興音楽がここでも展開されているのですが、マトモな楽音が一切登場しない大変エレガントな作品が勢ぞろい。これはなかなか素晴らしいものであります。カールハインツ・シュトックハウゼンの初期の電子音楽作品を彷彿とさせる暴力的なアナログ・シンセサイザー対さまざまな楽器によるメタリックなノイズが、異様な緊張感のもとで響きあっているのを聴いていると背筋がピンとなりますね。以前に紹介した盤では、轟音系の演奏も収録されているのですが、こちらは大変抑制された演奏が多いです。






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ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #3

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公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
ユルゲン ハーバーマス
未来社
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 本日は第三章「公共性の政治的機能」について見ていきます。この章の内容は、タイトルどおりで「一七・一八世紀の社会において、市民的公共性はどのように政治的な機能を果たしていたか」、そして「どのようにしてそのような機能が可能となったのか」についての分析です。この章のはじまりである第八節「モデルケースとしてのイギリスにおける発展」では、ハーバーマスがヨーロッパでもっとも早く「政治的機能をもつ公共性(P.86)」が成立した国として評価しているイギリスの例がとりあげられています。すでに第二章で見たとおり、イギリス以外の国でも「文芸的公共性(フランスならサロン、ドイツでは読書サークル、といった人文的知識を持つ人々によるサークル。ここでは政治的な議論もおこなわれていた)」は発生していましたが、本格的に「公衆を参加させて争われる社会的葛藤*1(同)」はイギリスが初めてだった、とハーバーマスは言います。





 そして、その理由について「商業資本及び金融資本の貿易制限的利害関心」と「マニュファクチュア資本及び工業資本の拡張的利害関心」との間の対立が発端である、とハーバーマスは分析しています(P.87)。具体的に前者と後者がどのようなものであったのかはよくわからないのですが、お金を動かす人たちと、実際にモノを作る人たちの対立と言って良いでしょう。しかし、このような利害対立はすでにギルドが市場で強い権力を持っていた頃にもありました(既得権者であるギルドと、新たに市場に参入しようとする人々の間で)。このような意味で、十八世紀の始めに起こった前述の葛藤は過去の変奏に過ぎません。しかし、資本主義的な生産様式が貫徹されたこの頃は、影響範囲が大きく「選挙資格のない住民の中にまで党派の闘争が割りこむ(同)」ようになったのでした。





 また、このとき新聞産業も大きく社会に影響力を持つ存在へとなったこともハーバーマスは指摘しています(P.88-87)。ここでは、それ以前は、公権力のプロパガンダであったり、市民と市民をつなぐ媒介でしかなかった新聞が、今日的な「ジャーナリズム」として成立する過程が説明されます。このとき新聞は、国王、公権力、市民に次ぐ『第四身分』として社会に登場し、いわば「批判的機関」となるのです。第八節の後半部分(P.91-96)では、このような状況でのイギリス議会政治の状況について触れられていますが、このあたりは今日の日本の政治(というよりも、選挙のやり方や、市井の人々に対する訴え方)についても考えされる部分があり興味深かったです。





 さて第九節ですが、こちらは「大陸における諸変型」というタイトルがついています。文字通り、前節でイギリスの例をモデルとしたので、フランスやドイツではどうだったのだろうか? というお話です。結局のところ、議論の収斂していく先は一緒だと思いますので、ここは簡単に見るぐらいにしておきましょう。まず、フランスですがイギリスよりも王権の力が強かったため、市民が外野ではない政治的な領域で権力をはっきするのには、フランス革命を待たなくてはなりませんでした。しかし、この革命による急進的な変化(イギリスの場合は、漸進的な変化でした)によって、より一層市民的公共性の政治的機能は公衆に意識されたことをハーバーマスは強調しています(P.100)。




 つぎにドイツですが、ドイツの場合、フランスよりも長く身分的障壁が残っていたそうです*2。フランス革命の余波をうけてドイツでも議会が開かれたそうですが、それも尻つぼみな結果に終わり、そのせいで政治的な公衆は私的な集会のなかで結束していたようです。集まりが小規模なものだったがゆえに、論議する公衆としての意識形成も強く求められた……とハーバーマスは説明していますが、これは少し強引な気がしないでもないですね。




 第一〇節「私的自律の圏としての市民社会 私法と自由化された市場」です。この節の冒頭でハーバーマスは、これまで第三章でみてきた公衆-新聞-議会の制度的なつながりに視野を限っていれば、議論は抽象的なものになってしまう、と言っています*3。「それらの余論は、公共性が一八世紀をつうじて政治的機能を引きうけるようになるという事実を証拠だてることはできるが、その機能そのものの様式は、商品交易と社会的労働が国家の統制から大幅に解放されていくことになる市民社会の発展史の特有な局面から理解するよりほかはない(P.104)」のです。





 政治的に機能する市民的公共性を、ハーバーマスは市民社会がその要求に応ずる国家権力と媒介するための機関として位置づけます。そして、これが可能になったのは、傾向的に自由化された市場のおかげだと言っています。なぜでしょうか? 自由化された市場では、市場において互いの利害関心が働き、競争が起こることは先に触れました。このとき、市場という公共圏がはじめて「私有化」されたことをハーバーマスは強調しています。補足をしておきますと、ここでハーバーマスが言っている「私有化」とは「公共圏を誰かが独占すること」を意味しているわけではありません。あくまで「公のもの(公の権力によって統制された)」が、その反対側に位置することを意味しているのです。換言するならば「公的なもの」から「民間のもの」になることになるでしょうか。この市場の私有化によって、社会は商品の交換関係によって媒介されるようになります。それと同時に、商品所有者は自律を得るのです。





 そして、この過程は近代の私法(一応説明しておきますが、民法とか商法とかのことですね)の歴史にあらわれている、とハーバーマスは見ています。なぜなら、近代の私法が、自由な主体が、自由な意思表示によって、自由な契約を結ぶという性格を、契約の中に還元する法体系であったからなのでした。第一〇節の後半で、具体的に近代的私法の歴史がひもとかれているのですが、そこでは市場の活発化・複雑化という発展とともに、近代私法もまた複雑化・細分化しあう、互いにフィードバックしあう関係が見て取れます。弁証法的な関係、という言い方がこの場合正しいでしょうか? とにかく、この市場-私法の関係の合間の中で、市民の自由は身分から解放されていったのでした。このことは第一一節「市民的法治国家における公共性の矛盾をはらんだ制度化」の前半でも強調されます。





 この節のタイトルにある「公共性の矛盾」というのも、ここでの私法と市場(という公共性)の関係の間に存在しています。近代的私法とはまぎれもなく、市民的公共性からはぐくまれて来たものでした(その逆もまたいえるのですが、ここで『タマゴが先か、ニワトリが先か』という風に問うことは重要ではありません)。繰り返しになりますが、そのふたつによって、市民の自由は保障される。しかし、法律とはそもそも支配し、統制する機能をもつ制度だったのではないでしょうか? それが自由の保障をおこなうとは矛盾なんじゃないのか? というのがハーバーマスが指摘する矛盾なのです。





 しかし、ハーバーマスによれば、この矛盾は法律の性格が「誰かの意思によるもの」ではなく「普遍的な理性が働いたもの」という風に読み替えられることによって解消され、それどころか「典型的な市民的理念(P.112)」となるのでした。このとき、立法は「『権力』として構成されているけれども、それは政治的な意思の発動ではなく、理性的な合意の成果とみなされる(P.113)」のですね。これによって、市民的公共性の自由は敷衍されていき、理念的には万人がこの自由を享受できるようになります。しかし、実際にはその自由な公共性への参加には一定の基準が存在しました。例えば、経済力や教養といったものが依然として「政治的に機能する公共性への参加を判別する」ものさしになっていたのです(P.116)。





 ここで、このような形態について不完全な自由であるし、不完全な公共性である、という風に指摘することができましょう。そして実際に不完全でした。ですが、その不完全さは問題になることがありませんでした。なぜなら、そういった公共性から締め出されていた人の側では、そういったことが問題とみなされていなかったし、公共性のなかにいた人の側でも「そんなの当然じゃん」と思っていたからです。理性と自由とを声高に叫んでいたかのフランス革命でも「有権市民」と「無権市民」とを財産によって区別されていたのですから。また、資本主義社会においては、有能さと幸運さえあれば誰もが財産と教養を手に入れることができる(その機会は平等に分け与えられている)という原理が存在します(実際、そのような平等は今でも存在しないのですが)。この原理によって、政治的に機能する市民的公共性に金持ちしか参加できないという問題は隠蔽されてしまいます。





 以上が第三章のマトメになります。若干、息切れしてまいりました。次でようやく半分です。




*1:conflict


*2:このあたり、なんだか前章の説明と食い違う感じがしますが……


*3:自分でしたのに……





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YO LA TENGO/Popular Songs

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Popular Songs
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Yo La Tengo
Matador (2009-09-08)
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 本日はヨ・ラ・テンゴの新譜が届いたので聴きました。3年ぶりですか。前回のアルバムについては「どんなアルバムだったか忘れてしまったけれど、素晴らしかった(来日公演も良かったなぁ)」という感想だけが残っているのですが、今回のアルバムも素晴らしいです。マジで捨て曲なし! はっきり言って彼らの25年という長いキャリアのなかでも最高傑作かもしれません。どの曲も名曲で、どの曲にも個性的で、非常に多彩な内容なのですが、アルバム全体が「肌に柔らかく触れてくるような素敵な親密さ」で満ち満ちているところにグッときてしまいます。



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 アルバムの終盤は長尺の曲が続いています。この部分を聴きながら、不思議と思い出されたのは、レイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役に立つこと』という短編でした。理由はとくに見当たりませんけれど。ともあれ、秋の夜長にぴったりな感じの音楽で、お酒をちびちびと呑みながら薄暗い部屋でリラックスしながら聴きまくりたいと思います。





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久しぶりに買ったジャズのCDについて

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Symphony for Improvisers
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Don Cherry
Blue Note (2006-08-21)
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 こちらも本日購入したCD。こういった名盤っぽいジャズのCDを買うのはなんだか久しぶりな感じがしますが、ドン・チェリーの1967年のリーダー・アルバムです。ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、ファラオ・サンダースという管楽器セクションの眩いような豪華さに惹かれて購入しました。ドン・チェリーといえば、私はオーネット・コールマンと活動しているときの彼の演奏しか聴いたことがなかったため、オーネットの『フリー・ジャズ』みたいな混沌としたアルバムかと思って、ビクビクしながら聴いたのですが(アルバムのタイトルも『シンフォニー・フォー・インプロヴァイザー』と大げさだし)、これが割合真っ当にカッコ良い音楽だったのでした。





 『フリー・ジャズ』の無茶苦茶すぎる混沌を、エリック・ドルフィー的な方向で洗練させ、ハード・パップとフリーの境目に立たせたような……とでも言えましょうか。1967年といえば、すでにハービー・ハンコックやウェイン・ショーターなどの「新主流派」の人たちがバリバリ活躍していて、オサレでカッコ良いジャズを響かせていた頃ですが、これがフリー派の人たちの譲歩の仕方だったのかもしれない……とも妄想してしまいますし、また、オーネット・コールマンだけが桁違いに狂っていただけなのか?、とも思いました。



Elevation
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Pharoah Sanders
Universal (2005-09-27)
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 あとファラオ・サンダースの『エレヴェーション』という1973年のアルバムも買いました。ファラオ・サンダースについても今日までジョン・コルトレーンと一緒にステージにあがって「プギョーーー!!」だの「ドビャーーー!!」だのノイズをかましているサックス奏者という認識しかなかったので、延々「プギョーーー!!」「ドビャーーー!!」だったらどうしようか……とビクビクしながら聴いたのですが、「プ(略)」じゃなかったです。っていうか、超良い。アフリカン・パーカッションがガン鳴りな上で、シタールが鳴っていたりして、多国籍なスピリチュアルな雰囲気が満載なんですが、ピアノのコードが異様にポップだし、ムーディだし、ソウルフルで聴きやすかったです。ファラオって「プ(略)」だけの人じゃなかったんですね……。





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ヴァンゲリスの初期作品は侮りがたかった

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天国と地獄
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反射率0.39
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ヴァンゲリス
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 会社帰りにCD屋によったらヴァンゲリスの初期作品が2枚安く売っていたので購入して聴いてみました。ヴァンゲリスといえば『ブレードランナー』、『炎のランナー』、そして『南極物語』というサウンドトラックでの仕事や、2002年日韓W杯の公式テーマ・ソングを制作していたことで有名ですが、今日聴いた上にあげている2枚は70年代に彼がソロで出していたオリジナル・アルバムです。





 これらはどちらも、ほとんどの楽器を一人多重録音で完成させたそうですが「これだけ密度が高い音楽をよく一人で……」と唸りたくなるほど素晴らしいです。垢抜けないプログレなのかと思ったら異様に洗練されていて、特に『天国と地獄(1975)』はカール・オルフやモーリス・ラヴェルといった作曲家の作品を想起させます。あと、ゲスト参加しているイエスのジョン・アンダーソンの歌もとても良かった。イエスで歌っているときよりも良いかもしれない。



D


 『天国と地獄』第一部の冒頭より。神秘的なコーラスとシンセのリフレインから、速いテンポへと流れ込んでいく展開に超アガる!



D


  もう一枚の『反射率0.39(1976)』のほうは『天国と地獄』に比べると、ややロックよりっぽいのです(曲の尺も短い)。インチキなエレクトロ・ディスコみたいなリミックスで聴きたくなります。





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ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #2

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公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
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 本日は第二章「公共性の社会構造」について見ていきます。前章まででハーバーマスは、さまざまな歴史的な変化によって、市民が生まれ、それが世論を形成するなどし「市民的公共性」が生まれてていく過程を確認しました。第二章の冒頭、第四節「基本構図」では、その市民的公共性が、政府によって規制されてきた公共性(公権力の力)に対抗する生活圏であったことが強調されています(P.46)。これは、君主がいて、政府(あるいは議会)がいて、という二つの権力が存在したなかに、第三の身分(権力)として現れたものでした。




 ただ、これらの第三の身分は、既存の身分が用意してくれたインフラがなければ、存在がしえないものでもあります。わかりやすい例で言えば、軍隊や警察がいて治安が統制されていなければ、市民たちも安心して商売ができませんものね。よって、市民たちの要求とは支配を求めるものではなかった、とハーバーマスは言います。「彼らが公権力に対してつきつける権利要求は、集中しすぎた支配権を『分割』せよというのではなく、むしろ既存の支配の原理を掘りくずそうとするのである(P.47)」。ここで市民が権力を奪取する、のではなく、公権力を監査する原理が働き、公権力に対しての公開性が求められていくのです*1





 さて、ここまでハーバーマスは市民的公共性の成立までを見ていきましたが、成立以降、成熟までの具体的な分析はまだおこなっていませんでした。この分析については、第五節「公共性の制度(施設)」でおこなわれています。この節がとても有名な「コーヒー・ショップでの議論が公共性を云々」についての分析になります。ハーバーマスはここで、一七・十八世紀イギリス、フランス、ドイツにおける「憩いの場(議論などがなされる場所)」の歴史的な資料をみていくのですが、その場における特徴を簡単にまとめてみますと、以下の二点があげられるかと思います。




  • 知識人(=貴族などの特権階級)も市民もお店に来ていた

  • 特権階級より市民の方が金を持ってたり、良い暮らしをしてたりしたが、権力や経済力に関係なく、誰の意見も平等だった


 「ここで市民たちは、社会的ヒエラルヒーの境界をこえて、社会的名誉はあるが政治的には実力のない貴族たちと、『単なる』人間として会合するのである(P.54)」のです。そして、次第にその場では「社会的地位を度外視するような社交様式(P.56)」を要求されはじめるのですが、これは後述される「フマニテート(人間形成)」にも大きく関係していると言えましょう。





 また、その場における討論の議題が、政治的な領域に限らず、哲学・芸術・文学といった文化的な領域についてもおこなわれていたことをハーバーマスは重要視します。なぜなら、市民的公共性の誕生以前の社会においては、これらの文化は、特定の知識人階級に独占されてきたものであったからです(同)。文化が知識人階級に向けてではなく、市場に開放されたのもこれと前後します。このことは文化の意味の変容をも意味しているのです。「それらはもはや、教会や宮廷の公共性の代表的具現の構成要素ではなくなる(P.56-57)」のですね。





 そして、この文化の商品としての流通は、公衆の集まりをも変容させていきます。市民的公共性といってもその生活圏が、すべてひとつの集合体であったわけではありません。その生活圏のなかでも無数のサークルが存在していたわけです。それらのサークルは互いに排他的な性格も持ち合わせていました。「あのサークルのヤツらは下品だ」とか「あのサークルのヤツらは気取ってる」とか罵りあったりして(こういうのは、マルセル・プルーストを思い出させますね)。しかし、個々の集まりが排他的である一方、彼らは文化という共通の基盤を持っていたのでした。これによって「最初の幾世代かの公衆は、特定成員のサークルという形態で成立した場合にも、いっそう大きな公衆のただなかにいることを自覚していた(P.57)」のです。





 第五節の後半は、こういった文化の流通のなかから批評が生まれ、一種の規範が生まれていく過程についても触れられていますが、これまでまとめた内容と根本的な部分では重なっていますので割愛します。このあたりの歴史記述の拾い方が結構面白いので気になる方は、ご自分でご確認ください。





 さて、ここからは第六節「市民的家族 公衆に関わる私生活の制度化」のマトメに入っていきます。経済の発展により、経済が家という単位には収まりきらなくなってしまったことは前章で見たとおりです。このとき、家(=私的領域)のなかにはどういった変化が訪れたのでしょうか。この節では、ハーバーマスはその変化について分析をおこないました。





 まず、ハーバーマスが注目しているのは、家の建築的な変化についてでした。イギリスでは十七世紀にすでに市民化の兆候があったそうですが、当時のイギリスの住宅は、家族が団らんする広間はどんどん縮小され、その代わり、家族成員のための個室は広くなっていく傾向にあったそうです(P.66)。この傾向は十八世紀になると他のヨーロッパ諸国でも見られるようになりました。そして、上流階級の住宅には、住宅のなかでもっとも重要な部屋として「客間」が用意されるのです。以上の変化は、個々の家族成員の「私生活圏」が一層セグメント化される一方で、家のなかにも「公共圏」が侵入していく例である、とハーバーマスは見ています(P.66)。





 それでは、家のなかにも喫茶店とまったく同じような公共圏ができたのでしょうか? ここでハーバーマスはそのようには見ていないようです。むしろ、家のなかのサロン的な生活圏は、喫茶店における「政治的・経済的開放」に対応する「心理的開放の場である(同)」としてハーバーマスは位置づけています。また、個々の家族成員の私生活圏の細分化(=家族の代表として、その圏を司る家長がいるのではなく、家族の中にそれぞれの成員が独立して存在する状況)は、「市場における財産所有者たちの自律性(同)」に対応しているというのです。もちろん実際には、経済的に家庭を司っている家長に対する従属関係はあるわけですが、ここで家族成員の自律性が表現されることによって、私生活圏と市民的公共圏という二つの領域において「自由意志をもち、誰もが平等であるような主体」が目指されるフマニテートが立ち上ったのでした。





 第六節末のあたり(P.69-72)ではこのフマニテートと文芸との関係が紐解かれるのですが、このあたりの分析も大変面白く読みました。ちょうどこのとき「書簡体小説」が流行し、家族の間でも自分の内面を吐露するような手紙のやり取りをする風習があったことをハーバーマスは取り上げています。他者に対して心情を打ち明ける手紙を書く。この行為は、他者が私の心情を理解してくれるはずだ、という前提があってこそおこなわれるわけです。つまり、私とあなたは同じ主体性を持った人間である、ということがそこでは意識されているのです。また、この行為をおこなうことによって「自らの内面を観察する」という意味も発生します。手紙を書くことが他者主体化と自己客体化に向いているという指摘は、ハーバーマスのコミュニケーション論にも何か絡んでくるのでしょうか(読んでないから知らないですけれど)。





 で、ここから第七節「文芸的公共性と政治的公共性との関係」に入っていくわけですが、ここでのお話は「自由」や「平等」が理想とされ、文芸的なフマニテートが一旦形成された後に、公権力と市民的公共性はどのように戦っていたのかの分析です。が、そんなに大したことは書いてありません。ハーバーマスがここで取り上げているのは、法哲学における議論(ホッブス→モンテスキューのような流れ)ですが、「自由」や「平等」が理想とされ、さらに身近に実感できるものとなった市民的公共性が、絶対的な公権力が一方的に下す御触れ書のようなものよりも、みんなが納得できるような法律を求め、そしてそのような法律を正当だと感じるのは当然のことでありましょう。





 以上が第二章のマトメになります。




*1:このことは第七節でも確認されます





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ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #1

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公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
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 今年八十歳になられたフランクフルト学派の長老、ユルゲン・ハーバーマスの代表作のひとつ、『公共性の構造転換(1962/1990)』を読んでいます。これが結構面白い。せっかくなので久しぶりに章ごとに分けて、自分なりのマトメをブログで連載してみたいと思います。興味がある方はお付き合いください(私のことを『マトメ亭』と読んでくださっても構いませんよ!)。ひとまず、これがどういった著作なのか『ハーバーマス―コミュニケーション行為 (現代思想の冒険者たちSelect)』の「主要著作ダイジェスト」から引用してみます。



この書のテーマは、市民的公共性の自由主義的モデルの成立と、社会(福祉)国家におけるその変貌である。十八・十九世紀に、フランス社交界のサロンで、イギリスのコーヒー・ハウス(喫茶店)で、ドイツの読書サークルで、自律的に文化的・政治的な討議を行う「市民的公共性」が発達し、政府当局に統制された公共性と対抗していた。しかし、十九世紀の末には自由主義の時代は終わりを告げ、国家が計画、分配、管理という形で社会運営に干渉してくるようになり、市民たちはそのクライアント(顧客)と化す。文化を論議する公衆は、公共性なしに論議する少数の専門家と、文化を一方的に受容し、消費するのみの大衆へと分裂する。またこの社会国家において、民主的意思形成は、コミュニケーション行為による社会統合(普遍主義)に向かうのでなく、各人が社会的生産物を均等に獲得するための道具(普遍化された特殊主義)として機能するにすぎない。



 私もまだ全部読んでいないので「ほうほう……」という感じですが、第一章「序論 市民的公共性の一類型の序論的区画」(なんと四角ばったタイトル!)は、引用にもある「市民的公共性の自由主義的モデルの成立」の分析に入る前に、「そもそも公共とか、公的ってどういうことなんだろうね?」という根本的なところから分析を始めています。こういうのは、大変オーソドックスな議論の進め方で読んでいて安心しますね。こういう人は前戯もマメそうだ!


f:id:Geheimagent:20090901185748j:image:left(左。前戯がマメそうなハーバーマス先生のお顔)そこでハーバーマスは、公的なものと私的なものの区別がどのような変遷を辿ったのかギリシャ時代までさかのぼって見ていっています。「(公的なものと私的なものとの区別は)もともとギリシァに発し、今日までローマ的形態で伝えられてきたカテゴリーなのである。ギリシァの円熟した都市国家では、自由な市民たちに共同な国家の生活圏は、各個人に固有な家の生活圏から劃然と区分されている。公的生活は市民の広場で演ぜられ、決して地域に結びついたものではない(P.13)」。このあたりのお話は、ハンナ・アーレントの『人間の条件(1959)』から借りてきたものでしょうか。


 

 ギリシャにおいては「私的な空間=家」であり、それは経済の単位でもありました。そこでは経済が奴隷制度によって支えられた家の運営のなかで完結しており、このため、経済活動は「公的な空間」に入り込む余地がありませんでした。だからギリシャ市民にとっては、公的空間とは対話をしたり、対等な立場の人々同士の共同な活動をしたりする場として現れたのです*1


 


 しかし、このようなユートピア的な公共性は、ヨーロッパの中世になると「慣用的ではあったが、実効はこれに伴わなかった(P.16)」ものとなっていきます。王様や領主の権利が公共の場にも侵入し、公私の劃然とした区別があいまいになってしまったのですね。公共の場に私的な利害が入り込むことによって「公なるもの」としてまとめられていたものも、次第に「意味」が枝分かれし、それぞれ異なった言葉が当てはめられていきました(例えば、『公有化』は領主のために押収することを意味していました。P.17)。


 


 中世盛期にはこういった特権性を、公的に表現する、ということが盛んに行われていたようです。これをハーバーマスは「代表的具現」と呼んでいます(註によれば、カール・シュミットから借りてきた概念の模様)。無理やり名詞に置き換えていて、そのままだと一体どういった行為を指し示しているのかさっぱりわかりませんので、少し説明しておきますと、これは公衆の前で特権性を持つものが特権的な振る舞いをおこなうことによって、その特権性を国民や領民などに納得させる(不可視の特権性を、可視化する)行為だったそうです。公衆の前で、そういった特権的な振る舞いを行うことによって、見ている側には「うわ~、やっぱりウチの領主さまは得の高い人だっぺ~」というのが植えつけられるわけです。当時のヨーロッパでは盛んに「騎士合戦の模像である武技」が公開されていたようですが、これも代表的具現として捉えられます(P.19)。


 


 しかし、中世におけるこのような公共性も、バロック様式が流行した時代になるとまた変容したようです。「武技、舞踏、観劇は、公共の広場から庭園の囲いの中へ、街頭から居城の広間の中へ引きこもっていく(P.21)」のです。そこでは宮廷生活というものが、外界から遮蔽された空間においておこなわれるようになります。しかし、宮廷の建物は公衆が観覧できるように設計されており、閉じつつ、開く(閉じながら、代表的具現がおこなわれる)ものだったそうです。一方この頃(一七世紀中ごろ)、市民の中にもそういった宮廷生活の真似事をする輩もでてきました。ここで初めて、完全な排他性、閉じた空間ができるのですね。「社交界」の成立です。これは一八世紀にも受け継がれ、「上流社会」の生活圏の基盤となります(P.22)。「ここではじめて、特殊近代的意味における私的生活圏と公的生活圏とが分かれていくのである(同)」。


 


 以上が第一章の第一節「出発点の問い」、第二節「代表的具現の公共性の類型について」です。蛇足ですが、この代表的具現あたりの流れはミシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰(1975)』を思い出させますね。フーコーが指摘するところでも「権力」を公衆の前に示すために、見世物的にひどい刑罰がおこなわれたのでした。「市民的公共性の成立史によせて」と題された第三節では、一三世紀からの初期の金融・商業資本主義の歴史を紐解きながら、いよいよ市民的公共性の成立の分析に入っていきます。


 


 ハーバーマスがまとめているところによれば、ヨーロッパで商業が活発になったのは「遠隔地交易」が活発になってからだそうです。それ以前は、ギルドやツンフトの力が各都市のなかで強大だったため、初期の資本主義は保守的にならざるを得なかった、とハーバーマスはまとめています(P.26-27)。それが遠隔地交易が始まって、離れた場所と場所がつながることによって、集結し、組合の力が及ばないところで新たな市場が成立します。そこでは同時に金融技術も発達していきます(証書や手形の取引所が作られる)。


 


 「この交易は、たしかに政治権力によっても操作される規則に従って発達するのであるが、それがくりひろげる広範囲の水平的な経済的依存関係の網の目は、もはや原理的には、閉じた家産経済の諸形態にもとづく垂直的な支配身分的体系の従属関係には組みこまれえなくなる(P.27)」ということです。つまりは市場の発展によって、ギリシャ的な「家=経済の単位」という考えが成立できなくなっていくのですね。少し先取りしますが、ハーバーマスは「近代的経済は、もはや家を基準とせず、家の代りに市場が登場してきた(P.31)」とも言っています。


 


 また、このような交易の発達とともに、情報の流通もまた活発になったのでした。一四世紀以来すでに手紙による商業的な情報交換は作り上げられていましたが、しかし、それらは商人たちの内輪のものに過ぎず(大事な情報なので、公開するわけにはいかなかったのですね)、広がりを持ちませんでした。公共的な情報の流布(≒新聞の誕生)がはじまるには、一七世紀末まで待たねばなりません(P.28)。


 


 で、これらの商業の発展が重商主義の局面にいたったころ、「国民的・領邦敵経済が近代国家と同時に形成されて(同)」いきます。この近代国家の成立は、公共圏のなかに新たな波紋を呼び起こします。それ以前は、権力を持つものである主権者(王様であったり、領主であったり)が絶大な権力を持つものだったのに対して、近代国家においてはそのシステムそのものに「公権力」が認められるのです。国王の人格ではなく、課税をしたり、軍隊を率いたり、外交をしたり、というシステムに権力が与えられる、と。このとき「『公的』という属性は、権威をそなえた人物をとりまく具現的な『宮廷』にかかわるものではなく、むしろ合法的実力行使を独占する装置の、職権に従って規制された運営にかかわることになる(P.30)」。そして、この公権力のもとで、民間人が公衆を形成するのです。さらには、この公衆が「政府の対応物としての市民社会(P.31)」を形成するのですね。


 


 この市民社会の誕生のなかで、さきほども触れました「新聞」が非常に重要な意味を持つようになります。このとき、新聞によって市民社会に提供されるものは、商業的に重要でない情報であったり、政府の重要な情報ではありませんでした。ハーバーマスはこのような重要でない情報を「利用できる情報資料の残りかす」と呼んでいます(P.32)。しかし、なぜだか市民社会にこの残りかすが商品として通用してしまった。この不思議な事実の成立によって、情報の残りかすを売る新聞産業は盛り上がっていきます。


 


 同時的に、政府もまた新聞という道具を利用するようになっています。政府が市民に向けて発行した新聞には、君主の旅行などの知らせや、お祭りなどの情報が掲載され、ハーバーマスはこれを「具現的公共性(公共的具現)から新しい形態における公共性への一種の転化形態としてとらえることができる」と言っています(P.33)。そのような政府からの情報は名目的にはすべての市民に対して発行されます。しかし、現実的にはせいぜい「教養ある身分」にしか届かない(P.34)。ただ、この教養ある身分(ブルジョワ層です)たちに情報が届いたことによって、世論が形成されるようになり、市民社会は政府を判断する性格を持ち始めるのです。


 


 マトメの割には、細かく見すぎてしまった感がありますが、以上が第一章でした。




*1:以上の説明は『今こそアーレントを読み直す』に大きく寄りかかっています





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