伊藤聡『生きる技術は名作に学べ』

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生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)
伊藤 聡
ソフトバンククリエイティブ
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 『空中キャンプ』の人こと、伊藤聡さん*1の単著をとても楽しく読む。これはとても素敵な文章が収録されていて、読みながらなんだか数年後に高校入試や大学入試の現代文の問題に採用されてもおかしくないな、というぐらいに深い意味が各所に散りばめられた本だった。仮にこの本から問題が出たら受験生はすごく喜んでしまうと思う――なぜなら、とても読みやすくて、意味もとりやすいから。大澤真幸のようなパースペクティヴから、じわじわと意味が掘り出されていく過程が鮮やかだ。それから宮本さん*2が描いているイラストにもいろんな意味で驚きました。宮本さん、人間も描けるんですね!(失礼)





 私が最も好きなパートはヘッセの『車輪の下』についてのところ。冒頭がいきなり落合博満の話から始まる落差がとてもひきつけられる(スゴい書き出しだ!)のもあるのだが、なにより「こどものときってオトナになってしまってから振り返ると恥ずかしくて、バカなことをやりがちだけど、そう言うのって大事だよね」と認める大らかさを感じるところが心地よいのだ。例えば筆者は『車輪の下』の主人公ハンスの、エンマという女の子にたいする初恋の部分からこんな部分を拾ってくる。



エンマと知りあったハンスが、なにやら内側から自分をつき破るような衝動に駆られ、「今日中にもう一度エンマに会わなくてはいけない」と決意するくだりなど、思春期ならではの性急さに満ちており、ハンスの切実さと自発性が見て取れる、数少ない機会である。



 ここで筆者が指摘している「思春期ならではの性急さ」に私はハッとしてしまう。たしかに、オトナになってしまうと、恋愛ごとにしても何にしても「性急さ」を失ってしまう。「今・ここで!」という風に、思いを馳せる女性と話したくなるような機会はどんどん少なくなってしまう。例え夜中にあの人の声が聴きたくなったとしても、お互い明日も会社があるんだし、迷惑になるかもしれないし……と考えると、ビールを2本ぐらい飲んで寝ちゃおうか、という気分にもなる。同時に「今・ここで!」電話をかけたとしても、彼女の気持ちが劇的に理解できたり、変化したりしないことを、オトナは学習してしまっているのだ。こうしてオトナからは性急さというものが失われていく。そして、その減衰はいつの間にか進行し、気がつくと我々は立派な、落ち着いたオトナになってしまうのではないだろうか。





 そこで改めて「思春期ならではの性急さ」を見つめなおしてみると、それらはなんだか空回りばかりする、無駄なエネルギーの消費にも思えてくる。そしてそういったエネルギーが発露された経験は、多くの人たちにとって恥ずかしい体験でもあるように思う。そういった体験は無論、私にもある(家族に聞かれるのをはばかって、電話の子機をもって風呂上りの前髪が凍るような東北のクソ寒い夜に外で電話してみたり……とか)。多くの場合それらはごく親しい友人やオトナになってから出来た親密な異性に、遠い眼をしながら打ち明けるエピソードとなってしまう。





 しかし、筆者はこのような恥ずべき経験を、まさにその年代にしかできない行為であるから肯定してしまうのだ。この筆者の評価は読み手に一種の落ち着ける場所を与えてくれるものであろう。あの恥ずべき体験は、あの瞬間にしか為しえない「かけがいのないサムシング」として価値が転換されるのだから。この切り口はどこか、みうらじゅんや伊集院光のようなDT評価のまなざしとも似ているが、彼らのように笑い飛ばすのではなく、大真面目に認めてくれるようなところが筆者には感じられる。筆者のオリジナリティが最高に発揮された視点はここだ、と私は思った。






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松平敬/MONO=POLI

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MONO=POLI (モノ=ポリ)
MONO=POLI (モノ=ポリ)
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松平敬
ENZO Recordings (2010-02-20)
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 新譜。(おそらく)日本最強のシュトックハウゼンのスペシャリストであり、近年は高木正勝のライヴにも参加でも注目を浴びている声楽家、松平敬*1の初ソロ・アルバムを聴く。これはホントにすごかった。なにしろ、「本当にソロ・アルバム」なのだから。本来バリトンである松平が「バスからソプラノに至る全声部が、私の声の多重録音のみによって演奏されている」というのだから……(女声声部はファルセットを駆使!)。そのうえ、録音後の編集からブックレット作成まで自分でおこなったとあり、もはや大爆笑しながら脱帽するほかない。ポール・マッカートニーやプリンス、トッド・ラングレン、そして谷啓でさえこんなに一人でなんでもやらないし、できないだろう。こうした驚きと同時に、このように一人でアルバムが作れてしまう昨今の音楽環境についても感慨深いものがある。





 アルバムには、「カノン」という形式をテーマにして、13世紀から21世紀という700年間におよぶ長いスパンのなかから声楽作品が選ばれ収録されている。松平自身による解説にもあるとおり、その並びはもまたカノンとなっている。13世紀に書かれたという現存する最古のカノンに始まり、中心には松平自身による2009年の作品が置かれ、そこからまた時代を遡っていき、14世紀まで戻っていく反行カノンなのである。Youtubeには、またもや松平自身によって制作されたPVがアップロードされているので是非聴いてほしい(↓)。






D





 最古のカノン《夏は来たりぬ》の聴いていてニコニコしたくなる朗らかさ、リゲティ、ブライアーズ、シェーンベルクのぞっとするような美しさなど非常に多彩である。20世紀の作曲家では、ベリオやケージの声のための作品も愉しい。それにしてもなんと調和が行き届いた素敵なアルバムなのであろうか。同一人物の声が重ねられているから「当たり前」なのかもしれないが、改めて考えてみるとこれは驚異的なことである。たくさんの人に聴いてもらいたい、と強く願った。






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庭と宇宙

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 金沢で見たもののなかで一番印象的だったことと言えば「蟹は茹でたのが一番美味い」ということに尽きるのだが、それ以外にもうひとつだけ挙げるなら「庭とは素晴らしいものである」ということだ。特に素晴らしかったのは、長町武家屋敷の「野村家」の庭で、訪れた日がもっと暖かい日であったならば半日ぐらい眺めていたくなるものだった。





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 鯉がゆっくりと泳ぐ池からは絶え間なく水が落ちる音が聞こえ、色褪せない常緑樹の鮮やかな緑が冷たい空気によく映える。自然を模していながら、人工的に秩序立てられたその庭は、小さな宇宙と言っても過言ではないのかもしれない。この家に住んでいた人たちは、畳の上からきっとこの世界を眺めていたのだろう。





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 野村家の庭が小さな宇宙なのだとしたら、日本三名園のひとつに数え上げられる兼六園は大きな宇宙と言えるだろう。この広い空間は外側から眺めることができない(もしかしたら金沢城の天守閣からは俯瞰することができたのかもしれないが)。ゆえに我々はその宇宙のなかを歩くことによって、この世界を愉しむことになる。





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ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》

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Lachenmann: Das M〓dchen mit den Schwefelh〓lzern

Kairos (2002-06-03)
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 ヘルムート・ラッヘンマン(1935-)の最高傑作/集大成との呼び声が高い歌劇《マッチ売りの少女》(1990-96)を聴く。購入したのはKAIROS盤。この作品の録音は現在、これとECM盤が手に入りやすいようだ(ECMの方は改訂版である)。他にも録音が存在しているらしいのだが、ここ20年ほどの間のなかで書かれた現代音楽作品でそれだけバージョンがあるだけで、この作品がどれだけ評価されているか、が分かる気もする。作品は、約2時間に渡って繰り広げられる特殊奏法オペラ……といったスゴい曲なのだが、映像がないうえに歌詞がドイツ語であるため、一体何がおこっているのか分からない。調べてみると「ステージには『少女』しか出てこない」、「客席にも合唱団やオーケストラが配置される」などコンサート時の様子を想像する上でのヒントになる情報がいくつかある。またアンデルセンによる原作のみならず、ダ・ヴィンチやドイツ赤軍関係者*1のテキストが用いられている、とのこと。ザッピングのように再生されるドイツのポップス音源やノイズが、“冷たい音響”と対比され、大変賑やかな作品でもある。終盤では、少女の昇天を象徴するために笙による持続的な音が用いられるが、こんなところにもラッヘンマンの音の素材への関心が見られるだろうか。





 昨年の『コンポージアム2009』(この年の特集は、武満徹作曲賞の審査員であったラッヘンマンの特集)で配布されたプログラムでは、高安啓介がこんな風に述べている。



第一に、ラッヘンマンの音楽は、素材への反省にもとづく。作曲にあたって大切なことは。歴史や社会のなかで、素材がどんな意味をもつか反省することである。教養の理念のもとで使い古されたもの、娯楽の欲求のもとで乱用されたものは、無条件には使えない。なぜなら、安易な聴取をゆるすものは、安易な肯定をゆるすからである。ラッヘンマンにとって「作曲するとは手段について考えること」であり、手段について考えるとは、素材について考えることだった。ラッヘンマンらしいのは、そこから、楽器への反省へとゆきついたことである。既存の楽器からもたらされる思わぬ音たちは、現存するものを超える力によって独自の意味をもつ。


 ここで高安はアドルノとラッヘンマンを絡めながら、ラッヘンマンの音楽の構造について語ろうとする。ラッヘンマンが新しい音を探求するとき、それは異化作用を生み出し、「音の実質に迫る」(という風に言ってしまうと、アドルノよりもベンヤミンのほうが近いのではないか、と思ってしまうが)。このような見立ては彼の作品を語る上で、最も「それっぽく語れる」であろうアプローチであろう。「新しい音」には、そもそも批評的なまなざしが存在する、と言っても良いかもしれない。つい最近になって、ラッヘンマンによる武満徹作曲賞の講評を読み直したのだが*2、批評に対しては敏感な意識をもつ人となりがうかがえる内容であった。他の年の審査員による講評と比較すれば分かるのだが、ラッヘンマンほどに饒舌な講評をおこなっているのは、西村朗ぐらいしかいない。もっとも西村のノリは、(昔の)『現代の音楽』や『N響アワー』における「あの感じ」なのだが。





 このKAIROS盤にはかなり分厚いブックレット(独・仏・英語による)がついている。ふっと気が向いたので、ここに掲載されているラッヘンマンによる《マッチ売りの少女》の「ミュージカル・プロット」を英語訳から日本語にしてみよう。



1.路上


 「冷たく暗い路上を貧しい少女が帽子も被らず、裸足のままで歩いていた……」「空腹でほとんど凍えそうになりながら、彼女は街をさまよい続けた……」。オペラの冒頭において、音楽的な状況はほとんど音のしない、空虚な弦楽による「冷たい」音、または「凍った」衝撃的なノイズによって性格づけられている。二人の独唱によってだけではなく、オーケストラと「詳細を語る」ヴォーカリストたちによって具象化された少女は、悲劇的な寒さにうち震えながら、手に息を吐き出し、自分の体を擦っている――しかし、それらは寒さに打ち勝つための絶望的な試みだ。





 彼女が馬車にひかれないように避けながら慌てて道を渡ったとき、彼女は履いていた底の薄い靴の片方を失くしてしまう(それは死んだ母親のものだった)。その瞬間、死んだ母親の思い出が彼女を一瞬だけ暖める――その瞬間に押し殺された音が、残響のユートピア的な膨張である間奏的な音へと取って代わられる。





 しかし彼女の背後へと絶え間なく寒さは忍び寄っている。なおも彼女は勇敢で子ども染みた――『夜の女王』のような――元気をもってその寒さに打ち勝とうと試みる。しかし結局、彼女は託されたマッチを売ることを明示されているのだ。《きよしこの夜》が舌打ちのシシリアーノによって呈示されるのは、たった一瞬でも彼女が寒さと彼女を翻弄する災難を忘れようとするためだ。


 喜劇的な分裂が『溢れ』、もう片方の靴を『探すこと』によって、ざわめきは大きくなる(しかし、もう片方は一人の『少年』によって盗まれてしまっている)。母親の最後の形見が彼女を絶望に落とし込む。





 狂乱が落ち着く。分散三和音による連続のなかで街の夜は更けてゆき、『雪のかけら』が降ってくる。彼女の小さな両手は寒さにしびれ、彼女の足は『青ざめていると同時に、血に染まっている』。彼女はエプロンでマッチを包み、マッチを運んで歩くが、たった一つでさえ買ってくれる者はいない。




 雑踏のなかを通り過ぎると『どの窓からも』《クリスマス・キャロル》が響いている――それらはラジオからの流れる音楽と会話の断片によって象徴される。不気味な排他性をもったその家庭的な傾向は、その密室的で敵意をむき出しにした面を明らかにしながら、暴力に反対し(ながら肯定する)涙へと導いていく。ここで音楽は、ストラヴィンスキーの《春の祭典》の最後や、ベートーヴェンの《コリオラン》序曲、シェーンベルクの《管弦楽のための変奏曲》作品31、ブーレーズの《プリ・スロン・プリ》の冒頭、マーラーの交響曲第6番における最後のAマイナーの和音、アルバン・ベルクの《ヴォツェック》の6つの音によるFFFの和音といった、歴史的な作品からの一撃を、唐突なオーケストラによる連続で集めている。これらはすべて、相変わらず不変であり、原典からの移行と強制的にな近接、そして儀式的な直面とによって承認を越えて介入する*3――そして、第1部は少女が初めてみせる涙のなかで幕を閉じる。



 とりあえず第1部についての部分のみ。続きはまた気が向いたら。




*1:大戦後のドイツで活動した左翼テロ組織、とのこと


*22009年度 武満徹作曲賞 受賞者決定!(審査員:ヘルムート・ラッヘンマン) |東京オペラシティ コンサートホール


*3:このセンテンス、意味がよくわからず





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細川俊夫/ヒロシマ・レイクイエム(細川俊夫作品集 音宇宙4)

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ヒロシマ・レクイエム~音宇宙4/細川俊夫作品集
(オムニバス)
フォンテック (1997-01-25)
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 細川俊夫(1955-)の作品集を聴く。フォンテックから出ている細川俊夫の作品集(現在10枚目まで発売されている)は、以前に「1」を聴いていた*1 。この作品集では作曲者のキャリアのなかでも最初期の作品である弦楽四重奏曲第2番《原像》(1980)と、原爆をテーマとした《ヒロシマ・レクイエム》(1989)を収録している。両曲ともにまったく色合いが異なったものであったため、聴いていて大変興味深かった。





 《原像》はアルディッティ弦楽四重奏団の演奏。作曲者自身による解説によれば「私がまだベルリンでユン・イサン先生に作曲を学んでいた頃に書いた作品です」「その当時熱中していたユンや、ヴェーベルンの音楽の影響を受けています」とあるが、その言葉が納得できるような作風である。音の密度の濃淡/伸縮、は極めてヴェーベルン的であるように感じられるし、不協和のなかに時折ぞっとするような協和をもたらすところはユン・イサン的である。派手な超絶技法や特殊奏法はほとんど存在せず、全編にわたってモノトーンのアンサンブルが続く幾分地味な作品かもしれない。しかし、4つの楽器が同じ音形を弾くときに、それが層のように重なったり、ズレたりしていく様が面白かった。「層」や「線」といった言葉は、この後の細川俊夫作品を語る上で、重要なキーワードとなっていることを考えれば見逃せない楽曲であろう。





 《ヒロシマ・レクイエム》は芥川也寸志によって創設されたアマチュア・オーケストラ、新交響楽団(新響)による委嘱作品であり、この録音も新響が演奏をおこなった初演時のライヴである。私は実際にこのオーケストラの演奏を聴いたことはないが、優れた技術を持つオーケストラであることを噂で聞いている。とはいえ、アマチュア。プロの技術とは比べようがない。弦楽器のソロ・パートでは演奏者の技量が透けて見え(もちろん平凡なアマチュア演奏家と比べたら、とても上手いのだが)「プロならこのような演奏になるだろう」という補完しながら聴くしかない。





 作品は2部に分かれており、第1部は器楽のみによる前奏曲「夜」、第2部は語り、独唱、混声合唱、児童合唱付の「死と再生」という構成となっている。特筆すべきなのは、第2部でここで扱われているテキストはラテン語による「死者んためのミサ」からの引用(合唱と独唱)と長田新の編集による原爆体験記『原爆の子』からの引用(語り)から編まれており、楽曲の題名とテキストとの関係が極めて直接的に結び付いているところだろう。また第2部ではテープによる日米開戦のニュース、「ヒットラーや東条の演説」が再生され、これらも題名と結び付いていると言えるだろう。また軍隊行進を思わせるスネアや鎖の音、突撃ラッパを模したようなトランペット(これは音形は第1部でも登場する)、サイレンなども登場し、具体的である。





 作曲者は後にこの作品を大幅に改訂したというが、その理由にこれらの具体性があったのでは、というのは容易に考えつく。80年代中期の細川俊夫の作品を聴く限り、彼が目指していたものは「東洋的なイディオムによらない、東洋的な音楽」というひねりが効いたものであり、直接性は希薄である。彼の《線》Iや《断層》といった作品に触れたあとに、《ヒロシマ・レクイエム》を聴くと「まるで別な作曲家」のようにも思われる。それほどまでに《ヒロシマ・レクイエム》の第2部は、直接的で、具体的なのである。黛敏郎の《ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z》を想起させるほどに。



僕が、そとであそんでいると、ひかった。もんと僕のいえは、いつのまにか、まるやけに、なっていた。僕は、あのときには、かなしかった。それから、僕たちは、すぐに、はしのしたに、いった。はしのしたに、いったときには、人たちはみんあ、やけどして、しにそうなかった。僕は、かなしかった。それから、僕たちは、向こうぎしにいった。そのひとばんは、そこでねた。



 しかし、ここでのテキストは、軽々とそういった問題を乗り越えてゆく。日本語で、少年の声で読み上げられるそれは、オーケストラをかき消すほどに強烈だ。朴訥とした素朴な言葉のなかに、すさまじい凄惨さが含まれるこの衝撃は聴いてもらうしかない。



夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ


ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ


ぼくらはのむそしてのむ


ぼくらは宙に墓をほるそこは寝るのにせまくない



 この作品を聴きながら思い起こしたのがこの詩であった(パウル・ツェラン『死のフーガ』)。そして、その直感を裏付けるようにして「原爆の子」たちのテキストは、互いを打ち消しあうようにしながら少年・成人女性・成人男性(英語訳)によって読み上げられていく。次第にそれぞれのテキストが聴取不能となったとき、生々しい混沌のなかから「死」という主題が浮かび上がってくるのかもしれない。「ヒロシマ」に捧げられた作品はいくつもある。おそらく、そのなかには既に忘れられてしまった作品も多くあるだろう。細川俊夫の《ヒロシマ・レクイエム》が忘れられないものになるのだとしたら、もしかしたら作曲者が否定した(かもしれない)直接性に起因するように思われる。






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だれか『ダイエットの科学史』とかそういうタイトルの本出さないか?

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 今週発売の『Tarzan』3月11日号は「太らない食べ方 実践編」だった。この雑誌をチェックするようになって大体5年ぐらいになるが、面白そうなタイトルを見つけるとついつい買ってしまう。紹介されているダイエット方法なんかあまり試しはしないのに、つい。ダイエットのメソッドも日に日に変わっていっている、というのが面白くて。





 数年前までのトレンドは「炭水化物は脂肪蓄積の元凶! ごはんを減らせ! メシ喰うな! タンパク質を取れ!」というローカーボ・ダイエットが持てはやされていたけれど、今では完全に下火となっている。最新のダイエット・トレンドは「炭水化物を取らないと脂肪は燃焼しません! 必須栄養素を取れるようにまんべんなく、適度に食べて痩せましょう」という中庸的なものとなっているようだ。


1日450キロカロリーの低エネルギー食ダイエットを4日間続けた実験がある。結果的には体重は3~4kg減、ただしそのほとんどが水で、脂肪はほとんど減らなかったと言う。再び糖質*1を元のように摂取すると、速やかに糖質と水分子と結び付くので、体重はたちまち元通り。低糖食は本当の意味でのダイエットにはならないのだ(P.15)



 かつて散々オススメしていたローカーボに対してこの言いよう。また記事をよく読むと「脳から分泌されているホルモンが云々」といった説明が増えているように思われ、なんとなく脳科学ブームがダイエット界にも反映されているんじゃないか、って思ったりする。たった数年でこれだけ言っていることが変わってしまうと「そんなに新しい研究結果ってポンポンでてくるの? なんかあやしくない?」なんて思われても仕方がないかもしれない。「○○という研究結果がある」とか言われるとなんとなく「へぇ!」とか思うけれど、実際どういう研究なのかっていうのは明らかにされていないのだし。なんだかギデンズの「専門家システムが云々」と言った話みたいだ。



近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結
アンソニー ギデンズ
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 専門家がダイエットについてどういっているのか、または、社会でどんなダイエットが、どのように流行していったのか、こういった歴史をまとめた本があったら読んでみたいかもしれない。結構ダイナミックな物語があったりするんじゃないか。




 ちなみに、自宅で筋トレとかしちゃう派における筋トレンド*2は「スロトレ」(ゆっくりと持続的に筋肉へ負荷をかけることによって、軽い負荷でもトーレニング効果を大きくする、というアレ)によって筋肉量(代謝量アップ)を増やし、その上で「有酸素運動」をおこなって脂肪を燃焼する! というもの長期的なトレンドとなっている。これはもうテレビでも散々紹介されているので結構有名なメソッドだろう。『Tarzan』が「自宅で鍛える」系の特集だったらまず紹介されているのはこれだと言って良い。




*1:炭水化物が分解されて糖になる


*2:上手いこと言ったつもりで、そうでもない





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シャイー指揮ゲヴァントハウス管/J.S.バッハ《ブランデンブルク協奏曲》全曲

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Brandenburg Concertos
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Ricardo Chailly Bach
Decca (2010-02-09)
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 HMVなどでは昨年に発売されていたようですが、公式の発売日は2010年2月9日ということですのでこれも今年の新譜に加えましょう。リッカルド・シャイーとゲヴァントハウス管によるバッハ・シリーズ第1弾は《ブランデンブルク協奏曲》の全曲です。第2弾の《マタイ受難曲》が素晴らしい出来であったことはすでにお伝えしたとおりですが*1、これも素晴らしいです。このバッハ・シリーズが本年のクラシック部門におけるベスト・ディスクに選出されることは間違いないでしょう。私も「そうそう、こんな生き生きとしたバッハが聴きたかったんだよ!」と大声をあげつつ大プッシュしたいです。




 《マタイ》と同様、シャイーはここでもピリオド奏法*2を採用しているのですが、この2枚の演奏は、これまでに私が聴いてきたピリオド奏法による録音とはまるで違った音楽を呈示しているように思われました。これは「ピリオド奏法」という言葉のイメージを書き換えられる体験です。古楽的なアプローチと言えば、枯れた音色ばかりをイメージしてしまっていたのですが、シャイーの録音はどこにも枯れたところがない。独奏ヴァイオリンのため息のようなフレージングでさえも瑞々しい。それから第5番のチェンバロがすごいです。この曲の第1楽章には長いチェンバロのカデンツァがあるのですが、これがもう「チェンバロってこんな弾き方をしても良いの!?」と驚いてしまうぐらい情熱的な演奏。途中で長調から短調に移ってからなんかまるでイングヴェイ的に弾きまくっていて興奮が止みません。





 録音も素晴らしく、各楽器の配置の良さが伝わってきます。旋律の重なりによって、これが「さまざまな楽器のための《協奏曲》」として書かれていることがすごく意識できるような気がしてくる。この効果はもちろんフーガの曲でバツグンに発揮されます。そういった意味で第4番の第3楽章はこの録音のハイライトと言えるかもしれません。この曲、リコーダーの愛らしい音色も聴いていて楽しいですね。






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シャルロット・ゲンズブール/IRM

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Irm
Irm
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Charlotte Gainsbourg
Elektra / Wea (2010-01-26)
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 新譜。シャルロット・ゲンズブールについては、セルジュ・ゲンズブール(あ、ソラミミにいっぱい採用されている人ね、という認識)の娘、ってことしか知らなかったんですが、今回のアルバムは「ベックが全面プロデュース」ってことだったので買いました。前のアルバムはナイジェル・ゴッドリッチがプロデュースしてたって言うのだから、流れとしては不自然なところは何もない。っていうか、パッと聴いてみるとベックなんだか、ゴッドリッチなんだかわからない、と言った作りです。これは『Sea Change』以降のベックにも言えるのですが、まぁ、良くも悪くもベックの音作りが全面に出ている。果たしてこの路線が一体いつまで続くのか……と思わなくもないのですが、悪いアルバムでは決してない。むしろ素晴らしいアルバムだと思います。



D


 アルバムに収録されているベックとのデュエット曲「Heaven Can Wait」。これだけ聴くとベックの新譜じゃねーか!! と思いますね。





 正直言って最近の音楽の潮流などまったく知りませんし、ほぼ無関心ではあるのですがヴァンパイア・ウィークエンドの音とのつながりを見出せそう……そんな感じもします。バリバリの編集マジックが効いた音作りではあるのですが、音の録り方やミキシングに生々しさを残している。例えばギターの音ひとつとっても良いですし、すごくマイクと楽器との距離の近さを感じさせます。しかし、それは密室的な宅録感を想起させるのではなく、あくまで室内楽的な親密さのある空間で広がっていくような感じがある。そこが良い。優しい音作りと力強さが自然に同居している。この音の対極に、景気の良いスタジアム級のバンド・サウンドがいるのでしょう。





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ポール・クルーグマン『自己組織化の経済学 経済秩序はいかに創発するか』

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自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか (ちくま学芸文庫)
ポール クルーグマン
筑摩書房
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 昨年読んだ『クルーグマン教授の経済入門』*1がとても面白かったので、最近になって文庫化された『自己組織化の経済学――経済秩序はいかに創発するか』も読んでみました。この本のなかでクルーグマンが紹介しているのは「複雑系」を導入した経済学について。で、これがどんなものかというと「経済の秩序っていうのはさ、なんだか知らないけど秩序がない状態から、勝手に個々の主体がお互いにフィードバックしあうことによって秩序をもった動きが生まれてくるんだよ。それは計算式によってもシミュレーションできるだよ」とかそんな感じの話です。なんで街のなかに商業施設がいっぱい集まってる中心地ができあがるの? それってどういう風にできあがるの? とかを説明している。





 本論の部分では、それほど計算式などはでてきません(計算については補論でカバー)。平易な文章で書かれてもいるし、かなり読みやすかったです。が、読みやすいだけであまり頭に入ってくる感じがしない。「なんだか面白そうなことが書いてあるなぁ」という感じが淡々と続いているうちに読み終わってしまいました。「ええ! そうなんだぁ!!!」という驚きが『経済入門』みたいにやって来ませんでした。なんでだろう。訳が悪いせいなのか? 『経済入門』の訳者、山形浩生によれば「死んだ魚みたいなどんよりした文章」ということだけれど、訳が違ってコレが「ビビッ!」とくる本になるのだとしたら、今の訳で読む人は不幸なのか!? とか思ったりしました。複雑系ってなんだかカッコ良さそうだけれど、実際このぐらいのことしか言えない、ってことなのかもしれないけど。






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肉の祭典、ローストビーフ

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 みんな圧力鍋買ったほうが良いぜ……!








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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#4 オテロ=シルバ『自由の王 ローペ・デ・アギーレ』

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自由の王―ローペ・デ・アギーレ (ラテンアメリカの文学 (4))
オテロ=シルバ
集英社
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 集英社「ラテンアメリカの文学」第4巻は、ベネズエラのミゲル・オテロ=シルバ(1908-1985)の『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』を収録。調べてみたのですが、この人の作品の邦訳はまだこれ一冊しかないみたいですね。ネットにもあまり情報がなく、まとまった情報といえばWikipediaの英語ページ*1とこの本の解説ぐらいでしか知りえません。若いころは共産主義の活動家であり、ジャーナリストとしても活躍した後、作家になった、というオテロ=シルバの経歴はラテンアメリカの作家に典型的なライフストーリーをなぞるようです。ベネズエラも長い間独裁政権、軍事政権が続いた国ですから、闘争的な活動家/ジャーナリスト/作家であった彼は大変苦労したらしい。没後25周年ということですからこれを機に他の作品も翻訳されたら良いなぁ、と思います。すごく面白かったです。




 『自由の王』の主人公、ローペ・デ・アギーレは16世紀にスペインからペルーに渡り、内乱に参加したり、アマゾンへ黄金郷探索に参加した後、当時のスペイン王、フェリペ2世の支配からペルーの独立を求めて戦争を起こした人物です。未見ですが*2ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』でも題材にとられています。彼は自分が一兵士として加わったアマゾン探検隊のリーダーを皮切りに次々とメンバーを殺害し、ついに神に選ばれた軍隊であるマラニョン軍の頭目となります(このときすでにかなりのジジイ。まるで奥崎謙三のようである)。でも結局部下の裏切りにあって敗北しちゃう。その死に際には、アマゾン探検にも同行させた愛娘を「敵の慰み者になってはイカン!」と自らの手で殺害した、という壮絶な最後を遂げます。





 彼のこういった生涯から、一般的には残忍で暴虐の限りを尽くした人物として古くから語られているのですが、シモン・ボリバルは彼を「ラテンアメリカ独立運動の先駆者」として評価している。オテロ=シルバもこれに乗っかる形でローペ・デ・アギーレに対する積極的な評価をおこなっているように思います(彼はこの作品を書くにあたり200冊ほどの文献を調べたそうですが、数多の文献に記された悪評を検証したりもしている)。オテロ=シルバが描いた「独立運動の先駆者」としてのローペ・デ・アギーレの、フェリペ2世に対する闘争は、ラテンアメリカ対先進諸国との対立と容易に重ねられましょう。現在でも続くラテンアメリカ諸国の政治的混乱・経済的な歪みは、植民地時代から引きずっている搾取の構造に原因がある、と言われています。「ラテンアメリカの文学」第2巻に収録された内田吉彦による解説から少し引用しましょう。



独立によってもたらされた外国貿易への急速な接近は、国際経済という枠組みの中で、ラテンアメリカが世界のどの国よりも有利に生産できるものに集中することを要求し、この結果、ラテンアメリカは世界の原料供給地としての役割を引き受け、大土地所有による一次産品の単一栽培(モノカルチャー)という、極めて歪んだ農業形態の下に置かれることになったわけである。国内経済にはおかまいなく、また国内市場における需要とは無関係に、国際市場向けの換金作物の生産を主体としたこの農業形態が、ますます問題を深刻にして行った。



 ベネズエラの場合、豊富な原油資源があったため、産業が石油産業に集中してしまい、農業が犠牲にされた、と解説にはあります。これにより石油産業に従事した者は栄え、それ以外は貧困にあえぐ……という経済格差が生まれてしまったのです。しかし結局それで一番得していたのは、石油を売る側よりも買う側だったことでしょう。『自由の王』のなかでローペ・デ・アギーレが語る闘争の理由には、明確にこのような搾取への反発があります。大西洋をはるばる渡って新大陸に来たにも関わらず、そこには厳しい現実しか存在せず、旧大陸側の特権階級が一番得をしている。この構造に対してローペ・デ・アギーレは激怒するのです。その怒りは極めてアクチュアルなものと言えましょう。





 しかし、その一方でローペ・デ・アギーレの残虐さについてもオテロ=シルバは極めて詳細に描いています。その残虐さはラテンアメリカの独裁者の姿とも重なるのです。ここでオテロ=シルバのローペ・デ・アギーレに対する評価は微妙なものになっているように思いました。ただ、やっていることは独裁者そのものなのですが、ローペ・デ・アギーレは私利私欲のために動いていたのではない、という一線は守られている。ここが本当に興味深い。





 作中ではイネス・デ・アティエンサという「ペルー随一の美女」が登場し、男たちを骨抜きにしていきます。しかし、ローペ・デ・アギーレは見向きもしない。それどころか邪魔者扱いします。ここにローペ・デ・アギーレが「理想を追い求めた人物」であることが象徴されているように思いました。ただ、やっていることは残虐。書いている間に思い当たりましたが、この潔白さと残虐さの奇妙な同居は、共産主義の大国にかつて存在した恐ろしい政治家たちを思い起こさせます。スターリン、毛沢東。彼らはみな、馬鹿げたほど美しい理想を掲げる一方で、粛清を繰り返していました。もちろん作家はこのような政治を好意的に見たわけではないでしょう。高い理想が暴力を生む過程を描いた視線は厳しく批判的なものであります。





 文章のテクニックも素晴らしかったです。ここは牛島信明の翻訳が冴えまくっている! 意識の流れや、作家の視点からの語りかけ、登場人物の自伝的な語り、そして戯曲の形式。さまざまなテキストが作品のなかに混濁し、濃ゆすぎる雰囲気を醸し出しています。登場人物の名前が覚えにくすぎて極悪なのですが、オテロ=シルバがここで披露しているテクニックをいつかパクッてやりたいと思いました。



ペドロ・デ・ムンギーア、マルティン・ペレス・デ・サロンド、フアン・デ・アギーレ、ニコラス・デ・ソサーヤ、ペドロ・デ・アラーナ、ディエゴ・サンチェス・ビルバーオ、フアン・ラスカーノ、フアン・ルイス・デ・アルティアーガ、マルティン・デ・イニーゲス、ジョアネス・デ・イトゥラーガ、エンリーケス・デ・オレリヤーナ、ディエゴ・ティラード、アロンソ・ロドリーゲス、アントン・リャモーソ


(P.161)



 蛇足かもしれませんが、極悪な登場人物の名前(登場人物が極悪、というわけではない)が列記されている箇所を引用しておきます。登場人物が多いのなら、プルーストやピンチョンで慣れていますが「彼はどこそこ州の生まれで、有名な戦士だったなんとかの甥で……」みたいな説明をされても覚えられません! 




*1Miguel Otero Silva - Wikipedia, the free encyclopedia


*2:ポポル・ヴーのサントラだけ聴いた





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石坂団十郎ベートーヴェン2 @フィリアホール

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演奏曲目


チェロ・ソナタ第1番ヘ長調Op.5 -1


チェロ・ソナタ第5番ニ長調Op.102-1


モーツァルトの歌劇「魔笛」の「恋を知る男たちは」の主題による7つの変奏曲 変ホ長調WoO46


チェロ・ソナタ第3番イ長調Op.69



 石坂団十郎のリサイタルを聴きに行きました。今回の来日では各地でベートーヴェンのチェロ・ソナタを全曲演奏していますが、聴きに行ったのはそのうちフィリアホールでの2日目の演奏会です。初めて彼の名前を知ったとき「歌舞伎の人だろうか」と思いましたが、日本人とドイツ人のハーフなんですね。「もう一度この人の演奏を聴きたいな」と思わせる素敵な演奏会でした。表現の幅がとても広く、品があり、これからどういう風に演奏が変化していくのか、というのも非常に楽しみです。石坂は1979年生まれ。今年31歳、ということでクラシックの世界では「若手演奏家」と呼ばれる年代です。しかしながら、石坂の演奏は若い演奏家にありがちと見なされるロマン過多に情熱的な演奏ではありません。非常に落ち着いた余裕さえ見られるような彼の表現が今後どういう風に深まっていくのかに期待して良いでしょう。CDはまだ1枚しかリリースしていませんが、次の録音を心待ちにしたくなります。



チェロ・ソナタ
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石坂団十郎
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 ピアノはマルクス・シルマー。この人のピアノもとてもよかったです。見た目がゴツい系だったので、ゴツゴツとしたパワフルな演奏をしそうだ、と思っていたのですが、顔のイメージとはまったく違った繊細で動きが生き生きとしたピアノを聴かせてくれました。舞台衣装が長ランみたいだったので「外人番長」みたいになっていたのでクスッと笑いたくなりましたが。





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PAT METHENY/ORCHESTRION

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Orchestrion
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Pat Metheny
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 新譜。パット・メセニーというギタリストについてはこれまでほとんどフォローしてきませんでしたが(スティーヴ・ライヒの作品で演奏したモノぐらいか?)このアルバムは面白そうだったので買いました。なんでも自動演奏楽器「オーケストリオン」を使用し伴奏をすべて機械でおこなっているのだとか。オーケストリオンはちょうど先週の『開運! なんでも鑑定団』で鑑定に出ていましたね。もちろん、普通オーケストリオンと呼ばれている自動楽器は、今回パット・メセニーが使用しているものとはまったく別物です。よく見たらCDのジャケット裏にもOrchestrionics(オーケストリオニクス)と記載があり、別物であることが強調されている模様。



D


 Youtubeにこのマシーンが動いている映像がありました。これ、製作に明和電機が絡んでいても信じるね。正直「なんでこんなの作らせちゃったわけ?」と思わなくもないですが、パット・メセニー自身によれば「19世紀後半から20世紀初頭にかけてのテクノロジーと、今日の新しい制限のない音楽制作・即興・演奏のためのプラットフォームを融合させる試み」とのことです。そのほかプレイヤー・ピアノ(自動演奏ピアノ)の思い出なんかもあったみたい。まぁ、すごい機械を作っちゃったなぁ、という感想しかないですけれど、さすがに人間っぽい微妙なニュアンス作りまでは難しかったみたいで、伴奏はとても平坦に聴こえました。曲はとてもカッコ良い。



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 この動画では1曲目の「Orchestrion」と5曲目の「Spirit Of The Air」が視聴できます。1曲目はスティーヴ・ライヒ風フランク・ザッパみたい。っていうか、ザッパの「The Black Page #2」っぽい。



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 ↑これね。途中のリズムのギクシャク感とか変なコード感とか。あと試み自体は、コンロン・ナンカロウをまず思い起こさせます。このナンカロウという人は「人間には弾けないだろう」という作品をプレイヤー・ピアノのためにたくさん書いた作曲家なんだけれども(こんなの↓)



D


 パット・メセニーは機械を使っているからと言って、非人間的な演奏をさせるわけではない。というか、人間にできる範囲のことしか演奏させていないのが物足りなくて(これだったらザッパの曲のほうが難しいぞ!)、人間がこの作品を一流プレイヤーのニュアンスで演奏したらどうなるんだろう……? と思ってしまいました。ここではパット・メセニーの超丁寧なテクニシャンっぷりと、機械の平坦な演奏のギャップが大きく出てしまっている。物好きな人はこの人間と機械のあいだにあるギャップをドゥルーズと絡めて云々したら良い!





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タンジェリン・ドリームの5枚組ベスト盤ボックスが990円だった

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 先日、仕事帰りに近所の中古ゲーム&CD屋さんに入ってみると、ドドンとタンジェリン・ドリームの5枚組ベストが置いてあって速攻で買いました。値札は1990円とあったんだけれども、レジへ持っていくとちょうどセール中だったらしくて、990円になってさらに嬉しかったです。これだからなんか商売っ気がなさそうな中古屋めぐりはやめられない……というか。聴くかどうかわからないのに、目玉っぽいものを見つけてしまうととりあえずイッてしまうのでございます。でも、このボックス・セットはすごく面白かったですよ。ホントに買ってよかった。




 そもそも私はこの大変歴史の長いタンジェリン・ドリームというドイツのバンドのことを「クスリをキメながらシンセを使って、長くてドロドロした即興ばっかりやっているバンド」だと思っていたんですが*1、それって実はバンドの最初期だけだったんですねぇ……。このボックス・セットは、ドイツのオール・レーベルからイギリスのヴァージン・レコードに移籍した1973年から、1983年にヴァージンとの契約が終了するまでの軌跡を追ったものなんですが、このときから劇的に音楽性が変わっていったのでした。





 その変化の幅は、初期クラフトワークと『アウトバーン』以降のクラフトワークの違いよりもずっと距離があって、本当に驚きました。ちなみにタンジェリン・ドリームのヴァージン移籍後初のアルバム『フェードラ』も『アウトバーン』も1974年に発表されておりますから、この年はテクノ元年、と言っても良いのかもしれません。当時は「ジャーマン・プログレ」とか言われてたんだと思いますが、まぁとにかくかなりポップになる。



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D


 上の映像は1972年の『ツァイト』というアルバムから。下の映像は1979年の『フォース・メジャー』から。79年の頃にはほぼ初期の面影か皆無ですね。で、すごくニューエイジくさい。でも、これでもうちょっとBPMが速かったら、サイケデリック・トランスかっ! っていう曲があったりしてとても面白いです。機材もアナログなんで音が妙に太かったりしてねぇ……(リズム・ボックスの音がすごく良いんだよなぁ……)。クラフトワークとクラウス・シュルツェの中間ぐらいに、ちょうどタンジェリン・ドリームがいる感じなのだろうか。踊れるか、踊れないかはかなり微妙なところですが、通勤中に聴いているとキマりながら電車に乗れます。




*1:だから数年前にメタモルフォーゼで来日したときは「え!? タンジェリン・ドリームなんか出演してウケるの!?」と思った





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ル スコアール管弦楽団第28回演奏会のお知らせ

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ル スコアール管弦楽団第28回演奏会のお知らせ


日 時: 2010年6月13日(日)14:00開演


場 所: すみだトリフォニーホール 大ホール


曲 目: マルティヌー/交響曲第1番


マーラー/交響曲第1番ニ長調《巨人》


指 揮: 大井剛史


入場料: 全席自由 1,000円





ル スコアール管弦楽団(公式)



 ↓のエントリで所属しているオーケストラの話に触れたので、宣伝。今年はマーラー生誕150周年のメモリアル・イヤーですけれども、マルティヌーも生誕120周年なのだった!(今調べて知った)おそらく自分はどちらか1曲の交響曲を演奏することになるかと思いますが、現時点でどっちに乗るか知らされておりません。正直どっちでも良いのですが、マーラーは生きていればそのうちチャンスがめぐってきそうな予感がするのに対して、マルティヌーはこの機会を逃したら二度と演奏できないのではなかろうか……という気がするので、マルティヌーだったら良いかなぁ、とか思う。指揮者の大井先生は現在、山形交響楽団などで振っている方。以前一緒に演奏したブルックナーの交響曲第8番がかなり良い演奏だったので、再度ご一緒させていただくのが楽しみです。





 ル スコアール管弦楽団(公式)では無料招待チケットの申し込みなどもおこなっているので、お時間がある方は是非! 





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マルティヌーの交響曲全集を聴いた

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マルティヌー:交響曲全集(3枚組)

Brilliant Classics (2008-06-24)
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 所属しているオーケストラの次回演奏会の曲目に、マルティヌーの交響曲第1番が選ばれていたため、良い機会だと思い、クラシックの廉価盤レーベル、ブリリアント・クラシックスから出ていた交響曲全集を買いました。コアなクラシック・ファンでなければ名前すら聞いたことがない、と思いますけれど、ボフスラフ・マルティヌーはチェコ出身の作曲家。活躍したのは20世紀――いわずもがな調性音楽の否定が前衛としてトレンドになった時代です――が、ロマン派的な形式に準拠した様式美と、美しい旋律を書き続けていた人です……ということを今回彼の交響曲に触れて知りました(名前ぐらいは聞いたことがあったけれども、聴くのは今回が初めてでした)。交響曲は第6番までありますがどれも魅力的です。



D


 (映像は、交響曲第1番の第4楽章)R・シュトラウスのように大掛かりが仕掛けがあるわけでもなく、マーラーのように耽美的なわけでもない。四文字熟語で表現するならば「質実剛健」と言った趣のある彼の作風は、独特な渋みを持っているように思います。それはシベリウスにも感じられるものですし、アラン・ペッテション(スウェーデンの作曲家)にもどこか通ずるものがある。もっともマルティヌーの作品に、シベリウスほどの読み難さ、ペッテションほどの絶望的な暗さがあるわけでもないのです。しかし、彼らが抱えていたの渋さには「20世紀のシンフォニスト」にとっての“宿命”のようなものを感じてしまいます。すでに無調があり、一二音技法がある20世紀に、19世紀までの遺産とも言える「交響曲」という形式で音楽を書く、という行為には「それが伝統に準拠したものであったとしても、単なる過去の継承であってはならない」という使命が与えられていたように思います。作曲家によって事情はことなったでしょうが、彼らの作品が有する渋さはそういった使命によって理由付けられているような気がしてなりません。





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クリント・イーストウッド監督作品『インビクタス/負けざる者たち』

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「インビクタス/負けざる者たち」オリジナル・サウンドトラック
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 イーストウッド新作。昨年もイーストウッド作品には毎度泣かされてしまったのですが、今回もブワッと涙が出てしまいました……。素晴らしかったです。これが『ミスティック・リバー』や『許されざる者』を撮った人の作品なのか、とちょっと拍子抜けしてしまうほど爽快な感動作品に仕上がっているように思われます。スポーツの世界には時折“劇的な展開”というのがありますけれど、そのステージを南アフリカというひとつの国に拡げながら、この映画は“劇的さ”をホンモノのドラマとして呈示することに成功している。





 そこでは物語があくまでノンフィクションっぽく流れていくのですが、明らかにフィクションであろう、というエピソードが挿入されています。この挿入が素晴らしいスパイスになっている。このとき描かれるのは「スプリングボクス」を憎んでいたはずの黒人のこどものなかで、ラグビーの存在がどんどん大きくなっていく過程なのですが、これは強烈に泣かせます。無垢なこどもの魂の美しい部分が濃縮されたすごく良い演出だったと思います。もしかしたら、その演出には「貧しい国のこどもはきっと心がキレイなハズだ」という偏見があるのかもしれませんが、それはさておき、この無垢さは天使的なものとさえ感じられます。





 その天使的な美しさは、ネルソン・マンデラという大人物の偉大さと対比されるものでありましょう。物語の中でマンデラはとにかく好人物で、大らかな人物として描かれます(政治よりラグビーを優先してしまうようなむちゃくちゃな人物でもあるのですが)。その存在感は、父親的なものとして捉えることができるでしょう。しかし、物語の序盤ではその偉大さは理解されがたいものとして現れてしまう。ここで無理やり物語をキリスト教的なものとして読み替えるのであれば、スプリングボクスの主将、フランソワ・ピナールや、黒人のSPたちはまさに父(=神)の偉大さを人々に伝えるための伝道師としての役割を果たしていた、と言えるでしょうか。そうであるなら、この物語は伝道師たちの受難の物語と捉えるのも必然的です。





 個人的にとても印象に残っているのは、冒頭で刑務所から出てきたマンデラが乗ったパトカーが黒人地区と白人地区を隔てる道路を通過していくシーンと、スプリングボクスの選手たちが街中をランニングしているシーンでした。前者では国内の分裂がはっきりと映し出され、後者では白人も黒人も一緒になって走っている選手たちを応援する融和の状態が描かれます。ふたつのシーンは時間的にはとても離れているんだけれども、後者を目にしたとき、強烈なほど前者がフラッシュバックしてしまいました。これはすごいなぁ……とため息をつかざるを得なかった。





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ココロ社『超★ライフハック聖典 ~ 迷えるアダルトのための最終☆自己啓発バイブル』

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 ココロ社さん(id:kokorosha)による単著第2弾を読みました。第1弾はかなり大人しい、マトモな感じのテイストが漂う本でしたが、第2弾はすごかったですね……。セルバンテス、ラブレー、スターン、現代ではピンチョンを思わせる脱線につぐ脱線が展開され、ココロ社文学が炸裂! といった感じでして、この古典的脱線文学の系譜の中に、このブロガーが存在することを改めて確認してしましました。言うまでもなく最高です。言っていることは基本的に前著と一貫性があり「人間の評価基準は曖昧でいい加減」と言ったところを逆に利用する、というライフハックが紹介されています。





 また、従来の「生産性をあげよ!」、「効率を高めよ!」と声高に叫ぶようなライフハックへの批判(その批判の矛先は、ライフハック本を読みつつも一向に成果を上げることができない構造、成果を上げることができない人にも向いている)も厳しくなっているように思われます。この意味で、この本のタイトル「超★ライフハック聖典」とは「すごいライフハックの本」という意味ではなく、ライフハックを超越した視点からライフハックを観察する本(メタ-ライフハック)的なものとして捉えられるべきでしょう。





 この本での最終的な結論としては「ライフハック云々で悩んでいるより、自分に合った一個の原理みたいなものを決めて遂行していくことが一番スムーズである」といったことがライフハックとして紹介されています。これはとてもシステム論的に(?)正統な答えのように思えます。現代にはさまざまなライフハックが紹介され、情報が過多である。そのような状況において、我々は一種の決定不能性に直面する可能性がある。さまざまな選択肢が存在し、どれを取るべきなのかわからない。





 このようなときに「あえて」何らかの原理を基にしてスムーズに行動を選択することによって、そのような複雑さを回避することができる。その楽さを著者はライフハックとして薦めているように思えました。このような戦略は、一時期の宮台真司の変奏と捉えてもいいのかもしれません。多くの人にとっては、その「あえて」すらも選べないからこそ、困った事態に陥っているのかもしれませんが……。





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サルヴァトーレ・シャリーノの作品集を聴いた

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Salvatore Sciarrino: Orchestral Works

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 イタリアの作曲家、サルヴァトーレ・シャリーノ(1947-)の管弦楽作品集を聴きました。3枚組。こちらは現代音楽専門っぽいKAIROSというレーベルからでているのですが、HMVオンラインで買ったら6000円ぐらいしたのに、アマゾン価格は3200円でした。確認した後、ちょっと涙目になっちゃったよ……。このレーベルのCDは他にも欲しいものがあるんだけど、これからは絶対アマゾンで買います。





 シャリーノの作風でもっとも有名なのは「さまざまな特殊奏法を開発・多用している」という点です。これはちょうど一回り上の世代に位置するドイツのヘルムート・ラッヘンマンと同じような言われ方ですね。特殊な技をたくさん使っている、ということですから彼らはそれぞれ「技のデパート、イタリア支店」、「現代音楽界の舞の海」と呼ばれています(もちろん、嘘です)。この特殊奏法へのこだわり・徹底が2人ともすごい。





 シャリーノの作品は今回のボックスで始めて聴きましたが1枚目の《チェロと管弦楽のための変奏曲》からして、弦楽器のフラジオレットの音、弦楽器の胴を叩く音(たぶん)や、リード楽器の倍音奏法(……で良いのでしょうか? 普通の運指ではおそらく出せない音)、管楽器で息だけ通したタンギングの音ばっかり聴こえてくるような楽曲ですからド肝を抜かれます。20分以上、キコキコキコ……、ジュワ~~、トトトトト……という「音だけ聴いているとどうやって発音しているのかイマイチ掴みづらい特殊な音色」が続く大変エレガントな作品。オーケストラとは、100人規模の演奏家を集めた大変リッチな音楽装置ですから、それを使ってマトモな音を一切鳴らさせない、というのはエレガントとしか言いようがありません。最高です。





 ラッヘンマンもシャリーノと同じタイプのエレガンスを有する作曲家でありますが、ラッヘンマンの作品からはとてもユニークで、ユーモラスな印象を受けるのに対して、シャリーノからはドライでありながら透き通った美しさのようなものも感じます。単にフラジオを多用しているのでキレイな音が並んでいるからなのかもしれませんが、とても響きの美しさ――批評っぽく、少しひねりを加えると“異化された美しさ”が一貫しているように思えます。このボックスには、70年代から00年代の作品が収録されていますが、そういったゆるぎない原理のようなものが感じられます。





 80年代の作品では、ルチアーノ・ベリオばりの引用を試みていて(当ボックス収録作では《アレゴリーの夜》(1985)がそれにあたります。ここではメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が引用されている)、大変聴きやすいです。とはいえ、フラジオ多用はここでも見られる。80年代の作品では、他に《ボロミーニの死》も良いですね。オーケストラは弦楽器の持続音と、ワウ・ミュート付のラッパの反復フレーズ(このフレーズがモリコーネによる『続・夕陽のガンマン』のテーマを想起させる。たぶん関係はないが)が土台を作っていて、合間合間にフルートの特殊奏法が入ってくる。基本的には静寂な作品なのですが、その背景によって語り手の不気味さ、冷たい声が際立つかのようです。





 ちなみにシャリーノは2011年の武満徹作曲賞の審査員に決定しているとのこと。この賞では、審査員にちなんだレクチャー・コンサートも開催されるので、2011年はシャリーノの作品を日本で聴ける日が来るのでしょう。このボックス・セットを聴いて、早くも来年が楽しみになりました。





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ココロ社『クビにならない日本語』

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 大変遅ればせながら、id:kokoroshaさんの単著第1弾を読みました。「あの『ココロ社』のことだから、気が狂ったようなテクニックが満載に違いないっ!」と思って読み始めたのですが、普通に役立ちそうなお話がたくさん載っていて、逆の意味で裏切られた気がします。くすぐりのような小ネタもたくさん挟んであって、とても読みやすかったです。あんまりこの手の本を読んだりしませんけれど「ああ、こういう言い方もあるのか」と仕事をする上での手札を増やすキッカケになったかもしれません。





 この本では副題にもあるように「成果を出さずに平和に暮らす」ための会社で長生きするための術が紹介されています。なので生産性を上げる、とか、仕事を効率をあげる、とかとはまったく違った、というかほとんど真逆の仕事術にポイントが置かれている、と言って良いでしょう。しかし、これさえ守れば、なんとか平和に暮らすことができる。本で紹介される生産性を上げる仕事術によって、本当に生産性があがるのかはなんだか眉唾な気がしますけれど、ここで紹介されている仕事術は、本当に実用的であるように感じました。こういう印象を抱くのは「人は他人をこういう風に見ている」、「上司は部下をこういう風に評価する」という説明に圧倒的なリアリティが存在しているからこそ、なのでしょう。





 また、著者はここで「他人の見方」であるとか「評価の仕方」というのは、会社という場においては実に非合理的で、かついい加減なものなのですよ、ということを繰り返し説明しています。世の中には「その人の成績だけで評価する」という会社もあるのかもしれませんが、多くの場合そうではないでしょう。「実績を加味した合理的な評価をします」と言っている会社でも、合理的な係数の合間に、どっかにはブラックボックス化した人間の主観的評価が挟まっている、と思いますし。ここで紹介されている仕事術は、そういった非合理性を逆にこちら側の戦略として利用してやろう、という裏ワザ的なものなのかもしれません。





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mmm/パヌー

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パヌー
パヌー
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mmm
kiti (2009-12-16)
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 映画監督、古澤健監督(id:Full2yn)のブログで絶賛されていた女性歌手、mmm(ミーマイモー)のアルバムを買いました。これは本当に素晴らしかった。いやぁ……もう、ヤラれてしまった、といった感じ。モノが違う。圧倒的なホンモノ感。無頼と野性が六畳ぐらいのアパートの一室で爆発してしまったかのような印象を受けました。すごく生々しくて、血が通った音楽。しかも、23歳。なにそれ、という驚異的な歌手だと思います。





 プロデュースは、宇波拓。宇波拓といえば『死霊のコンピューター』という衝撃的なアルバムや、うどんを楽器にしていたのを強烈に思い出してしまうのですが、HOSE以降で知った彼の音楽があまりにも歌謡的であり、存在しない国のナツメロみたいな不思議な手触りだったのを考えると、この出会いは運命的だったのかもしれない……とか思いました。





 アルバムを繰り返し聴いていて「やっぱ、こういうのを聴かないとダメだよ、みんな!」と大声で叫びたくなるような、胸の裏側がジリジリと焦げ付くような気持ちになりました。ホントに良いんだよ……。「こういう音楽を作ったら、どういう効果が生まれるか」という狙いから音楽が出来上がってるんじゃなくて、ただ、なんか音楽が生まれてきて、ドシンと地面に落ちた衝撃に震えるような……いや、よくわかんない。とにかくすごい。





mmm(MySpace)





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