村上春樹『1Q84 BOOK3』

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1Q84 BOOK 3
1Q84 BOOK 3
posted with amazlet at 10.04.30
村上春樹
新潮社 (2010-04-16)
売り上げランキング: 3


 このエントリを書くに当たって、既刊のBOOK1・2について書いたエントリ*1を読み直してみたが、そこで考えていたこととはまるで別なことをBOOK3を読んでいて考えさせられる。普段からいい加減な読書しかしないから、今回の村上春樹の新作を読む前に既刊を読み返すことなどしておらず、これまでのストーリーもあまり覚えていない状態だった、ということももちろんある。しかし、実際にBOOK3から、作者が「仕切りなおし」をおこなっているようにも感じられた。作者はインタビューでこの作品について、ヨハン・セバスチャン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を想定しながら書いた、と語っていた。かの大バッハの作品は2巻まで存在するけれど、バッハがこの作品集を最初から「2巻出そう」と想定していたわけではなかろう。まず先に1巻の24曲を書き、評判が良かったし、上手く書けたから2巻目に着手した。まぁ想像にすぎないが、そんなところではないだろうか。そういうわけで『1Q84』についても、BOOK1・2で完結していてもおかしくなかった、と私は考える。最初、その仕切り直し感にうまく馴染めず、どうしたものかと思ったのだが、親切な「振り返り」が作中に織り込まれため、だんだんと馴染んだ。そうして結局は「素晴らしい作品だ」と結論付けるにあたった。自分の作品の世界観をちゃんと明確に提示できる作家の技量に、もっと驚愕すべきなのではなかろうか。




 BOOK3の世界は、既刊よりもシンプルだ――というよりも、これまでにバラ撒いてきた謎を説明してきているようにそう感じるのかもしれない。なんだかわからない不気味な、権力的存在であった「リトル・ピープル」は、世界の原理であることが示される。もちろん、その世界の根本原理は、現実的なものとは違う。その違いは、ふかえりという少女を媒体として、青豆が天吾の子を授かる、という超常現象的な現象がおこることでもわかる。また、その違った根本原理がしかれた世界の象徴として、1Q84年には空に二つの月が浮かんでいる。しかし、ここで描かれるフィクションの世界は、単にお話の舞台などではないようにも読める。逆説だが、違った原理がしかれた世界を作者が描くことによって、我々がいる現実的な世界にもある種の原理がしかれていることを作者は主張しているのではないか、と思われるのだ。それをシステムの暗喩と捉えていいものかどうかはわからない(世界はシステムを内包するものだ)。その原理が示す世界の成り行きは、良いものなのか、悪いものなのか、我々には判断することができないことだけは確かだ。それが原理であるがゆえに、その原理が良いものだ、と仮に(人格を与えて)判断するならば、それは原理的には良いものであるし、それがその原理がしかれた世界に生きる人間の価値観からズレたものだったとしてもおかしくはない。スピノザ的な世界観、とでも良いのだろうか。スピノザの感覚で言えば、現実は常に正解*2なのである。その現実はいかにハードだったとしても。





 一方、ここでそういった原理に対立するものがいる。BOOK3の青豆ははっきりとその原理に対して、異を唱える。彼女は自分の意思、世界の原理ではない自分の原理を尊重する。その反抗には、天吾も加担することになる。なぜ、そのようなことが可能なのだろうか?――世界がそのような原理をもっているならば、彼女たちはその原理に従わなくてはならないはずだ。なんといっても、彼女たちはその世界の一部なのだから。だが、彼女たちが世界に反抗できる理由もまた明確であろう。彼女たちは、別な世界からその世界にやってきた人物なのだから。そうであるからこそ、ひとつの物語のなかで、いわば(宮台真司の用語系を用いれば)「主意主義と主知主義の対立」が可能となる。世界はすべてなんらかの原理にしたがって動いているという立場と、いや、そうじゃない人間の個々の意思によって世界は成立しているという立場の対立。ちなみに私はどっちが主意主義で、どっちが主知主義かいつも忘れてしまうのだが……。





 BOOK3の終わりではまだ、この対立する二項のどちらが最終的に「勝利」を収めるのかはわからない。とりあえず、青豆と天吾は出会い、そしてリトル・ピープル的な世界からは脱出した。しかし、青豆と天吾の子はどうなるのだろう? リトル・ピープル的な世界で生まれたものは、その世界に戻らなくてはならないような論理が働くのかもしれない。または、彼女たちが脱出した先の世界にもまた別な原理があるのかもしれない。それはおそらく書かれるであろう、BOOK4を待たねばならない。こうして待たされることだけでも貴重な経験だ。見かけよりも遥かに大きなものごとが、この物語には含まれているように思う。遥かに大きいだけに、実は中身がスカスカ、ということも十分ありうる。今のところは、楽しく読めた。やはり、村上春樹は特別な作家なのだ。






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アリストテレス『ニコマコス倫理学』(上)

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ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)
アリストテレス
岩波書店
売り上げランキング: 53571


 アリストテレス強化期間。岩波新書の『アリストテレス』で助走をつけて*1、早速『ニコマコス倫理学』に突入。この作品は、アリストテレスの息子、ニコマコスが編纂した倫理学についての著作で、別に「ニコマコス倫理」という特別なものではない(ということを最近になって知った)。内容のほうは「どんな技術も、研究もなんらかの『善』に関連してるんだぜ」→「そもそも『善』ってなんですか」→「それは徳の高い生活をすることだよね」→「徳ってなんですか」→「そりゃあ、中庸のことですよ。過ぎたるは及ばざるが如し、って言うしさ」っていう感じで、アリストテレスは中庸を推奨する。中盤はひたすらいろんな性質における中庸について探求している。読んでいると、こんなにもしつこく中庸、中庸、といい続けるこのオッサンはなんなのであろうか……とゲンナリくるのだが、随所に興味深い部分があり、読みきれた。プラトンを読んだときもそうだったが、このへんの古代ギリシャ哲学の著作を読んでると「そうだ! 俺も徳の高い生活をしなきゃ!」とか思ったり思わなかったりする。






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平井浩「ルネサンスの種子の理論 中世哲学と近代科学をつなぐミッシング・リンク」(『思想』2002年12月号)

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 『ミクロコスモス』(id:microcosmos2010)の編者であり、Bibliotheca Hermetica*1の主宰である平井浩氏の論文を読む。論文はこちらからダウンロード可能。大変面白く、勉強になった。こういうものが無料で読めてしまうのが恐ろしい……。論文のストーリーを簡単にまとめると「自然の各事物の個別性を決定するもの」について、人はどのように考えてきて、そしてどのように近代科学の原子論・分子論へと発展したのか」というところになると思う。『ミクロコスモス』で精神史の世界に踏み入れたなら、次にこの論文を読んでみると『ミクロコスモス』で呈示されている世界観の豊かさがより一層愉しめるようになるだろう。





 高校までに学ぶような世界史観からすれば「近代のはじまりには何か爆発的な革命があって、それが現代にいたるまでの進歩につながった」みたいなストーリーを描きがちである。「科学革命」なんてことだし、私もそういう風に思っていた。しかし、この論文が言うところには「『革命』なんて言い方は、歴史の断絶を認めるものだろう。ちゃんと流れを調べていくと漸進的な発展があるのだ」という意図があるように思った。論文のネタバレになってしまうが「近代科学の基礎を築いた巨人たちの一人であり、合理的な「機械論者」といわれる原子論者ガッサンディと「神秘主義の錬金術師」というレッテルを張られて片づけられがちなファン・ヘルモントが、セヴェリヌスの『哲学的医学のイデア』という全く同じ典拠を共有し」ていたのである。そういう意味で、これは歴史の連続性、っていうのを強く感じさせる論文だと思う。ミッシング・リンクをつなぐ、という論文の副題はどこにも嘘がない。






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読売日本交響楽団 第492回定期演奏会 @サントリー・ホール 大ホール

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 読売日本交響楽団、2010年シーズンのサントリー・ホール一発目は今季より第9代常任指揮者に就任したシルヴァン・カンブルランの指揮。この人のこれまでの仕事についてはほとんど知らず「アンタ誰?(青島だぁ)」状態で聴きに行く。プログラムは以下。



ベートーヴェン/序曲《コリオラン》


マーラー/交響曲第10番から《アダージョ》


シェーンベルク/交響詩《ペレアスとメリザンド》



 中プロにマーラー、メインに初期シェーンベルクの重量級交響詩を持ってくるあたり、気合は充分、と言った感じだが、正直、前中は普通(か、それ以下)な演奏に思えた。ベートーヴェンはまだ良かったが、問題はマーラー。冒頭のヴィオラからして微妙な乱れがあり、終始ピリッとしない演奏が続き退屈した。管楽器はおおむね良かった気がするが、弦楽器が残念だった。あとカンブルランは、写真だと太っていそうな雰囲気なのだが足とかが細くて意外。





 やれやれ、新シーズン一発目からこれで大丈夫かいな、おぉん? とため息をつき迎えたメイン。これがオケが全部入れ替わったような素晴らしい演奏だった。ワーグナーの3時間を40分に圧縮したかのよいなシェーンベルクの複雑な楽曲をカンブルランはガシガシと振りさばいていく。これが新しい常任指揮者の本気モードなのか……と驚きながらロマン派末期のグズグズに熟れまくった響きを堪能したのだった。満足。





 ちょっと小耳に挟んだところによれば、この人も今回の来日の際、アイスランドの火山の影響で大変な苦労をしたそうである(まぁ、それと演奏は別問題だと思うが)。終演後、日本人にも分かるようなスピードで「毎回ベストを尽くす」と宣言してくれたので今後も期待したい。





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山本光雄『アリストテレス 自然学・政治学』

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アリストテレス―自然学・政治学 (岩波新書 黄版 21)
山本 光雄
岩波書店
売り上げランキング: 205090



 昨年はプラトン強化期間として集中的にプラトンを読んだが、今年はプラトンの弟子であったアリストテレス強化期間を設けたい。その足がかりとして岩波新書の入門書を手に取った。自然学から論理学、倫理学、政治学と大変広範な領域をもっていたアリストテレスだが、この本はそのなかでも自然学と政治学についての紹介となる。本来はアリストテレスの全仕事を紹介するものであったらしいのだが、途中で著者が脳梗塞で倒れてしまい部分的なものに終わってしまったようである。





 いわばこれは未完の仕事だったわけだが、それが惜しまれる良書だったと思う。前半の自然学は中世思想、ルネサンス思想を理解するための基盤を作るために良いし、後半の政治学はアレントの政治学の議論を思い出すきっかけとなって勉強になる。あと冒頭でアリストテレスの生涯も紹介されているのだが、彼がアレクサンドロス大王の先生だった頃に何を教えていたのか、については何も伝わっていない、というところが興味をひいた。誰かその歴史的空白を埋めるアリストテレス×アレクサンドロスのBLとか描けば良いのに。





 世の中に存在するものは、なんらかの目的をもっており、その目的とはなんらかの形で「善」である。これをひとつのアリストテレス思想の根本として捉えると、自然学と倫理学、政治学のつながりが見えてくるように思える。アリストテレスは自然学において、モノの本質を分析しようとした。その本質のためにどのような変化や生成が起きているのか。四原因論に分けて彼が見極めようとしたのはこの点だ。モノの本質もまた善につながるにちがいない。ならばモノはどのように善とつながるのか。





 一方、倫理学で問題となるのは「なぜ、すべての物事は善に向かうはずなのに、人間は過ちをおかしてしまうのか」という問いに答えるものであったと思う。倫理学と言えば「○○するのは良い/悪い」を決める道徳の一種のように思えるのだが、ちょっとここでは違っている。人を善への向かわせるにはどうすれば良いのか。ここで政治学が要請される。アリストテレスの政治学が倫理学の延長であったのは、こんな理由があるのだろう。「みんなが善に向かう理想の国家とはどんな国家なのだろう?」。アリストテレスは『政治学』という本の中で、理想国家を設計する。これは彼の師であったプラトンもおこなってした。





 しかし、アリストテレスが設計したのは今日の視点で見れば超全体主義的な管理社会であったのに驚いた。そこでは国家が安定して良いものとなるために、結婚や出産をコントロールするための法が立てられる。生まれつきの障害を持つこどもは、育ててはいけないし、出生数が限度を超えたら堕胎が推奨される。セックスについての法もあり、育児についての法もある。そしてさらに驚くべきなのが、これらがみな「自由人」であるギリシャ市民のための法なのである。この国家のどこに自由があるのだろうか? と首をかしげるのは必須だ。





 すべてが組織化され、永続的に運営される国家。それは消滅する国家よりも善である。私はここに強烈な印象を受けた。ファシズムやスターリニズム。これらは20世紀が生み出した最大級の悪と考えられているけれども、アリストテレスの時代からすでにその萌芽が存在していたのだ。未読のアレントの『全体主義の起原』を早く手に入れたくなってしまった。





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藝大21 創造の杜「ヤニス・クセナキス 音の建築家」 @東京藝術大学奏楽堂

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クセナキス、数学使って曲書いてた人!


クセナキス、戦争で片目を失った人!


(真心ブラザーズ/拝啓、クセナキス)



 存在しない歌詞の引用から書き出してみたが、クセナキスについて割とよく知られていることを並べてみると以上のようになるだろう。ただし、作曲をどのように行ったか、という背景は音から読み取れるわけではないので「ポワソン分布が……」、「フィボナッチ数が……」云々言われても「So what?」である。正直な話「数学を使って作曲をする → 評価される」という判断は私にはよくわからない。本日のコンサートで配布された詳細な作品解説によれば、彼が確率理論を用いて作曲する目的とは「『作品創造の過程にとって最小限必要となる論理上の制限は何か』という問いへの答え」であるらしい。クセナキスが残した論考に「メタ音楽に向けて」というものがあるらしいが(未読)、この解答を見る限りは確かに彼の音楽はメタ音楽、音楽を考えるための音楽、と言って良いのかもしれない。とりあえず、単に複雑で、何が鳴っているのかもよくわからない作品を書いてた人ではなかったようである。本日の演奏作品は以下のとおり。



《ピソプラクタ》


《イオルコス》(日本初演)


《メタスタシス》


《シルモス》――弦楽合奏のための


《デンマーシャイン》(日本初演)



 演奏は藝大フィルハーモニア。指揮はジョルト・ナジがアイスランドの火山噴火の影響で来日できなくなったので、ダグラス・ボストックという人に変更になっていた。開演前に主催者側からそれについての説明があったが、正直こんな作品の指揮を急遽依頼されたらビビるだろうな……と思った。ただ、振り間違っていても、ほとんどの人は気がつかないと思うが。プログラムにある日本初演作品は晩年の作品、そのほかは初期の作品。《メタスタシス》から《シルモス》の間に休憩が入ったが、そこでワインを一杯飲んだら、後半爆睡してしまってね……。後半はなんかぼんやりとした記憶の中で、コンバスの人が必死でグリッサンドをしてたり、リッチなクラスターが鳴っていたり、という印象しかない。前半はしっかり聴いた。





 まず《ピソプラクタ》。これはCDでも持っていて「なんかパタパタ言ってる曲」ということを覚えていたのだが、今回生で聴いて弦楽器群が楽器の胴をパタパタ叩いている音だということを確認した。すごかったですよ、この光景は……。楽器編成は弦楽オーケストラとシロフォン、ウッドブロック、2管のトロンボーン。弦楽はところどころ細かく分割されていて、いろんなところからパタパタ音が聴こえてくる瞬間がある。こういうの「あ、生で聴けて良かったな」って単純に思えるから良い。





 次に日本初演の《イオルコス》。これはスゴかった。現代音楽版サウンド・オブ・ウォール、っつーか、超ブ厚い音の塊に圧倒されまくりのリッチな作品だった。おそらく録音してもマイクに収まりきらないであろう超高密度。弦楽器がひたすらクラスターを奏でているのに対して、チューバがベースっぽいフレーズをひたすら吹きまくる(チューバと一緒にほかの楽器が動いていたかもしれないが、ぜんぜん聴こえない)。クセナキスの後期作品はリズムや和声の面でもポップなものがあった気がするんだけど、これもひとつのポップ化なのかも。もっと良いホールで、もっと良い席で聴きたかった。





 《メタスタシス》はクセナキスの出世作となった作品。《ピソプラクタ》もこの作品も、1950年代半ばの作品なんだけれど、この時期でこの極北感、いくところまで行ってしまった感っていうのはすげぇなぁ、と驚いたりする。これに比べたらブーレーズにもシュトックハウゼンにもノーノにも、詩的でロマン派な感じがするもんね……(あくまで個人的な印象の話だけれど)。クセナキスって私にとって「なんだかよくわからないけど、エラいことになっている曲」を書く人代表ってわけで、ある意味《メタスタシス》はその記念碑的な作品である、と思った。





 演奏の全体的な感想としては(指揮者の変更の影響があったのかもしれないけれど)、ちょっと整理されていない部分があったような気がする。一回の演奏会がまるごと全部クセナキスっていう演るほうも、やっぱりツラいのだろうなぁ。平均的な演奏で5曲聴くよりは、1曲でスゴい演奏が聴けたほうが嬉しい、っていうのも感じた。ただ、まるごと全部クセナキス、っていうお祭り感みたいなのは楽しい。どっちもどっちだ。まるごと全部シュトックハウゼン、とかあったら是が非でも行くだろうし。





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アンソニー・グラフトン『カルダーノのコスモス ルネサンスの占星術師』

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カルダーノのコスモス―ルネサンスの占星術師
アンソニー・グラフトン
勁草書房
売り上げランキング: 88028



 16世紀ルネサンス期のイタリアに生きたジロラモ・カルダーノは医者であり、数学者であり、哲学者であり、占星術師だった。医学と数学、哲学は今でも立派な学問として(哲学はそうでもないか?)通用するジャンルだが、ここに占星術が入ってくると少し不思議な感じがするかもしれない。なぜ学者が占星術――ものすごく簡単にいうと星占い、だ――を? しかし、カルダーノにとっては医学と占星術は密接に関係するものだった。人間の健康は、星の動きに多大な影響を受ける。ゆえに、天文学を経由して星の動きを学ぶことは、人間の身体を癒す術を学ぶことだったのだ。だからカルダーノの多彩な活動は「ルネサンス的な万能人」と単に思われるべきではなく、合理的な結びつきによってなされた、と言って良いのだろう。星と身体の関係。いまではオカルトとして処理されてしまいそうな話だが、それが理屈として通用する時代の精神にまず驚かされる。16世紀のイタリアと、21世紀の日本における世界の認識のズレがシンプルな興味を生み出し、「読ませる」ための推進力を与えている。





 アメリカの歴史学者であるアンソニー・グラフトンが描き出す、カルダーノの姿がなんと魅力的なことだろう。筆者は、カルダーノの占星術師としての業績に焦点を当てているのだが、その仕事は非常にクレバーで、しかも虚栄心に満ちた意思によってなされているように解釈される。たとえば、彼が出版した当時の著名人(カール5世や、フランソワ1世、またはスレイマン1世)たちのホロスコープ(誕生図)。これはその人の生まれた瞬間の星の位置を示したもので、ここからその人の運命や性格などを占うものだ。これは大変評判が良かったそうで当時のベストセラーにもなっていた。そしてその評判を、彼は医者の仕事が繁盛するように利用した。その目論見どおりに彼は医学会の権威的存在になっていたようだ。有名な人なら良い医者に違いない、そういう人の思い込みは現代にもありそうだが、カルダーノはそういった心理を上手く利用していたのだ。





 カルダーノは誰彼かまわず悪口を浴びせる最悪な性格の持ち主で、インポで、小児性愛者で、でも偉大な業績を残した学者で……という「変人」としかいいようがない複雑な人だ。善悪が奇妙に同居するこの複雑な性格に私は興味を持った。複雑といえば、この人の占星術に対する態度も相当複雑なものである。有名な占星術師なら、ホロスコープからその人の運命を読み、そしてその主張を絶対に曲げないのだろう、と思われるかもしれない。そして、それがよく当たったからこそ、有名になったのだろう、と。だが、それはちょっと違う。カルダーノが予言したことは大して当たっていないし、彼自身「星の動きは絶対じゃない。っていうか星の影響を我々は乗り越えなくちゃいけない。あと、星の運行から占いをするよりも、思いつきでなんか占ったほうが当たる」とよくわからないことを言っているのである。





 ここでまたカルダーノのなかに対立を見出すことができるだろう。占星術的な理論と直感的な非理論。現代人からすれば、占星術が理論的なものだと考えられていたことが「やーねー、昔の人は!」と鼻で笑うべきものかもしれない。しかし、現代人であって、電気とインターネットがある科学の時代に生まれながら、占いやスピリチュアルを信じたりしている。我々はカルダーノを笑うことなどできないだろう。本書が描き出すカルダーノのなかには、過去にいる我々とは違った他者と、現代の我々と同じ自分を見出すことができるのだから。





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新世紀トマス・ピンチョン

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 遅ればせながら『新潮』のトマス・ピンチョン特集が収録されている号を購入して読んだ。特集タイトルは「新世紀トマス・ピンチョン」。語感からは明らかに「エヴァンゲリオン(あるいはヱヴァンゲリオン)」への目配せを感じるが、ピンチョンの『ヴァインランド』以降の作品は未邦訳だったことを考えれば的確なタイトルなのかもしれない。佐藤良明監修による新訳は「ピンチョン 2.0」なのか!? 今年6月の『メイスン&ディクスン』(柴田元幸訳)から、3ヶ月に一作品。2012年まで続く「トマス・ピンチョン全小説」から目が離せない! それにしても最新作『インヒアレント・ヴァイス』まで収録されるとは!!





 特集の目玉はなんと言っても「七大長編書き出し全集」(特集と言ってもほかには、池澤夏樹・柴田・佐藤による鼎談記事と都甲幸治による『ピンチョンをインテリから奪い返せ!』みたいな変なアジテート文しか載ってないが)。これを読んで改めてピンチョンの小説家としての上手さに圧倒されたのだった。「文章の良し悪しは、書き出しの3行で決まる」と誰かが言っていたと思うが、ピンチョンのはじめの3行はどの作品も素晴らしくカッコ良い。





 デビュー作の『V.』にしてもそうだ。ノワール風の雰囲気をもってはじまり、「ミセス・バッフォーのいわゆる『チューチュー・タイム』(酒場にあるビールの蛇口にゴムの乳首がついていて、それに食いつくために水兵たちが大暴れする)」まで怒涛に流れていく冒頭部分の疾走感が最高に素晴らしい。佐藤&小山太一によるこの新訳は、スピードが3割増しになってる感じがした。池澤・柴田・佐藤による鼎談でも語られているが、この作品を26歳で書いたピンチョンという人はスゴすぎる。





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Jim O’Rouke/All Kinds of People - love Burt Bacharach -

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 最近ではジョアンナ・ニューサムの新譜のミックスをおこなったりもしていたジム・オルークの新譜。去年もソロ・アルバムを発表していたし、大変働き者である。今回はバート・バカラックのカヴァー・アルバムで、ヴォーカルで参加しているアーティストが細野晴臣、サーストン・ムーア、カヒミ・カリィ、坂田明、中原昌也(!)……今をときめくやくしまるえつこなどなど名前をあげるだけでも目が眩みそうな面々が名を連ねている。演奏で参加している人たちも、ドラムはウィルコのグレン・コッチェ、勝井祐二、黒田京子……などとスゴいラインナップだ。なんとなく大友良英の『山下毅雄を斬る』や『see you in a dream~大友良英 produces さがゆき sings~』を思い出してしまった。もちろん、音はぜんぜん違うのだが。





 ここで大友良英とジム・オルークの共通点を「働き者」で「ギタリスト」で「プロデューサー」なんて具合に並べても仕方がないのだけれど、どちらのミュージシャンもその人にしか作れない独自の世界観を音によって呈示できる人なのは確かだ。ジム・オルークの世界とは私にとって、無垢で瑞々しく、しかしいたずらっぽい「こどもの世界」である。それは今回の白を基調としたアルバム・ジャケットのイメージともリンクする。こどもの世界の再現、あるいはその世界への憧憬、とでも言うのだろうか。日常のあわただしさの隙間に、そういった楽しげな世界がスッと滑り込んでくる。この瞬間がとても良い。ひとりの音楽消費者として、こういう音楽に出会えたことをとても嬉しく思った。





 また、青山陽一の歌をこのアルバムで初めて聴いて「このメガネの人は、こんなステキな歌い手だったのか!」と驚いた。こういう企画盤は知らない人に出会えるのも楽しい。





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ダーティハリーをシリーズ全部観るよ #2

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ダーティハリー3 [Blu-ray]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-11-03)
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 「3」になると音楽がラロ・シフリンじゃなくてジェリー・フィールディングになっている。この人、『ワイルドバンチ』なんかも手がけてるいわゆる大家らしいんだけど「もし、バーンスタインがジャズ・ロックを手がけたら……」みたいなインチキくさい音楽を書いていて、なんとも言えない味わいだ。ハリウッド風のジャズ、というか、ホンモノのジャズっぽくない感じというか。初めて『こけざる組曲』を聴いたときに感じた「ニセモノっぽさ」と似ている。これだけでもかなり違和感があるのだが、「2」までとは明らかに別物っぽい映画な気がした。まず、イーストウッドがかけているサングラスが、「2」まではスポーティな感じだったのに、ティアドロップ型の松方弘樹がオーストラリア沖でカジキマグロを釣るときにかけてるヤツみたいになってるし、「1」でキャラハンの上司っぽい人をやっていた人が「3」でまた出てくるが、すごく顔色が悪かったりする。





 ここでもキャラハンVS制度(あるいはシステム)の対立は描かれている。今回は選挙前に人気取りに奔走する市長とその取り巻きやら、女性の積極的な社会参入みたいな流れが、キャラハンの「悪党なんか殺しちゃえば良いんだ」イズムの邪魔をする。「3」のホントの悪役は、時代遅れのヒッピーくずれ。こいつらが武器倉庫を襲って、バズーカやら爆弾やらを手に入れ「お金をよこさなかったら、暴れるぞ!」と脅迫状を出すのだが、大した主義主張もなくほとんど行き当たりばったりに行動しまくる。キャラハンはそれを追うのだが、相手に主義主張がないせいか、彼がなぜこんなに頑張るのかがものすごく不明瞭だ。敵に相棒が殺されたからか?(この殺される相棒は『2』で射撃大会に出てた人だった)一向に、理由はわからないが、イーストウッドが頑張る。敵から奪ったバズーカを敵の最後の生き残りに向けて放つ。皆殺しである。途中で停職になってるのに。





 はっきり言って不細工な映画なんだと思う。でも、妙に愛らしく思えてくるところが不思議だ。一応、正義のために闘っている風なのだが、彼が守っている正義は、敵のヒッピーくずれと同じくらい陳腐なものであることが明らかになる。この点にキャラハンも気がついている。上司も市長もどうしようもない阿呆である。にも関わらず、自分はそのために頑張ってしまう。放っておけば良いのに、イーストウッドが頑張っている。ほとんど病気の正義漢。そこに魅力を感じてしまうのかもしれない。なんだかすごく好きな作品である。





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勉強の止め時がわからない

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 今度の日曜日に「データベーススペシャリスト」という資格試験を受けるため、その勉強を続けている。会社員になって早4年目。コドモの頃は「オトナになったら勉強しなくていいんだ!」と信じていたのに、オトナになってみると「仕事をしたうえに勉強しなくちゃいけない」という二重苦に陥っており、だまされたような気がしてならない。いや、コドモの頃、周りに勉強しているオトナがいなかったから勝手に思い込んでいただけなのかもしれないが。とはいえ、これまで私は勉強しかしてこなかったタイプの人間であるため、勉強しない生活を続けるとなんだか罪悪感に苛まれるのである。やめようにもやめられない感じもするのだ。フーコーの言葉を用いるならば、規律の内面化! であろうか。





  • 基本情報処理技術者

  • 応用情報処理技術者

  • 銀行業務検定3級の資格(×3)

  • 簿記3級

  • 生命保険系の業界資格(たくさん)



 会社員になってから取った資格を数えてみたら以上のような感じになった。「たくさんとった」という感じもするし、リスト化してみると「そんなに立派でもないな」という感じもする。少なくとも「もういいや、もう満足」という感じはしない。果たして、自分はどこで勉強をやめて良いものやらよくわからないのである。一応、IT業界に身をおくものとして「資格は持っておいたほうがいい」と言われるし、会社からも「資格とったらお金あげるよ」と言われている。なので「データベーススペシャリスト」の受験申込をしてみたのだが、あまりの勉強のツラさに「俺はもう、これ以上(情報処理処理系の)資格は取れないんじゃないか? もうこの支配から卒業しても良いんじゃないか?」と思った。





 こんなツラい思いを続けるよりも、机の傍らに積み上げられている読んでいない本を読んでいたほうが、意義深い人生が送れるんじゃないか? 大体、資格なんか実務でまったく役に立たないし(そもそも実務でデータベースの設計なんかやってないし)、上位資格を取っていっても劇的に給料があがるわけでもない……というのは、勉強をしない方向に進むための自己合理化である。劇的に生活をかえるなら、公認会計士とか、税理士とか、そういう方向に進めば良いのか? それは今よりもツラそうだ。





 高収入が望めそうな資格に挑戦しようとすると、今よりもきっと「ホントに受かるのか? この努力って無駄なんじゃないか?」って意識に悩まされるだろう。去年、マジで勉強して中央大学の法科大学院を受験して(落ちたとき)「あ……すっげー、無駄な時間すごしちゃったんだな……あの時間で何冊本を読めたかな」って思ったしなぁ……とかいうのもやっぱり、楽なほうに逃げるための口実であって、そういうのを認めちゃうのはダメだ! とか思う。





 結局何が言いたいかというと「勉強の止め時がわからない」っていうことである。とりあえず勉強を止めるための決定的な理由が、今の自分にはない。他の人はどこで止めてしまうのだろうか? 「こどもができて時間がとれなくなった」とか「仕事が忙しくなりすぎちゃって……」とか、まぁ色々あるのだろう。勉強を止めるにあたって「これは逃げじゃない。仕方がないことなんだ」と折り合いをつける理由を見つけることは難しい。





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ジェイムズ・ジョージ・フレイザー『火の起原の神話』

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火の起原の神話 (ちくま学芸文庫)
J.G. フレイザー
筑摩書房
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 『地獄の黙示録』のカーツ大佐も、南方熊楠も、柳田国男も『金枝篇』という本を愛読していた。これは世界中の未開社会における神話・呪術の研究書である。最終的には全十三巻に及ぶ超大作となったこの書物の作者がジェイムズ・ジョージ・フレイザーというスコットランド生まれの男。最近になってちくま学芸文庫に収録された『火の起原の神話』は、この人の晩年の著作だが、本の内容はタイトルどおり「世界中の民族に伝わっていた『火の起原の神話』」を収集し、考察を加えたものとなっている。収集された神話は、地域によってヴォリュームに差が大きいが、地球全体を網羅する。極めてマニアックとしか言いようがないが、なかなか興味深い本だった。





 思考をひっくり返すような考察があるわけではないのだが(というかフレイザーの考察は極めて短いのだ)、淡々と紹介される無数の神話に含まれた、まったり感が楽しい。たとえば、ポリネシアのあたりでは、人類に火をもたらす動物として犬が活躍している神話が多い。これがちっとも英雄的な犬ではなく、せっかくもらった火を途中で何度も消してしまい、そのたびに火をもらいに戻ったりを繰り返す、適度なアホ犬なのである。こういったアホ犬が、さまざまな部族の神話の中で活躍している、という事実を知ると「人類もなかなか悪くないんじゃないか」と思えてくる。





 神話の中では当然、火がなかった頃の人々の暮らしも語られている。当然そこでは「調理」という概念がない。食事はみんな生のままか、辛うじて日干しにして食べていた。想像できないぐらい嫌な食生活であるが(生のカタツムリを食ったりしてんだよ……)、神話のなかでも「昔は火がなくて、大変な暮らしでねぇ……」と苦労が語られているところが良い。なかには、火のない人間界に嫁入りした女神様が「こんな生のモノしか食べられない世の中はいやだ! 生の食事を続けるなら死んでやる!」と父親の神様にダダをこねることによって、人間界にも火がもたらされる話とかがある。私は、火がある世の中に生まれて良かった……と切に思うのであった。





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最近読んだ漫画について

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 諸星大二郎版『西遊記』、第二部突入――この巻は、一行がようやく唐を出て、三蔵法師のお供が三人揃ったところで終わっている。最後に登場するお供は沙悟浄なんだけど、すっげー意外な人物が沙悟浄になってびっくりした。沙悟浄と言えば「なぎなたみたいな武器を持ってる」というイメージが強いのだが、第一部で何人かその武器を使ってるヤツが出てくるから、私はてっきりその中の一人が沙悟浄なのであろう、と思っていたのである。まさかアイツが……(しかもめちゃくちゃ強い)。



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 『まんが道』五巻は、才野と満賀がはじめてのファンレターをもらうところまで。読んでいて普通に「俺も頑張ろう……仕事でミスをしてもクヨクヨしないぞ!」と励まされるのだった。立山新聞社で働く満賀の上司、学芸部部長の虎口さんがまた良い人でねぇ……。





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ダーティハリーをシリーズ全部観るよ #1

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 「そういえば『ダーティハリー』って最初のヤツしか観てないな」と思い、とりあえず「1」~「3」までソフトを買ったのだった。律儀な性格であるため「1」から観て行く。何度も観てるけど、スコルピオの太ももにナイフがグッサリ刺さるシーンは笑うなぁ……。「イ゛ィィィィッ!!」ってちょっと聞いたことがない声である。



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 続いて「2」を観たんだけど、この「1」→「2」の流れはとても面白かった。映画は街で大きな顔をしているギャングの親分が証拠不十分で釈放されるところから始まる。「なんで釈放なんだ!」とサンフランシスコの市民はすごく怒って暴動みたいになる。「アイツは悪いヤツだと決まってるんだから、捕まるのが当たり前だ!」という民意がここで提示される。その民意に応えるように暗躍する武装警察官、街の掃除屋と言わんばかりに悪人を(不法に)殺しまくるこの警官をハリー・キャラハンが追う!……のだが、「2」の犯人はハリー・キャラハンと行動原理があんまり変わらないのであった。つまり「2」の犯人はキャラハンと鏡の関係にある。どちらも大変な正義漢だ。悪いヤツが死ぬのは当たり前だし、率先してブッ殺すべきだと思っている。実際、犯人は「俺の気持ちがわかるだろ? 仲間になれよ」と持ちかける。しかし、キャラハンはその提案を拒否する。とくにキャラハンが葛藤とかなく拒否しちゃうので、なんか勿体無い気もするが、とにかくキャラハンは原理主義的な正義の行使に加担せず、犯人と戦うことを選択する。





 「悪いシステムでも、それがシステムとして機能している限り、守るべきである(大意)」とキャラハンは言う。これはすごく微妙な発言だと思われて、すごく気になってしまった。だって「1」のキャラハンはこんな線引きしてないんだもん。「1」のキャラハンは、システムを前にして上手いこと正義を振りかざすことができず、クビを覚悟で犯人に立ち向かうが、ここではまるで間逆なことを言っている。「1」の犯人は狡猾な異常者だったから、違法行為が許されたのか? それとも「2」の犯人は目的のためには罪がない人にも犠牲を払わせていたから、許せなかったのか? あるいは「散々危険な目にあわせといて、今更仲間になれなんて虫が良すぎるっつーの!」という怒りがあったからか? いずれにせよ、キャラハンの振る舞いは大変微妙なものに思えた。「身の程を知れ」と彼は犯人に忠告する。ここにはシステムを超越して、神的な視点から正義を行使することはできない、という内在的なメンタリティが見え隠れする。しかし、キャラハンはシステム的に正しい手順を踏んだりしない。この態度をどのように受け取って良いのかとても迷ってしまったのだった。友達の元奥さんに誘惑されたり、初めて会って30秒ぐらいでアジア系の女性から「寝てくれない?」と誘われるなど、ストーリーとあんまり関係ないキャラハンのモテっぷりも気になる。システムから超越できない、と言いつつイーストウッドは軽々と超越してるような気もする。イーストウッドだから、なのか?





 ラロ・シフリンのスコアは「2」になってパワー・アップ。オープニングのテーマなんかリターン・トゥ・フォーエヴァーみたいだ。





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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#6 ムヒカ=ライネス『ボマルツォ公の回想』

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 第6巻はアルゼンチンの作家、マヌエル・ムヒカ=ライネス(1910-1984)の『ボマルツォ公の回想』を収録。2段組で600ページを超える超大作なので(これは集英社の『ラテンアメリカの文学』シリーズでも最長クラス)、少し読むのに時間がかかってしまったが、大変面白い小説だった。実在した16世紀のイタリアの貴族、ピエル・フランチェスコ・オルシーニの回想という形をとる一大歴史小説である。この時代と言えばイタリアのルネサンス真っ盛り。先日、『ミクロコスモス』*1を読み終えた私としては、パラケルススやフィチーノといった名前が出てくるのが嬉しかった。しかもこの小説ではパラケルススが結構重要な人物として登場する。





 オルシーニ家は名門貴族、主人公、ピエル・フランチェスコの祖父は枢機卿であるし、父親はものすごく勇敢な武人であった。そこにピエル・フランチェスコが生まれてくる。せむしの男として。この障害を持って生まれてきた、ということが主人公が辿った数奇な運命の原点である。主人公には、父親譲りのマッチョな兄と、マッチョではないが正常に生まれた弟がいる。障害があるのは主人公一人である。名門貴族、という誇りから障害をもって生まれてきた主人公は「生まれてきてはいけない存在」として扱われてしまう。ある日、祖父と父親が「ウチの家系にあんなのが生まれてくるわけない。きっとアイツの母親がどっかで不義を働いていたにちがいない!」と話し合っているのを聞いたりしちゃったりする他、主人公は散々な目にあう。兄にも弟にもイジメられるのだが、父親は見てみぬ振りを決め込む。主人公の母は、死んでしまっていて、彼を守ってくれるのは年老いた祖母しかいない。読んでいて、かなりしんどくなってくる展開である。しかし、この祖母を主人公を守ろうとする優しさがとても良い。





 主人公にとって祖母の存在は、守護神的なものだ。その場所にたどり着きさえすれば、主人公は必ず守られる。だから切実にその場所を守ろうとする。しかし、時は流れてゆく。主人公も男である。兄や弟が自分の領地に住んでいる女を相手に何をしているか、これを主人公は知っている。しかし、自分にはできない。別に生まれついての性的不能ではないのにも関わらず、自分のせむしという性質から不能に追い込まれていく。本来であれば、祖母が自分を守ってくれる重力圏から出たい。しかし、自らが課している「自分は醜い」という観念がそれをことごとく邪魔をしていく。本当はサッサと童貞を捨ててしまいたいのだが、彼の意思に反して肝心なときに立たない。鏡に映った自分の姿を見て、萎えてしまう。ここがすごく良かった。なんか色々あって、ぜんぜん美人じゃない太ったおばさんに、ほとんど強姦みたいに襲われて、童貞を捨てちゃう、ってところも含めて最高。





 で、いろいろあって主人公は立派な領主になり、結婚したり、子どもが生まれたりするんですが、求めていたものを手に入れるたびに幻滅したり、または、自分が持ってる障害のせいで求めているものが手に入らなかったり……というのを繰り返していく。これって『失われた時を求めて』と通ずるテーマだと思う。魔術的な色に彩られた個人史文学でありながら、恐るべき歴史文学として成立しているところがスゴい(終盤、主人公はレパントの海戦に参加するのだが、そこでセルバンテスと会ったりする)。ネット上には『ボマルツォ公の回想』総名彙なんていうシロモノが用意されているのだけれども、これを作った人がそれだけいれあげるのも納得の傑作だ。






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