松本零士『ガンフロンティア』

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ガンフロンティア (1) (秋田文庫)
松本 零士
秋田書店
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 松本零士の『ガンフロンティア』を読みました。部隊は西部時代のアメリカ。主人公のトチローとハーロックは「アメリカに漂流しそのまま定着した日本人の末裔」であり、その生き残り。ふたりはまだ大陸に潜んでいるという同胞を探して西部を放浪する……そこに謎の女、シヌノラが現れて……という話になっているのだが、基本的なところは『銀河鉄道999』などとあまり変わらず、オムニバス形式でさまざまな街をめぐり(そして街を次々に破壊しながら)旅をする。ここでのシヌノラは、松本零士の描く「母性」のひとつの性的で淫靡な変奏であるように思われ、自分が関係を持ったトチローとハーロックを助けるために、自らの体を売ることにも躊躇しないという献身は、今日においてはかなりどうかと思われる描写となっている。ホントこういうものが描ける時代があったのだなあ……というところが感慨深い。性的な描写は全体的に黒く塗りつぶされているものの結構エゲつない(5人以上を相手にした乱交、上の口と下の口で同時にビールを飲まされる、など)。



ガンフロンティア (2) (秋田文庫)
松本 零士
秋田書店
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井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
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 『神秘哲学』の「ひとりぼっちの読書会」シリーズは今後も継続させる予定ですが、ひとまず読了したので感想を書いておきます。これ読んでから気がついたのですが本編である「ギリシアの部」と、附録である「ギリシアの自然神秘主義」では、語られている内容の時系列が逆なんですね。本に収録されている順番は「ギリシアの部」→「ギリシアの自然神秘主義」となっています。「ギリシアの部」ではじめに語られるのは「ソクラテス以前の神秘哲学」なのですが、「ギリシアの自然神秘主義」では、それよりもっと時間を遡ったところから話がはじまって、終わりのところで「ソクラテス以前の神秘哲学」へとたどり着きます。なので「ギリシアの自然神秘主義」を読んでから「ギリシアの部」を読み始めたほうがいいのかもしれません。過去に出版されていた版では、この順番で収録されたものもあったようです。





 「ギリシアの自然神秘主義」は、戦前に慶應大でおこなわれるはずだった思想史の講義ノートが元にいるそうです(太平洋戦争勃発により講義計画はポシャッた)。200ページあまりで古代ギリシャ人のメンタリティーの形成を追っているせいか、その語り口は「ギリシアの部」のほうと比べるといささかスピーディーに感じられるのですが、とても面白い。とくにギリシャ神話がホメロスやヘシオドスといった詩人たちの整理(といっても良いでしょう)によって、現在伝えられている形になっていた、という部分が特に。我々に伝えられているオリュンポスの神々のイメージは、最初からあんなものだったわけではなく、元々はギリシャの神様じゃない神様だとか、いろんな神様の話がごちゃごちゃと混ざって信仰されていた。それを偉大な詩人たちが整理した、というわけです。





 こうした整理が、ギリシャ的な知性の発露として井筒のなかでは解釈される。前6世紀ごろに大流行した中央アジアに出自をもつディオニュソス信仰も、そうした力によって野蛮さをそぎ落とされて精神的な基盤へと消化されていく。また、偉大な詩人たちの仕事は、地獄、煉獄、天国といった彼岸の世界の構造を『神曲』のなかで説明するように歌っているダンテの仕事を髣髴とさせます。こうしたところから、詩人の仕事には、イメージの花をさかせるばかりではなく、すでに存在しているイメージを整える、というのがあったのかなあ、と思いました。





 素晴らしい本には違いないのですが、ちょっとした難点が。「ギリシアの部」のなかでは、ラテン語やドイツ語の原文がしばしば登場するんですけれど、これが翻訳されずに掲載されている。このあたり、今回の復刊でなんとならなかったものだろうか……。





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ジェロラモ・カルダーノ『わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯 』

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わが人生の書―ルネサンス人間の数奇な生涯 (現代教養文庫)
G. カルダーノ
社会思想社
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 16世紀ルネサンスの医者であり、数学者であり、占星術師であり、哲学者であり……という万能人的人物、ジェロラモ・カルダーノについて当ブログでは、過去に『カルダーノのコスモス』という研究書を紹介していますが*1、この『わが人生の書』はカルダーノが晩年に自らの人生をつづった自叙伝です。とても面白かった! 副題に「ルネサンス人間の数奇な生涯」とあるとおり、この人は相当に波乱万丈な人生を送っていた模様で、息子が死刑にされたり、博打に金を注ぎこんだり、10年ぐらいインポテンツに悩んでいたり、と大変ご苦労なさったみたい。こうした苦労の運命を、占星術師である彼は自分のホロスコープ(生まれた時の星と惑星の位置を記した図)から分析していて「もうちょっと太陽の位置が違っていたら、もう少し立派な人間になれたのになあ」的なことを書いている。運命は事後的に確認されるのみである、というところがなかなか悲しげで良いですね。自分の運命を分析できる、というのもなかなか難儀なものなのです。運命を知り、その運命を嘆かなくてはならないのであれば、知らないほうが良かったんじゃないか、などとも思います。





 この運命は、自叙伝の冒頭に提示される。個人的にこれは重要に思われます。やっぱり暗い星の下に生まれてしまった、という運命をカルダーノは読んでいるから、その後自分の人生を振り返るさえにも、自分はあんまり幸福な人生を送れなかった、とか、名誉とは無縁の人生だった……とか暗い方向に評価していくわけです。良いこともホントはあったに違いないのに、自分自身が読んだ運命によって自分自身の人生の評価のトーンが決まってしまっているように思われたのですね。このあたりがとても面白いと思いました。ただ、カルダーノがすごいのは、幸福じゃない、成功できなかった、名誉とは無縁だった、とあたかも「なんだかものすごい謙虚な態度をとっている人」風に振舞う一方で、自分の著作一覧の詳細や、自分が直した患者の一覧、自分が同時代の著名人の本で言及された一覧などを制作していたりするところです。思わず「自分大好き人間じゃないか!」と突っ込みたくもなるのですが、ものすごく詳細に練り上げられたリストは、フランソワ・ラブレーが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』でよく使っている面白リストの技法と重なって読めてくる。自己否定と自己愛がすごいバランスで同居しているところに、この本の奇書らしい魅力があるように思えます。この詳細さは『カルダーノのコスモス』の著者、グラフトン先生も驚いているのだとか。





 単純に読み物としても面白いもので自分の両親や一族のところから遡って紹介しはじめるところには、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を想起させるものがある。時系列的にはスターン(18世紀)のほうがずっと後なんですが『トリストラム・シャンディ』の語り口が、ルネサンス期の自叙伝の形式をパロディ化したものだったのかな、と思いました。訳者の一人である榎本恵美子が書いた解説によれば、15・16世紀のイタリアではこうした自叙伝(自分を物語る行為)が活発になったそうです。近代文学においては私小説というのがひとつの有力な形式になりますが、カルダーノの自叙伝もそうした文学史に接続できるものなのかもしれません。





 カルダーノは自分の夢に予知能力がある、という風にこの本で主張しているんですが、ここも面白かったですね。彼が見た予知夢は、夢のなかで将来起こることがそのまま表現されているわけではなく、なんとも奇妙な・不可解な夢なんですよ。それを何らかの事件があったあとで「あ! あの不吉な夢はこの事件を予知していたのか!!」と解釈が発生する。それ全然予知してないよ! という感じなのですが、カルダーノの論法によれば「なんとなく不吉な夢をみたもんで、気をつけていたから大事にいたらずに済んだのだよ」という風に前向きにとらえられる。カルダーノはそうした予知夢を、神的なものの人智を超えた意思が寝ているあいだに頭のなかに入ってきた結果だ……みたいに考えているように思えます(流入説?)。神の意思が超越的なものである、ということは言うまでもないでしょうが、夢がそうした超越的なものとの架け橋になっている、と考えるところにフロイト的なものを見出さなくもないです。



カルダーノ自伝―ルネサンス万能人の生涯 (平凡社ライブラリー)
ジェローラモ カルダーノ
平凡社
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 翻訳は訳者違いで私が読んだ現代教養文庫版のほかに、平凡社ライブラリーにも収録されている模様。しかし、どちらも絶賛絶版中!! 岩波文庫あたりに収録されれば良いですねえ。とはいえ現代教養文庫版は中古でも割合お手ごろな値段で購入可(今現在)。






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読売日本交響楽団第500回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:下野竜也


テノール:吉田浩之


男声合唱:新国立劇場合唱団


合唱指揮:冨平恭平


《第500回記念定期演奏会》


池辺晋一郎/多年生のプレリュード―オーケストラのために(2010年度読売日響委嘱作品、世界初演)


リスト/ファウスト交響曲



 2011年初めての読響定期は、第500回定期演奏会、と記念すべきものでした。池辺晋一郎の新作《多年生のプレリュード》が世界初演。初めて私が池辺先生のお姿を生で見たのは、シュトックハウゼンが最後に来日した際のコンサートだったと思います。それ以降、注目度の高い現代音楽のイベントでは必ずお見かけしましたが、本日が池辺作品を聴く初めての機会でした。正直、ダジャレをたくさん言うスケベそうなおじさんのイメージがとても強くて、どういう曲を書くのか全然知らなかったんですけれども、音楽の洗練された響きに驚いたのは、そういう強いイメージとのギャップがあったからこそかもしれません。





 コンサート前に設けられたプレ・トークで池辺先生はこんなことを語っていらっしゃいました。西洋音楽の歴史は、足元から徐々に頭のほうに上っていった。原初は大地を感じさせる表現(足元)だった音楽が、ロマン派になると作曲家の感情を表すもの(胸)となり、現代音楽になると頭で考えるものになった。ところが21世紀に入ると、もう頭より上はない。だから、もう一度「足元」からやりなおすか、それとも「胸」に戻るか、どちらかを選択しなくてはいけないと思った。しかし、もはや地面はアスファルトだらけで大地を感じることはできない。なので、「胸に響く音楽を書くこと」を私は選択したのだ。いやはや、この話の上手さもまた池辺先生の才能であり、感心してしまうところです(池辺晋一郎・壇ふみ時代のN響アワーが好きだった私としましては、ますます池辺先生時代のN響アワーが懐かしくなりました)。しかし、すごいのはしゃべりの上手さだけではなかった、と。特に感銘を受けたのは、社会主義リアリズム系の作曲家を彷彿とさせる音型やリズムが、鋭くぶつかり合う和音ではなく、まろやかな近代フランス風の和音によって装飾されているような絶妙なバランス感覚で。これは他の作品も聴いてみたいと思える好きな作風でしたね。





 後半はフランツ・リストの《ファウスト交響曲》。本年はリストの生誕200周年にあたるメモリアル・イヤーだそうで(毎年いろんな人のメモリアルがあるものだなあ)それに因んだ選曲なんだとかーーちなみにこの曲、今年少なくとも3回は日本のオーケストラで演奏されるんだって。題材に取られているのはもちろんゲーテの『ファウスト』で、3楽章のそれぞれは「ファウスト」、「グレートヒェン」、「メフィストフェレス」という題名がつけられています。ですから交響曲というよりかは、交響組曲といったほうが正確なのかもしれません。第3楽章の後半では、男声合唱とテノールが登場し、編成が非常に大規模。さながらリスト版《合唱付》とでも言えましょうか。しかし、それほど良い曲か、と問われると……。いや、私があまりリストに詳しくないからかもしれませんが、リスト・ファンの方からは「名曲」として扱われているんでしょうか? 第500回の演奏会のメインがこれで良かったのか、と思ってしまいました。





 こんな風に思ってしまったのは、演奏のせいもあったと思います。なんか雑な部分が目立っていた。特に第2楽章の室内楽的な部分。オーボエとヴィオラによるソロ、フルートと第2ヴァイオリンによるソロ(楽器の組み合わせは、すみませんうろ覚えです)があったんですが、そこで弦楽器のほうが「アレ?」という出来でテンションが下がりました。3楽章は結構持ち直した部分がありましたが、ちょっと残念な感じ。前回下野竜也が振ったときもあまり良い印象がなかったのですが、これは個人的な相性なのかなあ。でも、テノールはとても良かったです。





 コンサート後はアフター・トークとしてこんな催しが。



テーマ:「今、オーケストラに何を求めるか?」


出演:


西村朗(作曲家)


片山杜秀(音楽評論家)


江川紹子(ジャーナリスト)


下野竜也(読響 正指揮者)



司会:横田弘幸(読響 理事長)



 これ、全然期待しないで聞きはじめたんですが結構面白かったです。片山杜秀がすごいクラヲタっぽい話し方をしていてすごかったですし(慶應の先生なんですよね。きっと講義でもあのまんまの感じなのであろう……でもあの感じだったら講義は面白そうだ)、江川紹子がとても気になることを言っていました。韓国や中国出身の有名な演奏家が世界で活躍していても、オーケストラというものは国全体での音楽レベルが上がらないと技術的にも、また文化的にも向上しない。日本のオーケストラは他のアジアの国々に比べたら、アジアではまだまだ最強だ――これはチョン・ミュンフンの言葉だそうですが、彼女はそんな話をしつつ、日本の音楽文化が生き残るためには、アジアの新興国の富裕層の観光スポットとして日本のコンサートの場を提供したら良いんじゃないか、と提案していました。もちろん、音楽の本場はこれからもヨーロッパでしょう。しかし、日本にはアジアのヨーロッパ音楽を牽引する力を有している。だからそれを活用していくべきじゃないか、と。まるで大英博物館、あるいはルーブル美術館にいけない人が、大英博物館「展」・ルーブル美術館「展」にいくので我慢する、みたいな発想に思えなくもないですが、たしかに日本における西洋音楽の文化を活用する、というのは良いアイデアに思えました。





 あと下野竜也の発言も良かったですね。今、オーケストラに興味がある人はそんなにいないだろう。マイノリティである。読売新聞社の傘下のエンターテイメントだったら、読売ジャイアンツのほうが経済的にも効率が良い(ジャイアンツは一試合に4万人呼べるが、読響は良くても2000人だ)。オーケストラは不経済だ。しかし、オーケストラを聴きにいきたい、と思ったときに聴きにいける環境が東京にはある。こういう風に自由に選択できる、ということは豊かさの表れだ、と彼は言っていました。とても正論だと思います。オーケストラが存在することって、とっても贅沢なことなんですよね。しかも、世界中のオーケストラは、税金や寄付がないとやっていけない。そこには私だけではない誰かのお金が使用されているわけです。だからオーケストラは公共財ともいえるんですよ。そうした公共財を個人の楽しみとして体験できるということは、幸福なことであるし、贅沢なことである、ということを下野さんの発言で再確認できた気がします。私は、自分以外のワガママな人が許せないぐらいワガママであり、徹底した個人主義者だという自認があるのですが、オーケストラを介して社会あるいは国という枠組みの恩恵にあずかっていることを考えれば、もっと社会的な人間であるべきなのかもしれない、という反省も生まれました。





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リッカルド・シャイー/J.S.バッハ《クリスマス・オラトリオ》

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 リッカルド・シャイー/ゲヴァントハウス管によるバッハ・シリーズ第3弾は《クリスマス・オラトリオ》。店頭では昨年末に国内盤を見かけていたのですが値段がアレだったのでアマゾンで輸入盤を注文してみたら、年が明けたころに届きました。今年は「新譜」カテゴリーを作って新譜を紹介していきたいと思うのですが、クリスマスの名残などこれっぽちもない時に届けられたのが悔しいのでこれも2011年の新譜としてカウントしてスタートさせたいと思います。





 とはいえ、この《クリスマス・オラトリオ》(原題はWeihnachts Oratorium)、本来は教会の暦にしたがってクリスマスの日から毎祝日日曜に一部ずつ演奏されるものなんだって。で、第6部ある全篇が演奏されるのは、年をまたいだ1月6日。だから新年の曲でもあるようです(もう新年の空気もありませんけれどね……)。





 私はこの演奏で初めて、この作品を聞くこととなりました。解説によれば、過去の作品を転用も含む大カンタータ集という趣もあるそうです。バッハによる宗教音楽といえば《マタイ受難曲》が有名ですが、それと比べると《クリスマス・オラトリオ》はずっとポップ。例によって歌詞(ドイツ語)の意味は、もうしわけないぐらいにさっぱり分からないのですが、冒頭からにぎやかな感じがして聴いていてとても楽しくなってきます。《マタイ受難曲》は、もう最初から「重っ」という感じがするけれど、これは対照的に思えます(とはいえ、2曲目からレチタディーヴォになるので一気に荘厳な雰囲気になるんですけれど)。





 全体での収録時間は2時間ちょっともありますが、まあ、作品の性質上一気に全部聴かなくても許されるでしょう。しかし、シャイーの演奏には強い推進力みたいなものが感じられ(知らないあいだに)全部聴きとおすこともできました。それぐらい音楽がスムーズに流れていく。こういう音作りの上手さが、シャイーらしい部分の表れなのかもしれません。





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勉強を好きになる方法、あるいはボクが勉強をする理由

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「勉強が楽しい」って感覚にぼくもなってみたいです


今受験勉強中なのですが、勉強がいやです


世界史・国語・英語


「楽しく」なるにはどうすればいいでしょう?


村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話』 - 「石版!」



 少し早く仕事が終わって自分のブログを開いてみると、こんなコメントが寄せられていることに気がつきました。「勉強大好き会社員」、「大瀧詠一、岸野雄一に次ぐ『勉強家』になりたい」と自称する立場から、本日はこの質問に回答してみます。……とその前に最近のここ2週間ぐらいで見出した「ベストな生活パターン」を公開しておきます。





  • 6時、起床。Twitterなどをチェックしながら、朝食を食べ、昼食用のおにぎりを握る。身支度を整えたら、iPodで英語のリスニング練習にビートルズの「Let It Be」を聴きはじめる。これは毎朝10回聴かなくてはならないので、聴かている途中で家を出る時間になる。

  • 電車に乗る。まだ「Let It Be」が聞き終わるまではじっと音楽を聴いている。聴き終わると解放されたように別な音楽を聴き、本を読む。

  • 7時45分、会社着。始業時間まで簿記2級の勉強をする。

  • 12時、昼休み。5分でおにぎりを食べ終えてハミガキをすると、(最近はじめた)ラテン語の勉強をする。

  • 23時、帰宅。すぐさまDUO3.0を開いて例文を10個読む。その後、英語の発音練習を30分ほどする。

  • 00時30分、風呂って就寝。



 勉強してるところを太字にしてみました。仕事が繁忙期で、平日の起きている時間はほぼ仕事と勉強に費やしている、という感じですね。でもこうすると大体2時間ぐらいは勉強時間が生み出せる。もちろん、これは結構頑張らないとできないので、2日連続でこのパターンをこなしたらヘロヘロになります。そういうときは潔く休む。今日みたいにブログを書いてみたり、とか、飲みにいったり、とか。まあ、はやく仕事が落ち着けば良いんですが、仕事は待ってくれないので仕方ないです。でも、そんななかでも頑張れる。なぜならそれは好きな勉強しかしてないからです。好きな勉強だから楽しいと思えるのですし、嫌いな勉強だったら頑張れません。身も蓋もない言い方ですけれど、勉強を楽しくするにはその行為を好きになることしか解決策はないと思います。





 でも、そんなのできないですよね。だって今勉強が楽しくないんだもん。好きになれっこないですよ。大学受験勉強なんか何の役に立つか分からないし、実際私も役に立った覚えがないです。ただし、奇しくも質問を下さった方と大学受験の試験科目が一緒なんですが、私の場合あんまり勉強で苦労した覚えがなかったかもしれません。今振り返れば、ですけど。国語に関して言えば、たまたま現代文は勉強しなくても解けたので古文しか勉強しませんでした(漢文が出題される大学は受けてません)。世界史は世界史の先生がとても好きだったのと、音楽を聴きながらでも暗記はできたので楽に勉強できました。この二科目で点数を稼いで、英語はごまかしごまかし……という感じですね。っつーか、こどもの頃から勉強が人よりちょっとだけできることぐらいしか取り得がない自覚が薄々あったので、大学受験の頃にはすでに自然に勉強ができる体質になっていたのかもしれません。





 しかし、それなりには勉強をしていたハズです。高校三年生の夏に部活が終わって、そこからはそれなりに受験生っぽく勉強しました。そのおかげで、普通よりはネームバリューがある大学に入れて、(時期が良かったのもあるけど)普通にお給料がもらえる仕事に就けて、美人な奥さんと結婚して、今こうして限られた時間ではあるけれども好きなことだけを勉強できる生活が続けられているのだと思います。だから、質問された方には強くオススメしておきます。楽しくなくても、役に立たなくとも勉強はしてたほうが良いです! 勉強しろ、と誰かに言われてる間に勉強しておくことが、それなりの幸福を得るための近道として半ば制度化されている、といっても良い状況なのだからそこは流れに乗っておいたほうがラクチンですよ。そういう制度が嫌だ! という場合は、なおさら勉強して政治家にでもなり、そうした制度を変革すれば良いのです。間違ってもボロけたジーンズや薄汚れたカーディガンを着て、髪をボサボサに伸ばし、軽く欝っぽい歌詞を歌うロック・バンドを始めて体制批判などしないでください。たくさん勉強して政治家になる。そしてこの体制を変える――という夢を抱いたとき、勉強は目的を実現するための手段となるでしょう。もし本当にその目的を達成したいのであれば、勉強は楽しくはないかもしれないけれど、苦ではなくなると思います。というか、そう思えなかったら「目的をかなえたい」という態度は嘘の態度だと思います。





 私の高校時代の同級生の話をしましょう。家が学校からすごく遠くの村にあったため「村民」というあだ名で呼ばれていた彼は、ひょうきんな感じのキャラだったので、私の学年では知らない人がいないぐらい目立つ存在でした。彼はラグビー部だったんですが、その後、スポーツ推薦で入ったわけではない早稲田大学のラグビー部でレギュラーになり、レギュラーになっただけではなくそのチームのエースになって、ある日スポーツ新聞の一面を飾り、同級生の私達を驚かしました。それだけ有名になると、もう地元の村では英雄扱いなので彼の出身地である村のホームページでは、彼のインタビューを読むことができます。早稲田の大学新聞かその村のインタビューかなにかで、彼は「早稲田でラグビーがやりたかったから、受験勉強も頑張れた」と言っていました。彼にとっては受験勉強は、ラグビーをやるための手段だったんですね。そういう風に勉強ができて、目的を達成したあげく、彼は今も社会人チームに所属して好きだったラグビーを続けています。そういうのって単純に尊敬できますし、希望を与えてくれるように思えます。人間、本気で目的が持てれば嫌いなモノもやり遂げられるんですよ。





 まだ何を成し遂げたわけではありませんが、私にも目標・目的があります。そうじゃなかったら英語やラテン語なんか勉強する気になりません。正直、資格の勉強は会社で評価を得るために仕方なくやっているだけですが、これだって「へえ、会社の財産管理ってこんな風にやってんのね」と結構発見があって、結構楽しいのです。そしてそこには会社で評価を得る、という目的がある。評価を得ると給料が他の人よりちょっとずつ良くなって、また好きな勉強をするための資金源になる……と実はメインの目的につながっていて理にかなってきます。





 本日こうして偉そうに語ってみたことを簡潔にまとめますと「好きな勉強は絶対楽しい。嫌いな勉強は目的につながるものだと考えれば、苦じゃなくなるハズ!」という風になります(質問者の方、長くて読みきれなかったらココだけ読んでください)。マッチョな考えなのは重々承知していますし、頑張ったってできないこともあるのは知ってます。大事なのはいざ目的を見つけたら「自分には無理だ」などと諦めないことです(そのためには諦めないような、自分の身の丈にあって頑張れば実現できそうな目的を設定するのが重要ですが)。諦めたらそこで試合終了ですが、努力している限りは可能性が残されています。というか、そうポジティヴに信じていなかったら、私は頑張れてません。そう信じるためにも、私は心のなかに松岡修造を飼うことにしています。頑張れ頑張れ、できるできる! 



D


 今さしあたって特に目的・目標がない、というのであれば「いつか目的ができたときのために、今勉強しておく」と考えるといいかもしれません。スガシカオも似たようなことを言ってた気がしますが、いざ何かをやりたいと思い立ったときにお金がなかったら何もできません。若さが溢れるほどにありあまっていても何もできないことって多いんですよ。お金がなかったらロック・バンドを組むためのギターも買えませんし、逆にお金があったらボーナスでギターを買ったり、レッスンに通ったりすることもできます。だから今は嫌々でも勉強して、将来困らないようにしておくのが良いと思います。





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村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話』

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翻訳夜話 (文春新書)
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村上 春樹 柴田 元幸
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 『翻訳夜話』は作家、村上春樹とアメリカ文学者、柴田元幸という翻訳でつながったふたりが、翻訳について語ったもの。出版されたのは10年ほど前のことで、最初に収録されたフォーラムにいたっては1996年のものだから15年も前になる。このあいだ、村上春樹も柴田元幸も、かたや日本で最も人気のある作家のひとりであり続け、かたや日本で最も人気の翻訳者のひとりであり続けたのだからなんだかすごい話であるな、と思う。当初で触れられるのは、翻訳の話だけではなく、村上春樹の文章の作り方、一種の創作論も含まれており、この面でもとても興味深い書物だろう。





 翻訳といえば思い出すのはベンヤミンの「翻訳者の使命」という文章だ。これはつい先日も別なところで引用しているし、過去にもこのブログで引用したのだが、また改めて引用しておこう。



翻訳において個々の語に忠実であれば、それぞれの語が原作のなかにもっている意味を完全に再現することは、ほとんど必ずといっていいほどできない。なぜなら、語の意味は、原作に対するその詩的な意義からすれば、志向されるものにおいて汲みつくされるものではなく、ある特定の語において志向されるものが志向する仕方にどのように結びついているかによってこそ、その詩的意義を獲得するからである。



 ベンヤミンは、言語の意味(志向されるもの)が言語の音(志向された音)と結びついていると考えた。指摘意義や意味とはそういった意味と音との関係性のなかで生まれてくるものだ。だから、個々の語に忠実することで意味を再現するという試みは、常に失敗を前提としたものでなければならない。だって、翻訳をした時点で音が変わっているんだもん、と。





 そう考えると翻訳という行為も言語化不可能なものに取り組む、といういささかロマンティックな態度にも思えてくる。本書で村上・柴田が悩むところは、単に物好き同士の悩みではなく、ロマンティックな煩悶として捉えられてもよいのかもしれない。本書では、村上のカーヴァー訳と柴田のカーヴァー訳、村上のオースター訳と柴田のオースター訳を比較するという試みもおこなわれているのだが、さらにカーヴァーとオースターの原文も収録されている。上に引用したベンヤミンの文章を読み直してから、これらの訳文と原文に触れると言語における音声の力……的なものをより一層強く意識してしまった。





 しかし、それは原文の絶対的正当性を意味するものではない。むしろ、翻訳がおこなわれることによって、その物語の核が一層磨かれ、さらに輝くこともあるだろう。そうした物語の本質は、ベンヤミンの言葉を借りれば「純粋言語」の世界で書かれたものだ。翻訳者とは英語と日本語というふたつの言語を超越した純粋言語にアクセスする人たちでもある。いささか神秘主義的な物言いになるが、本書のなかで村上が翻訳者を巫女になぞらえていたのは、少しも言い過ぎではないのだと思う。



ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)
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(ベンヤミンの引用は本書のP.404)





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井筒俊彦『神秘哲学』を読む #4

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
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 年が明けてからというもの連日残業が続き、大好きな勉強時間もなかなか取れない日々を過ごしており、いまにも地獄のミサワ的に「つれーわー」などとぼやきたくなるのですが、本日は第二章『プラトンの神秘哲学』に入っていきましょう(ディスプレイの前で読者の皆様が『おつとめごくろうさまです』と念じながらこれを読まれることで、TCP/IP通信とは別な精神的通信網によって私のもとにねぎらいの言葉が届く仕組みになっていたら、少し救われる気持ちになるのになぁ……!)。





 「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」というホワイトヘッドの言葉から察せられるとおり、プラトンという思想家の存在が、西洋哲学史の巨大なマイルストーンとなっていることはいうまでもありません。プラトンに重きを置くのは井筒の神秘哲学史においても同様であり、井筒はプラトンを西欧神秘主義の第一回の頂点とみなします。しかし、井筒が描くプラトンはしばしば言われる、イデア論のプラトンではありません。井筒はイデア論を「神秘主義的絶対体験のロゴス面」(神秘を言語化したもの)と位置づけ、また「形而上学説の各段階は深い超越体験のパトス的基体に裏付けられている」と言います(P.39)。このロゴスとパトスの合一を捉えなければ真にプラトンは理解できない、というのが井筒の見立てです。





 ともあれ、プラトンのイデア論がどういったものなのか、について井筒はみていきます。ただ、すんなりと「イデア論とはこういうものである」などと叙述されるのではありません。ここで最初に井筒が持ち出してくるのは、唯名論的な認識の世界についてです。



我々は具体的個人として目前に存在するこの人、或いはかの人を見ることはできぬが、この人にもかの人にもあらざる人間それ自体というが如き普遍者を見ることはできぬ。この馬あるいはかの馬に触れることはできるが、馬そのものには触れることができぬ。すなわち人間自体、馬自体等の一般者は、我々が具体的なる個々の人あるいは個々の馬を見て其等全てに通ずる共通要素を抽象し、頭の中で組立てた理性の産物であって、人間理性を離れた超越界に存在するものではないのである。(P.40)



 常人の感覚からすれば、プラトンがイデアと呼ぶものも唯名論で存在を否定された一般者・普遍者のように思われるだろう。なぜなら一般者・普遍者を捉えようとすると、個別的世界を認識に慣れた常人の目には、それらがとても抽象的に思われるからだ。これは、個物的なものを概念で捉え、その概念を大きくしていけばよくわかるかもしれません。私は人間だ → 人間は哺乳類である → 哺乳類は生物である……みたいな感じで。概念に含まれる範囲が広くなればなるほど、抽象的になっていく。しかし、井筒はこうした認識を「対象が抽象的なのではなくして、それを見る目が抽象的なのである」(P.41)と言います。そして、こうした一般者・普遍者を鮮明に捉えようとするならば、「対象の普遍性の度合に応じたレンズを用いなければならぬ」と。その「レンズ」を井筒は「存在的見地」というのですが、この立場からすれば、普遍的なものは抽象的なものとしてではなく具体的なものとなっていく、のだそうです。





 しかし、あくまでこの存在的見地と一般的な認識力とは相反するものであります。というか、その存在的見地の具体性は、常人にはほとんど想像がつかない(私にもよくわかりません)。その想像のつかなさを井筒はこんな風に表現します。「一葉一石はおろか塵埃の末に至るまで悉(ことごと)く異常なる鮮明度を以て映し出す彼の両眼も、ひとたび遥かなる地平の彼方に向って注がるる時は、全ては濛々たる雲にかすんで徒らに虚空の無を見るのみであろう」(P.42)。うーん、なんともポエジー溢れる感じですが、第一章で何度も見てきた「一者」・「存在」・「神」というものが、常人にはこうした「虚空の無」になってしまうということですね。存在的には有であり、有の究極的根源が、虚空の無となるこの矛盾。これをギリシャの思想家たちは解決しようと頑張ってきたわけです。プラトンもまた同様。彼が「善のイデア」「イデアのイデア」と呼んだものは、有の究極的根源として理解できますし、プラトンの思想もまた神秘道、なのです。そしてプラトンが偉大だったのは、こうした有の究極的根源を認識するための手段を最初にして最大に組織化・体系化したことでした。





 プラトンによって組織化された神秘道は、もう一点、先達とは異なる特徴を持っている、と井筒は強調します。それまでの神秘道は、「一者(存在・神)」を認識するための「向上道(アナバシス)」を説いたものでした。しかし、プラトンはそこでは終わらなかったのです。アナバシスの果てに超越を得るのが、彼にとっては途の半分。そこで道人は反転して「向下道(カタバシス)」を辿り、万人のために奉仕することで完結する、というのがプラトン神秘道の全貌なのです。プラトンがカタバシスを重要視したことは有名な『国家』に現れている、と井筒は指摘していますが、この記述を読んでいて私が真っ先に思い出したのは、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』でした。



いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
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 この著作においてシュタイナーは超感覚的世界の認識を得る方法をHowTo本的にまとめていますが、超感覚的世界の認識を得た者に対してシュタイナーは、超感覚的世界にとどまるのではなく感覚的世界に立ち戻り、感覚的世界のいまだ目覚めざる人びとを目覚めさせるための手伝いをしなければならない、と課題を出すのです*1。こうしたシュタイナーの神秘主義に、カタバシスとアナバシス的な姿を認めるのは用意でしょう。シュタイナーの神秘主義に触れたとき、私はカルトの原型を見たような気になったのですが、ここでその原型のさらなる原型を見た気分になりました。冒頭のホワイトヘッドの言葉に戻るわけではないのですが……と話がわき道にそれたところで今回はおしまいです。本日は第二章の第一節を見ることができました。次回は第二節に入っていきます。第二節ではまず『国家』に登場する有名な「洞窟の比喩」について触れられます。それでは。






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エイトル・ヴィラ=ロボス/チェロとピアノのための作品集

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 ブラジルを代表する作曲家、エイトル・ヴィラ=ロボスの音楽に関しては、学生時代に仲の良かった物好きなチェロ弾きの先輩がブリリアント・クラシックの廉価盤で出ていた弦楽四重奏曲全集(彼が残した弦楽四重奏曲は17曲もある)の話を聞いたぐらいで、他にはいくつかのギター曲を聴いた記憶があるだけで、どんな曲を書いていたのか、あまり印象になかった。はじめて彼の魅力に開眼したのは、このチェロとピアノのための作品集を聴いてからだ。






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 一曲目に収録されたこの《黒鳥の歌》からして、もう反則級の名曲だ。印象派風の伴奏を背景にして、物憂い感じのする旋律が穏やかに流れていく。フランスに留学したという彼の経歴は、他の曲の雰囲気からも伝わってくるようなのだが、次々に登場する素晴らしいメロディを聞かせられると、彼を「20世紀を代表する作曲家」の一人として数えたくなる気持ちも分かる。彼はモダンの大きな流れには乗っていないかもしれないが、19世紀末に訪れたロマン派のクライマックスの最中、偶然生まれた支流のなかで生き生きと活動していたのではないか、などとも想像する。本流とは違う別な20世紀の音楽史が、彼の音楽のなかで呼吸するかのような感覚。





 そして、こんなに洒脱な「クラシック」もなかなかない。



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(あんまり良い演奏ではないが《小組曲》より「Romancette」、「Legendaria」)





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マーク・ウェブ監督作品『(500)日のサマー』

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 昨年の話題作を鑑賞。サブカル男子が描かれた映画である、というのはいくつかの映画ブログの記事で読んではいたのだが、主人公のキャラクター作りがここまで徹底していると、もはや風刺なのではないか、という気持ちにもなってきた。面白かったかどうか、と問われれば面白かったけれど、サマー役のズーイー・デシャネルが会社にいる生理的に苦手な女性と似ている事実に気がつくと、その女性に対する不快感がズーイー・デシャネルに上乗せされてしまい、ただでさえ「ええ……とんでもなく身勝手な女じゃないか!?」と思わされたのに余計にムカムカとしたりもする(あまりにも個人的な理由……)。世界を支配しているのは運命か、偶然か。エンディングで語られる物語のテーマは「そんな話だったのかよ!!」と大きく突っ込みたくなり、大笑い。これを思想史上の主知主義と主意主義の対立の話へと接続することもできよう。アヴィセンナ対スコトゥス、みたいなさ……しないけれども。でも「すべては偶然(incident)である」というセリフからは、出来事が偶発的に発生しそれらが連なって世界を形作っているイメージが浮かんで、良いセリフだな、と思った。





 あと、サマーの振る舞いから思い出したのは社会学者、ゲオルク・ジンメルの「コケットリ」についての記述。



……女は「与えることを仄めかすかと思えば、拒むことを仄めかすことで刺戟し、一方、男性を惹きつけはするものの、決心させるところまではいかず、他方、避けはするものの、すべての望みを奪いはしない」。この「イエスとノーとの間」を揺れる遊戯=ゲームは、「堅い内容や動かぬリアリティの重みをすべて捨てている」(もし拒否したり、彼のものになったりしたら、その瞬間に彼女はある内容・リアリティに釘付けされて、その動きは止まり、魅力はなくなるだろう)。そして女性のこのコケットリのゲームに対し、男性が「欲望や欲望への警戒を離れて」そのゲーム自身に魅力を感じるようになったとき、これは「社交」となる。


 以上は、奥村隆『ジンメルのアンヴィバレンツ』*1からの引用。ジンメルはこうした揺れ動くコミュニケーションのゲームのなかに、社会がつながりゆく可能性を見出したわけだけれど500日のうち、100日ぐらいのサマーにこの記述は当てはまるような気がした。サマーは特定の男性の所有物のように扱われることによって、ある一定の場所に釘付けされることを恐れていたように思われる。恋人である、というレッテルが張られた瞬間に、生き生きとした彼女の実存が廃墟と化すことを恐れるように。しかしながら彼女はあるとき、「運命」の存在を直観することによって、一定の場所に釘付けされても良いと思うようになる。このあまりに正反対の態度への回心がイラッとくる理由のひとつなのだが、「運命」に出会ったならばそれぐらいの方向転換はするかもね。






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そういえば最近は南米の音楽ばかり聴いていた

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Tango:Zero Hour
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アストル・ピアソラ
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TROPICALIA 2
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Caetano Veloso & Gilberto Gil
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 昨年末、中古盤屋で回収した上記のふたつのアルバムを繰り返し聴いている。一枚目はアストル・ピアソラが自身で「最高傑作」と認めたというアルバム『Tango: Zero Hour』。二枚目はカエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルの共作アルバム『TROPICALIA 2』。ピアソラのアルバムは「実は聴いてなかったアルバム」的な感じなのだが、小松亮太の『ブエノス・アイレスの夏』(これも超名盤)が目指していた音作りは、ココにあったのか! というピアソラ再発見的な印象を持った。小松亮太の件のアルバムは、ピアソラと共演していた人たちが参加したアルバムなのだから当たり前といえば当たり前だけれども――ピアソラの音楽を聴いたのはこの小松亮太のアルバムが初めてで、まずヴァイオリンが木でできた楽器であることを強烈に意識させてくれるような、その乾いた音色とアタックに痺れたことを思い出した。



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 カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルのアルバムは、初ジルベルト・ジル体験となった。なぜかこの人のことを女性ミュージシャンだと思っていて(たぶんジル・スチュワートやジル・サンダーなどと無意識に混同)「え? 男なの?!」というのにまずびっくりした。あと、写真を見たら「黒人系なの!?」とびっくりしたし、経歴を調べたら「政治家もやってたの!?」とびっくりして、なんかすげー人なんだな、と思った。「黒人系なの!?」というのは差別的な感じがするけれど、黒いねっとりしたサウンドとブラジルの音楽ってイメージ的に距離があるじゃんか、という(これも差別的な捉えた方だな……)。発表は1993年。一曲目からラップに取り組んでたり、めちゃくちゃファンキーであったり、しっとりしてたり、オッサンたち懐深すぎ……と嘆息せざるを得ないアルバムなのだった。



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 このライヴ映像!!





 ピアソラ(アルゼンチン)とヴェローゾ&ジル(ブラジル)のふたつの音楽は「南米の音楽」として一まとめにするには、あまりにも違いすぎるけれども、普段慣れ親しんでいる音楽とは違った音楽であるという印象を与えてくれる点では共通しているかもしれない。ロマンティックな異国情緒、というか。西洋の伝統的な音楽や、アメリカやイギリスの音楽のポピュラー・ミュージックの影響はもちろん感じられる。それが絶妙に変形されているところを確認するのも楽しい。エイトル・ヴィラ=ロボスの作品にも同じことが言えるだろうか。





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井筒俊彦『神秘哲学』を読む #3

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
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 本日は第一章の後半に入っていきましょう。ここでは「万物は流転する」で有名なヘラクレイトスとパルメニデスについての紹介がおこなわれます。まず、ヘラクレイトスですが、この前に語られているクセノファネスとの対比から触れられています。クセノファネスが究極的実在を「全一」というすべてが渾然一体となった「始原的融即態」として捉えていたことは前回のマトメにも記載したとおりです。しかし、クセノファネスはこうした全一の流動性には注目していなかった、と井筒は言います。そこには無限なる分化分裂の可能性があるはずなのに、と。ヘラクレイトスは、その流動性についてギリシア人として初めて考え始めた人物だったようです。万物は流転する。彼は存在界で不断に生じている生成の実相を、河の流れに喩えました。ただ、そうした考えは当時の「ギリシア全体の精神的空気」であった、と井筒は指摘しています。そこにはヘラクレイトスの独創性はない。





 では、どこに彼の独創性があったのか。それは彼が「『内面への途』を知悉する神秘道の達人」(P.24)だったところに由来しています。彼は人間の霊魂に限界を設けなかった。精神世界の深さはどこまでも続いていく。しかし、彼ほどの達人になれば、終わりがない精神世界の終わりを目撃できる、と井筒は言います。そして、ヘラクレイトスは深く深く入り込んでいった精神の極限において、彼は超越的に「流動そのものの極致」、絶対的存在を見出したんだとか。なんだか「スピードの向こう側」みたいな話ですが、ここにこそヘラクレイトスの独創性があった、と井筒は主張しています。外に向かうのではなく、内に向かうことによって究極的実在を見出したのだ、と。現象界の流動を捉えつつ、霊魂の深さを極めようとするうちに、宇宙的動性の動性(動きの動き)そのものへと達したとき、動は静へと転じて神的矛盾が生ずる。それがヘラクレイトスの見出した神であり、ロゴスだったそうです。





 こうしたヘラクレイトスの思想を「両頭の怪物」と揶揄したのがパルメニデスだったそうです。彼はヘラクレイトスとは反対に生成変化などすべて「夢幻虚妄」として捉え、世界で確かに実在しているものは絶対超越的本体のみである、と説いたのでした。これはクセノファネスの考えを継承したもののように考えられますが、パルメニデスは全一ではなく「一」にのみ注目していた、と井筒は言います。「存在の窮極点、あらゆる存在者の存在性の太源をなす深奥玄微のただ一転に全照明の力を集中し、これを煌々たる光の中に浮び上らせて置いて、彼はその余の部分を悉く昂然として截断し棄却する」(P.32)。さらに彼は「思惟と存在の一致」を説きます。高次の存在領域においては、思惟と存在と、思惟の対象が渾然一体となり、思惟によって思惟するものの存在が確立される。井筒はパルメニデスの思想をこのように読み解き、そしてデカルトに先駆けて「思惟即存在」(Cogito ergo sum)を唱えた人物であることを強調しています。





 さて、ここまでに三人の思想家が紹介されましたが、彼らはいずれも存在性の絶対根源として神を捉えているところでは共通しています。それは論理的に要請されたから設定されたものではなく、また、自然の力を擬人化した想像の産物でもなく、存在を成り立たせる「生命の神」として考えられました。こうした根源として神が、ギリシア哲学の存在的頂点になっていたことが確認され、第一章は終わります。第二章ではいよいよプラトンが登場です!





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2010年、「石版!」で何が売れたのか

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 2010年、はてなで売れたAmazonの音楽CDは?年間ランキングトップ30 - はてなブックマークニュースに触発されまして、当ブログ経由で何が売れたのかの集計をとってみました(当ブログはアマゾン・アフィリエイトを利用しているブログです。ブログに掲載されたリンクからアマゾンでお買い物をしていただくと私に商品代金の3~4%が入る仕組みになっています。これで得た収益によってまた本やCDを買い、そして再びブログ記事を書く……という循環型エコ・システム!)。本日は3点以上売れた商品について紹介していこうと思います。





3点売れた商品





炭山アキラ『入門スピーカー自作ガイド』 - 「石版!」






言葉にならない、笑顔をみせてくれよ(初回限定盤)(DVD付)
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オムニバス スマラ・マドヤ スカクティ村のワヤン一座
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最近聴いたワールドミュージック サムルノリとかガムランとか - 「石版!」






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mmm/パヌー - 「石版!」





 なんだか統一性のないラインナップ。『入門スピーカー自作ガイド』とmmmは紹介できて良かったな、という感じがします。





4点売れた商品



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ザイ・クーニン+大友良英+ディクソン・ディー/Book From Hell - 「石版!」





 自己啓発ブログみたいなラインナップに大友良英が食い込んでくるカオス。





5点売れた商品


 該当なし。





6点売れた商品



その数学が戦略を決める (文春文庫)
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ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』 - 「石版!」





 統計学VSスピリチュアル!!





7点売れた商品



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マジメに英語の勉強を始めた、コツコツと - 「石版!」





 こちらが2010年に「石版!」で売れた商品第1位です。





 さて、こうして振り返ってみると当ブログの雑多さが浮かび上がるようですが、全然ブクマ数もあがらず、誰にも注目されなかったであろうCDや本がよく売れたりしているのが面白い、と思いました。これは当ブログの読者の方々にお伝えすべき情報を伝えられている、ということなのかもしれません。でも英語学習教材と、山形浩生翻訳の本が2つずつランク・インしていて、賢い感じのビジネス・マン向けブログみたいだぞ!! というわけで、昨年当ブログ経由でお買い物をしたいただいた全ての方々に感謝しつつ(ありがとうございました!)、報告を終えたいと思います。





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井筒俊彦『神秘哲学』を読む #2

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
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 あけましておめでとうございます。今年はより一層ハードコアで、誰もついてこられないほどインテリジェンス溢れるブログを目指していこうと思うのですが、その将来を予兆するかのように新年一発目のエントリは「ひとりぼっちの読書会」でございます。前回予告しましたとおり本日は『神秘哲学』の本文に入りまして第一章「ソクラテス以前の神秘哲学」を見てまいりましょう。井筒はまず、ディオニュソス神についてとりあげています。





 ギリシャ神話上のディオニュソスは、豊穣とブドウ酒と酩酊の神として信仰されており、ゼウスがどこぞの王女様と浮気をして作ったこどもとして知られております。しかし、彼はもともとアジアで信仰されていた土着の神様だったのです。この信仰がいつのまにかギリシャにも流入し、紀元前6世紀にギリシャ全土に一大ディオニュソス・ブームがやってきたのだそうです。具体的にどういった催しが当時おこなわれていたか、というところまで井筒は触れていないのですが、ディオニュソス信仰はとにかくすごい熱狂的なモノだったらしいです。



惨虐狂躁の限りをつくし、悽愴(せいそう)なること目を覆わしむごとき野蛮醜悪なる手段によってではあったが、この暗き祭礼の醸し出す異様な狂憑の痙攣の裏に沈淪する信徒達は、小我を脱却して大我に合一するの法悦を直験し、肉体の緊縛を離れた霊魂の宇宙生命への帰一還没を自ら直証することを許された。(P.6)



 もうなんか字面からこの儀式の凄みが伝わってくるようですが、当時のギリシャ人の精神にはこうした狂乱体験への免疫が備わってなかったので、大ブームになってしまった、と。この信仰を井筒は「冥闇と渾沌の『夜』の精神」と呼ぶのですが、これが後に「アポロン的清澄の光明」とならんでギリシア精神の本質的要素となります(P.7)。しかし、ディオニュソスが与えた衝撃はそれだけではない。ディオニュソスがギリシャに消し難い刻印を残した、ということはつまり、その後の全西欧の精神にディオニュソスは遺伝された、ということです。井筒はこんな風に言い切ります。「ディオニュオス宗教のギリシアに於ける隆盛は同時に西欧神秘主義の発端を劃するものである。(P.8)」。この信仰を機に、西欧的人間はエクスタシス(霊魂の肉体脱出)及び、エントゥシアスモス(神の充満)という体験をし、そして、今生きている世界の外に、見ることのできない真実在の世界が存在する! という風に考え始めた、というわけです。もう少し言ってしまえば、ガンギマっちゃってる状態の法悦的世界がホントの世界なんだよ! という風に考えた、とでも言えましょうか。ディオニュソス信仰の野蛮な部分は徐々にそぎ落とされてしまうのですが、こうした体験と思考法はギリシャのなかに残り続けます。





 また、これ以前からギリシャで信仰されてきた密儀宗教は、ディオニュソス信仰の流入と同化によって活発になります。そして紀元前5世紀の初めごろにはディオニュソスの影響下で発達したこの密儀宗教が社会の上層下層を問わずあらゆる方面に浸透していたそうです(P.13)。しかし、これに先駆けてイオニア地方では「ミレトス学派」と呼ばれる哲学思想が誕生しています。彼らもまた、ディオニュソスの祭に参加して神秘体験をした人たちのごとく、超越的体験によって形而上的自然の存在を直観し、そこに世界の究極的原理を見出した人びとであったそうです。しかし、彼らはそうした世界と感性的自然(普通の現実)を分けて考えなかったために、彼らの思想は一種の汎霊魂主義に陥り、形而上学とも自然科学ともいえないごちゃごちゃしたもので終わってしまいます。





 しかしそこにミレトス学派の思想を継承するようにして、詩人預言者クセノファネスが誕生します。井筒はクセノファネスの登場を、ギリシア神秘思想史のエポック・メイキングな出来事として重要視しています。クセノファネスの登場によって、超越的自然と感性的自然の存在領域に明確な区別がなされ、そしてイオニアの存在論は急速に形而上学への道を辿り、そして、存在の究極的根源の探求が、神の探求へとイコールで結ばれる、というわけです。





 彼は現実世界のあらゆる存在者の対立の彼岸に絶対超越として「一者」の存在を想定していました。井筒はクセノファネスが考えた一者を世界をこのように表現しています。「渾然として有無を離絶し不生不滅、湛寂として永恒不変なる自体的存在(P.16)」と。これに対して、現実世界(=感性的経験的世界)は、あらゆるものがそのほかのものではない、という関係によってでしか、それぞれの存在の名を保持できない危うい生成の世界なのです。しかし、危うい世界であるからといって、現実世界が即ち虚構である、という風にはクセノファネスは考えませんでした。一者は経験的世界を否定するものではなく、無限に高く超越しながらも、無限に近く存在者を包み、そしてその存在性を分け与えるものだ、という風に考えました。クセノファネスの考えた神は、このように「近くて」「遠い」という矛盾的一致をもっていました。この性格は「一・即・全」と呼ばれます。





 この「一・即・全」(全一)は、しばしば、一者がすなわち世界全体である、という典型的な汎神論とみなされてしまうのだが、クセノファネスの全一は汎神論とはまったく違っている、ということを井筒は強調しています。クセノファネスのそれは、自然神秘主義的体験として理解されなくてはならない。それでは、その自然神秘主義的体験とはどのようなものであったのでしょうか。





 繰り返しになりますが、ギリシャの自然神秘主義はディオニュソスによってもたらされた「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」の体験に基づく「宇宙的霊覚の現成」でした。そこでは、エクスタシスによって自我が完全に無視され、人間的意識の一切が消滅します。人間的意識が消えてしまうわけですからそうした状態の最中に、それまで体験していた経験的世界も消滅することは当然です。それまであった経験的世界が消滅すること。これがエクスタシスの消極的活動となるわけですが、そこにはもちろん肯定的側面も伺える。経験的世界は消滅してしまうが、自分を抜けて出て「自他内外一切の差別を離却して厘毫(りごう)も剰すところなく絶滅し尽くされた人間無化の極処に於て、その澄浄絶塵の霊的虚空に皓蕩として絶対意識が現われる(P.20)」。この絶対意識に触れている瞬間、何も存在しない霊的虚空に、たしかに存在している矛盾の感覚が呼び起こす緊張。これこそがエントゥシアスモス(全てが神に充たされること)なのです。これと同じ矛盾を、クセノファネスの神は超越即内在という形で変奏しているわけです。





 ただ、こうした神秘主義を誰もが理解できる、という風にはクセノファネスも考えていなかったようです。むしろ、彼は自分で言いながら「これはみんな理解してくれないだろうな……」と諦めモードだった。体験してもらえば絶対わかってもらえるハズなのに、言葉にしようと思想的に反省すると神秘的矛盾を説明できなくなる。こうしたジレンマはクセノファネス以降にも引き継がれ、ギリシャ形而上学が闘うべき課題となってしまいます。





 ここまでで第一章の半分まで進めることができました。次回は第一章の後半に入りまして「万物は流転する」で有名なヘラクレイトスをとりあげた部分を見ていきます。





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