Antonio Loureiro/Antonio Loureiro

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Antonio Loureiro(MySpace)
先日タワレコで猛プッシュされていたので知ったアントニオ・ロウレイロというブラジルのミュージシャンが良いです(新譜ではなく2010年のアルバムの再入荷として取り上げられていました)。Amazonで取り扱いがなかったり(※ 現在はあるみたい『Antonio Loureio』)、アーティスト自身のTwitter*1のフォロワー数が異様に少なかったり、MySpaceではアルバムの全曲が聴けたり、タワレコでCDを買うと3000円ぐらいするのにディスクユニオンだと2100円で買えたり、海外の音源配信サイトだと400円弱で音源がダウンロードできたり……と謎が多い人ですが、ピアノやギター、マリンバやヴァイブラフォンなど様々な楽器を操り、自らもヴォーカルを取るマルチ・プレーヤーで、かつ、まだ25歳という恐ろしい人物であります。日本でもすでに一部で大変話題になっているようで、カエターノ・ヴェローゾと比較されたりもしているのですが、個人的にはSavath & Savalas(Prefuse73の変名ユニット)が一番近いように思われました。しかし、アントニオ・ロウレイロの場合は、ギレルモ・スコット・ヘレンよりクラヴジャズへと接近し、フランク・ザッパのような変態コードワーク&奇形リズムを取り入れ、かつコルトレーン(あるいはマグマ)みたいになっている瞬間もあったりして、とにかくありえない感じ……なんだけれど、音作りのスムースさがそうした過剰な変態性を覆い隠してしまうのだから尚更すごい。変態なのだが、ロハス。チャラそうなのに、深い。このアンビヴァレンスをなるべく多くの人に体感していただきたいと思います。っつーか、こんだけのクオリティなのにMySpaceの楽曲再生数とかが少なすぎるんだよ……! いくらインディーズとはいえ、人に聴かせる気がないんじゃないか、という控えめ具合。こんな才能がポロッとでてきしまう今のブラジルは一体どうなっているのでしょうか。おこづかいがいくらあってもたりないよ!!





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Thurston Moore/Demolished Thoughts

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Demolished Thoughts
Demolished Thoughts
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Thurston Moore
Matador Records (2011-05-24)
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ナイジェル・ゴッドリッチのプロデュース作品以降、ベックに対するイメージはドリーミーな音作りのなかで歌うポップなアーティスト、といったものとなり、オルタナティヴ・ロックとの距離は遠く感じられるのですが、その活動の初期には攻撃的な音楽にも取り組んでいて、かなり古いテレビ映像だったと思いますけれどYoutubeではベックとサーストン・ムーアがひたすら奇怪なノイズ・インプロヴィゼーションを展開する映像が観れたハズです。サーストン・ムーアの3枚目のソロ・アルバムをベックがプロデュースしている、というのは意外なように思われて、実はそうではない、のですね。




それで出来上がったモノは、今のベックがサーストン・ムーアをプロデュースしてできた音楽以外の何モノでもない。ベックのプロデュース・ワークには昨年のシャルロット・ゲンズブールのアルバム*1のときに「これは何ジェル・ゴッドリッチだ?」という印象がありましたが、本作ではそこまでベタベタのフワフワに音を作り込んでいません。ただやはり、ああ、これはベックっぽいな、という柔らかい音の作り方であって、大変リラックスできる音です。自然体サウンド、とでも言えましょうか。そこに時折ストリングスが織り込まれたりして、音の色合いはユラユラと変化していく。ギターはずっとアコースティック・ギターが使われていて、ソニック・ユースでのソリッドな攻撃性とは印象が全く違っています。しかし、エレキからアコギに持ち替えてもサーストン・ムーアはサーストン・ムーアであって、そこに偉大なギタリスト感があります。リズムを刻むような細かいストローク一小節だけを抜き出したって「どう考えてもサーストン」と分かる。ギターの音に彼の名前が刻印されちゃっているわけです。






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最高に決まっているだろう、こんなモノ!






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荒木飛呂彦 『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』

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荒木飛呂彦の絵がフランスのルーヴル美術館に展示された企画で制作された漫画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の日本語版が登場。いや~、これはやはり素晴らしいのではないでしょうか。荒木飛呂彦初のフルカラーコミックスということですが、印刷された紙質や大きなサイズは普段コミックスでばかり触れてしまう荒木飛呂彦の絵の魅力を違った形で提示しているように思われます。大きいことは良いことだ、と言ったのは作曲家の山本直純ですが、そうした価値観を直ちに受け入れたくなるような出来。17インチのテレビデオを、56インチのフルハイビジョンに買い換えたようにド迫力で絵が迫ってきます。ストーリーは、ルーヴルの地下を舞台にしたミステリー・ホラー(ちょっとコルタサルの短編小説にありそうな)で、その核心部分についてはやや大味なモノとなっているのにも関わらず、痺れるような魅力を放ちまくっているのは端的に絵が上手い、というだけではなく、コマの見せ方や動きの上手さといった漫画技術の巧みさの現れでしょう。濃密な時間の流れ方をする短編、という言い方が適切かもしれません。特にパリに着いた露伴先生が絵葉書を選んでいて、振り返ると(ここでページめくり)ルーヴルがドーン! 変なポーズ、ギャーン! という流れは最高過ぎて死ねます。大河ドラマ的な連載漫画も素晴らしいのですが、荒木先生にはもっと短編も描いてもらいたいなあ~、と改めて感じるのでした。短編を描く荒木飛呂彦と、連載を描く荒木飛呂彦とでふたりいれば良いのに。あとは愛蔵版コミックスのサイズで、ジョジョが出ないかな~、と思いました。大きなサイズで良い紙質で第五部を読み直したい。





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矢作俊彦 『スズキさんの休息と遍歴 または、かくも誇らかなるドーシーボーの騎行』

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Twitterで以前、id:kokoroshaさんが「ストーリーは平凡だけれども、描写がとんでもない小説はない?」といった趣旨のつぶやかれていましたが、矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』がそうしたタイプの小説にあたるのかもしれません。全共闘世代の「闘争からの20年後」を描いた本作は、その多岐に渡るキャリアの初期に漫画家としても活動していた矢作の才能を活かすように描写の代わりとなるイラストがいくつも挿入されたり、また映画や小説のワンシーンから引用された比喩表現など、小説の枠組みを逸脱した作品となっています。タイトルからも推し量れるとおり、ストーリーは『ドン・キホーテ』から本歌取りされたもので作中でも『ドン・キホーテ』はマクガフィン的に取り扱われ、いわば、コラージュ性が高い小説です。しかしそれは「前衛」を目指したものではないのでしょう。むしろ、そうした手法や前衛を嘲笑するためにあえてその手法が採用されているように思われるのですが、人を食ったようなその態度はまったく馬鹿にできないどころか「この人、やっぱり上手すぎる」と唸らざるを得ない洗練を感じさせるのでした。どこかから借りてきたものだけで出来上がっている小説、と言っても過言ではない。出会う人物どころか、自分の子どもに対しても左翼の口調で語りかける主人公の元・左翼闘士のセリフ回しにしても、あまりにも典型的な左翼口調であって既製品感が漂う。そして、その既製品感はこの作品が刊行された1990年という《時代》と呼応しているように思われました(自分がその時代をリアルタイムで味わっていたわけではありませんけれど)。革命の夢とドン・キホーテの妄想との対応についてもあからさまですが、主人公が現在アロンソ・キハーダであり、かつての自分がドン・キホーテだったことに対する気づきが、かつてドン・キホーテだった自分の姿をまじまじと見せつけられるようにして気づく小説のラストからは、ノスタルジーと同時にユーモラスな恐怖のようなものを感じてしまいます。





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読売日本交響楽団第504回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:ペトル・ヴロンスキー


ピアノ:清水和音


モーツァルト/ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491


《マーラー・イヤー・プログラム》


マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調



本来であればズデニェク・マーツァルという指揮者が出場するはずだったが、震災の影響により出演キャンセル。ピンチヒッターとなったペトル・ヴロンスキーも同じチェコ出身の指揮者で来れる/来れないの違いって、本人の判断なのだな~、ということがうかがい知れる。ヴロンスキーの読響との共演は87年以来ということだ。外見はいわゆる爆演系が予想される感じなのだが、特別に奇をてらうような指示はなく、ドイツ系の下から音を積み上げるような音作りを手堅くまとめる……まあ、読響向けの指揮者だったと思う。





てっきり会場に着くまでマーラーのみの一曲プログラムかと思いきや、モーツァルトのコンチェルトがあった。ピアノ協奏曲第24番は、内田光子の演奏でよく聴いていたので親しみがある。こうした脳内の参照点に対して、清水和音がどういう演奏をしたのかと言えば、これも前評判通り、という感じ。「キレイな演奏をするが、何を弾いても一緒に聴こえる」というのが私が聞いていたこの演奏家への評価で、それを確認するような演奏だった。テクニックも申し分なく、ひとつひとつの音がキレイに響いていたように思えるが、それ以外「ここがすごい」と耳を惹きつける要素が特段ない。良い意味でも、悪い意味でも優等生的というか、日本の高級車みたいなピアニストなんだろうか。正直言ってあってもなくても良いモーツァルトだったと思うが、曲が良いので不満はない。定期会員になっていると、そういう風に一音足りとも聞き逃すまい! という意気込みはなくなってしまうが、流して聞くことができるから気が楽である。





後半のマーラーも手堅く、特別に何かがすごい演奏というわけでは無かった。しかし、そういう普通な演奏でも「ああ、マーラーって良いよねえ……」と楽しくなってしまうのが、マーラーの良いところで改めてこの作曲家のスペクタクル性というか、オーケストラから飛び出てくる音色の多彩さに気づくことができた。この点がダメな指揮者では途端に聴く気がしなくなるブルックナーとの違いなのだろう。曲の全体に対して聴き手の集中力を研ぎさせることなく聴かせる演奏でもなかったし、正直、途中結構ダレたけれども満足できてしまう。オーケストラは、クラリネットのトップが見たことない若そうな人でリード・ミスが多かった(他のパートにも見たことない若い人がたくさんいた)が、めげずに頑張ってください、と思った。





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Caetano Veloso/MTV Ao Vivo Caetano Zii & Zie

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ラテンアメリカ関連の話題が続きますが、本日はブラジルの大物ミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾの最新音源をご紹介いたします。こちらは2009年のアルバム『Zii & Zie』のリリース・ツアーからのライヴ音源。カエターノ大先生の作品が悪いわけがないのですが、スタジオ盤とまったく変わらないどころかスタジオ盤よりも伸び伸びと歌いあげる大先生のパフォーマンスは圧巻です。最高。2006年のアルバム『Ce』からのライヴ盤『Ce ao Vivo』(2007)も相当キレキレでしたが、このアルバムは旧作の曲も多く収録されていて、カエターノ・ヴェローゾのさまざまな魅力を存分に楽しめます。また『Ce』バンドの演奏も素晴らしく、とくにギタリスト、ペドロ・サーのファズ・ギターは好きな人には堪らない音色と演奏でしょう。ブラジリアン・サイケ特有のあの歪みをアップデートしたペドロ・サーは、現代最強のサイケ・ギタリストだと思います。CDは17曲収録で、DVDは23曲収録、さらにスペシャル・パッケージDVDは2枚組となって追加ディスクもつくという多面展開が悩ましいですが、CDを買った私は「おお……ここに入ってない曲も聴きたいぜ……(マイケル・ジャクソンのカヴァーとかも入っている)」とホントに煩悶させられました。




Amazonでの取り扱いがまだないようですが、タワレコ、HMV、ディスクユニオンなら普通に買えるみたい。ディスクユニオンが一番安いのかな? カエターノ大先生の関連作ではマリア・ガドゥという女性歌手とのデュオ・ライヴ盤のリリースも控えており、そちらも見逃せません。今シーズンはブラジルモノが熱い!




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ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『七つの夜』

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七つの夜 (岩波文庫)
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J.L.ボルヘス
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世の中には読書家と呼ばれる人種がございます。私もそうしたタイプの人間を自認するもののひとりでありますが「では、なぜ、あなたはそうも読み続けるのか」という問いに対する答えは人によって千差万別だと思うのです。「単なる暇つぶしだよ」と答える人もあるかもしれませんし、また同語反復的に「そりゃ読書が好きだからさ」と答える人もあるかもしれません。そうした無数の声のなかには「読むために、読む」というものもあるでしょう。ボルヘスがおこなった連続講演がもとになってできたこの『七つの夜』という本を読みながら、私は自分のなかにあるそうした声を自覚しました。ここ数年の私の読書は、ボルヘスを読むための読書だったのでなかろうか、と。ボルヘスを読むために、セルバンテスを読み、あるいはラブレーを読み、またはダンテを読み、そしてアリストテレスやプラトンを読む(そのなかでラブレーを読むために、アリストテレスやプラトンを読む、という風に連鎖が生まれていきます)。そうしたある種の教養がなければ、ボルヘスが描く世界を味わい尽くすことはできないのです。一方でそれらの教養を身につけさえすれば、ボルヘスの語りは読者を今・ここにある世界から別な世界へと連れ去る導き手となるのです。そして、ボルヘスの声・語り口を訳文に反映させたというこの講演録もまた、ボルヘスを読むために読まれるべきテキストと言えるでしょう。秘密をこっそりと打ち明けるように「神曲」、「悪夢」、「千一夜物語」、「仏教」、「詩」、「カバラ」、「盲目」といったテーマについてボルヘスは語ります。それはテーマについての批評的な意味解説・教育的な内容であるだけではなく、ボルヘス自身の世界について語られたものに他ならない。現実にはあらぬ無限、時間の流れや感覚が、ボルヘスの作品では幻想的に提示されますが、それは単なる幻惑や驚異を喚起するファンタジーという意味ではなく、違う宇宙を体験させる神秘主義的なテキストなのです。講演録のテキストは、そうした彼のフィクションの性格を明らかにするものでありながら、フィクションと彼の講演やエッセイの地続き性も強く感じさせます。(ボルヘスの詩を私は読んだことがありませんが)ボルヘスはフィクションとエッセイなどでジャンル分けされて読まれるものではなく、ボルヘスのテキストは皆、ボルヘスとして読まれるべきものなのでしょう。





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スンジュール・シソコ/グリオの王

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グリオの王/スンジュール・シソコ~西アフリカ竪琴“コラ”の至芸
スンジュル・シソコ マーハワ・コヤテ
ビクターエンタテインメント (2000-07-05)
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民族音楽のCDを聴いていて何が楽しいのかといえば、実際それを聴いてみるまではどんな音楽かまったく予想がつかない点で、それはもちろん自分がそうした音楽に対して無知であることに由来するのだが、それなりに長い年月、音楽を趣味で聴いているとまったく知らないモノと出会う機会もなくなってくるから、そういうのは結構貴重なイベントになってくる。なので図書館で民族音楽のCDを借りるときも、できるだけ知らない国・地域のものを借りることが多い。最近また「これは!」という出会いがあった。それはセネガルの「コラ」というハープのような楽器を使った音楽で、演奏しているスンジュール・シソコ(Sunjul Cissoko)という人は、その国の音楽界では神格化された存在であったらしい。録音されたのは1990年、当時70歳だったスンジュール・シソコが来日した際にスタジオで収録されたものだそうだが、調べてもこの人がまだ存命かどうかが分からない。マリのコラ奏者にバラケ・シソコという人がいて近々来日するということは分かったのだが、この人がスンジュール・シソコと関係があるかどうかも不明である。とにかく情報が少ないのだが、その情報の少なさがちょっと異様なものに思われるほど、音楽はポップで、聴いていると強張った気持ちがほぐれてくる。



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このコードの柔らかいイメージは、ペンギン・カフェ・オーケストラや、ララージの音楽にも通ずる。セネガルだけでなくマリ、ギニアといった西アフリカ一帯にはこうした楽器を演奏しながら、伝説や歴史的な王様を讃える歌を語り継ぐグリオという職業があって、スンジュール・シソコはその末裔だった。昔は完全に世襲制で、コラもグリオの家系でなければ触れてはならない神聖なものだったそう。そうした文化は現代にはいると徐々に変化していき、今ではコラを一般向けに教える学校もあるのだとか。スンジュール・シソコはオーセンティックな伝統の継承者として最後の世代でもあり、変容する文化を見つめてきた生き証人みたいな存在だった。今、生きているかどうかわからないけども、こうしてそういう人の記録が残されていて、それに触れられることはとても幸福なことだと思う。このアルバムには、スンジュール・シソコの3番目の奥さん、マーハヤ・コヤテも歌手で参加している(写真を見る限り、かなりの歳の差カップルで、そういうのも《伝統文化の人》という感じがする)。この人の声もまた素晴らしい。





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2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

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A6(100x148)-TT-ura


フライヤーはナナタさんに依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。







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荒木飛呂彦 『スティール・ボール・ラン』(23)

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もはや物語は論理ではないフィールドへと突き進んでいる感が満載だが『スティール・ボール・ラン』最新刊をとても面白く読んだ。最終巻の一歩手前でも回収されていない伏線がいくつもあり「アイツは結局なんだったのか!?」というキャラもいるのだが、そんなのは関係ないのである。大統領は自らが宣言した曇りのない正義という嘘の前に敗北し、そしてジャイロの死はその敗北によって確定されてしまう。勝利と同時に失うジョニィ。しかし、これが最終決戦か……と思いきやまだ続きがあるのだから更なる驚き……。そして前触れのない父親との和解。どうして和解できるのか、その説明は省略されているが父親を超克することではなく、父親が許しを乞うことで、さまざまなものを失い続けてきたジョニィに再び力が宿っていくところが素晴らしい。ここで読者はコミックス第一巻の言葉に戻ることができるだろう。



この『物語』はぼくが歩き出す物語だ



才能に恵まれた人間が、一度全てを失い、そこから這い上がってくる。選ばれた人間が活躍する話は、もはやありふれてしまっている。それに対して荒木飛呂彦は「選ばれていないかもしれない人物」を主人公に据えてみせる。たしかに主人公には才能があるのだが、常に「もしかしたら間違った才能なのではないか?」という疑念が主人公を苛む。それは自分が選ばれた人間であるという認識を信じることができない碇シンジの心性とも対比できよう。だが、シンジが「やってみたらできてしまう」のに対して、ジョニィは地を這い続ける。まるで『新・巨人の星』の星飛雄馬のようだが、こうした泥臭さというか地を這っている感じが『スティール・ボール・ラン』の異質さなのだと思う。新世界のスポコン漫画を描いた荒木飛呂彦の技量がここに表現されているのだ。





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スティーヴ・D・レヴィット & スティーヴン・J・ダブナー 『ヤバい経済学』

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ヤバい経済学 [増補改訂版]
スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー
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経済学というと無味乾燥なお金のやり取りを理論化した“冷たい”学問のようなイメージを抱きがちで、実際自分の弟がある大学の経済学部に進学したときも「つまんなくないの?」と質問したこともあるくらいだったのだが、イアン・エアーズの『その数学が戦略を決める』やクルーグマンの翻訳を読んだあたりから「なるほど、経済学ってこんな風にも使えるのか」と興味が持てるようになった。なんだ、経済学って全然無味乾燥じゃないし、全然冷たくないし、めちゃくちゃに血が通った学問じゃない、という感じ。すでにとても有名な本だけれども『ヤバい経済学』も、そういう風に経済学のイメージを書き換えてくれるタイプの本だと思う。





著者のひとり、スティーヴ・D・レヴィットは、日常のさまざまなことがらを計量経済学の手法を使って分析している研究者だ。彼が取り扱うことがらはどれもトリビアルなものばかりで、本書で紹介されているものから紹介したら「銃とプール、こどもにとって危険なのはどっち?」とか「相撲の力士は八百長をしてる?」とか、ほとんど趣味的な世界である。なんというか仕事が趣味がタモリ的に逆転した、趣味が仕事になっている研究者なのであろうと思う。「教師、犯罪者、不動産業者は嘘をつくことがある。政治家やCIAのアナリストも。しかし、数字は嘘をつかない」(P.21)。本書のポリシーを表しているのがこの文章だろう。





アメリカで犯罪率の低下がおこったのはどうして? 常識的な考え方をすれば、おまわりさんを増やして、取締りを強化したから、という予測ができる。けれども、数字(データ)を使って分析をすればもっと強い要因が導き出せる。「俺がおまわりさんを増やして、取締りを強化したから犯罪率は低下したのだ!」と偉そうにしている人たちがいたかもしれない。けれど、そうした人たちの施策は効果があったかどうか微妙なものだったこともわかる。これらの分析結果は、常識的な考え方が社会でいかに通用しているか(有効な言葉としてまかりとおっているか)、そして、それが本当の仕組みとは全然違うことを示している。社会の裏側(本当の仕組み)で起きていることが、社会の表側では実際とは違った常識で理解されていることは興味深い。





「学会で『これはむしろ社会学だ』という意見が出るたび、社会学者の人たちが引きつった顔で首を横に振るのが見える」とレヴィットは言ったそうだけれど、たしかにこの本は社会学的なモノとしても読める。社会学のポリシーのひとつに「常識を疑うためのツールとしての学問」というのがあるもんね。リスクと恐怖の関係、人間の選択をインセンティヴによって分析いるところなども面白く、KKKの歴史やギャング社会についても知れて楽しい本でした。





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今中哲二先生の「低線量放射線被曝とその発ガンリスク」を読んだよ!

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専門家への不信が高まり続ける昨今「アイツは御用学者だからダメだ!」「ウソつきだ!」という声がところどころであがっておりますが、そうした批難の声をあげている方々のお話を聞くに(これは、どうやら別な専門家に鞍替えしただけなのではないか……)と思わなくもありません。ある専門家を不信しつつ、別な専門家は信頼できる(かも!)と支持する根拠はどこにあるのか・自分は何を信じているのかもあやふやなまま、不安に煽られて安易な鞍替えをしてしまって良いものでしょうか? そうした態度では、これまでと同様に専門家への丸投げが繰り返されてしまう気がします。「馬だと思って乗っていたのがラバだった!」みたいに騙されたくはないものです。誰もが馬の調教師である必要はございませんが、馬とラバの見分けはつくほどの見識はもっておいて損はないでしょう。




ということで、放射線関連の記事を読んで、見識を高めていこうじゃないか! と思った私がいろいろ読んだ結果を記録するコーナーです。もちろん私は専門家ではございませんから全方面的にシロウトでございます。ですから、間違うことがあるかもしれません。誤解をしてしまうことがあるかもしれません。それに気づいた方がいらっしゃいましたら、遠慮なくご指摘や罵倒をお願いしたいと存じます。直ちに健康へと影響がでるわけではない、と言われている状況を勉強する機会と捉え、有識者の方々にはそうした指摘を《正しい知識》の啓蒙のチャンスと考えていただければ、と考えております。こどもがいきなり文章を読めるようになるわけではありません。誤解は学びなおせばいいじゃない! 今度から線量計にはキャップを忘れないようにすればいいじゃない!*1 





なお、当方はああしろ、こうしろ、といった主張をしようとする者ではございません。シロウトの本分をわきまえつつ、読んでなにがわかったか・なにがわからなかったのかの記録をすることが目的です。










さて第一弾は、京都大学の今中哲二先生のテキストを読んでみました。今中先生は福島での事故からまだ日が浅い頃に飯館へと向い調査をおこなった方で、ネット界隈では「Not 御用学者」系の科学者として知られているようです。このテキスト「低線量放射線被曝とその発ガンリスク」は岩波書店の『科学』という雑誌に2005年に掲載されたもの。この論考では2004年に新聞に掲載された「日本人のガンの 3.2%は診断用 X 線が原因」という記事を発端としながらその記事の検証と、放射線が人体に与える影響モデルの紹介がなされています。当該新聞記事は、イギリスのBerringtonという人による研究結果に準拠しており、それによれば「誰もが日常的に利用している診断用 X 線により日本で毎年約 8000 件ものガン死が発生している」ということになる。え、マジで!? という感じで検証に入っていくわけですが、これには別な専門家が反論していたのですね。Berringtonは、ガン死リスクの計算を「しきい値なし直線モデル」を使って計算しているんだけれども、これは一度にたくさんの量の放射線を浴びた人(広島・長崎とか)のデータをもとにして作ったモデルだから、X線みたいにちょっとの量の放射線のケースには適用できない、というのがその反論でした。





「しきい値なし直線モデル」ってなんですか? という話なんだけど(これは今いろんなところで解説記事が読めると思いますが)放射線は受けたら受けた分だけ、リスクは高まっちゃうぜ、という考え方の模様。今中先生は広島・長崎の被曝者のデータをもとに、このモデルについての評価してくれている。曰く



広島・長崎データに基づくガン死リスクは、高線量データから低線量データへ外挿して得られた値であるとよく言われるが、0.1Sv(100mSv)くらいまではかなり信頼できる結果が得られているといってよい。本稿で問題にしているのは 1~10mSv の被曝影響であるが、LSS データからその範囲について疫学的に有意な影響を観察するのは不可能であろう



とのこと。これはこのモデルは値が高いところから100mSvぐらいまでは良い感じになってるけど、1~10mSvぐらいだとなんとも言えんよね……と理解して良いのであろうか。ただ、こういう分析ができるのとは別に、国際放射線防護委員会(ICRP。緊急時は年間20mSvまで被曝してOK、と言っている人たち)や放射線影響国連科学委員会は、人間以外の生物への影響とかから、こうしたなんとも言えないところにもこのモデルを適用しても変じゃないよ、と判断しているんだって。





でも、やっぱりしきい値なし直線モデルはダメなんじゃね?(低線量での被曝のときはリスクが高まるとはいいがたいんじゃね?) という人もいるのね。それが被曝によってDNAが壊れても、生き物はそれを修復できるじゃん? だからちょっとの被曝だったら全部回復できちゃうから影響ないんじゃね? という立場をとる「しきい値説」の人たち。この人たちのなかには、低線量での被曝は健康に良くなる、という人もいる。それとは逆に、欧州放射線リスク委員の人たちは「線量・効果関係が極低線量でいったん極大値を示すという『2相(Biphasic)モデル』」を提唱していて、低線量でも危ないポイントがある! と主張しているそう(でも、これはこの時点ではデータが揃ってなかった模様だ)。いろいろあるけど、今中先生としては低線量被曝でも、しきい値なし直線モデルを採用しておくのが良いのかなぁ~、と考えていたみたいです。それを裏付けるデータもいろいろ出てたんだって。Berrington論文に関しては、まぁ……X線による3.2%のガン増加を直接観察するのは難しいよね……(ガンの原因はいろいろあるし)という評価です。





以上をまとめると





低線量被曝の人体に与える影響は、いろんなことを言う人がいてぶっちゃけよくわかんないケドも、低線量でもリスクはあがるよ、というモデルを採用しておいても十分合理的なアプローチである(とこの当時今中先生は考えていた)





ということでよろしくて? 個人的には『ニュートン』6月号に書いてあった話を少し掘り下げて理解することができて良かったです。



Newton (ニュートン) 2011年 06月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2011-04-26)





*1






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『Newton』6月号「未曾有の大震災」は、ものすごい良い仕事

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Newton (ニュートン) 2011年 06月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2011-04-26)



『Newton』には先月号でも震災の速報記事が掲載されていましたが、6月号では本来予定されていた特集を延期して「原発と大震災」特集が組まれています。日本がアジアに誇る科学ジャーナリズム誌が、今回の震災に取り組んだ本気がヒシヒシと伝わってくる内容でかなり素晴らしいモノだと思います。特集は第1章「 超巨大地震はこうしておきた」、第2章「徹底分析 福島第一原発事故」、第3章「次にひかえる超巨大地震」に分かれています。なかでも第2章は原子力発電所の仕組みや事故原因、チェルノブイリでの事故との比較、放射線の人体に対する影響……などなど今回の特集では一番力が入っている感じの部分に思えました。Twitterなどで魑魅魍魎みたいな人がゴチャゴチャ言っている原発・放射線関連の情報に不安を煽られている人には第一にオススメしたいです。





アマゾンのレビューでは「一方、原発事故の分析は、イラストがきれいという点以外は連日メディアで報道されてきた程度の内容で、特に新しい発見はありませんでした」という声が寄せられていますが、連日メディアで報道されてきた部分がうまくまとめられているのだとしたら、記事としての価値があるでしょう。速報性の高いメディアでは、なんだかよくわからないかったり、説明不足になってしまう部分がここではフォローされているように思われますし、毎日入ってくる情報を誰もがうまく処理できるわけではありません。図説や写真入りでわかりやすく解説してくれる記事はとても有用だと思いました。多くの人にとって、不安なのは結局のところ、放射線によって人体にどういう影響がでてくるのよ? という部分だと思いますが、この点はQ&A方式になっていてかゆいところまで手が届く感じ。





しかし、もっとも恐ろしいのは第3章。タイトルからして、もうすぐ超巨大地震がくるぞ……という恐怖感を煽ってきますが、そうした予知・予想的な部分については確かなことがあまりいえない感じだそうで、具体的な感じではありません(また、今回の震災で日本周辺のプレート・断層の状態が大きく変わっているため、これまでの研究結果を洗いなおす必要があるのだそう)。しかし、そうした超巨大地震が起こったときに考えられる災害の恐ろしさが大々的に説明されます。高速地すべり、スロッシング、富士山噴火、火炎旋風……などゾクゾクする感じ。煽るだけ煽って解決策の提示などはないので、投げっぱなしジャーマンみたいですが、心の備えはムダではないでしょう……と思いました。





次号も予定していた特集を延期して「これだけは知っておきたい 原子力と放射能」という特集になるとのこと。放射能の“適切な怖がり方”を探る内容もあるらしく目がはなせません。





追記


「事故ってない原発でも停止してから解体するのに、30年以上かかる」というのを今回の特集で知りました。原発の耐用年数は30年ぐらいでしたっけ? その利益を享受するのと同じぐらいの年数を、解体するのにかかるのね。最近ネット上では原発反対の声が各所で大きく叫ばれていて、それに対して「そんなこと言っても、超エコな発電システムがあるわけじゃないじゃん。実際、反対しちゃって良いの? 今、反対することによって、将来得られるメリットを失うことにならない?」と考えていました。





なので反対にも賛成にも安易には加担できないな(よくわからないから)と思っていたのですけど、耐用年数と同じぐらい解体に時間がかかるのを考えると、今原発を使ってメリットを得ることで、後々の人にメリットと同じ年数分の負債みたいなものを負わせることになるのだね、と思いました。耐用期間30年の原発が運用されはじまった時点で、20歳の息子さんがいる50歳(寿命が80歳)の人がいたとするなら、その息子が50歳になったときに原発は停止され、自分は死んでその後のことは知らんぷりできるけど、息子はあと30年間原発が解体できるようになるまでの時間を生きなくちゃいけない。その息子が20歳でこどもを作ってたら、孫の世代が50歳になるまで原発の解体は終わらない、という「親子三代まで呪ってやる!」みたいなお話を考えれば「現状では仕方ないから原発を使いましょうよ」とも迂闊に言えない気がします。





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静寂/何があっても生き抜く覚悟の用意をしろ(You Should Prepare to Survive through Even Anything Happens)

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You Should Prepare To Survive Through Even Anything Happens
静寂(灰野敬二・ナスノミツル・一楽儀光)
doubtmusic (2010-10-11)
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引き続き*1、静寂のアルバムについて紹介していきたい。こちらの白いジャケットのほうは邦題が『何があっても生き抜く覚悟の用意をしろ』、英題は“You Should Prepare to Survive through Even Anything Happens”。これまた邦題と英題で印象が違う。「20世紀のブルースに敬愛を表して作られたリアルなブルース集」とあるとおり、これはホントにブルース・アルバムで『秘儀伝授』に比べるとかなりポップな作品だ。『秘儀伝授』から『何があっても……』へと聴き繋ぐと、このふたつの作品の落差には驚いてしまうぐらい違う。『何があっても……』では、『秘儀伝授』で展開される空間を切り裂くようなインプロヴィセーションとはまったく雰囲気の違うブルース・セッションが聴ける。これを聴きながら思い出したのは初期のグル・グルだった――とはいえ静寂初期グル・グルの超絶ドラッギーなブルース・ロックをやっているわけではない。というか、ずっと静寂の音は醒めているし、乾いている。これに火をつけるのが灰野敬二の搾り出すようなヴォーカルで、いわば、下は氷河期、上は大火事、これな~んだ? みたいな感じである。何を言ってるのか わからねーと思うが……。





声とギターの呼吸が見事に対応する部分では、灰野さん、こういうギターも弾けるのか、とも思った。その呼吸の連なりは、楽器がギターからブルース・ハープに持ち換えられても変わらない。息を吸って吐くように歌い、息をすって吐くように楽器を弾く。そこにもやっぱり達人っぽい自然さがあって、すげー、と思うのだった。






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静寂/不失者の秘儀伝授(Mail From FUSHITSUSHA)

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静寂(灰野敬二・ナスノミツル・一楽儀光)
doubtmusic (2010-10-11)
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昨年10月に発表された灰野敬二・ナスノミツル・一楽儀光による静寂のアルバム2作品には邦題と英題がつけられている。こちらの黒いジャケットのほうは邦題が『不失者の秘儀伝授』、英題が“Mail From FUSHITSUSHA”。ここでは言語によって伝わってくる印象、というか温度がまるで違うように思われる。邦題は文字通り秘密のメッセージが発せられていそうだし、私は英題から海中を漂うボトルメールを連想してしまった。どちらにせよ、なんだかヒネりが入っていて込められたメッセージはスムーズには伝わってこなそうなイメージが湧く――けれども実際にアルバムを聴いてみたら、これほど直接的なメッセージ・ソング集も珍しいのでは? と間逆の印象を受ける。その印象は先日のライヴでは*1一部聴き取りにくかった歌詞がバッチリ聴こえる! というせいもあるんだろうけれど。





たとえばこんな歌詞がある。



こんなはずじゃあ なかったなんて


もう 言い合うのは やめろ




自ら「知れる」ことを 放棄したふりをして


学ばなければ と 責任を取らぬまま


我々は この形に なってしまっている


こうした言葉は今の状況を暗示するかのように聞こえる。でも、前述したとおりこのアルバムが発表されたのは昨年だ。制作者もこんな風になるなんて想像していなかったはずで(さすがに灰野敬二だって予言者ではないだろうし……もしかしたら予言者かもしれないけれど……)意図された暗示ではない。先日、大友良英は藝大での講演*2で「状況が変化したことによって、芸術作品が持っていた意味が変わってしまう」というようなことを言っていたけれど、これもまたその一例なのだろう。





でも《今読み取れる意味》が変わったからといって、状況への憂いが根幹にあるのがすっかり拭い去られるわけではない。むしろ震災前後でも灰野敬二という人は全然ブレずに、憂いてるし、怒っているんだな~、というのが感じられる。事故があったから急に大きな声を出すんじゃなくて、前から大きな声を出してたんだな、と。私としてはそういう人の言っていることを信じたいな、と思う。もちろんアレは雷に打たれて回心しちゃうのと同じぐらいショッキングな出来事だったと思うから、言うことが変わるのは不思議なことじゃないし、自分自身いろいろ変わった部分はある。だからこそ、こういう変わらない人を見ていると安心していられる気がする。自分と考え方が違っていても、ブレない地軸みたいなものを見ることで一つの拠りどころとする、みたいな。「坂本龍一は《坂本龍一》なのに、灰野さんは《灰野さん》」なのはそういうことだと思うんだよ!







これは先日のライヴのあとに、この人、ホントなにものなんだろな~、というのが気になって灰野敬二のインタビューなどを探していたときに読んだ記事。これもやっぱり「ブレないな~」と思わされる内容だ。



そのくらい音楽が好き。人が誰でも平等に持っている宝物っていうのは『時間』で、1回使ったら戻ってこないものでしょ? それを使っても、全く惜しくないと思うのが音楽。それくらい音楽のことしか考えてない。



という発言を、この以下の歌詞と並べてみよう。



選ばされているだけに 気づけ


選ばされていることに 気づけ


好きと思わされていることに勘づけ


好きと思わされていることに勘づけ


何もかも あるように思わされていると


叫べ



これらからは灰野敬二の《選択的な生き方》が読み取れると思う。人は「自分が好きでこの生き方をしている! 自由に生きている!」ように思っていても、その生き方は実は本能だとか、状況だとか、社会だとかに選択させられていたり、嗜癖として染み付いてしまったものを惰性で続けているだけだったりする。それはある部分は仕方ないけれど(だって、ごはんを食べないと死んじゃうしねえ……)、それに対して彼は「もっと自分を追い込んだり、ストイックになったら、もっと自分で選択できるし、そういうのがホントに自由な生き方なんじゃない?」と突きつけてくる。自由意志がものすごく重要視されている、というか。







この記事を読むと、自由意志によらない惰性や習慣に対する灰野敬二の嫌悪がよくわかる。煙草や酔っ払いが嫌い、というのはまさに嗜癖への嫌悪感だろう。私が共感してしまったのは、この部分(社会になんか流されないぞ! なんて突っ張りきる才能が自分にはないのは分かっているし、かつ、かなり性質の悪い酒飲みではあるんだけれど)で、自分が喫煙習慣を止めたのもほとんど同じことを考えたからなのだ。「これ、自分で好きで吸ってるわけじゃなくね? 習慣で吸ってるだけじゃね? 限られた人生の時間を、そんな惰性で過ごして良いの?」と思ったら、ピタリ、と止められた。





アベラールやスピノザがいうように「この世界は全能の神によって作られるから、こうであるしかない。起きていることは全て正しい!(by 勝間和代)」という世界観も理解できる一方で、いや、そういう世界かもしれないけれど、自由意思を持っているように生まれてきてしまったのだから、それを全面的に行使することが徳の高い生き方なんじゃなかろーか、とか常々考えているのだけれど、灰野敬二という人はまさに、そういう徳の高い生き方の一例だ。このアルバムの衝撃は、そういうロールモデルにできるぐらいに尊敬できる人間との出会いが半分以上。





ここまで音についてまったく触れてないけど、もちろん、音も超絶的にハードでカッコ良いです。音によって空間に濃淡をつけたり、鋭く切り裂いたり。灰野敬二の爆音プレイは、ライヴだと聴いている位置によって爆音に飲まれてしまうだけで終わってしまう可能性があるけれど、バンドとしての音が把握しやすい。ホワイトノイズ/ベースのねばりつくようなフレーズ/ドラムの打撃音で、綺麗なレイヤーができる瞬間など聴いていて気持ち良い。






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静寂 @高円寺HIGH

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会社の上司と「実はちゃんと聴いたことのないミュージシャンのライヴを観にいこう」ということになり、灰野敬二のバンド、静寂のライヴへ。これが文字通り魂消てしまうライヴだった。スタンディングのライヴでは久しぶりに深い感動を得られたし、自分はこういう音楽を聴くべきなのだ、という確信に至れるライヴ。素晴らしかったです。灰野敬二のライヴは学生時代に一度、サンヘドリン(だったと思う)のパフォーマンスを観ていたけれど、そのときは全くピンとこなかった。それが今回のライヴで開眼。





これまでこの手の音楽はみんな「情念がアンプからドロドロと流れてくるようなおどろおどろしい音楽」という固定観念があって敬して遠ざけてきましたが、灰野さんの表現はそうした固定観念とはまるで違っていて、どこまでも冷めているように思えた。ただそれは冷たい音楽というわけではなく、たぎった血がものすごい速度で血管のなかを通っているみたいに熱くて、自分はこういう音楽が好きだな~、と思いました。そこには状況に対する切実なメッセージも込められている。難解でも、攻撃的でもない言葉(あの場にいなかった人間に説明しようとすると一見陳腐に見えてしまうやさしい言葉でも、それは安易なモノではない)によって、その語りは編まれる。そこが猛烈に感動した。むき出しの感情、とでも言うのかな。灰野さんの言葉から発せられる強い精神に感染しそうな感じさえした。





それから驚いたのは灰野さんの身振りの軽さで、一楽儀光・ナスノミツルという他のメンバーの超重量級の演奏と比べると、彼の表現はまるで重力を感じさせないかのよう。ギターを《掻き鳴らす》という表現がぴったりなアクションは激しいが、それは武道や能の達人が型を披露するときの光景とも重なって見えた。達人的脱力だ。ペダルスティールギターや三味線、フルート、ブルースハープ、それから自分の声……さまざまに《楽器》を持ち替えながら奏でられる音は、音楽を超えた身体表現と化す。その表現はメインストリームの流れを組むものではないのだが、異形の人であり、アウトサイダーとして修練を積んできた結果、この地点に達した……みたいな凄みがある。





ある友人が「灰野敬二の音楽は0か1しかない」と言っていた。表面的には確かにそんな風に聴こえるかもしれない。沈黙とノイズのせめぎ合い。音がなっていないか、轟音がなっているか、というシンプルな世界観。でも、そうした聴き方は間違っている、と思った。この静寂というバンドにおいては、音がなっていない間にも、灰野敬二の表現が敷き詰められている。かつて武満徹は音を沈黙と測りあうものと考えた。そこでは沈黙に対立するものとして音が置かれる。しかし、灰野の表現では、沈黙のなかにも音が充満するのだ。このとてつもない轟音を奏でるバンドが静寂と名乗っているのは、単に皮肉なのではなくそうしたこととも関係するのかもしれない。



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静寂(灰野敬二・ナスノミツル・一楽儀光)
doubtmusic (2010-10-11)
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You Should Prepare To Survive Through Even Anything Happens
静寂(灰野敬二・ナスノミツル・一楽儀光)
doubtmusic (2010-10-11)
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終演後、感動した勢いで昨年発表されたアルバムを2枚購入(ライヴでは未発表音源のCD-Rもいただけた)。耳がキーンとなって高音域が聴こえにくくなっているのが治ったら聴きます。楽しみ。





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これはスゴいと叫びたくなる民族音楽

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〈JVC WORLD SOUNDS PREMIUM〉法悦のカッワーリー<パキスタン/スーフィー歌謡>
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン
ビクターエンタテインメント (2009-09-16)
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毎週末の図書館通いで借りるCD(一度に3枚まで借りられる)のジャンルが、民族音楽・落語・古楽、とあまりに雑多なセレクトに定まりつつある今日この頃。図書館には日本ビクターによる「JVC WORLD SOUND」という民族音楽のシリーズが一通りあるんだけれど、本日はそのシリーズからこれは! と思ったものを紹介していきたい。まずは『法悦のカッワーリー』というものすごい邦題がつけられたアルバム。これにはパキスタンのスーフィー歌謡、カッワーリー(タブラやオルガンにあわせて、良い声のオッサンがイスラーム神秘詩を歌う音楽)の第一人者、ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンの演奏が収録されている。カッワーリーは即興的に展開していく音楽で、この徐々に盛り上がっていく様子はほとんど聴くドラッグ体験(というか、元々そういう音楽なのかもしれないが……)と言っても良いのではないか。ミニマル・ミュージックみたいに繰り返されるタブラが突然火がついたように打ち鳴らされる瞬間などかなりテンションがアガる。ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンはすでに故人だが、これを生で観ていた人は「大変なものを見てしまった……」と愕然としたに違いない。録音は1987年。時代が後のレイヴ・カルチャーが本格的に導入された世であれば、一層熱狂的に受け入れられたに違いない。



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ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンの御姿が崇められる映像。ステージの左側にいるジャバ・ザ・ハット風に肥満体をしているのが御大。






密林のポリフォニー ~イトゥリ森ピグミーの音楽
民族音楽 イトゥリ・ピグミー
ビクターエンタテインメント (2000-07-05)
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続いて『密林のポリフォニー』と題された(基本的にこのシリーズ、こうしたヘヴィメタの日本盤の帯に書いてあるキャッチコピーみたいなタイトルがつけられている)ピグミーたちの音楽。コンゴ共和国のイトゥリ州というところにあるジャングルに住むピグミーの集落に日本大学の文化人類学研究チームと共同でビクターのスタッフが乗り込み現地採取した大変貴重な録音で、音楽の背景には鳥や虫の鳴き声が入り込み大変な臨場感を醸し出している一枚。声とカリンバによって奏でられるポリリズムは、否応なく80年代キング・クリムゾンを想起させ(というか、こっちが本物だが)「赤道直下には音楽的な霊感を与えるサムシングがあるのでは……」と思うほどに素晴らしい。録音スタッフの苦労が感動的に報われているように思う。



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サカルトベロの奇蹟のポリフォニー / 東西の陸橋カフカズの合唱
民族音楽 メスティアの男声合唱団 マラハゼの男声(合) テラビ国立音楽学校女性合唱団
ビクターエンタテインメント (2000-07-05)
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そして『奇蹟のポリフォニー』。こちらはこのグルジアの合唱音楽。CDの解説を紐解くとピグミーの音楽と並べられ「神技的な奇蹟のポリフォニー」と称されている(よく見たらこの解説、芸能山城組の山城称二じゃないか!)のだが、その大げさな形容に相応しい。女声合唱はどこまでも澄んで天上的であり、男声合唱はものすごく力強い。和声はときおり古楽っぽい感じになるのだが、声部が複雑に入り組むところもあり、西ヨーロッパの音楽と同じ源流を持ちながら独特な進化を遂げてしまった感がある。いろんなタイプの音楽があるようだけれども、ノンビブラートのドローンの上で浪々と歌われてる歌曲など、これはどこの世界の音楽なのだろう……という「この世のものでない雰囲気」が強い。



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石野卓球・野田努 『テクノボン』

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テクノボン
テクノボン
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石野 卓球 野田 努
JICC出版局
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石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。





本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。






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それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。






D


あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツボをついてくる。





昨今ではテクノというかクラブ・ミュージックというジャンルがオタク文化と接近するなどして一部でハードコアに地下化していると聞く。大きくメジャーな音楽になっているわけではないが、テクノの根強さみたいなものはどんどん強まっているのかもしれない(メジャーではない分、マニアックに深まる、というか)。そうした状況のなかで歴史を押さえておく、というのは無意味ではないだろう。そう言った意味で『テクノボン』の価値は現在より一層高まっているものに思える。





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BATTLES/Gloss Drop

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GLOSS DROP [解説付・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC288)
Battles バトルス
WARP RECORDS / BEAT RECORDS (2011-04-27)
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ポスト・ロックという言葉から思い起こすのは「ロック・バンドのフォーマットで、歌モノじゃない音楽をやる人たち」という貧しいイメージなのだが、その代表的なバンドと言われるモグワイとかああいうのに対し、私は積極的な評価していない。それは「そんなに大したことやってなくね?」という侮りに近い印象であり、その大したことなさ、というのが結局彼らの音楽が《物語的なダイナミズム》(静かに始まって、徐々に盛り上がって、最後は轟音ギターでウォォとなる、的な)を単調に繰り返しているだけなんじゃないか? という疑念から発するものだ。轟音ギターがエモーショナルなものとして解釈されている感じもなんかイヤだった。アレだ、野外フェスで目をつぶって、天空に向けて両腕を開き、感じ入ってるアノ雰囲気。今そういうのを思い起こすと「結局ポスト・ロックってロックっぽいニューエージだったのでは?」と思わなくもない。





これに対して、バトルスはポスト・ロックとダンス・ミュージックを接続するバンドだったのかな、と思う。というか、バトルスは天空に向けて両腕を開いて聴く音楽ではなく、踊るための音楽のように聴こえる。だが、そこで行われるダンスはソーシャル・ダンスやタンゴのように高度な形式を伴っておこなわれるものではなく、発作的な縦ノリのジャンプ……結局のところ、ダンスっぽくありながら、あくまでロックンロールの延長戦に過ぎないのがバトルスの音楽なのだ、と思う。そこが究極的につまらない、と感じる部分だ――などと、自分がこの音楽の何が気に喰わないのか細かく考えるハメになったのが今回の『Gloss Drop』というバトルスの新譜だった。おそらく一生この手の音楽を聴くことはないんじゃないか、チェックしても時間の無駄なんじゃないか、と決別の契機になるほど、生理的なレベルでのハマれなさ。





ヴォーカルなどを担当していたタイヨンダイ・ブラクストンが脱退。抜けた穴を埋めるように、さまざまなゲスト(マティアス・アグアヨ、ゲイリー・ニューマン、カズ・マキノ、そして山塚アイ!)を招いているのはなんかサンタナのアルバム制作方法みたいだが、そうでもしないとアルバムが一層単調なものになったに違いない。山塚アイが参加しているインチキなダブみたいな曲が最も楽しげで(絶叫とかはしてない)、その他はなんかチマチマしたフレーズがループしている音楽に聴こえてしまった。というか、そういう音楽なんだけれど、どうしてテクニックがある人たちが、こんなチマッとした音楽に収まってしまうのかが謎。






EP C / B EP [2CD] (WARPCD141)
EP C / B EP [2CD] (WARPCD141)
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Battles バトルス
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一番最初のEP集がバトルスは一番良かったんじゃないか……。





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庄司紗矢香/Bach &amp; Reger: Works for solo violin

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同世代の音楽家の演奏を追っていく楽しみ、というのは確かにあって、1985年生まれの私にとっては、庄司紗矢香の活動を追っていくことでそうした楽しみを味わえる。1983年生まれの庄司については改めて紹介するまでもなく、現在国際的に活躍する日本人音楽家のなかで最も若手で、かつ最も広く活躍するヴァイオリニストであろう。17歳でドイチェ・グラモフォンからCDデビューして、今年は初アルバムから11年目。今回はフランスの「Mirare」レーベルからバッハとレーガーを扱った作品集である。これは言わずと知れた大バッハと、19世紀末から20世紀初頭に活動したドイツの作曲家、レーガーの無伴奏ヴァイオリン作品を交互に配置したもの。レーガーはそれほど有名な作曲家とは言えないが、後期ロマン派の末期においてバッハを信奉し、擬バロックというか、擬バッハ的な作品をいくつも残した作曲家だ。



収録曲




  1. レーガー:前奏曲とフーガ ト短調Op.117-2

  2. J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調BWV1001

  3. レーガー:前奏曲とフーガ ロ短調Op.117-1

  4. J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番 ロ短調BWV1002

  5. レーガー:シャコンヌ ト短調 Op.117-4

  6. J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004



ライナー・ノーツにはこんな言葉がある――「バッハが残した記念碑的なバロック音楽を、尊敬する作曲家ブラームスのプリズムを通して再創造することが、まさにレーガーの音楽だった」と。ブラームス自身、バッハやベートーヴェンといった巨匠の作品にリスペクトを払っていた作曲家だったけれど、レーガーの作風はそうしたリスペクトをさらに過剰にしたもの、と言えるのかもしれない。高度な対位法を用いたその書法は、その後のシェーンベルクも賞賛したそうである。シェーンベルクは過剰なロマンティシズムから、研ぎ澄まされた無調/12音音楽へと移った作曲家であるわけだけれども、その無調/12音音楽の厳しさとレーガーの音楽の厳しさには確かに通ずる部分があるのかもしれない。





とはいえ、大部分のリスナーが注目するのは庄司紗矢香によるバッハであろう。というか、バッハの《シャコンヌ》を彼女がどう聴くのか、というところだと思う。しかし、同年代の音楽家として追っている、と言いつつも、庄司紗矢香は「○○的な演奏家」と紋切り型に表現するのが難しい演奏家である、と感じる。とりわけクールなわけでも、とりわけホットなわけでもなく、どこか優等生的な部分を見せつつ、しかし、ライヴではテンションが高い演奏を聴かせてくれる……という感じであって、今回のアルバムも聴くまでまったくどんな演奏が飛び出してくるのかまったく予想ができなかった。特別にエキセントリックな演奏はしてこないであろう、とは予想していたけれども、その予想は当たっていて、レーガーにおいてもバッハにおいても、豊かな音色を充分に響かせながら丁寧に引き込んでいくスタイルが取られている。「おっ」と思わせるクセや、不自然なルバートなどは皆無で、音楽はややゆっくりと流れていく。自然な情熱とでも言えば良いのだろうか。のめり込むようにして勢いを飛ばすのではなく、真摯に音楽が読み上げられるような演奏には好感が持てた。




録音はフランスのランファン・ジェジュ教会*1でおこなわれたそう。長いリバーブは好き嫌いが分かれそうだが、個人的には不自然な感じはしない音だ、と思った。






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クリント・イーストウッド監督作品『ミリオンダラー・ベイビー』

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ミリオンダラー・ベイビー [DVD]
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俺内映画祭の最後に『ミリオンダラー・ベイビー』を。『ミスティック・リバー』の次の年にこんな作品を撮ってたとは……と、この時期のイーストウッドはどうかしてたのではないか、という超弩級のドンヨリ具合。心に傷を負った人間同士の交流によって傷が癒されていく、凡庸なサクセス・ストーリーかと思いきや、ええ……と背中の方から声を出したくなる欝展開。素人目にボクシングって「要するに殴って倒したほうが負け」というすごくシンプルな原理の上に成り立つスポーツのように見えますけれど、その原理は選手の強さが身振りの洗練によって演出上分かりやすく画面に現れるのにも機能しているように思われ、主人公の女性ボクサー、ヒラリー・スワンクの身振りがどんどん洗練されていく様子は、彼女が自信を失った状態から少しずつ生き生きとした生を取り戻していく過程と重なって見える。しかし、それがこんな風になってしまうなんて……。『ミスティック・リバー』も、生の脆弱性が暴き出されるような映画だったけれど(たまたまある事件の被害者となった人間のその後の人生が悲惨なものとなる)、これもまた《何か》が起こって人生がメタメタになってしまう話として解釈できる。それが何気なく、平凡な人生であっても《何か》が起こりうる。その可能性は普段は隠蔽され、そして我々の側でも忘却しているのだ(それを忘れられない人間は神経症的、と呼べるだろう)。こうして、どんな人間も綱渡りのような生活をしている、という恐ろしい真理を見せつけられると、文字通り魂消てしまう。そういえば、先日同じ職場に勤めている人が『ミスティック・リバー』を観て「今の時期にあの映画はキツい……」とこぼしていたが、そのキツさとはもしかしたら人生の綱渡り性を見せ付けられ過ぎて食あたり状態、みたいに言えるのかもしれない。あんなに大きな地震が起こるとは普通の人は考えてなかったはずだし、原発が壊れるとは普通の人は思ってなかったはず。そうした「起こるかもしれない」という可能性に対する不安に対してどのように振舞わなくてはならないのか。忘却すれば楽だけれど、教訓もまた忘れてしまう。なるたけ不安を抑えつつ、教訓を得るようなやり方が上手いリスク・コントロールなのだろう。人間の尊厳の問題よりも、リング上にズギャーンと現れる生の裂け目を見せ付けられて、そんなことを考えた。





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エミール・クストリッツァ監督作品『アンダーグラウンド』

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引き続き、俺内映画祭でクストリッツァの『アンダーグラウンド』を。第二次世界大戦中、対独抵抗運動をおこなうパルチザンがいろいろあって地下にもぐって兵器製造をおこなうこととなる。戦争が終わってからもなお地下では戦争が続いていると信じられ、それを利用した主人公は仲間に地下で作らせた武器を売りさばき、利益を得、そしてチトー政権下で権力を奪取する。しかし、いずれはその欺瞞が破綻して……みたいなお話の映画。(旧)ユーゴスラヴィアの政治史や民族的事情について疎いため、多少混み入った話になるとツラいのだが、国家の虚構性や社会主義リアリズムのハリボテ感が、地下で信じられている嘘と対比されることで浮かび上がるところが面白かった。作中は三部構成となっており、第三部では、そうした虚構がすべて暴かれた状況が提示される。ユーゴスラヴィアは内戦状態にあり、スラヴ人の独立と統一という理想が崩壊した最中、地下で信じられていた嘘も虚構であることが判明してしまう。嘘が嘘と分かった瞬間、物語は一挙に凄惨で、悲劇的な様相を示す。死体を載せた車椅子が燃えさかりながらグルグルと回り続けるシーンのものすごい絶望感は、ショッキングだ。だが、作品全体のトーンはどこか祝祭的である。冒頭から景気の良いブラス・バンドの演奏が始まり、狂騒的な気分を煽ってくるし、それは前述のショッキングなシーンの後にも再びやってくる。この映画のなかがずっとお祭り状態にある雰囲気は『黒猫・白猫』にもあるけれど、『黒猫・白猫』があくまで喜劇的な性格を持つのに対して、『アンダーグラウンド』はまるで躁状態で語られる悲劇みたいに感じた。それゆえに、映画が賑やかであればあるほど、悲痛さは増す。





なお、劇中のブラス・バンドのなかに「ワーグナー・チューバ」のような楽器があって気になっていたのだが、チューバ/セルパン奏者である橋本晋哉さんによれば、




とのこと。「バリトン」はドイツ式のユーフォニウムのことだそうで、バルカン系の民族音楽的ブラス・バンドにおいて使用されている模様。ワーグナーチューバとは構え方・管が巻いてある方向・バルブを操作する手が違っているので、それで見分けられるぞ!(豆知識)





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ジョン・ウォーターズ監督作品『ピンク・フラミンゴ』

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引き続き、俺内映画祭で『ピンク・フラミンゴ』。ひっさしぶりにしょうもない映画を観たなぁ……という力いっぱいの徒労感。「世界一下品な女」である巨漢のドラァグ・クィーン、ディヴァイン。その称号に嫉妬覚えた変態夫婦が彼女に抗争を挑む。さあ、世界一の下品はどっちだ! みたいな話なのだが、別にパンタグリュエリズムな下品合戦があるわけではなく、後半下品勝負など関係なしに殺し合いをしてたような気がしてならない。こういうの好きな人は好きなんだろうなあ~とか思いつつも、自分の物好き加減の方向性とはまったく相入れないのを確認した。が「説明するまでもなく、見るからに変態である」という視覚への訴え方・イメージの作り方は大変力強く、そこはなるほど、と思った。





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アッバス・キアロスタミ監督作品『友だちのうちはどこ?』

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友だちのうちはどこ? [DVD]
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引き続き、俺内映画祭。キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』は、学生時代に友人が映画館で観た話を聞いていた。「子どもが山をジグザグに走る映画」というのがその当時受けた説明で「なんだそれは」と思っていたんだけれども、本当に子どもが山をジグザグに走っている映画だった……。友達のノートを間違えて持って来てしまった8歳の少年が、ノートを返すために頑張る! というのが映画のあらすじで、お話はそれ以上でもそれ以下でもないのに物語になっているのが新鮮に思われ、こういう映画もあるのだな、と感心した。友達の家までの道すがら、怪物だの美女だの恋愛だの、刺激的な要素が登場するわけでもないのに。意地の悪いオトナやちょっとボケている感じのおじいさんの存在や、主人公の気弱っぽい性格にはイライラさせられるのだが、なんか同じところをグルグルしたりするところは『ドン・キホーテ』にこんなのなかったっけ? と思うところもある。あと、イランという全然知らない国の道徳や生活が出てくるのは単純に面白く、名誉白人みたいな人間が住んでいる世界とは映画のなかの世界がまるで違うのは驚きのポイントだ。「え、宿題を床に座ってやるんだ!?」とか。





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ZAZEN BOYS/赤とんぼ・東京節

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音楽や映像を配信で買いながら募金もできるサイト「DIY HEARTS」にてZAZEN BOYSの新譜を買う。内容は上記にもあるとおり「赤とんぼ」のカバーと「東京節」という新曲の動画。向井秀徳といえば震災以降に「ふるさと」をカバーした動画をYoutubeにアップしている。



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こうして「ふるさと童謡」のカバーが続くと、彼のメンタリティが急速に分かりやすく右傾化しているのではないか、と勘繰ってしまうが、それは自分が右傾化しているせいでそう思ってしまうだけで、例えば、震災以降の私は天皇陛下の動画メッセージを観ただけで「この非常事態にこの穏かさで話せるのは、やはり天皇陛下だけであろう……!」と素朴に感激するような人間になってしまった。





「ふるさと」では、原曲の節の感じと歌詞だけが残っていて、ほとんど原曲とは別物なカバーになっていたが、「赤とんぼ」もまたスゴい内容。さすがだ、これはこのバンドにしかできない、と心底驚いた。冒頭、「夕焼け小焼けの~」のテーマをトゥッティはまるで渋さ知らズのようだが、そこからフッツーに向井が良い声で歌ったあとに、お得意の変態ファンク・セッションへと流れ込む展開がビリビリとくるポイントで、そうした目まぐるしい変化は当然予想されうるモノの、実際聴いてみるとカッコ良い! と痺れてしまうのであった。「東京節」も21世紀型空想音頭という雰囲気が良かったですね。





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フランシス・フォード・コッポラ監督作品『ゴッドファーザー』シリーズ

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実家から自宅に戻って何をしているかと言うと、6月に出す同人誌の編集作業。現在はひとまず集まっている原稿をWORDで編集して執筆陣に送り返して、その編集待ちの状態なんだけれど、ひとつ今回書いてもらった小説にものすごく映画が観たくなる作品があって、待ち時間にずっと映画を観ていた。で『ゴッドファーザー』シリーズを一気に鑑賞。合計8時間ぐらい? 超濃密な大河ドラマを見せられたようでクタクタになったが、とても面白かった。1作目と2作目を観ていたらマックス・ヴェーバーなカリスマの継承問題について思い浮かべたし、3作目で描かれる贖罪もツボだった。『グラントリノ』も告解がすごく印象的な映画だったけれど、神を前にして秘めていたものを吐き出す、という告解の演出は、実際にはその吐き出されたものを観客が受け止めなくてはいけないわけで、そういう吐き出されたものをモロに喰らってしまうような気がして、ウワーンとなってしまう。マイケル・コルレオーネの人生は、何かを得たかと思ったら、代わりに何かを失う、というなんだか物々交換みたいな波乱の人生であって、それが最後まで続くものだから業の深い人間であるなぁ、と感嘆してしまう。けれども、こうして何かを得るために、代償を払わなくてはいけない、というのは日々の営みとして当然なことだ。こうしたことを改めて考えていると、物語のなかで大きな代償を払ったときに生じるダイナミズムは、なんか大きな買い物をしたときのやってやったゾ感に通ずるのかもしれない。物語のなかの経済学、というかそういうことについても考えてしまった。ああ、ドラマってこういう風に書くんだなぁ、とか思う。





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土地に縛られる人々

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実家には2泊してもうすでに自宅のマンションに戻ってきている。写真は、ウチの庭先にあるビニールハウスで田植えの日を待つ稲の苗。田植えにもいろんな方法があるんだろうけれど、ウチでは若い苗を農協から買ってきて、こうして温室のなかで育ててから田植え機で植える。予定では今度の土日に田植えをおこなうらしい。「もう一度、原発が爆発したらおしまいだべ」という終末的な不安を抱えながら、もし収穫までいっても食べても大丈夫な米ができるかどうかわからない状態で、こうしていつもの年と同じように田植えの準備ができるのは、もはや偉いとかスゴいとかではなく「呪縛なんじゃねーか」と思ってしまう。農業をやるって土地と一緒に暮らすことだから、土地から離れるという選択肢は最初からなくて、そこに自分たちの土地があるなら耕すのは当然――私の目には、私の家族や親類たちの無意識にはそんな考えがあるように思われる。





それが「呪縛である」という風に思われるのは、既にその土地を離れてしまった私が勝手に抱いている感想だけれども、例えば原発が300kmほど離れたところでホットになっている土地で生活しているサラリーマンが「俺はもうココに留まるって腹をくくったから」と選択をして決意をする態度と、福島の農家の人がそこに留まって日々の営みを続けるのとは全然違う。選択肢が考えられる人にとっては、危険な場所にどうして留まる理由が不思議に思われるかもしれない。あるいは、危険な場所で生活を続けるのはとても不合理な行動だと思われるかもしれない。「その土地を離れ、別な場所で心機一転頑張ってみたほうがより多くの益が得られるのでは?(食べられるかどうか分からない米をわざわざ作らなくても良いのでは?)」とか提案してみたくなる人もいるかもしれない。




しかし、いかにそうした説得がおこなわれても、不合理な選択が優勢となることのほうが現実的に考えられる。これは田舎の人が不合理な選択を選びがちなほど保守的である、という理由ではなく、そもそも「私の土地」というような愛着や思いに不合理性が含まれているからだ。この不合理性は美的なナショナリズムの姿とも通ずる。「魂のふるさととしての国体に殉ずることを国益とする立場もある。国体に殉ずる精神的な営みから見た場合、計算可能な国民益が低下するような選択であっても、あえて国益だと見なすわけです*1」。たまたま、その土地に生まれてしまったことにより、こうして土地へと縛られていく人もいる。土地が人を縛る力の強さは、土地を離れた私のような人間にさえ「なにかをしなくては」と思う気持ちが湧いた瞬間にも実感する。





写真をもう一枚。これはウチの桃畑。今はちょうど桃の花が咲き誇っているシーズンで、ウチの畑のように摘蕾をしているところ(果実の質を高めるうちに、ツボミのうちから数を制限すること)では満開感にかけるけれど、超ゴージャスに咲き乱れている畑もある。そうした光景に出くわすと「あ、これが桃源郷ってヤツですか!」と膝を叩いて叫びたくなる。だが、これだって今年の夏、商売になるかどうか全くわかっていない。







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そのとき母はハチミツを買った

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実家がある福島県(福島市)に帰って来ている。ここは今日本で最もホットな土地の一部。実家はいつもの通り穏やかで家の人も放射性物質が不安ではあるけれど、震災以降一週間ぐらいライフラインが止まった時の苦労話を笑い話のように語れるぐらいには余裕がある。近所には瓦が落ちて屋根にブルーシートがかけてある家(瓦不足と人手不足で修理ができないらしい)があり、道路に入った大きな亀裂は地震のすごさを物語っていた。





近所に住む91歳のおばあさんは、地震があってからコタツにあたりっぱなしで外にでてこなくなってしまったそうだ。地震の前はこのあたりでは一番元気なお年寄りで、働き者だったのに、と祖母は語る。一昨日は親戚の農家の方がウチに来ていた。祖父の従兄弟にあたるそのおじいさんは、良いものは全部東京に持っていかれて、福島には悪いものしか残らない。このあたりでは東京の悪口ばかりだ、とこぼしていた。苦笑するしかなかった。その軽い恨み口は、すっかり東京者になってしまった(と思われている)自分にも向けられているように思われたからだ。





地震は様々なことを変えてしまった、と思う。でも、これが新しい日常として成立しているのならば、それで過ごしてもらう他ない。クヨクヨしてもらっても地震以前の生活は戻ってこない。ただ、こんなの全然日常なんかじゃないよ、という現実を突きつけられることもある。車で出かけると機動隊の車が何台も走ってくるのとすれ違ったりする。彼らは近くにある有名な温泉街に泊まっている支援部隊で、朝津波の被害にあった相馬の方へと出かけ、夕方になるとまた戻ってくる。そうしたモノへ出くわすと、この土地の新しい日常のなかに再び非日常的なモノが顔を出して来たような気分になる。少なくとも、誰もこんな日常は望んでいなかった。





地震があった日に東北にいなかったのは父と私だけだった。仙台にいた弟は津波で死んでも不思議じゃない状態にいた。母は会社の机の下に隠れ、祖母は庭に裸足でかけていき植木を抱きかかえながら隣の家の瓦が次々に落ちていくのを眺めていた。3人はそれぞれ、あ、このまま死ぬのかなと思った、と言う。東京での震度5弱でさえあれだけ恐ろしかったのだから無理もない。でも本当に大変だったのはそれからのことだ。医薬品の卸売会社に勤めている母は、各地の病院からの注文で激務モードに陥り、一週間風呂にも入らず余震の不安に耐えながら働いていた。





そんな生活のなかで母は蜂蜜を買った。





ウチの近所には蜂蜜の専門店があった。いつ通りかかっても人が買い物をしている姿を見たことがないのに昔から潰れない不思議なお店だった。というか、そもそもウチの近所なんか果樹園と田んぼ以外は何にもない、コンビニも徒歩圏内というには遠いような不便なところなのに、何故、蜂蜜のお店が……というところから不思議だった。私が小学生のころにはたぶん存在していた店だから少なくとも20年は経営されているはずだ。地震があってからたまたまその店の前を通りかかった母は、このまま何かがあって死ぬかもしれないから、最後に高級な蜂蜜を買ってみるのも良いのかもしれない、と思ったらしい。そして初めてその店に足を踏み入れた。





母がその店で買った蜂蜜をパンに塗って食べながら、この話を聞いた私は、死を意識した人間は実に様々なことを思い付くものなのだな、と感心した。身内ながらユニークな発想だと思う――母だって本当は死ぬ前ぐらい最も好きなモノを食べたい! と思っていたのかもしれない。けれども、現実にはそのとき好きなモノが手に入るような状態がそこには存在しなかった。食料もガソリンも入手困難だったのだから。そのとき買えるモノがたまたま蜂蜜だったから買ってみた、というだけなのかもしれない。





でも、そういう状態じゃなかったら蜂蜜なんか買わないままだった、とも言える。地震がなかったら「やっぱり、高い蜂蜜は違うよね」とニコニコしながら蜂蜜を塗ったパンを食べる日はこなかったかもしれない。とてもささやかなことだけれども、これも地震以降の新しい日常のひとつ。こういう話から私は、何か安心をもらえるような気がした。





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