イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #12

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Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
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今回は第9章「反魔術 (1)神学的問題 (2)人文主義的伝統(Against Magic (1) Theological Objections (2) The Humanist Tradition)」を見ていきます。前回までは主にルネサンスにおける魔術リヴァイヴァルにどういった背景でおこったかを探っていましたが、16世紀になると魔術に対する警鐘も高まっていったのですね。アグリッパも天使と悪魔を呼び出す大魔術師と言われたり、ピコの甥であったジョヴァンニ・フランチェスコ・ピコは古代神学を異教の偶像崇拝だとし、叔父やフィチーノの魔術を否定しています。反魔術の勢いはカトリックからもプロテスタントからもあがっていたそうです。ローマ教皇、アレクサンドル6世は魔術に寛容で異端審問に引っかかっていたピコを解放するなどしていましたが、彼の考えはまったく支持されていなかったのですね。ここまでが神学的な問題、として整理された反魔術です。





次にイェイツは「人文主義的伝統」の流れでおこる反魔術について整理しています。ここでの人文主義的伝統、という言葉を、ペトラルカを嚆矢として、ラテン語の古典を発掘するムーヴメント、という風に定義します。これは14世紀に始まって15世紀まで続き、15世紀に入ってからのギリシャ語再評価の礎を作ります。イェイツはルネサンスの文芸復興運動を、ラテン語編とギリシャ語編でふたつに分けて考えているのです。





このふたつのムーヴメントは性格からしても違います。ラテン語文献の人文主義者は、年代学にも正確でしたし、文献にも忠実、ペトラルカはすでに高度な文献学的マナーを身につけた人物でした。フィチーノが古代神学のテキストを鵜呑みにしていたのとは、えらい違いです。このふたつはその関心領域も違っている、とイェイツは言います。ラテン語のほうは文学や歴史を主に取り扱い、レトリックや優れた文学に重きを置きました。ギリシャ語のほうは哲学や神学、その他の科学に関心があったようです。前者は中世という時代を、優れたラテン文化が凋落した野蛮な時代と見なしますが、後者は中世を尊敬すべきプラトン主義者がいた時代と考えます。後者は前者を「文法ばっかり勉強しているペダンティックなやつら」と軽んじていたそうですが、その一方で、前者は後者のなかの魔術師たちを強く非難しています。





ですが、人文主義者たちがまったく持って魔術師たちと違う、というわけではありませんでした。もちろんごく僅かではありますが人文主義者たちもエジプト学の影響を受けていたりするのです。その一例がヒエログリフです。当時、ヒエログリフは隠れた道徳や宗教的意味をもつ象徴、という風に考えられていたそうです。しかし、これは誤った理解である、と後に判明します。そもそも当時のエジプト学者が準拠していた『ヒエログリフィカ』という本も出どころが怪しく、古代ではなくヘレニズム期に書かれたものだったんだとか。高度な文献学の伝統を持っていた人文主義者もこれには騙され(?)てしまい、エジプトの聖なる秘密の文字としてヒエログリフは人文主義者たちの界隈にも浸透します。





人文主義者の神学的態度の代表例としてイェイツはエラスムスを挙げています。彼は熱心なラテン文化信奉者とでも言うべき熱心さで、ラテン語教育を提唱します。いわく、人々が正しくラテン語を修めればラテン語が国際語となり、黄金時代がやってくるだろう、さらに古典をしっかりと勉強した人間に溢れた国際社会は敬虔なキリスト教社会になるだろう、と彼は考えたようです。このラテン語万歳な態度とは反対に、中世の乱れたラテン語や、魔術に対しては厳しい態度を取り続けています。古代神学なんて時間の無駄、魔術は堕落である、と彼は考えます。しかし、エラスムスもヒエログリフだけは有用なものとして考えていました。彼はヒエログリフをすべての人々が理解できる視覚言語として捉えたのですね。





とはいえ、反魔術的なものがそれによって認められたわけではなく、エラスムスが提唱した人文主義のムーヴメントは、イングランドにおける宗教改革によって勢いを増します。偶像崇拝的だと見なされた図像が打ち壊され、修道院や大学の図書館からその手の書物が一掃されることとなりました。ジョルダーノ・ブルーノはイングランドに渡ったとき、オックスフォードの「衒学者たち」と論争をしています。その文化的に背景とはこうした激しい反魔術的な人文主義が存在していたのです。





といったところで、今回はおしまいです。おつかれさまでした。





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『Newton』 12月号:相対性理論、むずかしい! ボリビアの超美麗写真がヤバい!

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Newton (ニュートン) 2011年 12月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2011-10-26)


ニュートリノが光速を超えた!? というニュースが、実は時計の同期に誤りがあったことが理由なのでは?*1などとも言われ、現時点でも検証が続けられている非常にホットなタイミングで、今月の『ニュートン』第1特集は「光速c 相対性理論の基本原理」。科学者たちはどのようにして光速を導きだそうとしたのか、そもそも光をどのように捉えてきたのか、という歴史的な確認から、最新の量子重力理論の紹介までかなりハードコアな内容となっています。光速度不変の原理についての詳細な説明がありますが、やっぱり難しくて、こういう現実には確認できないものを想像しながら研究している科学者ってすげーな……と思います。前半の科学史的な部分は光の速度の計測について、昔の人がものすごい力技で速度を計ろうとしたことがわかり面白かったですね。マクスウェルや、マイケルソン・モーリーの実験なども出てきて、ピンチョン・ファン的にも見逃せない。





それに劣らず「天を映す鏡 ウユニ塩原」の写真特集もすごい記事です。アンデス高地のウユニ塩原は雨期で冠水し、水深などの条件が揃うと、そこに溜まった水が全天を反射してものすごい幻想的な風景が観られる。この特集はそれを写真に収めたものです。文章ではその驚異の光景をお伝えすることはできませんが、これは度肝を抜かれます。現実がCGを超えて存在している、といってもよく感動的な記事。これに続く「仏教の聖地五台山」も良い写真が揃っていて、地球にはいろんなところがあるのねえ……とただただ呆然としてしまう。第1特集がかなりハードコアだったので、こうした写真で頭のなかで燻っている「むずかしい……」というモヤモヤをリフレッシュすることができるかもしれません。





今月は「乗り物の最新テクノロジー」という新しいシリーズが始まっており、初回は話題の最新ジェット機、ボーイング787の「解剖記事」でした。これもすごい面白くて、乗ってみたい! これでヨーロッパいきたい! と刺激を受けました。ヘッドアップ・ディスプレイやカーボンファイバーが未来っぽくて素敵。最新科学ニュースでは、ヤリイカの面白い生態(交尾関連)が興味深かったです。ヤリイカの雄には、ほかのカップルが交尾している間に隙をみて、自分の精子を雌に送ろうとするヤツらがいるらしい。そしてヤリイカの雌には体内と体外に精子の貯蔵器官があるそうで、生まれたときから3P対応みたいな感じになっているのがすげえ! と思いました。






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内田光子 & ハーゲン・クァルテット @サントリーホール 大ホール

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ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 op. 130「大フーガ付」


シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 op. 44



ハーゲン・クァルテットも気がつけば結成30周年。ヴィオラのヴェロニカ・ハーゲンの容姿がいつまでもお美しくいらっしゃるので(ファースト・ヴァイオリンのルーカスや、チェロのクレメンスと同じ遺伝子を持っているとは思えない)なんだかいつまでも若手のイメージを持ってしまう。1981年に結成当初、メンバーは全員10代後半だったのだから結成30周年でもアラフィフ、これはクラシックの世界だったらまだまだ「中堅」といった年齢であり、また「一番脂がのった時期」とも言える。彼らの溌剌とした瑞々しい音楽は以前から愛聴していたもので、この演奏のイメージがいつまでも若手のイメージとも接続されてしまうのだけれど、実演で聴くのが楽しみだった。しかも演奏されるのは、ベートーヴェンの晩年の傑作、弦楽四重奏曲第13番の初演稿というのだから期待も高まる。





1楽章ではファーストがかなりガツガツに攻めており、またハイポジが上手くとれていなかったので不安になったが2楽章以降は盤石な出来、といっても良かったと思う。なんだか実演を聴いてみて初めて、彼らの音楽の瑞々しい印象の多くがルーカス・ハーゲンの攻める姿勢、あるいは輝かしい音色によるものだったのかも、と気づけたような。ファースト以外は豊かな、落ち着いた歌い込みをしていることが多く、楽曲がそうなっているせいもあるのだが(終楽章以外)ファーストとそれ以外という対比がとても面白い。その対比が上手く馴染めるようになったのが、この日の演奏では2楽章以降だった、という。しかし、この楽曲の終楽章はやはりとんでもない楽曲であって、それまでの均衡が一旦すべてバラバラにされ、4つの楽器によるガチバトルが展開され、最も複雑な箇所では、何をやってるのかまったく分からない、でも、カッコ良くて、なんかスゴいことしか分からない、という様相を示していた……。聴取される音楽ではなく、書かれた音楽の極地。





内田光子も実演を聴くのが今回が初めて。上下黒のシャツ&パンツにゴールドの布をキャッツアイのようなスタイルで巻いて登場していて、まず思ったのが細い! ということ。驚異の還暦過ぎであり、あと20年は現役をやっていてもおかしくないだろう、普段何食って生活しているんですか、という驚きは演奏を聴いたら一層深まるわけで。これまでに色んな演奏家を聴いてきたけれども、彼女の演奏ほど「うわッ、CDと同じだ」と思わされることはなかった。たとえ彼女がシューマンの五重奏を録音していなくとも、既に聴いているのではないか、と錯覚させられるほど「内田光子の演奏スタイル」が確立されており、そしてその形式を私のなかに染み込んでしまっているのである。ゆえに、その演奏は想定の範囲で常に収まり得るものであるのだが、気がつくと自分が内田光子を聴いている、のではなく、自分は内田光子の音楽のなかに入ってしまっているような、ワンダフルな演奏が展開されているのだった。





誰が共演者であっても彼女のスタイルはブレない。共演者とは相性次第といったところがある。ハーゲン・クァルテットとは特別に相性が良いとは思えなかったが、それはそれ。内田光子の「あの」音、「あの」アゴーギク/ディナーミクによるシューマン、としか言い様がない演奏だった。しっかし、シューマンってどこをどうしてもシューマンの音楽だよなあ、という非常に強い記名性が、彼女の音楽の記名性とも重なるなるけれど、ピアノ五重奏なのに、中身は交響曲のつもりで書いているに違いない、こんなの聴こえねえだろ、と思わずツッコミたくなる意味不明な弦の刻みなどが楽しい。これに一度ハマッてしまうと、シューマン良いよねえ、となってしまうから不思議な作曲家である。





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Nike Free Run +2:ベアフット・ランニングの元祖、とにかく軽くて履きやすい!

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9月のはじめぐらいから週一度のジム通いを再開。これまで室内トレーニング用のシューズは高校のとき体育館で履くように使っていたバレー・ボール用のシューズを使っていたのだけれども、さすがに買ってから10年近く経てばソールの接着剤もはがれてきて悲しいことになってしまったので、シューズを新調しました。ナイキのFREE RUN +2を買いました。このシリーズは「裸足のような履き心地で、自然に足を鍛えよう」的なコンセプトで開発されたシューズで、ランニング・シューズのように足の保護に加えてグリップやサポート機能を高めて走りやすくするのではなく、足の自由度を高めるような作りになっています。「RUN」というぐらいだから、外走り用っぽいんだけれど、スポーツ・ショップの店員さんに聞いたら「いえ、室内トレーニング用にも良いですよ」とのこと。





さっそく履いてジムに行ってみたところ、このシューズ、ソール部分には隠し包丁のように溝がたくさん入っていますが、ソール表面は結構のっぺりしているので、ジムのカーペット部分がひっかかったりもせず快適。なのでフローリングみたいなところでも大丈夫でしょう。で、とにかく軽いし、履いてて楽。ナイキなので足幅が狭く、普段より1cm大きなサイズ(ランニング・シューズよりは0.5cm大きなサイズ)を買いましたが、走る用途ならばつまさきに1cmぐらいの余裕があるくらいがベストなので、かえってちょうど良かったぐらい。このシューズ、面白いのはその構造で、通常のシューズみたいにベロがシューレースを通す部分と分離しているのではなく、靴全体がルーム・シューズみたいにすっぽりと足を包み、レースはその外側にあるゴムっぽい樹脂で締めるという作りになっています。踵の部分に固い「絶対踏まないでください!」と注意書きされているアレも入ってない。オフィス用のルーム・シューズにも転用できそうなぐらい柔らかい履き心地。実際、海外では室内履としても人気だとか。カラーリングもシリコンバレー感あります。





軽めにルームランナーにて3キロほど走ってみましたが、ランニング用シューズ(アシックスのGT2140)で走っているときみたいに足が勝手に前に進むような感覚はありません。これはキロ7分ぐらいのゆっくりしたペースでも分かる。ソールがぺにゃぺにゃに曲がってスゴい! みたいなデモ動画(このエントリの最後に記載)は、たしかにスゴいのですがよく考えたら、ランニング中あんな足の状態がずっと続いているわけではないですし、むしろ、常時あんなグニャッと足が曲がってたらキックが強すぎて足首を痛めそうなので、正しいフォームで走ることが重要になるシューズかも。もっと瞬発力が必要な競技のトレーニングに向けなのかな、と思いました。





ただ、このシューズがきっかけとなって「ベアフット・ランニング」という文字通り、裸足感覚でのランニングがひとつのムーヴメントとなりつつあり、もっとも左翼的なものとしてはまったくの「裸足ラン」、あるいはシューズじゃなくて草履みたいな足の裏を保護するだけのものを装備して走る、というコンセプト・ランニングとも言うべき潮流も生まれてきています。裸足ランですよ! これまでさんざんクッション性が~、とか言ってきたスポーツ・メーカーは裸足のコンセプトで、新商品を出してきています(国内メーカーはまだ?)。裸足だと筋肉の使い方が変わって体に良いとかなんとか、まるで無農薬野菜みたいな話ですが、しばらくこれを履いてルームランナーで走ってみて、ランニング・シューズと比べたりしてみたい。






D





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読売日本交響楽団 第508回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:下野竜也(読売日響正指揮者)


能管・篠笛:一噌幸弘


ソプラノ:天羽明惠


ジョン・アダムス/ドクター・アトミック・シンフォニー(日本初演)


團伊玖磨/交響曲 第6番〈広島〉



下野竜也の指揮による原爆をテーマにした2つのシンフォニーを取り上げるプログラム。開演まえのプレトークによればプログラムは2年前に決定されていた、というが、今年我々の社会に訪れた状況を考えると、奇妙な偶然、あるいは不気味な運命としか言い様がない。地震があって、原発がどうにもならん、いかんともしがたい、という混乱した状況下でおこなわれた4月のサントリー定期のときも「10月のプログラム、タイムリー過ぎるな……」と思ったものだ。ジョン・アダムスの作品も、團伊玖磨の作品も聴くのは今回が初めて。下野 × 読響の組み合わせは当たり外れが大きく、良かったときよりも残念に思う演奏会が多い。もちろんこれは個人的な印象であり、感想だが、客演指揮者や音楽監督が充実しすぎているために「正指揮者」が霞んでみえてしまっている、というのが現状である。マニアックな曲目ということで、空席も目立った。





ジョン・アダムスは、ポスト・ミニマル世代の旗手として活躍し、ロックやジャズといった音楽の要素を取り入れた越境的な作曲家として人気が高い、が「これはライヒとどうちがうのだろうか……」と思ってよくわからない作曲家であり、また近年は新ロマン主義的な作品もあったり、代表作のひとつ《中国のニクソン》もゲテモノ的な趣味にしか思えず「映画音楽の人が何故かゲージツ家と勘違いされているのではないか」などとひどい言葉を投げつけたくなるのだが、今回の日本初演作品を聴いてもネガティヴな印象は払拭できず、むしろ上塗りされてしまったよう。新ロマン派風の大仰な管弦楽作品、という端的な一言によって、自分のなかで無かったことにしてしまいたくなる楽曲だった。各楽器のソロはどれも素晴らしく、金管楽器が大活躍するなかで、特にチューバの豊かな音色が印象に残ったが(あまりチューバのソロってないじゃないですか)、作品は退屈そのもの。





休憩中、どうしてあれほどまでに退屈だったのか、について考えると「オーケストレーションが上手くないせいじゃないか」と思い当たる。なんかいろいろと細かい奏法をやらせていても、ごちゃごちゃしていてよく聴こえない、という状況は、振り返ったら「ソロのメロディ」と「ソロ以外でなんかごちゃごちゃしている状態」という2つの状態しかなかったのでは、とさえ思う。その後に演奏された團伊玖磨を聴いたらその思いは一層高まった。あんなにたくさんの楽器を使って、あれしか響きが作れないのか、といった点はほとんど絶望的と言っても良いだろう。目新しい音は、パーカッションの弓奏だよりだったのでは。作品のせいばかりでなく、指揮者のせいもあるのかもしれないが。





これに対する團伊玖磨の作品は、日本を代表する作曲家の円熟、というか完熟期の堂々たる筆致を感じさせる立派なもの。よく響くオーケストレーションは、オーケストラまでもが生まれ変わったように鳴りだして素晴らしかった。交響曲と言いながらも、ソリストの位置に能管・篠笛が配置され、外見的には協奏曲、さらに最終楽章ではソプラノまで登場する規模の大きさは、後期ロマン派的であるがリヒャルト=シュトラウスほど毒々しく艶やかになるわけではなく、豊かな音の響きが堪能できる作品だった。音がとにかくまろいのである。これに対して、能管・篠笛の荒んだ音色のコントラストが大変効果的で、オーケストラに邦楽器が組み込まれる必然性みたいなものが強く感じられた。最終的には天上的なソプラノに全部持ってかれてしまって、ブラヴォー、おお、ブラヴォー、ジョジョのテーマは「人間讃歌」です!(荒木飛呂彦)みたいに感動。《夕鶴》?(笑)《ラジオ体操第二》?(笑)みたいに思ってて、すみませんでした。團先生、あなたの最後の交響曲は、創作の力でひとに希望を与える作品でした。





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #11

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Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
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今回は第8章「ルネサンスの魔術と科学(Renaissance Magic and Science)」について見ていきます。前回まではずっと魔術についてのお話が続いていましたが、ここでは科学にフォーカスが当てられてくる。章の後半では天動説から地動説へという転換がどのような背景でおこなわれたかについて触れられるのですが、イェイツはまず天動説時代の図像をとりあげます。ここで登場するのが、ロバート・フラッドによる世界図です。絵の中心には猿がいて、その周りには物質世界がある。その外側には星々の世界があって、猿はそれらを代表する女神と鎖によって結ばれています。さらにその外側には動かない星々と天使たちがいる。ここにもアグリッパが採用したような三層構造の世界が現れている。イェイツが注目するのは、女神と猿をつなぐ鎖です。星々とリンクすることで猿は力を得て賢くなる、これがつまり、魔術の力で賢くなった人間の暗示である、とイェイツは言います。





イェイツはもうひとつ面白い例をここで紹介しています。それはヨハネス・トリテミウスという15世紀後半~16世紀初頭のドイツ人が書いた『ステガノグラフィア(Steganographia)』という本についてです(IT技術について詳しい方はここでそれって「ステガノグラフィー」のこと? とピンとくるかもしれません)。この本でトリテミウスは暗号や秘密のコードを使ってメッセージをやりとりする方法について書いているそうです。彼は世界を秩序づける要素として天使を想定しています。そして、これらの天使たちの繋がりを利用すれば、距離が離れた相手にもメッセージを届けることができる、という一種のテレパシー技術について彼は述べるのです。この技術、とても複雑な計算によっておこなわているんだとか。これまででてきた魔術とはちょっと違ってますよね。





魔術から科学へ、という歴史の流れがあるとしたら、これまでにみてきた魔術の護符や、カバラにおける天使の名前といったものが実践的な応用科学の業績を導いたわけではない、とイェイツは言います。重要なのは、こうした魔術をとりおこなう際に数が鍵として用いられていたことにあります。フィチーノもピコも、そしてアグリッパも数学は魔術に必要不可欠なものとしています。そのなかで数学は発展し、副次的に応用科学の大きな鍵となったのですね。前章でもでてきましたがアグリッパを思い出してみましょう。魔術者は数学を修得しなければならない、数学を習得すればあらゆる自然因なしに、工学的な意味で素晴らしい魔術の実践がおこなえる、と彼は言っていました。ここでイェイツは、アグリッパが『オカルト哲学』を書いてからおよそ、100年後にトマソ・カンパネッラが書いた文章を見ています。彼は『魔術と栄光(Magia e Grasia)』という著作のなかで「真に人工的な魔術」というものを提唱しました。これはアグリッパが言う、数学を基にした魔術をほとんど引き継いでいるといっても良いでしょう。





こうした数学的な魔術は、魔術とはまるで反対の文脈へも飛び火していく。イギリスのジョン・ディーは実践的な科学者であり、純粋な数学者でしたが、こうした数学的な魔術にも多大な影響を受けていて、ピコへの賛辞を惜しまず、アグリッパの『オカルト哲学』を深く研究していたそうです。イェイツは、ディーをルネサンスの魔術とその後の応用科学を同時におこなっていた人物の例として挙げているのですね。ルネサンス期には、ヘルメス主義が新しい魔術やカバラと結びつき新しいスタイルの錬金術として成立したそう。ディーも主な関心がここにあったそうですが、当時の新しい錬金術師の代表と言えばパラケルススになります。彼の錬金術的思考の根幹には、ロゴスの概念がある。それらはヘルメス主義・カバラ主義の伝統から派生したものだと言うのです。この章、いろんな人が紹介されていて楽しいですね。地動説の話に入る前に、ヴェネツィアのフランシスコ会修道士だったフランチェスコ・ジョルジの『世界の調和について(De Harmonia mundi)』が紹介されています。世界の調和、という概念についてはセカチョーと略されても良いぐらい、目新しくもなんともないものですが(要は大きな宇宙と、人体という小さな宇宙は関連しているんだよ、というお話)、ジョルジによって数学的な複雑さがごっそりと盛り込まれていく。こうして、宇宙について数学的に考える基盤がどんどん準備されていったわけです。





さて、ここからが地動説のお話。常識的なお話からすれば、世の中には天動説と地動説しかなかった、という単純な二分法しかなかったように思われがちですが、実際にはそうではありません。エジプトの古代神学においては太陽の存在が強く強調されましたし、フィチーノの古代神学関連の本でも「大地が動く」ということが語られていますし、また、ピタゴラスにおいては太陽や地球やほかの天体は、中央の火のまわりをグルグルと回っているのだ、と言われていました。ですが、中世においてプトレマイオスの天動説が受容されてしまうとそれがずーっと続いてしまう。イェイツは、この疑う余地がまったくないような天動説を、ルネサンスにおける古代神学リバイバルが揺さぶりをかけていたのだ、と考えているようです。『アスクレピウス』においては、太陽はすべてを司る「第二の神」という風に言われ、それはフィチーノの太陽魔術に影響を与えている。ニコラス・コペルニクスが『天球の回転について(De revolutionibus orbium caelestium)』を書いていた時代にの、そうした思想が息巻いていたのですね。彼は、トマス・アクィナスの世界観ではなく、ヘルメス主義が息巻く新プラトン主義の世界観に生きていた、とイェイツは言います。コペルニクスの理論を知ったジョルダーノ・ブルーノがいろんなことをやる。それについては今後の章をお楽しみに……。





といったところで今回はおしまいです。おつかれさまでした。





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岸本佐知子 『ねにもつタイプ』:言葉遊びと想像の迷宮へ

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ねにもつタイプ (ちくま文庫)
岸本 佐知子
筑摩書房
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社会、に生きる人間として我々は日常的に言語を操り、文字を書いて暮らしている、その様子はごく自然なものであって、たとえばある対象と意味の関係は、その対象にもともと備わっている本性から自明的に発生するかのように振る舞う。しかし、一度立ち止まって考えれば、どうしてその対象とその言葉が結びついているのか、その理由はとても曖昧なもので、立ち止まってしまった瞬間に関係が崩れてしまうこともあるだろう。一義的に捉えられるはずの意味も実は多義的に意味されることもあるはずで、言語とはとても緩やかな規則によって成立している。緩やかな規則がなければ、暗喩は生きないだろう。





本書の面白いのはこうした意味の曖昧さや、意味のゆるやかさを前にして、そこでいちいち立ち止まって考えている点にあると思う。そこは筆者の翻訳家としての習性か、あるいはもともとそうした性格に生まれついてのことなのか。たとえば、筆者はこんな風に綴っている。



赤ん坊。よく考えると不気味な言葉だ。


もしも自分が意味を知らずに「赤ん坊」という言葉と出会ったら、どんなものを想像するだろうか。


よくわからないが、たぶん何らかの生き物なのだろう。全身んが真っ赤でてらてらしている。入道のように毛のない頭から湯気を立てている。夜行性で「シャーッ」と鳴く。凶暴な性格で、小動物や人を捕らえて生で食らう。後ろ足で立ち上がると体長十五メートルほど、大きいもので五十メートルにもなる。



荒唐無稽といっても言い、言葉に対するイメージの貼り付けだ。本来の意味から自由に逸脱した遊びがここにはある。この想像(というか妄想)は、深く迷宮的に連なっていき、ページが尽きるまで続いていく。読み手はよくこんなことまで思いつくな、と笑いながら感心するしかない。言葉とイメージの遊びが創造の源泉になっていることを意識させてくれる。





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掌田津耶乃 『新人プログラマのためのGoogle App Engineクラウド・アプリケーション開発講座 JAVA PYTHON対応』

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また少しまとまって勉強できそうな時間がとれたのでGAEを使ってアプリケーションを作ったりしていたのですが、手元にリファレンス本的なものが欲しいなあ~、と思って購入しました。しっかし、GAEの解説書ってホントJava向けのものばっかりで、Python向けのものって全然ないんですね。この本もJavaとPythonの両方を紹介していて、私はJavaについてはまったく勉強してないので、正直無駄。Pythonだけだとこういう場合、商売にしづらいのかなあ。買う決め手になったのは、GAEで標準サポートしているDjangoについての紹介がされていたことでした。これがWEBフレームワークというものに触れる初の機会になって「こんな便利なものがあるのか~」と思って、今はDjangoのチュートリアルを紐解いたりしてます。





こうした入り口を作る本としては良いのですが、なにしろ「新人プログラマのための」とあるぐらいですから内容は薄い。しかもJavaの部分は(私にとっては)無駄。そして2800円ぐらいする。この3点によりおすすめできる人が限られてくるところです。タイトルどおり、新人プログラマー、あるいはホスト・コンピューターでの開発を15年ぐらいやってきて「最新の技術動向でもちょっとかじってみようかなあ、クラウドって最近話題だしさあ」と思い立った中年など向けでしょうか。ぶっちゃけ、ホスト開発15年経験がまったくない単なる中年の人でもGAEによる開発については一通り学べる本ではあります。が、その程度。データストアのインデックスについてまったく触れられてなかったりと問題点は多すぎ、これを参考書に本格的な開発をやろうとしたら速攻でつまづきます。





でも、すごいですよねえ。これを片手に作業すれば、なにがしかのアプリケーションがWEBにアップできて公開できちゃう世の中。これを読みながらhtmlを手打ちしてて、中学生のときにFTP使ってビュッとサーバーにhtmlファイルを置いてホームページを更新してたことを思い出しました。当時手打ちでhtmlを書いてたわけじゃないですが、今になって当時わからなかったことがわかったりして、なるほど~、CSSってこういうモノだったんだな~、とか一回りして感じ入ったりしています。





で、作ったもの。





両替レート @Narita





成田空港にある両替所のレート情報を表示するアプリ。





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #10

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Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
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今回は第7章「コルネリウス・アグリッパのルネサンス魔術の概観(Cornelius Agrippa's Survey of Renaissance Magic)」を見ていきましょう。「ネッテスハイムのアグリッパ」として知られるこの魔術師の業績は、その名もズバリ『オカルト哲学』というタイトルの著作が最も知られているところでしょう(これ、邦訳が出てるんですけど、高価でねえ……でも邦訳が出てるっていう事実がすごい)。しかし、イェイツはアグリッパについてこんな風に評価しています。「彼はルネサンスの最も重要な魔術師でもなければ、『オカルト哲学』も真の魔術書でもない」と。しかし、この『オカルト哲学』は出版当時(1533年)においてはルネサンス魔術の概観となる初めての著作でした。この章では『オカルト哲学』からジョルダーノ・ブルーノを理解するために役だつポイントがまとめられています。





アグリッパの世界観とは前の章で述べられた「3つの世界」のモデルです。世界は、地上、天(celestial)、天上(supercelestialの訳語ってなんでしょうか? 天より高いところですから、さしあたって天上、としておきましょう)に分かれていて、高次の世界が低次の世界を支配している。これに対してアグリッパは、地上には薬と自然魔術が、天には占星術と数学が、天上には聖なる儀式的魔術の効果を設定します。全3巻にわたる『オカルト哲学』は、各巻がこのそれぞれを取り扱っており、1巻は自然魔術、2巻が占星魔術、3巻は儀式的魔術、という構成となっているそうです。





それでは第1巻のお話。アグリッパはここでフィチーノの『天によって与えられる生について(De vita coelitus comparanda)』を引用しています。悪いことが起きる原因は、星々とそれらの図像によるものだ。すべてのものが天の図像と通じてるのだ、というこの理屈については、フィチーノの自然魔術について取り扱った章をご覧ください。アグリッパもフィチーノから多大な影響を受けている、ということですね。しかし、アグリッパは単純にフィチーノを継承したわけではありません。彼はフィチーノよりも大胆に、星々の力だけではなく、それを超えた知性の力を操ろうとしていたそうです。





第2巻では魔術で最も必要なものは数学である、と説かれます。自然のすべてのものは数と重さと長さによって統治されている、ピラミッドなど古代の大きな建造物もみな、数学的魔術の産物なのだ。自然物によって自然因を理解するように、数学と天体によって我々は天体因を理解することができる。そうすれば、未来を予言する図像も作れるようになるのだ。こんな風にアグリッパは言います。ここでは数によって自然が統治されるのですから、数学的魔術は自然魔術よりも優れたものと考えられました。またヘブライ文字はそれぞれに数としての価値をもっているので最も数学的魔術の可能性が高いとされます(カバラの影響もここに現れるのですね)。





数学的にいろいろ魔術をすることで天体の図像をどうこうし、調和した霊魂のなかに宇宙の調和をもたらそう、というのがアグリッパの数学的魔術の目標となっているようです。彼は天体の図像をたくさん紹介しているのですが、これもまたフィチーノよりずっと大胆で、悪魔の図像を持ち出すのにも躊躇がありません。こうしたアグリッパの態度をイェイツはこんな風に評価します。「フィチーノがほんの少し開けたままにしていた開かずの扉は、今や完全に開け放たれたのだ(超訳。The door into the forbidden which Ficino had left only slightly ajar is now fully opened)」。





いよいよ、第3巻にはいります。ここでアグリッパはまず我々の精神を形作る方法、そして真理を知る方法についての説明に入ります。これには敬虔さが必要である。彼はヘルメス・トリスメギストスに従って、生の純粋さ、敬虔さ、神への信仰がなければ確固たる精神は形成できない、とします。またこの神秘は秘密にしておかなくてはなりません。ここでもアグリッパはヘルメスを引いています。ヘルメス曰く、神の偉大さについて大衆に知らしめることは、宗教に対する犯罪行為である。これらの掟を守ることで、霊魂のうち最も優れたものである知性を通して、奇跡的なものごとが実行される、とアグリッパは言います。





イェイツは、アグリッパをフィチーノとピコを繋げる人物だ、とみなしているようです。前述の通り、彼はフィチーノの自然魔術を継承しながらも、その先をゆき、そしてヘルメス的、カバラ的の秘術を暗示させる。そして、アグリッパは宗教的な奇跡をも魔術によって実現しようとした点でピコをも乗り越えようとする。





ここまでで、アグリッパの異端性について充分に確認できたかと思います。アグリッパが前章までで紹介されたフィチーノやピコといった人物と違うのは、やはりその大胆さでしょう。アウグスティヌスは魔術をキッパリと禁止していたのに、アグリッパはそれをものともしない。こんな人物がでてきたのに当時の人々は「アグリッパは異端だ! 魔術はやっぱりマズいから、全部片付けちゃおうぜ! 図像なんか全部壊しちゃおうぜ!」と言わなかったのでしょうか。しかし、そんな人は出なかった。ここにはアグリッパの「良い魔術は人をより高い信仰へと導く、悪い魔術はその粗悪なコピーでしかない」という区分の巧妙さが効いていたそうです。ジョルダーノ・ブルーノもまたアグリッパから影響を受けたもののひとりでした。





といったところで今回はおしまいです。おつかれさまでした。





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アポロドーロス 『ギリシア神話』:本当はこわいギリシア神話

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アポロドーロスは紀元1世紀とか2世紀にいたという著述家で、この『ギリシア神話(Bibliotheke)』は彼が収集したギリシア神話をまとめたものだそう。なんでも現代に広く伝わっているギリシア神話とはヘレニズム文化の影響で、マイルドになってしまったそうで(これは井筒俊彦の『神秘哲学』*1でも指摘されていたかと思います)すが、アポロドーロスの本はヘレニズム以前のワイルドなギリシア神話が収められているのだそうです。彼が生きた時代はローマ時代の全盛期。にも関わらず、ここにはローマの文化も見当たらない。それは著者がこの本を正真正銘のギリシア文学を後世に伝える参考書となるように書いたからだ、と言います。ホメロスやヘシオドスへの言及もあり、単なる読み物というよりかは「ギリシア神話研究書」に近いのかもしれません。ページをめくっていくと目につくのは、ギリシアの神々の交接、強姦、殺戮、不倫、戦争、虐待ばかりが描かれており、ギリシア文化がヘレニズムと出会わなければ教育委員会が眉をしかめる結果となったことは火をみるより明らかでしょう。美しい女に出会えば、それが人妻だろうとなんだろうと犯して孕ませてしまう神々の性格はとてもではないがちょっと理解の範疇外にあるようにも思われ、古代ギリシア人はこのような暴力的な神話を語り伝えることで何を感じていたのか。神々の考えること、英雄の考えることは凡夫には計り知れないことでしょう。ほとんど狂気の沙汰の連続のなかから感じるのは、こうした神話が芸術的なインスピレーションの源泉なのだとしたら、やはり芸術家のセンスは霊的なもの、理性では理解することのできないものを受容してしまうのではないか、ということ。






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Maria Rita/Elo:硬質なサウンドとヴォーカルの力強さがすげー良いです

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Elo
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Maria Rita
Wea/Latina/Warner Music Latina (2011-11-29)
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日本に美空ひばりが、アメリカにはジャニス・ジョプリンが、ポルトガルにはアマリア・ロドリゲスがいるように様々な国にはそれぞれ「伝説的な女性歌手」が存在します。ブラジルのポップス界においては、エリス・レジーナがそのポジションに君臨していることに異論がある人は少ないかと思われます。マリア・ヒタはそのエリス・レジーナの娘であって*1、MPBのサラブレットとして2004年にデビューすると「なんだ、ただの二世タレントじゃねえか」という悪評を受けることなく、いきなりバカ売れ、その後も出すアルバム、出すアルバムが絶賛を持って迎えられているミュージシャンです。伝説は一代限りで潰え、カリスマの形象は難しい傾向にあると思うのですが(ショーン・レノンがカルト的なポップス職人として評価されるみたいに)、マリア・ヒタは見事母親が立ったであろう頂点を掴んでしまっている。





4枚目のアルバムとなる最新作『Elo』(ポルトガル語で『絆』という意味だそう)も素晴らしかったです。硬質でジャジーなサウンドがカッコ良いことこのうえないのですけれど(演奏がめちゃくちゃ良い。ドラムがラテンっぽいリズム・フィギュアをころころと変化させながら、ピアノとポリリズムを編むようにして進んでいく間奏があったりして)、ここに力強いマリア・ヒタのヴォーカルがガッツリとツボにハマってしまうと鳥肌が止まらなくなってしまいます。しっとりと歌い上げている曲も、高音での声の伸び方がとても良いですよ……。






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Amazonでの取り扱いは来月になっていますが、すでにディスクユニオンでは買えました。「2011年のMPB最重要作」というコピーが掲げられていて猛プッシュが甚だしいですね。今年はアドリアーナ・カルカニョットの新譜もあったしMPBの豊穣感が強いです。




*1:ここで疑問に思うのは、なぜ。エリスは『レジーナ』なのに、マリアは『ヒタ』なのか、母が『レジーナ』なら娘は『リタ』、あるいは娘が『ヒタ』なら母も『ヘジーナ』と表記すべきなのでは!? しかも『ヒタ』という名前はムタンチスのヴォーカルとしても有名なリタ・リーから来てる、という複雑さ





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パリへ #4

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パリ4日目の旅日記。この日が観光できる最終日で、夜は絶対にちゃんとしたお店にいきたいよね、昼間は軽く済ませよう、なんならケーキだけとかにしておこう、という計画のもと行動開始。ふたたびルーブル周辺から歩いて「アンジェリカ」へと向かった。写真はその途中で見つけたお土産屋さんのショーウィンドウ。フランスの修学旅行生もパリにきてバタフライナイフやメリケンサックを買ったりするのだろうか。







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ゴージャスな店内。





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ミルフィーユを注文した。妻はモンブランを注文(有名なんだって)。





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この写真だとミルフィーユの巨大さが分かるだろうか。日本で出てくるミルフィーユのおよそ2倍はあろうかというサイズであって、美味しいのだけれどもさすがに後半がつらい。しかも、飲み物にカフェ・ド・クレームを選択しており、クリーム対クリームがさらに苦しい。でも、美味しいんだよ。





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食後は歩いてオペラ・ガルニエへ。





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ゴージャスの極みな建物でびっくりしてしまうが、この日はリハーサルのため客席内の見物はできず(ホールの天上にはシャガールの絵が描かれている)。残念……でも、せっかく来たし、と入場することに。題目は忘れてしまったけれど、バレエの公演が2日後にはじまるとかで、ホールの入場ドアについていた覗き窓からリハーサル模様が少しだけ見れたのはちょっと面白かった。





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ヴェルサイユ宮殿の鏡の間にひけをとらない豪奢さ。屋上で育てられている蜂のハチミツはお土産屋さんには売っていませんでした。ただ、オペラのDVDなどは結構充実していた。





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その後、歩いてギャルリー・ラファイエットに向かう途中で発見したアップル・ストア。シックすぎてお葬式のように見える(このとき、ジョブズはまだ生きていました)。





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ギャルリー・ラファイエットの本館、これもゴージャスすぎて笑う。ここでお土産を買いました。食品館がとても楽しかった。その場で飲みながらお惣菜を食べたりできる。毎年、サロン・デュ・ショコラで見かけるTropical pyramidが日本で買うより安かったので、会社の仲の良い人たちと食べるように購入。いろんなカカオの産地のチョコレートが一枚ずつ入ったアソートで、ホントに産地によって全然味が違うので面白かったです。





あと、奥さんがエルメスの食器を見たがっていたんですが、ギャルリー・ラファイエットのなかのエルメスには食器類はなく、店員に聞くと「ここにはないので、セント・ノレ通りの本店にいってください」というので、そちらへも。店内のあまりのラグジュアリー感に完全にビビってしまい、写真は一枚もとってませんが(っつーか、撮ったら怒られそう)円高、免税パワーで、日本で購入する半額以下でモノが買えた。成田のエルメスでかわいい馬の顔がデザインされた財布があって気になってたんだけれども、それは売り切れ。何人か日本語が喋れるスタッフもいたんだけれど、みんな超金持ちっぽい日本人に捕まっておりとても忙しそうだったので、英語でなんとか買い物しました。





エルメスの買い物袋(結構デカい)を持って市内を歩くのは、ちょっと怖かったのでタクシーに乗って一旦ホテルへ。ものすごい渋滞で運転手さんがめちゃくちゃイライラしているのが怖かったが、車窓の風景を眺めているのが楽しい。





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そして夕食を食べに出かけたのだが、ガイドブックに載っていたレストラン「ヴェロドタ」はお休み……!(えー、ガイドブックには営業日って書いてあるじゃん!)というわけで、パサージュの写真だけ撮ってきました。ここはパリで一番古いパサージュらしい。パリにいったらパサージュを巡って、帰ってきたらベンヤミンを読もう、と淡い気持ちでいたんですが、事前のリサーチ不足により結局いけたパサージュはここだけ。しかも、時間が遅かったのでお店はほとんど閉まっていた。





仕方ないんで、目を付けていたもう一軒のお店「オーヴェルジュ・ニコラ・フラメル」に向かう。途中で迷ったりして、行き着くのが大変でした。このお店、錬金術師、ニコラ・フラメル(アルゼンチンの作家、ムヒカ=ライネスの小説『ボマルツォ公の追憶』にも登場する)が建てたパリ最古の建物だそうなんですが、他の建物とほとんど繋がっちゃっているうえ、看板やライトもついていないような秘密のアジトみたいなお店なので、夜にいくと超わかりにくい! 最初、普通に通り過ぎました。建物の歴史と裏腹にカジュアルなお店で値段も手頃、ワインをボトルで頼んでも100ユーロちょっとぐらい。フォアグラがぐわ~、という感じで美味しかったのと、セルヴァーズの方が、なにこの人、モデルかよ、というぐらいのハリガネのようなスタイルの良さで、チャーミングだったのと、シェフが気さくな面白い雰囲気だったのが印象的でした。適当に選んだラングドックの赤は28ユーロ。日本のお店で飲んだら倍はいくんじゃないか、という深い味。





帰り際、シェフが英語で「このお店の建物のことは知ってるか?」と訊くので「ええ、昔、ニコラ・フラメルが出てくる小説を読んだことがあります」と言うと「へえ……」と言い、なんかまだ話したそうだったので「私は錬金術の研究をしているんですよ」とカマしたところ(最近の読書傾向からすると、あながち嘘とも言えませんが)「そうか、じゃあ、フラメルのことならすべて知ってるわけだな! ガハハ」と言われて別れました。モデルのようなスタイルの女性に給仕されに、また伺いたいお店です。





こうしてパリ観光旅行が終わり、後は次の日に帰るだけ、となりました。なかなか夢のような滞在で、ポンヌフ=吾妻橋、凱旋門=雷門、エッフェル塔=スカイツリー、と錯覚し、実はパリに来ていると思い込んでいるだけで、本当は浅草にいるのではないか、とさえ思うぐらい楽しかったです。





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帰りのシャルル・ド・ゴール空港。カートを押してこの赤いカーペットのうえを歩いていたら静電気がすごかったです。





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ちょうど村上春樹の『1Q84』の仏語訳が出たばかりらしく話題書として取り上げられていました。空港内の他の本屋では、昨年出たウンベルト・エーコの最新作の仏訳もあって、これはちょうど昨年イタリア旅行中にいたるところで見かけたので、ちょっと縁を感じた。





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帰りの広州空港では、空港内に鳥がいるのを発見して、驚きました。帰国したのは、ちょうど東京に台風が直撃する直前。ケータイの電源を入れて、Twitterを見たときは「これ、帰れるのかな」とかなり不安でしたが、バスが2時間遅れるだけでまったく実害なく、帰宅できたのでした。





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Hilary Hahn & Valentina Lisitsa/Ives: Four Sonatas:アメリカの実験音楽のパイオニアがアウトサイダー・ミュージックだったことを明かす楽曲群

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チャールズ・アイヴズという作曲家については以前からこのブログで取り上げております。詳細は例のごとくWikipediaにおまかせするとして、ここではかいつまんだ形でご紹介しておきましょう。コネティカット州生まれのアイヴズは20世紀前半のアメリカで活動していた作曲家……といっても、彼は専業の作曲家ではなく、保険会社の副社長を勤めて社会的に成功を収め、余暇に楽曲を書いていた、という大変ユニークな経歴を持っています。彼は生涯に1900曲以上の作品を書いたと言われており、精力的な余暇活動な取り組みっぷりが伝わってくるのですが、演奏者の都合など考えずに好き勝手に書きまくっていたおかげで生きている間はほとんど楽壇から無視され、晩年になってようやく注目を浴びはじめることとなりました。今日においてはバーンスタインやティルソン=トーマスによる演奏でかなり知られた存在ですが、交響曲第4番の破天荒な響き、合唱まで動員した巨大さ、民謡や讃美歌の引用で織り成された複雑さに触れれば、その音楽のものすごさ、というか、ものすごいアウトサイダーっぷり(実際、楽壇的にはアウトサイダーだったわけですが)に動揺してしまうでしょう。しかも本人は楽壇からの評価を強く求めていた、というのだから面白い。アルバート・アイラーとオーネット・コールマンと美狂乱のギターの人の性格と社会性が混ざったような作曲家であった、と言ってみても良いかもしれない。正直な話、アイヴズとアイラーは「アメリカの音楽」を考えるうえで外してはならない音楽家だと思います。





かいつまんで、と言ったのに思いがけず長くなってしまいました。アメリカのヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーンの新譜はこのどう捉えて良いのかわからない、真面目にふざけているのではないか(笑いながら怒っている竹中直人のように)とも思えるアイヴズのヴァイオリン・ソナタを取り上げています。ハーンがアイヴズのソナタをコンサートのプログラムに組み込んでいるのはかなり前から聞いていて「いつ録音が出るのかな」と期待していたのがやっと出た、という感じ。ライナー・ノーツに彼女自身も綴っているのですが、3年ほど温めてきた楽曲群だったようです。アイヴズのヴァイオリン・ソナタの4曲はどれも1900年代~1910年代に書かれたものだそうですが、公衆の面前で演奏される機会がもたれたのはずっと後になってからだった、とのこと。第1番の冒頭から、ヒンデミットを彷彿とさせるゴツゴツとした響きが印象的なのですが、途中からいきなり民謡や賛美歌の引用が登場するなど驚きに満ちた楽曲です。日本人のリスナー的には第4番の最終楽章が最も衝撃的でしょうか、ここではビックカメラの曲でおなじみの賛美歌《まもなくかなたの》の旋律が初期のシェーンベルクのような調性感の希薄な和音をまといながら登場します。ほかにもラグタイム風のリズムが表れたりして意外性を突いてくる音楽です。






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(アルバム発売に伴うプロモーション動画)





ハーンのアイヴズ解釈については、意見を持てるほどこの楽曲を知っているわけではないので、おいておきましょう。今回のアルバムはいつものハーンの演奏に感じられる尖った硬質さはやや弱く、家庭的な響きを持った音楽のように聴こえました。この印象は録音の仕方もひとつのキーになっています。大きなホールで演奏されたものではなく、小ホールかもしくは中規模のスタジオっぽい音がするのですよね。気になって、ライナーノーツに記載されたニューヨークのクラブハウスについて調べてみると、民家のようなスタジオでした。上記のプロモーション動画の演奏風景もおそらくはこのスタジオで撮影されたものだと思います。スタジオ盤なのにライヴ盤みたいな録音で、NHK-FMのライヴ中継を聴いているような気分になってくる。嘘っぽい、スタジオで作った音がしない。これは本当に好みの世界のお話になりますけれど、個人的にはそうした嘘っぽい音が好きなので、がっつりこないのが寂しい部分もあります。けれども、ピアノとヴァイオリンが同時に演奏されているリアリティがすごくて面白かったです。





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荒俣宏 『決戦下のユートピア』:苦境のなかにも文化あり、戦争のイメージに生活の色を加える名著

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決戦下のユートピア (文春文庫)
荒俣 宏
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「戦争はツラい」、「戦争は悪だ」、「戦争は厳しい」という教育を子どものころから我々は受け続けている。それの良し悪しを問うわけではない。けれども、ときどき思うのは戦争下の社会のイメージはあまりにも第二次世界大戦末期の困窮と終末感と結びつきすぎているのでは、ということだ。かのクラウセヴィッツは『戦争論』において「総力戦」という国家が一丸となって戦争という事業に取り組むコンセプトを提出した。我々を支配する戦争のイメージはこの総力戦のイメージと重なるだろう。だが、それが本当に適用されるのはふたつの世界大戦だけであって実はそれは特殊なイメージだったのでは、と思うのだ。特に3月に地震が起きてからの生活に戦争のメタファーが用いられるようになると、イラクで戦争をやっていたアメリカの生活というのもこういう感じだったのでは、と想像してしまう。国が戦争をやっていても日常はあるし、文化もある。戦争をやっているからといって、すべてが例外におかれ、生活が一変してしまうわけではない(もちろん一変してしまう人もいる)。





荒俣宏の『決戦下のユートピア』は、第二次世界大戦中の日本における文化や生活にフォーカスを当てた歴史読み物だ。荒俣は高見順や永井荷風が書き残した日記や、当時の婦人雑誌から、戦争イクナイ!教育からは伺いしれない生活の模様を描こうとする。





例えば、ファッションの面では銃後の女性は何を着るべきか、について巻き起こった論争が取り上げられている。動きやすく、さらに使用する布地が少なくて済み、かつ、女性の美意識を満たす衣服とはなにか? 「もんぺ」は古くから日本に存在していたものだったが、こうした要求によって注目を浴びるようになった、と荒俣はまとめる。しかし、これもやはり人気がなく(もんぺは上着を和服にすると裾を巻き上げなくてはならず、腰のあたりに膨らみができてみっともなくなる。このため、もんぺを着るときは上着はシャツやブラウスのほうがキレイに着こなせる、という不思議な衣服だった。そもそも、農耕服みたいなものなので都会の女性には敬遠されていた、という)「標準服」という服を仕立てるときはこういうものにしなさいよ、という見本としてしか権力によっては制定されされなかった。これは女性の美意識が権力を困らせた、という大変面白い例である。標準服としてもんぺが採用されてからも、高級布地を使った「流行性をそなえたもんぺ」を作る女性もいた、というのだからますます面白い。





戦争下の「臣民」は、権力によって洗脳されるように抑圧され、従属するしかなかった……などという灰色のイメージに、本書は、風俗にいきる人間らしさという色彩を加えるようである。後半は大戦末期の混乱が伝わってくる内容で、前半のように面白い可笑しく笑えるようなトーンが薄れていくのだが、これもこれで面白い。社会がいよいよもって打つ手なし、絶望的で、もう終わりを待つしかない、という状況になると、どういった思想が持ち上がってくるのか、それを考えるヒントになる。当世に生活する人間として、こうした過去の空気を知ることで、現在の空気の変化にも敏感になれるのではないか。





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The Smiths/Complete:太くなった音、よりもミニチュア感溢れる細かい作りがコレクターズ・アイテムっぽい

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Complete
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リマスター(しかも、ジョニー・マー監修による)されて再発! と言っても、これまで別に入手困難な音源があったわけではなく、っつーか、ちょっと前にスミスの紙ジャケって出てなかったっけ? と思わなくもないですが、シングル集などの編集盤やライヴ盤などを含めて8枚組、5000円ぐらい!(現在のAmazon価格、私が購入時は4000円強でした)という強烈なお値打ち感には勝てないでしょう。「だいたい持ってるけど、あのアルバムとあのアルバムは持ってなかったな~。え~い、買っちゃうか!」と踏ん切りがつく絶妙なライン、っていうか、安過ぎだろう、すごい時代でございます。まだスミスを聴いたことがない大学生でも、くっだらない女の子との飲み会を一度ぐらい我慢すれば、あなたの手元にスミスのアルバムがリマスターされた音でコンプリートされてしまうのです。すごい時代でございます。





音、ですが、これも先日のピンク・フロイドのリマスター再発と傾向は同じ。特別気になったのはスネアの音の変化で、私が持っていた旧盤ですと全体的に痩せた感じはあるのですが、オノマトペで表せば「ジャッ」と鳴ってるのが、今回のバージョンだと「トッ」と鳴っている、感じ。後者のオノマトペの母音を強めて発音すると一層伝わると思いますが、文章だけだと何を言っているんだろうか、コイツは、というお話なので、たった一言で言うと「鳴りが豊かになってますよ」ということです。この効果はヘッドフォンで聴くとさらに実感できるのでしょう。





ボックスセットに入っているのはすべて紙ジャケ。これがインナースリーヴも再現されててなかなか精巧な作り(歌詞もすべてインナースリーヴへの印刷、なので若干読みにくい)。おそらくアルバムがリリースされた当時の「ポスター封入」とか「シングルヒット曲○○収録!」などのコピーが書かれたシール(もちろん英語です)まで作られてて面白い。オリジナルLPのミニチュアを制作した感じがコレクターズ・アイテム性を高めているように思いました。





リアルタイムに聴いていたわけではないですが、痛い思い出が甦ることなしには聴けないバンド、なわけで、改めてこうして聴いてみると、その痛さが徐々に色褪せてきて、なんか若干「今となっては良い思い出だよな」などと感慨深くなってしまう。ただ、それは別にスミスじゃなくも良かったわけです。別にそうした思い出喚起バンド、プルースト効果バンドがペニシリンでもバットホール・サーファーズでもありえた。たまたま、ジョニー・マーのキラッキラのギターがそうした記憶と結びついている。このたまたまな感じを切り捨てるのではなく、ありがたく思って余生を過ごしたいと思いますよ……。





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #9

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Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
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今回は第6章「偽ディオニシウスとキリスト教魔術の神学(Pseudo-Dionysius and the Theology of a Christian Magus)」を見ていきましょう。前回、早世した天才、ピコの業績について触れた章はヴォリューム的に、内容的にも盛りだくさんでしかもラテン語部分の翻訳まで試みる、という重さだったので、この章の短さは助かりました。ここで登場する偽ディオニシウスは何者だったのか。その詳細はWikipediaに記載がありますので、ここでは簡単にしか触れませんが、偽ディオニシウスは自称「アレオパギタの聖ディオニシウス」であり、9つの天使の階級について唱えています。「偽」というのはこの「自称」の部分であって、偽ディオニシウス自体は5世紀ごろの人物なのに1世紀ごろにアテネでパウロと会った人物だとして執筆をおこなっていた、ということです。例によって昔の人は、こうした騙りを疑わず、彼の天使の階級説はトマス・アクィナスなどの神学者たちに受け入れられ、キリスト教神学のオーソドックスな部分として受容されます。そして偽ディオニシウスの説はルネサンスの魔術にも多大な影響を及ぼした、とイェイツは言います。フィチーノもプラトン主義とキリスト教の教義を統合させる著作において偽ディオニシウスへ言及をおこなっている、とのこと。





後世の新プラトン主義者たちが影響を受けた偽ディオニシウスの著作『天上位階論』にはこんなことが書いてあるそうです。9つの天使たちはそれぞれ3人(天使の場合《人》という数え方が適切なのか……)ずつ1組になって、そのグループはそれぞれ三位一体の位格を表し、さらにこれらの天使たちは天球を超えたところにある、と。ディオニシウスの説は厳密に言えば宇宙論的な宗教ではありませんでしたが、イェイツはこれらの説にグノーシス主義的なものを認めます。そしてそこにはヘルメス主義的な影響も存在している、というのです。フィチーノはこの階級説を『キリスト教について(De Christiaa religione)』のなかでまるごと取り入れます。ただし、彼は階級説がトマス・アクィナスとダンテによって偏向されたものとして注釈をおこなっている。このため、これが偽ディオニシウスだけがフィチーノに影響を与えた、とは言いがたいものとなっています。しかし、ダンテ学者でもあったフィチーノはダンテの『天国篇』を分析し、光のさまざまな質について語っている。彼は光についていろんな表現を用いており、それらはディオニシウスが考えた天使の階級が反映したもの、と考えていたようです(なお、フィチーノが記した『光について(De lumine)』は平井浩氏の邦訳でも読むことができます。『ミクロコスモス』第1集に収録)。まあ、いろいろとこの辺は混ざっている、ということのなんでしょうか。











フィチーノの自然魔術は惑星や太陽を狙うにとどまりますが、天使の階級は惑星や太陽の層を超えて広がっている(惑星や太陽のうえにもっと高次の天が存在している)。このことからイェイツは、フィチーノが天使を使って魔術をおこなおうとしたわけではないこと、また奇跡をおこすようなことを目指したわけではないのだろう、と言います。また、偽ディオニシウスの説はフィチーノだけではなく、ピコのカバラ魔術にも影響を与えており、イェイツはピコが論じる「3つの世界(地上、天、天をさらに超えた世界)」の説明から偽ディオニシウスの影響を確認していきます。





他方では、偽ディオニシウスは彼の否定神学を通してもルネサンスに影響を与えた、とのこと。ここでの否定神学とは、神は良いものでも、美しいものでも、真理でもない、神は名付けようもない、全ての知識を超えた存在である、という主張としてまとめられています。この思想が「隠れた神(Deus Absconditus)」や、ニコラウス・クザーヌスの「知ある無知(De docta ignorantia)」へと繋がっていく。フィチーノはディオニシウスの『神の名について』という著作を翻訳しているのですが、その注釈のなかで彼はディオニシウスとヘルメス・トリスメギストスを接続しているのが興味深い。神は美しさや、存在や、生命や、真理を超越し、どんな名前をも持たない。その一方で、彼は美しさや存在や生命や真理といったすべてのものに対しての名前を持つ。このディオニシウスの説は、井筒俊彦が言うところの「遠くて近い神」の典型のように思われるのですが、この神秘的な言葉をフィチーノはヘルメスによって確証づけられたものとして取り扱うのです。





この章の終わりのほうは結構トピックが雑多で、フィチーノによるプラトンの『饗宴』の注釈におけるエロスと魔術についての説明だとか、あらゆる宗教が三位一体をもつものだという観点からゾロアスター教の教義などが誤解を多大に含みながら読み替えられてしまったことなどに触れられています。





といったところで今回はおしまいです。おつかれさまでした。





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尹伊桑/ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍 一作曲家の人生と作品についての対話』:となりの国の大作曲家を生んだ文化とは

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傷ついた龍―一作曲家の人生と作品についての対話
尹 伊桑 ルイーゼ・リンザー
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日本占領下の朝鮮に生まれ、激動の半島の歴史に揉まれながらもベルリンで作曲活動を続けた韓国の作曲家、尹伊桑の名は日本の音楽ファンのあいだでどの程度知られたものか。作品についてよりも第二次世界大戦中に反日武装地下組織に参加し逮捕され拷問を受けたことや、1967年当時の韓国政府によって北朝鮮のスパイ容疑をかけられ、やはり拷問のすえに終身刑の宣告を受けたというエピソードのほうが知られているだろうか。ドイツの作家、ルイーゼ・リンザーと尹伊桑との対話によって編まれた本書にはこうした痛ましい記録も数多く収録されている。それは『傷ついた龍』というタイトルからも伺えるところだろう。ルイーゼ・リンザー(彼女はカール・オルフの妻でもあった)のインタビュアーとしての態度はとても社会主義的で、かつ、ポスト・コロニアルまるだしであるため、こうした音楽とはあまり関係ない部分に分量が割かれがちであるのだが、アジアを代表する作曲家でもあり、現代の日本人作曲家を数多く育てた尹伊桑の業績にスポットをあてる貴重な本だと言えよう。





尹伊桑が生まれたのは1917年。彼の家は両班の家系だったが、父親は定職を持たず(要職は占領者であった日本人によって締められており、公職につくことのできなかった尹伊桑の父親は『商人などは卑しい職業である』という文化的な背景から富める職業につくことができなかった、とか)は、受け継がれた土地を切り売りして生活する、言ってみれば没落貴族のようなものであったらしい。朝鮮の土地ではもともと漢詩が最も重要な教養とされ、当初、尹伊桑も中国文化を伝える学校へと通わされた、という。それが途中で日本によってもたらされた西洋式の学校へと通わされることとなり、そこで初めて西洋式の音楽に触れことで音楽へと目覚めることとなる。こうした《目覚め》のエピソードは、西洋以外で西洋音楽に取り組んだ国の作曲家にとってはそう珍しいものではないだろう。武満徹にとってのシャンソンのように。しかし、興味深いのは尹伊桑が育った当時の朝鮮の文化の様相である。朝鮮の文化と中国の文化が混合した状況下に、日本が侵攻し、西洋の文化も同時にもたらされる。日本語を学び、公的には日本名で呼ばれながら、病気を癒すための呪術も生きており、儀礼のための儒教、そして仏教や道教も共存する。この文化的複雑さは日本はおろか、世界中を探しても他にないのではないか、と思えるほどだ。





後に尹伊桑は日本へと留学し、池内友次郎らに近代の作曲技法を学ぶが、モーツァルトやベートーヴェンといった古典をよく知らないままだった、というのもとても興味深い。彼が生きた環境のなかにそうした文化に触れる機会がそう多くなかったこと考えるにしても「最初から自分の音楽をやることにしか興味がなかった」と語る彼の《発展史》は、基礎がほとんどないまま現代音楽へと到達したようである。現代では、情報へのアクセシビリティが異様に高まった結果、どんなルートからでも現代音楽へと到達することが可能だろう(生まれて初めて聴いたのがシュトックハウゼンで、20歳になるまでトータル・セリエリスムしか聴いたことがなかったなどと語る人間がいても、おかしくはない)。しかし、やはりそれは比較的に考えてもオーソドックスなストーリーではないように思われる。そして、尹伊桑のストーリーもオーソドックスからは外れるものと捉えられる。本書を読んで強く惹かれたのは、尹伊桑の音楽そのものよりもこうした人物を生んだ文化的環境や政治的環境についてだった。ちょうど韓国の民謡などを聴いていたところで、その日本の民謡の旋律と似た旋律がもっと豊かで複雑なリズムに乗る様子に衝撃を受けていたところだったので、隣国の文化への興味を一層かき立てられた。






アリラン~韓国京畿民謡の粋
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本書の原著はドイツ語で書かれており、翻訳者は政治学を専門とする伊藤成彦。伊藤は社会党(当時)の土井たか子らと軍縮を求める市民活動や「朝鮮政策の改善を求める会」に参加していた社会運動家でもあった。訳文は直訳調でとても良い訳とは言いがたいが、音楽についての記述は高橋悠治がサポートしている、とのこと。





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野口晴哉 『整体入門』:独自の生命論にもとづく身体の解説が面白い

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肩こりなどはシステムエンジニアの職業病というよりもオフィスに勤める人全般を悩ませる現代病、と言えましょう。私も極度の肩こり持ちなもので先日ついに近所の整体にいってみてみました、ものは試しに、と。で、これが上手いこと効いちゃったわけで久しぶりに体の軽さを感じる結果となりました。とはいえ、肩こりが永続的に解消されたわけではなく、術後1ヶ月もすれば「あ、いまちょっと疲れが溜まってきたなあ」という感じがしてくる。しかし、術前は肩が常に重かった・痛かったわけなので、この疲れが溜まってくる感じすらも新鮮。様子をみて通ってみようかな、整体すげーな、と思いました。





というわけで野口晴哉の『整体入門』を読んでみる。読んでから知ったのだが、整体にも種類や流派がいろいろあるそうで、私の行っているクリニックとはほとんど野口整体は無関係の模様。ただし「ゆるめて・ほぐす」などの過剰や不足を調整していくというコンセプトは共通しているみたいで、大変興味深く読みました。クラシックの熱狂的ファンで、日本発の天才ヴァイオリニスト養成術、鈴木メソードの考案者とも親交があったという野口晴哉(今年生誕110年)は教養高い人だったようで、文章がとても上手い。古い日本人にあるような格式高い日本語、ではないのですが、良い感じに力の抜けた風流人のごとき風情でちょっと真似したくなりました。





ここ数年、東洋の身体論、武道の身体論に注目が集まっているところで(今はそうでもないかな?)、過去に読んだもののなかでは『FLOW――韓氏意拳の哲学』はとても面白かったんだけれど、この『整体入門』もまたそのような身体論としても読めます。各部位の筋肉(筋力)によって部分を統御していき、その建築的な組み合わせによって身体を考えている、ように思われる西洋の身体理論とは違った考え方として。前述の韓氏意拳という武道においては、そうした身体理論さえも投げ捨てられてしまう、という脱構築武道ですけれども、伊藤整体においては「ねじれ」や「気の過少」といったタームが全体へと繋がって描かれる。椎骨が身体のコア部分となって、全体を統御する、といった感じにまとめられるでしょうか。実践方法の解説を見ながら自分ひとりで試す勇気はありませんが、身体に対するひとつのアプローチを見ることができると思います。





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パリへ #3

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パリ旅行記、3日目の。『pen』のパリ特集の写真などを眺め、早くも懐かしい気持ちになっているが実質はまだひと月も経っていない。おそらく私が見た風景や、感じた匂いなど、文章からはどうやっても伝わらないであろう、それがたとえ記憶が新鮮なうちであっても。しかし、急がねばならない。写真は朝、テレビをつけたらいきなりものすごいスピリチュアルな番組がやっている、その様子。おそらくはフランスの寂聴的な存在なのであろう。







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この日の朝食はホテルの近くのカフェでとってみた。私はハムとチーズが入ったオムレツ(7ユーロ)、妻はクロックムッシュ(ーと伸ばすのが正しい模様。6ユーロ)。それにコーヒーが1.9ユーロ、ショコラショーが3.2ユーロ。郊外になると途端に飲食費が安くなる。4割ぐらい違う。





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この日は朝からヴェルサイユ宮殿にいく予定だった。メトロではなく埼玉高速鉄道みたいな電車に乗らなくてはならないのだが、切符の買い方がよくわからず駅でちょっと困った。メトロはどこから乗ってどこで降りても料金が変わらない。けれども、このフランス版埼玉高速鉄道はちゃんと行き先を指定してあげなくてはならない。券売機は画面遷移が結構多くて「こういう画面の出し方は日本の券売機のほうが優れてるな~」と思った。カードで切符を買えるのは嬉しいのだが、紙幣は使えない、など「えっ」と思うことは多い。





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朕は国家なりィィィ!!! の人がお出迎えしてくれる。





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ほとんど朝イチなのにすぐに入場の行列ができてしまう。ミュージアムパスが使えるのでチケットは買わなくて済んだけれど、チケットを買う行列もできていたのでパスがないとなかなか大変。





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入場してすぐのところ。天気が良かったのでゴージャス感が映える、が、このへんだけみると「こんな建物、有楽町あたりにあるんじゃね?」とか「あれ? 赤レンガ倉庫?」と思わなくもない。そもそも行く前からヴェルサイユ宮殿のイメージができていなかったので、どこがファサードだったのかもよくわからず。





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人気ゾーンはとにかく混んでいて大変。そして想像していたより広くて大変。庭園内に入るにはミュージアムパスが使えず、別途チケットが要。マリー・アントワネット(キルステン・ダンスト)が百姓ごっこをしていた離宮などもあるのだが、1.2kmほど歩かないといけない、という罰ゲームじみ感じなので行ってません。っつーか地平線が見える庭ってなんですか。





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昼食にガレットを。具によって値段が違うのだが自分が何を頼んだか覚えてない。妻はヤギのチーズを使ったやつだった。初めて食べたのだがすっごいクセの強いガイジン、みたいな味でびっくりした。あんな顔してこんなごっついものを出すのか、ヤギは、と思った。観光地なので市街地と同じような物価。





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その後、パリ市街地へと戻り、軍事博物館へ。中世の武具などが展示されている、と聞いていたのだが、入った入り口を間違えて、近代戦コーナーから入場してしまう。これがもう戦勝国感丸だし、愛国丸だし、日独伊三国同盟ぶっ潰す(ぶっ潰した!)感丸だし、でも戦争の色んなものが生々しすぎてテンションを高めていいのか低めるべきなのかよくわからない、少なくとも日本人はここに行ったらダウナーになるしかないトラウマ施設であり、兵器の工業デザイン的な美しさには惚れ惚れしてしまうのだが、銃痕つきのヘルメットなどを目撃してしまった暁には「この施設、はやく出たい(というか、どうしてこんなところに……)」という思いに駆られまくり、自然と歩みも早まるのだが、これもまた広くてですね……やっと終わった……! と思ったら、まだ第二次世界大戦前半コーナー終了で、まだ戦争は終わってない、っていうか、ノルマンディ上陸作戦以降のコーナーがはじまったりしてねえ……。ハードコア・ミリオタにしかおすすめできないよっ!





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しかし、ピンチョン読者的にはこのV2ロケットの展示には激アガる他ないです。『重力の虹』!





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その後、オルセー美術館にいくも入館時間に間に合わず。この前にナポレオンの墓も見たのだが、デカい、というだけで終わる。ギャグのように巨大な棺は人間じゃなく、なにかモンスター的なものが封じられているのでは、と錯覚する。





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ポンピドゥー・センターへと移動した(結構遅くまでやっている)。この近くに行ってみたいレストランがあったのだ、が、移動した瞬間に「あれ、ガイドブックに今日休みって書いてある……」ということに気づいた。このあたりにIRCAMがあるはずなのだが見忘れていた。ポンピドゥー・センターもとにかくなかが広く、現代美術は割と好物ではあるのだが体力的に途中でキツくなって20世紀前半の美術コーナーはかなり流してみてしまったのが心残り。





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(例によって他人の写真だが)アンドレ・ブルトンの民族学コレクションが圧巻。彼の部屋を再現した展示だそうで、すごく異形の箱庭的宇宙感があって素晴らしかった。これに正対するのがジョゼフ・コーネルの箱、というセッティングもすごく良い。





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気づくと夜。今日はちゃんとフランス料理! みたいなのが食べたいね~、という話をしていたのだが、ポンピドゥー・センター周辺にはカフェ・レストランみたいカジュアルなお店しかなかった。仕方なく歩いていて一番人が多く席についているお店で夕食。ポンピドゥー・センター裏の普通のカフェ・レストランなので、今思えば、美味しくて評判、というわけではなくポンピドゥー・センターから出てきた観光客が流れてきやすいだけだったかもしれない。このお店で初めて黒人のギャルソンをみた。サラダ(巨大)、エスカルゴ(ハサミのような謎の器具の使い方がよくわからず)、タルタル・ステーキ、カモのローストなどをいただく。この日まで私はタルタル・ステーキのことを「通常のステーキにタルタル・ソースをかけたもの」だと思い込んでおり、運ばれてきたユッケのようなものを見て「えっ、タルタル・ソースはどこに!?」と驚いてしまった。





こうして3日目は終わった。続きはまた今度。





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