読売日本交響楽団 第509回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:シルヴァン・カンブルラン(読売日響常任指揮者)


ベルリオーズ/序曲〈リア王〉作品4


チャイコフスキー/幻想序曲〈ロミオとジュリエット〉


チャイコフスキー/交響曲 第6番 ロ短調 作品74〈悲愴〉



今シーズン最後のサントリー定期へのカンブルラン登壇。チャイコフスキーの人気作品が取り上げられていたせいか、座席はいつもより埋まっているように見えました(もしかしたらカンブルラン&読響の好評が影響していたのかもしれませんが)。前プロのベルリオーズは第507回定期に引き続き。聴いたことがない作品でしたが、ブリリアントかつリッチな鳴りがいつも以上に素晴らしく楽曲を端正に仕上げている印象を受けました。続くチャイコフスキーの《ロミジュリ》も同様。基本的にカンブルランが選択するテンポは快速ですが、音楽はただ流れていくのではなく、煌めくような表現が随所に挿入されていく。これが毎回生で音楽を聴いている喜びを実感させてくれます。ホットな体を、クールな頭脳でバキバキに統御した、外はサクサク、中はとろ~りの逆バージョンとも言える音楽の作りは、爆演タイプの指揮者では味わえない愉しさに満ちている。





ただ、メインの交響曲は個人的にあまり乗り切れませんでした。ロマンティックな表現に耽溺することのない清潔感のあるチャイコフスキーで、すごくリズムに切れ味を感じさせるものでした。けれどもいくつかオーケストラの演奏で細かく気になる点が冒頭からあったこと、と、これはあまりに流れすぎちゃっているのではないか、音楽が、といまいちフックがないまま演奏が終わってしまった、というのが正直なところ。これは単純に好みの問題でしょうけれど、前・中のほうがオーケストラが集中していたようにも思われました。そもそも曲があんまり好きじゃない、というもあるんですが……。楽曲が「常にオンな曲」というか、抜きどころがない、というか、全部塗りつぶしたみたいに濃い曲なので、その濃さをガッツリ強調しないと表現のコントラストが効いてこないですよね。やり過ぎで来てもらわないと、いまいちガッツリと来ない。





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J. L. ボルヘス 『詩という仕事について』

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詩という仕事について (岩波文庫)
J.L.ボルヘス
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訳者の鼓直があとがきに書いているとおり、日本におけるボルヘスへの関心は主に彼の短編小説にある。しかし、本当のところ、ボルヘスという作家が活躍した領域は長編小説を除いて評論から詩までと幅広い(そもそも彼が文学者としてのキャリアを歩み始めたのは、詩人としての成功だったはずだ)。本書はボルヘスが1967年~1968年に渡っておこなったハーヴァードでの講義録であり、メインとなるテーマはタイトルにもあるとおり「詩」である。日本の詩業界だってマイナーなところであろうところに、海外の詩と言えば、翻訳をどう考えるか障壁があるゆえ、どうやったって扱いにくい。日本語にした時点で、もともとの言語が持つ音律から離れ、構造もまるで違ったものになる。翻訳された詩は、なにものであろうか。実のところ、本書で取り扱われているテーマにはこうした詩と翻訳の関係も含まれている。



仮に原文がどれで、翻訳がどれであるかを知らなければ、その二つを公平に判断できるだろうと思われます。しかし不幸なことに、それはわれわれには不可能です。したがって、翻訳者の仕事は常に劣るものと見なされる。



原文こそがホンモノである、という意識が日本語に翻訳された海外の詩にまつわる問題をひきおこしている、どちらが原文かを知らないでいるのなら公平な判断ができるはずなのに。もしかしたら翻訳のほうが美しく感じられることもあるだろうし、翻訳にしてしまったら美しさが台無しになってしまう可能性もある(そこでは優れた海外の詩の翻訳である、という事実がその台無しになった価値を担保してくれる)。こうした問題は、何も日本語の翻訳に限定されるわけではない。スペイン語から英語への翻訳、あるいは古英語を現代英語に直すときに常々発生してしまう。こうした文学的評価に対する諸問題を前にして、ボルヘスはこんな予言をおこなった。



人びとが美を巡って出来事や状況をほとんど気にしない時代が来るはずです。人びとは美そのものに関心を抱く。恐らく、詩人らの名前もしくは生涯にさえ心を遣わなくなるはずです。



歴史が終焉し、ボルヘスが語るインド人たちのように《誰がこの詩を書いたのか》が忘れ去られてしまえば、不可能とされた《公平な判断》がおこなえるだろう。ボルヘスの予言とはこんなポストモダ~ン今夜が満載なのだが、この時間感の喪失、歴史の消失は彼が書き残した短編小説の世界とも接続され、魅力的に読める。はっきり言ってボルヘス自身がこうした予言を本当に信じているとは思えず、言ってみるテスト、でしかないのだが、このカマしかたこそが彼の小説の魅力なのだ、とも思う。





しかしながら、現在の我々は不幸なことに(?)ポストモダ~ンでもなく、未だ翻訳なんてホンモノではない、原文がホンモノだ、というオーラに縛られているわけである。言語の問題はとても根深い。本書が興味深いのは、ボルヘスの講演を聴いていたのがアメリカの英語を母語とした人びとであり、講演者も英語で話していた、ということだ。そこにはスペイン語はもちろん、ラテン語、ドイツ語、フランス語、そして古英語などが登場する。翻訳論がでてくるのもそうした事情からなのだろう。言語が問題とされるのは状況として当然であったのだ。





この翻訳では、ボルヘスが引用している詩の原文と、その日本語訳が併置される。これは「なるほど、詩の翻訳とはこういう風におこなわれるのか」という関心を呼び起こすものだったし、母語以外の言葉を学ぶ(とくに英語以外の言語も学習しようとしている)人が読むと面白いのではないか、と思う。母語から離れることは、幻想的な文学的コスモポリタニズムの世界に近づくことなのかも、と私個人は深く感じ入ってしまった。





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イョラン・セルシェル《時は止まって 限りない静けさと沈黙へ》 @フィリアホール

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ダウランド:時は止まって/ストラング卿のマーチ/題名のない小品/ダービー伯のガイヤルド/涙のパヴァーヌ


ビートルズ:ジャンク(マッカートニー)、エリナー・リグビー/ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア(レノン/マッカートニー)


J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調BWV1008


ペルト:アリーナのために


S.L.ヴァイス:ロジー伯の死を悼むトンボー


J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第4番変ホ長調BWV1010



イョラン・セルシェルはスウェーデン出身の世界的に活躍するギタリスト。現在彼はスウェーデンの田舎のほうにある自宅にて旧オリーヴ少女が夢見るようなスロー・ライフを送りながら音楽活動をおこなっているそうですが、大変人気のある奏者であって、私もクラシック・ギターの世界はほとんど門外漢といって良い私でも彼がヴァイオリンのギル・シャハムと録音した『シューベルト・フォー・トゥー』という編曲モノのアルバムは愛聴していました。ギターを聴くなら小さなホールで聴きたいな(そんなに大きな音色の楽器ではないので)、とは常々思っていましたが、セルシェルをフィリアホールで聴けたのは僥倖だったと言えましょう。リッチな響きのあるホールとは言えませんが、ギターの音の芯が残響でぼやけず、それでいて音量は充分に客席に届き、とても気持ち良く聴くことができました。




コンサートはダウランドから始まって、これがもう、うっとりじんわり、といった世界。同行したクラシック・ギターを習っていた上司は「音がパキパキしている」とおっしゃっていましたが、セルシェルが弾いている11弦ギターという楽器は1-6弦が通常のギターよりも短3度音が高いのだそうです(リュートの曲を編曲無しで弾くように開発されたものなのだそう*1)。低めのチューニングで取られた音色はとても気持ち良く、ダウランドのブルース感(この明るいのだか、暗いのだか判別がつかない感じはエリザベス朝のブルースなのです)に浸ってしまいます。それから今回のプログラム・タイトルについてのアナウンスがあり、ビートルズの楽曲へ。このへんは結構あっさり流れてしまうのですが(ポールって良い曲書くよねえ、やっぱり天才だよねえ)ほとんどアタッカでJ.S.バッハに入ってからは、もうどんどん熱が高まっていく感じ。





後半もペルトやヴァイスで空気を整えて、バッハに入ってから白熱していった印象があります。しかし、その燃え方は超絶技巧の奏者が聴衆の前でオラオラと自分の実力を見せつける感じでもなければ、公共の場で声高に音楽の価値を叫ぶようなものでもありません。そのように聴き手に対して外側から熱を浴びせるのではなく、聴き手の体のなかから徐々に温めていく遠赤外線かよ、というタイプの演奏なのですね。こうした演奏には、自然に耳のほうが音楽に寄っていく。この日演奏されたバッハの無伴奏チェロ組曲の第2番、第4番(アンコールには第6番から2曲抜粋で)に関して言えば、これらは不朽の名曲であって、人類史に残る楽曲だ、と称されていますが、セルシェルの演奏は楽曲をそのロマンティックな地位から、バッハの同時代の音楽観へと引き戻すようでした。彼の態度は、世の様々なチェリストがこの楽曲を自らの、あるいは大作曲家の魂の叫びとして扱い弾き込むのとは真逆のものです。ギターという楽器の特性もあるかもしれません。聞き慣れてしまったチェロの唸るような歌い込みから解放された無伴奏チェロ組曲は、最初からチェンバロのために書かれた華麗な舞曲のように響きます。そこで《叫び》の一声が多声音楽に展開されるのです。それがとても新鮮でした。こんなに軽やかな音楽だったのか、この楽曲は、と驚きます。





セルシェルのアナウンスは、今回はゆっくりな曲ばかりを集めている、それは新しい価値観や生き方、スロー・フードだとかスロー・ライフだとかそういうものへの取り組みから思いついたんだよ~、的なお話でした(うろおぼえ)が、彼の音楽とそのライフ・スタイルは見事に繋がっているようにも感じます。パブリックなもの、グローバルなものを目指していったのが近代でありロマン派なのだとしたら、逆にプライベートなもの、ローカルなものに回帰するオルタナティヴという感じがセルシェルの音楽から受け取れます。その回帰がピリオド奏法の追求のような「ホンモノ」を志向する態度になってしまうと、ロマン派の目標が変わっただけバージョンになってしまう。けれどもそうならないのが彼の絶妙なバランス感覚なのでしょう。考えてみれば、この日演奏された曲は全てギターのための曲ではないのですよね。しかし、そうであっても演奏に触れているうちに「ああ、この曲は、こういう性格の楽曲だったのかもしれない」という彼の世界のリアリティに引き込まれてしまう。そうでなくてはならぬ、という使命や運命によって支配された深刻さではなく、そうであったのかもしれない、というか、こうであってもよかったんだよね、という安らかな納得感? 良い演奏会でしたよ~。






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ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
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坂本慎太郎/幻とのつきあい方:地面から15センチ浮いてる感じ、良いですよこれは

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幻とのつきあい方
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2010年にゆらゆら帝国が解散したときは「へえ~、解散したんだあ~」とまったくの他人事であって、坂本慎太郎がソロ・アルバムを出すと聴いても「へえ~、出すんだ~(買っておくか~)」ぐらいの関心でしかなかったのだけれど、届いたものを聴きだして素晴らしいではないですか~、これは~、ゆら帝まで遡って聴いちゃうぞ、と思った次第。今更なんですが、こんな歌詞でこんな歌声で、こんな音世界を立ち上げられる人が今のご時世、生きにくくて仕方がないのでは、と勝手な心配さえ抱いてしまいます。とても貧しい一言で言うならば「サイケデリア」なのでしょうけれど、歌声から受ける印象はどこまでも醒めきっている、そう、ジャケットの坂本慎太郎氏の視線も挑発的であって、リスナーの背後に立つ霊的存在を見透かされており、精神的ステージにおいて別次元に立ってしまわれているのは明らかなのです。天まで届く開放感ではなく、地面から15センチメートル浮いてる感じ。密室的なのだけれど、空き地のような広さ。遠くて近い神にも似た矛盾したイキフンが素晴らしいです。初回限定版はヴォーカル・トラックを抜いたインスト盤がついています。坂本氏の声がないだけで、こうまで印象が変わるか、と驚きですが大変ゴキゲンなモンド・ミュージック(あるいは、スーパーで流れてる謎ミュージック)のようである。






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島村楽器のお題「プレゼントしたい楽器」に答えます。

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奥さんが最近友達とリコーダー・アンサンブルを始めたので、ウィンドシンセサイザーをプレゼントしたいですね! あのリコーダーを入れる用の厚手の布袋からニュニュ~っと楽器を取り出して、さあ吹こうか~、ってなったときにバリンバリンにTruthなリードサウンドがプヒャ~、と鳴るわけです。それってとってもカッコ良い。おもむろにつけ髭などしてもらって「宝島」を吹き出す、そんな奥さんになってもらいたいです。





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ショーロクラブ 武満徹ソングブックコンサート @めぐろパーシモンホール

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武満徹ソングブック
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ショーロクラブによる武満徹ソングブック*1コンサート版をめぐろパーシモンホールへ。はじめていくホールでしたが大変キレイなホールでびっくりしました。大きさは江東区などに乱立している中規模ホールぐらいなのですが、やはり立地のラグジュアリなイキフン、駅(東急東横線都立大学駅)からホールへ向かうまでの道すがらに見える、小さなショップのコジャレ感、どれをとってもシャレオツであり総合ポイントをとれば、クール度は都内随一といっても良いでしょう。音響面などはさておき、サントリーや芸劇、トリフォニーなどにはないロケーション。終演後、駅前のいち。というお店にうかがいましたがここも良いムードで美味しいお店でした。ここのカニクリームコロッケを食べたさに、めぐろパーシモンホールに通いたくなるかも。





本題のコンサートのほうですが、これはもう素晴らしいとしか言い様がない。歌手の魅力と実力を存分に堪能できるコンサートでした。ステージ上にはソファとテーブルが並べられ、ショーロクラブと共演する7人の歌手はそこで自分たちの出番を待ちます。背景には武満徹が過ごした軽井沢の写真。その光景はちょっと演劇の一場面のようでしたが、ショーロ、というサロンの室内楽の雰囲気をコンサート・ホールに再現するひとつの手段として効果的な演出だと思いました。圧巻だったのは沢知恵のパフォーマンス。これはもう貫禄さえ感じさせるものでした。とにかくパワフルだし、舞台から放ってるエネルギーの量がものすごい。芸能としてひとつ完成された姿だな、と思いましたし、ソロのコンサートも聴きにいきたくなります。おそらく確実にお客さんを満足させて帰らせてくれるでしょう。コンサートの満足感をチケット代と換算してコストパフォーマンスを計るのは無粋なことかもしれませんが、相当にコスパが良さそう。





アルバムでは男性歌手(おおはた雄一・松平敬)のヴォーカル曲は1曲ずつと寂しい感じでしたが、本日は未収録曲がそれぞれ1曲ずつ演奏されていました。これらはライヴ版の配信などで補完されて欲しいですね。おおはたは「ぽつねん」を、松平は「昨日のしみ」を。どちらも谷川俊太郎詞による楽曲で、言葉の選び方がすっ、とくる。「ぽつねん」はちょっと不気味というか、シュールレアリスムを感じさせるのだけれど、こうじんわりと良いものを錯覚させてくるところが不思議。ほかにもアン・サリーによる「死んだ男の残したものは」で客席からブラヴォーが飛び交ったり印象深い場面がいくつかありました(この楽曲も谷川・武満のコンビですね)。





たまたまコンサートの前日に武満のギター曲を聴きなおしていたんですが、今回のショーロクラブのアレンジって大胆な置き換えなどでもなんでもなく、武満の空気感やコード感、雰囲気、テクスチュアを再現する試みだったのだなあ、という風に思いました。武満のポピュラー・ソングがほかにどれだけあるか分かりませんが、第2弾があるなら続けて欲しいし、このコンサートも単なるレコ発、企画モノコンサートで終わらずに定期的に行われて欲しいです。人数が多いからスケジュールなどが合わせにくいのだろうな~、とは思うのですが。今日の観客の人だけにしかあれが味わえないのでは、とても残念。逆に言えば、今日観に行けた人はとても幸福でしたね(私も幸福)。CDもあと150万枚ぐらい売れて欲しい。






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ガブリエル・ガルシア=マルケス 『百年の孤独』:4年ぶり、2度目の通読。でも最高。

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百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
ガブリエル ガルシア=マルケス
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季節はすっかり冬に入りかかった感があるけれど、遡ること一ヶ月ほど前、秋の乾いた風が駅のホームを待つ人の風を撫で始めた頃「あ、今猛烈に『百年の孤独』が読みなおしたい! そう今すぐに!!」という啓示を受けて書店にダッシュ(持っていた旧版は人に貸したままになっていた)そうしてこの世紀の名作を再読することになったわけだが、再読でもいきなり面白すぎて涙が出てしまうほどの傑作である、と確認してしまう私なのだった。自分語りになってしまうが、たぶんこの本を読んでいなかったら随分と世界が変わってしまっていたのではないか、この本に出会わなかったら集英社のラテンアメリカ文学シリーズを揃えたりしなかっただろうし、小説を書いたり、小説を集めた本を製作したりもしなかっただろう。そうした意味でさまざまな《はじまり》を生んだ本なのである。今『百年の孤独』を読んでしまった世界にいる私は、並行世界の『百年の孤独』を読んでいなかった私に対して「ハロー! そっちの世界の想像力はどうだい? 寂しくはないかい?」と声をかけたくなるけれど、今この瞬間もあらゆる選択肢によって無限に枝分かれする量子論的宇宙の次元を超えて届く声の大きさを持たない私は、幾分寂しいものとなったであろう想像世界にいきる並行世界の私(存在しない)を憐れむことしかできない。





登場人物が覚えられない(だからこそ、良い)だとか、無数の逸話がフラクタルのような構造を描く、だとか、またローカルに閉じた村が外部との接触によって栄えるのだが、その外部によって搾取され、また衰えていく様子、だとか、愛だとか、孤独だとか、様々な意味付けや読み方が可能な小説なのだろう。それだけ深みがある、というか語りがいがある本であるのは確かだし、実際、今回の再読で「え、これはヒッチコックをパクッてるのか?」だとか「え……これってUFOが登場するってこと?」だとか新たな発見があった。でも、そんな風に分析的に読んでしまうよりも前に、まずはこの圧倒的な想像力に驚嘆すべきなんだと思う。発見は、驚きの後にちょっと遅れてやってくるのがちょうど良い。500ページ弱の長編は、体感ページ数で言えば100ページほどにさえ感じられ、本当にあっという間の時間に、無限大のイメージがパワフルに押し寄せ、後半は「えええ、もうすぐ終わってしまう……あ、あ、あ、終わった……」と愕然とするしかない。超楽しいのに、読み終わるのが悲しい。





あらすじを語ろうとすれば、すべてが嘘になってしまう。物語の本当に骨子を抜き出せば、いつまでもガキンチョのままである男と、それを見守る母の話とも言えるし、その母はいつも幸福を手に入れられずに耐え続けるお話でもあり、もっと単純化すると夢想家と母性の連鎖、とも言える。人間の想像力はこんな風にも使える、ということは想像力の誤った使い方、あるいは結果として誤った使い方になってしまった歴史が目についてしまう日常において、希望とそっくりに見えてしまう。また、4年ぐらいしたら読もう、いつか原著で読めたら良いな。





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首都を歩こう《Tokyo Walkers》第1回(表参道-六本木-新橋-東京)

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首都を歩こう《Tokyo Walkers》は、先日運動不足に悩む友人とひっそり結成したウォーキング集団。からりとした秋晴れに恵まれた本日その第1回イベントが開催されました。今日は表参道-六本木-新橋-東京の名所を華麗にスルーしまくるコースを設定(地図)。スタート地点はふだんほとんどいかない表参道の高級ブティック通りです。同じ日本人なのにきっと食べているものや見ているものや、吸っている空気さえ違うラグジュアリーで穏やかな雰囲気の街を歩きます。











根津美術館。歩くのが目的のイベントですのでこうしたスポットもどんどんスルーしていきます。













しばらく歩くと青山墓地に入りました。遠くには六本木のバビロンが見えてくる。









さらに歩くと新国立美術館の搬入口にでました。何度か行っている美術館だけれど、この角度から見ると「え、なにこの建物、なんかすごい建物だね」と改めて思ってしまう。ウネウネした曲面が特徴的な建物だけれど、乃木坂から美術館に直結の出口から入ると結構そのあたりを意識せずに入ってしまうんですよね。









バビロンも近づいてきます。









六本木ヒルズの前をスルーして、テレビ朝日の横あたり。このあたり、ガラス張りのピカピカした建物が並んでいますが、太陽の位置によって日光が乱反射してまぶしくてやってられないよ、という時間はないのでしょうか。









その近くにはこうして古めかしい壁が残っていたりするので、ちょっと面白い。いま調べてみたら、国際文化会館という施設の裏側みたい。









東京タワーも近づいてきました。これもスルーします。





ものすごい勢いで蒸気を吹き上げる謎の装置





東京タワーのふもとにあった、ものすごい勢いで蒸気を吹き上げる謎の装置(動画にとれば良かった……)。地下からの排気をなにかしているのか、地下1500メートルの旧日本陸軍の秘密研究所で改造人間が製造されていてもおかしくない薄暗い雰囲気があってほんのりホラー。













すっかり秋の空、という感じです。









史跡を発見。御成門。徳川家の菩提寺の門だったそうです。死人の髪の毛を盗んで生計を立てている妖怪じみた鬼婆がでてきそう。













見事に調和感のないビル、ホテル、マンション。JRAの前には今日も今日とて予想に勤しむ市民の姿があり、このあたりだけものすごくタバコ臭い。低所得者層の所得がここに吸い上げられ、富の再分配がおこなわれているのか……。ニセ神殿じみたファサードは、市民を救わない神の見えざる手を象徴している……!













浜離宮のほうまで出てくると、少し陽が傾いてきました。とはいえ、このときまだ15時ぐらい(スタートは13時)。少し疲れてきたので予定を変更して、新橋で一杯飲むことになりました。






中銀カプセルタワービル









その途中には本日2軒目の黒川紀章物件、中銀カプセルタワービルが。メタボリズム建築の代表作、といわれる建物ですが、もはやそうしたコンセプトの斬新さなどがまったく心に響かないほど汚れきっていた……。カフセルタワーヒル……。













濃ゆいビル





銀座・新橋周辺。さすがにサラリーマンの聖地、歩いているだけで夜のワイドショーのインタビューなどを受けてしまいそうな空気感が街を覆っているだけあって、濃ゆいビルがあります。









西暦2048年、東京都を襲った死の灰によって都民は死滅し、街だけが残った……という設定が似合う美容室。果たして営業しているのだろうか、ポンペイなどにいかなくても東京では時が止まった街を見ることができるのです。





結局入ったのは「えのき亭」というお店。なんでもテレビ番組で認められた「新橋で一番古い焼き鳥屋」だそうです。注文を取り違えてもにこやかにサービスとして間違え注文を出すおじさんや、いろいろ零しても堂々としているおばさんで切り盛りされている味わい深いお店でした。焼き鳥の肉が大きく、そこにあんまりこだわりがない感じの、秘伝でもなんでもない風のタレが塗り付けられている。これが新橋クオリティなのか……!













2時間ほど飲んだらすっかり日が暮れていました。日比谷公園の前をスルーして、東京駅に向かいます。

















三菱一号館美術館付近のイルミネーション。あの~、節電とかそういうのは関係ないんでしょうか……。









そんなわけで東京駅に到着。おつかれさまでした。《Tokyo Walkers》は観光名所はひたすらスルーするストイックなウォーキング集団ですが、歩いているあいだは和やかな会話を楽しむ非常に社交的なグループです。職業・経歴・年齢などを問いません、興味がある方はFacebookにてメンバーを募集しておりますのでご連絡くださいませ。イベント開催は不定期ですが、次回は歩いたら温泉か銭湯に入ってビールを飲む催しになりそうな予感!!





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Impulse!のマイケル・ブレッカーを聴く

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Tales from the Hudson
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今年はずっとブラジル/ラテン音楽ばかり聴いており、というかディスクユニオン新宿ラテン・ブラジル館にばかり行っており、他のジャンルはかなりおろそかになっている状態が続いているのですが、その傍らでDCPRGのImpulse!レーベルとの契約、そしてライヴ・アルバムのリリースなど、日本のジャズ(かなりオルタナティヴな方面の)でもちょっとした動きがあり、そうした動きのなかで「Impulse!期のマイケル・ブレッカーはポリリズム(誰もそんな構造は聴いていないけれど)」という話がでてきていて、ほう、それは興味深いですね、じゃあ、聴いてみましょうか、となったりするわけです。





とりあえず、初リーダー作の『Michael Brecker』(1987)、『Don't Try This At Home』(1988)、『Tales From the Hudson』(1996)を選んでみたのですが、ドラムはジャック・デジョネットが固定、ベースはチャーリー・ヘイデンだったりデイヴ・ホランドだったり、そこにハービー・ハンコックやらマッコイ・タイナーやらパット・メセニーがいたり、参加してるミュージシャンの豪華さがとにかく目につきます。当然腕達者さんばかりですから演奏内容は大変なことになっている、としか申し上げようがない。楽曲は超スムース(笑)なのに異様な音の密度であって、ラグジュアリーなイキフンと汗だく感のレイヤーが同時進行しているところが楽しいです。EWIの音色もまた味わいがあってねえ……。






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同時期にはウィントン・マルサリスが新古典主義みたいな勢いでジャズに取り組んでいたわけで、そこで取り組まれている音楽とのギャップはあまりにも大きく、ジャズともフュージョンとも言えない異形の音楽、なのにグラミー賞……というのがこの時期のマイケル・ブレッカー、と乱暴にまとめてしまうとそんなところでしょうか。それって面白くね~か?





この手の故『スイングジャーナル』でベスト・プレイヤーに選出されがちなアーティストのCDは、枚数がそれなりに出ているせいなのか中古盤価格が大変リーズナブル。セール期間を利用すれば、ディスクユニオンで「Tenor」のコーナーの「Michael Brecker」のゾーンから適当にCDを掴めるだけ掴んでレジに持っていっても、一回の飲み代にも満たないであろう。それでしばらく楽しめるのだからうへへ……。





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松田美緒/Compás del Sur

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ショーロ・クラブの『武満徹ソングブック』*1でも素晴らしい歌声を聴かせてくれた日本人女性歌手、松田美緒の新譜を聴く。彼女の存在を知ったのも『武満徹ソングブック』が初めてだったが、ショーロ・クラブとは何度も共演を重ねているようで、ポルトガル語圏・スペイン語圏の音楽への彼女の取り組みはかなりトップランナー的、といっても過言ではない。今回の『Compás del Sur(南のコンパス)』はウルグアイとアルゼンチンで録音され、現地の著名ミュージシャンとの広い交流のなかで制作されている。とはいえ、知っているのはアルゼンチン録音でのカルロス・アギーレぐらいであって「ウルグアイ音楽界の重鎮、ウーゴ・ファトルーソ」と言われても、へ、へえ……とうなづくしかないのだが、彼女の活動によって南米の音楽への新しい門戸が解放されていくのもまた楽しい。






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伸びやかに澄む歌声は、土地や文化と優雅に戯れる自然体の歌姫、という形容に相応しい。それを支えているカンドンベ(アフリカ系ウルグアイ人のなかで伝えられてきたパーカッション音楽)のリズムは、なんだか大変なことになっており、ラテンのリズムとアフリカのリズムが融合してできあがっているマジカルな南米音楽の神髄をまたひとつ見せつけられてしまう。また「モンテビデオ・ボッサ」と副題がつけられた「Azur」でのウルバノ・モラレスや、「Vidala que ronda」でのカルロス・アギーレとの歌の共演も素晴らしい。






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黒沢清監督作品 『降霊』

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恐怖について書かれた文章はおそらくたくさんあるだろうけれど、そうした類いの文章に初めて出会ったのは岸田秀の『ものぐさ精神分析』の一説だった人は結構いると思う。かくいう私も、中学だったか高校だったかの国語の授業で、岸田が「怖いものとは、理解ができないものである」と書いているのを読んだ記憶がある。教科書に載っていたのかもしれないし、もしかしたら模擬試験の現代文にでてきただけかもしれない。とにかく読んだ記憶だけはあって、こうして記憶に残っているのはその説明が腑に落ちてしまったからなのだろう。ただ、腑に落ちてしまったからといって、理解ができない対象が怖くなくなるか、というとそうではなく、結局のところ、怖い! と思ったものを「これは何か得体の知れないものだから『怖い』のだ」と、外側にひとつカッコをつけることができただけで、相変わらず怖いままなのである。黒沢清の『降霊』もそうしてカッコを突き破ってギュンギュンに怖い映画でした。





幽霊の顔が見えないのが怖い。隙間から何かが覗いてるかもしれないから怖い。背景が映るのを遮っているものがなくなったらそこに何かがいるかもしれないから怖い。音楽が怖い。箱を開けたらなにかがいるかもしれないから怖い。こんな風に恐怖対していくつもの説明をつけることができるのに、どうして怖くなってしまうのだろう。あまりに怖くて画面に視線を送り続けられず、ケータイの画面からすでにこの映画を観ていた友人に「こえええええよ」とメールを送ってしまうぐらい恐ろしかった。自分が怖がり過ぎなのかもしれないけれど、映画を観終わっても怖かった……。ホラー映画ファンの方は、こういう映画をたくさん観て免疫や耐性をつけているのでしょうか。とても自分にはそうした抵抗力をつけられる自信がない。役所広司のな~んか主体性がないというか「お前がいいならそれで良いんじゃない(あなたの意思は尊重しますよ~)」という投げやりなダンナさんっぷりも、どこか自分をトレースされているようで恐ろしい。





なにか人には見えないものが見えてしまったり、人には聞こえないものが聞けてしまったり、といった自分に迷惑な才能はイーストウッドの『ヒアアフター』でも描かれていたけれど、本当にそれは孤独なものですよねえ。





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山善(YAMAZEN) 鼻毛カッター YNC-10:え、鼻毛カッターってこんなに安かったんだ?

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男の子は母親に似る、というのは遺伝子的な定説であって、私もその例に洩れず、ほぼ母親と同じ顔、しかもホルモン分泌までもが女性的であるらしく、つい最近まで毎日髭を剃るなどという習慣さえ身に付いていなかったわけですが、気がつけばアラサーにならんという年頃になっており、髭は毎日剃ってるし、鼻毛のケアなんかもしなくちゃいけない時期にさしかかっているわけであります。困りますよね、鼻毛。自分は九州男児であるがゆえ、外見などは気にせんとですよ! 男は黙ってソウルで女の股を濡れさせるとですよ! などとガイに振る舞える方はまだしも、困るのは一般的なT字剃刀ではそれない、鼻の穴と、鼻の下のマージナルな部分に毛が生えちゃったりした場合。抜くのは痛いですし、バイキンが入っちゃう、とか言うじゃないですか。そして奥のほうからはひじきみたいに長いヤツが成長してきてさ……。切るのも面倒だし、でも、処理しなければ奥さんに鼻毛がでていることでプププッと笑われる、あるいは、そっと黙殺されるわけで。いったいどうすれば良いんですか! と天を仰ぎたくなったりもするのですが、Amazonで鼻毛カッターを調べたら800円もしないで買えちゃうじゃないですか! そりゃ買うしかないだろ~、と買って使ってみて、良いね! と思った次第。





単三電池駆動のマイメンにエネループを入れてスイッチオン、ノーズのホールにイン! するとジョリジョリ、という音を立てて、ジョブがゴー・オンされ、一通りナニが終わって、ホールの内部を見てみるとそこには10代の頃のような、フェアウェイな状態が保たれている!! エネループの状態のせいか、電圧のせいか、トルクは弱めな感じでしたが、ちゃんと剃れる!! しかも、うまいことガードが働いてるせいで結構鼻の内面の部分を攻めにいっても傷はつかないし痛くない!!! ワンダフル!!!! というわけで、800円以下でこの快適さを手に入れられるなら、これで処理したほうが良いですよね、というお話でした。





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Lou Reed & Metallica/Lulu:どうしてこんな問題作が? どうして僕はこんなところに?

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ルー・リードとメタリカって同じアメリカでも東海岸と西海岸の文化の違いがあるわけで、しかもメタリカというバンドはちょっと貧乏な家に生まれた人や、世界的に活躍したテニス・プレーヤーの息子や、ものすごく色んな血が混じった人がいて、ちょっと珍しいぐらいメンバー間のバックグラウンドが共有されていない変わった大メジャーなバンド、なんですよね、それがユダヤ系のインテリであるルー・リードと組むということはさらなる文化的多様性が発生するに違いないのですし、ファンとしてはケミストリーを期待しちゃうわけじゃないですか。でも、この共作はちょっとお互いの持ち味を殺しあいまくった結果、マイルドになってしまい、どうにもこうにも問題作になってしまった感じがあります。とにかく冗長で退屈。おそらくルー・リード、メタリカの双方にとって、次のフル・アルバムを発表する際に「前作ではリスナーを困惑させたが、今作では汚名挽回」などといって踏み台にされること請け合いな出来でしょう。題材となっているのは、アルバン・ベルクの未完の歌劇《ルル》、そしてその原作であるフランク・ヴェーデキントの戯曲『地霊』ですけれども、どうして今、ルルなのか、例えばルー・リードが自身の人種的バックボーンであるユダヤを意識したとするなら、ベルクはそもそもユダヤ人じゃないそうですし、20世紀前半、19世紀末を引きずった前衛オペラの退廃を現在に甦らせよう、とするならば、はっきり言ってルー・リードのおじいさん化を象徴するものでしかないでしょう。だって、19世紀末にはインターネットはないですし、ポルノの氾濫も、LSDもないわけで退廃具合でいえば、ずっと今のほうが悲惨なんだもん。とにかく、今年一番のがっかりアルバムといったら、これになりそうな感じですよ!





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #13

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今回は第10章「16世紀における宗教的ヘルメス主義(Religious Hermetism in the Sixteenth Century)」を見ていきましょう。ここでイェイツが宗教的ヘルメス主義という言葉で指し示しているのは、魔術なし、純粋に宗教的で、哲学的なものとしてヘルメス文書の内容を取り扱う潮流のことです。これは主に16世紀のフランスで盛り上がっていたそうです。彼らはヘルメス・トリスメギストスを偉大な宗教的書物を書いた人物とする一方で、魔術的な部分については批判的で、また、そのなかでも『アスクレピウス』などのマジカルな内容は後に別な人によって挿入されてしまったもの、として捉えたんだとか。ヘルメスの教えが聖書に描かれた創造物語とあまりに類似していたことは、やはり重要に取り扱われていたようです。ヘルメス文書が古代のエジプトで書かれたものではなく、キリスト教が始まってから書かれたものである、ということが指摘され始めるのは17世紀に入ってから。16世紀の人々はまだ、ヘルメスの偉大さにハマっていた、といったところでしょうか。





このムーヴメントはルフェーヴル・デタープル(1455-1536)によって始まった、とイェイツは言います。彼はイタリアから新プラトン主義を輸入した人物でもあり、フィチーノやピコに批判的でありながら、1505年に注釈付きの、フィチーノ編『ポイマンドレース』と『アスクレピウス』を出版します。これにはルドヴィコ・ラッザレッリという人が1494年に書いた『ヘルメスの創造について(Crater Hermetis)』も含まれていました。その内容とはヘルメス文書の4巻を再構成したもので、彼の精神とともにある使徒についてのキリストの霊感をヘルメスの経験によって蘇らせる、という風に解釈したものだったそうです。ルフェーヴルは魔術については批判的でしたが、『ヘルメスの創造について』という本は1549年にフランス語版も出版され、フランスの聖職者たちのサークルで宗教的ヘルメス主義を盛り上げる結果となりました。





またフィンフォリアン・シャンピエールというフランスの新プラトン主義者は、フィチーノの信奉者でもありました。彼は1507年に『四原質の生命について(De Quadruplici Vita)』という本を出版しています。これはフィチーノの『生命についての書』を模倣したものだったそうですが、シャンピエールの本からは護符についての内容がすっかり削除されているのだとか。またこのなかでシャンピエールは『アスクレピウス』の魔術についての記述はヘルメスによるものではなく、邪悪な魔術師であるマダウロスのアプレイウスによってラテン語訳された際に挿入された、という主張をしています。これもまた宗教的ヘルメス主義を後押しする言説として、フランスで広く支持されたものだったようです。この本で重要なのは、ラッザレッリによるヘルメス文書の最終巻と目される文書のラテン語訳を収録していることにもありました。これはフィチーノが手に入れられず、訳せなかったものでした。





1554になるとトゥルネブスという人がヘルメス文書のギリシャ語版にフィチーノ&ラッザレッリによるラテン語版を合わせてパリで出版します。この序文ではヘルメス主義のキリスト教への類似に関する指摘は控えめですが、ヘルメスはファラオよりもモーセよりも前に生きた人物とされています。イェイツはここにヘルメスをより聖なるものとして、よりキリスト教的なものとして捉える傾向を認めています。この傾向は1574年にスカリゲルらによる訂正が加えられたヘルメス文書ギリシャ語新版(ベースはトゥルネブス版)を出版したフランソワ・ド・フォワ(François de Foix)によってより濃いものになりました。彼はヘルメスをヘブライの預言者を超え、使徒や福音の伝道者たちと同格の神の知識を持つ人物とみなします。モーゼ以前に生き、神の啓示を受けた人物であるヘルメスはノー魔術で、クリーン。悪い魔術はアプレイウスによって挿入されたものだ、という説はここでも繰り返されます。





ただし、こうした宗教的ヘルメス主義の盛り上がりによって、フランスにおける魔術的なものがすべて排斥されたわけではありませんでした。また、ここで批判されているアプレイウスの小説『黄金のロバ』に描かれた神秘的なモチーフは、近代の魔術師のモデルにもなっていて、それはジョルダーノ・ブルーノも同様であった、とイェイツは付け加えています。さて、宗教的ヘルメス主義の話に戻りましょう。そもそもフィチーノもピコもキリスト教神学に援用するために古代神学や新プラトン主義を用いていたことは先に見たとおりです。言わば、16世紀フランスの神学者たちの統合的・折衷主義的な古代神学への取り組みは、元々のフィチーノやピコとそう違うわけではない。しかし、魔術から古代神学は独立し、独自の発展を見せます。





イェイツはここで自身の『16世紀のフランス・アカデミー(The French Academies of the Sixteenth Century)』を紹介しています。ここが特に面白い。当時のフランスには、ノー魔術な古代神学の流れを組む神学者たちによって《詩と音楽のアカデミー》が設立されていたそうです。この学校は、古代の形式と考えられていたものよりも後の詩と音楽を評価することに注力していたんだとか。その目的はその詩と音楽を聴いた人にある種の《効果》を与えるためだったと言います。それは《呪文》とどう違うのか、という問題が浮かび上がりますが、イェイツはこの当時の魔術と芸術との境目を完璧にわけるのは不可能だ、としています。イタリアのメディチ家から嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシスはメディチ家の伝統を守り(?)、護符や魔術に興味を持っていたことで悪名高かったそうですが、彼女の1581年に開催した「王妃のバレエ・コミック」は、木星や金星の力を歌や音楽の呼びかけによって、天から召還しようという意図があったぐらいですから魔術と芸術は渾然としていたわけです。





さて、ここまでで言及されてきた人たちはみんなカトリックの人たちでした。しかし、プロテスタントの側にもヘルメス主義を使っていた人物も存在しています。そのひとり、フィリップ・ドゥ・モーネイ(Philippe Du Mornay)は1581年に『キリスト教の真性について(De la vérité de la religion chrétienne )』という本をアントワープで出版します。当時ヨーロッパは宗教改革とカトリックの対抗改革によって荒廃しきっており、モーネイはこの本のなかでヘルメス教に立ち返ることによって、これらの対立を何とかしようじゃないか、両サイドの狂信的な力の行使から抜け出そうじゃないか、というようなことを言ってるんだとか。やはりこれもノー魔術系のヘルメス主義であり、ここには当時のオランダにおける宗教的寛容主義への取り組みが反映されている、とイェイツは言います。宗教的寛容主義は、エラスムス主義が用いたところでもありますが、ヘルメス主義というまったく違ったところから、寛容主義が生まれているのが興味深いところです。





モーネイの『キリスト教の真性について』は、オランダにおける動きに共感していたというフィリップ・シドニー卿(Sir Philip Sidney)によって翻訳され、イングランドでも出版されます(途中でシドニー卿が死ぬので完訳はされず)。モーネイの本の引用はフランス語なのでまるで読めないのですが、イェイツは同じ部分をシドニー爵訳でも引用してくれています(ただし、中英語なので綴りが現代英語と違ってちょっと読みにくい)。そこではヘルメスが神について語ったこととして、否定神学的な神についての説明がなされています。また、シドニー卿はイングランドに赴いたジョルダーノ・ブルーノを歓待した人物でもあります。ここでさらに色んなことがつながってきて、ドーパミンがでてしまいますね。





この章でようやくジョルダーノ・ブルーノについて見ていくための下準備が整いました。どんだけ長い前置きなんだ、という感じですが……とりあえず今回はここまで。次からはもう少しペースをあげ、密度を広めにとってまとめていこうかと思います。おつかれさまでした。





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南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 @サントリー美術館

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ふたつの文化が出会い、それぞれのスタイルがマリアージュされることで新しいスタイルが生まれる。この現象はさまざまな領域において確認されることでしょう。例えば、大きな歴史でいえばヘレニズムが代表と言えるでしょうし、モンド・ミュージックの文脈において、テクノ歌謡などは一部の好事家に大変愛されたジャンルとして認められている。それらの魅力とは「一粒で二度美味しい」というお得感だけではなく、元々別れていたそれぞれのスタイルが止揚され、元々のものとは全く違った異形感が醸し出されていることにもあると思います。16世紀半ばからポルトガルやスペインが日本に持ち込んだキリスト教美術や西洋絵画の技法が日本画に影響を与え、日本人の手によって制作された南蛮屏風の世界もこの異形感で我々の目を楽しませてくれるものです。長崎歴史文化博物館の平岡隆二さんの研究*1に触れることで、かねてから南蛮美術に興味を抱いていたのですが、今回のサントリー美術館での企画展『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』は、そんな個人的なニーズにぴったりなものでした。





メインとなるのはタイトルにもある『泰西王侯騎馬図屏風』というヨーロッパやエチオピア、トルコなどの統治者を描いた屏風。この大作は、2つで1セットとなっており普段はサントリー美術館と神戸市立博物館とで別々に収蔵されているそうですが、今回は揃いで並べられて鑑賞することのできる貴重な機会と言えましょう。モチーフとなっているのはウィレム・J・ブラウというオランダの地図学者の世界地図にあった装飾で、これをもとに日本人の画家が制作したものなのだそうです。ほかの南蛮屏風は、描かれているものが西洋のものだけれど書き方は日本画そのまま、西欧人の顔はまるで黒船で来日した《ぺるり提督》のものだったりするのですが、この作品は《抜け方》が圧倒的でした。





しかし、一番のインパクトはキリスト教禁制下で制作されたものを紹介するコーナーにある『元和五年、長崎大殉教図』でした。こちらは長崎にいた日本人のキリスト教徒が迫害から逃れてマカオにたどり着き、そこで制作したものと言われているそうです。技法的に特別優れているものではないのですが、長崎でキリスト教徒と宣教師たちが見せしめに虐殺されている様子が一大パノラマで描かれており、かなりエグい。いままさに残首されようという瞬間や、すでに落とされた首が並べられているところが詳細に描きこまれていて、ものすごいパッション感。





海外から日本に入ってきた文化から生まれた美術だけではなく、海外の人が日本人の技術に注目して作らせた工芸品の展示もとても面白かったです。小型の宗教絵画をいれておく聖龕やトランクケースを蒔絵でギンギンに装飾させたものを海外の商人は持ち帰って売っていたらしいのですが、こういうのは17世紀のクール・ジャパン、とでも言うのでしょうか、工芸技術の高さは今見てもホレボレしてしまうものです。日本の美術・工芸に対して新たな見識をもたらしてくれる良い企画展だったと思います。






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アドリアーナ・カルカニョット来日公演 《サンバの微生物》 @よみうりホール

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とても良かったです。私にとってのアドリアーナ・カルカニョットは、美人なんだかそうじゃないんだかわからない、真面目なんだかふざけているだかわからない、暗いんだか明るいんだかわからない、でも、良いよね、聴けちゃうよね~、というブラジル人ミュージシャンなのですが、その魅力はライヴで観ても変わらなかったですね。濃淡や硬軟が多彩な無数のキャラクターを自在に操って、ステージ上で演じるようなパフォーマンスでした。最新作と前作はほんのりダークなイメージがあって、ダークな感じの人なのかな、鬼束ちひろみたいな……とか勝手に想像してたんだけれど、すごいチャーミングで。謎の振り付けで踊っているときの腰のキレや足の運びはさすがにサンバの国だな(黒人系のダンスとはまるで違うムーヴ)と思いましたし、でもその謎の振り付けもカッコ良いんだか、笑えるんだかわからない、という二律背反のなかで展開されている、という。ああ、なるほど、彼女が「女カエターノ」などと呼ばれるのも理解できるかもしれません。





バンドはドラムにドメニコ・ランスロッチが。シンバルなし、スネアとバスドラだけという異様にミニマルなドラム・セットから、えらいグルーヴをひねり出しており、もう大変なことになっている、っていうか、モレーノ・ヴェローゾとやってるときや、自分のソロでよりもずっとスゴいドラム叩いてるじゃないか、この人は、とびっくりしました。手数が多いとかではなく、ドラムによって空間を染めていく感じ、が良かったです。ただ、バスドラの音はデカ過ぎたんじゃないか、と。ベースと全面的に音がかぶってしまい、まったくベースが聴こえない、ギターもよく聴こえないよ、という非常に音のバランスが悪い状態がありました。あと、高音域で小さくノイズが乗ってたり、音がちょっと雑に乾いてる感じがしたり、音響面はちょっと残念だったかも。会場が古い、とかいろいろ原因はありそうですが。





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