黒羽清隆 『太平洋戦争の歴史』

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太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫)
黒羽 清隆
講談社
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昨今の情勢を戦争の暗喩で語る表現ほど凡庸で無粋なことはありますまい。しかしながらそれが凡庸である、無粋である、という実感こそが「それ比喩になってねーよ、マジで」というツッコミを呼び起こすのであります。つまり、比喩ではなく直接的な物言いではないですか、と。そんな現状であるからこそ、過去に我が国が総力を持って身を投じた戦争の歴史を参照するのは無駄ではないかもしれない……というのはまったくの後づけです。まあ「戦争の失敗からマネジメントを学ぶ本」(『もしもインパール作戦の前に牟田口中将がドラッカーを読んでいたら』)は普通にありそうですけれど、本書を読んで、太平洋戦争の歴史を振り返っても「リサーチは大事、情報命」、「リスクマネジメントはしっかり」、「収支の見通しを計算しながら事業を進めよう」とかホントに基本的なことしか学べないような気がしました。

タイトルに「太平洋戦争」とありますから先の戦争における中国方面の事情はほとんど省略されています。読んでいて素直に面白いのは前半部分の日本が戦争に至るまでの政局や外交模様、それから南方戦線でバカ勝ちしまくっているところですね。「えー、昭和天皇って結構戦争に乗り気だったんじゃん」とか「日米開戦って誘い込まれるようにして始まってたんだなあ」とか思いましたし(高校時代に日本史を真面目に受けていなかったため、なんか改めて勉強している気分)、開戦直後の快進撃は読んでるだけでアガってしまう。この勝ち方はアレです、パチンコでいきなりジャンジャラと銀玉が出てきてしまったときのアガり方に近い。

そこから後半はテンションが一気に盛り下がり、暗澹たる気持ちになるばかり。本書の記述は前半部分が密度が高く、後半のバカ負けしまくりシーケンスの部分はかなり端折って駆け抜けて行く感じがあるのですが、前半と同じ密度で負けっぷりを描かれたらちょっと東南アジアやグアム、サイパンあたりには恐れ多くて足を踏み入れられなくなりそう。そうでなくても歴史の重さを感じさせてくれます。

著者は敗戦時に国民学校六年生とあり、当時の記憶を自分史として綴っていますが、この部分はちょっとナシだったかも。もともと著者は杉並の割と裕福な家の生まれであって、疎開先であれこれひもじい、切ない、悲しい思いをした……とか書いているのですが、根が恵まれているせいか「これぐらいの話ならウチのじいちゃんの方が苦労していたわい!」とヌルいものを読んでしまった気分にさせられました。このほかにも随所で間奏曲的な文化史、風俗史の挿入があるのですが、そのどれもがあまりキマっておらず、変に読み物として射程を広げようとしなくても良かったのに……と少し残念。

戦略や政治に対する評価について、自虐史観的というか、日本はホントに酷いことをしたのだからもっともっと反省すべきだ! というトーンが基調として感じられます。それで変に感情が入っていたりすると「えっ」となる。占領下のアジア諸国において急激なインフレが起こった、という理由の説明に、横暴な日本人に対する現地人の憎しみが信用不安を……とか出てきたら「えっ」ですよね。「もっともっと反省すべきだ!」という考えには、はい、すみません、ごもっともです、と思いますが、歴史だけを読むのであれば、もっとクールな本が他にありそう。

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聖トーマス教会合唱団 & ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 @東京オペラシティ コンサートホール

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J.S.バッハ:マタイ受難曲

ゲオルグ・クリストフ・ビラー(指揮 / トーマス・カントール)
ウーテ・ゼルビッヒ(ソプラノ)
シュテファン・カーレ(アルト)
マルティン・ペッツォルト(テノール/ 福音史家)
マティアス・ヴァイヒェルト(バス)
ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)

恐ろしく久しぶりに海外オケの来日公演へ(おそらく高校時代に地元、福島で聴いて以来)。ゲヴァントハウス管の来日公演は、数年前リッカルド・シャイーの急病キャンセルで聴きそびれた記憶があるので念願かなって、という感じでした。ゲヴァントハウス管には近年シャイーによるマタイの優れた録音がありましたし、とても楽しみでした。

今回の指揮者のゲオルグ・クリストフ・ビラーは聖トーマス教会合唱団のトマスカントールで、普段から教会の礼拝や儀式を取り仕切る仕事をしている人物。シャイーの録音で聴くことできるモダンとピリオドのいいとこ取り的な演奏とは違い、合唱主導の厳かな演奏を聴かせてくれました。出てくる音、ひとつひとつに温度を感じますし、随所に現れるヴァイオリン、フルート、オーボエのソロにはオーケストラの上手さを圧倒的に示すものだったでしょう。ファゴット、チェロ、コントラバス、ヴィオラ・ダ・ガンバも見事でした。ソリストは福音家のマルティン・ペッツォルトが圧巻。

合唱団も流石の出来。最後のコーラスでは小さな男の子が明らかに挙動不審になっており(トイレを我慢していた可能性がある)かなり心配になりましたが、隣の年長の男の子が優しく自分の楽譜を見せてあげて「今、ココだよ」と教えてあげている姿が見られ、音楽そっちのけになりつつも大変心温まりました。ちょっとウィーン少年合唱団の人気が理解できたかも。

ありがたかったのは今回の公演が日本語字幕付きだった点。マタイによる福音書のテキストをもとに書かれた作品である、ということはもちろん承知していましたが、実際にそのテキストと相対しながら楽曲を聴くのは今回が初めての機会になりました(これまではテキスト抜きの、純音楽作品的に聴いていたわけです)。「《マタイ受難曲》は壮大な人間ドラマである」。今回はこうしたクリシェを字幕によって充分理解できましたし、有名な「ペトロの裏切り」の箇所では落涙を禁じ得ませんでした。これをやられてしまっては思わずプロテスタントに改宗、聖書のドイツ語訳をおこなったマルティン・ルターも浮かばれるであろうこと間違いなし。

特に、少年合唱に与えられる役割、安らぎをもたらす天使的でもあり、処刑されようとするイエスを汚く罵る民衆でもある、この二面性にやられます。福音家の叙述に導かれて飛び出す罵倒の言葉、それが極めて美しい声によって響く。この引き裂かれた美しさに聴き手はショックを受けるわけです。聴いてるウチに「今度はどんな酷いことを!?」とM属性も高まってくるわけですが。

また新約聖書の言葉について、イエスという存在についても考えさせられました。イエスはユダやペトロの裏切りも予見してしまうし、あらゆる罵倒や裁判時の不利な証言にも反抗を行わない。その代わり「お前はイスラエルの王なのか」とピラトに問われたイエスは「それはあなたがたが言ったことだ」と返します。ここにイエスの特異な他者性のようなものを感じました。

まるで鏡のように相手の行動を予見し、言葉を返す。イエスには何もかもがお見通しなわけで(彼がそうではないのは『エリエリレマサバクタニ』と叫ぶその瞬間だけのように思われます)、お見通しであることがイエスに対する人物に理解されることにより特異な関係性が生まれる。それはつまり、何もかもがお見通しな他者とは、果たして他者なのであろうか、もはや他者とは呼べないのでは、ということです。イエスが人々の罪を背負って死ぬことができたのは、これが理由だったのでは、とか考えました(フロイトの『モーセと一神教』みたいですね……)。


マタイ受難曲
マタイ受難曲
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礒山 雅
東京書籍(株)
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これも読んでみたくなりました。

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首都を歩こう《Tokyo Walkers》第3回(浅草 - 押上 - 両国 - 月島)

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毎度お馴染み流浪の散歩サークル《Tokyo Walkers》の第3回イベントが2012年2月26日に開催されました。今回は浅草からスカイツリーを目指して、両国を通過、月島でもんじゃ焼きを食べようというコースでした。当日は東京マラソンと開催日が重なり、集合場所の雷門前は大混雑。

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天気は生憎の曇りでしたが、仲見世商店街から浅草寺は観光気分を嫌でも盛り上げてくれます。この日、初めて浅草寺のお水舎に奉ってある像が高村光雲の作だと知る。

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お参りを済ませるたら、すぐにスカイツリーが目に入ります。

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言問橋からの風景。寒いのであまり人通りはなし。

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徐々に高まって行くタワーの姿。徐々に高まってくるテンション。

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いやあ、さすがにすごい大きいです。スカイツリーの根元までいくと結構人通りも増えました。が、ちょっと離れると全然人がおらず、また、ここから両国までほとんど何もなくひたすら歩きました。

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横綱町公園の東京都慰霊堂。勇ましい地名ですが、厳かな気分というか、ふらふらと迷い込むのが申し訳なくなってくる感じの建物が……。

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森下の「のらくろ〜ド」も寒いので、うら寂しい感じになっています。まるで、町の人たちが空飛ぶ円盤にみんな連れ去られてしまったみたい。

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「東京海洋大学」の略称は、「東海大」なのか「東洋大」なのか、それとも「東大」なのか……。

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相生橋にさしかかると、急に景色が開けます。周りにみえるのは新しい高層マンションばかり。東洋のゴッサムシティみたいである。

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ゴールです。おつかれさまでした。


ごちそうさまでした。

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3時間歩いた後、結局4時間ぐらい飲んで解散。最終的にタクシーに乗って月島から新宿へと移動したので散歩サークル感が薄れ、飲みサークルみたいになっていました(最後の写真はゴールデン街にて)。この日はおよそ10キロほど。「ブログを読んで興味を持って……」と参加してくださった新メンバーも登場し、ますます盛り上がってきています。《Tokyo Walkers》、次回のイベントは4月ぐらいの予定です(コースはまったくの未定)。職業・経歴・年齢などを問いません、普段は歩かないところを歩きながら和やかに会話したりすることに興味がある方、Facebookでメンバー募集をおこなっています。各イベントへの参加は都度任意ですのでお気軽にグループ参加申請を出してみてください。


過去イベントのレポート

首都を歩こう《Tokyo Walkers》第2回(沢井 - 奥多摩)

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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#12 リスペクトール『G・Hの受難 家族の絆』

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G・Hの受難 家族の絆 (ラテンアメリカの文学 (12))
リスペクトール
集英社
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旧ブログから続く「集英社『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む」企画をおよそ一年ぶりに更新できます。前回がドノソの『夜のみだらな鳥』で、更新日を見てみたら2011年の3月26日とある。大きな地震からほどなくしてあんなとんでもない小説を読んでいたとはにわかに信じられませんね。地震で頭がおかしくなっていたのではないか、と振り返ってしまう。それはさておき、12巻目はブラジルの女性作家、クラリッセ・リスペクトールの『G・Hの受難』という中編と『家族の絆』という短編集を収録。このシリーズでは唯一の女性作家であり(チリのイザベル・アジェンデとかは選ばれてないんですね)、また唯一のブラジル人作家ということで特異な一冊、と言って良いのでしょう。他の国がスペイン語圏の文学なのに対してブラジルはポルトガル語ですからとにかく研究者が少ない。そういう事情も相まって、この翻訳の刊行当時(1984年)、ブラジル文学の紹介が日本では遅れている、という嘆きが翻訳者による解説にはあります。こうした状況は今どうなっているんでしょうかね。ブラジルだとシコ・ブアルキの小説が翻訳されていたりしてビックリしますが、ほかの国よりも何が起こっているのか、どういう人がいるのかちょっとよくわからない。

再び、閑話休題。『G・Hの受難』は私が苦手とする「イメージの氾濫系」かつ「意識の流れ」全開の実験的実存小説で、これはかなりキツかったです。リスペクトールがブラジルを代表する作家だ! と言われて、いきなりこれを読まされたら、かなりの人がドン引きしてブラジル文学を敬遠してしまいそう。なにせストーリーらしきストーリーはなく、密室のなかでとある上流階級っぽい女性がゴキブリを見つけ、それを潰し殺して、その死骸を見ている間に嘔吐体験的サムシングと出会ってしまい、なぜかその死骸を口に含む、というあまりにあんまりなお話。その間、延々と独白的な意識の流れによって、なんだかよく分からない相手に対しての語りが挿入され、ほとんど狂った人が宛先不明で書いた手紙を読まされるような読後感。意識の流れとイメージの氾濫は、言語化されることで失われてしまうサムシングを伝えるための実験、とでも言えるのでしょうが、今になって読むと、まあ、そんなことって無理ですよね〜、とか思えてしまう。カッコ良く言うと「サルトル meets ヴァージニア・ウルフ」なイキフンですけど、今読むにはキツいかなあ、と。

『家族の絆』のほうは『G・Hの受難』よりはもう少し読みやすく、面白く読めるのもいくつかありました。が、基本的に書いてあることって一緒なのですよね。生活のなかでなんらかのサムシングがあって、そこで自分の存在に対する気付きを覚える、という一連のパターン。そうした流れが『家族の絆』に収録された作品のなかではとても日常的な振る舞いのなかで発生するので、実存小説の変奏曲みたいにも読める。日常からボコッとどこかで落ちてしまうところはレイモンド・カーヴァーの作品にも通ずるところがあるかもしれません。そのなかでも「世界一の小女」という、探検家がアフリカの奥地で出会ったとても背の小さな人間の写真を見たいろんな人の反応から、身勝手な善意的なモノが不気味に描き出される短編は異色作。



こちらは、リスペクトールのインタビュー映像。1977年の映像なので彼女が亡くなった年のものですね(52歳で亡くなっている)。この鋭いビジュアルと態度はブラジル国内ではなにかのシンボルになっている模様で、なんか舞台化もされてる模様。ポルトガル語なので詳細は不明なんですが、メリル・ストリープがリスペクトール役に挑戦するんだって?

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よくわからないが面白かったジャズ・フュージョン再発

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しばらく前から新宿のタワーレコードのクラシックとかジャズとかのフロアにいくと、エレベーターであがっていったちょうど目の前に50枚以上のCDが入る大きなCDプレーヤーがおいてあって、ジャズの廉価再発のシリーズが一挙に試聴できるようになっている。なかには「初CD化!」みたいなものも置いてあって「よくわかんねーな、誰だ、これは」と思いながら、カッコ良いジャズ・フュージョン系の音源を探して買うのがちょっと楽しい。本日はそこで買ったものから何枚かご紹介。

ミュージック・イズ・マイ・サンクチュアリ(聖域)
ゲイリー・バーツ
EMIミュージックジャパン (2011-12-21)
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ゲイリー・バーツはマイルス・デイヴィスのグループにも参加(『Live Evil』など)していたサックス奏者で、このソロ作(1970年)はソウル & ファンク色が濃厚な一枚だが、ほとんどスピリチュアル・ソウルと言ってもよろしいのではないだろうか、という。なにせ『Music Is My Sanctuary』である。ここでのゲイリー・バーツはヴォーカルまで披露していて、そのヴォーカルがサックスよりも達者に聴こえる……。参加ミュージシャンはエムトゥーメに、エディ・ヘンダーソンに、デイヴィッド・T・ウォーカーとかなりリッチな感じ。



アウト・オブ・ザ・ロング・ダーク
イアン・カー
EMIミュージックジャパン (2011-12-21)
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イアン・カーは「イギリスのマイルス・デイヴィス」的な扱われ方をしているジャズ・ロックの人で、彼が結成したニュークリアスは『In A Silent Way』期あたりのマイルス・グループを何倍も白っぽくして、ポリリズムを変拍子に置換して、水っぽい感じにしたグループ。1979年の『OUT OF THE LONG DARK』は、そうした性質が超ソフィスティケイトされたものとなっている。『Elastic Rock』しか聴いてなかったんだけども、これはイギリス・ジャズ・ロックの大名盤という感じがしますね。ソフト・マシーンの四枚目、五枚目に近いヌケ方をしている。



スカイ・アイランド
スカイ・アイランド
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カルデラ
EMIミュージックジャパン (2011-12-21)
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カルデラはリターン・トゥ・フォーエヴァーとウェザー・リポートに、アース・ウィンド & ファイアのギャラクティック・ソウルをフィーチャーした感のあるラテン・フュージョン・バンド、という感じらしい。アメリカに住んでたラテンアメリカ系のミュージシャンたちによって結成されてて、まあ、どこの国の色が濃いとかはないんですが、ラテン・パーカッションがガンガンに鳴っていれば「ラテンっぽい」というのは結構いい加減である。『Sky Islands』(1977年)はEW & Fのラリー・ダンがプロデュース、ジャケット写真は長岡秀星だそうです。


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Carlos Aguirre / Orillania

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Orillania
Orillania
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Carlos Aguirre
Rip Curl Recordings (2012-02-19)
売り上げランキング: 739

「アルゼンチンのネオ・フォルクローレ最重要人物」という仰々しい文句で知られるカルロス・アギーレの新譜を聴きました。名前だけは知っていましたが、フルのアルバムで聴くのは今回が初めて。この手の音楽にはまだまだ知らないことが多いのですが、今回のアルバムはアルゼンチン国内だけでなく、ブラジル、チリ、ウルグアイといった隣国のミュージシャンとのコラボレーションをおこなっているそうです。既発のアルバムは静謐な音楽が展開されるものだったそうですが、ひと味違うモノになっている、とのこと。

一聴して深く感じ入ってしまったのは「滋味のある音楽とはこういうものだろう、おそらく」ということ。アコースティック楽器の柔らかい音色中心の音作り、全体的に仄明るいような、自然光が窓から入ってきて心地よい……みたいな空気感。そこにカルロス・アギーレやゲスト陣のヴォーカルが花を咲かせるのですね。これが本当に素晴らしい。そうしたオーガニックな音楽ばかりでなく、マイケル・ブレッカーあたりを彷彿とさせるグッとセクシーに夜っぽい楽曲もあったりしてとても多彩です。

なんでもカルロス・アギーレという人は、都会を離れて、パラナ川という大きな河のほとりで暮らしているんだそうです。そういうところで暮らしていると、音楽もこういう感じになってしまうのでしょうか。彼の音楽を今こうして日本で私は聴いているわけで、それ自体はとてもグローバル! な感じがしますけれど、世界の繋がり方がどんどん簡潔になっていく一方、繋がった先にローカルな色の濃さが強くみえるのが興味深い気がします。

試聴はこちらで可能

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読売日本交響楽団 第512回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:オスモ・ヴァンスカ
アホ/ミネア(日本初演)
R.シュトラウス/歌劇〈ばらの騎士〉組曲
ブラームス/交響曲 第1番 ハ短調 作品68

今月の読響定期は北欧モノに定評があるオスモ・ヴァンスカが登場。今回の来日では同じフィンランド出身の作曲家、カレヴィ・アホの作品を取り上げている。このアホという作曲家、嘲笑しているわけでもないのに結果嘲笑しているような名前の人物として有名ではありますが、ちゃんと作品を聴くのは今回が初めてでした。たまたま弦楽四重奏の録音をラジオで耳にしたときは結構渋い感じの作品を書く印象だったのですが、この日に日本初演された《ミネア》はネオロマン派系の色合いが強くまた印象が変わりました。《ミネア》では、ころころと拍子が変わり、かなり複雑なリズムとアンサンブルの精度が要求されています。しかし、席の都合上、打楽器と木管ばかりが聞こえてしまい正直「とても難しい吹奏楽コンクールの課題曲みたい……」と思ってしまいあまり楽しめませんでした。

続くリヒャルトの演奏ははっきり言って精彩を欠いていたように思います。あれだけ普段肉食系の重厚な演奏をする読響がまるで筋力が足りない様子。アホの練習のし過ぎでアホになったのでは……と心配になってしまいますが(言いたいだけ)好みの問題も大きいですね。目立ったミスも無かったですし、ただ単にヴァンスカの芸風が自分の好みと全然合わない、と。これはメインのブラームスを聴いてガッツリと理解しました。

乱暴に言ってしまえば、ヴァンスカにとってはリヒャルトやブラームスと言った後期ロマン派も、シベリウスとパラレルなものとして扱われている、ということなのかもしれません。重厚なザ・ドイツ音楽のイメージに向かって内的なエネルギーが高まっていく、という巨匠っぽいアプローチがヴァンスカの解釈にはまるでない。内側からこみ上げてくるのは、そよ風のようなサムシング。放って置いても勝手に音楽は高まっていきますから最終的にはブラームスなんですが、そう考えたら二楽章、三楽章の内省的な感じ、牧歌的な感じはとても興味深く聴けたかなぁ。ブラームスのなかで後期シベリウスが生きる、みたいな。でも、全然好きな演奏じゃないので途中で帰ろうかと思いました。

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最近の試聴だけして買ってない新譜たち

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原則このブログでは買ったもの、読んだものを紹介するスタンスでしたが、クラシックについては「この曲、何枚もCD持ってるよな〜」という気持ちになってなかなか購入に踏み切れなくなったりしてしまうので、たまには試聴だけして買ってないものも紹介していこうかと思います。


庄司紗矢香が満を持してショスタコーヴィチのコンチェルトを録音。実演ではすでにいろんなオーケストラと演奏しており、Youtubeにもそのライヴ映像がアップロードされていますが、解釈を練ってきているな、という印象が伝わってくるような演奏でした。ここ10年のあいだでショスタコーヴィチの作品はかなり演奏機会が増え、このヴァイオリン協奏曲もほとんどポピュラーなヴァイオリン協奏曲の名曲として取り扱われているかと思います(第2番はかなり渋めなのでまだまだ演奏機会が少ないですけども)。しかし、それだけに録音に関してはオイストラフ、コーガン、オレグ・カガン、レーピン、ヒラリー・ハーンなどの良いものが揃っていて、私もオイストラフの演奏だけで3枚以上持ってるし、なかなか買い足すまでにはハードルが高いのですね。今回の庄司紗矢香の演奏はオイストラフの演奏に近いものを感じました。その印象はオイストラフ直系のザハール・ブロン門下、というイメージに引きずられている可能性は多々ありますが、恐ろしいクールネスやそれとは対照的な荒々しさでこの楽曲を押し通すのではなく、大変思慮深く、楽曲をモノにしてる感が非常に高かったです。第1番冒頭の沈鬱な表情からしてグッと引き込まれます。初めにこの楽曲のCDを買うなら、これをオススメしたい、という演奏です。私も何枚も同じ曲のCDを持ってなかったら買ってたでしょう。

ドビュッシー:ピアノのために
ブレハッチ(ラファウ)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2012-02-15)
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ラファウ・ブレハッチは2005年のショパン・コンクール優勝者。近年のショパン・コンクールはのぶカンタービレ! が話題になる一方で誰が優勝したかちっとも記憶にないんですが、こういう人もいたんですね、と。ポーランド出身で、なかなか端正な顔立ち、だが、年齢は若いんだか老けてるんだかよく分からないヴィジュアル。グラモフォンと専属契約を結んでおり、今回のドビュッシーとシマノフスキのアルバムは通算4枚目のアルバムとなるようです。シマノフスキは19世紀末から20世紀前半まで生きたポーランドの作曲家で、近年徐々に録音が増えてきている気がします。ドビュッシーの録音は、とても鮮やかなモノで、瑞々しく弾けるようなリズムのうねりが印象的でした。注目はやはりシマノフスキのピアノ・ソナタ第1番でしょうか。試聴で初めて聴きましたが、ショパンのロマーンを、ラフマニノフやスクリャービンのテクニカルな要素によって電気ショックをかけてパワー・アップしたごときすごい楽曲でした。これが作品番号8番、21〜22歳のときの作品ですから、時代に恵まれていたらリヒャルト=シュトラウスと同列に扱われ、20世紀のショパンとして愛されたかもしれません。ただ、こういうのって「すげえ!」と思う反面、リヒャルト=シュトラウスやコルンゴルトの初期作品みたいに「すげえ! けど、あんまり聴かない」という扱いになるので、買うのは見送りました。

Keyboard Music Vol. 3
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W.A. Mozart
Harmonia Mundi Fr. (2012-01-10)
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フォルテピアノのクリスティアン・ベズイデンホウトはモーツァルトの作品集第3弾を出していました(これは予算がアレしたら購入するかも)。古楽、なのに全然退屈しない演奏。まるでアーノンクールやブリュッヘンのようです。最近の鍵盤奏者ではアレクサンドル・タロー(彼はモダンピアノですが)とベズイデンホウトが好きです。古い演奏を新しく、スッキリした音で聴かせてくれる演奏家にグッとくる。

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アリストテレス 『動物誌』(下)

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動物誌 (下) (岩波文庫)
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アリストテレース
岩波書店
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およそ一年越しでアリストテレスの『動物誌』を読了(上巻の感想はこちら)。およそ2300年前の哲学者が書いた生物学についての体系的な書物、というのはかなり堅苦しい紹介文になってしまうけれど、アリストテレスの書物のなかでも屈指の面白さでしょう。「自然界は無生物から動物にいたるまでわずかずつ移り変わって行くので、この連続性のゆえに、両者の境界もはっきりしないし、両者の中間のものがそのどちらに属するのか分からなくなる」といった記述は、まさに存在の大いなる連鎖! という感じで、アリストテレスの連続性の原理を反映するかのようですが、この書物をアリストテレスの哲学のひとつとして読み解かなくとも「昔の人はいろんな動物の生態を見て、いろいろ考えたんだなあ」というトリビア的読み方でも充分面白いです。上巻では「ウナギは自然発生する!」という驚くべき記述が見られましたが、下巻ではどうやらアリストテレスの時代からウナギの養殖が行われていたらしいことが分かり、へぇ〜、とか思いました。今、ウナギのWikipediaの項目を読んでみたら、日本においては「山芋が変じて鰻になるのだという俗説があった」とのことですから、和洋を問わず、古来からウナギって謎だったんだなあ、とか感心しますね。下巻の動物の生態や気質についてまとめている部分は、さまざまな土地から集まってきた動物についての面白エピソードが集まっているので必見です。

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阿部和重 『シンセミア』

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シンセミア〈1〉 (朝日文庫)
阿部 和重
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シンセミア〈2〉 (朝日文庫)
阿部 和重
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シンセミア〈3〉 (朝日文庫)
阿部 和重
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シンセミア〈4〉 (朝日文庫)
阿部 和重
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久しぶりに長編小説を読みました。阿部和重の『シンセミア』は友人のあいだでもとても評判が良く、期待して読み進めました。序盤の説明的な記述がダラダラと続くところは個人的にしんどかったです、が、盗撮マニアの集団が「フィスト・ファックを撮影したい」という情熱を燃やし始めたあたりから一気に物語が加速しはじめ、そこからはとても楽しく読めた気がします。

山形県の神町という実在の田舎町を舞台に、町内政治と暴力と性と狂気によって物語が構築されていくフィクション、と一言でまとめられるでしょうか。登場人物ひとりひとりがフィクションを構成するモジュールとして積み上げられていき、クライマックスではそれらがすべてぶち壊される。慎重に積んでいったトランプのタワーを一気に崩す、というか、美しく積まれたシャンパンタワーを根元から金属バットで叩き壊す、というか、そうした破壊的な爽快感が素晴らしく、主要な登場人物が最終的にほぼ死亡する、という集結部はシェイクスピアの悲劇のようでもありますし、富野由悠季の『聖戦士ダンバイン』や『伝説巨神イデオン』を想起させなくもない。

地震、洪水、歓楽街で人々を跳ね飛ばすダンプカーなどまるで予言書のごとき記述が含まれ、近年の現実の慌ただしさに思いを馳せることもできましょう。この作品が単行本で発表されたのは2003年のことです。盗撮マニアたちが神町に張り巡らせようとした監視の目もまた、今の現実と呼応するかのよう。作品がこのような現実を想定してフィクションを構築したわけではないでしょう。むしろ、ここまで偽悪的に醜いフィクションを書けた、ということはこの物語が書かれた時代の現実がいかに牧歌的なものだったか、を示しているような気もする。

登場人物たちのセリフは音楽的に、訛りを文字化したもので綴られます。私は東北の生まれ(福島県で18年間暮らしました)ですから、この部分はネイティヴなものとして読めました。もちろん山形と福島とでは多少音や言葉が違いますが、この訛りを頭のなかで東北の音にできるかどうかは、この小説を楽しく読めるかどうかに大きく影響するのかも。

昼ドラ的なメロドラマの挿入もまた良かったですね。パルプ・フィクションであったり、キャンプなものであったり、エロもグロも全部入りの娯楽大作と感じました。

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隠岐さや香 「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと『政治経済学』」

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昨年『科学アカデミーと「有用な科学」 フォントネルの夢からコンドルセのユートピア』でサントリー学芸賞を受賞した科学史家、隠岐さや香さんの「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと『政治経済学』」(2001)という論文を読みました(ダウンロードはこちらで可能)。本文はとても短い作品であっという間に読めてしまうのですが、政治と科学との分業(と有機的な紐帯)や、数字を用いた合理的な政治的意思決定の萌芽を読み取ることができ、とても面白かったです。

1780年代の「政治経済学」とは現代の我々が考えるようなものとはまるで違う。このことがいきなり面白い。筆者は『王立科学アカデミー年誌及び論文集索引目録』に掲載された「エコノミー」分野の一覧を見ています。そこでエコノミーに区分されているのは、繭の脱色、穀粒の保存法、病院の移転事業、パンの公定価格、人口統計など雑多なものです。しかし、筆者はここにエコノミーという言葉の意味の転換を読み取ります。

もともと「エコノミー」はギリシャ語のオイコス(家)に由来するオイコノミ(家政術)から派生した語であった。しかし 一八世紀になると、(一)「家事をとり行う際に示される規則・秩序」、すなわち、いわゆる家政術の意味のみならず、(二)「ある政体が存続するための秩序」、すなわち、いわゆる「政治経済学」に代表される意味にも拡張されるようになっていた。

次に筆者は後者の政治経済学的な研究の例として「屠殺場移転」の問題をとりあげています。パリの中心部に屠殺場が存在していたという事実が意外で興味深いですね。とは言え、その屠殺場は臭いとか、不衛生だとか言われ続けて14世紀から問題視され続けていたそうです(家畜が逃げて騒ぎになったりもするし)。しかし、パリのお肉屋さんが「えー、屠殺場が遠くなるのウザい」とか言って解決しなかった。

1789年の屠殺場移転問題を扱った報告書では、前半で屠殺場が市街地にあることの不衛生さや人体への影響などを化学的に取り扱い、後半では郊外に屠殺場を移転した際のコストが肉の価格に乗ってくるであろう問題をどのように解決するかの経済学的な研究となっている。屠殺場、というケガレを遠くに置こうとする意識変化はエリアスの『文明化の過程』(実は読んでないケド)を彷彿とさせます。

しかし、筆者にとって重要なのはそこではない。「問題自体はそれ以前から存在していたにも関わらず一七八〇年代に入ってから」科学アカデミーの問題になったことです。この時期からフランスにおいて科学と政治が密に結びつきはじめた証跡として筆者はこの事象を取り扱っています。もともと科学アカデミーは政治や宗教に対しては慎重でした。学者は学問をやっていればよろしい、というこの態度が、徐々に変わっていったようです。フランスで生命保険会社を設立するにあたっては、コンドルセとラプラスが政策的提言に意欲的だった、という話が論文中には紹介されています。科学の合理性が政治に要請されはじめ、科学のほうでも乗り気になっていた、という変化がとても刺激的ですね。科学と政治が問われている昨今、読まれるべき歴史的研究なのかもしれません。



科学アカデミーと「有用な科学」 -フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ-
隠岐 さや香
名古屋大学出版会
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欲しい! けど、高価な本なので隠岐さんの別な論文を読みながら貯金します。

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Kip Hanrahan / AT HOME IN ANGER, which could also be called IMPERFECT, happily

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AT HOME IN ANGER
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Kip Hanrahan
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昨年末の来日公演にはいけませんでしたが、キップ・ハンラハンの新譜を買いました。ハンラハンといえばアメリカン・クラーヴェの主宰であり、ピアソラ晩年の大傑作アルバムをプロデュースした人物としても有名ですから、当然旧譜については何枚かチェックをしていたものの実は微妙に自分のツボからはズレており、それは主に「このヴォーカル、いるの……?」、「このポエトリー・リーディング邪魔じゃない?」というところで(もちろんそこには言語障壁があったりするわけですが)イマイチなんだかよく分かってない状態でした。本作のリリースに際してはもろもろのトラブルがあった模様。それらについては、以下のリンクを参照のこと。

さて、本作はどうだったかと言えば、ここで初めて良さが分かってきた、というか、聴いていて大変に気持ち良く、そしてズッシリとキた、という感じです。壮絶なラテン・パーカッションによるポリリズムは、もう大変なことになっている、として言い様がありません。とくに「Kuduro of Assassins and Laughter」は、なんですか。ラテンとアフリカが坩堝のなかで絶妙に混合し、リズム地獄的な様相を呈している。しかし、そうしたアッパーな楽曲ばかりでなく、詩情というかおセンチ系というか、色っぽさというか、それらが複雑に入り乱れたラテンの夜感覚にも溢れていて素晴らしいのでした。

ウクライナ移民とアイルランド移民のあいだに生まれ、ニューヨークでトロツキーと交流があったという祖父に育てられたキップ・ハンラハンという人物。こうした出自でラテンへと没入していく、というのが相当に複雑な感じがするのですが(彼はユダヤ系でもある)、当然その複雑さはマージナルなもの、引き裂かれたアイデンティティから生まれるサムシングを連想させ、なんか色々大変だったんだろうけれど、今、これだけエロカッコ良いアルバムを作ることができて良かったね、とか思いますよ、マジで。

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飯田泰之・中里透 『コンパクト マクロ経済学』

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コンパクトマクロ経済学 (コンパクト経済学ライブラリ)
飯田 泰之 中里 透
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「コンパクト 経済学ライブラリ」というシリーズは、大学の初学者向け講義でも使いやすいように書かれた経済学の教科書シリーズ。山形浩生がそのなかの『コンパクト マクロ経済学』をオススメしていたので手に取ってみたんだけれど、本当に良い本でした。本文がページの見開きページの左側で、右側にはグラフや図などが配置されていて、しかも本文とグラフの説明が基本的には見開きのひとつのタブローのなかに収まっている、という構成の読みやすさ(図を参照するために、ページを戻ったりする必要がない!)が驚異的です。内容もIS-LM分析の基本から、AD-ASモデル、それからマクロ経済学の発展史から戦後の日本経済史までをカバーしており、これまでいろいろとマクロ経済学の本を読みかじっていて、わかっていなかったモノ、なんとなく言葉だけ知っている感じだったモノへの理解が進みました。徐々にお話が難しくなっていくのは仕方ないとしても、その難しくなっていくスピードも適切。『要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論』と一緒に読むと、ケインズが何を言わんとしていたのかが一層理解できるような気がしました。昔、金融経済知識を問われる銀行員とか向けの資格試験を受けたときに単なる言葉の暗記レベルで覚えていた言葉たちが「世の中の仕組み」としても分かってとても楽しかったです。

この辺の本も読み返したいです。


経済学という教養 (ちくま文庫)
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経済学という教養



クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)
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今後の学習計画としては、もう一冊ぐらい教科書的なものを読んだら、マンキューの経済学かクルーグマンの大きめなテキストに手を出そうかなあ、という感じ。

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ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(3)

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(承前)

結果を中立化してシンプルにした経済的な決定もよくわからないのであれば、そもそも最適化の原理を諦めて新しい決定モデルを作るべきなのでは、とルーマンは言います。ここで新しいモデルとして提案されるのがサイモンの「満足化決定モデル」でした。この満足化決定とは、ある一定の要求水準(満足化条件)を満たすことをやりましょう、ということです。これもとても日常的なことですが、ルーマンは、じゃあ、そうした日常的な試みがどのようにしたら合理的と呼ばれるようになるのか(どうしたら経済的な合理性基準の代わりになるか)について検討しました。

満足化決定であってもなにをして、なにをしないのか、についての選択は発生するわけです。だから、その選択が合理的であるためには基準を作る必要がある。そして、その基準は「具体的な目的を一つ決めてそれを優先するのではなく、抽象的な判断基準を設定しておき、当の決定が実現するすべての結果を、それに照らして検討する」というものになります。それって、これまでダメ出しされてきたものとどうちがうの? これに対してのルーマンの回答は「基準が行為を決定するという関係ではなく、基準が行為を統制する」という言い回しになっています。これにより満足化決定においては、基準によって唯一の目的が決められるのではなく、決定が状況に合わせて「交換可能なものとして体験される」ことになる。

最適化モデルでは、最適な一意の解を導き出すのが大変、というかこれは不可能。満足化なら要求を見たしているならまあ、OK。そのなかで複数解があるならそいつらを「交換可能なもの」として比較検討したうえで、決定が行われる。最適なものはそもそも求められていないので、決定者が持っている現実的な合理的能力でなんとかなる。実際行政でおこなわれてるのもこういうことなんだよ、とルーマンは言っています。最適解ではなく、満足解。行動の弾力性と適応能力も得られるし、状況はいろいろ変化していくものなのでマスト感が高い。

ここで満足化モデルを採用する場合、そのモデルのなかで決定を行う人は、満足条件という他者から与えられた行動期待を体験することになる。では、そうした行動期待ってどういうものなのか、というお話をルーマンはおこなっている。ここでのお話は、アメリカの産業社会学の影響が色濃く(あ〜、経営社会学の講義でこんあの聞いたなあ〜、とか思う)し、『新しい上司』のなかにも同じような話が出てくる。ルーマンは、行動期待を公式の期待と、非公式の期待との二つに区分する。公式な期待というのは、定式化されたもので、職務が最低限やらなくてはいけないこと、とされること、つまり最小限の満足化条件となる。

公式な期待とはあくまで最小限の満足化条件なので、実際にはこれに加えて非公式な行動期待が大量に存在する。この具体的な例示がとても面白いので引用しておきます。
たとえば法規則には、長すぎもせず短すぎもしない適切な書類作成時間とか、決定の準備中はどの程度情報を隠蔽しておくのが適切かといったことを定めた、行政決定の方式についての非公式基準が存在する。これらを知らなければまったく仕事にならないため、新人行政官は何よりもまずこの非公式基準を覚え込まなければならない。
行政官も大変である。こうした複雑な状況で仕事しなくちゃいけないときに、満足解が複数あるのはとても役に立つ。また、満足化条件を変数として扱うことによって、満足解が見つからない! というときには「すみませ〜ん、ちょっと条件を緩めてもらえないですかあ?」と条件のほうを変えることもできてグッド。期待と実績が調和することは社会的に重要で(調和すると安定する)、調和しなかった場合の例示もとても面白いので引用。
両者の一致を社会的に保証することに失敗すると、(仕事の困難度の評価が人によってまちまちになったり、他人からの期待との乖離が強まったり、その他いろいろな理由で)要求水準と実際の仕事との不一致が常態化し、決定者は感情的な行動に走ってしまうことになる。つまり攻撃的になったり、怒りっぽくなったり、無感動になったりと、様々な神経症的行動を見せ始めるか、あるいは自分の緊張を突然あらぬ方向に発散したりするようになる。自分の行動が制御できなくなるのである。もちろん感情一般が体験を安定化する役割を持っていると言えるならば、この種の感情的反応も安定化機能を果たしているということにもなるが、それは個々の人格にとって必要な機能であって、社会的秩序に必要ということではない。
無茶な仕事を振られても、ゲェーッ! となるだけでイクナイ! ということでしょうか。しかし、こうして満足化条件を変えたりできる、ということはその条件設定もまた決定が必要なものであり、合理的な満足化モデルを採用するにあたっては、満足化条件もまた合理的に決定しなくてはならない。ただ、それは行政のお仕事ではなく、議会であったり、裁判所のお仕事である。では、満足化条件を満足化させる基準って……? ひとつは過去を参照することによって、前よりも良くしよう! という基準ができる。ただし、それだけじゃ足りない。そこには「その決定が正しいと言えるための合理的な基準」が欠けている。

その欠けた部分を提供するのが、今後の行政学理論の務めなのであ〜る、とルーマンは言います。で、その有望なアプローチが「国家と行政の機能理論」である、と。「この理論では、組織的な共同生活の存続、つまり組織の存続に資するような結果を導く決定が、満足な決定だとされる」んだとか。昔だったら、国家や社会が目指すべきたったひとつの目的が真理のように捉えられ、そこに向かって進むべし! という言い方ができた。でも今はそんなのないし、秩序を持った共同生活を維持するためのものが満足化条件の基準となるんだって。で、さまざまな組織を機能として考えることによって、交換可能なものはないか? とか、もっと良いものがあるんじゃないの? という分析が可能になるよ! というお話は『行政学における機能概念』にも出てきましたね。

(おしまい)

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mmm(ミーマイモー) / ほーひ

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ほーひ
ほーひ
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mmm ミーマイモー
Kiti (2012-02-02)
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宇波拓の全面バックアップにより製作された『パヌー』から二年、mmm(ミーマイモー)の新譜を聴く。今回のアルバムも引き続き、宇波拓のプロデュースによるものでHoseやインセクトタブーなどでの関連ミュージシャンが多数参加している。全体的な音は前回よりもずっとバンドっぽい、というか、商品っぽい音楽っぽさのなかにまとまっている印象があるが、mmmの野性は少しも失われていないのだから素晴らしいのだった。心地よく、そして力強く、楽しさが全開になる音楽である。


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ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(2)

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(承前)

価値観点はダメだ! となると、量的な評価基準を採用するのはどうだろう、という検討が次におこなわれます。結果間の比較を統一的な価値尺度、例えばお金、の大小比較によって最適性を導き出してはどうか、ということですね。しかし、ここにも可測性の限界があるとルーマンは指摘しています。量的な評価をおこなうといっても、すべての結果が同一の測度で量化なんかできないでしょ、というのがここで問題になるのですね。家を建てたときの便益と、物置を建てたときの便益をお金に換算なんかできないでしょ、と。仮にそうした数値化が可能な数式があったとしても、そんなのイチイチお役所でやってたら「経済的な決定の計算にかかる費用が高すぎる」 = 合理的な決定をおこなうことが非合理になってしまう。この部分、とても面白いんですが、この論文が書かれた1960年時点と現代では計算コストはかなり下がってるのでなんでも数式化できたら必ずしも非合理にならないような予感もする。

価値も量もどっちもダメなら両者を組み合わせるというのもダメ。「ある部分については価値によって質的に比較し、別の部分については量的に比較するというのでは、完全に恣意的だと言わざるをえない」というのがその理由になります。もう最適化決定モデルはどうやったってまるごと役に立たん、というわけですね。第一、結果を比較するには二つのパターンしかないわけです。特定の手段を前提として、何が結果として考えられるか。それから、目的を固定したうえで、どんな手段があるか。どちらかの観点に固定しなければ比較は不可能でその観点の選択がすでに恣意的になってしまうのでよろしくない。また、あらかじめ前提を決めても比較対象が多過ぎて決められないし、どの時点、あるいはどの程度の期間の結果を考えるのかによっても変わってくる。

もうここまでで大体話が見えてきましたが、いろいろ複雑なもんであらかじめ最適な方法を選択するなんか無理、というのがルーマンの見立てになっています。ただし、最適性を捨ててしまうと、どんなことでも決定された時点で経済的、というわけのわからないことになってしまうので経済性は保持したい。そこでルーマンはハーバート・サイモンの提案を検討します。

まずは決定とはどのような過程でおこなわれるかを再検討。すべてを比較するのは不可能なので検討すべき結果を絞り込みます。そもそも重要じゃない結果は考慮から外す。残ったものは「中立化した結果枠」のなかに残り、そして決定の際には手段か目的かのどちからじゃなくて、両方があらかじめ決まっている。すると、決定のデメリット、別なことをやってたら得られた別な利益は思考の範囲外となる。こうしたプロセスはすでにプログラム化されている、とルーマンは指摘する。改めて言われると難しい感じがするが、普通だ……。次のルーマンの記述も普通だが、改めて言われるとなんか面白いので引用しておこう。

このプログラム化と結果の中立化というのは、実は行政の現場では誰でも知っている日常的な現象である。これは予算という制度のためである。たとえばある役所に、学校新築の名目である金額が割り当てられた場合、役所としてはこの予算を手段として、金額の許す限り豪華な学校を建設することが、可能であると同時に義務(!)でもある。学校をもう少し質素なものにすれば消防署にもう一台消防車をを入れることができるのに、などと考えることは許されない。だから財政年度末が近づくと、出張費は不足しているのに局長室の絨毯はすぐに新調されるといった事態が起こることになる。

これで決定プロセスは実践に耐えうるようになる。決定者が考慮すべきことは与えられた手段(予算)でどれだけのことをするか。そして目的がどれだけ具体的なものかに限られてくる。ただし、ここに問題がたくさん含まれているのは明らかだ。すでに触れている特定のイデオロギーの問題がでてくるし、そもそも予算をどうやって決めるんだ、という話にもなる。私企業ならまだしも、行政ではダメだ。ここではそのダメなところがいろいろ例示されているんだけれど、今お役所というところに投げかける批難と通ずるものがあって、面白いです。

(続きます)

追記:ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(3)

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ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(1)

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ニクラス・ルーマンの1960年の論文「経済的な行政行為は可能か?」を読みました(翻訳はたけみた先生こと三谷武司さんの私訳版。読みたい方はルーマン・フォーラムの「いちから読む 最初期ルーマン読書会」か、三谷さんにお問い合わせください)。最初期ルーマンの論文についてはこれまで「行政学における機能概念」(1958)と「新しい上司」(1962)を読んでいますが、どうやったら意思決定・行為決定が可能なのか、どうすべきなのか、を検討するこの論文はとてもその後のルーマンっぽいと感じました(……とか言いながらルーマンを熱心に読んでいたわけではないですが)。

論文の内容については、タイトルにある通り。合理的な行政が求められてはいるけれど、そもそも合理化のための統一理論がないので行き当たりばったりになりがち、そもそも合理的に行政が何をするか決定するためのモデルなんかあるの? 経済的なことが合理的と言われるけど、それってホント? という検討からはじまっています。ルーマンによる「経済的」あるいは「効率的」の整理はこんな感じ。「所与の目的を最小の費用で達成する、あるいは一定の手段で最大の利益を上げる行為である」。

これ自体はとても常識的な基準だが、この経済的な基準をルーマンは「ある因果関係と他に可能な因果関係とを比較して評価するための基準」と呼ぶ。もうこの時点でギョッとするような言い回しで困るのだが、ある因果関係(技術に定評があるA工務店で、家、または物置を建てる)とある因果関係(安い早いが売りのB工務店で、家、または物置を建てる)を比較する基準とか具体化すれば良いのかな。今、家を建てたほうが良いのか、それとも物置を建てたほうが良いのか、A工務店を使えば良いのか、B工務店を良いのか。こうしたときに、考えるべきことが結果間の比較に限定することで分析は単純化する、ともルーマンは言う。

この例だと組み合わせが四つだけど、まあ現実には無数の結果集合があるはず。そこから何かを選ぶとき、よくやるのは価値観点を採用することだ。この価値観点とは「ある行為が実現する複数の結果の中で、特定のものに価値を与え、それを目的として正当化する」ことだ、とルーマンと続けています。その決定が最適だったら、それが合理的と評価される、と。そこでの最適とは結果間関係を最適化することが目指されます。「選択された行為が実現する有益・有害な結果集合と、他に可能なすべての行為がそれぞれ実現する有益・有害な結果集合との比率が最適」が理想。

しかし、こんな風に合理性を捉えるとすぐに比較に無理が出てきます。大体、すべての手段と目的を比較する尺度なんかないですし、あるとしたらそれはなにか別なイデオロギーが働いているハズです。そしてそうしたイデオロギーが決まってしまうと、矛盾しない価値順序ができてしまいそれは変更できなくなっちゃう。「安いのがイイ!」とか「高くても信頼性があったほうが!」とかそういうのがここではイデオロギーとして働いてしまうのですね。するとすべての結果集合を比較して最適を選ぶ、というのはなし崩しになってしまう。

(長くなってきたので、続きはまた今度)

追記:ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(2)

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フランコ・サケッティ 『ルネッサンス巷談集』

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ルネッサンス巷談集 (岩波文庫 赤 708-1)
フランコ・サケッティ
岩波書店
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十四世紀のフィレンツェに生まれたフランコ・サケッティは自分が見聞きした面白いお話をまとめて『短編小説三百篇』という本を書いたそう。本書はそのなかから七四篇が訳出されています。サケッティ家はフィレンツェでは大変な名家で、ダンテの『神曲』にも名前がでてくるような(解説より。たしかに出てきたような気がする)由緒正しき家柄です。しかし、フランコ・サケッティが集めた話ははっきり言ってなんの教訓もない、面白おかしいものばかり。由緒正しき家柄なのに、こんなんばかりで良いのか、と心配になる内容でした。とくに猥談のレベルがかなりひどい。スポーツ新聞のエロ・コーナーと程度が同じに感じられ、性が笑いへと転ずるという現象は普遍であるな、とさえ思います。吝嗇や堅物がバカにされるのは落語にも通じるところです。とても面白かった。

こうした古い笑い話を読んでいると、逆にまったく意味がわからない、単なるキチガイ沙汰にしか思えないエピソードにも出会うのですが、その意味の分からなさも楽しいんですよね。なかでも第四〇話の飛び方がすごいです。この話は妻の尻に敷かれっぱなしで、下男や下女にも馬鹿にされている主人があるとき、キレてしまい、倉庫にあった鎧でフル武装のうえ暴走、家のものを破壊しまくるは、家の人を刀の峰で殴りまくるは……というものなんですが、オチらしいオチもないのでただ単に「人を虐めすぎると、キレたりすることがあるので怖い」という話になってしまっている。

また、昔だから男尊女卑があるのかな、と思いきやそうでもない、というのも面白いです。第四〇話の例にもありますが「おかみさん」というのがとても強い存在として活動しているのが意外だった、というか。女性の貞淑さや慎ましさは、あくまで騎士道小説にでてくる「女性の美徳」であったのかもしれません。旦那さんとのセックスを楽しみすぎ、旦那さんが病気になったり、とまさに「骨抜き」にするような女性が多々でてくる。その生き生きとした感じが良いな、と思えます。

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ブライアン・イーノのリマスター盤を今更買う

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Music for Airports: Ambient 1/Remastered
Brian Eno
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Thursday Afternoon: Remastered
Thursday Afternoon: Remastered
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Brian Eno
Virgin Catalogue (2009-07-06)
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人に貸したら戻ってこなかったCDをわざわざ買いなおす、というのはアホウみたいなことだけれど、買いなおしたものがリマスター盤であって、実はもともと持っていたものが違う、となると「まあ、良いか」と思える。今回なんとなく買いなおしたブライアン・イーノの二枚はいずれも2004-2005年のリマスター盤。『Music For Airports』のほうはもう五年以上イーノ盤を聴いていなかったので(Bang on a Canの演奏では聴いていた)もはや前の印象が定かではないのだが、曲間のブランクが前より長くなってないか……? 三〇秒ぐらいブランクがあるので一瞬、プレイヤーが壊れたのかと思いました。音のほうは、もともとの音源が悪くないですからね、そんなに変わらない気がするんですが、各楽器の音がクリアになって、低音が前より豊かに出てるかな〜、という感じ。しっかし、どちらのアルバムも音楽の究極系というか、こんなに聴いてて何の感情の隆起もなく、ただ美しく、フラットな感じで「いいよね〜(ぽわわん)」という音ってないですよね、という内容で改めて素晴しいな、と思いました。近年Warpから活発にアルバムを発表しているイーノ御大ですが、な〜んか微妙なモノが多いので、退行、と思われても構わないから最新機材でのこういう音楽を聴いてみたいなあ、あるいは、『Before And Afeter Silence』みたいな路線でも良いので、と思った次第。

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クリント・イーストウッド監督作品 『J・エドガー』

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二九歳でFBI長官の座につき、四八年間その座に留まりつづけたジョン・エドガー・フーヴァーの伝記映画。近年のイーストウッド作品のなかでは異色とも思えるほど表面的な静けさが印象的な作品だったと思います。フーヴァーは暴力、無秩序、違法行為を憎む愛国者であり、守るべき秩序を守るためには暴力も辞さない、という内的な矛盾(その難しい人間性にはマイルス・デイヴィスを想起させられます)を抱えながら、FBIを強固な組織へと作り替えていく。そのストーリーはもっとドラマティックであっても良いと思われるのに、葛藤であったり、戦いであったり、という見せ場がほとんど画面上には現れず、水面下でおこなわれているように見えます。フーヴァーが実際に暴力に晒されるのはわずかにワンシーンしかなく、それゆえにそのシーンの破裂感は素晴しいものがあります。

劇中で使われる音楽もダンス・シーンでのジャズで、重度のジャズ愛好家であるイーストウッドらしいな、と思われましたけれど、J・S・バッハの《ゴルトベルク変奏曲》が使用されているのがとても印象的です。イーストウッドの作品でこれだけテーマがはっきりしているクラシック楽曲が使用されているのもあまり思いつかない。とくにイーストウッド自身で書いているスコアがいつもの明確なテーマをもたない、まるでブライアン・イーノのアンビエント・ワークのごとき楽曲ですから、余計に目立つ気が。

若い頃と晩年というふたつの時間軸を何度も交差しながら映画が進行していきます。その交差の瞬間の演出が毎回面白くて良かったですね。「はい、ここから回想ですよ〜」という感じで進むのではなく、毎回ちょっとした仕掛けがある。晩年フーヴァーがエレベーターに乗って、ドアが閉まる、次にドアが開くと若くなってる! みたいな演出は、まるで魔法のエレベーターのようで楽しい。晩年時代のシーンは役者が特殊老けメイクをすることで撮影されていますが、クライド・トルソン役のアーミー・ハマーなんかまだ二五歳なんですよね。そんな歳で死にそうなジジイ役かよ! と思うんですが、でも良いんですよ。ディカプリオ以上に良かった。

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平岡隆二 「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」

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平岡隆二さんの名前を初めて知ったのは『ミクロコスモス』に収録されている「画家コペルニクスと「宇宙のシンメトリア」の概念 ルネサンスの芸術理論と宇宙論のはざまで」という論文を読んでからでした。現在、平岡さんは長崎歴史文化博物館の主任研究員をされており、研究領域は「欧・日・中を中心とする東西交流の観点から見た科学と思想の歴史」とあります。最近になって南蛮芸術に興味を持ちはじめたのはこの研究業績に触れたからでもあります。本日は平岡さんの論文「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」(書誌情報やダウンロードはこちら)を読んだのでそのご紹介(なお、さん付けで呼んでいますが面識はありません)。もうタイトルからして面白そうな雰囲気が漂っていてすごいですね。

十六世紀後半にイエズス会宣教師が来日し、熱心に布教をおこなったこと、その中心人物としてフランシスコ・ザビエルという人物がいたことは小学生でも知っている史実ですが、そのとき来日していたイエズス会宣教師たちが日本に西洋の宇宙論を輸入したこと、それが日本人が西洋の科学に出会う嚆矢となったことも重要です。この論文では、そこでイエズス会宣教師たちがなぜ日本に科学を持ち込んだのか、を詳細に見ていきます。

この論文が辿るポイントは、副題の「好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」に現れています。まず、日本人がそうした新しい知識に対して強い興味を抱く人びとだったことが遡上にあがってくる。海外から来たものをありがたがる風潮、これは十六世紀の日本でも同様だったのかもしれません。『日本史』という本を書いていることで有名なイエズス会宣教師、ルイス・フロイスは八十歳近い年老いたお坊さんが自分のところにきて、あれこれ話を聞いて帰ったという例を伝えている。この論文がとても面白く読めるのは、こうした事例がかなり詳しく紹介されている点です。そこでは当時の日本人の考えについても言及されている。

例えば月の満ち欠けについて、当時の日本人はどう考えていたか。当時の日本人は、月には三十人の羽衣を着た天女がおり、十五人は白衣、十五人は黒衣を着て、毎日入れ替わりせいで月に立っているのだ、と考えていたそうです。つまり、十五人全員が白衣の天女であればそれは満月、ということですね。すごいファンタジー。もちろん、それらは西洋の宇宙論からしたら鼻で笑うような考え方です。ただ、重要なのはすごいファンタジーの世界を反駁され、西洋の宇宙論を知った日本人がどういう反応を示したか、なのです。なんと当時の日本人は「え〜、なるほど〜」と理性をもって理解し、宣教師さまはすげえなあ、と感心していたのでした。だからこそ、よし、日本人は見込みがあるぞ! とイエズス会の人たちも思ったに違いありません。来日宣教師の重要人物のひとり、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは来日以前に出会ったインドの人びとに対しては「一人残らず無知で、いかなる種類の人文諸学も自然科学もしらない」とdisっている。日本人は特別視されてたんですね。

では、どうしてイエズス会宣教師たちは宇宙論・天体論を日本に持ち込んだのでしょうか? 世界ふしぎ発見的な問いかけですけれども、そこにはちゃんとした意図があったのですね。ペドロ・ゴメスは日本にあった神学校、コレジオで学ぶ神学生たち向けに『天球論』という宇宙論の本を書いている。どうして宇宙論への理解が必要なのか、と言えば「可視世界の深い理解から、不可視的創造主への認識へと至らしめるため」でした。こうした宇宙への理解が、神への認識へと人びとを導き、これまでは好奇のまなざしで西洋の知識に取り組んでいた日本人が、本当の意味でキリスト教を理解するのを促進するであろう、と彼らは考えた、ということです。論文のなかでは、そこでイエズス会宣教師たちが用いたロジックにスコラ学や人文主義の影響があったことも確認されます。

最後の部分は当時のイエズス会宣教師たちが最高天(エンピレウム天)と天国(パライソ)を同一の場所であると説いたことに関する考察になります。ここでは当時の日本人イエズス会宣教師(!)不干斎ハビアンのパライソ論が参照されているのですが、ここが最高に面白い。大体、日本人イエズス会宣教師かつ元禅僧、かつその後は転向してキリシタン弾圧に協力したというハビアンのプロフィールからして興味深過ぎなのですが、ハビアンの説かれるパライソが実に理解が深いもので、しかも仏教で説かれる天国(極楽)との比較までついている。彼のパライソ理解には理性と信仰が結実したイエズス会の目論み通り感があるわけです。まず、そんな日本人がいたのか、というのが驚きでしたし、昔学研の歴史まんがで読んだような「武士が支配する社会は不平等だけど、宣教師さまたちは全員平等と言ってくれるダア〜」という素朴な日本人キリシタンの姿が揺さぶられるようなお話だと思いました。


不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)
釈 徹宗
新潮社
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ハビアンについてはこんな本も出ているので、是非読んでみたいところ。

平岡さんの仕事はラテン語だけでなく、江戸時代の邦文やイエズス会宣教師が書いた日本語の文章も読みこなして使われていて、はっきり言って今の私にとってはそうした江戸時代の日本語よりもラテン語のほうが楽に読めるので「すげ〜、プロの学者だ〜」と驚嘆してしまうところ。南蛮関係のマージナルな面白さをできるだけ生の感覚で見せてくれるような面白さがあります。

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