DCPRG / Second Report From Iron Mountain USA

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SECOND REPORT FROM IRON MOUNTAIN USA
DCPRG JAZZ DOMMUNISTERS SIMI LAB アミリ・バラカ 兎眠りおん
ユニバーサルミュージック (2012-03-28)
売り上げランキング: 195

復活後DCPRGのリリース第2弾。スタジオ・アルバムとしては今回が初で、DCPRGファンにとっては待望の一枚だったと思います、が、色んな意味で期待を裏切る内容、というか。そのうち最も目立つのがヒップホップとの接近であり「音楽はなんでも聴くけど、ヒップホップだけは敬遠してる派」にとっては青天の霹靂とも言える出会いを生んでいるのではないか、いやはや、これが「日本人のラップなんて偽物」などというあまりに貧しい反応を引き出さないと良いのですが。あらゆる輸入音楽への日本人の取り組みに対する『偽物である』という批難のなかで、ヒップホップに対するものだけが妙に長生きしている、のは日本にスラムやゲットーが存在しなかったからなのではないか、とか考えつつも、しかし、本作の雑食性、ジャズ、ファンク、メタルがガンボのごとき混合(とくにフレーズはバリンバリンのメタルである大村孝佳のソロがメタルなのにユレている、という恐ろしさ)を見せるのは、今生まれつつある日本のダークサイドの様子を映し出すかのようでもある。それにしても、すごいですね、新体制になってからポリリズムが以前よりもずっと聴取しやすいようになっている、という印象はありましたが、スタジオ盤でもそれは同様で、ここでは踊りながらのリズムの構造的聴取が可能なのであって、熱狂しつつどこまでも醒めているというこの二律背反は、ラップの歌詞が文字で確認しないとわからない(聞いているのに、聞いてない)という矛盾と重なっているのかもしれない。

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進士五十八 『日本の庭園 造景の技とこころ』

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日本の庭園 - 造景の技術とこころ (中公新書(1810))
進士 五十八
中央公論新社
売り上げランキング: 33021
著者は元東京農大の先生で、行政や官公庁の環境づくり・町づくりとかを検討するいろんな委員会で委員を勤めておられるお方。その道では大変偉い人物、ということになるのだが、この本はちょっと……。まず、人工的な都市設計に疲れた現代人には、自然の力が必要、自然の力があれば「ふるさと」を思うようなメンタリティも育つハズ、みたいな冒頭からしてイチイチ話がデカいし、こういう物言いは学問というよりスピリチュアルなレベルの話になってしまうので印象がよろしくなかったですね。

第一部は日本式庭園の発展史、第二部は日本式庭園の技術解説、第三部は日本の名園三十六景の案内となっているのですが、一番読み応えがあるのは第三部の観光案内みたいな部分。ただし、写真は白黒ですし、枚数も全然ないのでこれなら普通に観光ガイドを買ったほうがマシ。その他の部分も、話の編み目が大き過ぎてスカスカな感じがしました。第一部の歴史パートの見立ては「神仏の庭と人間のにわ」というタイトルから察せられるように「昔は黄泉の国だの浄土だのといった《異界》の表象として庭園が作られたけれど、近代に入ると西洋の庭園観が入ってきたりして、庭そのものの美が追求されるようになったんだよ〜」みたいな流れ。日本式庭園の根本は、アニミズム! と力強い主張がありますが、その主張を詰めるような記述に欠けるため、はあ……そうかもしれないですよね、で済んでしまう。というか、庭園の門外漢でも「まあ、そういうことはあるでしょう」と想定できる範囲で話がまとまってしまうので面白くない。

第二部も「あらゆる景観資源のなかで『水』は最高のものである」とか「垣根は人類史とともにある」とか、各項目の冒頭から飛ばし過ぎていてちょっと……。この飛ばしと、説明のアンバランスさが目立ちます。あと年寄りの先生が書いたこの手の本でときどき見られる、自分の研究結果が特別扱い丸出しで登場するのもねえ……。しかも、やっている調査や研究と、そこから分かったことも「え、こんなことしか言えないの!?」という逆に驚くべきモノ。一番笑ったのは以下の部分。
私たちの調査では、園路環境の違いが歩行速度に影響を与えることがわかっている。造園空間では、空間の質が高ければ高いほどゆっくり歩くということ。ゆっくり、ゆったりと景観や環境を味わうべく歩行速度が小さいのである。(P.108)
ふ、普通だ……!!! そりゃせっかく庭園に来てるんだし、質が高いところはじっくりと観てまわるじゃないですか……!!!!!! 他にも、庭の一坪あたりの石の数を計算して、石の数が少なければ少ないほど、庭が自然を抽象化して表現している、とか言ってたりするんだけども、その数値、それを言うのに必要か〜!? 学問の体裁を整えるためだけの数字じゃないの〜!? とか思いました。

はっきり言って雑な新書。何かのきっかけで庭に興味を持っても、これを読んだら逆に「え〜、庭ってこんなもんなの」と思って冷めちゃってもおかしくないですよ。庭を美的に表現する語彙が足りてないし、庭に日本の思想が宿っている、と言っても庭の姿からその日本の思想を読み解くだけの教養が筆者に足りてない感じがしますし。「日本庭園が良いのは、それが日本人の精神的原風景にマッチしてるからであーる!(日本人ならわかるよナ!!)」みたいなスピリチュアルな話しかしてないですもん。

日本庭園については、もっとガッツリ「日本庭園のイコノロジー」的な本があれば読みたいところです。そういうものが無かったら、カラー写真が入った観光ガイドを片手に実際に旅行したほうがずっと楽しそう。

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フランシス・F・コッポラ / ゴッドファーザー PART2

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ゴッドファーザー  PARTⅡ<デジタル・リストア版> [Blu-ray]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン (2010-09-16)
売り上げランキング: 2199
立川の映画館でリヴァイヴァル上映を(午前十時の映画祭という企画らしい)。二度目の鑑賞で、かつて自宅で観たときは「なげぇ……」と思ったものだけれど、劇場だとほとんど長さを感じさせない。名画ですねえ。さすがに二回も観るといろんなことに気づきますが、指摘されつくされているところだろうから割愛。ヴィト・コルレオーネの時代ではどんな悪党もカトリックのしきたりに触れているのに、マイケルの時代ではさまざまな禁忌が破られていったりするところとか、過去と現代の対比みたいなのが気になったりしました。あと兄弟殺しとかは旧約聖書っぽくもあるなあ、などと。

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Lee Ranaldo / Between the Times & the Tides

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Between the Times & the Tides
Between the Times & the Tides
posted with amazlet at 12.03.22
Lee Ranaldo
Matador Records (2012-03-20)
売り上げランキング: 2273

すでに「日々の散歩の折りに」のtdさんによるレビューが寄せられておりますが、ソニック・ユースのギタリスト、リー・ラナルドのソロ・アルバムが素晴らしいのであった。リー・ラナルドといえば、tdさんが書かれているように「渋い歌声で、ちょっと地味だけど良い曲を書く人」という認識を持たれている人が多いと思われ、かく言う私もそうであり、あまりソニック・ユースについて考えていない日々が続くと、えーっと、あの、ソニック・ユースのサーストン・ムーアじゃないほうのギタリストの、誰だっけ、みたいな感じになってしまうのだが、これは、これは〜!! という出来でございます。昨年のサーストン・ムーアのソロも良かったですが、内容の充実度で言うとこちらに軍配があがるのではないでしょうか。もちろん音楽は勝負ではありませんから、こうした順位付けなど無意味ではありますけれど、この内容に衝撃を受けた、サーストン先生、キム先生がバンド活動を再開などという奇蹟が起きないものかと願うばかり。

ソニック・ユースの音が『Sonic Nurse』あたりからどんどんソリッドになっていたことが思い起こせば、リー・ラナルドの今作のキラキラ感、ポップ爆発感がより鮮鋭さを増すでしょう。三曲目でものすごいぎこちない感じのソロを聴かせてくれるのはご愛嬌として(アルバムにネルス・クラインが参加しているので、そのギリギリさがまた際立つ!)、ピンク・フロイドみたいな曲があったり、ジョン・フェイヒィのようなギターを聴かせてくれたり、なんかエラいことになっている。もちろんフィードバック・ノイズもあるでよ。メンバーはアメリカのオルタナティヴ畑のスター大集合ですし、その手の良心がギュッと濃縮されたごとき一枚なのですよ。試聴はこちらで全曲フルで聴けるっぽいので、Check it Out!

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慧皎 『高僧伝』(1)

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高僧伝〈1〉 (岩波文庫)
慧皎
岩波書店
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六世紀ごろに生きた中国の僧侶、慧皎は中国に仏教が伝来した一世紀から六世紀初頭にかけて、中国における仏教の普及と研究に貢献した偉いお坊さんんの伝記をまとめ上げている。それがこの『高僧伝』という書物。邦訳では全四巻。原本は十四巻になる大作。岩波文庫の一巻目はこのうち、天竺からやってきてありがたいお経や中国に持ち込み、その翻訳を行った僧侶たちについて書かれた「訳経篇」を収録。すでに全四巻の書評などもいくつか出ていて絶賛の嵐ですが、この訳業は本当にすごい仕事だと思いました。現在日本につたわっている様々な版からオリジナルに一番近い文を検討する、という試みはもちろん、とにかくリズミカルでなめらかな訳文が素晴らしい。仏教用語や中国の地名、人物についての注釈なども豊富でありがたいことこの上なし。偉いお坊さんの伝記であり、また慧皎以前に書かれた伝記の研究書でもあり、かつ仏教の教えを解説さえしてくれる本書の魅力を十二分に伝えてくれるものでしょう。

康僧会、鳩摩羅什や法顕など山川の世界史資料集にも登場するメジャーな人物たち、その他が一体どういう人生を歩んできたのか。読んでいて面白かったのは、まず中国における仏教史のイメージが書き換えられていくところです。正確にいうと、そもそもそんなイメージは皆無に近かったですし、これは普通の人なら同様でしょう。中国史の部分ですから、みんな『少林寺』に出てくるみたいな我々と似たような顔をしたお坊さんがいたんだろう、と想像してしまう。が、偉いお坊さんたちは天竺からはるばるやってきているわけです。つまり、黄色人種ではなく、アーリア系であったり、あるいは胡人(ペルシャ系の人たち)であったり、中には目の青いヨーロッパ人を思わせる風貌の人たちもいたのですね。もちろん中国生まれのお坊さんも紹介されるのですけれども。お坊さんでさえそうなのですから、きっと当時の中国には他にも様々な人種の商人なんかがいたのでしょう。本書の本意ではないですがこれは『レッドクリフ』の世界の嘘を暴きたてるようでした(ちなみに『三国志』絡みでは、呉の孫権が出てきます)。

また、天竺からやってきた人びとの多くが、西域経由のルートを通ります。これは『西遊記』の逆ルート。その道のりの険しさが伝わってくるのが面白いですね。西遊記は唐代が舞台で『高僧伝』で扱われている僧侶たちよりもずっと後になりますが、彼らの旅の厳しさは諸星大二郎の『西遊妖猿伝』と併読することで一層具体的になるでしょう。前述の古代中国における人種的多様性もこの漫画ではカヴァーされています。



また神仙思想との混交も見所でしょう。今日での我々の社会における仏教のイメージとは現世利益追求型か、葬式仏教、あるいは禅宗式の求道タイプなどにわけられるように思います。しかし、本書に描かれた仏教の姿はそのように単純に類型化しえません。権力者の病気を癒すために祈る、と同時に、土地の神々と闘い(力関係的には道教的な土地の精霊よりも、仏のほうが上と考えられています)、奇蹟を起こし、求道する。この複雑さも諸星大二郎の漫画に描かれているところであって、諸星大二郎がスゴすぎる、と言いたくもなりますけれど、日本に入ってきている仏教の原型とはこうした得体の知れないものなのですよね。そこを認識せずには、日本の宗教観は正しく理解できないのでは、とも思います。原型を知ることで、日本人が考える仏教に関する歪みが本書で相対化されるのでは。

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北斗七星の庭_展 重森三玲 @ワタリウム美術館

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友人が面白いと言っていたのを聞き、20世紀に活躍した作庭家、重森三玲(しげもり・みれい)の展覧会へ。美術館での展示ですので、彼が設計した庭を持ってくるわけにはいかず、彼の手による書や水墨画のほかは、原寸模型や写真、映像が中心に見ることができます。よって、作品を鑑賞する展覧会、というよりは、重森三玲という人物紹介のようでしたが、それでもなかなか。「三玲って、あの落ち葉拾いのミレーですか?」と冗談めかして友人に訊ねると「そうそう、自分で改名して画家のミレーの名前をもらってるんだよね。で、子どもの名前もカントとか、ユーゴーとかゲーテとかつけてた、っていう」と教えられ「なにそれ、内田春菊みたいじゃないっすか」と驚いたんですが、そうした面白エピソードばかりではなく、庭という日本の思想を西洋美術の俎上にあげたうえで、日本の庭を再度考えた人だったのでは、という点を大変興味深いと思いました。彼の代表作のひとつ、小市松の庭の市松模様にしたってモダニズムの意匠を感じさせるもの。重森は作庭だけではなく、全国のさまざまな庭園を調査し、実測をおこなった大研究書も手がけている。この分類と分析の手法もまた西洋近代の知の様式にならったものでしょう。そうした知の営みから、再度、日本の美と自然が作り込まれている。それは単に自然の再現ではないはず。展覧会の会場で流れていた音楽は、細野晴臣によるアンビエントでしたが、この庭にもっともマッチする音楽は、武満徹だったのでは、と思いました。《鳥は星形の庭に降りる》ですからね、何と言っても。重森の研究対象に、西洋の庭園が入っていたかはわかりません。ルネサンス時代の庭園には百科全書的空間として設計されたものがあるそうですが、日本の庭にも庭の風景が和歌とひもづけられたものがあるんだとか。こうした庭のなかに存在するミクロコスモスがモダンにおいて、どう変化したのか、そうしたところにも興味を持ちました。例えば、それまでに配置された知が排除され、美へと統合される(美が目的化される)ことがあったのでは、とか。

日本の庭園 - 造景の技術とこころ (中公新書(1810))
進士 五十八
中央公論新社
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ミュージアム・ショップで購入した本。これで勉強したら庭を見るために旅行したくなります。

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Just Composed 2012 in Yokohama 出逢うことのなかったピアソラとケージのために @横浜みなとみらいホール 小ホール

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出演
大友良英 (G、ターンテーブル)
佐藤芳明 (アコーディオン/委嘱新作作曲)
Sachiko M (サインウェイブ)
林正樹 (Pf、プリペアド・ピアノ)
鈴木広志 (Sax、Fl、チャイニーズ・シンバル)

曲目アストル・ピアソラ:孤独の歳月 ver.1
大友良英:ケージ・ゼロ・アワー(新作)
ジョン・ケージ:心象風景第1番
廣瀬量平:フルートのための讃歌
廣瀬量平:フルートのための讃歌(大友良英編曲バージョン『言_夫_夫_貝_可_可_欠』)
アストル・ピアソラ:天使の死
ジョン・ケージ:フォンタナミックス
佐藤芳明:籠の隙間(新作)
アストル・ピアソラ:孤独の歳月 ver. 2
みなとみらいホール主催の現代音楽シリーズ「Just Composed in Yokohama」に大友良英が登場。このシリーズの存在自体初めて知ったのだが、過去の記録を見てみると現代音楽の若手作曲家たちの名前に混じって、沢田穣治(ショーロ・クラブ)や、佐藤允彦、青柳拓次(LITTLE CREATURES)などポップスやジャズの領域からも委嘱作曲家が選ばれているのが興味深い(悪く言えば、節操がない、とも言えるだろう)。今年の委嘱作曲家は、アコーディオン奏者の佐藤芳明だが、コンサート全体をプロデュースしていたのが大友良英だった、ということか。ピアソラとケージ。このテーマもまた節操がない感じではあるのだが、大友良英のまた新しい一面に触れることができる演奏会だった。なお、日本でこうした現代音楽のステージにあがったのは今回が初めてだったとのこと。これは意外。

大友と共演したミュージシャンもまた珍しい組み合わせ。Salle Gaveau(林正樹、佐藤)に、チャンチキトルネエド(鈴木広志)はそれぞれ大友とは違ったフィールドで、リスナー層もかぶっていそうでギリギリかぶっていないところで活動しているミュージシャンと言える。それぞれ、NHKドラマ『白洲次郎』のサントラや、すみだ川アートプロジェクト2011「アンサンブルズ・パレード/すみだ川音楽解放区」で大友と共演をしているが、佐藤と鈴木は頻繁に共演し続けている関係、そしてチャンチキトルネエドはアサヒビールや横浜市主催の文化イベントによく出演している関係など、どこかで接点を持ちつつも「出逢うことのなかったミュージシャン」が一同に会してしまった、という意味ではテーマと共鳴しているのである。たまたま、だろうけれども。鈴木広志はサックスにフルートに、シンバルに……と大活躍。フルートは副科だったんでしょうか、失礼ながら、普通に聴けてしまって、ゲーダイすげえ、と思いました。

演奏会のなかで最も大友色が強かったのは新作《ケージ・ゼロ・アワー》だろう。ピアソラの楽曲を分解し、断片的な譜面に書き起したうえで、大友が近年かなり注力している即興オーケストラでの指揮法(ジョン・ゾーンのコブラをアレンジしたオペレーション)によって演奏されたこの楽曲からは、大友良英という音楽家にまつわるいくつかのキーワードを受け取ることができた。作曲、即興、分解、再構築、引用。グラウンド・ゼロであったり、あるいは大友良英ニュー・ジャズ・オーケストラでのエリック・ドルフィーであったり、具体的な過去の音楽とそれらのキーワードを結びつけながら、改めて思ったのは、キーワードひとつに含まれたイメージの豊かさ、というか。

たとえば「即興」にしても、ケージの、ジャズの、ベイリーの……という風にまったく別の即興のあり方が存在していた。大友はそれらのあり方を参照しつつ、どれかひとつに寄りかかりすぎずに音を響かせているように思えた。そのスタイルがまたコラージュ的とも言えるのかも知れないが、コラージュのようにそれぞれの要素のつなぎ目が見えるのではなく、同時に響いている、というか……とここまで書きながら、前にも同じことを書いているような気がしてきている、と同時に、シュトックハウゼンの直観音楽《渡り鳥》を思い出した。この作品を私は昨年主催した《今夜はまるごとシュトックハウゼン》というイベントで聴いたのだが、シュトックハウゼンが直観音楽のなかで宇宙から授けられる天啓のごとき抽象的な比喩により従来の作曲技法から自由になろうとするやり方と、大友が身振りとルールによって即興オーケストラから自由を引き出すやり方には、なにか共鳴するものを感じてしまうのだった。

また、佐藤芳明の新作《籠の隙間》の演奏も素晴らしかった。「ケージ × ピアソラ」というお題で書かれたこの作品は、ピアソラらしきパートと、ケージらしきパートがクロスするように歩み寄り、そしてまた離れていく、という着想で書かれたという。ピアソラのパートは途中、何度も断ち切られるように中断し、そしてリスタートを繰り返す。ケージらしきパートはその間も音を鳴らしたまま。ケージらしきパートを担っていたのが、大友のターンテーブルと、Sachiko Mのサインウェイヴだったのだろう。ステージの向かって右側に大友、左側にSachiko Mというステレオ配置で広がる極上のインタープレイは、もはや名人芸の領域。タンゴの旋律とリズムのうえに重ねられたレイヤーを美しいと思った。

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フランソワ・トリュフォー / アメリカの夜

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映画についての映画であり、デスマーチ映画。ジャクリーン・ビセットの美脚が素晴らしく、あとトリュフォーとブーレーズが同一人物であることに気づく。

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山中貞雄 / 丹下左膳 餘話 百萬両の壺

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丹下左膳 餘話 百萬両の壺 [DVD]
コスモコンテンツ (2011-02-14)
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通して観るのは三度目ぐらい。すげー好きです。

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ジャン・リュック=ゴダール / 気狂いピエロ

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映画好きの友人からゴダール(笑)と言われつづけて、毎回ビクビクしながら観ているのだが、毎回面白いのでよくわからない。悪ふざけみたいな映画である。

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ルイス・ブニュエル / ブルジョワジーの秘かな愉しみ

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ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972) [DVD]
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笑った笑った。同じようなプロットを使っているのに、面白い映画が作れる人が好き、ということを自覚。

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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#13 ガルシア=マルケス 『族長の秋』

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族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)
ガルシア=マルケス
集英社
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「集英社『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む」13冊目は言わずとしれたコロンビアのノーベル文学賞受賞者、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』です。この作品を通読するのは二度目でしたが『百年の孤独』を読み直したときと同様、この作家の素晴らしい物語構成の上手さに魅せられてしまいますね。以前は『族長の秋』のほうが好きかも、と思っていましたが、今回の通読ではやはり『百年の孤独』のほうが好きかも、と思い直したり、カリブ海の島国の話だと思い込んでいたのは私の勘違いで、あくまでカリブ海に面した小国が舞台、だとか再発見が結構あって「ああ、前はこんなに読めてなかったんだな」とか思いました。とはいえ、とにかく終盤の物語が閉じていくときの物悲しさによって最後まで読者を引っ張っていくこのエネルギー、怒涛の勢いは「読み切った!」という快楽を高めている。だから、ガルシア=マルケスは読むのがやめられなくなってしまう。痺れるような導入部と、読後の快感が素晴らしいんですよ。

旧約聖書の登場人物のごとき恐ろしい高齢に達しても権力の座にあり続ける怪物的独裁者を主人公に据えたこの小説は、ラテンアメリカ文学のひとつの象徴とも言える「独裁者小説」に位置付けられましょう。集英社のこのシリーズでもアストリアスの『大統領閣下』があるように、そこでは強大な権力者によって人びとが蹂躙される様子が批判的なまなざしで描かれている。しかし、今『族長の秋』を読み直してみると、権力者ばかりが一面的に悪者に仕立て上げられているわけではないことに気づきます。とくに老齢の苦しみにありながら生き続けなくてはいけない大統領の姿は、権力者の意思とは関係なく出来上がっている権力(というシステム)のおぞましさのようなものを感じざるを得ません。大統領が何を思い、思わなくとも、彼が知らない間に独裁体制を維持するための施策が打たれている。テレビには毎日、大統領の政治的な振る舞いが捏造されて映し出される。権力者の主体が不在のまま、物事が勝手に進んでいく。

果たして誰がこの国の責任を持つのか、誰が悪いのか。アメリカ(合衆国)やヨーロッパの介入があり、すべてを奪われてしまう様子は現実のラテンアメリカ諸国の状況が反映された者でしょう。こんな国に誰がしてしまったのか。権力者の不在と虚構のなかで成立する存在のなかで、この責任問題が曖昧になっているように思われました。大統領が民衆に裁かれるのではなく、突然の死のあとで死体を禿鷲に貪られ朽ちていく。その死体はもはや誰にも大統領と判別できないのです。虐げられてきた民衆にすら大統領を裁く権利が与えられていないこの末路は、社会の責任を民衆にも負わせているようにも読める。誰が大統領を生きながらえさせたのか? が大いに問われるわけです。繰り返しましょう。こんな国に誰がしてしまったのか。その問いかけは、カリブ海に面した架空の小国にだけ投げかけられるものではないでしょう。

政治的な小説であると同時に、愛をめぐる小説であること。愛の能力が欠けているからこそ、その愛の目覚めが劇的に描かれます。大統領の母であるベンディシオン・アルバラードの朽ち果てる死体、唯一の正妻であったレティシア・ナサレーノとの交わり。このシーンの素晴らしさは何度読んでもおそらく色褪せることがないでしょう。


族長の秋 他6篇
族長の秋 他6篇
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ガブリエル ガルシア=マルケス
新潮社
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解剖と変容:アール・ブリュットの極北へ チェコの鬼才ルボシュ・プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァー @兵庫県立美術館

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解剖と変容:アール・ブリュットの極北へ チェコの鬼才ルボシュ・プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァー

兵庫県立美術館

チェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品を日本で初めて紹介する展覧会だそうです。兵庫県立美術館での展覧会は初めて伺いましたが、安藤忠雄が設計したとてもカッコ良い建物。内部はコンクリート打ちっぱなしで寒々しいことこのうえない感じではありますが、光の入り方などで印象が変わりそう。伺った日がたまたま天気が悪かったので、寒々しい印象のままのコンクリートは、まるで原子炉をイメージしてしまいます(ホンモノの原子炉を見たことはないわけですけれども)。


(晴れてる日に撮影した美術館)

アンナ・ゼマーンコヴァーは子どもを失ったり、流産したり、という痛みを伴った経験から次第に生きている子どもたちに対して偏執的とも言える愛情を注ぐようになり、精神を別な領域へと移してしまった女性だったようです。子どもたちが成長し、自立するようになるとその愛情を注ぐ対象が失われ、また別な不安定状態に陥る。そのとき、子どもから薦められて出会ったのが絵というあらたな注意の対象だった、ということです。暖かみのある色合いで描かれる、何らかの植物をモチーフにした(であろう)奇妙な物体のデザインが可愛らしかったですね。物体が意味するものの「無意味さ」「不可解さ」において、これはアートと言えども「おかんアート」の世界でもあるようにも思います。

ルボシュ・プルニーはゼマーンコヴァーの柔らかい感じとは対照的に、どこまでも攻撃的な作品が多かったです。この人もいろんな問題があって社会には適合できなくなり、年金を貰いながら好き勝手作品制作に打ち込み、遂には「芸術家」として認められたのだそう。この人の場合、自分は芸術家である、という自覚があり、執拗に自分が芸術家であるという証明をもらおうとしていたようで、そうした芸術家という名前への執着も病的であるのかもしれません。プルニーの作品は、コラージュに上に複雑に、何層にも渡って人体解剖図をモチーフにした線を重ね描いていく作品がメインで、その他に自分の血液を使用したものや、自分の瞼や唇、腕などを糸と針で縫い合わせていく過程を写真に収めたもの、ギリシャ彫刻やロダン、《マラーの死》など有名な芸術作品のポーズを真似て撮影した写真など、ショッキングなものから半笑いになってしまうモノまで展示されています。彼の作品に共通して言えることは、生命的なものが解剖学的に展開されることでしょうか。その極地たるものが、自分の両親の遺灰を丸いガラス・ケースに納め、それを中心にして、両親の生年から没年までの日数をカウント・アップしながら渦を描いていく作品でした。これは「そこまでやるか」という風に半分呆れてしまいたくもなる。

展覧会のもうひとつの目玉はアール・ブリュットの人びとを追った長編ドキュメンタリー『天空の赤』の上映です。こちらは時間の都合上、観られなかったのですがヘンリー・ダーガーなどを取り扱った面白そうな映画でした。ただ個人的に「アール・ブリュット」という言葉や、その言葉で名指しされた人びとを「鬼才」と呼ぶことについて疑問がないわけではないです。例えば、ズデニェク・コシェックという画家が取り付かれた「自分が世界の中心であり、自分の行為で天変地異がおこることもあるが、自分が作品を作り続けなければ世界が崩壊してしまう」というスティーヴ・エリクソンの小説のごとき妄想は面白いと思います。けれども、その面白さは単にキチガイってすげえな〜、と笑ってるだけなのか、という微妙にモラルが問われる部分でもあるのですね。で、そういうモラルが問われそうな部分、そういうのを面白がるのってどうなの、という部分に「アール・ブリュット」と名前を付けたらなんでもアリになってしまうんじゃないの、とか思ったり。

一方で「自分たちはコバイア星人。堕落した地球人どもに警鐘を鳴らすためにやってきた」とか「俺はジギー・スターダスト。スパイダー・フロム・マーズを引き連れて、地球に落ちてきたロックスター」とかいうある種の妄言と、コシェックが語る誇大妄想との違いとは何なのでしょう、とも思ってしまいます。ご存知の通り、コバイア星人やジギー・スターダストという語りは、設定であり、演技である。それはガチではない。逆にコシェックの場合はガチガチである。この対称関係のなかで「どうしてガチじゃないときは、安心して観ることができ、ガチの場合はこれは大丈夫なのだろうか、とちょっと怯んでしまうのだろう?」という疑問が浮かびます。アール・ブリュット(生の芸術)という言葉が指し示すモノとは、こうしたガチガチの衝撃なのでしょうか。

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マニュエル・ゲッチング / E2-E4

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E2-E4
E2-E4
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Manuel Gottsching
Made in Germany Music (2012-03-06)
売り上げランキング: 23796

長らく廃盤になっており、Amazonのマーケットプレイスでもプレミアがついてきたマニュエル・ゲッチングの名盤『E2-E4』がついに再発、しかも安い! これまで欲しくても買えなかった人たちの怨念が噴出したかのような価格設定、と言えましょう。日本盤は輸入盤よりも先に既発となっていますが、当然ながら日本のCDの値段であったため購入見送り。先日届いた輸入盤は超簡素なペーパースリーブ仕様で、紙っぺらにCDが包まれてるだけ感さえある、この簡素だと「ドイツ = エコ」のイメージが濃くなってしまうようです(今回の輸入盤がドイツでプレスされたものかは不明ですが……)。改めて聴いてみると、もともとはデモ音源だったというお話には納得できる部分もあったりして面白いですね。途中で挿入されるシンセサイザーやギターのソロが結構雑だったり(そこから『これはものすごいキメキメ状態で製作してますよね?』というテンションの高まり方が感じられるのですが)。とはいえ、名盤には間違いないのですが。何度聴いても良いですよ。

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読売日本交響楽団 第513回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(読売日響桂冠名誉指揮者)
ショスタコーヴィチ/交響曲 第1番 ヘ短調 作品10
ブルックナー/交響曲 第3番 ニ短調 WAB.103
今季最後の読響定期は桂冠名誉指揮者、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(御歳88歳)が登場。前半のショスタコーヴィチは、スクロヴァチェフスキ曰く「ショスタコーヴィチは20世紀のブルックナー」なんだそうです。一般的にはポスト・マーラーのシンフォニストと見做されることが多いショスタコーヴィチ。今回演奏された交響曲第1番は彼が19歳のときに書かれたもので、この頃から諧謔趣味というか、人を食ったような作風がしっかりと楽曲に刻まれていて、まさに天才の仕事という感じがします。さすが《ソヴィエトのモーツァルト》。改めて聴いてみますとゆっくりとしたテンポで煩悶するように進行する箇所は、マーラーの交響曲第9番のように聴こえます。

第1楽章、第2楽章はオーケストラの演奏精度に少し難があったのが残念。とくにクラリネットのソロは要求されたテンポに追いついていなかったのでは。あとトランペットのソロも音を外していたのが気になりました。良かったのは第3楽章。この緩徐楽章はまさに「20世紀のブルックナー」というか、スクロヴァチェフスキのブルックナーのアダージョそのままのトーンで響き、冒頭からのけぞりました。全体として考えると、割と普通の演奏だったかな、という感じなのですが、読響のお客さんはスクロヴァチェフスキに優しすぎるため、熱狂的な拍手が起こっていたのが印象的です。ショスタコーヴィチの第4楽章では曲の途中で拍手があったり、フライング・ブラボーがあったり(これはなんとブルックナーでも!)一早く拍手して気持ち良くなりたい一部の度を超した方々の存在も残念でした。

後半のブルックナーは、打って変わって圧巻の出来、ほとんど完璧、と言っても良い出来でした。こういうブルックナーを聴かせてくれるからスクロヴァチェフスキは優しくされても文句が言えないんでしょうね。予習しておこうかな〜、と思いつつ出来ず仕舞いになってしまい、今回の演奏会で初めて聴くことになってしまった交響曲第3番ですが「ブルックナーの交響曲にベートーヴェンの第9番を意識していない作品はない」という定説の通り、冒頭から「俺も《合唱付》みたいな荘厳な感じの始まりの曲が書きたいぞ〜」という意図がビンビンに伝わってくる気がしました。《合唱付》を意識しながら楽曲を書いているのに、結果としてかなり別物になってしまうところがブルックナーの面白いところなのかな。第2楽章のアダージョなんかもろに《合唱付》の第3楽章なのに、異様に牧歌的な雰囲気が漂っているのはブルックナーらしい、というか。

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アルタード・ステイツ @新宿ピットイン

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内橋和久主宰によるインプロヴィゼーション・トリオ、アルタード・ステイツのライヴを観ました。内橋和久のギター演奏をライヴで観たのは一昨年の外山明とのデュオ以来。変幻自在のエフェクター使いとプレイはデュオで観たときの印象と同様で、彼が向かう方向性をベースのナスノミツル、ドラムの芳垣安洋が瞬間的に汲み取りながら、ダイナミックに音楽を展開して行く緊張感は観ていてピリピリとしました。リハーサルでどこまで決めているのか、そうした内輪の事情はその場に出くわしたリスナーには伝わらない事柄ですが、耳にしつつある音楽はどんどん変容していく。しかし、目の前には静的な緊張が漂っている。内橋のギターは、時にアラン・ホールズワース、時にジョン・マクラフリン、時にビル・フリーゼル、時にマーク・リボー、時にアート・リンゼイ……を想起させながら、ジャズとロックのあいだにある時間軸を無視するかのように越境し、ノイズすれすれまで変調した重いコードや、単発的に空間に置かれた短い音で《場》を慣らしながら、およそジャズやロックといったジャンル的な文脈によって回収されるであろうクリシェによって怒濤の流れを作り出している、と感じます。このダイナミック/スタティックの二律背反が一種の芸能として成立させることが、アルタード・ステイツの比類無さを示している、と言って良いのでしょう。

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