『歎異抄』

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歎異抄 (岩波文庫)
歎異抄 (岩波文庫)
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金子 大栄
岩波書店
売り上げランキング: 32735
『歎異抄(たんにしょう)』は浄土真宗の祖、親鸞の死後にその弟子の唯圓という人が、師の言葉を後世に正しく伝えようとして書いた本。とくに意図なく読み始めたんですが、面白かったです。校訂者の金子大栄の解説がとにかく良い仕事しすぎ。唯圓の本文以上に親鸞がどういうことを考えて浄土真宗をたちあげたのかがわかります。もう解説と本文あわせて「これが親鸞だ!」と改題して講談社新書から出し直したほうが良いのでは。五木寛之が言及して、なんかいま流行ってるんでしょ?

「他力本願」というキーワードで親鸞の思想はまとめられていますが、これ、要は否定神学と予定説みたいな話ですよね。親鸞曰く、浄土にいくっていう本願は、自分の努力によって成し遂げられるものじゃない。その本願は阿弥陀如来のみが決定しているのであって、誰が浄土にいけるか、っていうのは、阿弥陀如来しかわからない(予定説)。かつ、仏っていうのは変幻自在で、形とかそういうのを超越した存在なので、たかが人間ごときが判断する善悪の基準とかで動いてない(否定神学)、よって普通の百姓も盗賊も殺人鬼も誰が浄土にいけるかわからないし、仏はホントに慈悲深いから、人間が考える悪党であっても浄土にいける人として選んだりする。

そこで親鸞は「念仏となえろ!」というのですね。これまた信仰のみが義である、というルターみたいだな、と思ったんですが、ただし、その念仏は唱えたからと言って良いというわけではないし、唱えても浄土への優先チケットがもらえるわけでもない。ここでの念仏の役割は阿弥陀如来がきっといつかは救ってくれるであろう、本願はきっとなされるであろう、ということを信じるために唱えるものです。念仏が現世での良いことを起こすわけでもないし、しかも、浄土への道も近くならない。でも、親鸞は「信じろ!」っていう。そうするとそのうち、我執からも解放されて、仏と一体になって救われるから! と。

親鸞の生没年は1173年〜1262年とあります。西欧でいうとアルベルトゥス・マグヌスよりも20年ぐらい先立って、だいたい同じぐらいの年齢で死んでいます……2人にはまったく関連性がないのでこれはどうでも良いですが、でもスコラ学はその後廃れるけれども、浄土真宗はまだバリバリの現役、っていうのがスゴいですよね。しかも日本で一番メジャーだ、っていう。末法思想が蠢く鎌倉時代に生まれたがゆえの、強さなのでしょうか。そういえばメランヒトンも「終末は近い!」とか言ってたんだっけ。乱世に発生する思想に共通するなにかが、浄土真宗とプロテスタントのあいだにありそう(幻視。そして、世界が乱れていなかった世の中っていつだったのか)。

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読売日本交響楽団第520回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮=ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス
合唱=新国立劇場合唱団
フリューベック・デ・ブルゴス:ブラームス・ファンファーレ(日本初演)
ブラームス:悲歌 作品82
ブラームス:運命の女神の歌 作品89
ブラームス:運命の歌 作品54
ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67 「運命」
ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの指揮は、およそ1年半ぶりに聴きました。前半に自作のファンファーレとブラームスの合唱曲を、後半がベートーヴェン、とドイツ攻め。前回もブラームスの交響曲第3番、第1番のダブル・シンフォニーで定期演奏会の舞台に立っていましたから、ブラームスには相当の思い入れがある人なのでしょう。自作のファンファーレは、ブラームスの交響曲などから有名なメロディを切り出してきて繋ぎあわせ、それを金管とティンパニだけに演奏させる、というシロモノ。ティンパニとホルンはさておき、ブラームスの交響曲におけるトランペットとトロンボーンはかなり出番が少ないですから(しかし、とても重要な役割)、鬱憤ばらしをさせてやろう、というマエストロの配慮だったのか……しかし、まあ、アレです、そうですね……ホンモノのブラームスの交響曲のほうが……。

続く、ブラームスの合唱曲は、すみません、全然印象にない。最近、知らない曲を聴いていたりするとウトウトしてしまう頻度が高くなっており、かつて若かりし頃は唾棄すべき存在として認識していたタイプのクラシック・ファンになっている。なんということだ。

メインの《運命》は、これはもう円熟の演奏というほかないでしょう。アンサンブルがガチガチに揃った精度の高い演奏、ではなく、ピリオド奏法を取り入れた演奏、でもなく、超絶に遅かったり、爆演系でもない。たとえるならば、老舗の洋食屋さんのハンバーグ定食、というか……白いお皿のうえに、ハンバーグがあって、デミグラス・ソースがかけられていて、そこに海老フライとナポリタンが添えてある……みたいな定番感さえありました。ひとつも斬新な箇所がない。でも楽しく聴かせるんですよね。鉄板の上でジュージューいってるわけでも、神戸牛をつかってるわけでも、サイズが巨大なわけでもないんだけど「でも、これがウチのハンバーグだから! これで40年やってますから!」って出されて、ウマい、としか言えない、みたいな。演奏家の風格とか年季からくる「これがウチのベートーヴェンだから!」という自信がそういう音楽に仕上げるのか。とくに2楽章が良かったなあ。柔らかくて大きな音楽を鳴らしていました。編成は木管楽器が倍管でしたが、あれは4楽章用だったのかな。普通なら金管楽器が全面に押し出されるところが、木管もブ厚く響いている感じがして良かった。

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ジョスリン・ゴドウィン 『キルヒャーの世界図鑑: よみがえる普遍の夢』

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キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢
ジョスリン・ゴドウィン
工作舎
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おそらく日本語の本で「キルヒャー」の名前をタイトルに入れてる本はこれだけでしょう(アタナシウス・キルヒャーという17世紀に活躍したイエズス会の修道士については当ブログでも何度も言及しておりますので、どういう人かは各自ググったりしておくこと)。ジョスリン・ゴドウィンによる本書は、キルヒャーが出版した書物から愉快で、奇怪な図版を抜き出して、図像からキルヒャーの思想を読み解こう、という内容。この著者はまったく同じ手法で、イギリスのロバート・フラッドについても一冊本を出しています。キルヒャーとフラッドってフランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』でも、ポスト・ブルーノの思想家として扱われるなかなかの重要人物、ではあるのですが、ゴドウィンの記述は、両者をビザールな人、ってだけの扱いにとどまっていて、フラッドの本を読んだときも思ったけれど、ストーリーを感じることができないのが残念。正直、図版を眺めるだけなら原書でも良いんじゃ、っていう。

そのあたりの原書そのもののパワーの弱さを補うためなのか、邦訳にはボートラ的に澁澤龍彦、中野美代子、荒俣宏が文章を寄せているんですが、荒俣先生以外は正直ほとんど読む価値なし。中野美代子の文章は、『シナ図説』という当時のイエズス会宣教師のネットワークを駆使して極東から寄せられた情報をもとにキルヒャーが作った中国についてのヴィジュアル百科事典的書物の「おかしな点」をあげつらうばかりで、ゴドウィンとレヴェル感は変わらないし、澁澤にいたっては、紙の無駄ですよ(本文と重複しまくるキルヒャーの略伝で半分ぐらいスペースを使っている)。 信じられるのは荒俣先生だけ!

ここでの荒俣先生は、まず、キルヒャーが図像を用いた理由を「活字印刷本の普及とともに『見ながら考える』、『考えるために見る』、という今日的思考方式が、ラテン語などの通じない蛮地へおもむきつつあったイエズス会の布教技術と通じる本質を備えていたためである」とし、ポスト・キルヒャーの人物を3人紹介しています。この3人の人物の紹介は、面白人物の紹介、という感じで終わっている感があるんですけれども、冒頭のキルヒャーのヴィジュアル・ショック戦略の評価によって、本書で紹介される図像の数々の意味合いが変わってくる気が。

つまりこの評価によって、キルヒャーの図像群が「おもしれ〜、ぶひゃひゃ!」で終わるものではなく、それが何らかの理解を促すためのツールであり、シンボルであった、という位置づけがされるわけで、これは、イエイツの仕事を持ち出すならば『記憶術』の内容や、あるいは、ジョルダーノ・ブルーノが用いた秘印を連想させます(ブルーノは、著作のなかで謎めいた記号を用いることで、神秘的な秘術を伝えようとした、とか)。ヴィジュアル・ショックの系譜学を描くなら、キルヒャーは相当に重要であるなあ、と思わされます。単にゲラゲラ笑ってるだけだとあまりに広がりがなく終わってしまう本になってしまうので、これは荒俣先生のナイス・サポートが光る! と個人的に思いました。

あんまり本書を褒めてないですが、つまらない本ではなかったです。ビザールな図像を眺めてると愉快な気持ちになりますし、ただ、読みどころが結構難しい気がするんですよね。荒俣先生の解説みたいにちょっとしたところから、ストーリーが見えるときがあるんだけれども、本の方から雄弁に語りかけてくるようなものでもないです。やはり種本なのかなあ、と。キルヒャーの伝記的記述とか読んでて面白いんですけれどね(フラッドの本も伝記部分が良かったです)。彼はドイツ生まれのイエズス会修道士ですから、30年戦争とかで大変な目にあってたりするわけです。「ドイツって新教徒の地域でしょ〜」なんとなく思ってたんですが、新教徒のなかにもいろいろいたし、キルヒャーみたいにカトリックだっていて、一枚岩では全然ない。そのへんの思想地図をちょっと調べてみたいなあ〜、とか思った。

あと、イエズス会がほぼ全世界に張り巡らせていたネットワークが改めてスゴいな、と。前述の通りこれを利用してキルヒャーは各地の情報を集め、エジプトや中国について本を書いてたんだけれども、このネットワークはその後なんかに使われてたりしないんだろうか……(ピンチョンの『競馬ナンバー49』にでてくるトライステロは、中世の騎士団が起源となった秘密郵便組織だっけ……? そういうのも連想する)。

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T. H. ガスター 『世界最古の物語: バビロニア・ハッティ・カナアン』

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世界最古の物語―バビロニア・ハッティ・カナアン (1973年) (現代教養文庫)
T.H.ガスター
社会思想社
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イギリス出身の宗教・神話学者、Theodor Gaster(1906 - 1902)が書いた一般向けの本(ブックオフで回収)。黒海、地中海、カスピ海に囲まれたオリエント地域の古代民族が粘度板に刻んだ楔形文字によって伝えた神話を、現代人に読みやすい形でまとめた入門書、とでも言えようか。これはなかなかの良書で、単に物語を紹介しているだけではなく、著者による解説がかなり詳しくおこなわれているのがありがたかったです。著者は比較文学的な手法によって、ここに収められた物語を、ギリシャやローマ、エジプトの神話、あるいはアフリカやインドの民話、旧約聖書などと比較しつつ、忘れられてしまった物語の意味を解釈しようとする。ときに古代の物語の表現が、現代の文芸ともひもづけられるのも刺激的でした。収録された13篇のお話は、バビロニア、ハッティ(ヒッタイト)、カナーンのそれぞれの地域の世界創造や神々の戦いです。隣接地域であるせいか、ある地域の神話に別な地域の神々が登場する(神が借用されるように)のも面白いです。

また本書の魅力のひとつには、「はじめに」で書かれた、筆者が本書を執筆するために用いた技法・手法であったり、物語の歴史的背景についての記述もあげられるでしょう。この記述にはもう歴史に込められたロマンティシズム、と言いましょうか、何かを調査して知られざることが明らかになったという発見の悦びが封じ込められている気がします。本書で取り扱われる物語は、4000年以上前のものであるわけです。すると、記録された文章をそのまま訳してもまったく意味がわからなくなってしまうことがある。とくに身振りによって伝えられる意味や、当時でいうところの紋切り型の表現の意味が、いまではよくわからない。そうした失われた意味を当時の法律上の記録から発見されたりする、というのですから、なんかこう、考古学、燃えますね、という感じ。なお、仏訳の序文には、エリアーデが文章を寄せています。ブックオフで100円で投げ売られてたのでいい加減な本かと思ったら、結構ちゃんとした本だった。

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Pierre-Laurent Aimard / Debussy: Préludes Book 1 & 2

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Preludes Books 1 & 2
Preludes Books 1 & 2
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C. Debussy
Ecm Records (2012-10-09)
売り上げランキング: 463
いつのまにかエマールの新譜がでていたのだった。昨年も『Liszt Project』というアルバムを出しており、こちらも買い逃している。しかも、去年も、今年も来日公演を聴き逃しているのでなんだかファン失格もいいところな体たらくぶりである。反省を踏まえて、ドビュッシーの《前奏曲集》を聴く。

まず、ビックリするのがリヴァーブの深さで。ライナー・ノーツによればスイスのArc en Scènes(リンク先PDF、仏語)のホールで録音したとあるけれど、これはちょっとどうなのかなあ、お風呂で弾いているみたいなんだけれども。最初の《デルフィの舞姫》は、音像が、ぼや〜、としていて霧に包まれた感が演出されているようである。ピアノとマイクの距離が関係していると思われるんだけれども、たしかにコンサート・ホールでライヴを聴いているときの音ってこんなもんかなぁ、とも思われるし、リアリティを追求するとこうなるのかなぁ。

演奏のほうは、さすがの切れ味が素晴らしかった。《アナカプリの丘》や《パックの踊り》で、音の粒が美しく揃って弾けるところなど、フェティッシュなレヴェルで好きですね。ゆっくりしたテンポの曲では、情感に流されないリリシズムを発揮されており、これも美しいのだった。来日公演、行きたかったな。

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

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Shiro SAGISU Music from“EVANGELION 3.0”YOU CAN(NOT)REDO.
鷺巣詩郎
キングレコード (2012-11-28)
売り上げランキング: 10

なんかエラいことになってるらしいぞ、という前評判のみで観にいって「これは……どうしたら良いのだろうか、明日からどうやって生きてけば良いのか……」と衝撃を受けましたが、とても面白かったですし、最高でした。アクション・シーンは『破』のほうが盛り上がったんですが、アスカが載ってるエヴァが猛ダッシュするシーンとか良かったですよ(『破』もエヴァ3機が空からやってくる使徒を受け止めるところが好きだった)。

以降はストーリーの核心にはなるべく触れずに感じたこと書いていきます。

このアニメーション作品の解釈については、仏教の唯識思想における「一人一宇宙」という原理を想起させられるほど、さまざまな人がさまざまな思い入れを抱えたまま、読み解いていらっしゃるではないですか。しかし、そういうのがすべて壊されちゃったな、というか、なんか、終わったな……俺、もう大人じゃん……うん……さて、明日からどうやって生きていけば良いんだろう……という風にガツンとヤラれてしまったのが今回のファースト・インプレッションとしてのファースト・インパクトであって。私が住んでた福島県の地上波で放送が始まったのが、中学1年生ぐらいだったと思うんですけど、グハッ、そこから15年だってよ……(調べたら1997年4月1日から放送が始まっていた。中学1年生の新学期からか……)。

今回の『Q』を観たときは隣に妻がいて、そういうのも影響してたのかもしれないけれど、年、取ったなあ、みんな、とか思ったし、なんか愕然とした。あ、いま、俺の青年期が終わった、と思った。『破』でモテモテのオットコ前だった碇シンジが幼児退行し、死ぬほど鬱陶しくて、独りよがりな、見ていて恥ずかしくなる状態だったのもアレだった。まあ、それにはいろいろあるから仕方ない。ただ、成長(?)してなかったのは、彼と非人間的な渚カヲルくんと綾波レイだけで、アスカもミサトさんも、冬月も、長髪のオペレーターみたいな彼だって、あ〜、『破』と『Q』のあいだにいろいろあったんだろうなあ、俺にはわからないし、わからない、語られないからこそ、いろいろあったんだろうなぁ……。

そう、全然わかんない話でしたよ。それはもうシンジくんだってあんなにもなるだろ、っていう。冒頭から「やべえ、先週『破』をテレビで観ておけば良かった!」ってなったけど、ハッキリ言って、そんなの関係なかった。でも、わかんなくても、良いや、だって色々あったもん、ってなった。だから、自分から探しては誰の解釈も読もうと思わないし、聞きたくない。その代わりにただ「俺のなかであのときなにかが死んだ気がするんだ……これからどうやって生きていけば良いんだろう……」って生ビール飲みながら静かにつぶやいているのを(さまざまな意味で)愛する人に聞いてもらいたい。そして「そんなこと言われても、どうにかしてやってかなくちゃいけないし、なんなら、どうもしなくてもいい」って励まされたい……。

でも、何度だって繰り返しますけど、最高だったんですよ!!!!! でも、同時に何かを殺されるし、なんか、こう……早く介錯してくれ、っていう気持ちになる、っていう。まだシリーズは終わってないんだけども、なんか終わった。

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The Jesus & Mary Chain / Original Album Series Box Set

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JESUS & MARY CHAIN  5CD ORIGINAL ALBUM SERIES BOX SET
JESUS & MARY CHAIN(ジーザス&ザ・メリー・チェイン)
Warner Music (2010-02-27)
売り上げランキング: 7144
最近は、なんかもうロックとかは良いんじゃないか、手持ちのロック・ミュージックの音源さえあれば、新しいのに出会わなくとも、ほら、ブラジル音楽やソウル・ミュージックのほうが素敵じゃないですか、とか思っていたのである。

が、当ブログがもっとも言及しているブロガーであるtdさんが「一番好きなのはJesus & Mary Chainかもしれないですね」とおしゃっていたのをキッカケに、かのバンドの名盤ボックスを買ってしまい、そして狂ったように聴きまくっているのであった。The Jesus & Mary Chain、通称ジザメリさんである。すでに評価された音楽ばかり聴いているのであるから、保守趣味、と揶揄されても致し方なし、しかし、アラサーになってもこうして「おお、これはなんと素晴らしいロック・ミュージックなのであろうか」と小躍りしたくなる出会いがあるとは思ってもみなかったですね。なんか、こう、年を取ったらどんどんセンスが凝り固まっていって「オイラはもうレゲエしか聴かないダス」とか「AOR以外は音楽と認めない」とか「モーツァルト以外はウジ虫同様に価値がない」とか言いだすのかと思ったら、どんどん新しいモノが入ってくる(ジザメリさんは新しくないけれども)。

もちろん、まったくもって宇宙人的なもの、異人的なものではなく、これまでの趣味の延長線上に位置づけられたりして、ジザメリさんであれば「このザーッというギターの音は、マイブラさんみたいであるなあ」とか思って聴いてたりするんだけれども(マイブラさんには特に思い入れなし)、これまでの趣味が拡張されていく、というか、おお、こういうロックも俺好きだったのか、とか思って多幸感に包まれる。この名盤ボックスには、1985年(俺の生まれた年だ……)から1995年までの5枚のオリジナル・アルバムを収録。デビュー盤から順番に聴いたんだけれども、一枚目のザーッとかギャンギャンとか言ってる工場のごときギター・ノイズとポップなメロディのギャップ……からの調和がなんとも奇跡的に思え、しかもコレ、激しいけれども全体的にペラっとした音像ではないですか、これはなんだ、甘いのか辛いのか、濃いのか淡いのか、よくわからないけれども狂おしく好きになってしまった。

その後、いきなり2枚目から工場的なギター・ノイズは聴かれなくなり、音もどんどん洗練されていくのだが、都会にでたという幼馴染の女の子が10年後、たまたまお盆のときに出くわしたら垢ぬけててビックリした……ようなそういう感覚をもちつつ喜んで聴いている。攻撃的な音が、どんどんまろやかになっていく変化のプロセス、そのための時間をすっ飛ばして聴いているわけだから、リアルタイムの人が受けた衝撃とは違ったものを聴いているわけだが、一枚目が含む、甘いのか辛いのかわからない、その複雑な感じが、なぜか切なく聴こえてしまって、要するに全部好きになってしまったんだよ。

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ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(4)

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パサージュ論 第4巻 (岩波現代文庫)
W・ベンヤミン
岩波書店
売り上げランキング: 248252
ここまで淡々と『パサージュ論』を読んできましたが、この第4巻が一番取りつく島がない、というか一番難しい巻な気がします。「サン=シモン、鉄道」、「陰謀、同業職人組合」、「フーリエ」、「マルクス」、「写真」、「人形、からくり」、「社会運動」という項目が収録され、有名な社会主義思想家の名前が挙がっている。しかし、こうした重要そうな名前がこれまでの項目で窺える「未完成のパサージュ論」とどのように繋がるのかがよくわかりませんでした。

マルクスはまだ良いとして、フーリエですよ。マルクス & エンゲルスに「空想的社会主義者」として批難されたあの、シャルル・フーリエの愉快極まりないトんでるユートピアが紹介されているんですが……トんでいるとは言え、これは一種の都市設計なのであり……云々、とでも言うつもりだったのでしょうか……。「フーリエ」の項は『パサージュ論』のなかでも特別に異色な感じがします。フーリエが提唱するユートピアが実現すると、海水がレモネードに変わり、ライオンのような猛獣も郵便事業に役立てることができ、人間が水中に住んだり、空を飛んだりできるようになる……! とかそういう楽しげな感じのことが言われており、また惑星のパワーが人間に与える影響などは占星術的でもありますから興味深い人ではあるのですが(転生のアイデアなどは20世紀のニューエイジ思想にどれだけ影響を与えているのか、など個人的には気になる)、スゴ過ぎてよくわからない。

「サン=シモン、鉄道」という項にしても大体労働者がどうした、とか、どんな風に新聞が売ってたとかそんなことばかり書いてあって「鉄道」の話はどこへ消えたのか、という具合。「写真」や「人形、からくり」の項が辛うじて読めそうな雰囲気があるんですが、うーん、こういうものしか読めないのも、ベンヤミン = 20世紀消費社会論のパイオニア、みたいな観点からしか読めていない、という悪い傾向なのかもしれません、が、わっかんなかったですね……。ホント、3巻読んだときに、うん、ベンヤミン、読めるぞ! という感じがしたのが幻だったかのようだよ……

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Cassiber / A Face We All Know

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A Face We All Know
A Face We All Know
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Cassiber
Rer (2008-08-19)
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今月初頭からの回顧モードにより、レコメン系の音楽への興味が再燃しつつある。手始めにCassiberの4枚目を会社の上司からお借りした。Henry Cow末期からのクリス・カトラー、フレッド・フリスらの活動はさまざまなバンドが同時平行で動いていて複雑極まりないのだが、こちらはArt Bearsを解散させたあと、1982年にクリス・カトラーが、ハイナー・ゲッベルス、アルフレート・ハルト、クリストフ・アンダーズと結成したバンドである。4枚目は1990年、この前のアルバムからハルトは脱退しており、3人編成でのスタジオ盤。クリス・カトラーの書いた詩と、トマス・ピンチョンの『重力の虹』のテキストによって構成された、ポストモダン・ニューウェーヴ(って呼んでおけば、なんとなく格好がつくんでしょう……?)でございます。

カトラー先生の詩について審美するほどの知識はございませんが、速度と硬度がエラいことになっているドラムはフェティッシュな感じで好きです。ここでサウンドの中心となっているのは彼のドラムと、ゲッベルスによるサンプリングであり、これは解体と再構築の音楽であるなあ、と思ったり(大友良英のGround Zeroが1990年結成ですが、音的には通ずるものがある)。このサウンドで、テキストがピンチョン、ってもう狙いすぎている感さえあるんですが、1990年ってそういう時代だったんでしょうか。

ただ、1989年にベルリンの壁崩壊、1991年にソ連崩壊、ですからバキバキの左翼であったカトラー先生的には思想的に大きく揺らいだに違いなく、そんなときにピンチョン、っていう、アメリカのサブカルチャーの権化みたいな作家を取り上げている、っていうのはなかなか味わい深い。デリダとかドゥルーズとか、そういうもっと面倒くさい方向にいくほうがありそうなのに。1990年は『ヴァインランド』が発表された年でもありますが、ピンチョンがよりポップな感じに流れていくのはその後で、この当時はもっとアナーキーな作家だと思われていたのかなあ……。

Gravity's Rainbow
Gravity's Rainbow
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Thomas Pynchon
Vintage Books USA
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飯田泰之 『飯田のミクロ 新しい経済学の教科書1』

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飯田のミクロ 新しい経済学の教科書1 (光文社新書)
飯田 泰之
光文社 (2012-10-17)
売り上げランキング: 8940
「あの」(!)飯田泰之が「新しい経済学の教科書」シリーズの第一弾を執筆! 第一弾はミクロ経済学! マクロ経済学を専門とする飯田がどのようにミクロ経済学を料理するのか!? といったところが注目されていそうな本書ですが、刊行されてからそんなに話題になってないのがアレです……けれども、とても堅実な良い本。最近でている経済学がらみの本ではクルーグマンやケインズのマクロ経済学の本をいくつか読んでおり「マクロ経済学を適当に読んでおけば、新聞読んでなんか知ったような口をきけるようになるんじゃないの〜?」とか鷹を括っていた私でしたが、いきなり「マクロ経済学のひとつひとつの想定にはミクロ経済学的な基礎があります」(だから、ミクロから入るのが妥当だよ)とたしなめられたような気分になりました。

分かりやすいつもりで書いてるのだろうが伝わってない変な比喩やつまらない冗談など一切なし、「サルでもわかる!」とか「絶対わかる!」とか煽ってもいない、あえて悪い言葉で言うと「地味」とさえ言える書きぶりが逆に鬱陶しくなくて、抵抗なく読めるのがまず良いところ。

しかし、そうした地味さのなかで「経済学者が無意識に使ってしまって、一般には理解されにくい経済学の思考法や価値観」についての説明が丁寧におこなわれています。ここでは経済学がなにを前提として進められてきたのか、どういった状態を経済学は「良い状態」としているのか、などが要所要所でしっかりと定義されながら話が進められていく。これが読者を迷い道に進ませない工夫として設けられているように思われます。そこを押さえていると、さまざまな分析手法や考え方も「なにを言うための道具なのか」というところが分かってグッと面白くなっていく。読後に「あ、経済学ってこんなに人間的な学問なのか」という風に経済学に対する印象が変わった感じがするのは、この部分のおかげが大きい。

また分析対象が後半になるについれて大きくなっていくのも面白いです。最初は個人消費者から始まって、次に企業間の競争、それから公共経済の話……という風に話のスケールが大きくなり、それに応じて分析方法も難しくなっていく。最後のほうで取り上げられている例は、環境権であるとか再分配政策であるとかミクロの話かどうか判断がつかなくなってきますが、大きな分析対象のなかでの個人のふるまいへと話が還元されていくのでブレてはいないのでしょう(逆に、大きな話をしているほうが、新聞に載ってるような経済政策的なお話とマッチして『教養』っぽさもある)。

惜しむらくは、堅実過ぎて売れないんじゃないか、と心配になる点(『絶対わかる!』とか『これ一冊で!』とかついてたほうがやっぱり売れそうだし、あと、池上彰が書いてるとか。『飯田の○○』って冠がついても、新書でお手軽に教養を身につけたい、と普段から思っている新書消費者は知らないのでは)。あと、数式を(少ないとはいえ)使うなら横書きの本のほうが良いよなあ、とか。

経済学という教養 (ちくま文庫)
稲葉 振一郎
筑摩書房
売り上げランキング: 176378
「教養としての経済学」であれば、そのものズバリ『経済学という教養』という本を思い出してパラパラめくってみたら「日本の経済学史と公共社会論」というこの本の性格が、この『飯田のミクロ』のずーっと先のほうにひもづいているような気もしましたね。

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Donny Hathaway / Original Album Series

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DONNY HATHAWAY - ORIGINAL ALBUM SERIES
DONNY HATHAWAY(ダニー・ハサウェイ)
Warner Music (2010-02-27)
売り上げランキング: 5727
今年の夏に下北沢のソウル・バーにいってなにかに開眼した瞬間に思ったのは「そうか、白人がソウルをやろうとしたらAORになったのか! そういうことだったのか!」ということだったんだけれども、さっき『東京大学のアルバート・アイラー』を読み返していたら、こんな記述に出くわしたのだった。
1960年代末に、バークリー・メソッドはジャズの理論としてのアップ・グレードをやめ、自らの可能性の中心に従って線引きを行い、自らの領域を確定させます。こうして、ジャズの現在からは手を引いたバークリー・メソッドは、その後、JBらが作り出したファンクやニュー・ソウル・ミュージックなどの新しい黒人音楽を、和声的にソフィスティケーションするための理論として、「スタジオ・ミュージシャンの時代」を支える理論として、もっぱら使われるようになっていきます。(単行本 P.194)
この記述のあとに、バークリー・メソッドによって作られたポップスの代表としてあげられているのがドナルド・フェイゲンだったので、ソウル・バーでの閃きはあながち間違いではなかったのだな……。

1970年代のいわゆるニュー・ソウルと呼ばれる人たちは、音楽的には商品としてめちゃくちゃに洗練されていながらも、むちゃくちゃに怒っている、というところが興味深く思われ、たとえばカーティス・メイフィールドのソロ一作目(1970年)では「Sisters! Niggers! Whities! Jews! Crackers! Don't worry, If there's a Hell below, we're all gonna go!」というシャウトからはじまり、これもまた音楽から感じられる20世紀の歴史のひとつであって、聴いていると20世紀のアメリカの歴史を、とくに人種問題の変遷から勉強したくなってくる。こうしたエモーショナルなメッセージを骨抜きにして、代わりにオリエンタルなものであったり、SF的なものを詰め込んだのがスティーリー・ダンだったのではなかろうか(妄言)。

ダニー・ハサウェイもまた怒りまくってるミュージシャンのひとりだったはずだが、なんかこの人は音楽的な深化の仕方がカーティス・メイフィールドやマーヴィン・ゲイなどとも違っていて、驚かされるばかりなのだった(1970年にデヴューして、1979年に33歳で自殺してしまう、というバイオグラフィーが切ない)。1973年、生前に出した最後のオリジナル・アルバムが『Extension of a Man』ですよ、訳したら「人間の拡張」で、なんかタイトルからしてギャラクティックな雰囲気が漂うんだけれども、一曲目からラヴェル & ガーシュイン風のフル・オーケストラ伴奏によるゴスペルから始まるんですから「これは拡張されている……!」と納得です。邦題は『愛と自由を求めて』なんだけれども、こっちのほうが説得力に欠ける気さえする。コーラスから、エレピのソロに入り、2曲目の「Someday We'll All Be Free(いつか自由に)」へと繋がる流れは、ちょっとスゴすぎるだろう……こんなスゴい音楽が世界に存在するとは、みたいに腰が抜ける。

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James Brown / Five Classic Albums plus Bonus Rare and Live Tracks

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Five Classic Albums Plus
Five Classic Albums Plus
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James Brown
Real Gone Jazz (2011-11-29)
売り上げランキング: 84494
しばらく前から大きなレコード店にいくと各アーティストごとの「過去の名盤詰め合わせ」ボックスみたいなのが驚くほどの安さで売っているのを見るようになった。タワーレコードだと5枚組で2000円とか、Amazonで買うと1500円ぐらいで、そのアーティストの代表作が一通り揃ってしまうんだから、中古盤をわざわざ探して一枚一枚揃えていくよりもずっと安く、手軽に音楽が聴けるのだからなんか恐ろしい感じさえする。歌詞やパーソネルが書かれた紙は省略されているとはいえ、そういうのはインターネットでも読めてしまうし、とくに自分が聴いたことのないジャンルの音楽を掘り起こしていくのには超絶的に便利。

今、タワーレコードのR&Bコーナーにいくとすごいですよ、そんなボックス・セットばっかり売っていて「こういうのも音楽の聴き方を変えてしまいそうだなあ」と思ったりする。「iPodとiTunesの登場によって、アルバム単位での音楽の聴き方が解体された」などと昨今の音楽聴取論では言われているけれども、別なところで違った「アルバム単位からアーティスト単位で聴く」という変化が起きている。2000円程度の出費で、あるアーティストの代表作が揃い「わかったような気分になる」のは、なにか邪悪な感じがしないでもないけれども、これってまるで新書を買って、お手軽に教養を身につけるのに感覚としては近い。それと同時に「20世紀の音楽はすっかり歴史になってしまったのだなあ」という感想も抱いてしまうのだけれども。

そんなわけでファンクの帝王、ジェームス・ブラウンの音源も1000円ぐらいで手に入ってしまうのだ……。「Five Classic Albums plus Bonus Rare and Live Tracks」は、59年から61年のあいだに出されたアルバム5枚に未CD化だった音源やライヴ音源をCD4枚にコンパイルした編集盤である。これはちょっとスゴいですよ。とくに4枚目は時代がちょっと飛んで70年代以降のライヴ音源になっているんだけれども、JB先生のバンドはもうバキバキにホットなファンク期に移行しきっており、1枚目から順番に聴いていくとビックリな流れができあがっています(この4枚目だけでも買って良かった感がある)。

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キリンジ / Super View

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SUPER VIEW (初回盤)
SUPER VIEW (初回盤)
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キリンジ
日本コロムビア (2012-11-07)
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先日、弟である堀込泰行の脱退(する予定)が発表された兄弟バンド、キリンジの新譜を聴く。これが9枚目のアルバムで、すでに10枚目のアルバムが予告されているんだけれども(これには弟は参加するそう)インディーズ・デビューから15周年だって。最初に聴いたのは、宮村優子のラジオで「牡牛座ラプソディ」が使われていたときだろうか。実のところ、真剣に聴き始めたのは2008年に出たベスト盤からで、その後にでた8枚目のオリジナル・アルバムは「うーん、なんか地味では……わるくはないんだけれど」という印象がありましたが、今回のアルバムを聴くと、なるほど、そういうことだったのか、と膝を打ちたくなる。前作は、それまでより軽みのあるポップス、しかし、骨太感は増大モードへ、という移行期だったのかなあ、と思います。

そしてその流れは今作にも受け継がれている。大都市郊外の閉塞的な感じから、もっと広がりのある世界に言っている感じ、というか、歌詞とかも「今度はなにをはじめたんだろう……」というぐらい自然のフレーズがでてくるし、月並みな表現ですが、気がついたらメロディを口ずさんでたりする楽曲が多いんだよなあ、「い〜つも〜、かわいい〜」とか。アート・ワークも含めてすごくユニークで魅力に満ちた作品に仕上がっていると思いました。なんか聴いているうちにどんどん好きになっていくな……。もしかしたらこのバンドって「エイリアンズ」であったり、「Drifter」であったり、ああいうザッと心を掻きむしっていく感じの曲を求められているのかもしれないけれど(そう言う意味では、先行で出ている配信シングル曲「祈れ呪うな」がそうした楽曲か。これはWilcoでのネルス・クラインみたいな音像のギターが最高で、遊びで暗喩で物語っていく感じも好きだ、風刺詩人の仕事っぽい)、そうじゃない、ネクスト・ステージに進んでる感じがする。そして、良い。

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マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』(1)スワン家の方へI

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ベンヤミンを読んだりしていたらプルーストを読み返したいな〜、と思っていたんですが、さすがになかなか着手できず、しかし、その瞬間はいきなりやってくるわけで、ある休日の昼にオニオン・スープを作っているあいだ、パラパラと読み返していたら、もう完全に再読モードに入ってしまっていたのでした。この集英社文庫のヘリテージ・シリーズにこちらの鈴木訳がはいりはじめたのがまだ学生の時分、第13巻を読み終えたのはこのブログによれば2007年4月とあります。ひとまず第1巻を再読了!

例のごとく細部の記憶は一切ない状態での再読なんですけれど「え、こんなに面白かったっけ!?」と驚きながらページをめくり続けていたのは、私のほうの読み手としての変化もありつつ「ガッツリとした強烈な物語性みたいなものはない」ということを知っているからでもある気がします。個人的な趣味としては、こういうのって完全にストライク・ゾーンから外れるんですが、読んでいて気持ちよいテキストがページいっぱいに広がっているだけで楽しいですし、なにかひとつ、読み方が見つかるとすごく面白く読めるんだな、と思います。思い返すと初めて読んだときは「いま、俺はあのプルーストを読んでいるんだ!」と舞い上がっていて、ちゃんと読めていなかったような。

これだけ長いとホントにいろんな読み方があると思うんです。今回とても楽しく読めたのは、プルーストが描く細やかな人物描写でした。登場人物の趣味から性格からさまざまなことを語り手は分析し、批評するんですがその執拗な感じ、時にはまるで悪意でもあるのでは、という書きぶりがたまらなく良いのですね。例えば、語り手の祖母が、孫の部屋に美しい史跡や風景の写真を飾らせたいのに写真という機械による表現は通俗的だと考えて忌避した、とか、あるいは語り手の叔母に仕えていた女中が家庭にある医学書を読んで、その痛々しい描写に涙する、とか、ひとつひとつが小話みたいに面白い。

もちろん回想小説でもあるわけですから、そのまなざしが語り手自身に向けられることもあって、そこも良いんですよ。眠れない夜に母親が読み聞かせてくれたジョルジュ・サンドの小説は恋愛描写が全部省かれていた、でも、その省略によって小説のなかの登場人物たちの関係性の変化が神秘的なものとして理解された……とか。基本的には期待と幻滅の繰り返しがこの小説のライトモチーフのひとつだと思うんですが、これだけ妄想力があれば、そういう人生を送るわなあ……。

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Miles Davis / Doo-Bop

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Doo Bop
Doo Bop
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Miles Davis
Warner Bros / Wea (1993-05-31)
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Twitterなどを見ていると時折「あれ、この人、こんなことを言う人だったかな?」と思う瞬間がある。年を取ったり、付き合っている人が変わったり、日々人間は変化していくものなので、同じ人がずっと同じ考えでいるわけはないとはいえ、それは長い時間をかけた連続性をもつ変化だから周囲も気がつかないことのほうが多い。大きな事件や事故で大きく人間性が変わるなら誰しもがその変化に気づく。インターネット上で「あれ?」と思うのは、なんか今この人は勢いに乗ってる感じがするな、なんだか有名になってきているな、というときの変化だったりする。

山形浩生さんが「フォロワー数で変わるツイッターのメディア性」という記事に書いている通り、インターネット上では、自分が好ましいと思う反応だけを取り出してしまうので、他人からの批判が耳に入らなくなり、自分の間違いに気づかなくなる、ということがある。それとは別に、そうした人気者が、自分のまわりに形成される取り巻きのようなものの期待に応えるためのアウトプットをしていることもあると思う。人気者が「こんなことを書いたら、読み手は喜ぶだろう」という予測に基づいてネタを吐き出す。それに対して、取り巻きが「いいね!」したり、星をつけたりする。それが一層、人気者の「周囲の期待に応えよう」という動機を強くする(しかもそのとき批判的な反応はザックリと消されてしまう)。そうするとひとつのサイクルのできあがりである。

承認欲求と承認にともなう快でまわる経済、とでも言うのか、この凄まじい循環から抜け出せる人はなかなかいらっしゃないようである。ただ、そうして人気者が変な方向にいき「あー、なんかこの人、最近、きっついな」と思ってきたら、私の方から見ないようにできるのがインターネットの特質でもあるから大した問題ではない。時折、風の便り的なもので聞こえ伝わってくる情報で「あ、まだあんな感じなのか……」と感慨深い感じになってしまうこともあるんだけれども。変なことにならずに、インターネットという道具を冷静に使える人気者の人は、長いスパンでの人気を維持しているようにも思う。

承認欲求はめちゃくちゃ強かったはずだが、周囲の期待とかはあんまり考えていなかったであろう、マイルス・デイヴィスは。リリース20周年だがとくに記念盤が出ているわけではない遺作『Doo-Bop』を聴く。アガパン期からの活動停止、からの復活以降マイルスについては、ちょっと……えーっと……みたいな感じであって、それは現在の松本人志のキツさとも重なるのだが、とにかく、キーボードの音色がヤバいのと、ブート盤で聴いたライヴでのマイルスのラッパが泣けるほどのヨレヨレであって、音がカスカスの「Human Nature」が半ばトラウマになっている。とはいえ「果たして復活以降のマイルスに再評価はくるのか?」と常日頃思っていたのだが、これは良かった。カッコ良い。 もしかしたら時期的に今一番カッコ良いマイルスのアルバムは『Doo-Bop』であるのかもしれない。

マイルスは死ぬ間際にヒップ・ホップにいった、最後まで革新をやめないスゴいミュージシャンだ、マイルスはエラい、スゴい、よっ、帝王、というのがこのアルバムに対する世間的な評価である。なんでも、ある夏の日、マイルスがマンションのドアをあけていたらストリートの音が部屋に入ってきて、彼はこのアルバムでそのストリートのサウンドを表現しようと思ったんだって。しかし、これが90年代初頭のストリートの音なのか。マイルスが亡くなった1991年、日本はバブル末期、ソ連崩壊、俺6歳となんかスゴい年だが、ヒップ・ホップというよりも、広い意味でブラック・コンテポラリーを指向しているようにも思われ、それがイージー・モー・ビーの趣味によるものなのか、ジャズとヒップ・ホップをあわせたらこうならざるをえなかったのか、よくわからないが、強烈に夜っぽい印象が残る不思議な魅力のアルバムだ。

それにしても、マイルスのアルバムを自覚的に聴くようになってもう10年ぐらい経っているんだが、まだ掘るところがある、まだ驚かされる部分がある、っていうのはホントにすごいと思いますよ……。

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Yes / Relayer

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Relayer
Relayer
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Yes
Elektra / Wea (2003-08-25)
売り上げランキング: 32532
いまだ金曜日の夜にtdさんとの天狗ブチ上がりナイトでの話を反芻してほくそ笑みながら過ごす日々である。「天狗」といっても我々が天狗になって調子の良いことを言っていたわけではなく、居酒屋チェーンの天狗でブチ上がった、という話であって、なぜ、こんなにも「天狗」なのか、についてはこちらのエントリーを参照されたい。読めば貴方も必殺のサイコロ・ステーキをオーダーしに天狗へ向かいたくなるはずだ。そしてどなたか、仙台に天狗を再出店してください(その際、喜び勇んで新幹線で仙台に参ります)。

ところで、ダッシュボードに白いファーを装備しているワゴンRは都内周辺だとあまり見ないものなのか(車とあまり縁のない生活をしているからなのか、余計に見ないような気がする)。いわゆるヤンキー文化の象徴ともいえる車両だが、私も地元・福島では馴染み深いものだったため、なんというか「郊外文化の象徴」、「田舎文化の象徴」みたいな形で言葉として使っていたのであるが、tdさんは「それはウチのほうじゃ冗談じゃないから」とおっしゃられていた。詳しく聞けば、リア・ウィンドウのスモーク、シャネル・マークのカッティング・シート、アパートから出てくるのは上下グレーのスウェット姿・キティちゃんのサンダル姿の若いお母さん……それらのイメージの中心にダッシュボードに白いファーを装備しているワゴンRが鎮座ましますヤンキー文化の曼荼羅が脳裏に浮かび上がる。

驚いたのは、いまだに浜崎あゆみのあの「π」みたいなマークを貼付けている車がある、という話で、やはりその文化圏ではアユさんは根強いアイコンであるのだな、と感心してしまった。「文化圏」といえば、マイルドな言い方に聞こえるが、要は階層の話である。親から子どもに引き継がれるのは金銭的な財産だけではなく、教養や教育などの文化資本も同様であって、そんななかで格差は助長されるのだ〜、みたいな話をしていたのはブルデューだったはずだけれど、もうあまり覚えていない。そのアユさんのアイコンも曖昧な記憶のなかのブルデューの言葉を借りれば、その階層のなかで再生産され続けている、ということであろう。私が福島の地元にいた頃(およそ10年前)に見たものが、あり続けている、とは。その階層のなかで文化資本が独自の経済圏を築いているのでは……。

とか言っていると「そう言う人たちをバカにしているのでしょう」という風にすぐ怒られてしまうのだけれども、そういうつもりではなく、社会的なものをマジマジと見せつけられる瞬間に、自分が生きている社会というものを実感するからマジマジと見てしまう、という感じなので、他意はございません。

さて、引き続き回顧モードであるため、イエスの『リレイヤー』を聴いていた。74年に発表され、リック・ウェイクマンが脱退後、後釜としてバンドに加入したパトリック・モラーツが唯一参加したアルバムとして有名なアルバムであり、というか、そればかりが言及されるので音楽的な面はそんなに注目されていない可哀想な作品であると思う。いや、久しぶりに聴いてビックリしましたね。20分越えの超長曲 + 10分程度の長曲2曲という構成は『危機』に連なるものとしても、こんなに尖ったアルバムだったのか、と。

スティーヴ・ハウのギターなど、このバンドのディスコグラフィーのなかでも最高潮にアグレッシヴ、アナーキーでさえあり、まるで何かに焦っているようである。このひとつ前の『海洋地形学の物語』がLPで言うと1面1曲で4曲2枚組という恐竜的アルバムであり、プログレが急速にダメになる瞬間を捉えたものだったからなのか。パトリック・モラーツのキーボードのキレキレ感に煽られたものなのか。SE的に挿入されるシンセサイザーの音も、ズギャアアァァンとか、ドルドルドル……!とか、グォォオオオとかほとんど『バオー来訪者』の世界だ。リック・ウェイクマンの後任にはヴァンゲリスも候補にあったというけれど、ヴァンゲリスでは決してこんな感じにはならなかっただろう。逆にヴァンゲリスが加入していたら、その後のイエスがニューエイジ先取りのようになり、プログレ不遇の時代も乗り越えてしまって「ロンリーハート」も生まれなかったのでは……(ジャン! ドリロルロルン!)

回顧モードもイエスまで遡れば回顧しきった感がある。これより前は北欧のスピード・メタルとかボンジョヴィだとかになるのでこれ以降は黒歴史におけるロスト・マウンテンとしておきたい。手元にある『リレイヤー』のCDも通っていた塾の先生に借りたものな気がしてきた。

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Otto Klemperer, Philharmonia Orchestra / Georg Friedrich Händel: Messiah

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ヘンデル:オラトリオ「メサイア」
クレンペラー(オットー) シュワルツコップ(エリザベート) ホフマン(グレース) ハインズ(ジェローム) ゲッタ(ニコライ) フィルハーモニア合唱団
EMIミュージック・ジャパン (2007-12-26)
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(音楽ブログ復権キャンペーンの一巻として、無造作にエントリーを書きまくっています)

そういえば先日のAOBA NU NOISEだが、このイベントの主催であるkamadaくんは無類のテキーラ好きであり、イベントともなればボトルを一本お店に入れて、メーンに振る舞ったりしたあげく、明け方の宇田川町でキャタピラーのように丸まっていたりするナイスガイである。彼に記憶があったかどうかは不明だが、アルゼンチン人と飲み比べても負けないという芋煮ファンクの申し子であるから、なにも問題がなかったのだろうと思う。さて、この振る舞いテキーラ、私もいただいていたわけだが、その晩から常日頃溜め込んでいたテキーラ欲みたいなものが再臨界してしまったらしく、自宅にもボトルを一本買い込んでしまったのだった。

あいにく我が家にはレモンがなかったので、塩を舐めては、ショット・グラスに注いだ黄金の液体をクイッ、と煽ったり、またはビールで割ってみたり、と男らしい飲み方をしていたのだが、飲めば飲むほど魂の奥底に潜めた獣性が雄叫びをあげ、現世に転生する何回前かの人生において自分はアリマッチだったハズだ、というヴィジョンを感覚として理解できる。さきほどネットで調べたら、トマトジュース、そしてテキーラを順に口のなかに含み、口内でシェイクしたうえに飲む、という飲み方もある、と知って試してみたのだが、これは無限にテキーラが消費されてしまうのではないか、という魔界じみた飲み方であった。健康にも良さそうだが、歯茎からアルコールが回ってくる感じがして、人間のダメになりかたも激しそうだ。

そんなテキーラとはまったく関係なく、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》を聴いていた。大バッハと同じ年に生まれたドイツ人作曲家で、主にイギリスで活動していたバロック音楽の代表的作曲家の人の大作である。ハレルヤ・コーラスが入っていることでとても有名な楽曲だが、全曲聴いたことがある、という人はクラシック・ファンでなければいらっしゃらないであろう。私が通っていた大学では、毎年大学のオーケストラがクリスマスの時期に演奏していたが(英国国教会系の大学であったため)、その当時、キリスト教文化的なものにあまり興味もなかったし、大学自体が嫌いだったため、学生時代はフルで聴く機会を常に逃していた。それをちょっとだけ後悔したくなるような大名曲であって、これをヤラれたら、感動してしまうよなあ、と思う。大バッハの《マタイ受難曲》と並んで一大宗教絵巻、とでも言えようか。ここぞというときに使用されるフーガもキマりまくっており、ラストのアーメン・コーラスなんか、ほとんど霊感が極まりすぎて別次元にいっている音楽だと思う。

演奏はオットー・クレンペラーの1964年の録音。こういうのを聴いていると、なんだか典型的なクラシック・オタクっぽい感じの、王道を進んでいるなあ、という感じがするが、王道の何が悪い! と吠えたくなるほどに良い。大時代的、という表現がよく似合う、暑苦しいほどに荘厳な世界ができあがっている。ブラームスの《ドイツ・レクイエム》といい、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》や交響曲第9番といい、合唱を含んだ楽曲におけるクレンペラーの巨大な音楽の作り方は、なんなのだろうか。性的なスキャンダルや奇天烈なエピソードに溢れた人が、こういう音楽をやってしまうのだから……私もテキーラを飲み続けてそういう境地にたどり着ければ良いのだが……。

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Stevie Wonder / Classic Album Selection 1972 - 1976

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Classic Album Selection
Classic Album Selection
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Stevie Wonder
Universal (2011-12-13)
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インターネットを通じた濃い付き合いと言えば、ここ2年ぐらいのあいだはHiro Hiraiさんクニ坂本さんを中心とした思想史・科学史の研究者の人たちと懇意にさせていただいているのだった(もともとはアダム高橋さんとの息の長い交流もあるわけだけれど)。そのなかで、Hiroさんは研究領域での仕事ぶりも恐れ入るところであるけれども、ソウル・ミュージック・フリークでもあって、今年の夏にシンポジウムや特別講義で来日した際の打ち上げの第X次回、下北沢のソウル・バーで一緒に飲んでいて、私のなかの眠っていたなにかを開眼させてくれた方なのでもあった。そういうわけで今年の夏は、それまでブラジル音楽ばかり聴いていた個人的流行が一区切りついて、スティーヴィー・ワンダーやカーティス・メイフィールドの音楽ばかり聴いていた。

私の根幹にはクラシックと、それからプログレという「白い音楽」があり、こうしたザ・ブラック・ミュージックについては門外漢(ジャズは聴いていたけれども)だったため、スティーヴィー・ワンダーをマジで聴いたときの、衝撃と言ったらなかった。なるほど、AORというものは、こういうのを白人が頑張ってやろうとした結果、ああいう感じになったのか、とも思ったし、マルチ・プレイヤーっぷりであったり、アレンジのスゴさであったり、また、音楽的な要素の多彩さであったり、これまで缶コーヒー「Fire」のCMや、マイケル・ジャクソンの「We are the World」でのイメージしかなくてスミマセンでした、と深く反省している。なんか良い人のイメージあったんですけれども(それは障碍者は頑張ってる、とか、障碍者はみんな良い人、という非常に問題のあるステレオタイプにも起因する)、こんなスゴい音楽を作る人は、地軸がズレた11次元宇宙から来た人間なのでは、と思わなくもない。そりゃあ、Yoshikiも誕生日で倒れるわ。

この『Classic Album Selection』は、最高傑作として評価されている1976年の2枚組大作『Songs in the Key of Life』を含む1972年からの4枚のアルバムを収録したボックス・セット。よくもこう連続で傑作群をリリースできたな、と驚くべき軌跡を記録したモノである。実はその最高傑作との呼び声高い『Songs in the Key of Life』は、内容の多彩さがあまりにスゴすぎ、詰め込み過ぎじゃないか、と思ってしまい、そんなに聴けてないんですけれども(ザッパのごとき、むちゃくちゃなハイテク・フュージョンである『Contusion』のあとに『Sir Duke』が入ってたりするんスよ、狂気!)、それ以前のアルバムはまとまりといい、聴いていて本当になんか良い気持ちになってしまうリラクシンなヴァイヴスと、血が滾る熱さが同居してる傑作感が全快なのだった。とくにスティーヴィー自身が叩いてるドラム、あれはなんか麻薬的なグルーヴがある。

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Henry Cow / Unrest

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Unrest
Unrest
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Henry Cow
Rer (2005-06-21)
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先日の金曜日の夜は、仙台からいい感じに気が違ったバンドやDJ陣が渋谷に襲来すると言うので久々にオールナイトのイベントにいったのだった。これにはニューウェーヴ番長であり、若手DJたちからも先生と呼ばれ慕われているtdさんもご出演されており、4年ぶりの再会、かつ、イベント前に聖地こと、天狗にてビア・ブラウンを飲んでブチあがり、必殺のサイコロ・ステーキを注文したら一番最初にでてきて「これはNumber Girlのライヴが『Omoide In My Head』から始まるような展開だ!」とブチあがり、Zazen Boysの新譜に収録されていた「ポテトサラダ」について話していたら、お通しがポテトサラダでまたブチあがり、テンションは成層圏を飛び出して、ラグランジュ・ポイントに固定された状態でイベントに突入し、大変痛快であった。ワイキキ・チャンピオンズのkamadaくんは相変わらずエクストリームな感じでバスドラに飛び乗ったり、なんか人間椅子と相対性理論を足して2で割ったようなモノ凄い異形感のあるバンドを見てしまったり、やはり途轍もないな、仙台、と恐れ入ってしまう。AOBA NU NOISE!

天狗でのブチあがりマッシヴな邂逅、っつーか、tdさんとはインターネットでの交流がメインであって、そういえば、一緒に座ってガッツリ飲む機会は実のところ初めてだったりしたのだけれども、炎上案件や陰謀論ばかりが蠢くように思えてならない昨今のインターネット世界において、こうして濃い感じで交流が持てるのは希有なことである、と思う。Twitterとか、ね、あれはあれで気軽な感じで良いのだけれども。音楽レビューを書いているブログがどんどん失われており、どんどんオールドタイプの側に追いやられているのかもしれないが、ガッツリと音楽について書き、そんでまた酒飲みながらそれについて話す、っていうのも、また音楽の愉しみで、そういう愉しみを共有できる人とのあいだにはマジで絆を感じちゃうわけですね。

さて、邂逅からの回顧モードになっており、Henry Cowの『Unrest』を聴いていた。今やインプロヴァイザーとしてのほうが知名度があるのかな? フレッド・フリスとクリス・カトラーは。いろんな意味でカンタベリー系の最左翼バンドが74年に出した大傑作アルバム。これを私は高校3年生のころに福島から東京に遊びにいって、新宿のディスク・ユニオン、プログレ館店内で流れているのを聴き「ぬぁんだ、これはぁぁあ!!」と衝撃を受けて購入したのだった(同時に、MAGMAの30周年ライヴ盤ボックスとかも買ってたハズ)。ある意味で、その後の人生を切り替えるような出会いであったわけだが、久しぶりに聴き直して、そのとき衝撃を受けた自分のセンスに賛辞を送りたい。

その後のHenry CowはSlapp Happyと合体したりして、3枚目からはそんなに好きじゃなく、このアルバムが私のなかでの最高傑作であったりする。とにかくアンサンブルの緊迫感がスゴいでしょう。コンポジションとインプロヴィゼーションのあいだの絶妙なバランスが、なんとも気持ち悪いですし、だが、そこが良い……。リンゼイ・クーパーのダークなリード楽器の音色といい、クリス・カトラーの異様に乾いた鋭いドラムといい、フレッド・フリスはMassacreのときのようなギターを弾いてもいるし、なんか最高だな、好きなもの全部入りじゃんか、もう辛抱たまらなくなってしまう。ちょっとこの雰囲気は、他になく、いわゆる「チェンバー・ロック」みたいなカテゴライズをされていても、他のUnivers Zeroとかとは全然違う、特別なサムシングがある。こういうものがまた廃盤になってるのかな? 中古でしか手に入れられないとは、なんとも嘆かわしい話。

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パウル・ツェラン 『パウル・ツェラン詩文集』

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パウル・ツェラン詩文集
パウル・ツェラン詩文集
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パウル ツェラン
白水社
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読み始めたのはずいぶん前のことだったと思うけれど、詩というのはなんか一気に読んだりするモノでもないのだろう、とか思ったり、ドイツ語の原文を調べたり(一応、学生時代は第二外国語が独語だったので発音は不正確ながら読めることには読める)、ツェラン自身の朗読の動画を観たりしながら読んだせいで読み終えるのに時間がかかってしまった。パウル・ツェランについて知ったのは、アドルノで卒論を書いたときに読んでいた細身和之の本だったはずで、これも長いあいだ気になってはいたのだが、手頃な値段で、今年に入るまで手に入れやすい詩集がなく、ようやく読めた感がある(とはいえ、これだって2400円もするんだけれど)。ツェランの代表的な詩と詩論のアンソロジー。これが企画されたのは、昨年の地震がきっかけだった、と編・訳者が解説で書いていて、それについては、なにか思うことがなくはない。はっきり言って、大きな事件に対してツェランを持ち出してくるのは(細川俊夫が広島について書いた曲のテキストに用いたと同じぐらい)安易な発想だと思う。

1920年の旧ルーマニアでユダヤ系の家庭に生まれたツェランは、第二次世界大戦中に両親を強制収容所で亡くしている。その出来事が彼の性格に傷をつけ、それを詩作にした……ざっくりとツェランについて紹介するなら、以上の文言ほど簡潔なものはないだろう。彼の詩作は、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という警句とほとんどセット販売のように語られ、そして実際、アドルノも「アウシュヴィッツ以降の詩」としてツェランに興味を持ち、実現はしなかったが対談の予定があった、と言われている(その対話はツェランの散文『山中での対話』で仮想的に実現された、と解釈される)。ひどい言い方をすればツェランは「悲劇の人」であり、それだけにその評価には同情票みたいなものがあるのでは、と思わなくもない。解説での視点もそうした「悲劇について書き続けた人」として作品が解釈がおこなわれているし、ツェランの作品を読むにつれて、アドルノがツェランに接触しようとしたのも、自分が体験しなかった/できなかった(そしてベンヤミンが受けた)傷を味わってみたかったのでは? という勘ぐりさえしてしまった。

最も有名な作品が「死のフーガ」という身も蓋もないタイトルだし、ここで読めるツェランの作品はすべてが自分の体験した出来事と結びつけて読むこともできる。死、喪失、痕跡、そうした強いイメージが平易な言葉や、転がるようなリズムと速度の音のなかでより一層深刻さ・乾きを浮きだたせる(訳はその雰囲気をかなり再現しているように思われる)。その一方で、これらの作品を、すべてツェランが体験した悲劇と結びつけて良いものなのだろうか? とも思うのである。彼の詩論を読めば、悲劇とはおよそ関係なく、ツェランが典型的なロマンティストであることがわかる。詩が時間を通り抜けて、永遠性へと到達し、どこかの誰かである「あなた」に届く可能性を、ツェランは詩にかけていた。それはアドルノが、批評において音楽を言葉に移し替える際に翻訳不可能なもの(浮動的なもの、とアドルノはそれを表現する)を捉えようと努力したこととも通ずる。

これに対してエリック・ドルフィーは「音楽は終わってしまうと共に消え去ってしまい、二度とそれを取り戻すことはできない」と言う。それは圧倒的に正しい。詩は永遠性を獲得することや、音楽の周りにうようよと漂っているサムシングを言葉で捉えつくすことは不可能だ。しかし、だからこそ、ツェランやアドルノはロマンティストなのであり、そうしたところから、私は、悲劇と切り離してツェランを読むことも可能だし、悲劇や傷から彼の作品を読むのは少し貧しいことなのでは、とも思う。

ここで後期の『誰でもないものの薔薇』から「頌歌(Psalm)」を引用しよう(P.63 - 64)。
頌歌

誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、
誰でもないものがぼくらの塵に呪文を唱える。
誰でもないものが。

たたえられてあれ、誰でもないものよ。
あなたのために
ぼくらは花咲くことをねがう。
あなたに
むけて。

ひとつの無で
ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
ありつづけるだろう、花咲きながら——
無の、誰でもないものの
薔薇。

魂の透明さを帯びた
花柱、
天の荒漠さを帯びた花粉、
茨の棘の上高く、
おおその上高くぼくらが歌った真紅のことばのために赤い
花冠。

Psalm

Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,
niemand bespricht unsern Staub.
Niemand.

Gelobt seist du, Niemand.
Dir zulieb wollen
wir blühn.
Dir
entgegen.

Ein Nichts
waren wir, sind wir, werden
wir bleiben, blühend:
die Nichts-, die
Niemandsrose.

Mit
dem Griffel seelenhell,
dem Staubfaden himmelswüst,
der Krone rot
vom Purpurwort, das wir sangen
über, o über
dem Dorn.
解説においてはツェランが、救済してくれなかった神に対する恨みをこめたもの(神に対する頌歌が、誰でもないもの、無へと捧げられている皮肉)とされている作品だが、誰でもないものの薔薇として咲き続け、そして同時に無である「ぼくら」は、支えるものが何もないイメージが湧いて、ツェランの思いがどうだったか別に、私はこの詩が一番好きだ。無でありながら、ぼくらは真紅の薔薇である、その矛盾のなかに、なにか、あったかもしれないこと、ありえたことに対する思いのようなものがチラつくような気がして良い。

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JVCケンウッド HA-FXD70

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JVCケンウッド JVC ステレオミニヘッドホン HA-FXD70-S
ビクター (2012-06-12)
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毎回1年とちょっとでコードを断線させてしまい、そのたびにヘッドフォンを買い直している俺ですが、昨年の購入したゼンハイザーのCX400-IIもまるでタイマーでも仕込まれたように1年2ヶ月ほど片耳から音がでなくなってしまったため、新しいのを買いました。今回は海外のメーカーをやめてJVCケンウッドが今年の夏頃に発売したHA-FXD70を選択。HA-FXDシリーズは「BOSEやSHUREなどの高級品には手をだせないが、iPodに標準でついてるヘッドフォンよりは良い音で聴きたいぞ」層向けの製品っぽいです。ステンレス削り出しや構造などに国内メーカーっぽいこだわりを感じさせる仕上がり。

詳しい仕様などは公式サイトをみていただくと分かりますが、男心をくすぐる説明が多々あり面白い。「ダイレクトマウントトップ構造」! 「カーボンナノチューブ振動板」! 屁の突っ張りはいらんですよ! 説明を読むとダイレクトマウントトップ構造だと、従来のヘッドフォンよりも密閉型エンクロージャーのスピーカーに近いのかな、とか思いましたが、詳しいことはよくわかりません。「クリアな音」を謳っているだけあって、たしかに音の分離がよく、また、ユニットが鼓膜よりも近くで鳴っているのにかなり広がりがある音になっています。

使用時に重要なのはイヤー・チップの選択です。これは説明書にも書いてありますが、付属しているS、M、Lの3種類から耳にフィットするサイズを選ばないと低音がまったくでない。すでにAmazonに寄せられているレヴューでは「低音がまったくでない」というコメントが寄せられていますが、アナタの使い方が間違っているのでは、と言いたい。私も最初についていたMサイズで試した時は「なんだこれは! 低音がまったくでてないぞ!(でも確かにキレイな音がする!)」と思ったのですが、Lサイズに変えたら低音不足問題が解決しました。イヤー・チップの選択だけでまったく印象が変わってくると思います。遮音性も素晴らしいです。

ただ、悩ましいのはLサイズだとちょっと大きすぎるのかな? という点。耳のなかが密閉されすぎていて、歩いているときなど足から音が伝わってくる(耳のなかに指を深く突っ込んで歩いているみたいに)のが気になる。密閉性の高いカナル型ヘッドフォンだとこんなものなのでしょうか?(他のメーカーで出してるイヤー・チップを試してみたい気もするし、装着の仕方でもちょっと事情が変わってきそうですが) ただ、この価格帯(家電量販店だと5000円弱、Amazonだと4000円を切ります)ではかなり良い音だと思うし満足な買い物でした。

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