鈴木翔 『教室内(スクール)カースト』

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教室内(スクール)カースト (光文社新書)
鈴木 翔
光文社 (2012-12-14)
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読んでいて学生時代の社会学のゼミで論文を書いたのが懐かしく思い出される新書。著者の修士論文を大幅に加筆修正してできあがった著作だそうだが、この本の「先行研究の検討 → 調査・分析 → 結論」の流れと方法論は、学生時代の先生に「こんな風に書きなさい」と言われたことそのままだったかも。研究所や論文だけではなく、サブカルチャーからも「スクールカースト(簡単にいえば、教室内で生徒児童のあいだにつけられた序列関係)」とはなにかをひとまず定めた先行研究の検討にはじまって、調査・分析で、先生や生徒からのインタヴューからさらにスクールカーストの実態が明らかにしていく流れが凄まじく良い。結論部でも、スクールカースト内の各グループが優劣なしの横並びであるという宮台真司の分析に反して、優劣ありの縦並びの関係になっていたことを明示していて、おさまりもキマっている。

もし、同じゼミでこんな論文書いてる人がいたら、嫉妬していただろうと思う。インタヴュアーとしても分析者としても、スクールカーストを「知らない人」の立ち位置で研究対象を見ているところが上手いと思ったし、しばらくこの本は(計量系とかマスコミ系じゃない)社会学部のゼミでの卒業論文を書く際のお手本になってしまうのでは。ヒットしているのも納得の良書です。

分析対象のインタヴュー・データもまた面白いんですよ。正直、わたし自身はかつての教育期間において「スクールカースト」を意識したことがなかったし(第一そんな言葉当時はなかったわけで)、いま当時の生活を思い返しても、あまりピンとこないものがある。地方の進学校で男子校というちょっと特殊な環境で、かつ、自分自身が「人と仲良くなれなくても、そんなに苦じゃない」性格であるんだろうけれど。

しかし、それでも、本書に載せられている、元高校生の口から語られた教室内の模様は「なるほど、そういうことはあるだろうな」と納得感を感じさせながら読めるものだったし、なかには「すっげえ、わかる」というものもあった(特に『ウチらのクラス最高!』と一部だけが盛り上がってる空気感の嫌さとか)。教師側へのインタヴューも、スクールカーストという文化を教師たちが(ある種、共犯的に)利用していることがわかったりして、なるほど、と思わせられる(ただ、教師のインタヴュイーは全員著者の知人で20代の若い教師という偏りがあるので、ヴェテラン教師がどうスクールカーストを考えているかは本書にはまったく表れていない。これは著者も問題視しているところ)。

生々しい関係性の描写とともに、著者はスクールカーストの負の側面を追求している。「いじめ」を誘発したり、そもそも「生きづらかったり」とか。とはいえ、その仕組みをまるごと外部から解体することは不可能なのも事実。明文化された制度でもないし、そういう序列関係ってパレートの法則みたいに勝手にできちゃったりするのだろうし。著者が「スクールカーストの苦しさへの対策」として薦めるのが「学校から一旦離れること」としているのは、スクールカーストを解体できないものとして捉えているからだと推測する。学校に通わなくても、高卒認定をうければ、もっと自由な人間関係が築ける大学にも進めるし、就職したらもっと自由になる。だから、今に絶望しなくても良いのだよ、というアドヴァイスは真っ当なものに思える。

ただ、このアドヴァイスは「別な選択肢」を選んだときのコストの高さに対して楽観的ではある。考えてみてくださいよ、「え、なんで高校辞めちゃったの?」とかその後イチイチ聞かれたりする面倒臭さ。学校を辞める本人だけでなく、その親も「大変ねえ……学校辞めちゃって」とか言われたりする面倒臭さ。以上はライトな感じの例に思われるかもしれませんが、そうした「普通でないこと」の面倒臭さを改善できないと、なかなか別な選択肢も選びにくいよねえ。

個人的に「コレは一番キッツいだろうなあ」と思ったのが、スクールカーストの順位づけの流動性が固定的である点。下のコは大体下だし、上がるケースはめったにない。この流動性の低さは、教師のインタヴューにでてくる「カーストが下のコは将来的にも不安」「社会でも求められてない人材に見える」という意見とあわせると、立派な社会問題にも見えてくる。一度、下のコになってしまうと、そのコは社会でも上手くいかないリスクを負うわけで。スクールカーストがパレートの法則的に自然にできてしまうのならば「別な選択肢」を選ぶことが自然になって、スクールカーストから抜ける人が増えることで、順位付けの再編成の機会も多くなり、流動性が高い構造が生まれたりするなら良いんだろうけれど……。

そもそもどうやって順位付けが行われるのか。これに対してもアンケート調査で、評価項目の洗い出しが行われている。その調査結果は「スポーツができる」、「見た目が良い」、「交際相手がいる」とか意外性があるわけではないんだけれど、結果を読んでいると、順位付けのシステムの謎は余計に深まっていくような気もする。例えば、会社だったら人よりも多くの契約をとってきたらエラい、みたいな明確な基準があるじゃないですか。でも、教室内では「勉強ができる」とか「スポーツができる」とか全然違う内容によって順位付けされてしまう。

これって、カレーライスとハンバーグ、(どっちが好きかじゃなく)どっちが優れているか、みたいな問題だと思うんですよね。この店のカレーライスとあの店のカレーライスはどちらが美味しいか、なら答えられても、まったく違うものの優劣は決めにくい、というか決められない問題です。にも関わらず、教室内では、なんとなく雰囲気で序列が決定する、という不思議さが端的に面白いです。ニクラス・ルーマン流にいうならば、そこでの決定に関わるパースペクティヴがどのようなものなのかが気になるところ。

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菊地成孔 『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っ ていた筈だ』

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菊地成孔の最新著作を読む。こちらは2005年から2010年までにプロレス・格闘技雑誌『kamipro』上で著されたインタヴュー記事をまとめたもの。隆盛を誇り、そして元気がなくしていった総合格闘技をめぐる批評は、さながらベンヤミン的であり、いわばリングのなかに星座(Konstellation)を見いだす仕事が記録されています。著者の格闘技関連の前著『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』よりも個人的にハマる部分は少なかったのですが(総合格闘技は当時まるで興味がなく、このころ既に、昔のプロレスの動画を一晩中見たり、飯伏幸太にいきなりハマったり、という間歇泉的な熱狂が年に数度あるぐらいの、ヌルいプロレス・ファンであったため)、総合格闘技の世界の急激な冷め方は(本書でも語られるように)バブル崩壊から鬱トピアに進んでいく社会が反復されたようにも読めますし、世紀末的でさえある。

本書でも白眉と言えるのは「ヤオ(八百長)なのかガチ(セメント・マッチ)なのか外部からは判断できない半ヤオ状態が、リング上のファンタジーを支える魔術である」と語られるUWF論でしょうか。日本相撲協会がヤオ/ガチをめぐって激震したことは記憶に新しかろうと思いますが、角界がUWF的な魔術的作法を行使でき、その視点を共有できる場があったならば、あのような惨劇はおこらなかったのではとも思います。なぜ、大相撲だけが潔癖さを要求されなければならなかったのか、そして、星の売買があったことがなぜあのとき問題とされなければならなかったのか。不祥事が連続していた時期だったことが不幸、としか言いようがないのかもしれませんが、建前上「今度からはホントにすべてガチです」となって以降の大相撲は、なにか歯切れの悪い苦しさがあるように思われるのです。もっとダーティな相撲界が、ポップで良かったのに……。

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ブルックナー / 交響曲第9番(朝比奈隆・東京都交響楽団 1993年ライヴ)

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ブルックナー:交響曲第9番
東京都交響楽団 朝比奈隆
フォンテック (2008-10-21)
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朝比奈隆の晩年にまつわる笑い話(冗談)のひとつに、加齢による聴力低下がオーケストラに対する過剰なヴォリュームを求め、それが巨匠的な演奏スケールを生んだ、というのがある。このたび、ほとんど初めて朝比奈のブルックナーを聴いて、そのホラ話にも一定の説得力があったのだな、と思った次第。

しかし、そうした老人性の痴呆じみた世界観こそがブルックナーの音楽にぴったりとマッチする面もあるわけで。現代のブルックナー指揮者筆頭であるところのスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが、理性を突き詰めたスマートさから、常人には計り知れぬ痴呆じみた忘我の世界へと我々を導くのに対して、朝比奈はその鈍重さによって、忘我の世界へと導くのではないか、と思ってしまう。この演奏のスマートではない印象は、もしかしたら東京都交響楽団の小回りの利かない技術的な部分もあるのかもしれない。しかし、だからこそ、一層の鈍重さな素晴らしさが生まれている、とも言える。

これがもしオーケストラがドイツに複数ある放送交響楽団のどれかであったとするならば、まったく違った演奏になっていたのでは(とくに南西ドイツ放送響とかだったなら……と思うのはミヒャエル・ギーレンの演奏があるせいか)。鈍重なブルックナー演奏といえば、まずはロヴロ・フォン・マタチッチがチェコ・フィルを振ったときの録音が思い浮かぶけれど、マタチッチの豪快さ/野蛮さと違って、朝比奈の指揮はマイルドに重く素晴らしい。

こうした演奏を生で聴けなかったのは残念だったな……とちょっと寂しくもなりますね。自分もこの数ヶ月、在京オーケストラの演奏を聴きにいかなくなってしまったけれど、思い返せばローカルなところでこういう質の高い音楽が演奏されていたわけなのだよ……。

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Daft Punk / Random Access Memories

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Random Access Memories
Random Access Memories
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Daft Punk
Sony (2013-05-21)
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Daft Punkの新作を聴く。ほとんど無意味なものとは思いつつも、音楽に対して(人種的な)色づけをしてしまうことは、音楽を語る際のクリシェとしてまだまだまかり通ってるわけで、その流れに乗りつつ話をすすめるのであれば、これは新しいAORなのであろう、と。それは私がAORというジャンルを(とくにニュー・)ソウルを白人が消化してみたらああいう感じになった、と考えているからで、ソウルやディスコへの多大なリスペクトを掲げつつ、現代のヒップ・ホップ文脈すらもソウルへと召還してしまう、これこそまさにAORなのでは、と思ったわけでございます。とくに感動的なのは、イタロ・ディスコのゴッド・ファーザーであるところのジョルジオ・モロダーとのコラボレーション楽曲でしょう。すでにこの楽曲に対する感動は、渋谷陽一も言及しているところですが、モーグ・シンセサイザーによる未来の音楽について語るモロダー氏のインタヴュー音声と、音楽が完全にシンクロする快感は凄まじいものがあります。これはとても気持ちよい。まちがいない大名盤です。

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ニクラス・ルーマン 「真理とイデオロギー: 議論の再開のための提案」

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ニクラス・ルーマンの1962年の論文「真理とイデオロギー: 議論の再開のための提案」を読みました(翻訳はいつものように三谷武司さんの私訳版)。

イデオロギー概念の時代は終わった、という意見に対し、ここでのルーマンはイデオロギーを等価機能主義のアイデアを使いつつ、行動に方向性を与えるパースペクティヴとして読み替えることで、むしろよりイデオロギーを活発に議論すべき道具と考えているようです。この読み替えにあたっては、イデオロギー的な考え方が西洋形而上学の伝統の延長にあることが確認されています。この部分が小難しく、こういった小難しい論文を書いていたルーマンが当時のドイツでどんな風に読まれていたのか、っていうか、ルーマンはどういった読者を想定して書いていたのか、とか気になるところなんですけれど、面白い。

近代以前の西洋哲学において、存在とは目的をもったものであり、その目的が真理である、と認められていた。その目的に根拠など必要ない、と考えられていたのは、その目的が超越的な存在(わかりやすく言えば神とか)に与えられたものであるから、その真理の正しさが保証されているわけです。これが近代にいたって、目的の正しさが自明なものではなくなる。「咲き誇る花の美しさは、その花が美しいということをもはや保証せず、なぜ美しく感じるのかの説明を必要とすることになり、最終的には電子の働きに還元されることになる」。マルクス、ヴェーバー、デュルケーム、フロイト……といった人たちの方法論とは、そうした状況下で、真理の探究をおこなうために提出されたものだ、とルーマンは言います。

しかし、マルクスらの提出した真理の探究は、ある体験が「別様に体験することも可能である」ことも明らかにしてしまう。たとえば社会的な文脈や生活様式がことなれば、ある行為が引き起こす結果も変わってくる。そうであるならば、真理とはどういったものなのか、証明できる真理などどこにもないのでは、という疑問が浮かんでしまう。ゆえに彼らの方法論は、破壊的に見えるのだ、とルーマンは言います。その一方で、彼は、こうした破壊的な説明方法が真理(目的)を機能的に捉える契機ともなっている、とも言う。たったひとつの目的と、その目的を達成するための行為があると想定しても無駄なので、ある目的に対して、さまざまな達成方法がある。機能的な捉え方とは、そのさまざまな方法の可能性の検討であり、そこでの目的は、行動を決定するための指針としての機能する。ルーマンが言うイデオロギーもまた、その行動決定のための指針であり、行動の優先順位を決める価値システムとして機能する概念です。

もちろん、そうしたイデオロギーは到達すべきただひとつの真理を与える絶対的なものではなく、イデオロギー自体が別の可能性をもち、批判・検討・変更が可能なものです。これによって、よりより社会設計が可能になるかもしれないんだから、むしろ、イデオロギーの時代は終わってない、むしろもっと検討しろ、というのが論文の結論部で語られる。

……なんか読んでいるあいだはわかった気になっても、こうして読書メモ的なものをまとめようとすると、全然読めてないんじゃないか、という気分になってくるな……。

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萩尾望都 『百億の昼と千億の夜』

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百億の昼と千億の夜 (秋田文庫)
光瀬 龍 萩尾 望都
秋田書店
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光瀬龍のSF小説を原作にした萩尾望都の大スケールSF漫画。これだけのスケールの漫画は、ひょっとすると手塚治虫の『火の鳥』か諸星大二郎の『暗黒神話』、『孔子暗黒伝』ぐらいかも。ちょうど『孔子暗黒伝』の連載期間と、本作の連載期間とがかぶっており(1977-78年)、テーマ的にもすごく近いものを感じる。そして、原作小説が雑誌連載されていたのは、1965-66年。この頃に「エントロピー」、「虚数空間」、「ディラックの海」といった学術用語のSFへの導入って、すでに普通だったんすかねえ。個人的には、こういうのって単なる言葉による世界観の飾り付け程度の意味しか感じられず、好みではないんだけれど(こういうとき、自分のSFへの不感症を自覚する)。

人間が、世界が、創造された意味をめぐってのSFからの回答とも言うんでしょうか。プラトン、仏陀、阿修羅、イエス、ユダが登場し、超越的な存在との闘争が描かれるんですが、その結論は物語のなかにでてくる宗教が説いていた救済や終末を裏切るものとして提示される。でも、なんですかね、本作での「最後の審判」であったり「弥勒の誕生」であったりは、あまりにも現世救済的なもののように思えてしまい、壮大な世界観の割に結構あっけないな……という感想を抱いてしまいました。宗教的な救済であったり、終末であったり、って本作で描かれる虚無的な結末と近いものなんじゃないのか、とか思うと、なにもこの物語では上書きができていない感がある。

宇宙のなかでの自分の存在の小ささに虚無を感じるのであれば、それは中2ぐらいで打ちひしがれておくべきものだろうし、逆に宇宙の大きさを感じで「宇宙やべぇ」とおののくには『Newton』読んでいたほうが良い。だから、なんかこの漫画(物語)に出会うのはきっと遅すぎたんだろうな、とも思いました。たしかに生きてて虚無っぽいけども、それでも生活って続くし、じゃあ、楽しい生活が良いよね、とかオッサンじみてくると思うんですよ……。

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雲田はるこのBL作品を読む

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窓辺の君 (MARBLE COMICS)
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雲田 はるこ
ソフトライン 東京漫画社

野ばら (MARBLE COMICS)
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雲田 はるこ
ソフトライン 東京漫画社


いとしの猫っ毛 (CITRON COMICS)
雲田 はるこ
シリカ編集部


いとしの猫っ毛 2 (CITRON COMICS)
雲田 はるこ
シリカ編集部



雲田はるこのインタビューを読んで、萩尾望都や竹宮恵子、手塚治虫の名前があがっており、この作家の絵柄についてなんだか腑に落ちるものがあったのだった。で、もっとこの人の漫画を読んでみたくなり、単行本化されているBL作品を一気に購入。そして、一気読み。BLというジャンルに手をだすのも初めてなんですけれども、そんなに違和感なくとても愉しく読む。なかでも昔の少女漫画っぽい絵柄で、趣味全開な『いとしの猫っ毛』は、萩尾望都の少年愛的なテーマをそのまま引き継いでるよう。

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雲田はるこ 『昭和元禄 落語心中』(4)

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女体のラインが素晴らしい……。

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荒俣宏 『異都発掘: 新東京物語』

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異都発掘 新東京物語 (集英社文庫)
荒俣 宏
集英社
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荒俣先生が1985年から1987年ごろに雑誌に寄せた記事を集めた本を読み終える。テーマは東京に当時残されていた過去の遺物(異物)から、秘められた都市の姿を妄想・発掘しようというもの。都市の考古学的なレポートとでも言えるのだろうか。風水の知識を活用しながら東京の建物を評価する企画は『風水先生』とも似た内容になっているが、井上馨による進められるも実現しなかった東京改造計画や、築地本願寺に隠された南方ユートピア思想、あるいは貴族富豪の大邸宅を解放して作られた東京の宅地など、何重にも重ね塗りされた「別な東京」、「あったかもしれない東京」についてイメージを刺激してくれる素敵な本。

80年代中頃のCGで描かれたイメージ図は、なかなか寂しいものがあるが(スーパーファミコンの『スターフォックス』ぐらいのクオリティ)、それでもなお興味深く読めるのは、ひとえに言って荒俣先生の博学と妄想力のなせるわざか。記事が書かれた頃と今の東京ではまた違った風景になっているだろうが、それもまた、すでに失われてしまったものへの憧憬を掻きたてるのだった。とくに64ページに掲載されたお茶の水で、総武線・中央線・丸の内線の旧車両の姿は、ノスタルジーと異世界感とを同居させていて、都市の新陳代謝の速度について驚かざるをえない。

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橋本毅彦 『近代発明家列伝: 世界をつないだ九つの技術』

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近代発明家列伝――世界をつないだ九つの技術 (岩波新書)
橋本 毅彦
岩波書店
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過日は、科学史家の隠岐さや香さんのインタビュー記事が好評を博しているようで、すわ、科学史ブームがくるのか、と前のめりになっている若い研究者が駒場あたりにいるとかいないとか……そんなタイミングで、駒場の若い研究者が大変お世話になっているであろう橋本毅彦先生の新著を読了。

我々が生きる現代社会につながる技術を発明した人たちのストーリーは、船上でも正確に動く航海時計の開発者、ジョン・ハリソン(1693-1776)によって封切られる。しかし、船上で動く時計がどうして現代社会につらなる発明なのか。多くの人がここで意表を突かれるかもしれない。そこには航海における経度測定とのつながりがあった。太陽の高度から測れる緯度に対して、経度は時差によって測れる。時差を測るためには基準となる時間を刻む時計が必要だ。しかし、当時、湿気や温度の変化、そして海上での揺れに耐えられる時計は皆無だった。イギリスにおいて経度測定法の研究は莫大な賞金がかけられたが、信頼に足りる方法はなかなか見つからなかった。

ハリソンが航海時計を開発したのには、こうした背景がある。当然「列伝」として語られるぐらいだからスムーズにうまくいったものではない。執念さえ感じさせるトライ & エラーな実験の歳月に生涯の半分以上をかけて(時計の調整だけに2年以上かかったりしている)、彼の時計はようやく「実用的で有用な経度測定方法」として認められることになる。彼が最後に手をかけた時計は、懐中時計型のとても小型なものだ。その小さな機械によって、正確な航海が可能になったところに技術が世界をダイナミックに変動する面白さがある。

蒸気機関を作ったワット、新しいテクノロジーを用いて交通網を作ろうとしたブルネル、発明家兼経営者としてのエジソンなど、ハリソンに続く発明家たちが辿った人生もまた一筋縄ではいかない。多くが貧しい出自であったり、本業のほかに自分のひらめきで何事かをなそうとした人たちである。なかでも電話の発明者、アレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)の経歴はもっとも意外性に富んでいるように思われた。聾唖教育の専門家であったベルは、生粋のエンジニアとかではない。彼は発話法や発音矯正を教える家系に生まれ、その父親は『可視的発話』という「あらゆる発音を記号によって表記しよう」というアイデアを考案していた(新しい体系によってなにかを表現・記録しようとするこの試み自体に心が惹かれるし、これを1876年にボストンで学んでいた日本人がいたという事実も興味をそそる)。

ベルの父親は「この記号の電信への応用も想像した。電信オペレーターが外国語を知らなくとも、この記号を使えば正確な発音を復元できると考えた(P.87)」そうな。著者ははっきりとその影響関係について明示していないものの、ベルが電話の開発に取り組んだ根本に、父から引き継いだこの「発音への興味」があったのでは、と想像するにかたくない。遠くに音そのものを届けられるのであれば、特殊な記号がなくとも正確な発音が伝わるのだから。

航海時計という小さな機械から始まった本は、後半ゆくにつれ、ガソリン自動車のベンツ、飛行機のライト兄弟、そしてロケットのフォン・ブラウン……と大きな機械へと進んでいく(フォン・ブラウンで思い出したが、ピンチョンの『重力の虹』の新訳は今年中にでるのだろうか……)。科学史の本、というにはちょっと違っているかもしれないけれど、労苦や奮闘のなかに大きなロマンスを感じてしまう良書。ライト兄弟が実験中に大量の蚊と格闘した、などの小ネタも楽しいです。

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吉川晃司 / Samurai Rock

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吉川晃司
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吉川晃司の18枚目のオリジナル・アルバムだそう。異様な雰囲気をもつ俳優としてキャラが立ちまくっている吉川晃司だが、確固たるデザイン・コンセプトのもとで作られたスターでありながら、プロダクトという枠組みを超えていくロック・スターとして成功したミュージシャンなのでは、と思わせるパワーが彼の音楽にはあって(過去のベスト盤を聴いたぐらいですが、クオリティに驚愕した覚えが)、今作ものけぞるようなパワフルかつ、ゴージャスなロック・アルバムに仕上がっております。ギターには菊地英昭、コーラスに大黒摩季、スカパラの谷中敦の名前も参加ミュージシャンにあがっていて華やかな制作陣。シックなジャケットのイメージとは裏腹にギラギラした傑作でしょう。とくにアルバム後半を占める、近年のMetallicaを想起させるヘヴィー・ロックな展開は、激アツ。

作詞のほぼを担当している松井五郎のセンスも最高で、これははっきり言って吉川晃司のパーソナリティと松井が同化しているといっても過言ではありません。「四面楚歌 Al' right」、「C'mon 身中 Insect」、「臥薪嘗胆 yeah」、「Drinkin' the 清濁」という凄まじい言語感覚は吉川晃司か、あるいはBuck-Tickにしか歌えないでしょう……。

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