ルネサンスと宗教改革が出会って……(エルンスト・トレルチ 『ルネサンスと宗教改革』)

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ルネサンスと宗教改革 (岩波文庫)
エルンスト トレルチ
岩波書店
売り上げランキング: 476,363
トレルチの名前はこの本を読むまでまったく知らなかったのだが、マックス・ヴェーバーとも親交を持ち、かなり広範囲で著作を残した学者だそうで。本のタイトルで適当に「ルネサンスと宗教改革の歴史について書いたものかな〜」と思ったら全然違っており、語り口はガチ哲学というかガチ社会学のものだし、しばらく社会学の本を読まなかったら、歴史学の本が踏む手順は丁寧だな〜、社会学の記述って不親切だな〜、と思ったりした。もちろん、この不親切感というか記述に置いてけぼりにされてる感は、19世紀生まれの学者の想定読者とわたしの知識レヴェルが全然違うせいだけれども、あれこれ知ってる前提で書かれる文章に出くわすと、途端に自分が阿呆になったのでは、と感じてしまうよ。

本書は、近代のはじまりにルネサンスと宗教改革を置く史観(中世はこの2つのムーヴメントによって断絶された!的な)に対して、おい、ちょっ、まてよ、的な一声をかけ、それぞれのムーヴメントがどんな性格を持っていたのかもうちょっと細かく見てみようじゃないか、という本。話的にはほとんどメンタリティーの話になるため、これもひとつのインテレクチュアル・ヒストリーかもしれないが、粒度が荒く、議論のスピードが速く、前述の通り、色々知ってる前提で書かれているため「へぇ〜、そうだったんだ〜」的な発見に乏しい。なので、今なら色々知ってる人が、サラッーと読み流すと、ふーん、そうかもねえ〜、とか思ってしまう本なのかも。

とはいえ、全然面白くないわけではなく、ルネサンスというムーヴメントを、あんまりムーヴメントっぽく描いてないところは新鮮に思え(おっしゃー、ルネサンスきたぞー! と自覚的に運動してたわけではなく、なんかたまたま同じく古代人の感覚ってよくね? と思ってた人がポコポコとでてただけ、という評価)、これに対して宗教改革はムーヴメントだったわけで、性格も全然違うし、たしかにこの2つの現象を「近代のはじまり」とするには、おい、ちょっ、まてよ、全然違うじゃん、と思うのはたしかなのだ。トレルチはこの全然違うもの2つの現象の合流点に啓蒙主義を置く。しかし、ここでも啓蒙主義の知識人のメンタリティーが人ごとに語られるところのほうが面白くて、イマイチ、どう混ざったのかが読み切れないのだった!

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歴史が「歴史学」でなかったころ(Anthony Grafton 『What was History?: The Art of History in Earyl Modern Europe』)

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What Was History?: The Art of History in Early Modern Europe (Canto Classics)
Anthony Grafton
Cambridge University Press
売り上げランキング: 91,099
プリンストン大学のアンソニー・グラフトンは、インテレクチュアル・ヒストリー界のトップ・スターのひとり(最近また新しい本を出して、ネット上にインタヴュー記事が載っています)。『What was History?』はズバリ「歴史とはなんだったのか?」をめぐっておこなわれたグラフトンの2005年の連続講演を元にした本です。このタイトルはE. H. カーによる大変有名な著作『歴史とはなにか』を下敷きにされている(どちらの本も元になった講演はケンブリッジ大学でおこなわれたものです)。カーが現在形で語る通り、その時点での歴史学について議論しているのに対して、グラフトンは過去の歴史学、つまりは歴史学史(とくに初期近代の)を扱っています。奇しくも最近、連続して知的な営みの歴史についての本を読んでいるのですが、これも面白かった。ただ、講演を元にしている本のせいか議論のスピードが速く、自分の英語力のせいもあって結構読み飛ばしてしまいましたが……。

本書が辿る道筋はおおよそ、このようになるでしょう。ギリシャ時代、ローマ時代、中世を経て、初期近代までに歴史はどのように扱われ、どのように変化していったのか。現在、歴史は「歴史学」という独立した学問として扱われていますが、16世紀のイタリアで勃興した「Ars Historica(直訳すれば『歴史術』でしょうか)」と入れ替わるようにして成立したと言えるものです。歴史術以前の歴史は常に、なにか他の学問ジャンルの下位に属していたことが本書では指摘されています。

例えば、キケロの時代の歴史は、弁論術の下位ジャンルであり、それは弁論者の弁論の説得を支える目的の下で探求されていました。言わば、弁論の飾り付けでしかなかったわけです。これが歴史術の興りとともに、だんだんと独立性をもちはじめる。また、それと同時に古代ローマのテキストや聖書のテキスト記述に対して懐疑的な検証のまなざしが込められるようになっていく。そのムーヴメントのなかで、本書が最も重要視しているのは、フランスの政治哲学者、ジャン・ボダンです。彼が歴史術を重要視したのは、その知識が国家を治めるための法制度を理屈付けたり、整備するために有用であると判断したからでした。歴史術も、ボダンにとっては結局のところ法学の下位ジャンルでは……とも思われるのですが、その目的性が公的なものと強く結びつき始める性格の違いを意識しなくてはならないでしょう。ここにこそ、なにかのための歴史術が独立・分化し、歴史学へとテイクオフできたキッカケがあるように思われるのです。

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助川太郎 / This is Guitarist

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日本におけるブラジル音楽シーンでは、著名なギタリスト助川太郎のソロ・アルバムが届く。このアルバム、ミュージシャン自身のTwitter経由で直接購入したんだけれど、アルバムにはこんなメッセージが同封されていて、聴く前から心のガードがユルくなりました。


本作は、一部の楽曲でゲスト・ギタリストとして尾尻雅弘を迎えながらも、基本的にはギター一本で構成されたすごくシンプルな一枚となっています。とはいえ、取り上げられている作品は、バーデン・パウエルやジョビン、ヴィラ=ロボス、ミルトン・ナシメントといったブラジルを代表する音楽家のスタンダードな楽曲のほかに、ブラジル音楽界の鬼才、エグベルト・ジスモンチやエルメート・パスコアール、ブラジルから離れてセロニアス・モンクやヴィクター・ヤングのジャズ、クラシックからはバッハ、現代ギター音楽からはラルフ・タウナー、日本からは中村八大と林光、と非常に広い範囲にわたっている。そうした楽曲の彩りが統一感をもって響いてくるのが素晴らしく、気持ちよく聴けてしまう。親密な空気をもった音色は時にパーカッシヴに変化し、ギターという楽器の表現力を改めて伝える一枚でもありました。この夏一番の快適音楽かもしれない。

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合理性と野蛮さ、幸福の計量できなさについて(宮崎駿 / 風立ちぬ)

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風立ちぬ サウンドトラック[共通特典CD付き]
久石譲
徳間ジャパンコミュニケーションズ (2013-07-17)
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宮崎駿の最新作を観る。公開前にいくつか制作時のドキュメントや、監督へのインタビューを観ていたが、今回は宮崎が映画の外で語る「映画に込められたメッセージ」がかなり直接的に映画に反映されているように思った。プロデューサー鈴木敏夫が「宮崎駿の遺言です」と語ったのも納得、というか、率直に言って説教臭さはかなりある、けれども、そうした強いメッセージとは別に、観た後もざわざわと消化できないものが残る作品だった。ひとりのエンジニアの半生のロマンスとしては、自分にしかできない仕事を遂げたいが、その仕事が自分にしかできないがゆえに、ブラックな労働をこなさなくてはならない、というある意味、苦境を乗り越えてなにごとかを成し遂げようとするヒロイズムがある。わたし自身、そこに共感できるものもあったし(つい最近まで一応技術者として暮らしていたので)、ひとりの少年が、夢のなかで達成すべき目標を授かる「目覚め」のシーンは、グッときてしまう。序盤で一涙。

飛行機製作の描写もハッとさせるものだ。飛行機でなくても、車でも家でも、なにかを作るといった場合、すぐに現実世界に部品かなにかの実体があって、それを組み上げて作っていくシーンを想像してしまうけれど、劇中の飛行機製作で描かれているのは「計算」と「スケッチ」と「図面起こし」という段階であり、このうち、主人公が計算尺を片手に紙へとさまざまな数字(観ている者にはほとんど意味が伝わらない。なにか意味のある数字であることしかわからない)を書き込んでいく計算の描写は、概念や理念といった実体のないところから、飛行機が生み出されていく創造のプロセスを強く印象づける。劇中のエンジニアたちは、よくできた飛行機を「美しい」と賞する。それは、その飛行機が数字から創造され、合理性を備えた、というか合理性の塊であることが、実体から理解できるがゆえの賞賛だろう。それは蝶の模様が美しい、とか、富士山はキレイだ、とか、そうした美的な感覚とは違った価値判断だ。理にかなった形は美しい。だから、ドイツの飛行機は美しい。単に曲線が美しいから美しいのではなく、その美しさには合理性の裏付けがある。そして、飛行機は合理的に飛び、効率的に人間を殺戮する兵器となる。そこでは美しさと野蛮さが表裏の関係にあるアドルノ/ホルクハイマー的な問題が描かれているように思った。

そうした合理性に裏付けされた美しさが描かれる一方で、それとは別に、まったく相反するものが描かれる。結核(当時の不治の病だ)のヒロイン菜穂子と結婚した後の主人公の生活は、非合理というよりかは、不条理に近い。看病するわけでもなく、ひたすら仕事に打ち込み、時には床に伏せる妻の横で徹夜の設計をする主人公たちの結婚生活は、幸福な結婚生活には端から見てまるで思えない。そして、主人公は娶った妻をどうするつもりなのか、もう一度入院させたほうが良いのではないか、と問いつめられる。これに対して、主人公は、今のかけがえない時間一瞬一瞬を大事に過ごしているのだ、と言う。この言葉が、映画を観た後、しばらくざわざわとしたものを残した。妻を再度入院させて生きながらえさせること、命を削っていることを理解しながら一緒に過ごすこと。そのどちらが幸福であったのかは計量できないものであり、結果としてふたりは一緒にその瞬間を過ごすことを、幸福なものとして選択していたのだ。ゆえに、その選択を間違っていると評価することは他人からはできないだろう。しかし「菜穂子の幸福は、あんな一瞬なもので良かったのだろうか」という疑問は残ったままであるのだ。

あと、カストルプ(これは『魔の山』の主人公の名前だ。読んでないけども)が『ファウスト』のメフィストフェレスのようで、なんだか恐ろしかった。菜穂子はマルグレーテ、二郎がファウストだったのでは、とも一瞬思った。

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にせんねんもんだい / N

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N
N
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にせんねんもんだい
インディーズ・メーカー (2013-07-02)
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にせんねんもんだいも気づいたら結構キャリアが長いバンドになっているなあ、時間が経つのは早いなあ……「関西ゼロ世代」、「東京ノーウェーヴ」とか言ってませんでしたっけ……(遠い目)という感じだが、先頃発表されたEPを聴く。しばらく彼女たちの音楽を追いかけていませんでしたが、これはライヴで演奏が聴きたくなる一枚。収録されている3曲はどれも10分強の長尺で、それぞれがヴァリエーションになっているらしいのだけれど、なんだかリカルド・ヴィラロボスをもっと尖らせた音楽を人力で奏でているかのような緊張感バリバリの鋼鉄のミニマリズムが徹底されております。ヴァリエーションっぽい構成は、モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオみたいでもあるな。ドラムはハイハットとキック、ギターは発信音のような細かいフレーズとノイズ、ベースはだいたい2つの音の繰り返しで構成されたおどろくほど単調な音楽……と言ってしまうとなんだか悪い意味にしか読めないけれども、それでいてガッツリ聴かせてくるのだから魔術的な音楽としか言いようがない。00年代初頭にこのバンドが放っていたノイズなのにガーリーな雰囲気は、どかに消え失せてしまい、ものすごくハードに洗練されている。ちょっとびっくりしましたよ。

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竹宮惠子 『地球へ…』

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地球へ… 1 (Gファンタジーコミックススーパー)
竹宮 惠子
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地球へ… 2 (Gファンタジーコミックススーパー)
竹宮 惠子
スクウェア・エニックス

地球へ… 3 (Gファンタジーコミックススーパー)
竹宮 惠子
スクウェア・エニックス
70年代SF少女漫画の金字塔のひとつを、ガンダムと宇宙戦艦ヤマトとナウシカの要素が混ざったような話だな〜、と思いながら読む。メカニックなディティールについては一切触れられずストーリーが進行するもののメカ・デザインとかすごく良くて、かつ、終盤の戦闘シーンなんかイデオンやマクロスの戦闘シーンみたいでカッコ良いなあ、と。宇宙戦艦や宇宙戦闘機が強力なエスパーと戦闘を繰り広げるところとか、すげーカッコ良い。『童夢』ぐらい痺れるものがあるなあ……と、軒並み自分の知っているものの範囲で読んでしまったが面白かったです。

本作における徹底した管理社会 VS 新人類……という物語の構図は、目新しいものではなく、それこそオルダス・ハクスリーや、ジョージ・オーウェルなどの古典からくる「ディストピア小説」のフォーマットを踏襲している、と言って良い。そこでふと思ったのが、一体いつから管理社会が悪いものとして描かれるようになったのか、ということだった。例えば、プラトンの『国家』アリストテレスの『政治学』にだって立派な管理社会が構想されているし、カンパネッラの『太陽の都』もその流れをハッキリと継承するユートピア小説である。ガチガチの管理社会は、理想郷として描かれてきたハズなのに、歴史上どこかの時点でディストピアに転んでしまっている。この転倒がどこはじまりなのか、が今回『地球へ…』を読んでいて気になってきてしまった。管理されないのが人間的で素晴らしい的な、自由万歳的な機運によって、その転倒がおこったのであれば、そのなかに人間と言う存在の概念の変化を見いだすことができると思うし、ひとつ掘り起こしてみたいテーマである。

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ヤマシタトモコの漫画を読む

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ヤマシタ トモコ
祥伝社 (2010-07-08)


ドントクライ、ガール (ゼロコミックス)
ヤマシタ トモコ
リブレ出版 (2010-07-09)

Love,Hate,Love. (Feelコミックス)
ヤマシタ トモコ
祥伝社 (2009-09-08)

ひばりの朝 1 (Feelコミックス)
ヤマシタ トモコ
祥伝社 (2012-08-08)

ひばりの朝 2 (Feelコミックス)
ヤマシタ トモコ
祥伝社 (2013-07-08)
知り合いの編集者より「ムカつくから読んでみて!」的なレコメンドをされ、ちょっとしたリサーチを兼ねてヤマシタトモコの漫画を読む。こういう漫画ってなんでしょうね、女性をメイン読者として据えているけれども、少女ではない、青年少女漫画、といったところなんでしょうか。『Her』、『ドントクライ、ガール』は2011年に『このマンガがスゴい!2011 オンナ編』で1位・2位選出されている作品。総じてヤマシタ作品には、女性性に自身が持てない、あるいは強い自己批判のまなざしが内在されているため、女性として上手く生きられない女性が描かれる。これは、今時の(?)言葉で言うなれば「こじらせ女子」の漫画だ。登場人物たちは、女性としてダメである、というセルフ・ツッコミが頻出させつつ、ただし、女性性に問題意識を持たない他の女性に対しては「どうして、問題意識を持たずにいられるのか?」という批判的な態度を(裏では)とる……、これが現実にいる女性なら「鬱陶しい!!」と近寄りたくない存在であるだろう。

ただし『ひばりの朝』は、ちょっと異色の作品である。この作品では主人公自体が「こじらせ」ているわけではなく、むしろ、自らの意志とは無関係に女性性が他者に向けて発信されてしまっていることが問題化されている。他者は、好き勝手にメッセージを解釈してしまう、とはまるでコミュニケーションの本質でもあるのだが『ひばりの朝』では、受信者が主人公に対して、悪意も持って返答する、これが物語の大きな鍵となる。そこでの悪意とは例えば、女性が普通に生活をし、例えば、電車に乗ったり、街を歩いたりしているあいだに、まったく知らない人から、性的な目線を投げかけられる問題とも比べられるだろう。あるいは、暴力的に女性が犯した犯人が「向こうのほうから誘ってきたんだ」とか供述したり、その暴行事件を見聞きした第三者が「あんな格好していたら、レイプされるのも当たり前だ」と批判したりする、そうした種類の悪意である。はっきり言って、気持ちよく読める話ではない。

短編集『ミラーボール・フラッシング・マジック』は、ヌルい山本直樹みたいな短編があったりして、これまた読むのがツラいのだが(あと絵があんまり上手じゃないのがそもそも……)、ある程度まとまってヤマシタ作品を読むと、これがある種の女性に好ましく受容されているのもなんとなく理解できる。女性のあいだでどんな風に評価されているのかリサーチしているのかわからないけれど、かつてだったら魚喃キリコとかを好んで読んでた類いの方々が読んでいそうな気がする。奇しくも『ミラーボール・フラッシング・マジック』の帯に、花沢健吾が寄せているコメント「男が読むべき漫画です」とは、ちょうど魚喃キリコの作品に対しても言われていたことではなかったか。

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村上春樹 『色彩を持たない多埼つくると、彼の巡礼の年』

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋 (2013-04-12)
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村上春樹の最新作を読む。『1Q84』の続きがあるんじゃないか、と期待していたところに、全然違う新作が投げ込まれたのは、えっ、と思ったが、本作もまた実に「村上春樹の小説だなあ」という作品で、結局この人はある時期から基本的には同じ話しか書いていない、という思いを新たにした。過去の出来事で傷かなにかをもっていて、凡庸だがなにかひとつだけ特殊な才能のようなものをもった男性が、巫女のような女性に導かれて、過去の出来事で残ったなにかを、どうにかする。これが村上春樹の根本的なラインである。

そんななかで本作がこれまでの作品とどう違うか、というと、かなり明確に、これまでに以上に現代とのつながりを持ち、そしてそれが社会批評としての機能を持つ描写と読めることだろうか。この感触は『アフターダーク』が出版された際のものに近いけれど、今度はもっとハッキリしている。Google、Facebookというアイテムの登場はもちろんのこと、「意識の高い人間」を相手にした虚業的なセミナーに対して、登場人物が批判的な言葉を投げかける点は、これは結構、作者の声に近いものがあるのでは、と感じてしまったし、それはちょっと新鮮な点でもあった。

また、前述の主人公の凡庸さについて、主人公自身が自覚的であり、また批判的である点、さらにその凡庸であるという自覚を他者からハッキリと否定され、魅力的な人物であるという承認を受けるところも、ちょっと新鮮。

読んでいて面白かったし、あっという間に読ませる魔力は健在だったけれど、しかしながら、ここまで「え、あの話ってなんだったの?」、「あの人、結局どうなったの?」と未解決な問題を置きっぱなしにしながらピリオドを打つ作品がこれまでの村上春樹の作品にあっただろうか……。そうした解決されてない伏線(と普通の人は考えるであろうポイント)を、物語に象徴的な意味を与えるサムシングだ、と言ってしまえば、もはやなんでもアリだよな……とか思う。

正直、よくわかんない話ですよね。でも、それがすごくたくさんの人に読まれている。わたし自身は、村上春樹作品における「問題解決」が、問題の完全な修復ではなく、傷跡が残っている感じで生きていくしかないじゃん、というところは、とても身につまされるものがあり、好ましいと思うところなんだけれど、他の人はどんな風にこれを読むんだろうというのが気になる本でした。

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Ann M. Blair 『Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age』

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Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age
Ann M. Blair
Yale University Press
売り上げランキング: 48,365
ハーヴァード大学の歴史研究者、アン・ブレアによる『Too Much to Know』を読了。タイトルを直訳すると「知るべきことが多すぎる」、内容としては副題にもある通り、近代以前における情報管理についての研究書である。「そんなの研究者でもない一般人が読んで面白いの?」と問われそうだけれども、大大大名著。めちゃくちゃ面白い。ちょっと前に読み終えたベリル・スモーリーの『Study of the Bible in the Middle Ages』と同様、かつての知的な営みがどんなものだったのかが窺い知れる作品だ。インターネットとコンピューターの爆発的な普及とGoogleに代表される優れたサーチ・エンジンのおかげで、現代は「情報爆発の時代」と言われる。情報が多すぎる、必要な情報を選別しないと混乱するだけだ、という問題の指摘は現代のヒョーロンカ筋が難しい顔で語りがちなテーマでもあるだろう。しかし、コンピューターのない時代、それこそ、セネカ(ca. 4 BC – AD 65)の頃から「情報多すぎ」問題は語られてきた。17世紀のデカルトも「知識を見つけるよりも、探すほうに時間がかかりすぎる!」的なことを言う。これを考えると、文字による記録メディアが生まれてから「情報多すぎ」問題はほとんど人類にずっと付きまとってきたようにも思える。こうした現在と過去とで通じている問題を示唆する本書には、歴史研究書を読む醍醐味がたくさん詰まっている。

同じ問題がある、と言ってももちろん、昔はコンピューターなどなかったのだから今とは違った問題解決策がはかられることとなる。とはいえ、道具が違うだけでやっている内容は今も昔も根本的には変わっていない。その情報管理の基本を本書は「store, sort, select, summarize(保存、整列、選択、要約)」の「文書管理の4つのS」でまとめている。Googleがおこなっていることだって基本的にはこのメソッド通りだ。では、コンピューターがなかった時代の「文書管理の4つのS」って? これが本書のメイン・テーマとなる。本書の前半部分は主に技術的な側面が扱われる。たとえば、今ではありふれすぎてあるのが当然、だが、いずれ絶滅するかもしれないという「紙」というメディア、これだってヨーロッパで一般的になりはじまるのは、15世紀の活版印刷機の発明以降なのだから歴史的にみたら新しいメディアだと言える。紙以前にヨーロッパの知識人はなにを使って記録してきたのかのか、そして紙の登場以降に、どんな風に記録方法が変わっていったのか。勉強したことをノートにとる。これも今では当たり前のことだけれど、ノートを取ることが一般的でなかった時代に思いを馳せつつ、本書を読み進めるのは想像力を刺激する悦びがある。

後半部分は大量に記録されたものをどう整理されていったかにフォーカスが当てられている(大量な記録の動機を本書は中世において伝えられずに失われた書物が多々でてきたことがトラウマになっていたと置くのも面白い)。活版印刷の発明以降、ヨーロッパでは「リファレンス本」が制作されるようになってくる。リファレンス本は、大量の情報をうまくまとめ、役立つ情報に人々がアクセスしやすくなる知的に実用的な書物である。それゆえにこのジャンルは出版業者から有力な事業として見なされ、さまざまなものが出版された。そのなかにはラテン語の辞書だったり、過去の有名な著述家の引用集や古今東西の名鑑のようなものまで、さまざまなものがある。かつては図書館の本も自由にアクセスできなかったし(貴重な書物が盗難されたり、切り抜かれたりしないよう、現代の図書館のような閲覧スペースは昔の図書館にはなかったのだ)、そもそも本自体が高価なものだったので、リファレンス本だけを頼りに勉強する人も少なくなかったという。リファレンス本の制作はそういう意味で、公共的な善をもたらすものだった。手作業による編集はDTP時代の編集者には想像もつかないであろう労苦を伴ったが、なかにはその公共的な善をモチベーションにして貧しい暮らしをしながらもリファレンス本を作った人たちなんかもいたりと、リファレンス本制作にはプロジェクトXばりのドラマを感じるのだった。

英文はかなり平易でリーダブル。歴史に興味がある人だけでなく、情報技術を勉強している学生さんにもオススメしたい一冊です。


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Original Love / Electric Sexy

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エレクトリックセクシー
エレクトリックセクシー
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ORIGINAL LOVE
BounDEE by SSNW (2013-06-26)
売り上げランキング: 499
田島貴男のソロ・ユニット、Original Loveの新譜を聴く。本作の制作の模様は、田島自身による日記にも綴られているが、80年代ニューウェイヴの薫りが漂う最高にセクシーな一枚となっている。なにせ「Electric Sexy」である。ニューウェイヴ・リヴァイヴァルの流れって、ここ数年様々なアーティストによって取り組まれてるけれども、本作はそのなかでも最右翼かつ最左翼であろう。かつてのニューウェイヴには、ファンクやソウル、ブルースに対する憧憬みたいなものから発生してきたものがあるはずで、その姿勢はもはや田島貴男の音楽活動の根幹をなしているわけである。それが生半可なものに仕上がるわけがない。デヴィッド・バーンかよ、という楽曲もあったりして、ブチ上がることは必然……!

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マルティン・ルター 『マリヤの讃歌 他一篇』

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マリヤの讃歌 他一篇 (岩波文庫)
マルティン ルター
岩波書店
売り上げランキング: 501,318
日本で世界史の勉強をしていたら、宗教改革という言葉はルターという人物と強く結びついて覚えているハズだ。けれども、実際にルターの思想が、旧来のローマ教会の思想とどうちがっていたのかを知っている人は多くない。もちろん一般人的にその違いを知っていてメリットがあるか、というと特にないんだけれども、ものすごく大雑把にいって「儀式によってなにかが救われる、善行を積んだり、厳しい修行に耐えたりすれば救われるのである」という考えから「いや、違う、儀式はあくまで象徴的なものであって、救われるかどうかは信仰心次第なのだ」というのがルターの思想であるようだ。

信仰ありきのルターの思想については、本書の表題作である「マリアの讃歌」よりも「死の準備についての説教」のほうがわかりやすいか。死の直前におこなわれる秘蹟の儀式は、信仰を導く象徴なのであって、信仰がなければ秘蹟の儀式によって救われることはありえない、というようなことがハッキリ書いてあって、なるほど、ルターという人は「心の人」なのかもと思った。これとは別に、ルターはアリストテレス主義というか、理性によって神を把握するアプローチを諦めた人でもある(とはいえ、霊魂と心と身体との説明を読むと、旧来のアプローチから完全に抜け出しているわけではないと思うんだけれど)。

信仰によってのみ救済がある、とはかなりスピリチュアルな感じもして、ルター、っていうか宗教改革は16世紀のニューエイジだったのでは、とも思った。科学で満たされないものが、スピリチュアルなものによって満たされるという事例は、今日でもいろいろと見られるわけで、極端な話をすれば、オウム真理教だって、そういう性格はあったんだろう……。

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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#15 カブレラ=インファンテ 『亡き王子のためのハバーナ』

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亡き王子のためのハバーナ (ラテンアメリカの文学 (15))
カブレラ=インファンテ
集英社
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久しぶりに連載シリーズのエントリーを(この『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む企画、始まったのは2009年である。結婚前の引っ越し前に一気買いしたところからはじまっているのだ……)。第15巻はキューバのギリェルモ・カブレラ=インファンテ(1929-2005)の『亡き王子のためのハバーナ』を収録。カブレラ=インファンテの作品を読むのは初めてでしたが、ここまで読んできたラテンアメリカの作家のなかでもまた色合いの違う作家だと感じました。

原題は『La Habana para un Infante Difunto』、これはもちろん、フランスの有名な作曲家、モーリス・ラヴェルによる《Pavane pour une infante défunte》のもじりですが、先に太字で表している通り、ここにはさらに自分の名前もダジャレで盛り込まれていて、私小説的な性格も持っている。全体はいくつかの部分にわかれていて、とくに前半部分は回想を元にしたビルドゥングロマンス、これがものすごく童貞感の強くて最高です。

かつてのハバナでの生活、過ぎ去ってきた日々、もう既に会うことのできない人々の記憶。こうしたモティーフは、まるでプルーストのようで実際、文字の密度とかを含めて熱帯版『失われた時を求めて』的な様相さえあります。とくに主人公が童貞を捨てたい、女性とセックスをしてみたいという欲求に促され、なんども、さまざまな女性にチャレンジしてみるのだが、それがことごとく失敗していく様が良いんですよ。この寅さん的と言いますか、なかなか叶えられないものに向かって、性的欲望が回転し、それが失望する。もっと下世話な言葉に置き換えるならば、勃起してても毎回中折れして煮え切らない、でも、そのフラストレーションこそが小説の素晴らしいポイントだ、っていう。

また、プルーストがさまざまな文化やモードを小説のなかにバンバン取り入れていた野に対して、カブレラ=インファンテは映画や音楽などのポップ・カルチャーを取り込んでいく。あたかも、小説内で批評をやるかのようにそうした小説の外部が小説の内部に組み込まれているのも面白いんですよね。とくに映画については、かなり思弁的で。ハリウッド映画はもちろん、ルイス=ブニュエルについてもガッツリ言及されているのも気になってくる。

ただ、中盤を過ぎたぐらい、とくに主人公が童貞を捨ててしまった後から、別な小説なのでは、というぐらいに様子がおかしくなっていきます。特に後半。童貞小説からギアが切り替わって、さまざまな女性と主人公の逢瀬のなかで、ゴシックであったり、トロピカルなファンタジーの見せ方が増加していき、最後はなんだか悪夢的な投げっぱなしジャーマンで締める凶悪な展開。しかも、長い。これは好きじゃないと読み切れないかもしれません。なんかねー、村上春樹の小説みたいな感じになるんですよ。南国のプルーストから、まんま春樹に。身体に欠損のある女性とのセックスとかあってさあ……。

衝撃のラスト・シーンの、う、ううぇ? という戸惑いは、ホントに読んで味わっていただきたいばかりだけれど、ひとつアレに解釈を与えるならば、男はみんな子宮回帰願望をもっている……ってことなんだろうか……。

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雨宮まみ 『女子をこじらせて』

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女子をこじらせて
女子をこじらせて
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雨宮 まみ
ポット出版
売り上げランキング: 18,995
昨今流行りの(?)「こじらせ女子」に先鞭をつけたエッセイを読む。

先日紹介した『教室内(スクール)カースト』では、カーストでの生きにくさに対してカーストから抜け出してしまう、というひとつの対処法が書かれていたけれど、本書での「こじらせ」とは、そうした「抜け出す作法」のひとつであるように思った。たとえば、筆者の高校時代の回想には、奇抜なファッションに身を包みまくっていたため、恋愛に興味がないイロモノ扱いされ、女子たちのヴァレンタイン・デーの催しに誘われない! という切ない、というかイタいエピソードがある。これなどまさにトリックスター的であるし、そうしたイタさの徹底が、仕舞にはアウトカースト的な位置にたどりつくための戦略だったのでは、とも思える。

(あえて)この「戦略」(と言うけれども)が巧みだ、と感じるのは外から見たら彼女があたかもひとつのカースト内にいるように見えて、実は序列の外側の特別な位置を得ている点だ。もちろん、そのイタさの発露には「普通にオシャレをしても上位にはいけない」というカースト上昇への諦念とコンプレックスがあり、楽な場所ではないけれど、それは「ここからは上がりも下がりもしない」というある種の安定があったのではないか、と推察される。普通の勝負を続けて傷つくよりも、先に「どうせ自分は頑張っても……」という自己批判のまなざしによって傷ついていく悶々とした感じは、批判を先取りして自分で自分をツッコんでいく文章によって、読んでるこちらにも伝わるようだ。

「AVライター」としての活動を続けるなかで「美人ライター」という肩書きを与えられたときの感覚もまた興味深い。

著者は「美人ライター」という言葉を「顔写真を出さないように、女ということが極力目立たないようにと思って仕事をしていた私のせせこましい努力を一瞬で水の泡にする」ものだったと綴っている。「美人○○」(男性ならば『イケメン○○』)と呼ばれたら、それは評価されたものとして、ありがたく受け取るハズだ、と思うからこそ、そんな呼ばれ方をする。しかし、ここでの褒め言葉は絶望をともなった「ありがた迷惑」として彼女には受け取られてしまう。女ということが目立たない、そのカーストのなかで勝負をしないように生きてきた積み重ねを「美人ライター」という言葉が、彼女をカーストの戦場に、一気に勝手に引き上げてしまうのだ。

言うなれば、本書も「自意識悶々」系のエッセイというカテゴリーに属するだろう。その手の本を読んで、共感する、とか、スッキリする、とか、救われる、とかいう個人的な時期はとっくにすぎているのだが、やはり読んでいて悶々として嫌な気分になるのは、まったく無理解だから、ではなく、なにがしかの共感できるものがあるのだろう。自意識をこじらせた毒がじわじわ伝わってきたときの息苦しさは、もしかしたらその手のカテゴリーでの成功を物語るのかもしれない。

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