辻隆太朗 『世界の陰謀論を読み解く: ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』

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陰謀論研究については今年のはじめごろにアメリカの政治学者、マイケル・バーカンによる『A Culture Of Conspiracy』を読んだ。こちらの『世界の陰謀論を読み解く』(筆者は、北海道大大学院博士課程に在籍中の若手、宗教学者だ)は、バーカンによる陰謀論者のメンタリティ分析をほとんど引き継いでいる、というか、ほぼそのままであるのだが、バーカンの本の邦訳が、参考文献をほぼ削除、かつ、訳者が陰謀論研究者じゃなく陰謀論者である……という問題があることを考えると、本書はコンパクトにまとまっていて、リーダブルな陰謀論研究書として現在最も手に取りやすい一冊だろう。

副題にある通り、研究対象となっている「陰謀の主体」はユダヤ・フリーメーソン・イルミナティである。バーカンの本だとこれに、スペーシーというかギャラクティックというか要するに「宇宙と交信しちゃう系の人」だとか、地球空洞説だとか、いろいろ楽しげな人が付け加えられ、より多彩である一方、『世界の陰謀論を読み解く』のほうは、アメリカの福音派(彼は共和党の支持基盤のひとつでもある)のなかに流入する陰謀論の解説など深く切り込んでいる部分もある。もちろん日本における陰謀論受容史(戦前・戦中にユダヤ陰謀論が日本の知識人・政治家の一部に流行した、とか、80年代に自民党保守派のなかにユダヤ陰謀論を真に受けている人がいた、とか)や、オウム真理教、ベンジャミン・フルフォード、リチャード・コシミズ……といった日本のトピックも豊富である。

どうしてある種の人々は陰謀論を信じてしまう(というか、陰謀を見いだしてしまう)のか。彼らのメンタリティは「世界を統一的に簡単に理解したいと願う人びとは、世界を動かす見えない主体の可視化を求め、世界を動かす主体に明確で首尾一貫したアイデンティティを求めているのである」(P.203)という言葉に端的に言い表されている。とはいえ、これと似たような態度は、陰謀論者でなくても持っているハズである。株価の変動の理由、大きな地震が起きる理由、テロが起きる理由……なんでも良いけれど「理由」を求めるメンタリティと、陰謀論者のそれとで、どう構造的に違っているのか。違っているのは「理解したい」という気持ちにおける程度の問題ではないのか、とも思えてくる。

いわゆる「エコノミスト」と呼ばれる人のなかには「今年必ず株の暴落が起きる」とか「今年の○月に世界大不況が起きる」とかいう予測を毎年出している人がいるという。こうした人々の姿も、本書で描かれる陰謀論者の姿……「多くの陰謀論では、『いま』がまさに陰謀の最終段階なのであり、同時にわれわれが真実に目覚め、『彼ら』の野望を阻む最後の機会なのだと主張される」(P.257)……と重なるものがある。私(と私の支持者)だけが本当のことを知っている、世界を救えるのは私たちだけなのである、だから、私たちは大きく警鐘を鳴らさなければいけない……こうした使命感と「私たち以外」への排他性は、件のエコノミストたちにも共通するだろう。いたずらに「陰謀論者」で括られる対象範囲を広げても仕方がないけれど、陰謀論者的メンタリティは、陰謀論者だけが持つわけではない。そして、陰謀論者とそうでない人びとの距離はそう遠くはないのである。

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石橋純(編) 『中南米の音楽: 歌・踊り・祝宴を生きる人々』

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中南米の音楽―歌・踊り・祝宴を生きる人々

東京堂出版
売り上げランキング: 364,990
(いわゆる)ワールドミュージックを聴く、というのは単に音楽だけを聴いて楽しむだけではなく、音楽から(歴史も含めた)文化を、文化から音楽を読み解く、というある種、学究的な楽しみがあると思う。ここ数年、南米の音楽を継続的に聴いていて、とくにそれを感じていて、原住民の、ヨーロッパからの、アフリカからの音楽・文化の複雑な混合がわかる瞬間はなかなかに楽しい。単なる蘊蓄に過ぎない、と言ってしまえばそれまでだけれども、音楽とテキストは、ワールドミュージックを聴くうえで切り離せないものになってしまっている。だから、単なるディスク・ガイドのようなものではなく『中南米の音楽』のような本はありがたい。

本書がとりあげる中南米の国々は、メキシコ、キューバ、ジャマイカ、ベネズエラ、ペルー、ボリビア、ブラジル、アルゼンチンと多岐に渡っているけれど、それぞれの国ごとに書かれ方や取り上げられ方が異なっている。ブラジル、アルゼンチンの音楽はそれぞれ、ボサノヴァ、タンゴが有名だけれども、ここではそうした既によく知られたものではなく、ブラジルの田舎(風)音楽であるムジカ・セルタネージャや、独裁政権下におけるアルゼンチン・ロックについて記述されている。ここから都市の音楽であるサンバやボサノヴァとは違ったブラジル音楽の深さを知ることもできるし、また、1976年(パンク誕生の年だ)のペロン失脚後の悪夢のような市民への弾圧のなか歌われたロックとその意味は、今日のアルゼンチンのポップ・ミュージックを聴くうえでも重要なものになるだろう。

知られざるものを明らかにする部分では、ベネズエラ、ペルー、ボリビアの音楽の紹介が輝いている。なかでも個人的にはベネズエラの章を読んでいて「コーヒールンバ」がこの国発祥の楽曲であることを知って大変に驚いたのだった(大体ルンバってキューバ発祥だし。しかも私が一番馴染みのある井上陽水によるカヴァーは、ダブ的なアレンジになっているので余計に国籍がわからない)。

ほかにベネズエラの音楽では、70年代に活躍したビタス・ブレネルが気になった(上の動画。音楽の本を読んでいて、こんな風にすぐ音楽にもアクセスできるって素晴らしい時代だ)。伝統のリズムとプログレッシヴ・ロックの融合(ヴァンゲリスみたいである)が衝撃的に良い。

また、文化史的なものでは合衆国におけるラテン文化とサルサや、合衆国とメキシコのボーダーにおけるチカーノ文化の紹介が面白いし、ダブをとりあげる章はダブの音響と編集のポストモダン性を指摘する「批評らしい批評」となっていて読み応えがあった。

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Cut Copy / Free Your Mind

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Free Your Mind
Free Your Mind
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Cut Copy
Republic (2013-10-31)
売り上げランキング: 797
聴いたことのない音楽に手を出すキッカケが(南米ものは)ディスクユニオンか、仙台在住のDJ兼ヤバい仕事に従事されているtdさんによるブログ『日々の散歩の折りに』のふたつに固定されつつあり、その傾向は日に日に高まっているのだが、Cut Copyの新譜もまたtdさん経由である。このアルバムに関するあっつい記述については先行するtdさんの文章を読まれたし。最高である。Soft CellやDead Or Alive、そしてヴォーカルはちょっとブライアン・フェリーが入っている、というtdさんのオルター・エゴが音楽化したごとき作品なのだが、一瞬でわたしもズッパマってしまったのだった。いまが21世紀であることを疑いたくなるシンセベースとドラムがまず最高であるし、ウワモノのアルペジオ感とか多幸感に溢れていて、ニヤニヤしてしまう。tdさんも書かれているけれども、昔っぽい音、にも関わらず、懐古感がないのがまた素晴らしいのだよなあ。ネタでこういうことやっています、という態度で音を作っていない、というか。これはかつて、Franz Ferdinandが登場したときの感覚に近いのかもしれない。しばらく毎日聴くと思う。

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いま好きな力士

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我が家に録画機能がついているテレビがやってきたのは最近のことだが、あ、録画機能ついてるなら相撲も録画で見れるじゃん、と気づいたのも先場所(九月場所)からなのだった。そういうわけで最近の楽しみと言えば、九州場所である(深夜にやっている『大相撲 幕内の全取組』を録画して観ています。取組だけのダイジェストだと、土俵入りの間とかが観れないのでこれはこれで味気ないのがあるけれども)。これまで土日の暇なときに観るぐらいのライトな相撲ファンに過ぎなかったが、今が一番相撲を観ている、と言って良い。15日間毎日やっていて、毎日面白いんだから辞められないのである。そういうわけで、今日はいまわたしが「好きだな〜」と思う力士について書いてみる。

舛ノ山(1990年生)
押し相撲を得意とする力士はそんなに好みではないが、顔がとても好きである。五月人形系というか、すごく丸々としている。毎回取り組みが終わった後、ぜいぜいと肩で息をしており「この人は、本当に相撲を続けていて大丈夫なのだろうか……」と心配になる(肺が人より小さいらしい。「20秒しか戦えない力士」という異名もある)。これから強くなりそうな期待感とかもそんなにないのだが、佇まいが素晴らしい。

宝富士(1986年生)
この人も顔が良い。生え際が若干後退しているのか、額が広いので、パッと見、ベテランかと思うのだが、そんなに自分と年齢が変わらないのでびっくりする。Wikipediaを読んだら『マツコ・デラックスに似ている』という記述があるが、それはわからなかった。個人的には、安西水丸が描く似顔絵みたいな顔だな、と思って、印象に残る。どんな相撲をとっているかはイマイチ印象がないのだが、顔ばかりが気になる。

松鳳山(1984年生)
とにかくこの人は肌が黒い。「え、いつのまに黒人の力士が!?」とびっくりするぐらい黒い。今場所、アフリカ大陸出身の力士では初の新入幕を果たした大砂嵐(エジプト出身)と同じかそれ以上に黒い。先場所よりも黒くなっている気がするので、日サロに行っているのでは、と思う(事実関係は不明)。そして顔もすっげえ怖そうな顔をしている。そして、わたしの弟にすげえ似ている。しかし、中身は普通の青年っぽいところが良い……。先場所、横綱・日馬富士から初の金星をあげて、感極まって泣いてしまうシーンでもらい泣きしてしまい、今場所も彼が勝つ度にまた泣いてしまうのでは、と思って、泣きそうになってしまう(福岡出身で地元だし)。

名前がカッコ良いですよね、まず(英語にしたら impulse ですよ)。右からガッツリぶつかっていく取り口のが印象的だが、そのせいか右肩にインプラントでも入っているのでは、というほどの大きなコブがある。これも頑張っている感があってすごく良い。あと、鼻がクルミを割った断面のような形をしていて印象が強い。先場所は上位陣とあたってあまりいい結果を残せなかったが、どこまで右肩のコブが大きくなるのか気になる。

以上、なんか相撲内容じゃなく、外見の話ばかりになってしまった。まあ、相撲内容以外の部分も含めて相撲が好きなのだよな。今場所は今年引退した元大関・雅山が毎回花道で見切れているところなども見所。あと一昨日から日馬富士が塩をまく直前のポーズが気になりまくっている(右手に塩をもち、右足の踵が浮いていて、左手はまわしにあてている。同じくこの塩のまき方が気になっている人がいたようで嬉しい。この人、平蜘蛛型の仕切りと呼ばれる仕切りも目立つし、なんか意味があるのかもしれない)。

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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#16 プイグ 『蜘蛛女のキス』

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蜘蛛女のキス (集英社文庫)
マヌエル・プイグ
集英社 (2011-05-20)
売り上げランキング: 79,180
わたしが読んだのはもちろん集英社の「ラテンアメリカの文学」ハードカバー版であるが、上記のリンクは現行の集英社文庫版。第16巻はアルゼンチンのマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』である。この小説が映画になっていることは読む前から知っていたのだけれども、なぜか作者のマヌエル・プイグを女性の作家だと思い込んでいて「苦手かもしれない」と予感していた(女性が書く小説って苦手意識がある。またマヌエル・プイグの性別の誤認識に関しては、小説のタイトルに『女』と入っていること、そしてマヌエルというファースト・ネームが『エマニュエル夫人』を連想させることが理由にあげられるだろう)が、これは震えるほどに感激した。ここまで読んできた16冊のラテンアメリカの作家によって書かれた小説のなかで最もメロウな小説ではないか。基本は主人公ふたりによるセリフのやりとりによって進行し(戯曲のようだし、実際、作者自身が戯曲化している)、ぶっ飛んだ想像力で読み手を魅了する魔術的なリアリズムもない。でも、そのセリフだけによる淡々とした語りによって、愛、というか、こう、グッとくる世界に引き込まれてしまう不思議なテキストである。

主人公は性犯罪で収監された同性愛者の男(ざっくりと言えば、オカマの人だ)と政治犯の男。同じ牢屋に閉じ込められたふたりの「男の話」なのだけれども、ここで描かれているのは「男女の愛」である。同性愛者の男は、模範囚として釈放してもらうかわりに、政治犯の男から彼が所属している革命組織の情報を得るよう取引をしている。政治犯の男は、同性愛者の男に対して偏見を隠せないでいる。この関係が次第に「愛」へと進んでいくのだが、これは「牢屋」という吊り橋効果的なものばかりではない。(訳者による解説でも指摘されていることだけれども)革命を夢見ながらも女性に対してはかなり保守的な考えをもつ政治犯の男が「成熟した子供(子供のまま成熟した大人)」であれば、それに尽くそうとする同性愛者の男の態度は「セックスつきの母親」のようである。

男性代表のつもりで意見を言うつもりはないし、また、男性の身分でこんなことを言うのは大変気持ちが悪いのだが、自分は子供のままで、セックスつきの母親に世話してもらえる、ってひとつの理想型なのだろう。あまりにも男性優位な愛の形態は、作中でも「搾取」という言葉で語られているが、これがまっすぐに批判されているのではなく、男と女(役のオカマ)のあいだで語られることによって、異化され、おかしみをもった戯画として読める。これも問題がある発言かもしれないけれど、男の相手がオカマだから、おかしみがあるのだ。一応、悲劇なんだけれど。牢屋のなかでの時間つぶしであり、同性愛者の男からすれば、政治犯の男と関係をもつための手段に過ぎなかった「好きな映画」についての語り。これがまたすごいんだよね……。あたかも映像とサウンドトラックが奇跡的にマッチしたような効果があるように思った。

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押切もえの小説を読んだが、彼女は天才かもしれない(押切もえ 『浅き夢見し』)

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浅き夢見し
浅き夢見し
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押切 もえ
小学館
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押切もえが構想・執筆に3年かけて書き下ろした処女小説を読む。お話としては、単純でまったく目が出ないモデル志望の女の子(25歳)が、枕営業を持ちかけられるがビビッて逃走、その話がこじれて事務所をクビに……というどん底に突き落とされたところ……からのサクセス・ストーリーになっており「どん底までまで落ちないと這い上がれないタイプ」という作者自身のメンタリティーが反映されたものとなっている。話としてはすげえ単純な話だし、文章も別に上手くない、というか、どこまで編集の人の手なのかわからないけれど、すげえ入っているだろうなあ……という感じであるが、変なケータイ小説よりはたぶん読みやすいのであろう。異様に主語が少ない文章は、句点での区切りも異様に多く、大江健三郎の影響があるのでは、とか、思ったし、突然文章が七五調になったりもし、変態的なリズムで進行する不気味な小説である。もしかしたら天才かもしれない。

実在のブランド(ジミー・チュウの靴がやたらとでてくる気がする)や洋服の記述はさすがにファッション・モデルだな、と思わせるところがあるし、小説の主人公が人気モデルとして成功するまでの道のりには、ダイエットやスキンケアの情報も含まれている。例えば「基礎化粧品は、包み込んで閉じ込める感じで入れていくこと」とか……。小説のなかにファッション雑誌が組み込まれている、といっても良いこの構造は、田中康夫かよ、とも思わされ、またもや、もしかしたら天才かもしれない、と思う。これは凡百のケータイ小説にはない特徴だろう。正直、割とどうでも良い情報ではあるので、軽く読み流してしまうのだが。果たして押切もえファンの女性が、これを読んで、なるほど、お役立ち! となるのだろうか。いや、押切もえファンであれば、この手の情報はすでに常識なのでは……では、誰のための情報なのか……と疑問に思うところがあるけれど。

ベタな展開もだんだん、気持ちよくなってくるんですよね。以下、ネタバレですが、枕営業未遂のシーンでビデオを回されてるとか、最高だな、と思ったし、主人公は最終的に東京ガールズ・コレクション的なイベントにでれるぐらいまで成功するんだけれども、そこでライバル・モデルに怪我させられたりするんだよ……。そのライバルがまた努力で成功をモノにしてきた主人公と違って、天才タイプで成功していくタイプ、なんだけれども「自分がなにやりたいか」とかよくわかってなくて、もう夢に向かって必死感だしまくってる主人公がうらやましい、という動機で怪我させられたりするんだけどさ……これが最終的に主人公の説教によって回心し、「自分も夢に向かって頑張るね」的な和解に至るんだよ!!! すごい、なんかジャンプ漫画みたい!!!!! 天才かもしれない!!!!!

というわけで、押切もえさんの次回作がでたらまた読むんじゃないかな、と思うに至っています。

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ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 『哲学探究』

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哲学探究
哲学探究
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ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
岩波書店
売り上げランキング: 81,111
日常的に読書をする習慣をつけるようになっておそらく10年といったところであるが、割によく読むジャンルでありながら、いまだにちっともわからないのが哲学の本である。哲学の本ってどんな本って言われてもすぐに答えられないし、読んでいるあいだは面白いな、と思いつつも、読み終わるとすぐに忘れてしまったりして、読めば読むほど哲学者にはなれそうにない(なりたいとも思わないけれども)と感じたりする。とはいえ「読んでみたいな」「読まなくちゃいけないんじゃないか」と思う本はいくつかあり、ヴィトゲンシュタインなんかはその代表格のひとりだった。まず、ヴィトゲンシュタインという名前がカッコ良いではないですか。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とかね。萌えますよ。

というミーハー根性でかつて『論理哲学論考』を読んだ記憶があるが、これはまったくもってよくわからず、今となってはなにが書かれていたか思い出せないし、読み終えたかすらも怪しい。これでヴィトゲンシュタインはわかんない、と諦めていればむしろ救われていたのだろう。『哲学探究』の新訳が出た、と知って、よし、チャレンジしてみるか、と思ったのだから、救われないのである……が、これは大変面白く読んだ。ああ、これは哲学っぽい本であるな、なんか久しぶりに哲学の本を読んでいるぞ、と思いながら。

「はじめに」でヴィトゲンシュタインはこんな風に書いている。「私の書いたものによって、ほかの人が考えなくてすむようになることは望まない。できることなら、読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになってほしい」。これはすごく的確な表現で、この本を読んでも「わかったぞ!! 世界のことが!!!」とユリイカ感を与えられることはないであろう。言葉がどんな風に通じているのか、とか、言葉をどんな風に使っているのか、とかを平易な言葉で記述され、さながら思考実験の学習ドリルのようだが、一向に「This is 真理!」みたいな感覚に陥らないのである。

けれども、そこが面白い。それまで当たり前だった世界が、言葉によって解体されていき、どんどん不思議に見えていく楽しさは、スリリング、と言っても良いのではないか(読んでいて統合失調症の世界ってこんな感じでは、とも思ったし、そういう意味では危険な本なのかも)。旧訳を見比べたわけではないけれど、新訳の日本語は、淡々としているのに、そういうスリルがスッと入ってくる良い日本語になっているのも良いのかも。この『哲学探究』はヴィトゲンシュタインの遺稿をまとめた本で、いろんなヴァージョンがあり、まだ「決定版」がないのだそう。そういう研究事情を知ると「めんどくせー本だな」と思わずにはいられないが、ひとまず、日本語版なら、コレになるのかな。野家啓一による解説もあわせて読んだら、高校生でも充分にこの本の面白さを味わえそうである。

なお、どうでも良いことだが、本書に出てくるある言葉から、このブログのタイトルは取られている(ただし新訳では、別な言葉になっていた……)。

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自己啓発というドラッグ(押切もえ 『モデル失格: 幸せになるためのアティチュード』)

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モデル失格 ‾幸せになるためのアティチュード‾ (小学館101新書 24)
押切 もえ
小学館
売り上げランキング: 84,454
こないだ出張中にKindleを持っていったのだが、読んでいたのは押切もえの本だった(Kindleを使って初めて読み終えたのが押切もえとは……と思ったが、紙の本よりも読書に集中できるのでKindle最高)。2時間弱ぐらいで読める軽い本だが、面白い。かつて「スーパー女子高生」と呼ばれ、ギャル雑誌の読者モデルの常連として名を売った彼女が『CanCam』専属モデルとなって成功するまでの半生記である。ドヤ顔で自分が重ねてきた努力をアピールする感じではないのだが、恋人を事故でなくしたり、サーフィンで首の骨を折ったり、と紆余曲折があるなか、自分がいかにダメな存在で、それを乗り越えるためになにをしてきたかが語られている。

字が汚いからペン字の本を読む、とか、情報番組のレギュラーの仕事をもらったから新聞を読む、とか、フルマラソンに挑戦したり、今現在も多方面で活躍中の押切さんであるが、このスポ根じみたアティチュードは継続されているようである。なんでこんなに頑張れるのか、他人からみれば不思議だろうし、押切さん自身もよくそういう質問をされると本書に記している。これは、あれだね、自分を追い込むのが気持ち良い的な自分のなかでSMが完結しているような感じなのか。自分のことを「もともとどん底までまで落ちないと這い上がれないタイプ」と語っているのだが、それを自認してるってなんかちょっとおかしいぞ……。這い上がることが日常になってるって普通じゃないじゃない。

これはもう自己啓発というドラッグにハマっている、と言えるのではないか。あと「新しいノートに、やりたいことを100個書き出してみる」とか、他の自己啓発本の引用とかもあるのも面白いし、そもそも新聞読む、とかペン字やるとか、マラソンとか、その努力のラインナップ自体、なにか世間的に「良いね」と呼ばれるものが並んでいるんですよね。ラカン的に言えば(笑)これは他者の欲望に踊らされている状態ですよ。いつか誰かが止めないと、メンタルとかが疲労骨折をするのでは……と心配になるが、でも、骨折するところまで見届けたいな、とも思い、俺はもう押切さんから目が離せない状態なのである。

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奥村隆 「亡命者たちの社会学: ラザースフェルドのアメリカ / アドルノのアメリカ」

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おそろしく久しぶりにアドルノ関連の論文を読む。書いているのは私の学生時代の先生で、私はこの先生のもとでアドルノの音楽批評についての卒業論文を書いており、先生がアドルノを取り上げているのはちょっとした驚きでもあったのだけれども、ノルベルト・エリアスに関する研究のことを考えると「亡命ユダヤ人社会学者」という萌え要素に近いなにかが存在したのではないか、などと想像してしまうのだがそれはどうでも良い。

亡命以降、経験的・量的調査によって社会分析をおこなったラザースフェルドと、社会学者というか哲学者というか美学者というか、なんだかよくわからないけれどもとにかく難しいものを書き続けていたアドルノ。両者の業績をどちらもカヴァーしている人は、そう多くないだろうし(というか全然いないのでは、という気がする)、一見両者にはまったく関係がない、という感じがする。けれども、アドルノがアメリカ亡命時代に研究員のポストを与えられたとき、彼の上司だったのはラザースフェルドである。では、両者の仕事に影響関係があったのか? というと、これはまったくないし、ラザースフェルドにとってのアドルノは「難解なことばっかり書いてる困ったヤツ」であったし、アドルノにとってのラザースフェルドの研究は「社会学って計測できることばかり調べても仕方なくね?」と疑問を抱かせるものだった。つまり全然相容れない存在だったわけだ。

両者は研究者としてやっていることも違えば、亡命時の生活も正反対である。アメリカ社会に馴染もうとし、実際アメリカの社会学界に大きな影響を残した重要人物であったにも関わらず、生涯アウトサイダー感を拭い去れなかったラザースフェルド。それに対して、最初からアメリカ社会に馴染む気がなく、同じ亡命ドイツ人同士でつるみ続け、終戦後にドイツへ戻ったアドルノ。この論文で指摘されている、両者が描き出すアメリカの姿の対称性は当然のようにも思われながらも面白く読んだ。とくに目立った違いは、両者の研究における「マスメディアのもつ社会への影響力」の捉え方である。

マスコミの影響力について考えると、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットといったメディアから流される情報が、直接的に人々に影響を及ぼす、ほとんど洗脳に近い様子を思い描いてしまいがちだ。アドルノが考えたメディアの力とは、この図式に完全に乗っかったもので、彼はマスコミを圧倒的な力をもって人々を「規格化」、「愚鈍化」させるものとして考えていた。これに対して、ラザースフェルドが示したのは「マスコミがもつ影響力は限定的」ということだ。『ピープルズ・チョイス』という著作で、彼は1940年の大統領選での意思決定をとりあげ、マスコミの影響力よりも、人の影響力のほうが強かったことを明らかにしている。これはどういうことなのか。ラザースフェルドの「コミュニケーションの二段階の流れ」モデルにおいては、マスコミから流れる情報は、ある集団で影響力を持ったオピニオン・リーダー的な人に流れ、多くの影響はその人から生まれる、という風に描かれている。

このモデルについて、この論文を読んで初めて知ったのだけれども、すげえな、確かにそういうことってありそうだな、と思わされて勉強になった。この図式、2ちゃんねるとか、Twitterなどの各種SNSで飛び交っている言葉の数々を見るにつけ、一層現実味を帯びている気がする(ラザースフェルドの著作は邦訳も原著も絶版になっているので残念)。また、このモデルと対比されたアドルノの文化産業批判が、なんだか自分には理解できないものを「邪悪だ!」としてレッテル張りをしたもののようにも思われてくる。とはいえ、そういうレッテル張りからしか描きえなかったものもあるのだろう、とも思うのだけれども。

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