『ユリイカ』2014年7月号「特集 ガルシア=マルケス: 『百年の孤独』は語り続ける」

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ユリイカ 2014年7月号 特集 ガルシア=マルケス -『百年の孤独』は語りつづける-
野谷文昭 ヤマザキマリ
青土社 (2014-06-27)
売り上げランキング: 3,106
恐ろしく久しぶりに『ユリイカ』を買ったのは特集がガルシア=マルケス追悼特集だったから。『百年の孤独』と『族長の秋』、この2冊の小説があまりに好きすぎるばかり「ガルシア=マルケスは全部読んでます!」というぐらい熱を持って接してきたわけではないのに、わたしの好きな小説家ランキングTop3に入ってくるぐらい好きな、このコロンビア出身のノーベル文学賞受賞作家は今年の4月に亡くなった。アルツハイマーをわずらって以降、もう書けなくなっているのは親族が伝えていたから、亡くなったときはショックというよりかは「ああ、なんだか寂しいなあ」という思いがした。

本特集には、さまざまな作家や評論家がこの作家に対する思いを寄せているのだが、そうしたラヴ・レター的な文章は、割とどうでも良い。まず面白いのは野谷文昭や、鼓直、木村榮一、旦敬介といったラテンアメリカ文学を日本に紹介してきた翻訳者たちによって語られた作家に関するエピソードで、なかでも『百年の孤独』を執筆中に、アウレリャノ・ブエンディアを死を書くことが怖くなり、ついにその死まで到達してしまうと、自分の創作したキャラクターのために号泣してしまった、というものが印象残った。それからエクトル・アバッド=ファシオリンセによる追悼文も面白い。筆者はガルシア=マルケスとも親交があったコロンビアの作家だそうで、ガルシア=マルケスに対する評価が「平熱」で書かれている。とくに作家の政治性に関しての指摘(カストロと仲良しだった、など)は、文学者に対するある種の平和的偏見(作家はみんなヒューマニズムを持っている、的な。そのとき、石原慎太郎みたいな作家の存在は忘れられているのである)を壊すようだ。

ロベルト・ボラーニョの翻訳者、松本健二による文章も「ラテンアメリカ文学」というジャンルを考えるうえで、とても参考になる。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は確かに大傑作だが、この一冊のおかげで南米文学に対するイメージが「マジック・リアリズム」として既定されてしまい、南米の作家には「ラテンアメリカ文学」というブランドからあえて距離をとる人たちがいるとのこと。しかし、そこには「読者が求めているのはなんだかんだ言ってマジック・リアリズム」という状況もあるし、マジック・リアリズムじゃないのにマジック・リアリズムとして読まれてしまう、という事情もある。これは『百年の孤独』の商業的成功が生んだ弊害なのであろう。なにせ、日本では焼酎の名前にも借りられてるぐらいだし。

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タラ・パーカー=ポープ 『夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか』

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夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか
タラ・パーカー=ポープ
NHK出版
売り上げランキング: 171,106
著者はアメリカの健康情報ライターだそうで、夫婦関係に関する調査や実験の結果をもろもろまとめたもの。「◯◯大学の社会学者は〜と言っていて〜」だとか「脳科学的には〜」だとかもっともらしくでてくるのだが、研究で得られたデータがどれだけ真っ当なものなのかは本書を読むだけでは全然わからない(出典は、WEB上で公開されている)。ベストセラーになった『話を聞かない男、地図が読めない女』で大々的にその存在がアピールされた脳の性差(生まれた時から男女の脳は働きが違う! と言われると信じちゃうけれど、環境因子の影響もあるだろ……と批判されるべきもの)についての言及も多い。さまざまな「結婚のサイエンス」をパッチワーク的に使って、夫・妻、それぞれに対して教訓を与える面白い読み物ではあるけれども。

ざっくりとその教訓を紹介すると……

  • 不満は溜め込まないで吐き出せ!(ただし相手を侮辱するな。落ちついて話せ!)
  • セックスはしたくなくてもしとけ!
  • ケンカの原因は大体において根本的な解決をしない!(だから気にすんな!)
とか。新婚ホヤホヤならこういうことはわからないかもしれないけれど、書いてあることは「あー、やっぱりそうだよねー。統計とったらウチみたいな夫婦多いんだなあ」、「みんな似たような悩みを抱えてるんだなあ……」としみじみ思う点が多々ある。サイエンスによって「夫婦あるある」を認識する感じ、というか。しかし、紹介されている研究に協力している多くの夫婦が、アメリカのそこそこ中流階層(かそれより上の人)。それはたまたま日本の中流家庭と共通項を持っていただけで、階層ごとに全然夫婦の在り方は違うかもしれない、とも思った。

冒頭、そもそも「一夫一妻制」という世界中で広く見られる風習・文化・制度は正しいのか、という話が展開されるのだけれど、正直そこが一番面白いかも。よく結婚否定派の人が「生物には自分の遺伝子を多く・広く残したいという本能をもっているハズ。だから結婚は生物学的に間違っている」とか言うじゃないですか。わたしはそういう本能論に対して全般的にうさんくさいな、と感じていて、「本能」とか「母性」とかを持ち出して語られるものの大半が可塑的なものなのでは、と常々思ってるので、そのへんを他の生物の生殖行動と絡めながら「一夫一妻制は生物的に誤っているのか!?」というところを検証しているのを興味深く読んだ。

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安丸良夫 『神々の明治維新: 神仏分離と廃仏毀釈』

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神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)
安丸 良夫
岩波書店
売り上げランキング: 55,873
昨年読んだ五十嵐太郎の『新宗教と巨大建築』をきっかけに明治維新における宗教政策に興味をもった。「廃仏毀釈」という言葉は、中学生ぐらいで必ず習っていると思うけれど、本書はその一連の流れをまとめたもの。古い本だけれども、大変面白く読んだ。当時、仏教が排撃されたばかりでなく、由来がよくわからない怪しげな神様もまた排除の対象となっていたことをわたしは本書で初めて知った。お寺が打ち壊されるばかりでなく、由緒正しくない神様を祀っていた神社も「あんたのところもちゃんとした神様を祀りなさいよ」と取り締まられ、改名を余儀なくされたりしたそうである。

神様の由緒正しさ/正しくなさを判定は、水戸学や国学から発展した国体神学によってなされた。『古事記』に載ってる神々みたいなのをお参りしないと、ダメですよ、と(その他、国に貢献した人たちなどを祀らないと、祟られますよ、とか言っている。靖国神社の元になった東京招魂社もそういう議論から建てられたものだ)。廃仏毀釈や神仏分離といった政策に、神道で国民全員一致団結しようぜ! 的な意味合いがあったことは分かるけれど、こうした神々の整備のプロセスを知ると、中央集権的な国民精神の統合よりも「なんか日本人の精神性ってバラバラすぎねえ?」という危惧から生まれた標準化の面に目がいってしまう。

もちろん、そうした日本人の精神の標準化には抵抗勢力があって、お坊さんが「村一体を丸焼きにしてやる!」と息巻いてたり、「俺らはスピリチュアルな存在に守られるから絶対死なない(銃弾とか当たらないから!)」と信じて特攻し、当然のごとく逮捕……死傷者を出す事件に……などテロリズムに走った人たちもなかには存在していたらしい。明治政府は、土着のものを改める難しさに直面していた。しかし、ここで行われた精神の改革、習俗の変更は今にも多く残っているわけで、政策はかなりの面で成功していた、とも言える。

あまり大きくページを割いているわけではないけれど、本書を読んでいて、明治天皇という人物にも興味が湧いた。新たなカリスマとして担ぎだされ、新しい国家の頂点に相応しいキャラクターとして教育された……わけだけれども、そういう思惑に、バッチリと適応してしまった明治天皇がすごいんじゃないの、と。

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Moreno Veloso / Coisa Boa

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コイザ・ボア
コイザ・ボア
posted with amazlet at 14.06.21
モレーノ・ヴェローゾ
インディーズ・メーカー (2014-06-11)
売り上げランキング: 2,056
カエターノ・ヴェローゾの息子であり、近年のMPBにおける最重要プロデューサー、モレーノ・ヴェローゾの新譜を聴く。プロデュースや演奏、ヴォーカルで参加しているアルバムのリリースがかなり多いけれども、ソロ名義では14年ぶりのスタジオ・アルバムとのこと。制作には3年近く費やしたというのだから、これは労作と言えるのだろう。これまでモレーノ・ヴェローゾの歌を聴いていて、どうしても父親の持つ艶やかなヴォーカルと比較しまいがちだったのだが、ようやくここでその呪縛から逃れて聴くことができるようになった気がする。どこか頼りない感じというか、揺らぎを感じるその歌声が、この人の持ち味として定まってきた、というか。演奏に参加しているのは、ドメニコにカシンという「+2」プロジェクトにおける盟友、そしてプロデュースはモレーノ自身とペドロ・サーによる共同名義……とお馴染みの製作陣だが、この夫人はモレーノを中心とする強力なパネーラ(ブラジル社会における『派閥』の意味)を感じさせる。それはとても広く、Orquestra Imperialのつながりもあれば、アート・リンゼイもいるし、高野寛、嶺川貴子という日本人ミュージシャンにまでつながっていく。これだけタレントがいれば、鮮やかな原色によって色付けされた目映いようなトロピカリアが現れてもおかしくないのだが、そこを自然で穏やかなサウンドにまとめあげてしまうのだが、今のモレーノ・ヴェローゾのスゴさであり、雰囲気、なのだろう。とても優しいポップ・ミュージックだと思う。

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ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 『時間の前で: 美術史とイメージのアナクロニズム』

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時間の前で: 美術史とイメージのアナクロニズム (叢書・ウニベルシタス)
ジョルジュ ディディ=ユベルマン
法政大学出版局
売り上げランキング: 564,240
「美術」というジャンルはわたしにとって「興味はあるけれど、遠い存在」で、それは自分が資格的な芸術にあまり強くないという自認によるものだ(年に数度、美術館にはいくけれど、絵そのものはあまり覚えてなくて、どういう絵を観たか、という物語的な記憶ばかりが残る)。けれども、自分の弱さを知っているがゆえのコンプレックス的な惹かれ方もしていて、チャンスがあれば美術史の本を手に取ってみたりもするし、読んでみて「ああ、やっぱり遠い存在だな」と残念になったりもする。

ディディ=ユベルマンの『時間の前で』もそんな感じで読みはじめたのだ。これは以前に古本屋で手に入れたことをtweetしたら、どういう本なのか教えてくださる方がいらっしゃった(せっかくなのでTogetterをはじめて使ってまとめてみた)のだが、読書するにあたってはその教示が大変に役立った。アダム高橋さんが教えてくれるように本書は、美術史の転換を促さんというアジテーションのようなもので、ヴァザーリやパノフスキーといった美術史家と、アビ・ヴァールブルク、ベンヤミン、カール・アインシュタインといった美術史家/批評家のモデルを対立させながら、後者のグループの語り口における「アナクロニズム」について説いている。

筆者が示した対立が、どんなものか、本書に出てきた言葉を使ってざっくりメモしておくと、前者の美術史は「誰それはなんとかの影響を受けている」云々といった体系的な歴史であったり、絵画のなかに描かれたモチーフや画面構成の意味を思想や文化との対応のなかで導き出す固定的なモデルをとる。これに対して後者の美術史は、可動性をもつ弁証法的モデルをとる。『ムネモシュネ・アトラス』、『パサージュ論』、『黒人彫刻』で描かれるモンタージュ的な歴史に現れるアナクロニズムは、常識的な歴史家に対して挑発的だ。ディディ=ユベルマンは、このアナクロニズムこそ、美術史の本質だ、と語る。

というのだが、かつて割合熱心なアドルノ読みだったわたしにとって、筆者が語る歴史モデルがアドルノの『否定弁証法』とどう違うのかよくわからないところがあった(ちなみにアドルノの名前は、ロルフ・ティーデマンの名前とともに一度だけ本書に登場する。ちなみにベンヤミンを読めてない人たち、として批判の対象になっている)。とくにカール・アインシュタインの美術論について語る第3章は、ほとんど『否定弁証法』と同じことを言っているように思うし、使われてる術語もかなり似ている。問題はわたしが「なぜ、アナクロニズムなのか」をあんまり理解していないことだ。おっしゃることは何となく分かるけれど、どう歴史役立つんですか、と。

『否定弁証法』もそうだが「可動的」だとか「非-同定的」な歴史記述というもの自体、不可能を前提にするもので、これはロマンティックな態度だと思う。そういうものに惹かれる気持ちも、こういうのがウケる気持ちもわかるんだけれど、たとえば山ほどの草稿を残して自殺したカール・アインシュタインに「書くことに対する絶望があった……」云々と言われても、そこに食いつくほど若くはない。ただ、ディディ=ユベルマンが言わんとしていることはもうちょっと読んでみないとわからないかもしれないし、読んでみよう、と思わせるだけのものは残った。

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Joyce Moreno / Raiz

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ハイス~私のルーツ~
ハイス~私のルーツ~
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ジョイス・モレーノ
オーマガトキ (2014-06-11)
売り上げランキング: 1,282
サッカーワールドカップのブラジル大会が始まって、テレビからサンバのリズムが流れまくっている昨今であるが、それとはまったく関係なくもっぱら自分のペースでブラジル音楽を聴いているわたしである(ブラジルの土地の情報と音楽が結びついているため、会社でブラジルの話になったりすると、異様にブラジルに詳しい人、みたいになっている)。しかし、大会に絡んでユニバーサルとかボンバ・レコードが過去のカタログから名盤をセレクトし廉価でドカッと売り出しているのは、ありがたいお話。とくにユニバーサルのラインナップは鼻血がでてしまう豪華ぶりだ。カエターノ・ヴェローゾのアルバムなんか、こないだリマスター盤がでたばっかりじゃないか……。

というわけでブラジル音楽界隈では旧譜が熱いのだけれども、もちろん新譜も熱くて、大御所ミュージシャンの新譜のリリースが続いている。こないだはジルベルト・ジルのアルバムが、今度はジョイスのアルバムがでた。両者のアルバムに共通しているのは、自分のルーツとなっている楽曲をとりあげたカヴァー集ということ。トム・ジョビンあり、ドリヴァル・カイミあり、と楽曲のセレクトまでちょっとかぶっていて、どれだけジョビンやカイミという音楽家が偉大だったかを感じとれる内容だ。

しかし、ジルが自分たちの息子世代の若いミュージシャンをプロデューサーや演奏者に迎えて、名曲を新しくリメイクしてみせたのに対して、ジョイスの本作はかなりオーセンティックなジャズ・サンバ的アプローチをとっていることで大きく違う。目新しいことはなにもやっていない。もちろん、名手たちの演奏と、ジョイスの素晴らしい歌声とギターに否定的な要素が含まれているわけではない。おそらく、リラックスした雰囲気のなかで制作されているんだろうなあ、という感じが伝わってきて、聴いていて自然と心がほぐれていく感じがする。ゲスト参加のホベルト・メネスカルのギター・ソロも、グッとくるさりげなさがあって痺れる。こういう、なんというか小野リサ的安定感をもった作品から、ブラジル音楽の世界に入っていけるのはとても良いことなのではないか、と思う。

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松尾潔 『メロウな日々』

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松尾潔のメロウな日々 (SPACE SHOWER BOOKS)
松尾 潔
スペースシャワーネットワーク
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宇多田ヒカルだとかSPEEDといったアーティストによる90年代半ばの大ヒットアルバムを聴きなおして、彼女たちの裏側に松尾潔という人がいたことを知ったのはここ最近のことで、それからぼんやりと90年代以降の日本のポップ・ミュージックにおいて、小室哲哉とともに(というかそれ以上に)重要だったのは、松尾潔だったのではないか……と考えていたのだけれど、氏による具体的な仕事には触れられないままであった。氏がプロデューサーとして活躍しはじめる前の、90年代のR&B、そして当時のラジオ・パーソナリティ/音楽ライターとして活動していた頃の記憶/記憶をまとめた本書の存在を知ったのは、山下達郎が序文を書いていたからだった。とはいえ、90年代のR&Bについてほとんど無知に近い私は、本書に出てくる固有名詞のほとんどを知らないまま読むことになる。けれども、2010年代になって書かれた、90年代の自らの活動を振り返っていく文章の、シニカルだが、まさにメロウでスムースな印象がとても好ましかった。1968年に生まれた筆者の20代の青春がおおよそ詰まっている、と言って良いだろう。自らの過去と、音楽との関係について書かれた文章の多くが感傷的で、しみったれている。しかし、過去を振り返るという行為そのものにそのしみったれ具合がつきまとうとはいえ、この文章はどこか、スポーツ選手の回顧録のように気持ちよい。そして、90年代に筆者によって書かれたライナーノーツの文章の再録とかけ離れたテンションと比べるのも面白い。それはどこかスポーツ紙的というか、風俗情報のように綴られた、読んでいて恥ずかしくなるような文章だ。今から20年ほど前に、20代の若者が書いたものにはとても思えない。けれどもそれは当時の日本のR&Bの受容において「蓮實重彦よりも淀川長治が必要だった」という筆者の信念のあらわれだったのだろう。さまざまなミュージシャンとの、時に奇跡的な出会いに関する文章も面白く、ジェイムス・ブラウンにめちゃくちゃ深い話をされたり、クインシー・ジョーンズに説教されたり、という若さ故のエピソードはR&Bファン以外にも響くものだろう。

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北大路魯山人 『春夏秋冬 料理王国』

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春夏秋冬 料理王国 (ちくま文庫)
北大路 魯山人
筑摩書房
売り上げランキング: 50,446
『開運! なんでも鑑定団』を観まくっていることは以前にも書いたけれども、あの番組を観ていると北大路魯山人について気になってくるのは当然であって、その著作に触れてみた。海原雄山のモデルになった食客による食全般に関するエッセイ。本としての初出は1960年だそうで、著者は1959年に76歳で亡くなってるから死後に出ていたことになる。それぞれのエッセイがいつ書かれていたのかわからないけれども、基本的には「良い食材を使え!」とか「料理人の大部分は食材を殺しているからいかん!」とかそんなことばかりで特別目新しいものはなかった。「アメリカよりイギリスのほうが飯がうまい」とか今言われてる定説とはズレてることを書いていたり、「寿司屋が堕落しているのでそのうちコンビーフとかトンカツの寿司が登場するに違いない!」みたいな予言じみた文句は面白いけれど、食エッセイなら、強風下におけるマッチの正しい使い方評論家のほうが断然面白い。

「旨いものは現地で食え!」という魯山人の現場主義も流通や冷蔵技術が未発達だった頃のお話であって、今だと東京で食べるのも現地で食べるのも実質変わらないのに、現場主義が「やっぱり現地で食べるのが趣きがあって良いですな」ぐらいのツーリズムに失墜している、と言えるかも。食に対するリテラシーでいったら、当時の魯山人よりも、現代においてそこそこお金を使っていたら魯山人よりも美味しいものを食べている可能性があり、美味しいものが食べられる時代に生まれて良かったなあ……という意見は、本書を先に読んでいた妻と一致した。

この当時からサシが入った牛肉っていうのは、美味しいものとされてきたんだなあ、だとか「過去の味覚」を探るのは面白くはある。魯山人の味覚を分類するに「繊細な味がする上手物」と「脂肪分が多い下手物」という二つの基本軸がある。これは実に単純なものだと思う。本書のなかで魯山人はフランス料理を強烈にdisっているんだけれども、それはこの味覚センスによるものなのでは、とも思われた。大岡昇平とともにトゥール・ダルジャンに行き、鴨を注文したが焼き方が気にいらず、山葵醤油で食べた、という有名なエピソードも本書に収録されているのだが、これを読んでいたら「野菜でも肉でもサッとあぶって岩塩でもかけてだしてたら喜んで食べたんでは」と思わされる。昭和29年(1954年)に日本のジジイがアメリカ、ヨーロッパをまわってまともに扱ってもらえるかもわからないけれど、自分の舌にあわないものを全否定する狭量さは今では滑稽に思えるかも。

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J.D. サリンジャー 『フラニーとズーイ』

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フラニーとズーイ (新潮文庫)
サリンジャー
新潮社 (2014-02-28)
売り上げランキング: 2,626
村上春樹によるサリンジャーの新訳を読んだ(サリンジャーって特別に好きな作家でもないのに新訳をほとんど読んじゃっていることに気づいた)。先行する野崎孝訳で読んでいたけれども、あんまり記憶に残ってなかったね。「ズーイ」は「あ、風呂のなかで長話する小説だよな」というぐらいで「フラニー」に至っては「こんな小説だったのか……」とほぼ初見みたいな感じだった。これは野崎孝の訳が云々、というよりも、学生時代の自分の読み方がいかに雑だったか、を示している。「世の中、クソみたいな人間ばっかりだ」と今よりもずっと強く考えていた学生時代のほうが「フラニー」なんか響きそうなんだけれど不思議。めんどくさい宗教談義が長々続く「ズーイ」も、長いなあ……と思いながら、密室で起こる家庭劇として読めて面白かった(作中で書かれている通り、ホーム・ムーヴィーのような小説なのだ)。「フラニー」が「世の中、クソみたいな人間ばっかりだ」ということに対する拒絶なのだとしたら、「ズーイ」は少し年長の兄がそうしたクソさ加減に対しての諦念を授けるような話なのかもしれない。

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礒山雅 『マタイ受難曲』

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マタイ受難曲
マタイ受難曲
posted with amazlet at 14.06.07
礒山 雅
東京書籍
売り上げランキング: 60,207
J.S. バッハの《マタイ受難曲》に関する研究書を読む。いやー、大名著でしょう、これは。是非、同曲の録音を聴きながら読み進めていただきたい一冊である(その際、ドイツ語の初歩的な知識があると良いと思う)。音形に意味を持たせる音楽的修辞法を細かく分析し、J.S. バッハがこの音楽に込めた意味・演出的意図を解き明かす部分はもちろん、彼のキリスト教関連の蔵書を参照しながら、18世紀のルター派に属した音楽家がどのように聖書というテキストを解釈していたのかに迫る部分は、衝撃的に面白かった。実にインテレクチュアル・ヒストリー的というか、パノフスキー的な仕事であるように思った。

今日《マタイ受難曲》と言えば、まずはJ.S. バッハの楽曲を思い浮かべる人が大半だろう。しかし、本書はJ.S. バッハの《マタイ》にだけ焦点を絞らず、まず受難曲のフォーマットと歴史を概説している。これが実に効果的な前置きだった。その歴史を紐解くと、全人類の宝、というか普遍的な価値をもつ大名曲と評価されるJ.S. バッハの《マタイ》が、18世紀のライプツィヒというやや音楽的には遅れた町の伝統行事用の音楽に過ぎなかった。現在のユニヴァーサルな評価を知っている我々からすれば、そのローカル性を信じられないほどだだろう。彼の音楽性が保守的で、当時の聴衆には難解なものとして理解されたことは、岡田暁生による『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 』でも触れられているが、この《マタイ》もやはり保守的な様式だったと言う。この時代もっと感傷的なオラトリオを聴衆は好んで聴いていた。

歴史に名を残す人物の多くが、革新的業績をもつ人物であるのに、J.S. バッハという人はそうではないのかもしれない。保守的な技巧を卓越させた職人的作曲家が、普遍的な価値を持つ音楽、として今日聴かれていることはいささか奇妙にも思えるのだが、それは彼が当初より普遍的な価値を目指して楽曲を書きのこしていたのではないか、という想像力を働かせる。本書で読み解かれる音楽的修辞を、当時の聴衆がどれだけ理解できたのか。おそらく、あまり理解されなかっただろうし、ほとんど気がつかれなかったに違いない。だとするならば、それは誰に向けての修辞や意図だったのか。当時の聴衆に向けての表現でなかったがゆえに、ユニヴァーサルな価値を獲得しえたのではないか……などと思うのだった。

なんにせよ、本書を読みながら改めて《マタイ受難曲》を聴きなおすことで「なぜ、この曲に感動してしまうのか」の謎に接近できるハズである。

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BUCK-TICK / 或いはアナーキー

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或いはアナーキー(初回限定盤C)(DVD付)
BUCK-TICK
徳間ジャパンコミュニケーションズ (2014-06-04)
売り上げランキング: 29
BUCK-TICKの新アルバムである。昨年はデビュー25周年記念のドキュメンタリー映画が公開されたりなんかして賑わいが絶えない感じであったが(映画は結局いまだに観れていない……限定版商法みたいなのがツラい……)、いや、今回のアルバムはブッ飛んだ。BTをものすごくザックリどんなバンドか説明すると「BOØWYの多大な影響を受けた北関東ヤンキー文化によるゴシック / ニューウェーヴの畸形的解釈」とでもいうべきなのだろうけれど、そういうバンドが今『或いはアナーキー』というタイトルなのだから、なんというのだろうか、25年以上の年月をかけて「勘違いした解釈が、正典にたどり着いた」という異様な感慨がある。ここで顧みられている19世紀末〜20世紀前半のフランスで盛り上がった前衛や頽廃趣味は、従来の「死」や「暴力」といった純粋ヤンキー的な文化の耽美的解釈を通り越して、ホンモノらしさに満ちている。いや、櫻井敦司の歌詞は従来通りのお耽美な感じなのだが、今井寿が書く歌詞ってこんなに良かったか……と驚いてしまったよ。かつてASKA的な「SAY YES」によって逮捕された人だけあって、そっち関係の飛んでいる歌詞はスゴいな、と思ったけれど。

音楽的にも、ここ数年の方向性の彷徨い方(もちろんそのとき、そのときで最高だったワケだけれど)がついに定まったのではないか……。初期の純ビートパンクみたいな楽曲もありつつ、打ち込みもありつつ、で集大成感がものスゴい。様々なところにフックが隠されていて、今井寿と星野英彦のソング・ライティングの性格がアルバムのなかで絶妙なバランスをとっている。樋口豊のベースがバンド全体を引っ張っていく感じも過去最高に強烈だ。あんまりテクニカルなことをやっているわけではない、というか、基本ルート弾きかヒッジョーにシンプルなリフレインを繰り返しているだけなのに、時にピーター・フック以上の存在感を見せているのは驚異である。これもまた、長年活動してきたバンドならではの調和、なのだろうか。BOØWYやX-JAPANや、LUNA SEAが解散したり、活動休止したのに対して、BUCK-TICKはそうした休止をしなかったのにも、そうした各メンバーの関係性が起因しているのかも。とにかく超スゴいアルバムです。

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グレン・グリーンウォルド 『暴露: スノーデンが私に託したファイル』

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暴露:スノーデンが私に託したファイル
グレン・グリーンウォルド
新潮社
売り上げランキング: 39
訳あってエドワード・スノーデンに関する本を読む。著者は彼に最初に取材したジャーナリスト。本書は暴露記事が仕上がるまでと、暴露された資料についての解説、あとは行き過ぎた監視社会への批判、それからアメリカのジャーナリズムへの批判の4本立てで構成されている。ぶっちゃけ、スノーデンがメインとなっているのは最初だけで、最後のジャーナリズム批判なんかスノーデンを出汁にマスコミ批判をしているだけ。アメリカの情報監視システムについても、恐ろしさや気持ち悪さを感じさせるだけで「まあ、これぐらいはやろうとすればできるだろうな」とそんなに驚きはない(アメリカ製の通信機器に盗聴用のパーツを仕込んで輸出するとか、地道なことをやっているのはちょっと面白いけれど)。監視社会批判もミシェル・フーコーのパノプティコンが〜とかお決まりのことしか書いていないし。

逆に集めた情報をテキスト・マイニングの手法で分析し、犯罪予告をおこなうシステムができている! とかだったら、すごく面白いし、アメリカのエンジニアすげーな、という話なんだけれど、実際は集めた情報をFBIやNSAやCIAといった当局側が上手く使えていないことがわかる。情報を勝手に集めている、というのは間違いなくプライヴァシー権の侵害だ。しかし、直接的な暴力の行使や介入の手段はできていない。個人的には、そんなレヴェルだったら「気にしなきゃ済む話なのでは……?」と感じてしまったし、将来的に開発されるのであれば犯罪予告システムがあるのなら、情報監視を続けてもらったほうが未来感があって良いんでは、と思う。

今もG-mailの内容なんかは広告表示や検索結果の最適化のために分析されちゃってることを認識しながら、ネットのサーヴィスを利用しているじゃないですか。それを考えると、アメリカの当局も、利用目的を明文化して「犯罪捜査のためにネットや電話の利用状況は監視させてもらってます!」とか言ってれば良かったのか? とも思うし、またGoogleだと許容できるのに、当局だと許容できず、監視する主体に悪しき意志を想定してしまう心理のほうが気になってくる(その悪しき意志の想定は陰謀論者っぽい)。中央集権的なビッグ・ブラザー的主体よりも、無数の市民の集合意識というか、Twitterとかでの炎上案件を市民がこぞって潰しにいくリトル・ピーブル的主体のほうが恐ろしいですよ、わたしは。

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坂本慎太郎 / ナマで踊ろう

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ナマで踊ろう(通常盤)
ナマで踊ろう(通常盤)
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坂本慎太郎
zelone records (2014-05-28)
売り上げランキング: 102
坂本慎太郎の新譜を聴く。「人類滅亡後の地球で鳴り響く音楽」というコンセプトをもとに制作されたというけれど、スティール・ギターやバンジョーといった楽器によって演出されたモンドっぽい雰囲気と、ディストピアを暗示する歌詞とのマリアージュが素晴らしく感動した。ロックから遠く離れて、「みんなのうた」的な親しみやすささえあるのだが、ちょうど中原昌也の小説のように、最低最悪な状況が描かれているのに面白くて笑えてしまう。この歌詞が、恐ろしい将来への警鐘ではなく、すでにある現実の風刺として読みとれるのだとしたら、我々が住む社会が既にディストピアである、ということなのだろう。大名盤でしょう。

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