桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

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叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市
桑木野 幸司
中央公論美術出版
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本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。

こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。

直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。

本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱かせながら記述されるこの旅路は、単なる研究書を超えた素晴らしい読書体験をもたらしてくれる。建築をあたかも書物のように読み解く五十嵐太郎の業績に触れている読者にもオススメしたいと思うし、初期近代のこうした精神的建築(建築的精神)を知ることで、思想化(あるいは政治化)した現代建築にかんする捉え方も変わっていくのではないか、とも思った。

(改めて、桑木野氏にはこのような素晴らしい著作を恵投いただいたことに感謝いたします)

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植島啓司『官能教育: 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか』

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文化人類学者による愛とセックスをめぐるエッセイ。文化人類学的に性愛が語られる部分はごく一部で、近代のロマンティック・ラヴ・イデオロギー的な社会制度から見れば奇異に見える風習の紹介が最初のほうにあるだけ。あとは『ボヴァリー夫人』などの文学作品を引用しながら、思いつきじみた考察が続いていく。「◯◯の文化史」みたいな内容を想像していたらちっともそういう本ではなかった。途中で挿入される40代女性と著者(70歳近い)のインタヴューはとても現実感がなく、そのリアリティのなさは、著者が現代の40代女性のリアルなナラティヴを知っていたとしても、エクリチュール化しえない老化現象によるものなのか。「自分は男性だけれども、女性の気持ちがわかる進歩的な男性ですよ」的なポーズをとりながら「慣習だとかに縛られないで、自由に恋愛だとかセックスだとかすれば良いんじゃない!」的な発言を繰り返しているだし、大きな結論もない。ほとんど読む価値はないと思われる。ただ『ボヴァリー夫人』のあらすじを初めて読んで、ああ、面白そうじゃんか、とか思ったし、引用されている文学作品を面白そうに紹介しているのは良かった。

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パラケルスス文書とパラケルスス主義者

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先日、学習院女子大で開かれたJARS(Japanese Association for Renaissance Studies ジャースと読むらしい)主催の研究会「ボッティチェッリからスピノザまで」に参加した。懇親会を含めて賑やかな会で、大変楽しい時間を過ごさせていただいたのだが、なかでもとくに村瀬天出夫さんの 「ルネサンス期ドイツにおける終末論とパラケルスス主義」という発表は、個人的に惹かれるものが多々あった。15世紀末からさまざまな終末を語る予言書が出版され、それらが広く読まれていた、という史実にもとより興味があり、その関連でメランヒトンの終末論なども気になっていたのだが、村瀬さんの発表で、ルター派の終末論とパラケルスス主義者の終末論の比較がおこなわれていたのが印象に残った。

パラケルススに関しては、昨年末出版された『パラケルススと魔術的ルネサンス』に詳しいが、15世紀末に生まれ、不遇の人生を送りながらヨーロッパを遍歴した極めて変人的な医師・錬金術師、と乱暴に紹介しておこう。村瀬さんの概算によれば、現代のハードカバーにして30巻ほどになるという膨大な量の原稿を書き残したが、そのほとんどが生前出版されなかったことからも彼の不遇っぷりが垣間見える。そうした原稿は現在「パラケルスス文書」と呼ばれ、彼の死後20年ほど経った頃に、ドイツの医師たちがパラケルスス医学を広めるために、これらを出版していこう! という動きを起こしたことで脚光を浴びることとなる。

ときは16世紀。ヨーロッパのあちこちで宗教戦争が起こりまくっており、末法(マッポー)めいたヴァイブスが充満しているなかである。同時期にルター派が「ローマにいるアイツらは偽学者だ! 終末は近い!!」、「ルターは預言者エリヤの再臨だった! 終末は近い!!」とか言っているのに似て、パラケルスス主義者たちは「アリストテレスとかガレノスとか異教的な学問をやっているのは堕落だ!」とメインストリームの医学を攻撃し、その終末論的言説もかなり共有されていた。わたしが面白いと思ったのは、この似たようなふたつの運動の共有部分ではなく、相違点である。この相違点が、パラケルスス主義者たちの奇妙さを際立たせているように思う。

まず、パラケルスス主義者たちは直接にパラケルススを知らなかったことが面白い。ルター派はルターの生前から彼本人を中心とした教団的活動がおこなわれていたはずで、よりどころになるカリスマの死後もその影響力が継続している。しかし、パラケルスス主義者は中心にいるべきカリスマが最初から不在でありながら、その不在のカリスマを信奉しているのである。この不在の者を信奉している感じは、隠れイマームを信仰している熱狂的な方々にも通ずるものがあるように思われ、なにより、カルトっぽさがある。

本人不在のカルト集団(ものすごく乱暴な表現だが)という性格上、パラケルスス文書の研究にもその問題が影を落としている、という。なにしろ、本人の死後に出版活動がおこなわれているので、偽文書が作り放題である(ルター派であれば、偽文書が作られてもすぐに『アレは偽文書だ!』というチェックが働き、後世に残らない)。しかも、めんどうくさいことに「たぶん偽文書だが、パラケルスス本人の思想が入っていないわけではない」みたいな微妙な文書もたくさんある。テクストの真正性に関する研究はまだまだこれからだそうで、いまようやく文書の収集に目処がつきそうな感じであるらしい。

なお、パラケルスス自身による手稿は一切現存していない。そもそも遍歴の人生を歩んできた人が膨大な手稿を持ち運んで移動できるはずがなく、その原稿は散逸してたり、死蔵されていた。パラケルスス主義者の運動は、そういう原稿を発掘する運動でもある。では、パラケルススに直接あったこともなかった人たちが、なぜ、そんな大変そうな仕事に取り組むことになったのか。これが第2の面白ポイントである。しかも、パラケルスス自身は生涯に一度も改宗しなかったカトリック信徒であるのに、パラケルスス主義者はプロテスタントだったというではないか。

この点に関しては、当日会場からも質問がでていた。不遇であったはずのパラケルススがどうしてそのようなムーヴメントを生めたのか、と。村瀬さん曰く「パラケルスス医学は、完全に無視されていたわけではなく、当時も知っている人は知っている存在であったハズ。そこで従来の医療方法では改善しなかった病気に対して、パラケルスス医学を試してみたら、症状が劇的に改善! これはスゴい!! 的なことがあったのでは?」ということであった。この転向への契機もまたカルトっぽさがあるのだが、当時としてもパラケルススがアウトサイダー・アート的な受容をされたのではないか、とも思われる。なんにせよ、パラケルススというトピックの面白さに改めて気づかされる発表だった。

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パラケルスス文書全集へのリンク。もうすぐ第3巻がでるそう(全4巻)。

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Ricardo Herz & Antonio Loureiro / Herz E Loureiro

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Herz & Loureiro
Herz & Loureiro
posted with amazlet at 14.08.21
Borandá (2014-05-26)
売り上げランキング: 43,406
アントニオ・ロウレイロの新譜を聴く。このSSWがとんでもないマルチ・プレイヤーであることはこれまでにも紹介してきたが、ピアノもドラムも歌も素晴らしいモノを持ちながら、本人の「本職」的な楽器はヴィブラフォンにあるところがまた異色である。本作でのロウレイロはそのヴィブラフォンで、ブラジルのヴァイオリン奏者、ヒカルド・ヘルスとのインスト・デュオに取り組んでいる。ヴァイオリンとヴィブラフォンという組み合わせも珍しいし(楽器が並んでいる絵的には、パトリシア・コパチンスカがツィンバロン奏者の父親と共演しているのに似ているけれど)、ブラジルの音楽とこれらの楽器の組み合わせも縁が薄い感じがして、いろんな意味で異色のアルバム、と言えるかも。

収録されているのは、ロウレイロ、ヘルツの楽曲に加えて、エグベルト・ジスモンチなどのカヴァーも。クラシックとも違うし、ジャズとも違う不思議な手触りの音楽になっている、と思った。もちろん、クラシック、ジャズ、ブラジル音楽……などのさまざまなエッセンスを感じる瞬間はあるけれど、具体的に「これは◯◯というジャンルの音楽だ」と言いにくい。わたしにはこれが新しい音楽かどうかはわからないけれど、その名付けられない感じは面白い。暴力的なたとえを用いるなら、プログレ好きのオッサンとかにも「これなら大丈夫ですよ、ブラジルのプログレです」と言って紹介したい感じがある。なお、本作のプロデューサー、アンドレ・メーマリはこないだ紹介したアミルトン・ヂ・オランダのアルバムにも参加している。

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細野晋司・山下淳弘・仲俣暁生・濱野智史・山内宏泰・福川芳郎・鹿島茂 『グラビア美少女の時代』

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グラビア美少女の時代 (集英社新書)
細野 晋司
集英社 (2013-07-17)
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細野晋司は集英社の『週刊ヤングジャンプ』のアイドル・グラビアを長年担当してきた写真家で、本書は彼の仕事のうち、現在は女優として主に活躍している(元)アイドルたちの写真をピックアップし、かつ、様々な論者による「グラビア論」を併載したもの。ここでの「グラビア写真」という括りは、写真週刊誌に載るようなセミヌードであったり、過激な水着のような扇情的なエロスは排除していて、あくまで「美少女グラビア」というジャンルについての評論集となっている。広い意味で、アイドル評論本のひとつ、とも言えるかもしれない。積極的にこうしたジャンルの本に手を出してきたわけではないのだが『グラビア美少女の時代』というタイトルは、かつてヨグ原ヨグ太郎氏が書いたアイドル批評「風林火山の如く女を語れ!」を彷彿とさせたので思わず手に取った。

同世代の人間として、いまだにこの文章の秀逸ぶりは色褪せていないように思われる(ので、ヨグ原さんにはまたインターネットで文章を書いてもらいたいな、と勝手に願っている)。

映画監督の山下淳弘、編集者の仲俣暁生、評論家の濱野智史、ライターの山内宏泰、ギャラリストの福川芳郎、そしてフランス文学者の鹿島茂まで動員し、かなり多角的に「美少女グラビア」が考察されている本書を、わたしはなかなか楽しく読んだ。山下が「少女のどういう表情を切り取るのか」を語れば、仲俣は「グラビア写真史」をまとめてみせる。山内はグラビアの被写体論や写真家論を提示すれば、福川は「グラビア写真はアートとなりえるか」という問題提起をしてみせる。おおむねどの論者も「美少女グラビアは単にエロ目的ではなく、日本の雑誌文化独特のジャンルである」という論調なのだが、鹿島茂は精神分析や人類学を駆使して「なんだかんだ言って、これもエロだろ」的に言い切っていて爽快だ。

さて、ここまで濱野智史の文章についてはノー・タッチできたが、収録された文章のなかで「これはちょっとな……」と思ってしまったのは唯一、彼のものだった。「アイドルと写真、そのメディア論的考察」というその文章をものすごく乱暴に要約すると(1)ヤングジャンプのグラビアは美少女たちとの関係性や日常をバーチャルに体験させるメディアだった(単なるエロじゃない)。しかし、現代のアイドルたちは(2)SNSの流行によって日常を自ら発信しはじめているし、(3)握手会などによって直接的な関係性を得られるのだ。よって、(4)もはやかつてのヤングジャンプ的グラビアは価値をもちづらくなっているのだ、と(仮想じゃなく、直接触れ合えるのだ、握手権がついているCDを買ったりすれば。そっちのほうが良いだろう、常識的に考えて!)……ということになる。

しかしながら、濱野が「ネット時代のアイドルカルチャーが持つ『闇の部分』」と呼ぶ、アイドルが発信する情報を監視し、怪しげな動き(たとえば『アイドルに交際相手がいるのでは?』という疑惑)があれば細かく調べ上げ、あるいは妄想し、クロなら全力で炎上・潰しにかかるアイドル・ファンたちの存在は不気味である。もっともそういうファンがネット時代に急増したわけではないだろう。問題はインターネットによってそうしたファンたちが互いに繋がることで、脅威化したことだと思う。しかも、そういうファンたちは全く自分の手を汚さずに、匿名で、アイドルを制裁できるのである。

ただ、そうしたファンたちの営みを彼は糾弾するわけではない。「それはどれだけ『気持ちの悪い』営みにはたから見えたとしても、この欲望の巨大な運動を止めることは、もはや不可能なように思える」と、その邪悪さをまるで仕方のないものとして認めているのだ。「気持ち悪い」というその自覚を、繰り返すだけになってしまうけれど、はっきり言って最低に最低で、最高に気持ち悪い。アイドルが、仮想から現実へ、アクセス不可能からアクセス可能と変化しても(つまり『会いにいける』ということだ)、邪悪な感じにしかなっていなくて、インターネットは地獄だ! と思う。

あとヤングジャンプ的グラビアの価値が落ちはじめているのだとしたら、グラビアにでているAKBの人たちは、単なる性的な対象(商品)としてそこにでていることになってしまう気がするのだが、そこは良いのか?

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Carlinhos Brown / Marabo

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Marabo
Marabo
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Carlinhos Brown
Rand (2014-08-05)
売り上げランキング: 284,307
ブラジルのミュージシャン、カルリーニョス・ブラウンの新譜を聴く。彼の名前を認識したのは本作が初めてだが、なんでも80年代に彼と同じバイーア出身のカエターノ・ヴェローゾのアルバムに参加したことで知名度を高めていった、という経歴を持つ人らしい(プロフィールは、こちらのサイトに詳しい)。もともとパーカッション奏者としてキャリアを積んでいったことを考えれば当然とも言えるのだが、本作では大変に激しいアフロ・ブラジリアン・パーカッション・サウンドが展開されており、結構ド肝を抜かれた一枚である。あのジェームス・ブラウンに由来するという芸名はダテにつけたものではない。シンセの音色がいなたい感じであったり、四つ打ちのキックにパーカッションが乗っていたりするのは、なんだかインド料理屋で四六時中流れているダッサいインド音楽的なイキフンを漂わせもするのだが、そこに目をつぶっても凄まじい。なんというか、ブラジル音楽という枠を軽く飛び越えて、中南米のアフリカにルーツを持つリズムが高濃度で凝縮されている。こういうタレントが平熱で活動しているブラジルという国は、恐ろしい国であるな……と思った。

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ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展(世田谷美術館)

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先日、平岡隆二さんとお会いしたときにオススメされていた展覧会に足を運んだ。日本の浮世絵がフランスの印象派の画家に大きな影響を与えていることはよく知られている。この展覧会は、ボストン美術館を西洋絵画作品と浮世絵(また、日本の工芸品とヨーロッパの工芸品)を併置することで、和から洋への影響を浮かび上がらせる、意欲的な展覧会だった。印象派絵画はとても人気があるし、今回の目玉であるモネの大作《ラ・ジャポネーズ》はそれだけで人を呼ぶ作品だと思う。けれども、絵画の配置によって、批評的な視座をまじまじと見せられたことに、インスタレーションの妙を感じた。個人的には、焼き物や七宝による装飾が施された刀の鍔が、アール・ヌーヴォー、アール・デコにどれだけの影響を与えていたのかがわかる展示がとても印象的だった。日本の影響下にあるであろう、ブシュロン社のインクスタンドの豪華絢爛さはもはやビザールの域に達していて、とても素晴らしいと思った。

ところで、昨今、こういう日本から西洋へという影響関係は「西洋に影響を与えた日本はスゴい!」というネトウヨ的な美学によってのみ回収されてしまうのが問題にも思う。先日平岡さんに教えていただき、大変感心したのだが、北斎・広重といった有名な浮世絵作家が用いている印象的な「青」が、プルシアンブルー(ベロ藍)という舶来の顔料であったことを考えると「日本はスゴい!」と称揚されるその浮世絵も、海外との交流がなければ存在しえなかったかもしれない。一方方向の影響関係でなく、双方向的な影響関係で歴史を考える視座は、本展覧会の図録に寄せられた世田谷美術館の遠藤望氏による「循環する歴史観」と無関係ではない。過去の展覧会で言えば2011年の「南蛮美術の光と影」「日本絵画のひみつ」と対にして見るべきものなのかも。

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高峰秀子 『台所のオーケストラ』

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台所のオーケストラ (新潮文庫)
高峰 秀子
新潮社 (2012-06-27)
売り上げランキング: 107,296
わたしが読んだのは新潮文庫版ではなく文春文庫版。1982年に単行本発売から長いこと読まれ続けている大女優の料理エッセイである。ひとつの食材に対して短い文章と、簡単なレシピが添えられていて、スッと読めてしまう本だった。ユーモラスな話し言葉がとても気持ち良い。それから藤田嗣治、谷崎潤一郎などの大物文化人の名前もでてきたりして、そうか、昔の芸能界、というのはそういうハイカルチャー(?という言い方が適切かどうかはわからないけれど)とも交流があったりしたんだなあ、という感慨がある。

こうして過去の日本の食エッセイを読むと、日本人の食生活の変化についても考えてしまう。伊丹十三の書くものにも、高峰秀子の書くものにも、外国を旅行したことで「ホンモノ」を知っている感じが含まれている(日本のサラダドレッシングはやたらと酸っぱ過ぎる、外国のホンモノのサラダは◯◯というもので……とか)。しかし、かつては限られた人しかアクセスできなかったホンモノに、いまや多くの人がアクセスできるようになってるんだよね。

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Hamilton De Holanda / Caprichos

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Caprichos
Caprichos
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Hamilton De Holanda ハミルトンドゥホランダ

ブラジルのバンドリン奏者、アミルトン・ヂ・オランダの新譜を聴く。バンドリンといはショーロなどのブラジル音楽で使用される小さいギター型の撥弦楽器で、この人は現代のブラジルで最高の奏者のひとりであるそう。本作『Caprichos』に関して、ディスクユニオンのサイトでかなりいい加減な紹介がされているが(なぜ、Caprichosを『親愛』と訳せるのか……普通に考えたら『奇想曲集』だろう)2枚組全24曲という構成は、パガニーニの有名な《24の奇想曲集》を彷彿とさせる。

既発曲の再演も含むようだが、オランダ自身によるライナー・ノーツを読むと、本作は技術的な内容を盛り込んだ、10弦マンドリンのためのブラジル音楽のレパートリーを作るプロジェクトとして制作されている。独奏曲だけでなくピアノ、ベース、アコーディオン、ハーモニカ……などとの二重奏曲、三重奏曲もあるのだが、バンドリンのメロディーはすべて楽譜に起こされて、こちらのサイトで無料ダウンロード可能。しかも、アルバムの音源も無料でダウンロードできるので、なんとも太っ腹である(わたしは買ってから気づいたけれど)。

とにかく演奏が素晴らしく、現代最高のバンドリン楽曲集であることは間違いない。ショーロだけではなく、クラシックっぽい楽曲もあれば、フラメンコのような楽曲もあり、バンドリンという楽器の表情の豊かさをガッツリ見せられてしまった。今回初めてこの人のアルバムを聴いたけれど、エグベルト・ジルモンチやエルメート・パスコアールの楽曲集だとか、ピシンギーニャのトリビュート盤などもあるらしく、他のも色々聴いてみたい。

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Humberto De Morais / Imagem

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ウンベルト・ヂ・モライスの新譜を聴く。なんでも「日本ではこれまでほとんど知られていなかったSSW」だそうで、ジャケットもカッコ良いし、長いこと気になっていたのだった。彼の詳しい経歴はこちらのサイトで読める。ディスクユニオンでは「ミナス系」という形で紹介されているが(CDもミナス・コーナーにあった)、7歳のときにリオデジャネイロに移住とあるので、その位置づけはよくわからないが、ブラジルではエコノミストの仕事をしながら長いこと音楽活動を続けていた、という異色の経歴の人である(現在は大食して音楽に専念)。たしかに歌声にはミルトン・ナシメントを彷彿とさせる響きを感じたりもするし、モライスと同じくミナス出身のミュージシャンがレコーディングには参加しているし、音のしっとり感、ジャジーな雰囲気はミナス的である。

ミナスジェライスといえば、アントニオ・ロウレイロやクリストフ・シルヴァなどに注目が集まっているが、モライスの音楽は、もちろん、そうした若い世代のミュージシャンの音楽とはまるで違っている。「新しい音楽」とは決して言えない。けれども、こういう円熟、というか、渋みは「新しい音楽」には決して聴き取れない性質のものだろう。激シブなバラードの沁み具合は、ドリヴァル・カイミみたいでとても深い。クリストーヴァン・バストスとトゥーリオ・モウラォンによるアレンジも素晴らしい仕上がりで、アコースティックな夜のブラジル音楽が聴きたければ、大変オススメしたい一枚である。

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アリストテレス 『魂について・自然学小論集』(岩波書店 新版 アリストテレス全集 第7巻)

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魂について 自然学小論集 (新版 アリストテレス全集 第7巻)
アリストテレス
岩波書店
売り上げランキング: 361,944
先日、とある人から「アヴェロエスの『霊魂論大注解』を一緒に読みませんか?(ラテン語で)」という誘いを受けた。先日よりラテン語の勉強を再開しているのだが、細々とキケロでも読もうかと思っていたところに「キケロは難しいですよ! 逆に、中世のラテン語はほぼ英語みたいなものなので易しいです。折角だからアヴェロエスを読み解くのを目標にしてみたら?」という誘いであった。普通の会社員がアヴェロエスの『霊魂論大注解』を読んでどうするのか、という根本的な疑問は解決できないものの(いや、普通の会社員がラテン語読解能力を習得しようとするのも意味不明だが……)面白そうなので、手をつけようと思っている次第である。

と言っても、その誘いを受けた時点でわたしはアヴェロエスが註釈をつけているアリストテレスの『霊魂論』を読んだことがなかった。誘い主は「ひとまず軽く邦訳を読んでおくと良いかもしれません」という。素直さには定評があるわたしである。ちょうど岩波書店の新全集が出ていたこともあって、大変高価な本だがこの『魂について・自然学小論集』を買い求めた。函入の本を買うのは勢いが大事だ。果たしてこんなもの読み切れるのか……と半分不安になりながら、高揚しながら書店のレジに本を持っていった。しかも、今回の全集ではアリストテレスが用いるテクニカル・タームの訳語を全面的に再検討している、というではないか。こういう試みが果たして、成功しているのかどうかも不安だった。

まず、本の内容に触れる前に、新版全集で試みられているそのへんの試みについて触れておく。不安だったテクニカル・タームの再検討だが、これはぶっちゃけて言うと再検討したからと言って、劇的になにかが変わったわけではない、と思う。例えば「エンテレケイア」というギリシア語には「終極実現状態」という訳語が当てられているけれど、従来の「完成態」という訳語と置き換えられても、結局のところ読みながら「終極実現状態(エンテレケイア。エンテレケイアとはこれこれこういう状態である)」と意味を変換しながら読まなければ、意味はよくわからないわけで、正直なところ、新しい訳語の登場は従来の文献との齟齬を産むだけで良いことが一切ないのではないのではないか。

今後に出るアリストテレス関連本すべてがこの全集の訳語を全面採用、これがアリストテレス業界におけるJISである、というならば、あと100年ぐらい訳語再検討の評価を待たなければならないだろう。しかし、現時点では文字コードで喩えると、JISとS-JISが入り交じっているような状態であり、本業でも文字コードで「めんどくせえ、マジで文字コードを揃えなかった過去の技術者は地獄に堕ちろ」と呪詛めいた気持ちを抱きながら生活している人間にとっては、大変煩わしく思わざるをえない。

しかしながら、その煩わしさが極端な読みにくさを産んでいるわけでない。逆に、この新版で初めてアリストテレスを読む、というような若い(?)読者にとってはとてもリーダブルな本の作りになっているのは間違いないだろう。読み進めるための注が左ページの半分に収まっているので「なにを言っているんだ、お前は?」的な箇所については、この注を参照することでつまづきを最低限にしながら読み進められるようになっている。『魂について』(『霊魂論』の新タイトル)の解説でも、これ以前に出ている西洋古典叢書版との違いが語られているが(訳者は同一)、訳語の再検討だけでなく「研究者向けとも言えるギリシア語の細部の読み方に関わる注や補注を減らしたが、読者が読み進めるのに参考になりそうな注などを追加した」とある。
魂について (西洋古典叢書)
アリストテレス
京都大学学術出版会
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要するに研究者はこれまでの翻訳で良いのでは……? ということになるのかもしれないが(注によって、テクストの解釈が訳者の読みに寄せられてしまう、ということもあるわけだし)、結局のところわたしはこの翻訳をとても楽しく読んだ。『魂について』など「魂はどういう風に分析しなければいけないのか」とか「一体、魂はどういう性質のものなのか(勝手に動いたりするのか? それとも動かされるものなのか?)」とか、抽象的な話が続いて、これを読んでも「魂」がなにかはよくわからない。しかし、注とともに読み進めていくことによって、この前4世紀の哲学者が語っていることが、まるで現代の心の哲学の問題関心と重なって読めてくるのが面白い。

続く『自然学小論集』はそれ以上に面白かった。ここには


  • 感覚と感覚されるものについて
  • 記憶と想起について
  • 眠りと目覚めについて
  • 夢について
  • 夢占いについて
  • 長命と短命について
  • 若さと老いについて、生と死について、および、呼吸について
という小論考が収められているのだが、抽象的な話で終わり、あまりにも結論がないまま終わる『魂について』と違って、もう少し具体的な魂の働き(というか、知性や認識力の働きか)について語られている。もちろんアリストテレスの記述は、現代の科学的な知見からすれば、大間違いにもほどがあり、これを読んでもなんの訳にも立たないのだけれども。

例えば、アリストテレスは「眠りと目覚めについて」のなかで「ご飯を食べると眠くなる」という現象に着目する。曰く、栄養物が摂取されると、それは体内で蒸発する。蒸発して熱いものは自然本性的に上に運ばれる(熱いものは上に向かう、というのが彼の世界観である)。この熱いものが頭部でとどまると、重くなって、人をうとうとさせる、と。食後の眠気に関しては、現代の科学においてはは血糖値の問題として説明されることは多くの人がご存知だろう。でも、上記のアリストテレスの説明を読むと、感覚的にはアリストテレスの方がしっくりとくるような気もするのではないか、と思う。

血糖値は体感できない。体感できるとしたら、血糖値の変動が身体に及ぼす影響を知っていて、その影響を感じたことによって「血糖値の変動」を理解しているだけである。これに対して、アリストテレスは、ご飯を食べて頭がボヤーっとする感覚を「熱が頭にとどまっている!」という風に理解しているように思われる。こういうところに、アリストテレスが実に世の中だとか感覚だとかを観察して、そこから理論を起こしている感じが伝わってくる。『動物誌』を読んだときも思ったけれど「検証とかできてないけど、感覚とか見た感じ、こういうことなんじゃないの!?」というノリで理論を作っているのではないか、と思われるのだが、個人的にはそれこそがアリストテレスの面白さなのだった。

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荻野美穂 『女のからだ: フェミニズム以後』

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女のからだ――フェミニズム以後 (岩波新書)
荻野 美穂
岩波書店
売り上げランキング: 29,495
訳あってフェミニズムについて勉強しておく必要性、みたいなものを感じていたところに、タイミングよく書店の新書コーナーで本書を見つけた。著者はフェミニズム・ジェンダーの運動史を研究している歴史家で、本書は新書サイズながらも、フェミニズム史を手際よくまとめながら、性・生殖にまつわる女性の運動(避妊や中絶、そして体外受精などの『生むための技術』)の歴史を辿った良書。医学史的な観点からも、社会的な観点からも興味深い記述に溢れていて、大変勉強になった。

本書の帯には「わたしのからだは、誰のもの?」とある。この疑問文は、本書で取り扱われている問題の根底にある命題になっているのだろう。女性の身体は、その身体を持つ女性のもの、であるにも関わらず「人口問題」や「労働力の問題」といった観点から、言わば、社会的な所有物のように扱われ、そして経済的にも・政治的にも搾取されてきた。日々インターネットを使っているとフェミニストによる声は自然と目に入ってきて、その声は多くの場合、「怒りの声」として受け取られているように思う。本書を読むと、なぜ、彼女たちは怒らなくてはいけなかったのか、が腑に落ちるような気がした。

ただ、こうした感想を書き「興味深く読みました」とまるで他人事のように綴ってしまうことが、実際に闘争に関わってこられた人たちの目にどう映るのか、は悩んでしまうポイントでもある。ものすごく身近にある問題の深刻さを明示してくれる意味では良書だし、ウーマン・リブの活動家と障がい者団体とのあいだの緊張(障がいを持った胎児を中絶することを女性の権利だと訴える主張と、その主張が障がい者差別であるという主張の対立)などとても考えさせられるのだが「考えて、それで?」と問われると言葉に窮してしまう。

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キリンジ / 11

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11
11
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KIRINJI
ユニバーサル ミュージック (2014-08-06)
売り上げランキング: 759
堀込泰行の脱退後、6人編成のバンドとなったキリンジの新しい音源を待ち遠しく過ごしていた。発表されたメンバーにはレコーディングとライヴに参加していたミュージシャンが含まれているから、そう大きく変わらないんじゃないか、だとか、女性のメンバーが入ったらどうなるんだろう……だとかさまざまに想像が働いたけれど、次に出てくる音を予想するのが楽しみなバンド、というのも希有であって、ありがたい存在でもある。

先行で配信されたシングル「進水式」は「堀込高樹らしい」楽曲に思え「あれ、体制が変わってもそんなに変化ないんだな」という感想を抱いた。「ただし、次のアルバムは悪いものにはなりそうにないな」という予感とともに。そして、実際に新作『11』を聴いての結果は、感想と予感のうち、予感のほうは的中し、感想は大きく裏切られることになる。

高樹(兄)と泰行(弟)の二頭体制の終焉以降、絶対高樹王制が予想されても自然だし、実際、本作も作詞作曲はすべて堀込高樹の手によってなされている。しかし、その楽曲のもつ輝きみたいなものが、これまでレコーディングに参加していたメンバーを含めたミュージシャンによって、まるで乱反射しているかのよう。かつてないほどに多彩で、ちょっとおかしなぐらいに密度が濃いアルバムだと思う。

わたしがこのバンドをリアルタイムで追いはじめたのは『7』の頃から。そこからでは間違いなくこのアルバムが突き抜けて面白い(もちろん、これ以前の作も、なんだかんだ言って大好きで聴く頻度も高い)。詞も楽曲も、まぎれもなく高樹節な感じなのだが、アレンジがものすごく新鮮に聴こえて、全然違うバンドみたいにさえ感じられるのだ。単にコーラスに女性が参加しただとか、違ったタイプのギタリストが参加した、というだけではない、ケミストリーじみた結果には驚かされたし、キリンジとして新しい、というよりかは「こんな音楽もあるのか!」みたいな未聴感まであった。まさに新体制の一発目に相応しい大名盤。

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Fennesz / Bécs

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Becs
Becs
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Fennesz
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オーストリアのギタリスト、クリスチャン・フェネスの新譜を聴く。わたしはグリッチ・サウンドに溢れたエレクトロニカ系ミュージックの熱心な聴き手ではないし、フェネスに関しても『Endless Summer』 や坂本龍一との『cendre』は繰り返し聴いたぐらいだが、本作は『Endless Summer』の続編的作品であるとのことで手を出してみた。ギター・ソロ作品かと思いきや、ドラムやベース、シンセのクレジットもあり、しかも参加しているのはマーティン・ブランドルマイヤーなど著名なインプロヴァイザーである。『Endless Summer』ほどはメロウな感じはしないが、シュワシュワ/ブチブチのノイズのなかから聴こえてくるギターは、聴いていて悪いものではない。この手の「エレクトロニカ」というヤツは、環境音楽みたいになって、がっかりさせられることもしばしばだが、これはとても良いと思った。なかでも最も長尺な「Liminality」という曲は、瞑想的なドローンのようにも、とても生きの長いワンフレーズがずっと続いていくようにも聴こえるし、とてもエモかった。My Bloody Valentineのようにポップだと思ったし、ジョン・フェイヒーの『Womblife』を想起させもして、音の境界線を曖昧にさせるノイズのなかからさまざまなイメージが立ち起こっていく感じがするアルバム。こういうのが無性に聴きたくなる瞬間がある。自分のなかで、初期のTangerine DreamとかKlusterとかも(全然でている音は違うが)同じ部類の音楽だ。

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ご恵投ありがとうございます!(桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』)

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叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市
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ご恵投ありがとうございます。著者の桑木野幸司さんのお仕事は、『ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集』『知のミクロコスモス』に収録されている論文や『建築家ムッソリーニ』の翻訳などで触れていた。もとよりフランセス・イエイツの著作などから記憶術との関連のような建築に関するインテレクチュアル・ヒストリーには興味をもっていたので、毎度興味深く論文を読ませていただいていたが、本書はイタリアで出版された著作の日本語改訂版となるそう。500ページを超えるマッシヴなヴォリュームを、今後じっくりと味わっていきたいところ。読みはじめるのが大変楽しみです。

こちらの動画は本著刊行時のWebインタヴューの模様。

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