Aphex Twin / Syro

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Aphex Twin エイフェックス・ツイン
Warp Records (2014-09-24)
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Aphex Twin、13年ぶりのニュー・アルバムを聴く。リチャード・D・ジェイムス個人の活動としては、AFX名義でのリリースがあったりしたわけだが、それでも久しぶりである(沈黙を守っているあいだに『コイツ、実はリチャード・D・ジェイムスの覆面名義なのでは?』みたいなのもあった気もするが、一瞬で忘れ去られた気がする)。13年のあいだに音楽シーンも変わったし、音楽との触れ方も変わってしまったけれど、そうした変化にリチャード・D・ジェイムスという人は、特別な応答をせずに音楽制作をおこなっていたのが確認できるような内容。強調された低音の音圧だけが、ものすごく今っぽい。決してエポック・メイキングな作品ではないけれど、良いアルバムだと思った。ピアノを弾いている曲の背景に鳥の鳴き声が混入していたりして、そこにこのミュージシャンのおかれた環境を強く感じたりもした(意図的につけたした音なのかもしれないけれど)。まるで、シベリウスのような音楽家になりつつあるのではないか……。

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ロンドンからケンブリッジへ

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ロンドンからケンブリッジまでは、キングス・クロス駅から直通電車が走っている。キングス・クロス駅は、映画『ハリー・ポッター』の有名なシーンでも使用されている場所だそうだが、わたしは映画を観ていないのでよくわからない。

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駅のホームはビニール・ハウス状に張り巡らされた鉄骨にガラス張りの屋根。自然光の入り方がとても気持ちよい建物である。イギリスの電車は地下鉄も含めて、以前に乗ったことがあるフランスのものと比べてずっとキレイに利用されていた。パリ中心部からヴェルサイユまで走る電車のなかなどゴミだらけで、窓なんかもキズや落書きだらけだった。

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電車がキングス・クロス駅を出発し、20分、30分ほど過ぎたところですでにこういう風景が広がっている。日本でいうなら上野から大宮まで来たあたりだろうか、それほどの距離で(行ったことないけれど)北海道のような景色に出会える、というのはなかなかの衝撃で、外国に来た……という感じがした。電車のスピードがとても速く(そして結構揺れる)どんどん見えるものが変わっていくが、基本的には牧草地、畑、牧草地、畑……。馬、羊、牛……など。ほどよく退屈な風景が移り変わっていく様子は、とても良かった。

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乗車時間50分ほどでケンブリッジ駅に到着する。日本で言ったら上野から宇都宮にきた感じか。駅構内にはファストフード店がいくつもあり、そのどれもが美味しそうだった。改札の外には、スーパーがある。それ以外は駅周辺にはなにもない。

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街の中心部はバスで5分ほど。バスはもちろん、あのThe Smithsの大名曲「There Is A Light That Never Goes Out」で歌われるダブルデッカー・バスである。

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バスの車窓からはところどころに古い教会などが見える。持っていた観光ガイドには詳細が書いてなかったが、中心部以外はなにもない、かと思いきや、ブランド品のお店やレストラン、ファストフード店などが並んでいて、歩いても良かったかもしれない。たぶん、駅から30分ぐらい歩けば、中心部には着くだろう。

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バス停を降りてすぐに、RPG的な街並みが広がっている。ただ単に古い街並みならヨーロッパの街のどこにでもあると思うけれど、ケンブリッジにはケンブリッジなりの色合いがあるように思った。もちろん、ここも観光地になっているし(観光地と超一流の研究大学が同居しているのがスゴいのだけれど)そうした面でスポイルされた面はあるかもしれないけれど、そんなに賑やかな感じはしない。

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朝食が貧しいホテルに泊まっていたため、朝食兼昼食を食べた。Bill'sというお店。手前が妻が食べていた「もりもりパンセット(勝手に命名。正式には Bill’s bread basket 3.95ポンド)」、奥にはわたしが食べた「ガッツリ朝御飯セット(勝手に命名。正式には Bill's break fast 7.95ポンド)。


ガッツリ朝御飯セットの詳細はこちら。成田での両替時、1ポンド = 182円だったことを考えると、もりもりパンセットは安く感じられ、ガッツリ朝御飯セットは高いと感じられる。なお、ガッツリ朝御飯セットに含まれる、キノコのソテーが美味しかった。どんなキノコかは一切わからなかったが……。紅茶は1.95ポンドで、ポット1杯にくる。これは、まるでタダみたいな感じである。

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中心部にあるのがケンブリッジ大学を構成する各種のカレッジの建物。入場料がかかるので、中には一切入っていないが外側だけでも充分楽しい。キングス・カレッジの周辺には、ケム河を行き来するボート遊びの営業をかけてくる若者がたくさんいて鬱陶しい。

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ボートの漕ぎ手は総じてイケメンだし、リア充感がスゴい遊びだ。わたしがもしリア充ボートに触れようものなら、まるで日光に浴びたドラキュラのように体が朽ちて死んでしまうだろう。

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しかしながら、そんなリア充遊びには目をくれず、本来の目的であったケンブリッジ大学の科学史・科学哲学研究所へと向かうのだった。ここにはウィップル博物館という入場無料の博物館がある。普通に大学職員や学生が行き来する入り口が博物館への入り口なので、勇気を出してゴーしないといけないところではあるが。

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展示・収蔵されているのは、ロバート・ウィップルによって集められた天文学を中心とした科学的計測装置の数々。科学史に興味がある人であれば、垂涎モノのコレクションが好きなだけ見れる博物館である。

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運が良ければ楠川幸子先生(メランヒトンの研究などで世界的に大変有名な日本人研究者)にも会えるかも!

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ウィップル博物館を後にして、街を散策するなかでケンブリッジ大学出版局のお店に入った。一通り重要著作が置いてあり、なかでも圧巻はジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』コーナー! 一体、全部で何冊あるんだよ!! という超大作。ニーダム自身は死んでるのに、まだプロジェクト自体は続いていて現在27冊まであるらしい。

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そして平熱のテンションでいる牛。

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マーケットなんかもあるので、普通に観光にいっても面白いところだと思う。中古レコードの店なんかあって、やたらとプログレが充実していたり、さすが、ここはUK、と思った。

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写っているのはケンブリッジ大学の学生なのか? こんなところでピクニックなんて、リア充すぎるぜ!!

(というわけで唐突に、今年の夏休み旅行の報告を書いてみた)

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宋美玄 『少女はセックスをどこで学ぶのか』

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少女はセックスをどこで学ぶのか (一般書)
宋 美玄
徳間書店
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読んだ。

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伊丹十三 『再び女たちよ!』

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再び女たちよ! (新潮文庫)
伊丹 十三
新潮社
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これまで読んだ伊丹十三のエッセイ集のなかでは、これが一番笑ったかもしれない。

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尹雄大 『体の知性を取り戻す』

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体の知性を取り戻す (講談社現代新書)
尹 雄大
講談社
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尹雄大(ユン・ウンデ)さんの新著を読む。氏の著作では韓氏意拳という武術について書かれたものがとても印象に残っている。基本の型や技を持たない、その特異な武術における身体技法の記述は、非体系的な体系とでも呼ぶべきものだ。本書『体の知性を取り戻す』にも韓氏意拳の修練によって著者が得た、身体的感覚は取り込まれている。一読してわかるのは、著者が徹底して、近代的な規律や教育といったミシェル・フーコーが指摘するような規律訓練型権力に対して、息苦しさを感じていることだ。その拘束性は、学校で教えられる姿勢からはじまり、理想化された「正しい動き」を目指すさまざまなスポーツや武道の訓練にも存在している。

そうしたものは、ある程度の画一化された身体を生産するだろう。しかし、その拘束性は歪みを生み、「ある程度の」のその先へ向かえない。かつてキックボクシングを練習していた著者はこのように綴っている。
おかげでそれなりの強さも得られたが、かわりに心身の隙間に恐怖が入り込むようになった。というのは、この強さは競技の範囲においてしか通用しないことを知っていたからだ。いざというときに起こりえるのは常にルールの外のことだから、そのことに怯えるようになった。
息苦しさを伴う近代的な身体は、身体を縛るルールから放り出されるとたちまち役に立たなくなってしまう。このルールは、社会のルールにも通じる。社会で生活するうえで、我々はまるでゲームのごときルールに沿って、規律化されながら生きることに慣れすぎてしまっている。「早起きをして朝仕事をしろ」、「TOEICの高得点を目指せ」、「年に1つずつ新しいプログラミング言語に挑戦しろ」……などなど。著者の表現を借りればまるでライフハックが社会を生きるための「必殺技を会得する要領で」考えられている。しかし、ルールが外れた瞬間に、TOEIC950点のスコアは昇竜拳ではなくなり、弱パンチほどにも役にたたなくなることは容易に想像がつく。

もちろん、そこで著者は「TOEIC950点をとれ? お前それサバンナでも同じ事言えんの?」式の提唱をするわけではない。たしかに「戦場」ではTOEICのスコアよりも、ご飯の炊き方などのほうが役に立つだろうけれど、それでは近代に対して「昔に戻れ!」というだけの反近代に終わってしまう。著者が韓氏意拳や甲野善紀のもとでの稽古から得たものは、もっとアナーキーだ。これらの武術は、息苦しさの源である身体の統御、反復による型の習得を放棄する。ここでは精神によって、身体が統御される、という西洋哲学式の人間観は逆転される。身体は精神よりも先にあり、精神は身体の声の聞き手にならなくてはならない。身体から生まれた感覚のなかに知性がある。そうすることで、息苦しくない身体の動かし方を見つけられる。

それがどうしてアナーキーなのか。韓氏意拳が目指す「ただ動くこと」の理想(もちろん、確固とした理想形があるわけではない)には、子供の「ただそれがやりたい」というふるまいが類比的に並べられる。息苦しくない身体が、社会化されない子供の身体なのだとしたら、それはとても危険で、魅力的な思想である。もちろん、われわれは社会化されないことを許されない。しかし、著者によるこの身体の哲学は、純粋であろうとするためのヒントを与えてくれる。知識や概念によらない、知的で、流れるような記述もとても魅力的である。

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平賀さち枝とHomecomings / 白い光の朝に

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白い光の朝に
白い光の朝に
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平賀さち枝とホームカミングス 平賀さち枝 Homecomings
SPACE SHOWER MUSIC (2014-09-10)
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今年の夏に一番聴いた音楽は、NegiccoかHomecomingsのどちらかに違いない。どちらもわたしの心のソフトな部分にグッサリと刺さる大変エモーショナルな音楽だったのだが、その温度が冷めきらないうちにこうして新譜が聴けるのはありがたいことである。しかも、平賀さち枝とのコラボレーション、というではないか。リリースを楽しみにしていた一枚である。ともあれ、この平賀さち枝さんという女性歌手、これまでYoutubeでその歌声を聴いたり、インタヴューを興味深く読んだり、姿形を認識していたりした人ではあったのだが、実際に音源を買って聴くのはこれが初めてだった。

(平賀さち枝 / 江ノ島)
2012年に発売された彼女のアルバム『23歳』に収録されている「江ノ島」のPVがある。素朴な感じのお嬢さん(平賀さんご本人映像)がリュックサックを背負い、電車のなかでお菓子を食べたりする愛くるしい感じの映像である。彼女を敬して遠ざけるきっかけとはまさにこの映像だ。なんか、ちょっとあざとい、というか、ちょっとじゃねーよ、犯罪的なあざとさだ、と思ってしまったのだ。これは平賀さち枝さんご本人のせいではなく「こういう幼児的な、無垢な感じで売りましょう。新世代のフォークの歌姫的な感じでひとつよろしく」的なものがあったに違いない、と推測するのだが、それは違うんじゃないか、こんな、白痴めいた23歳がいるわけねーだろ、と思ったゆえに、長らく「気になるけど、ちゃんと聴かない歌手」として意識に留まり続けることになる。

いや、そんなことはどうだって良いんだ。この新譜が最高なのだから。4曲入り、1曲は平賀さち枝とHomecomingsによる共作のタイトル曲、2曲はそれぞれ平賀さち枝とHomecomingsによる単独名義での曲、残りはタイトル曲のやけのはらによるリミックス(このリミックスについては、なくても良かった、と思う)。一聴して、平賀さち枝の歌声に、参ってしまうのである。60年代ブリティッシュ・フォークの歌姫たちを想起させる可憐な歌声を支えているのは、Homecomingsのキラキラに輝くギターであり、コーラスであり、毎朝正確に3度聴き、泣きながら出勤している。

Homecomingsは単独作品では今回も英語詞で歌っているが、共作曲を聴き、やはり日本語で歌ってほしいな、と思った。英語詞の発音・内容・文法の拙さは可愛げとして理解できるのだが、ちょっと今回の曲は、英語の音節に関する無理解があまりに目立ってしまうのではないか。曲は良いんだけれど。

(しかし、このジャケット、人が吊るされているみたいに見えて、見るたびに不安になるな……)

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スラヴォイ・ジジェク 『ラカンはこう読め!』

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ラカンはこう読め!
ラカンはこう読め!
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スラヴォイ・ジジェク
紀伊國屋書店
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スラヴォイ・ジジェクによるラカン入門書読む。原題は「How to read Lacan」で、そのまんま「ラカンの読み方」ということなのだが、ジジェク曰く「ラカンを理解する最良の方法は、ラカンのように世界を読み解くこと」とのことであり、通常考えられるような入門書とは違った体裁の本である。「大文字の他者」だとか、そうしたラカン用語に関する説明はほとんどないため、本書の帯に記載された「訳者あとがき」からの引用——「この『ラカンはこう読め!』は、これまでに出た最良のラカン入門書であると断言してもよかろう」——を信じてしまうと「サギだ」ということになりそうだ。本書に適切なタイトルは『ラカンこう読め!』だろう。実際には、ラカン入門のふりをしたジジェクによる批評本である。

以前ジジェクの別な本を読んだときにも思ったけれども、こういう本がどういう風に受容されているのかはよくわからない。現代社会に面白いほどハマりすぎる分析や警句は多いものの、現実の政治や社会をリードするものではないし、ジジェクの批判(というよりも皮肉がたっぷりこめられた読解)の対象となる人々に彼の言葉が届いたとき、不快以外のなにを残すのだろうか、と思う。たとえば、ジジェクは、ラカンによる言語の「二重の運動」について説明する際、こんな小噺をだしてくる。
ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙のうちに認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ話すの? ただの浮気じゃないんでしょ?」
ある言明のメッセージが事実を伝えるだけでなく、象徴的なメッセージとともに伝えられる。これ自体はとても普通のことだが、陰謀論者はこのうち後者のメッセージの読み取りが過剰であり、社会病質的である。しかし、社会病質者、という言葉を投げられた陰謀論者は、それすらも陰謀の一種として理解するだろう。現代の快楽主義的禁欲主義の氾濫の指摘だとかめちゃくちゃ面白いんですけどね。ジジェクって一流の現代思想芸人なのだと思う。

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The Vacant Lots / Departure

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Departure
Departure
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Vacant Lots
Sonic Cathedral (2014-07-01)
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アメリカの2人組サイケ・バンド、The Vacant Lotsのデビュー盤を聴く。なにやら、ソニックブームや、アラン・ヴェガ大先生とも絡みのあるバンドらしいのだが(本作のミックスもソニックブーム)、まずYoutubeで試聴した「6 AM」という楽曲のあまりのSuicide感に「これを買わないでどうする……!」と思った。8曲38分のアルバム全体を聴いてみると、こういうハチャメチャに「Ghost Rider」な曲ばかりではなく、もっと広がりがあって、ガレージから生まれた純正調のサイケデリック・ロックという感じがした。彼ら自身、自分たちの音楽を「2 Chords 1 Drone 3 Drums」と極めて潔い表現で語っているのだが、決して単調なものではない。初期のRolling Stonesほどの勢いも持ちつつ、「Sister Ray」やLiaisons Dangereusesまでさまざまなダークな音楽を想起させながら、あっという間に聴き終わってしまった。なかなか衝撃的な出会い。Templesといい、最近、サイケ方面が盛り上がっているのか、もしかして……。

(The Vacant Lots / 6 AM)

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村上春樹を英語で読みなおす 『ダンス・ダンス・ダンス(Dance Dance Dance)』

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Dance Dance Dance
Dance Dance Dance
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Haruki Murakami
Vintage
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こないだのロンドン旅行の帰りのことだ。行きの飛行機のなかでも気づいていたのだが、帰りの飛行機で読む本がないのが問題だった。道中の半分は酒を飲んで寝ているとはいえ、12時間弱のあいだに読む雑誌か本が必要だった。そんなときにヒースロー空港の本屋で村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の英訳が売っているのを見つけた(海外にいくと本当に村上春樹の翻訳はよく見かける。日本で言うとダン・ブラウン……とまではいかないが、それなりの人気海外ミステリーの邦訳みたいなかたちで売っている。世界的な人気は嘘ではないのだ、と翻訳されたものが平積みになっているのを見るたびに思う)。ちょうど、今年は『羊をめぐる冒険』を読みなおしていて、この作品も読みなおしたいと思っていたところだった。英語で読みなおすのも悪くなかろう、と思って、このペーパーバックを掴んでレジに持っていった。

文庫では上下の2冊にわかれているが、英訳のペーパーバックは1冊400ページ弱、それなりのヴォリュームがある本だが、面白くて一気に読んでしまった。Alfred Birnbaumの訳が良かったのかもしれない。もちろん日本語で内容を知っていたこともあるけれど、こんなに英語がスラスラと読める経験はこれまでになく、村上春樹が書く文章のリーダビリティーは、この英語版でも失われていなかった。ここ最近、わずかながら翻訳に関わっていることもあり(英語 → 日本語と、英語 ← 日本語という矢印の違いがあるとはいえ)「翻訳ってこんな風にやっても良いんだ」と勉強になる部分もあった。

たとえば「村上春樹の『やれやれ』」はこんな風に訳される。以下は、大雪の日に、主人公がユキを託されるシーン。
「やれやれ」と僕は言った。それから僕はふと思いついたことを口に出してみた。「ねえ、その子ひょっとして髪が長くて、ロック歌手のトレーナーを着て、ウォークマンを聴いていない、いつも?」
「そうよ。何だ、ちゃんと知ってるんじゃない」
「やれやれ」と僕は言った。
(講談社文庫版 上巻 P.199)
これが英訳では、
"Great," I said. Then the thought occurred to me. "It wouldn't happen to be a kid with long hair and rock 'n' roll sweatshirts and a Walkman, would it?"
"The very same. How did you know?"
"Fun for the whole family."
(ペーパーバック版 P.106)
となる。「やれやれ」に対して、特定の言葉が与えられているわけではなく、文脈に応じて、意味が与えられている。「やれやれ(Great)」、「やれやれ(Fun for the whole family)」。もう一度日本語にするならば「Great(まったく)」、「Fun for the whole family(家族揃って愉快なもんだ)」などと読めるだろうか。これを編集的翻訳と呼んでもも良いかもしれない。

あるAmazonのレヴューでも指摘されているとおり、この翻訳は逐語的な訳ではない。それどころか「アレ? あの部分は?」と思って原著を確認すると、ガッツリとカットされている箇所も多々ある。その点を低く評価しているレヴュアーもいるけれど、わたしはこの編集的翻訳ヴァージョンを、少しも村上春樹の小説らしさを損なっていないもの、と思った。リーダビリティーの面でも、文章のリズムにおいても。そうした「らしさ」を残しつつ、文章を英語的に馴染ませているのだ。

いうまでもなく、完璧な翻訳など不可能だ。日本語の装飾(たとえば男女による語尾の違い)が翻訳によって削られ、作者が想定していた登場人物の像とズレが生ずる可能性もある。とくにわたしには、英語で語られるセリフは、原著の登場人物の年齢を2、3歳引き上げているように感じられた。英語版のユキ(13歳)はもっと大人びていて、ちょうどトラン・アン・ユンの『ノルウェイの森』における水原希子を想起させたし、ユミヨシさんは原著なら貫地谷しほり、英語版なら吉高由里子にお願いしたい(ただし、どうやっても五反田君は吉田栄作なのだが)。ただし、それはズレ、というネガティヴな捉え方よりも、作品の新しい読みを提供するものとしても読める。

ペーパー・バック版の裏表紙には、ある書評からこんなフレーズが引用されている。「もしレイモンド・チャンドラーが『ブレード・ランナー』を観るまで長生きしていたなら、『ダンス・ダンス・ダンス』のようなものを書いているかもしれない」。英語版で今回読みなおしてみて、こんなにこの作品を射抜いている言葉はないと思った。英語に翻訳され、小説の舞台である1983年の風景が削られることで、その風俗小説性というか、俗っぽさが薄まり、小説の構造的な部分が見えてくるのではないか、とさえ感じるのだ。

この作品では、村上春樹作品の典型的なヒロインである、主人公を強烈に導いていく巫女のような女性が、ピタリと主人公に張り付いているわけではない。アドヴァイザーの能力は、さまざまな人物に分配されていく。だから、主人公はあちこちを、東京、札幌、ハワイ、北海道を移動し、歩かなくてはならない。ただ、単にシャレオツな場所でシャレオツな音楽を聴いて、ベラベラとユーモラスな会話をしているだけではない。彼は、人のあいだを行き来することで、情報を得て、少しずつ核心に近づいていく。そういう探偵小説めいた要素が英語版ではよく見える。もっとも、その移動は『007』シリーズのような観光映画っぽさも想起させるのだが。

ここまで原著と英訳の違いにポイントをおいて感想を書いてきたが、改めて魅力的な小説であると感じた。ラストの性急さには不満を覚えなくはないけれども、探偵小説的に読者を刺す仕掛けには再度ドキリとさせられてしまった。それから書いてあること自体は『羊をめぐる冒険』、『海辺のカフカ』、『1Q84』なんかとあまり変わらないのだが『羊……』と比べると『ダンス……』は、ずっと超越的な存在であったり、悪しきものであったりの抽象度が高まっているように思う。悪そうなものは、たとえば馬鹿馬鹿しいほど高度に発達した産業社会的なものに象徴されるのだが、その象徴に結びつくものが『ダンス……』のほうがずっと遠くにある。小説の書き方において、ギアの入り方があきらかに変わっているのだ。

最後に、翻訳家の岸本佐知子による公開トークをもとにしたネット記事を紹介しよう。そこでは翻訳を勉強している聴講者が「翻訳が上達するアドヴァイス」を求めて質問をしている。それに答えて曰く「英語に訳されている日本の作家、村上春樹さんや小川洋子さん、あるいは川端や三島といった古典でもいいですが、彼らの小説の英訳の一部を自分で日本語に訳して、原文と比べてみるというのも良いトレーニング法です」と。わたしは邦訳の教材としてこの英訳を読んでいたわけではないけれど、この本はたしかに翻訳の練習教材としてもピッタリだと思ったし、それから「英文を読み通す訓練」にもちょうど良さそうだ。

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U2 / Songs Of Innocence

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ソングス・オブ・イノセンス
U2
ユニバーサル ミュージック (2014-10-22)
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iTunesのユーザーになかば強制的に配信されるというかつてない形式で無料配布されているU2の新譜を聴く。有識者のあいだでは「こんな風にしたらアルバムの売り上げが下がるに決まっているだろう」という意見もあるようだけれども、最近の大物ロックバンドの収益は完全に大規模なライヴ・ツアーが中心になっているそうだから、アルバムの売り上げなんかほとんど気にしていないのだろう。むしろ、これをプロモーションにライヴ動員数の増員を……というのがあるのかもしれない。とはいえ、U2というバンドの知名度は日本のみならず世界的にも「誰だよ?」と騒ぎになる事象を確認できるほどのものになっているのは驚きで、これはロック・ミュージックというジャンルの凋落と、誰も本気で音楽なんか聴いていないんじゃないか、という寂しさを味わわせてくれる。Cold Playは知っているが、U2は知らない、みたいな人も多そうな気がする(これはPolysicsは知ってるけど、Devoは知らない、みたいな関係に近い、か?)。

しかし、自分自身、U2の新譜をちゃんと聴くのが久しぶりだったりするのだ。前作はリリースの存在自体認識していなかったし、さらに前の『How to Dismantle an Atomic Bomb』は10年前だと言う。「Vertigo」のiPodのCMが10年前かよ……と驚きしかないが、本作はソリッドでかつ、音がギュッと固く詰まった優れたロックンロール・アルバムだと思う。プロデュースはDanger Mouse。とにかく音が今のロック・バンドっぽくなっている。相変わらずジ・エッジはあのディレイを使ったギター・プレイをしているが、ジャギジャギの鋭いギター・リフを繰り出していてテンションがあがるし、それからアダム・クレイトンのベースがこれまでになく印象的だ。Franz Ferdinandかよ、New Orderかよ、みたいにグイグイとベースが曲を引っ張っていく。なんだ、カッコ良いじゃないかよ、と安心して聴いてしまうのだった。リード・シングルの「The Miracle (Of Joey Ramone)」だけじゃなく、リード・シングルっぽい曲が満載、というか全曲シングルA面でもおかしくない感じなので、やっぱりこれが大物ロック・バンドなのだなあ、と思う。

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スタニスワフ・レム 『ソラリスの陽のもとに』

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ソラリスの陽のもとに (ハヤカワ文庫 SF 237)
スタニスワフ・レム
早川書房
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遅めの夏期休暇をもらってロンドンに遊びに出かけていたのだが、その行きの飛行機のなかで、長いこと積ん読になっていたSFの古典を読み終えた。ほとんどSFを通過しなかった読書遍歴をもつわたしなので、この本も出会うのが遅すぎたのかもしれないが、毎度ながら(いや、そんなに数を読んでいないか……)SFの古典を読むたびに「苦手……」と思ってしまうばかりである。なんか全然楽しみ方がわからないんですよね。惑星ソラリスの研究史が続く箇所なんかは面白く読んだのだけれども、それは科学史のテクストを読んでいるのと感覚がほとんど同じであって、それなら科学史のテクストを普通に読んでいた方が楽しい、と思われてしまう。「未知の生物との接触によって、人間はあれこれ挑戦的なことをされてる感じがするが、実は未知なる生物には意図はなんか一切なかった」というお話が、人類中心主義 anthropocentrism 的なものの見方をひっくり返してしまうのも理解できる。ただ、それが語り継がれるべき不朽の衝撃力をいまも持ちえているのかどうか。『E.T.』みたいに「異星人と通じてしまった、ミラクルだね!」みたいな話って「「異星人と地球人は、コミュニケーション不可能(あるいは、コミュニケーションの基盤が違いすぎて、ほとんど無理)」という前提があるからこそ、話として成立するわけで。だから『ソラリス』を読まなくても、ここで書かれている問題提起とか思考実験的な部分ってすでにみんな通過しているような気がするんだよ。

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三浦靭郎(編) 『音楽の冗談』

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音楽の冗談 (音楽選書)
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三浦 靭郎
音楽之友社
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高校・大学に通っていた頃、図書館で雑誌『音楽の友』を暇つぶしによく読んだ。いまでは書店で見かけても手を取ることがなくなってしまったが、わたしが読んでいた頃の古今東西の音楽家ジョークのコーナーがあって(いまもあるのかな)、ちょっとした楽しみだった。本書『音楽の冗談』もまたは『音楽の友』に連載されていた音楽家ジョークのコーナーをまとめたもの。昭和47年から8年間つづいていた連載だったらしいが、もちろん、わたしが読んでいた『音楽の友』を読んでいた時期とかぶっているわけではない(というか自分が読んでいたものの詳細が定かではないのだが)。嘘とも誠とも言えないくだらない話が満載なのだが「ああ、この作曲家ならありえるかもしれない……」という感じでクスリと笑える。

たとえばリヒャルト・シュトラウスとストラヴィンスキーが登場するこんな話がある。
ベルリンでの《ペトルーシュカ》の初演のあとで、リヒャルト・シュトラウスはストラヴィンスキーのお祝いを言った。
「ですがね、文句を言いたいことが、ひとつあるんですよ、ストラヴィンスキーさん」と、そのあとでシュトラウスは付け加えた、「なぜあなたは、ピアニシモで始めるんです。いいですか、あれはいけません——経験をつんだ老人の忠告はお聞きなさい。あなたは聴衆をまずぎょっとさせなければいけません——どかんと、ひとつやって。そうすれば、そのあとは、あなたがどこへ行こうと、なにをしようと、みんなはあなたについてくるものですよ」
 あるいはバックハウスについては、
82歳のバックハウスが、ヴィーンの音楽祭で、ヴィーン・フィルと共演したとき、聴衆からばかりでなく、楽団の全員からも、嵐のような拍手喝采をうけた。
ちょっととまどったような顔でそれを受けたあと、バックハウスは言った。
「わたしは、いまふたたび、わたしの一生の出発点に立ち戻ってきた。わたしが12歳ではじめて舞台に立ったとき、人々は言ったものだった。あの年にしては大したものだと。きょうもまた、人々は同じことを言っている」
 これで笑うためには、リヒャルト・シュトラウスがどんな楽曲を書いたのか、バックハウスがどんなピアニストだったのか、という前提知識がなくてはならない。本書が書かれた時代とは、そうした前提知識がよく活用された時代であり、いま、その前提知識を得るための基盤のようなものは、どんどん目減りしていっているのではないか、と思ってしまった。

そうしたものを「文化」と呼ぶのであれば、インターネット上で簡単に情報が得られ、過去の巨匠たちの音源が驚くほど安価で大量に手に入る状況にも関わらず、文化はどんどん貧しくなっている、とも言える。世界的にクラシック音楽というジャンルは苦境に立たされ「守られるべきもの」として捉えられている(はずである)。ただ、そうして保護の枠にいれられることで、より堅苦しく、より息苦しくなってはいないだろうか。たかがジョークの本から、こんな感想を述べるのもアレだが、くだらないジョークが伝わる文化とは、豊かなものだと思うし、池辺晋一郎先生的なものが必要なのでは、とも思う。

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牧野雅子 『刑事司法とジェンダー』

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刑事司法とジェンダー
刑事司法とジェンダー
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牧野 雅子
インパクト出版会
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性暴力はどのように裁かれるのか、というシリアスな問題を、法律史・政策史の整理から、実際に起きた連続レイプ事件加害者への取材や裁判分析などから論じた本。最近Web上で話題を呼んだ記事「どぶろっくと痴漢の関係」でも「名著」として紹介されているが、スゴい本だと思った。刑事司法のシステムが性を取り扱うときの、男性中心に構築されている「型」に含まれた問題の大きさを痛感させられる偉業である。

たとえばひとつの問題として、刑事司法において、性暴力はおよそ「性欲という本能の過剰(あるいは抑圧)によって発生する、自然現象」のように扱われていることが指摘されている。その固定観念によって捜査や裁判は進められ、なんの疑問も差し込まれない。「性欲の過剰/抑圧によって発生した暴力」というわかりやすい物語の強さは、取調室や裁判所の外側にも影響していく。そして、こうした物語が暴力が発生した、本当の理由を隠蔽してしまう。著者が指摘するように、刑事司法は「犯罪の原因究明」を目的としているわけではない。そこで動機や原因が問われるのは、それが量刑に影響を与えるからである。それゆえ「それらしい物語」が「真の原因」に代替することはとくに問題とされない。原因究明の作業は、刑事司法が独占的に担っているにも関わらず、である。

真の原因には触れられないまま作動し続ける刑事司法のシステムの空虚さは端的に恐ろしいし、加害者を矯正する/更生させる手だてもまるで見当違いにしてしまうリスクを高めている。そうしたシステムの改善のためにも、本書がバカ売れして、たくさん読まれると良いと思った。ちょうど、新しく就任した法務大臣の発言でも、性犯罪に対する処罰が注目されていることだし……。

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Jean-Luc Godard / Un film comme les autres(ありきたりの映画)

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ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 Blu-ray BOX (初回限定生産)
IVC,Ltd.(VC)(D) (2012-05-31)
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7月に買ったゴダールのジガ・ヴェルトフ集団BOXを全然見ていなかったことに気づき、ようやく2枚目の『ありきたりの映画』(1968)を観た。正確に言えば『ウィークエンド』を観たあとにすぐ観ようとしてたのだが、あまりのツラい内容に途中で爆睡してしまい、2度目のチャレンジでようやく見終えたのだった。世の中には、ゴダールは難解だ、という伝説めいた評価があり、それに対してこれまで、自分はあまりピンと来ていなかったが、これは「難解」と言って良い作品だと思う。いや、むしろ、この映画を「難解だ」と評価することによって「映画の価値を否定するわけではないが……(わたしにはちょっと……)」的な留保ができる。そうした意味では「難解」というラベリングの便利さと、なんにも言ってなさを実感できる作品ではあるのだが、いや、もっとズバリ「退屈である」と言ったらどうなのか、と思わなくもない。

1968年5月のいわゆる五月革命についての映画なのだが、画面にあらわれるのは、郊外の団地風の建物を背景にした草むらのなかで語り合う、工員と大学生たち(ひとりだけ女性)の背中とか足とかで、彼らはひたすら煙草を吸いながら、革命について語り合っている。そこに五月革命の白黒ニュース映像が挿入され、彼らの語りを邪魔するかのように、さまざまな革命のテクスト(毛沢東とかマルクスとかゲバラのテクストらしいがまったく断りはない)の朗読が入り込む。議論は、噛み合うわけでも、大きな結論や決定に到達するわけではない。なにか、大学の映画研究会の人が録る実存的な(!)映画の悪い(良い?)見本みたいな感じもするし、このダルさは『アワーミュージック』の講演シーンのダルさにも通ずる気がする。1968年の問題の語りは「デジタルカメラは映画を救うか」という問いに対して沈黙するゴダールの姿と同様に、そのシリアスさが伝わらず、まるでまったく会話に加われない108分の飲み会に参加しているような具合の映画だった。

ぶっちゃけ、観たといっても、だれも「観たことにならない」のではないか、という感じがビンビンとする。本当に語り合いとニュース映像しかないんだから、いきなりここからゴダールに出会ってしまった人は不幸になるしかないのではないか……。

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Anthony Grafton 『Defenders of the Text: The Traditions of Scholarship in an Age of Science, 1450-1800』

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Defenders of the Text: The Traditions of Scholarship in an Age of Science, 1450-1800
Anthony Grafton
Harvard University Press
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(書影は白黒でちょっとカッコ良いが、実物はグフ・カスタム的な微妙な色なので注意。2015年9月追記: 装丁にはどうやら2パターンあるらしく、白黒の表紙と、グフ・カスタム的な微妙な色の2種類を確認した)

アンソニー・グラフトンの主著『Defenders of the Text(テクストの擁護者たち)』を読み終える。すでにヒロ・ヒライさんのサイトでお知らせがでているように本書はすでに邦訳の予定がある。なんでそんな本をわざわざ原書で読んでいたかというと、こちらの訳稿チェック作業にわたしが関わっているからなのだった。インタヴューを読むとわかるのだが、グラフトンはかなり生産的な人である。「フルタイムで書いてるときは、午前中だけで3500ワード書く日が週に4日あるよ(つまり、週約15000ワード)」とか彼は語る。このインタヴュイーによれば、1日に1000ワードで「普通の作家」だそうだから、通常の3倍からそれ以上の執筆量となる。

こういうマニアックともいえる人物が書く文章に、クセがないわけがない。文章自体が長過ぎるとか、極端に難しい言葉が頻出するとかではないのだが、彼一流の諧謔や皮肉、比喩表現が適宜投げ込まれてくる。これがなんとも日本語にしにくい。グラフトン的にはくすぐりをいれてきているに違いないのだが、日本語にすると思いっきりスベってしまう。彼の筆が走りまくっている勢いをどうにか日本語化すべく翻訳者の方もかなり苦労されているようだ。しかし、その甲斐あって翻訳はかなり上手くいっているのでは、と作業協力者的には思う(まだ作業途中だけれど)。

さて、本書の内容についても簡単に紹介しておこう。グラフトンはここで、ルネサンス期から初期近代の人文主義者たちがどのようにテクストをあつかったのかを描こうとしている。どんな風に読んだのか、どんな風に分析したのか、そしてどんな論争があったのか、という営みの歴史は、スモーリーによる『中世の聖書研究』にも通ずるだろう。たとえばこんな論争がとりあげられる。「古代のテクストは、今を生きる人がキケロのように優れた弁論家になるための模範として読まれるべきだ!(だから、古代のテキストが書かれた歴史的状況はあんまり重要じゃない)」という学者と「いや、そのテキストが書かれた背景を理解しないと、そのテクストを本当に読んだことにならないのでは!?」という学者がやりあっている。

こういう論争に目を向けると「どっちが勝ったの?」だとか「どっちが重要だったの?」だとか選択式の疑問が浮かびがちになり、「歴史どうでも良い派」対「歴史重要派」で、歴史上の人物をキレイにグループ分けして考えてしまう。しかし、グラフトンの議論には「いや、みんなこれまで『アイツは◯◯派だ』みたいにラベリングしてたけれど、そんなキレイにわけられなくね?」という根本的な問いかけがある。テクストの歴史的文脈を重要視していた人物が、あるときは古代のテクストから同時代的な教訓を抽出する。その逆もまたありうる。別な問題では、捏造された古文書をするどく批判していた人物が、よりひどい捏造に加担している例もある。わかりやすいラベリングが、その当時の知識人の実態を隠してしまうことがある。

また、ある人物が用いていた手法(たとえばテクスト分析や校訂)が画期的で、現代にも通ずるものだ、という評価を受けているとしよう。グラフトンの議論の仕方で特徴的なのは、そこで「しかし、実はその前にも、同じことをやっている人はいた」だとか「画期的なものに見えるかもしれないが、実はこの手法はありふれたものだった」と、ちょっと前に戻る点だ。ある人物をひとしきり褒めた(あるいは、批判した)のちに「でも……」とまるでそれまで言っていたことを打ち消すかのような話をはじめるので、議論が錯綜しているように読めるかもしれない。しかし、「ちょっと前に戻る」ことで主題となる人物の歴史的重要性が精緻に見られる。「実は当時ありふれた手法」のなかから「でも、ここはホントに新しいやり方だったよね」というポイントをあぶり出すのだ。

内容の紹介よりも、グラフトンの歴史記述についての話になってしまったが、わかりやすいラベルを剥がしてしまうと、当時の知的な営みは、なにか濁流のような、よくわからない動向に見えてくる。そこから議論を成立させるグラフトンという歴史家は、素人目にみてもスゴいものだ。彼が繰り出す痺れるフレーズも直に日本語で読めるようになるので、邦訳を楽しみにしていてほしい。

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ローレンス・M・プリンチペ 『科学革命』

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科学革命 (サイエンス・パレット)

丸善出版
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まずは翻訳者のひとり、山田俊弘氏に御礼を(ご恵投ありがとうございました)。

本書は主に16・17世紀の科学史をとりあげている。この時期は初期近代と呼ばれ、歴史的に重要な発見が数々おこなわれた時代であり、我々が生きる現代に続く時代として、またガリレオが裁判にかけられ、コペルニクスが地球と太陽をぐるりと入れ替え、ニュートンが落ちたリンゴを見て閃いた時代として一般的にも知られている。本書のタイトルにも用いられている「科学革命」という言葉は、そうした天才たちがつくった、迷信に満ちた過去から「現代」が颯爽とテイクオフするきっかけ、として理解されているだろうか。

本書は描いた科学史はまったく違っている。記述は、8世紀からはじまり、中世・ルネサンスの知識人たちの精神的基盤が説明される。一般的な(そして誤解をおおく孕んだ)歴史理解によれば、初期近代の天才たちは、それまでの「古い世界」を軒並み否定し、迷信に頼らないという意味での理性的な「新しい世界」を切り開いた、とでもされるだろう。それはガリレオが「宗教という根拠のない抑圧と戦った科学者」として描かれるファンタジーにも象徴されている。天才たちは、あたかも我々と同じ世界を生きた人物でもあるかのように振る舞っているのだ。

しかし、実際の天才たちは、我々からすれば驚くほど迷信に満ちた世界に生き、そしてその世界を信じていた。たとえば、コペルニクスの説を支持していたケプラーの研究の動機は、その説が「科学的に正しいから」ではなく、神学的な調和への欲求によるものだ。コペルニクスの体系によれば、天にある惑星は6つしかない。7つの惑星ならそれは世界のなかのさまざまな7(1週間の日数、7つの音階……)と調和するのに、どうして惑星は6つなのか。ケプラーの探求は、こうした世界の不調和に対する調律だったとも言えるかもしれない。

ケプラーの例は、科学革命の闘士たちが、古い世界を捨てた人物ではないことをわかりやすく示している。一般的な科学革命のイメージは、こうして矯正される。しかもそれは、中世・ルネサンスと現代のあいだに「初期近代」というまた別な時代があり、ある種の過渡期だったというような物言いにはならない。強調されているのは、科学の発展と変遷の連続性である。その区分がはっきりと見えないその歴史観は、もしかしたらわかりにくいものかもしれない。けれども、そのはっきりとしないながらも連続して進んでいく歴史のダイナミズムこそ、科学史の面白さだと個人的に思う。

さて、科学革命の話になるとこれまであげてきたように今日の天文学的に重要視された人物ばかりに焦点があてられがちだが、本書は星空ばかりを眺めて歴史を語っているわけではない。化学や医学、生物学といった領域もバランスよく紹介されている。また、神学的な要求や論争から生まれた多くの発見が、より実践的な(昨今話題となっている言葉を借りれば)「世の中の役に立つ科学」として活用されはじまる社会動向にも触れられている。コンパクトな新書サイズでこれだけのヴォリュームが語られるのは、かなり驚異的なことだ。魅力的な科学史のはじめの一冊として、たくさんの人の目にとまることが望まれる。

なお、現著者のプリンチペは、近著『The Secrets of Alchemy(錬金術の秘密)』も翻訳がでる予定とのこと。こちらも大変楽しみな一冊だ。

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