ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「アヴェロエスの探求」について

0 件のコメント
12世紀のコルドバに生まれたイスラームの学者であり、中世哲学にも多大な影響を与えたアヴェロスについて記述する書き手の多くは、まず「アブルワリード・ムハンマッド・イブン=アハマッド・イブン・ルシュド」という彼のとても長い名前について触れる。アルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのアヴェロエスを主人公に据えた短編「アヴェロエスの探求」の書き出しも同様だ。ボルヘスの作品を愛好している読者は多い。しかし、短編集『エル・アレフ』に収録されたこの作品ほど、一読して、なにが書かれた作品なのかが掴みにくいものもないだろう。

実在するかどうかも判然としないアラビア語の名前をもつ人物たちの問答や、アヴェロエスが参照した過去の学者の名前、あるいは、書き手のボルヘスが表現として書き加える思想家の名前……さまざまな固有名が飛び交い、ともすれば、単に衒学的な作品として読まれてしまう。アヴェロエスの長大な名前すらも、人を惑わすギミックのように読まれてしまう。

しかし、本作はただ単に衒学的なだけの短編ではない。言語の儚さや淡さが、あるいは言語がリアルの世界に到達するまでの無限の距離(つまり到達できなさ)が表現された、とてもボルヘスらしい作品なのだ。以下では、作品を要約しながら、そこになにが書かれているかを詳しく見ていくことにしたい。

伝奇集 (ラテンアメリカの文学 (1))
ボルヘス
集英社
売り上げランキング: 414,706
なお、テキストは集英社の篠田一至訳を用いる(白水社の土岐訳はあまり良くないためお勧めしない。今なら平凡社の木村訳(最新版)が手に入る。わたしはまだ読んでいないけれども)。原文に関しては、著作権的にはNGだろうがこちらのサイトを参照した。また、英訳のテキストも公開されている

1.

(要約)シエスタの静寂の最中、アヴェロエスが住む部屋には、鳩の鳴き声や噴水の音だけが届いている。普通の人間は眠りこけているはずだが、彼はガザーリーの『哲学者の矛盾』に対する反駁である『矛盾の矛盾』を書くのに没頭している。そこに突然、執筆を中断させる気がかりな思いが脳裏をよぎる。彼のライフワークは、アリストテレスの注解だ。想起された気がかりとは、そのライフワークに関するものだった。アヴェロエスは『詩学』のなかで頻出する「悲劇」と「喜劇」という言葉の意味を知らなかった。彼は手がけていた仕事を中断し、書棚のなかから謎の言葉を理解するためのヒントを探そうとしはじめる。しかし、その作業で得られたのは、ヒントなどではなく、その晩に招かれていた食事会の予定を思い出しただけだった。
篠田訳ではガザーリーの Tahāhut al-falāsifa を『賢人の破壊』と訳しているが、この著作は『哲学者の矛盾』が定訳(原文を参照するとボルヘス自身が Destrucción de filósofos という訳を与えているのをそのまま訳している)。アヴェロエスが執筆していた Tahāhut al-tahāhut も『矛盾の矛盾』と呼ばれている(こちらには邦訳あり。『中世思想原典集成〈11〉イスラーム哲学』)。アヴェロエスが理解できなかった言葉についてボルヘスは「イスラム圏では誰一人、それらの意味するところを予想し得なかった」と書いている。9世紀のバグダードでは、古代ギリシアの文献がアラビア語へと盛んに翻訳されていた。このとき翻訳されていたのは、おもに哲学・数学・医学に関する書物で、文学はほとんど翻訳されていない。そうした事情をみると、「イスラム圏では誰一人……」というボルヘスの記述は正しいように思われる。アヴェロエスは窓の外から子供達が演劇遊びをしているのを見る。しかしそれは「演劇」だとさえ思われない。

執筆に集中するアヴェロエスのもとに、突然想起された哲学的問題によって、執筆が止まってしまう。問題を解決しようとさまざまな著作にあたるも、手に取った本が送られてきた港の名前から、その晩の予定を連想して思い出す。記憶は思い通りにはコントロールできない。それは、ごくありふれた記憶の振る舞いであり、プルーストの小説の冒頭のようでもある。

2.

(要約)コーラン学者の家で開かれた晩餐の主人公は、コルドバに戻ってきたばかりの旅行家だ。ひょんなことから話題は神学に及ぶ。 
コーランと文字に関する神学的な議論がおこなわれる。アヴェロエスが「文字は人工のものです」と口にしたとき、彼は、コーランが神による世界の創造の前から存在しているので「人工だというのはまちがっている」と批判される。コーランは通常の被造物ではなく、永遠のものである、という考えは、イスラーム神学における正統的な考え方だ(コーランが神による創造物であるとしたムゥタズィラ派は、バグダードでの翻訳運動を庇護したマアムーンによって正統とされたことがあるが、かえってそれはムゥタズィラ派の弱体化を招いた、と井筒俊彦は記述している)。アヴェロエスが受けた批判にはこうした背景がある。

たしかに、「文字が人工だ」というアヴェロエスの語りは、ムゥタズィラ派的なコーラン創造説を想起させるが、おそらくボルヘスが語るアヴェロエスは「コーランの原典」と「物質的なコーラン」を切り分けて考えているように思われる。コーランの原典は「プラトン的原型(イデア)」に似たようなものであり、それは神の属性のひとつで、永遠で改変不能の存在である。しかし、物質的なコーランはその原型から作られているものの、人工の文字によって記されている。神による言語、神による文字、そのものではない。という切り分けである。

しかし、アヴェロエス自身はこうした神学的議論には口を突っ込まなかった(なぜなら、晩餐の主人公は、神学とはまったく無縁に生きてきた人だから)。なお、この部分で「緑色の鳥の実がなる木」という驚異について語られる。以下に掲載したのは13世紀前半の動物寓話の挿絵。おそらくはボルヘスも、アイルランドのガンは、自然によって生まれる、というこのイメージが用いていると思われる。

3.

(要約)晩餐の参加者は、旅行家に驚異について話してくれるよう求める。旅行家は遠く離れた都市で見た不思議な人々の振る舞いについて話そうとするが、まったく理解されない。
旅行家は驚異を語ってくれ、というリクエストにしぶしぶ応えている。「彼らが聞きたいのは驚異の物語だが、驚異はおそらく伝達不能のものである」から。このあたりも実にボルヘスらしいのだが、重要なのは理解されない旅行家の語りである。旅行家は、シン・カラン(カントン = 現在の広州市)で見たものは、中国の演劇だったのだ。アヴェロエスはここでも「詩学」につながるヒントを見逃している。旅行家は懸命に、演劇というものがどういうものかを聴衆に伝えようとしているが、彼の試みは失敗に終わる(彼自身が演劇自体を理解していたかもあやしい)。

本当に当時のイスラーム文化圏でこれほど「演劇」が理解されなかったのか。調べてみると「宗教から初期演劇へ: 中国演劇を中心に」というページが見つかった。ここではイスラーム圏における演劇的なものとしてトルコの「カラギョズ」とイランの「タアズィーエ」が挙げられているが、前者のはじまりが16世紀、もともと宗教儀式だった後者が演劇性を高め、最初の脚本が書かれたのが18世紀だとするならば、12世紀のアヴェロエスたちが旅行家の話を理解できなかったもの自然である。そうした文化的背景を理解しながら物語を組み立てているボルヘスの知識もすごい。

なお、イスラーム圏の文学は、詩が第一であり、それは次の部分で大いに語られることとなる。

4.

(要約)演劇に関する語りを理解できなかった一同は、アラビアの詩について議論しはじめる。ひとりの詩人は雄弁にダマスカスやコルドバの詩人が時代遅れであり、無道時代の大詩人ズハイールの比喩もすっかり色あせてしまたと論ずる。アヴェロエスはこれに反論する。
アヴェロエスが晩餐のなかでももっとも長口上を述べるのがこの部分である。これはアヴェロエスの口を借りたボルヘスの詩論でもあるだろう。まず、反論のひとつとしては詩の価値が、人々を驚かせるような比喩の発明ではないこと(もし驚嘆で詩の価値が図られるのであれば、それは驚嘆が過ぎてしまった瞬間に価値は色あせてしまう)。そして二つ目の反論では、時の経過によって詩の意味が失われるのではなく、詩の領域が広がることが語られる。この時間によるイメージの変化については、ボルヘスの講義録『詩という仕事について』でも大いに語られたことだ。

詩という仕事について (岩波文庫)
J.L.ボルヘス
岩波書店
売り上げランキング: 239,648
「つまり、言語は変化します。ラテン人たちはこの事実をよく心得ていましたが、読者もまた変化するのであって、このことは、ギリシア人たちの古い隠喩を思い出させます。いかなる人間も同じ河に入ることはできない」(第1回講義「詩という謎」より)。

5.

(要約)晩餐を終えて帰宅したアヴェロエスは不明だった「悲劇」と「喜劇」という言葉の意味をつかみはじめていると感じている。草稿にふたつの言葉に関する注釈を書き付けた彼は、床につこうとして、ターバンを外し、鏡を見る。その瞬間、突然存在が霧散してしまう。語りはここで、ボルヘスによる解題的なものへと移る。
この短編の結末部分は、おどろくほどあっけない。冒頭から演劇に関するヒントに触れながらも、それを見落としてしまったアヴェロエスが書き付けた注釈は、やはり「悲劇」と「喜劇」が演劇であることに気付けておらず、詩の類のことだと想像している。そしてアヴェロエスの存在は消え去ってしまう。これは、ほとんど物語を放棄するかのようでもある。この放棄は、ボルヘスは反省から発生する。

「劇場とは何かということをたえて憶測したこともないのに、演劇というものを想像しようとしたアヴェロエス」の滑稽さと、「いくつかの断片以外には材料もないのに、アヴェロエスを想像しようとした」ボルヘス自身の不合理さは同じレヴェルだとして。 この気づきが訪れた途端、書き手であるボルヘスのもとから、登場人物であるアヴェロエスは消失してしまう。これはアヴェロエスのイメージにボルヘス自身が到達できなかったという告白でもあるだろう。

0 件のコメント :

コメントを投稿

伊丹十三 『問いつめられたパパとママの本』

0 件のコメント
問いつめられたパパとママの本 (中公文庫)
伊丹 十三
中央公論新社
売り上げランキング: 74,812
伊丹十三による異色のコラム集と言ってよいだろう。「赤チャンハドコカラクルノ?」、「空ハナゼ青イノ?」、「オ昼ナノニドウシテオ月サンガ出テイルノ?」など子供に問われたらパッと説明できない問題に対して、子供でもわかるような理屈と例え話で、科学的な説明をしてみせる、という本。俗説の訂正のなかには、自分でも思い違いをしているものがあって、なかなか勉強になった。

単行本がでたのは1968年だと言う。もともとは『婦人公論』での連載らしいのだが、なぜ、伊丹十三がこういう文章を書かなきゃいけなかったのかはよくわからない。この時代、このマルチタレントな人物に、どういう社会的(?)要請があったのか。仕事の幅が広すぎて改めて驚かされてしまう。

0 件のコメント :

コメントを投稿

木村榮一 『ドン・キホーテの独り言』

0 件のコメント
ドン・キホーテの独り言
ドン・キホーテの独り言
posted with amazlet at 14.11.24
木村 栄一
岩波書店
売り上げランキング: 1,306,814
ラテンアメリカ文学の翻訳で有名な木村榮一によるエッセイ集。セルバンテスの生地であるアルカラー・デ・エナーレスにあるアルカラー大学に赴任していたときの印象から語られる文化・文学エッセイ、といったところでなかなか楽しく読んだ。よく登場するのはアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスやメキシコのオクタビオ・パスといった名前で「舞台はスペインなのに……?」というミスマッチが無きにしもあらずだが、著者の専門がそちらだから致し方ないのだろう。しかしながら、ほとんどスペイン語で書かれているラテンアメリカ文学の源流としてスペインがあることは言わずもがなであるし、ラテンアメリカの文化の多層性・雑多性と、スペインの文化の多層性・雑多性が共鳴しているかのように読めるところが興味深かった。

スペインについて、日本人である我々はなにを知っているだろうか。リーガ・エスパニョーラ? パエリア? ハモン・セラーノ? 闘牛? ガウディ? アルハンブラ宮殿? フラメンコ? 単語だけはいろいろ知っている。でも、それがスペインのどの地域にあるもので、どういう起源を持っているかはほとんど知られていない。スペインに留学経験があって、スペイン語を操る友人は、東京のスペイン料理屋について「海の物も、山の物も同時に扱ってるスペイン料理屋って変。観光地の料理屋みたいだよ」と言っていた。マドリッドで食べる魚介のパエリアなんて、箱根で食べる寿司みたいなものなのかもしれない。でも、そういう文化的な誤解が生じるのが当然視されるほど、スペインはいろんな文化の寄せ集めでできている。そして、周辺の国々に多大な影響を及ぼしてきたのだ。

本書でもアヴェロエスについて触れられているが、中世ヨーロッパの思想界に最も大きな影響を与えたこの人物は、コルドバ生まれのイスラーム教徒であり、そういう人物がギリシア哲学を中世ヨーロッパに伝えることになったのである。「ヨーロッパの国」として思い浮かべる国としては、ドイツや、フランス、イタリアの次ぐらいの順位にきそうなスペインだけれど、本書を読んでみて改めて、歴史的な重要度を思い知らされた。

本書は現代スペイン文学についても紹介している(とくにフリオ・リャマサーレスが極めて重要な作家として挙げられている)。本書の刊行から10年以上の年月が経っているため、当時翻訳がなかったリャマサーレスも本書の著者の手で邦訳がでている。それだけでなく、本書で紹介されている翻訳がなかったスペイン語の小説のほとんどが邦訳されているのだから、著者や野谷文昭といったスペイン語で書かれた文学の紹介者たちの仕事ぶりの活発さにも感じ入ってしまうところだ。願わくば、16-17世紀の詩なんかももっと手軽に読めるようになると良いんだけれど。

0 件のコメント :

コメントを投稿

土岐麻子 / Standards in a sentimental mood: 土岐麻子ジャズを歌う

0 件のコメント
STANDARDS in a sentimental mood ~土岐麻子ジャズを歌う~
土岐麻子
rhythm zone (2014-11-19)
売り上げランキング: 294
ジャズ・ヴォーカルの世界はほとんど門外漢といったわたしであって、自宅にある録音も、こないだから聴きはじめたこの土岐麻子によるスタンダード曲集と、UAと菊地成孔のコラボレーションしか持っていない。土岐麻子によるスタンダード曲集は本作が4枚目となるそうで、プロデュースは父親であるサックス奏者の土岐英史によるもの。日本を代表するジャズ・サックス奏者であり、山下達郎のバンド・メンバーとしても長く活躍していたプロデューサーによる音作りが、本格的でないハズがなく、フリューゲルホルンの市原ひかりの人選など「あ、この人は、山下達郎のアルバムに参加していた人か」といくつもひっかかりがあった。悪く言えば、凄腕スタジオ・ミュージシャンによる「ジャズらしいジャズ」という感じなんだけれども、熱い聴きどころはいくつも隠されている。山木秀夫によるドラムとか静かに熱くなってしまう。

そう、表面上は土岐麻子のキュートなヴィジュアルを想像しながら聴く『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』(この本は読んでないけども)的音楽でしかないんだけれども、実に深い。土岐麻子のヴォーカルは、とても行儀が良い感じがあって、UAなんかの魔術的とさえ言える黒っぽさとは対極にある、けれども、どこか、ブラジルの女性歌手のように、深く、心の柔らかい部分を刺激してくるようなエモーショナルな上手さを感じさせるのだった。そういえば、土岐英史は日本におけるブラジル音楽のパイオニアのひとりでもあるのだったな、ということを思い出し、隠れたつながりを見つけた気分にもなる。ともあれ、これで土岐麻子がボサノヴァをこのメンバーでやりだしたら『カフェでよくかかっている……』になりすぎちゃうか。

0 件のコメント :

コメントを投稿

種本祐子(監修) 『初歩からわかる新大陸のワイン入門』

0 件のコメント
1000円〜3000円ぐらいの範囲で、美味いワインを探すにはいわゆる「ニュー・ワールド」系を選べ、というのがもはや一般常識化していると言っても良いだろう。アメリカ、オーストラリア、チリ、アルゼンチン。新大陸のワインには安くて美味しいワインがたくさんあって、わたしも最近酒屋に足を運んで時には試飲しながら、美味しい一本を探す、というレジャーにハマりつつある。

とはいえ、これほどポピュラーになったニュー・ワールドのワインのことを、よく知らないことに気づいたりもするのだ。カリフォルニアといえばナパ・ヴァレー。オーストラリアならシラーズ……。有名なものはそれぐらいで、フランスならば、ボルドー、ブルゴーニュ、コート・デュ・ローヌ……と地域ごとに細分化されているけれど(ボルドーなんか左岸と右岸とで別々にカテゴライズされているレストランもある)、ニュー・ワールドのことは、国ごとになんとなくざっくりしかわかっていない。

このわからなさが、魔境っぽくて面白いのかもしれないけれど、ちゃんと勉強したくなって、読んでみたのが『初歩からわかる新大陸のワイン入門』。これがなかなかの名著だったのだけれども、書名はちょっとミスリーディング、というかもっと適したタイトルがある気がする。ぶどうの種類なんか結構詳しく書いてあるし、製法などの基礎も押さえてある。『新大陸からはじめるワインの初歩』と言っても良いぐらいの内容なのだ。

わたしが赤を専門的に飲むので白ワインに関する記述は、読み飛ばしているのだが、赤は重め・辛口に偏っているところはある。でも、今後のワイン選びの力強い指針ができて、とても良い本に出会ったと思う。監修者はヴィノスやまざきの偉い人(刊行された2010年当時)。紹介されているワインのなかに「あれ、これこないだ飲んだ気がするな?」と思って調べたら、ヴィノスやまざきで試飲したやつだったりした。

0 件のコメント :

コメントを投稿

池谷孝司 『スクールセクハラ: なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか』

0 件のコメント
スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか
池谷 孝司
幻冬舎
売り上げランキング: 1,549
教員によるわいせつ犯罪が、個人の性癖によるものでなく、教員という職業がもつ権力によって発生している構造的な問題である、というところを掘り下げている。権力があるから、求められても生徒は嫌と言えない。権力で従わせていることに教員が無自覚だったりして「嫌だけど怖いから従っている」のを「同意の上だった」「向こうも好意を持っていた」と勝手に解釈してしまう。そういうのは、もちろん学校に限らず、企業のセクハラでも一緒なんだろう。この本を読むまでわたしは「セクハラとパワハラは別な概念」と思ってたけど「セクハラってパワハラの一種じゃん」と考えなおした。

0 件のコメント :

コメントを投稿

ロンドンで飲んだビールやそれ以外のこと

0 件のコメント
IMG_0857
ロンドンで飲んだビールのことを書こうと思って、ずいぶん時間が経ってしまった。今年の9月、イギリスに向かって成田を発とうとしていたその日は、台風かなにかのおかげで飛行機の離陸が遅れていた。ヒースロー空港からホテルに着いた頃にはもうすっかり日が暮れていて、ホテルの近くにあったパブに入るぐらいしかできなかった。これは、ロンドン最初の夜に飲んだビール、それからシードルの写真だ。

IMG_0858
Lambというこのお店はすごく伝統的なイングリッシュ・パブで、ホームページにも「テレビもねえ、音楽もねえ、あるのは生き生きした会話だけ」とまるで吉幾三みたいなことが書いてある。地元の人と観光客が半分ぐらいずつ集まっていて、とても雰囲気が良かった。店の人は多少英語が不自由でも親切にしてくれる。

IMG_0868

IMG_0869
つまみに頼んだのは、ソーセージとポテトのセット。味付けは生粋のロンドン野郎的にはモルト・ビネガー(その名の通り、麦芽で作った酢)一択なのかもしれないが、その味は「嫌いじゃないけど、遠慮するわ」という感じだった。ソーセージにはハニー・マスタードが一番美味しく、ポテトはやっぱりケチャップが好きである。

IMG_0870
19世紀末にドイツで製作されたオルゴールが設置されていて、店の人に声をかけるとちゃんと演奏してくれた。この日は、2パイントぐらい飲んだと思う。だいたいどのパブにもエールが4、5種類、ラガーが2、3種類、シードルが2種類とか用意されているので、一晩で制覇するなんか不可能である。そして、いろいろ飲んだ結果「エールはヌルいから、俺には合わない!」というのが理解できたロンドン旅行であった。まあ、雰囲気は楽しいが、ビールを飲むなら、日本のHubのほうが旨い。冷たいから。

IMG_0997
そう、冷たいビールが飲みたかったら、瓶入りのラガーを頼めば間違いない。これはケンブリッジにあるティー・ルームで、アフタヌーン・ティーを食べながらビールを飲んでいたときの写真。「冷たくて、旨いなあ」と思いながら飲んだ。

IMG_1146
やはりロンドンといえばフィッシュ&チップスであろうけれど、初日に超保守的なパブにて「ちゃんと店でイモを処理してますぜ、冷凍じゃないですぜ」的な顔をしたポテトに出会ってしまった俺には、この後出会うすべてのイモが霞んで見えた。

IMG_1148
このフィッシュ&チップスは、大英博物館の近くのPloughというお店。観光地価格って感じで適正な感じの値段には思えなかったが、テレビがあってサッカーも観れるということで、この日はアーセナルのユニフォームを着たおじさんが試合の始まる2時間ぐらい前からずっとビールを飲んでいた。

IMG_1152

IMG_1153
ところでイギリスではお店やホテルのなかが全面禁煙、路上は歩きタバコもOKというヨーロッパ・ルールの喫煙マナーが敷かれている。普通にタバコを吸っているだけでも、新手のスタンド使い登場、みたいな写真になってしまうから注意が必要だ。

IMG_1186

IMG_1189
しかし、なにもロンドンだからといって、パブに行ってビールを飲むばかりが楽しみではないだろう。日本でいうと新宿伊勢丹みたいな百貨店、ハロッズの食品コーナーには、さっと立ち寄れて、さっと帰れるオイスター・バーもある。この店のメニューには「日本の熊本のデリシャスな牡蠣もあるよ!」という書いてあり、なんでロンドンで熊本の牡蠣を食ってるんだ、という気持ちになったが。

IMG_1325
ロンドン最後の晩は、Potersというイギリス料理レストランで食事をした。写真は、そのとき頼んだわたしが頼んだステーキ。美味しそうに見えるが、ソースがクセものだった。モルト・ビネガー仕立てで、なんか結構辛いのが入っている。大量のマッシュポテトがまた美味しくない。

旅行中は「イギリスは飯がマズいって言うけれど、そうでもないよね〜。好みの問題じゃん?」と思っていたが、帰国してから2週間ぐらい経って「思い返したら、やっぱりイギリスのご飯は美味しくなかったね」と夫婦で意見が合致した。「これはマズい!」という極端なものには出会わなかったのだが、ずっとパ・リーグのBクラス球団の下位打線にいる選手だけでラインナップが組まれている、みたいな、そういう感じなのだ。

唯一、最初に行ったLambは、また行きたいな、と思ったけれど、これだって「最初に行ったから良い思い出になっているだけ」かもしれない。あ、でも、スーパーで売っているフルーツやお惣菜とかは妙に美味しかったな(お財布にも優しかった)。

0 件のコメント :

コメントを投稿

吉田類 『酒場詩人の流儀』

0 件のコメント
酒場詩人の流儀 (中公新書)
吉田 類
中央公論新社
売り上げランキング: 4,718
酒を常習的に飲んでいる期間は人生のうち、3分の一ぐらいだろうか。そうはいっても「酒を嗜む」ようになったのは、ごく最近のことであるようにも思う。酒を嗜むとは、酒に関する『美味しんぼ』的な蘊蓄を語ることではない。酒場を巡ったり、酒に出会いながら、その場所の空気を一緒に飲むようにして酒を飲む、そういう詩情に溢れる楽しみ方である。アルコールによって忘我の境地に至るのではない、その一歩手前に、ロマンティックな酒の嗜みがあり、その体現者であるのが「酒場詩人」吉田類という男であろう。各地の酒場に出向き、たまたま出会った一般客のつまみを横取りしながら、酒を飲んだりする伝説的なテレビ番組『吉田類の酒場放浪記』の案内人である彼は、私にとって憧れの酒飲みである。初めてその存在を知ったのは『タモリ倶楽部』の立ち飲み企画だったか。メフィストフェレス的な怪しげな風貌で飲みまくっている姿に、わたしは魅了されたのだった。

『酒場詩人の流儀』は彼が地方紙で連載していたコラムを纏めていたもので、これまた吉田類という人間の魅力の別な一面にスポットが当てられている本であった。タイトルは「酒場ではこういう振る舞いがふさわしい」だとか「この店がマイウーである」だとか、そういうことを語っていそうな雰囲気だが、山歩きや渓流釣りといったネイチャー系の趣味が多いに語られ、酒場詩人が酒場を飛び出して、自然を肴に酒を飲むようなお話が続いている。また、教養もスゴいんですよね。この人は高知の生まれで「お、出なすったな、酒飲み県民!」という感じがあるが、源平合戦の伝説が各地に残っているらしく、四国の各地を歩いて、安徳天皇にまつわる風俗などに出会ったりする記述はとても面白い。で、まあ、いい感じに孤独なんですよね、吉田類さんという人は。

孤独であることは悪いことじゃないし、むしろ、もっと孤独でありたい、とか思う。「ひとりで居酒屋に入る」なんて言うと、たまに言っているこっちが驚くほど、驚かれることがあるけれど、ひとりでお店に入ってみないとわからないこともある。もし「ひとりで居酒屋に入るなんて信じられない」という人がいたら、本書を読んで、偏在する酒場詩人たち(わたしを含めてもらって良い)の気持ちを想像していただきたい。カウンターで、黙って飲んでいる酒場詩人は、寂しい気持ちを抱えているばかりではない。心地よい孤独、心地よいお一人様感覚というのが、そこにはあるんだよ。

0 件のコメント :

コメントを投稿

ニコラウス・クザーヌス 『学識ある無知について』

0 件のコメント
学識ある無知について (平凡社ライブラリー)
ニコラウス・クザーヌス 山田桂三
平凡社 (2012-11-19)
売り上げランキング: 700,011
クザーヌスは以前に『神を観ることについて』を読んだだけ。『学識ある無知について』のほうがそれよりちょっと難しい内容だと思った。ともあれ、クザーヌスの神学やコスモロジーのエッセンスが詰まっているようで大変面白い。なにより「一」に関する議論があまりに普段の言語感覚と違っているから、それに馴染めば、要するに「神は一であり、最大者であり、最小である……」云々というクザーヌスの議論は「神があらゆる可能性を内包する無限の存在であり、人間はどんだけ勉強しても神を把握することはできないのだよ」ということが言いたいのだ、とわかってくる。

あらゆる可能性を含んでいるのだから、最大の存在でもありながら、最小の存在でもある神。それが「一」ということである。しかし、あらゆる可能性を含んだそのままの状態ではこの世界はありえない。なんでもありな可能性が縮減され、「多」という形で確定された状態で、世界が表現される、とクザーヌスは考える。面白いのは、神は万物を含むけれども、万物は神ではない。現実に表現されるものは有限である。それに対して神は無限だから一致しないのだ。この神から縮減された万物の不可逆性というか、神と世界との断絶が興味深いと思った。

コスモロジーに関しても、クザーヌスは天動説を唱えた人物ではない。地球の周りを太陽や遊星、星々が回る天文学的モデルを採用している。が、クザーヌスは世界の中心を地球には置いていない。世界の中心は、神である、と彼はいう。ここで重要に思われたのは、この神の居場所の設定が、地球を中心とした階層型の天文学モデルを否定しているように思われる点だった。

ハルトマン・シェーデル 『ニュルンベルク年代記』(1493年)の図版
ハルトマン・シェーデルの『ニュルンベルク年代記』にある図版を見ても、神の居場所は地球から最も遠く離れた最高天に設定されている。世界の中心を神とするのであれば、こうした図を描くことはできないであろう。クザーヌスの神の居場所はどこにあるのか。わたしがうまく想像できなかったのはこの点である。そもそも、空間的にも、量的にも限定されない神をそのように想像すること自体が間違っている気もするけれど。

0 件のコメント :

コメントを投稿

Jean-Luc Godard / Le Gai Savoir (たのしい知識)

0 件のコメント
ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 Blu-ray BOX (初回限定生産)
IVC,Ltd.(VC)(D) (2012-05-31)
売り上げランキング: 22,864
ゴダールの「ジガ・ヴェルトフ集団」BOX、ようやく3本目を見終えた。3本目は1969年に公開された『たのしい知識』。フランス国営放送の委嘱で製作されたゴダール初のテレビ向け作品だが、放映拒否、さらに劇場での公開も禁止されたという曰く付きの作品である。製作時期がまさに革命の季節、というヤツで、毛沢東にチェ・ゲバラにスターリンに……諸々の左翼かぶれっぷりが全開であり、映画も、スタジオのなかでふたりの男女が革命や、言語、映画について語り合うのに、当時の記録映像なんかが挿入されるだけのツラい内容だから、このまま封印されていても良かったんじゃないか、という映画だと思う。わたしも頑張って、93分中50分ぐらいは我慢して観れたけど、途中どうしてもツラくなったので1.5倍速で流してしまった(告白)。そして、熱いコーヒーを飲みながら観ていたら、あまりにツラくて寝てしまい、マグカップの中身をぶちまけてアチコチに軽度の火傷を負った。

いや、でもツラいけど、つまんなくはない。当時のシンセサイザーによる電子音楽や、革命歌がサウンドトラックに使われていて、この映画自体がひとつのミュージック・コンクレートみたいであると思ったし、言語や音楽を刻んで断片化することで、なんか新しい価値とか意味を付与しよう! みたいな実験が本気でやられた頃であろうから、そういう試みを今見直すと大変寒い感じになっているところが面白い。途中で、主人公の男女に放送を通じて、こどもやルンペンへとランダムに単語を伝えられ、伝えられたほうは思いついた言葉を返す的なシーンがあるんだけれど、そことか最高である。こどもは「revolution」と言われると「......」という反応になってしまうが、その次に「cinéma」と言われると「lumiere」と答える。仕込みなのか、たまたまそういう反応が返ってきたのか、全然わからないのだが、仕込みだとしたらゴダールのロマンティック野郎ぶりが伝わってくる気がするし、偶然なのだとしたらミラクルっぽくて良い。

0 件のコメント :

コメントを投稿

鈴木大介 『最貧困女子』

0 件のコメント
最貧困女子 (幻冬舎新書)
最貧困女子 (幻冬舎新書)
posted with amazlet at 14.11.13
鈴木 大介
幻冬舎
売り上げランキング: 152
すでに各所で話題になっている本だが、なかなか凄まじい内容。セックスワーカーの底辺で暮らさざるを得なくなった「最貧困女子」の生活ぶりと救われていなさを伝えるルポである。虐待から逃れて家出してきた少女が「援デリ」と呼ばれる違法デリヘル業者に雇われて搾取されまくり、商品にならなくなったら無残に見捨てられたり、知的障害がある街娼が危険にさらされながら路上で生活していたり……と生き地獄みたいである。

間違いなく知らなかった(しかし自分の世界と地続きであるはずの)世界を本書で垣間見ることができるだろう。荒廃が静かにはじまっていることに、改めて気づかされるような気がする。もはや、みんな『北斗の拳』みたいな世紀末を心の底から望んでしまっているのではないか。最貧困の世界に落ちていった彼女たちが「自己責任論」で追い討ちをかける人がいるならば、特に。とはいえ、たとえそんな気づきがあったからといって、自分になにができるのかはわからないし、そういう意味でも苦しくなる。

淡々と状況をレポートする文章ではない。著者は絶望や失意、怒りの声を織り交ぜながら語る。そういうウェットさは個人的には苦手な部類にはいるのだけれども、著者がそのように語りたくなるのも理解できる。そうしなければ、たぶん、そういう状況に触れ、そして状況を変えられない自分に対する責任感・プレッシャーで心を病んでしまうのではないか。取材によって確実に著者は業(カルマ)を背負ってしまっている。

そうした怒りの声のなかには、最貧困女子に対して援助をおこなうはずの行政・制度に対する批判がある。これまでの支援制度は、援助される者にとって「居心地が悪い」。だから、違法デリヘル業者のほうが少なくとも一時は「居心地が良い」環境が与えられるのであれば、当然そちらに流れてしまうだろう。現行の支援制度は四角四面の対応で良くない……など、真っ当なことが言われているようにも思う。もちろん「居心地が良い環境を作れ! ってどんだけ甘やかすのか!!」みたいな反批判も予想されるのだが。

行政や制度が良くない。これは生活保護制度が問題視されたときも活発に言われてきたことだ。ただ、本書でそういう批判を改めて読んでみると、その種の批判から「どうしてそういうシステムが正しく運用されなくなってしまったのか」という視点が欠けているようにも思われた。

地方自治体の「水際作戦」にしても「自治体の予算が……」、「財政が……」とか、事情はわかる。でも、水際作戦で困窮する人を追い出している生身の人間の声はそこからは聞こえてこない。困窮する人の声は生々しく捕らえられているけれど、システムはシステムとして描かれるばかりな気がする。あるいは、自治体の職員が非情なシステムの一部として語られたり、とか。

でも、職員だって人間だし、家に帰ったらお父さんだったり、お母さんだったりするわけでしょう。そう、血も涙もある人間なハズなのに困っている人を追い返したりする。そこには、なにかがある気がするんだよ(『イェルサレムのアイヒマン』的な感じになっちゃうけども)。そこがわからないと、制度を良くしても、なんか上手くいかないんじゃないか、と思うのだった。

0 件のコメント :

コメントを投稿

Lilián Saba & Marcelo Chiodi / Sol y Luna

0 件のコメント
Sol Y Luna
Sol Y Luna
posted with amazlet at 14.11.12
Lilian Saba / Marcelo Chiodi

カルロス・アギーレ主宰のレーベル、シャグラダ・メドラの作品を聴いた。アルゼンチンの女性ピアニスト、リリアン・サバと、管楽器奏者、マルセロ・チオーディによるデュオ名義のアルバムである。チオーディは、フルートとケーナの素晴らしい奏者なのだが「ケーナってこんなすごい表現力ある楽器なのか」と驚いてしまった。ほら、東京のちょっと大きな駅の広場なんかに、マントをまとった南米系の方がカラオケの伴奏にあわせてケーナを吹いている様子がよく見られるではないですか。あの侘しい感じ、ダサい感じとはまるで別物である。

拙ブログで、アルゼンチンやペルーなどの音楽を語る際に「モダン・フォルクローレ」というテクニカル・タームを用いることがあるが、実際のところ、どういう音楽なのかよくわかっていないのが、実情である。フォルクローレと聞いたら「コンドルは飛んでいく」のイメージが強すぎて、カルロス・アギーレが「フォルクローレだ」と言われても、乖離が大きすぎて、よくわからなくなってしまうのだった。が、本作のブックレットにはザンバとかチャカレーラとか、ちゃんと楽曲の形式について書いてあったのだった。そうか、こんなにジャズっぽかったりしても、伝統的な形式にそった音楽なのだなあ、と思う。

(Allá lejos y hace tiempo)

本作の一番の聴きどころは、リリアーナ・エレーロのヴォーカルを加えた「Allá lejos y hace tiempo」。なんだこの渋みのある声は……。

0 件のコメント :

コメントを投稿

Television / Adventure

0 件のコメント
アドヴェンチャー
アドヴェンチャー
posted with amazlet at 14.11.12
テレヴィジョン
ワーナーミュージック・ジャパン (2013-04-24)
売り上げランキング: 127,352
はじめてTelevisionの『Marquee Moon』を聴いたのが、手元にある2004年の雑誌『ストレンジ・デイズ』がきっかけだった気がするので、もう10年ぐらい愛聴しまくっていることになる。こないだもTelevision聴きまくりたいモードに定期的に入っていたのだが「はっ、俺、いつまでセカンドを聴かないでいるつもりなのか」という天啓があって、1978年に発表されたセカンド・アルバム『Adventure』を買ったのだった。セカンドまで10年かかった……って単にリスナーだからなんの苦労もないのだが、まずこの10年をとどまらせた各種批評に文句を言いたい。「Televisionのセカンドは駄作」などと言ってきた人たちは、今からでも遅くないので謝罪と訂正記事をだすべきなんじゃないか。最高じゃねえか。最初に、これを駄作って言いはじめたヤツは誰なんだ。なお、わたしが買ったCDの帯には「美と狂気が背中合わせ。精神錯乱一歩手前のエクスタシー。音で完成を犯す'80年代のロックン・ロール・バンド!」と日本盤発売当時の文句が並んでいるが、このコピーを考えた人もあわせて処刑された方が良い。

それにしても『Marquee Moon』から『Adventure』でなにがそんなに落胆するポイントだったのだろうか。たしかにキワッキワの触れた瞬間に刺さります、みたいなおかしなテンションは『Adventure』にはない。件の『ストレンジ・デイズ』に掲載された大鷹俊一による記事を開くと『Marquee Moon』に収録された楽曲の多くが74年のステージ・デビューから3年間さんざん演奏しまくってきた曲だ。デビュー盤でありながら、もう成熟した瞬間がそこでは切り取られていたと言って良い。『Adventure』にも長くライヴで演奏されていた楽曲も含まれているのだが、アルバムを録音するアティテュードがまるで違う。スタートから最高スピード、じゃなく、今度は別なやり方で試してみよう、という感じである。その別なやり方は、ちゃんと成功していて名曲しか入ってない。なのに酷評され、ほかにもいろんなトラブルがあって、そのままバンドは解散してしまうのである。なんともタイミングが悪いというか、悲しい出来事だ。繰り返すけど「『Adventure』は……」と言葉を濁していた人たちは、ちゃんと過去を清算すべきなんじゃないか!

0 件のコメント :

コメントを投稿

Guinga / Roendopinho

0 件のコメント
Roendopinho
Roendopinho
posted with amazlet at 14.11.11
Guinga ギンガ

売り上げランキング: 27,352
昨日に引き続き、ギター音楽の新譜となるが今度はブラジルのミュージシャン、ギンガのギター・ソロ・アルバムを聴く。ミュージシャン兼歯科医、という異才(まあ、音楽会を振り返ればロシア五人組みたいに副業を持ちながら音楽史に名を刻んでいる人もいるわけだから珍しいわけでもないか。日本にも美狂乱のギターの人とかいるし)の47年に渡るキャリアで、これが初めてのギター・ソロ・アルバムなのだそう。ギンガの筆による楽曲もそれなりに聴いているハズだが、彼のアルバムを聴くのはこれが初めてである。

ネット上では日本語でまともにプロフィールも読めないので、英語版のWikipediaや本作のジャケットに印字された情報をざっくり訳しておく。1950年にリオ・デ・ジャネイロ郊外のMadureiraという町で生まれ、16歳から自作の作曲をはじめる(Wikipediaには14歳からとある)。歯科医として働く一方、ベッチ・カルヴァーリョやエリス・レジーナ、セルジオ・メンデス、シコ・ブアルキといった著名ミュージシャンとの共演を重ねる。1991年にイヴァン・リンスらの協力のもとファースト・アルバムをリリースした。今日ではジョビンやヴィラ=ロボスの伝統を継ぐ「現代で最も素晴らしく重要な作曲家」として評価されている……という。あのパスコアールも「あの野郎は100年に一人の逸材だ」と褒めやしているんだって。

ファーストが41歳というのだから、これは遅咲きなミュージシャンと言えるだろう。とはいえ、別に評価されてなかったわけではないのだから、歯科医やりながら、じっくり自分の音楽を醸成させていったという人なのだと思う。70年代から著名なサンビスタとの共演歴があるんだから、本気出せばすぐに天下取れたんじゃないか、とも思う。クラシック・ギターを本格的に学び始めたのも26歳からだから、のんびりした性格の人なのか、自分も「本気出せばいつでも天下取れる」と思っていたのか。

(ギンガが師事したJodacil Damascenoの動画はYoutubeでも観れる。当然ながら現在はおじいさんだ)

本作『Roendopinho』の話に戻ると、アルバム・タイトルは「roendo(噛む)」「pinho(松の木)」というふたつのポルトガル語の合成語からきている。これには、彼のじっくり、長いあいだやってきたキャリアを表す造語表現なんだとか。内容は、ホントにごくシンプルなもので、ギター以外はギンガ自身のスキャットか口笛しか聴こえてこない。これがまた素晴らしいんだな。もともとギター音楽って、音色や音量のせいか、親密な空気感がある。ちょうどシューベルトの音楽のように。彼が歌っていなくても、その内的な歌を聴き取ってしまいそうな、そんな具合である。

0 件のコメント :

コメントを投稿

Quique Sinesi / 7 Sueños / Familia

0 件のコメント
7 sueños / Familia
7 sueños / Familia
posted with amazlet at 14.11.10
Quique Sinesi
bar buenos aires / インパートメント (2014-09-21)
売り上げランキング: 79,850
アルゼンチンのギタリスト、キケ・シネシの新譜を聴く。充実の2枚組で1枚目は「7 Sueños(7つの夢)」は2010年の日本ツアーの際にまわった7つの都市(姫路、名古屋、山形、東京、岡山、福岡、京都)の印象をもとにして書かれた組曲。2枚目の「Famillia(家族)」は、表題どおりの組曲で、昨年母親を亡くした彼のプライヴェートな心情を綴ったものだ。ソプラノ・サックスやチェロ、パーカッションが時折加わり、どちらのディスクでもリリカルな音楽が提示されている。

1枚目が23分、2枚目が39分、と1枚のディスクに収まる長さではあるのだが、ディスクを分けたことによって、優れた短編小説集と随筆集とで本を明確にわけているような印象を受けた。もっともこういう体裁の整え方も、iPodで聴いてしまえば、関係なくなってしまうのだけれども、CDプレイヤーで聴く、という聴取のスタイルを意識した作品の作り方である、ということがわかる。

ジャズ、クラシック、フォルクローレ、さまざまな要素を内包したキケ・シネシの音楽を一言で言い表すならば「クロスオーヴァーもの」という乱暴な言葉を思わず使いたくなるけれど、それは素晴らしいテクニックを雄弁に見せつける類のものではなく(もちろん、テクニックはものすごいんだけれど)、リスナーの心を内側から熱くさせる、そういう音楽である。

アルゼンチンといえば、タンゴのイメージしかない人もいるだろう。キケ・シネシもまたタンゴのバンドを組んでいるし、キャリアを振り返っても切り離せないジャンルである。でも、アルゼンチンの音楽はそれだけではない。ブラジルがボサノヴァやサンバだけじゃないように。近年、カルロス・アギーレのようなミュージシャンにワールド・ミュージックの好事家の耳が集まっているけれど、キケ・シネシの本作もまた「タンゴ、それ以外」の音楽を切り開く作品だと思う。

このジャンル名に分類できない「良さ」は、クロスオーヴァーな「良さ」もまた、真に「ワールド・ミュージック」的である、とも思った。

0 件のコメント :

コメントを投稿

神崎繁・熊野純彦・鈴木泉(編) 『西洋哲学史2: 「知」の変貌・「信」の階梯』

0 件のコメント
1巻に引き続き、2巻を読む。以下、目次を転載。
序論 再開の哲学
1 ヘレニズム哲学
2 教父哲学
3 中世の言語哲学
4 イスラーム哲学:ラテン・キリスト教世界との交錯
5 盛期スコラとトマス
6 中世における理性と信仰
7 志向性概念の歴史
8 様相概念
転載してみたものの知らない人にはなにが書かれているのかさっぱりわからないであろう。位置付け的には「中世哲学」の巻である。「ヘレニズム哲学」は、ギリシア哲学の教科書的に役立つ地図のように読めるし、「教父哲学」はギリシアと中世を繋ぐもののように読める。3の「中世の言語哲学」からいよいよ中世哲学について語られることになるのだが、下準備はバッチリできてますよ、という感じである。1巻よりもどっしりと、多角的・多重的に中世哲学が語られていて大変勉強になった。

とかく中世哲学はとっつきにくいイメージがあり(暗黒の中世、というクリシェがあるけれど、中世哲学は魔境、と思っていた)わたし自身「唯名論と実在論の対立が……」とか言われても「???」となってしまい、「唯名論」という字面からも「えーっと、なにが『唯』、『名』だけがある論なんだっけ?」と思い、それが普遍のことだと言われても、普遍がなにかわからない……といった体たらくであったのだが、これ読んだら、これまで整理できなかったのが一挙にクリアになった気がする。本書では「様相概念」を担当している山内志朗の『普遍論争』を途中で投げ出した僕でも「普遍論争」がどういうものだったのかわかった気になった! と怪しげな通信教材的なテンションで本書の勉強になり加減をアピールしておきたい。

個人的なハイライトとなった章となったのは「中世の言語哲学」、「イスラーム哲学:ラテン・キリスト教世界との交錯」、「中世における理性と信仰」。いずれもコアな議論だけでなく、テキストが書かれたり、読まれたりした背景まで教えてくれる。「中世における理性と信仰」にいたっては、哲学の背景が全面的な主題となる。ヘールズのアレクサンデル、アルベルトゥス・マグヌス、ボナヴェントゥラ、トマス・アクィナス。この中世を代表する思想家が、どういう事情でパリ大学で活動していたのか……云々といったお話は、思想だけをこねくり回しているテクストよりも、ずっと思想をわかるものとして、こちら側に近づけてくれる気がする。

0 件のコメント :

コメントを投稿

André Mehmari / Ernesto Nazareth Ouro Sobre Azul

0 件のコメント
Ernesto Nazareth Ouro Sobre Azul
Ernesto Nazareth Ouro Sobre Azul
posted with amazlet at 14.11.09
Andre Mehmari アンドレメーマリ

売り上げランキング: 278,541
アンドレ・メマーリ(スペル的には『メーマリ』だと思うのだが、どっちかが正しいかはわからない)は、現代ブラジルを代表するピアニストであり、プロデューサーとのことである。この固有名を意識するようになったのはごく最近だが、今年だけでもプロデュース作や演奏での関連作を2枚も買ってたし、他にも何枚か参加作品を持っていた。意識しないでも関連作が集まるんだから、売れっ子なのだろう。

本作は「ブラジルのスコット・ジョプリン」と評される作曲家、エルネスト・ナザレーのピアノ・ソロ楽曲集(2曲はピアノ・トリオでの演奏)。基本的にはトラディショナルなショーロ作品なのだが、ベートーヴェンやショパン、そしてストラヴィンスキー(しかも《春の祭典》!)といったクラシックの楽曲を引用し、魔法のようにエルネスト・ナザレーに繋いでみせるという驚異の解釈が楽しい。

これは美術史家のディディ=ユベルマンが言うような一種のアナクロニズム、あるいはヴァールブルク的な編集的解釈法のようにも思われ、ショーロという音楽を単なる「ブラジルの」、「サロン・ミュージック」という地平から引き出し、西洋クラシック音楽の歴史の潮流として、あるいは、ピアノ音楽のひとつの進化系として提示するようである。すごい。

0 件のコメント :

コメントを投稿

冨永愛 『Ai 愛なんて 大っ嫌い』

0 件のコメント
Ai 愛なんて 大っ嫌い
Ai 愛なんて 大っ嫌い
posted with amazlet at 14.11.07
冨永愛
ディスカヴァー・トゥエンティワン
売り上げランキング: 3,524
冨永愛の自伝を読む。なんでも長渕剛がプロデュースしている、ということなのだが、どう関わっているのかはよくわからない。ネットニュースなんかには熱い師弟関係を結んでいる、とあるのだが、かつては日本を代表する(元)トップ・モデルが、なんというかごく限られた範囲で強烈なカリスマを発しているミュージシャンからどういう教えを授かっているのかのほうが、不良少女からトップ・モデルへ……みたいなサクセス・ストーリーのよりも面白かったんではないか、と思う。

全員父親が違う3姉妹の次女、貧しい母子家庭で育ち、コンプレックスだった高身長を生かしてモデルとして成功する。そして、結婚、出産、離婚。気がつくと自分も折り合いの悪かった母親と同じように、子供に不幸な思いをさせている、という気づきから、彼女の物語は「家庭」を手にいれるモードへと移り変わる。闘争的な生き方からの再生、というか、そのプロセスでは立て続けに、母親や、記憶から抹消されていた父親との和解があったりする。「愛なんて 大っ嫌い」と言いながら、後半はほとんど「愛をとりもどせ!!」と言っても良いだろう(YouはShock!)。

ただ「そういう物語って、よくありますよね、」という感じであって、特段の新鮮味も驚きもない。17歳で渡米し、ファッション業界の最前線に飛び込んでからの、偏見やギョーカイ人への嫌悪といったところは、かなりあけすけに書かれていて、まあまあ面白くはある。ブランドの実名が出てきたりして。ただ、そこでも暴露本的な展開はないから、読み物としては中途半端な印象だ。どうして自分が成功できたのか、についても触れられることなく、そこでおこなった努力を振り返るわけでもない。多くの読者は「なんでこの人はトップ・モデルになれたの?」と疑問に思うんじゃないか。

言葉もできず、態度もでかいアジアの女子高生がどうして評価されたのか。本書では詳細に語られていないこの点を考えたくもなる。ファッション業界に憧れていたわけでもない(彼女は、カール・ラガーフェルドの名前も知らなかった、と告白している)のに、モデル活動ができた理由には、コンプレックスからくる権力への意志があるだろう。でも、それだけでは、成功にはつながらなかったはずだ。

よっぽどの天性が彼女にはあったのか。もちろん、それもあるのだろう。高校の制服を着た彼女の写真が『VOGUE』に掲載されたことが、世界デビューのきっかけとなったという有名なエピソードは、本書でも触れられている。冨永の成功には「女子高生」という便利な言葉で言うと「クール・ジャパン」的に受容されたものが大きかったのでは、と個人的には思った。それは「アジアから来たミステリアスなクール・ビューティー」という典型的なエキゾティックな感覚へと落とし込まれていったように思うのだが。

0 件のコメント :

コメントを投稿