スチャダラパー / 1212

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1212 【通常盤】
1212 【通常盤】
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スチャダラパー
SPACE SHOWER MUSIC (2015-01-28)
売り上げランキング: 829
スチャダラパーの新譜を聴く。これが12枚目のアルバムだとか。とくに熱心なリスナーではなく、9枚目の『THE 9th SENSE』と電気グルーヴとのコラボ盤、あと「惚れたぜHarajuku」ぐらいしか持っていないんだけれども、聴けば毎回楽しく聴いている。今度も楽しく。小市民的と言いますか、平民的な怒りみたいなものが散らばっているのだね。「オリンピック誘致強引じゃない?」とか「山手線と東横線の乗り換え、不便になったよね」とかね。それらは、あまねく東京的ではある。なんか東京の遊び人が作っている音楽だな、と思った。初回限定版には2013年の日比谷野外音楽堂でのライヴ映像を収録したDVDがついてくる。これもプロフェッショナルなのだが適度にユルくて良かった。日本のヒップ・ホップ / ラップ界でもっとも商業的に成功しているグループのひとつが、スチャダラパー、って「日本で黒っぽい音楽をやると面白い感じになってしまう」説を如実に表しているように思う。

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Napalm Death / Apex Predator-Easy Meat

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Apex Predator-Easy Meat
Apex Predator-Easy Meat
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Napalm Death
Imports (2015-02-03)
売り上げランキング: 38,469
Napalm Deathの新譜を聴く。なんだか『Meat is Murder』的なタイトルである。実はアルバムをちゃんと買って聴くのはこれが初めてなんだけれど、アレっすね、グラインドコアだけれども、速くてデス声で「ブボワーッ」と叫んでドカドカいってるだけじゃなくて、実にNapalm Deathって深イイなあ、と思いました。

1曲目、いきなりチベットの山岳地帯にある寺院で毎朝聴ける声明みたいな、重くて地獄の底から聴こえてくるようなヴォーカルから始まって、うおお、と大変度肝を抜かれるんだけれども、それが速い曲じゃなくて、めちゃくちゃ重いんですよ。なんかEinstürzende Neubautenみたいなの。がっつりメタル・パーカッションとか工業機械を使っているわけじゃないんですけどね。でも、音の波形とか見ていったら、ほとんど同じなんじゃないか。

1曲目以降は、ザ・グラインドコアな楽曲が続きます。改めて聴いているとこれはやっぱりパンクの変種なんだなあ、と思った。めちゃくちゃスラッシーだし、ブラスト・ビートだし、表面的な部分は全然違うけど、メタルよりもメロコアのほうが距離的に近いし、親戚感があるなあ、と。

昨年の9月にロンドンのホテルで、BBCの「ブリティッシュ・ヘヴィ・メタルの歴史」みたいな番組をたまたま見ていたんだけれども、番組の締めの部分で「メタルはパンクにも影響を与えている。Motörheadは音楽的にはパンクに近い」とか言われてて「なるほどなあ」とか思ってたんだけど、今回、Napalm Death聴いてて、Motörhead → パンク → Napalm Deathみたいな系譜が頭のなかで描かれてしまった。

それにしても、こういうほとんどホワイトノイズに近くて、かつ、ビートのある音楽を聴きながら通勤していると、ほとんど外の音なんか聞こえなくなっちゃって、すごく通勤中に読んでいる本に集中できますね。また、音楽が止んだときに、異常に周囲がしん、として感じられたりして。

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ヴァルター・ベンヤミン 『ドイツ悲劇の根源』

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ドイツ悲劇の根源 (叢書・ウニベルシタス)
ヴァルター・ベンヤミン
法政大学出版局
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ヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』は彼の主著のひとつと聞いていたので、ずっと探していたのだけれど、このほど手頃な値段で見つけることができた。こちらは彼が教授資格申請論文として提出したがまったく理解されなかった論文を本にしたもの。これが受け入れられなかったばかりにベンヤミンは、不安定な売文業的な仕事を続けざるを得なくなった、というのだから、彼の人生を決定づける一冊だったと言っても良い。

のちにハンナ・アレントは「当時、この論文を審査した人がまったく内容を理解できなかったのは、嘘じゃないだろ」と評しているのだけれど、まあ、それも納得の内容と言える。わたしも甘かったね、考えが。元は論文なんだから理路整然と理屈を積み上げていく論述スタイルをとっているのかもしれない、とか思って楽しみにしてたら、いつものベンヤミン節というか、ベンヤミンってゆりかごから墓場までベンヤミンであるな、と思った。読んだけれど、全然内容が頭に入ってこなくて、読んだうちにカウントしていいのかどうかも定かではない。

本人も冒頭でモザイク画のような論述を取るんだ、こういうスタイルをとるしかないんや! と宣言している。17世紀のドイツ悲劇に対して「これは『◯◯文学』だ」というカテゴリーに落とし込んで論じるのは、いくない、と言うのね。カテゴリーから零れ落ちちゃうものがあるでしょうよ、と。で、アレゴリーに対するあれこれを、すごく詳細に分析して、その詳細な分析を並べていく。

積み上げていって、最後に結論に到達する感じではない。詳細な分析は気が付いたら全然違う話になっていて、ホントに注意して読まないとなにもわからないまま終えることになるだろう。わたしがそうだったように。なんかぶっちゃけ、支離滅裂な感じに読めませんか。こんなことを言うと「お前が馬鹿だから読めてないだけだ」と言われるに決まっているけれども、わかりやすく一本の線でつながってく論理の流れじゃないじゃん。なんか多数の石ころで無理やり線を描いてる、みたいなさ。いろいろ乱反射しながら緩やかに前に進んで行く感じ。

そういう論述スタイル自体が哲学や批評の対象になっている部分はあると思う。正直、17世紀のドイツ悲劇って日本でどれだけ読まれているのか、と考えると、そういう意味ではほとんどこの本の「内容」ってどれだけ問題にされ得るんだろうか。パノフスキーやヴァールブルクに言及した部分や、デューラーの『メランコリア』に関する記述は、そこそこ人気があるテーマだとは思うけれど、それ以外、どうなんでしょうか。わかんないですけども。

とはいえ、これを読んでいて「あ、パノフスキーってベンヤミンと同じ年に生まれてるんだな」とか調べて気づくことはあったし(それがなにか? という話ではあるが)、読んでて「え、こんな人物にも言及してんの?」っていう名前が出てくるんだよね。たとえば、ユリウス・カエサル・スカリゲルだとか、パラケルススだとか、ネッテスハイムのアグリッパとか。どういう言及のされ方をしていたかはまったく覚えていないのが問題なのだけれども。そして、全体が理解できなくともベンヤミンの「部分」から「ほう!」みたいなひらめきの瞬間は時折あるんだよね。それを覚えていないだけで。

テオドール・アドルノは「ベンヤミンの特徴を描く」という論考で「判じ絵が彼の哲学のモデルとなる」と書いている。これはなかなか言い得て妙であると思ったよ。この表現が、ベンヤミンの哲学が判じ絵なのか、それともベンヤミンが判じ絵を読むようにして思考していたのかもわからないが、前者だとしたら、全体としてなにかまとまりは感じさせるが、なにをいっているかはよくわからない、部分のなかに、感心してしまうようなポイントが隠されているベンヤミンの特徴を表していると思うんだ。

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菊地成孔 『ユングのサウンドトラック: 菊地成孔の映画と映画音楽の本』

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ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本
菊地成孔
イースト・プレス
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(まずしょーもないことを言いますけれど、イースト・プレスから出てる菊地成孔の本って、誤植多くないですか。ホントに編集者、マジに仕事してるのか、みたいな意味不明な言葉が記されているところが高確率で見つかって、その度にテンションが下がる。まあ、本筋とはまったく関係ないのだけれど、誤植ってプロダクトの印象に対してそれなりに大きな影響を及ぼすと思うんですよね。たとえば、あるアイドルの12曲入りのアルバムで1曲だけマスタリングのレヴェルが全然あってない、というのは「意味は伝わってるけど」「なんらかの欠落(というか非統一)がある」という面で、誤植が伝える印象と通じている気がする。いや、本当にどうでも良いんだけれど)菊地成孔が映画について書いた文章を集めた本を読む。副題にある通り、筆者が接した「映画と映画音楽」に関する本だ。いくつかは雑誌掲載時に読んだことがあったし、後半の筆者がインターネット上に公開していた日記からの引用はすでに読んでいた。わたしは全然、全然映画には詳しくないので、結構流して読んでいる部分もあるのだが、映像と音楽との関係性、その部分については、なにかと感心する記述があった。たとえば『エクソシスト』。この映画ではマイク・オールドフィールドの超絶有名な『Tubular Bells』が使われているけれど、菊地はこの音楽を「とても覚えにくい音楽」と称していた。いや、エクソシストの音楽ですよ、みんな知っているでしょう、と思う。でも、覚えているのは大抵冒頭の2小節ぐらいだ、と菊地は書いている。わたしはこれを読んで、やっぱり「そんなに覚えにくかったっけ」と思って、CD棚から『Tubular Bells』を引っ張り出して聴いたみたんですよ、そしたらびっくり。わたしの記憶のなかで鳴っていた『Tubular Bells』は、録音された本物のそれとまったく調が違っていたのだった。これ自体は他愛もない指摘と「偶然の一致」だったかもしれないけれど、映画の記憶、そして映画と夢の関係、さらに映画と夢と音楽の関係に関して、なんらかの気づきを与える本ではある。たしかに、映画と音楽の関係って、思っているよりも結びつきが弱いと思うんですよね。たとえば、あるシーンでベートーヴェンの有名な曲が流れる、といったときに、ベートーヴェンの音楽、ということはわかっても、それがどんな演奏だったか、みたいなところは全然頭に残っていなかったりするでしょう。その時点で、場面と音楽そのものはちゃんと結びついていないのだ。

いや、しかし、これには笑ったね……。

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30歳、自分史上最高ボディを目指して走ってます日記

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ここ数年、女房殿と一緒に住むようになって食事を定期的にちゃんと取るようになったり、マンションを買ったら歩く距離が減ったり、あとすげーお酒を飲みまくっていたり、と生活がいろいろ変化していった影響があるのか、体重が増えてきた。

筋肉定点観測

はい、ここでわたしの一番痩せていたときの写真をごらんください。2007年(22歳)。たぶん、体重は55kgぐらいで(身長は175cm)、体脂肪率が計測できなくなるぐらいだったと思う。ここから10kgぐらい増量していた。MAXが12月に上海に出張した際に、暴飲暴食して帰って来たら65kgを超えていた。元から筋力がないせいか、腹とかポニョポニョで。顔もなんか丸々としてきていて。会う人会う人に「なんか大きくなってない?」と言われて「ガハハ、いやあ、お酒すかねえ、ガハハ」と対応していたのだが、内心傷つきまくっていたので、昨年末ぐらいから、休業状態だったランニングを再開したのだった。


昔書いた記事にこういうのがある。この記事はよく読まれた。2008年の記事だ。このとき買ったシューズは休業期間も含めてだけれど7年近く経っていたことになる。「随分長く履いてるなこの靴も……」と思って、ソールを見たらかなりソールが減っていた。モチベーションを高めるだとかいろいろ自分なりの理由をつけて、今回シューズも買い直しました。


初めてちゃんとショップで店員さんと相談した時に買ったのがasicsのシューズだったので、今回も同じメーカーのにした。前回はNEW YORKというモデルを履いていたのだが、GELFEATHERはNEWYORKよりも想定ペースが速いランナー向けのモデル。だいたい1kmを5分台前半で走る人向け。昨年末から100kmほど走っているが、これを履き始めたのが先週から。これで25kmぐらい走ったけれど、NEW YORK(これは1kmを6分台で走る人を想定している)がガチガチに足をサポートしてくれる感じがあるのに対して、GELFEATERはもっと軽くて、自然に走れる感じがある。NEW YORKは、がっちり守ってくれるのだが、踵の反発が強すぎてボヨンボヨンする感じがあった。GELFEATERのほうがしっくり来る。

でも、asicsってそんなに安くなんないっすよね。近所のスポーツ用品店にいったら、addidasのシューズは50%引きとかになっているのに、GELFEATHERは10%引きにしかなってなかった。ただ単にaddidasの買い時って感じなのだろうか。

だいたい、これで土日に10kmずつ、平日は走れる日に軽く4km、という感じで走っています。早起きして余裕があると会社行く前に走れるので、先週は33kmぐらい走った。これで30歳、自分史上最高ボディを目指していきたいと思う。


なお、iPhone 6 Plus用のアームバンドはこれが安くてバッチリな感じです。

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韓非 『韓非子』(4)

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韓非子〈第4冊〉 (岩波文庫)
韓 非 金谷 治
岩波書店
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『韓非子』の最後の巻までたどり着く。3巻は説話集という感じだったが、この巻はまた内容が濃くなる。孔子disったりして。でも1、2巻で言ってることと内容は基本的にかぶっているので、新しく「ほう!」となるポイントは少ない。エッセンスは1、2巻で充分に語られているのだと思う。ともあれ、繰り返し語られることで見えてくるものもある。韓非が目指す理想社会の姿ってとにかく「治世者による法の正しい運用が行われる安定した社会」なのね。言ってしまえば、聖人だとか特別な政治家みたいな人が不要な社会を理想として語っている。これはなかなか反学問的な学と言えるのかも、と思った。

例えば経済学は「市場の異常な状態に対する分析の学」であって、市場がうまくいきまくっているのであればとくに言うことがない。あるいは物理学で言えばニュートン力学で大抵のことは解決できてアインシュタインの理論を持ち出すシーンはごく限られている。韓非の理想社会とは、経済学がいらない社会、アインシュタインがいらない社会みたいな感じだ。正しい法の運用によって、社会は安定する、すると、知者がありがたいようなことを言う必要は無くなる。そういう社会に向かうためには、法を正しく運用すれば良い。悪いことをした人には罰を与え、良いことをした人を評価する。すると安定するはずであろう、と。韓非は繰り返しこういうことを言っている。

韓非が考える人間のモデルって性悪説的であるのだが(彼は、人間なんか信じるな、とハッキリ言う)それは実に、合理的な捉え方がされていると思う。韓非はあまり人間の不合理な側面を考えてはいない。お金が目の前に落ちていて、誰も見ていなかったら盗むし、あるいは、盗まずに届け出たほうが自分の得になることがわかっていれば、届け出るであろう、という風に考える。損になることがわかっているのに、損になる行為をする人間なんかいないでしょ、という感じである。

こういうのは韓非の明快さ、面白さなのだけれども、やっぱり今読むと単純すぎるな、と思わなくもない。モチベーションを引き出すための施策を語るにしても、韓非は、褒賞を大きくすればするほどモチベーションが上がる、と言う風に考える。でも、現代の我々はそうじゃない。いくらお金がもらえるとしてもモチベーションが上がらない仕事があることを知っているし、やりがいというお金に還元できないものをモチベーションにしている人がいることを知っている。端的に言って古びちゃってる部分があるんだよ。それは韓非がいかにクラシックであるかを物語っているのだけれども。

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Belle & Sebastian / Girls In Peacetime Want To Dance

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Girls In Peacetime Want To Dance
Girls In Peacetime Want To Dance
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Belle And Sebastian
Hostess Entertainment (2015-01-20)
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Belle & Sebastianの新譜を聴く。私の学生時代を彩ったアルバムのひとつに彼らの『The Boy with Arab Strap』がある。これはとてもよく聴いた。が、ちゃんと新譜を追いかけているわけでもなくオンタイムでアルバムを聴くのは『Dear Catastrophe Waitress』(2003)以来であった。うわ、めちゃくちゃ時間経過してるな……。いつだったか来日公演も行ったけど、最近バンドがどうなっているかは全然知らなかったので、まあ、かなり久しぶりである。驚きましたね。なんかめちゃくちゃ骨太なバンドになってるじゃないか、と。ザ・ネオアコ的な感じはトレヴァー・ホーンによるプロデュースによる『Dear Catastrophe Waitress』でもかなり薄くなってたけれども、弱っちい感じが全然ない。それでいて、メロディ・ラインはいつものベルセバ、って感じで。ディスコっぽい楽曲もあって、音的にも多彩だし、なにこれ、いつの間になんかスゴいバンドになってないですか、と思った。ヘタクソさをメンバーの数でなんとかしてます、的なアットホームなところがあったと思うんですが、そういうのもない。それなりに長く音楽を聴いていると、こうしてバンドの成熟していく様子に出くわすことがあるのだな、と思った。良いアルバムです。

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村上春樹を英語で読み直す 『スプートニクの恋人(Sputnik Sweetheart)』

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Sputnik Sweetheart
Sputnik Sweetheart
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Haruki Murakami
Vintage
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昨年の11月にアダム高橋さんが運転する車に乗って、仙台から山形まで男ふたりのドライヴをしたことがある(これは先日ご紹介した電子書籍のなかでも触れられているお話)。車中はずっと中世哲学や日本美術の話をしていた。かなり浮世離れした話である。しかも乗っている車はドイツの大変有名な高級車だ。革張りのふかふかしたシートに体を収めて、高速道路を走り「アヴェロエスの知性単一説って……」だとか「オッカムの言語論って」だとか話しているうちに、わたしは現実離れした感覚を覚えて「なんかこれって村上春樹の小説みたいですね」と言った。

「そういえば、こないだ『スプートニクの恋人』を読み直したんですよ。あれはなかなか素晴らしいですね。比喩表現の技巧の凝らし方が超絶技巧というか。村上春樹自身、すごく凝りまくって書いたらしいんですが」

とアダムさんは答えた。その作品はたぶん10年ぐらい前に読んだきりだった。村上春樹の作品のなかでは、好きでも嫌いでもない小説という印象しか残っておらず、わたしはほとんど内容を覚えていなかった。それで車中の話題はその後しばらく、小説のあらすじを思い出すための問答になった。「レズビアンの小説ですよね。なんか、女の子が消えちゃう話で。えーっと、最後はあの女の子は戻ってくるんでしたっけ?」、「途中でギリシャにいきますよね」、「主人公が自分の教え子の母親と不倫してるんですよね(なぜかこれだけよく覚えていた)」。昔読んだ小説について、ふたりで話しながらそういう風に話すのは、まるで思い出話に花を咲かせているようで楽しかった。

で、これをきっかけに今年の正月休みのときから『スプートニクの恋人』を読み直していたのだった。日本語で読み直すのもつまんないな、と思って『ダンス・ダンス・ダンス』に引き続き、英訳を。

英訳された日本文学を読むことで得られる視線

以前に『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだときも感じたことだけれど、村上春樹の英訳って全然違和感なく読めるし、(一度日本語で読んでいることもあるけど)めちゃくちゃ読みやすいし、普段学術書じゃでてこないような表現も勉強できるので教材としてなかなか良い。今回は読んでいて、小説に描かれている日本の日常的風景・習慣を、英語圏の読者はどのように理解するんだろうか、と気になる部分がいくつかあった。

たとえば、主人公が冷蔵庫から麦茶を取り出して、飲む、とか。夏の、一人暮らしをしている主人公の部屋でのシーンだ。日本人なら冷蔵庫に麦茶が常備されてても全然不思議に思わない。でも、英語圏の読者にとってはどうなんだろう、とわたしは疑問に思った。barley tea(麦茶)がいきなり冷蔵庫からでてきて「なんで?」とならないのかな、と。もし翻訳者が佐藤良明的な人だったら、ここで訳注をつけて「日本の一般家庭では夏になると麦茶を冷蔵庫に常備するのは広く一般的なこと」とか書いていてもおかしくないんじゃないか、とさえ思った。でも、まあ、普通に冷たいお茶ぐらい冷蔵庫に入っててもおかしくないか。それが日本では麦茶である、というだけで。

そもそもわたしは最初「barley」という単語がわからなくて調べて「ああ、麦茶ね」と思ったところから、こういう疑問が湧いたんだけれど、英訳された日本文学に触れることは、そういうちょっとしたつまづきから「日本がどういう風に読まれるのか?」という海外からの視線について意識が及ぶ機会を持つきっかけになるかもしれない、と思う。

すごく異質な作品なんじゃないの、主人公の立ち位置とか

この作品の日本における人気を知らないんだけど、たしか日本以外でもかなり人気が高いとか聞いた覚えがある。10年ぶりぐらいで読み直してみると、これは海外受けしそうな感じであるなぁ、という感想が湧いた。英語ネイティヴじゃないから、わたしが文章から受け取るイメージが、英語ネイティヴが受け取るそれと重なるかどうかは不確かではある。が、海外の人が村上春樹を語る際の「幻想文学」というキーワードがよく理解できる英文になっている(ような気がする)。フォーカスがあたっているところ以外は画面全体がぼや〜っとしていて、ちょうどトイカメラで撮影した写真みたいな、そういう印象を受ける。

改めて読んだら、この小説の主人公って村上春樹の小説の主人公のなかでも屈指の受け身男、とも思った。流されてるわけじゃないのだが、全然自分では動かない。すみれに会いたくても、自分では動かない(彼女からの電話を待つだけ。なにしろ、すみれの家には電話がない)。ギリシャにいくのも呼ばれたからだし、なぜか知らないがある種の女性は黙っていても寄ってくる。教員になったのもたまたま親戚に教育委員会の人がいたからだ。なにかを目指しているわけでもない。ギリシャに行くけど、なにかを解決して帰ってきたわけでもない。それでも、淡々と呼ばれたところで冷静なアドバイスをしたりして、役に立ったりはする。

最後も寂しいな〜、すみれに会いたいな〜、と待っているあいだに電話がかかってくる。村上春樹の小説の主人公って、大抵受け身ですけど、なにかはやるじゃないですか。なんかよくわからないけど、メタファーを羽織った重要な鍵というか秘密のスイッチみたいなのがあって(骨とか井戸とか羊男とか)、よくわからないけど主人公は最後に鍵を見つけたり、スイッチ押したりする。この小説の主人公は、それすらしてない。これ、めちゃくちゃ異質な感じがしたんだよね。

万引きして捕まった教え子に、あれこれ話をするけど、これは「やった」うちに入るのか。「向こう側の世界」に通ずる穴に向かって語っているように思える(でもその梨の礫感はしんみりして良いんだけれど)。

作中でも主人公が「これは僕の物語じゃなく、すみれの物語だ」と言っている。その言葉通り、主人公は主人公じゃなく徹底した傍観者なんだな。ほとんど一人称で語られながらも、かなり三人称に近い物語だと思う。主人公は動かないのに、視点だけふわふわしている。その辺の語り方も、この作品の持つトイカメラみたいな世界観に一役買っているのかも。あと物語の動かし方はすごく上手いな〜、と思いました。すみれと登場人物の関係が変わるたびに、どんどん物語も動いていく。ソフトで静かなんだけど、よく動く。だから、全然飽きずに読めました。

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Negicco / Rice & Snow

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Rice&Snow
Rice&Snow
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Negicco
T-Palette Records (2015-01-20)
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新潟のローカル・アイドル、とはもはや言いがたい活躍を見せるNegiccoのセカンド・フルアルバムを聴く。全13曲。前作以降のシングルはほとんど(すべて?)チェックしていたため、うち5曲はすでに聴いているのだが、いやあ、新曲が素晴らし過ぎてグッときまくりだった。感動して震えまくる。田島貴男(オリジナル・ラブ)、西寺郷太(NONA REEVES)、矢野博康(元・Cymbals)、三浦康嗣(口ロロ)、スカート……といった参加ミュージシャンの豪華さは前作とまったく遜色ないけれど、前作よりもずっとまとまっていて、80年代・90年代のポップスを参照しながら、エヴァー・グリーンなアイドル・ソングをやっています、という強度は高まっている。とくにZapp & Rogerのみたいなトーク・ボックスの音には衝撃を受けてしまったし、三浦康嗣の作曲・作詞・編曲による「BLUE, GREEN, RED AND GONE」は、Negicco屈指の名曲ではないか、と思う。新潟一切関係ない歌詞だが。

(Zapp & Rogerを知らない方はこちらを。ヘルメットにセーラー服の変態くさいおっさんがカマしまくりです)

これだけ「聴ける」アイドル・ソングを作れるのってAuto-Tune以降の世界っぽい話気がするんですが(コンピューターによる音程調整がなければ、わたしはたぶん聴けないと思う)、改めて、こうして良い作曲陣を揃えて、良いプロダクトを作るのって、アイドルの王道を行っているなあ、と思います。握手券をつけるとかそういう商売じゃないし、編曲がクソみたいな感じでもない。ちゃんと音楽的な商品としてよくできているし、本当にすごい。3人組、というところでしか共通点はないように思われるPerfumeみたいなプロダクトの良さである。Perfumeがショウもスゴいぞ、グローバルだぞ、というのに対して、Negiccoはもっと実体のあるローカルな活動を展開していくんだろうけど、この差が開けば開くほど、Negiccoの王道感が輝くんじゃないか。

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韓非 『韓非子』(3)

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韓非子 (第3冊) (岩波文庫)
韓 非 金谷 治
岩波書店
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引き続き、『韓非子』を読む。ずっと説話集という感じ(有名な「矛盾」の語源となった説話はここに収録)なのだが、「難」という部分では通常「良い話」だと思われている説話に対して、批判をおこなう構成となっている。これがなかなか曲者で、ここで取り上げられる説話のなかには、これまででてきたものが含まれていて「え、この話、『良い話』じゃなかったんかい!」と思ったりした。

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ヒロ・ヒライ アダム・タカハシ 「危険な物質主義の系譜: アレクサンドロス、アヴェロエス、アルベルトゥス」

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ヒロ・ヒライさんとアダム・タカハシさんがWebラジオで語りまくった「新春放談」をもとに作られた電子書籍を拝読(わたしの名前もチラッと出てくる)。「新春放談」本家の大滝詠一と山下達郎の自由闊達な雰囲気を踏襲するかのようなとても面白い読み物だった。主なテーマは「アダム・タカハシとは誰なのか?」「なにをやっている人なのか?」というお話。

7年かけて書いた博論を提出間際のひとりの研究者が、いったいなにを考えていているのか、などは一般的な興味をそそるところではないと思うのだけれど、博論を書く人というのは、こんな最先端を行かなきゃいけないのか〜、と感心した。「平均的な博論生」みたいな基準を知ってるわけではないから、アダムさんがすごいのかどうかはわからないし、内輪の話になっちゃうけど「筆が遅い」とか「日本語で書くとセクシーなのに……」とか怒られているところばかり知っているから、実はすごくないのかもしれない。いや、でも「こんなに読まれてないものがある」とか「わかってない部分がこんなにある」とか、そういうフロンティアへの取り組みの話って、たとえ門外漢であっても、ワクワクするし、面白く読める話だと思った。

特に人文系学問の世界のフロンティアって、あまり話題にならないじゃないですか。理系なら、iPS細胞が、とか、宇宙誕生の謎が、とか、炭素繊維が、とか、そういうところにフロンティアがあって、それはニュースにもなるし、『Newton』なんか手に取ったら毎回面白い話が載っている。開拓領域が周知されているのだ。それに対して、人文系の学問、とくに哲学など「もう大抵わかってるんでしょ」、「みんなやることなくて重箱の隅をつつくような研究してんでしょ」とか、そんなイメージ持ってるんじゃないでしょうか、大抵の人が。でも、この「放談」を読むと「いや、全然フロンティアあるよ」って話になる。しかも、それをやってるのが日本人だっていう。それはロマンあるでしょう。社会に貢献する話じゃないかもしれませんけども。

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cero / Orphans 夜去

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Orphans / 夜去
Orphans / 夜去
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cero
カクバリズム (2014-12-17)
売り上げランキング: 942
ちょっと前から名前をチラホラ見ていたけれど、華麗にスルーし続けていたバンド、ceroのシングルを聴く。Youtubeで「Orphans」のPVを見て、一発でグッと気に入ってしまった。なんでしょう、これもここ数年音楽関係のコラムを読んでいると「シティポップス」というキーワードをよく目に入ってくるような気がしているけれど、そうだ、この音楽の柔らかさと「助手席に女の子を乗せて運転するときに聴いていても大丈夫な」感じはそういう言葉を彷彿とさせるし、ほんの少し不安定なヴォーカルの声は、堀込泰行みたいだし、ポストFishmansの大本命的というめんどくさい受容をされそうでもあり、Super Butter Dogとかも思い起こさせる。いや、良いんだ。こうして固有名詞を並べて、なにかを理解した気になることはとても愚劣なことだ。

「Orphans」Official Music Video

大変消費的に音楽とつきあっているせいか、音楽を聴いていてそんなに歌詞が頭に入ってくることってないんだけれども、これはなんと良い歌詞なんだろうな、と思った。青春ソングっぽい感じはあるんだけれど、べったりして汗臭い感じじゃ全然ない。ほんのりとした孤独、というか、切ない感じ。でも、それが救われない歌詞じゃなくて、ささやかな幸せというか、希望みたいなものが感じられて、なんだこの良い塩梅具合は。びっくりだった。で、この「Orphans」がもう1つのA面曲「夜去」へとリニアにつながっていく。そこでまた世界が変わる。ブラックな感じがドッと濃くなって、そして最後のオザケンのカヴァー「1つの魔法 (終わりのない愛しさを与え)」でまた、カラリとしたファンクを見せてくれる。たった15分のなかに、こんなスゴいバンドでてきてたのか、日本のポップス界エラいことになってるのか、っていう驚きがいくつもある。本人たちは全然「音楽シーン変えてやるゼ」みたいな気負いがなさそうなのがまた良い。

(追記)その後、「Orphans」の歌詞の解釈について、重要な点を示唆していただき、めちゃくちゃに震えています。

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池田玲子 『ヌードと愛国』

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ヌードと愛国 (講談社現代新書)
池川 玲子
講談社
売り上げランキング: 21,806
20世紀初頭から1970年代のあいだに現れたヌードという表彰に対して、与えられたナショナリズムを読み解く、という新書。サイズはコンパクト、軽妙な語り口だがなかなか読み応えがある内容であった(著者の池川玲子は若桑みどりの門下)。高村智恵子や、竹久夢二、石岡瑛子といった著名な作家の作品も扱われていて(通史的なものではないけれど)ヌードの意味の変遷をも感じ取ることができる。

明治維新以降、国家成熟の指標としての美術を積極的に取り入れるなかで、裸体のデッサンが重要視されていく。いわばサブカル・アートのひとつであった春画のなかでしかありえなかった裸体の描写が、ガチガチのハイ・アートに格上げされるその過程で起こった対立だとか興味深いと思ったし、寡聞にしてわたしは高村智恵子という人が画家として身を立てることを目指していたことを本書で初めて知ったんだけれど、掲載されている彼女の作品のなかにはマリー・ローランサンみたいなものがあったりして面白い(『青踏』の有名な表紙もこの人なのね)。

個人的にもっとも惹かれたのは、満州でプロパガンダ映画を製作した日本初の女性映画監督、坂根田鶴子の章だった。この章では、戦時中の農村女性に期待された役割(戦力や工業労働に取られて不足した男性の労働力を補うために、女性が農業の中心的主体になる)についても触れられているんだけれど、その状況は、今言われてるような「女性の活用」みたいな話とまったく同じに思える。で、当時は結婚しても、ダンナはいなくて、舅姑小姑にこき使われる。そんなのは嫌だ! だから満州に行こう!! っていう女性がいたんだって。

そこで坂根が撮った『開拓の花嫁』(日本映画史で初めて授乳する女性の姿が映された映画らしい)というプロパガンダ映画なんだけれど、彼女は満州を「男女が手をとりあって、一緒に子育てして(男性も育児参加をする)新しい国を作ってまっせ」というユートピアとして描く、でも、それはもちろん嘘っぱちだったし、故郷の舅姑小姑にこき使われる方がマシだったかもしれない過酷な現実が横たわっていたことを本書は伝えている。舅姑小姑がいない、その新しい共同体には妊娠・出版・育児のナレッジが蓄積されてない。幼児死亡率や異常妊娠・異常分娩の割合が高くなるし、移民数がめちゃくちゃに多かったから医者も足らなくて大変、みたいな状況だったそう。

んー、すごい。面白がっちゃいけない話かもしれないけど、昔のこうした失敗プロジェクトの無茶苦茶さにどうしても惹かれてしまう。ちょっとこの方面について調べてみたい気持ちにもなった。

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風呂上がりにつかうバスタオルをふわふわで気持ち良くする方法

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結論:ふわふわの良いタオルを買う。


これまでずっと「タオルなんか人から貰うもので、買うものじゃない」と思っていて、ほとんどお金を出したことがなかったんだけれども、家のバスタオルが随分くたびれてきたので「試しに」と思って、今治タオルのバスタオル買ってみたんです。3000円ぐらいした。

タオルに3000円って高いな、タオル、高いんだな、と思ったんですけど(輸入盤のCD2枚ぐらい買えちゃうな)、そしたら、すごいね。ふわふわ我が家は洗濯のときに柔軟剤を使いませんけど、洗ってもふわふわなの。お風呂上がりにこれで体を拭くと、包まれました、みたいな感覚で。これは良いな、高くないわ。3000円で毎日この気持ち良さでしょ。良いよ、と思って、4枚ぐらいその後に買い足した。良いよ。さすがだな、今治タオル、と思った。

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韓非 『韓非子』(2)

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韓非子 (第2冊) (岩波文庫)
韓 非 金谷 治
岩波書店
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引き続き『韓非子』を読む。ここからいきなり(韓非が書いたものではないとも言われているらしいが)『老子』の解釈がはじまるのだが、とても面白かった。老子を読んだことはなく「えーっと、なんかタオイズムの、ニューエイジとかにも人気の人?」だとか諸星大二郎の大名作『孔子暗黒伝』にでてきたっけなあ、ぐらいしかわからないのだけれども、韓非が説明する老子のコスモロジーは、これまで読んできた西洋哲学における二元論的なものと共鳴して読めるのだった。

たとえば、アリストテレスは、永遠に不変な天上界と、生成消滅を繰り返す月下界に分けて考えた。彼の世界観では、それぞれの世界で、まったく別な原理が働いている。対して、老子も永遠に存在する「道」と、生成消滅を繰り返す「理」というふたつの原理を唱えている。道は永遠に存在するゆえに定まりがない。つまり、無限である。理は始まりがあり、終わりがある。定まっている。だから、理解できる。一方で、道は定まりがないから理解できない(そうした捉えどころがないものを道と無理やりに命名した)。こうした無限の理解できなさ(世界の根本原理へのアクセスできなさ)は、クザーヌスやメランヒトンによる神の概念にも通じているように思った。ただ「万物はそれぞれに違った理を備える」(P. 51)とあるので、なんかトマス・アクィナスにめちゃくちゃ批判されそうな感じはある。

で、韓非は、歴史上に名だたる君主はこの道を得てきたのだ、という。前述の通り、捉えられないのが道である。それを得るとはどういうことなのか、と思うのだが、一時的にせよ、水のように絶えず流れる道を得ることはできる。ただし、そこで得たものは毎回通用するわけではない。そのときの道にあったものを君主は得ていただけである。「法律が大事!」と言いながら、具体的な法律について韓非が触れていないのもこういうところに理由があるのかも。韓非はこんな説話も紹介している。
王寿は書物を背負って旅をし、周にゆく道で徐馮と出あった。徐馮が言うには、「事業とは人の行為である。行為はその時その時の情況に応じて始めるから、知者は固定的なきまったことはしないものだ。今、そなた、どうしてまた書物を背負って旅をされるのか」。そこで王寿はそのまま持ってきた書物を焼きはらって、喜んで舞い踊った。(P. 94)
ひょっとすると韓非の法家思想とは、道を見誤らないための消極的な指針でしかないのかもしれない。積極的には「君主は虚心になれ」と言う。これは第1冊を読んだときに感じた君主の透明性とも通じている。心を持ち、私を出すと失敗するぞ、と。

第2冊は説話も豊富で(重複もあるんだけれど)第1冊より面白く読んだ。とくに「内儲税」という部分。ここでは君主が「こういうことやっておくと国が安定していいぞ!」というポイントと「これやると滅亡するぞ!」というポイントが示されている。

とくに「いいぞ!」なエピソードについては、なかなか現代的な感じのものもある。ひとつは「これやると褒美をだすよ〜」と見せつけておいて、臣下のモチベーションあげろ、と。ただ、これ今でいうとモチベーション1.0的な感じで、韓非の世界だと「褒美を得るためなら自分の首を切って、君主に献上する(評価・お金のためならなんでもします)」みたいな話だから、ワタミかよ、と思った。もうひとつは「臣下に『君主はなんでもお見通しなんだゾ』と思わせとけ」的なもので、ほう、こりゃあパノプティコンじゃないの、と思った。

基本的に人が殺されたり、死んだりの血なまぐさい話ばかりなのだが落語みたいな話が混ざっているのも楽しい。「燕の人が、気がおかしくなったわけでもないのに、わざと犬の糞を浴びせかけられたという話」(P. 320)とかなにごとかと思う。

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Negicco / 光のシュプール

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光のシュプール [CD+DVD](初回限定盤A)
Negicco
T-Palette Records (2014-12-02)
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新年になって一番最初に聴いた新譜がNegiccoってまったく最高の一年になりそうだ(リリースは昨年末。買い忘れてた)。田島貴男とのコラボレーション第2弾「光のシュプール」、今回は編曲での参加だが、言わずもがな最高である。冒頭からいきなりサビで、しかも(『ネガティヴ・ガールズ!』でも引用していた)The Style Councilみたい、というところで心を掴まれてしまった。制作側の戦略というか、リスナーの心をくすぐってくる感じにガッツリはまっている感じはあるが、良いんです。B面曲の「1000%の片想い」も、The Spuremesの「恋はあせらず」のリフを引用した王道アイドル・ソングという感じで良かった。Negiccoが歌う楽曲の大半が「自分に自信がない女の子の恋愛ソング」だと思うんだけれども、そのへんの歌詞のスタンスはタンポポ。を彷彿とさせてとても良い。

PVも最高である。こんな多幸感ある冬のPVないだろ……。東北新幹線のCMかと思うぞ……。今月末の恵比寿でのライヴ、行こうかな……。

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韓非 『韓非子』(1)

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韓非子 (第1冊) (岩波文庫)
韓 非 金谷 治
岩波書店
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中国の戦国時代の思想家、韓非の『韓非子』を読み始める。ひとまず第1冊を読了(全4冊)。韓非は数ある思想的潮流のなかでも法律を中心とした国づくりを提唱する「法家」の大成者として知られる。中国の思想に詳しいわけではなく、比較できるものが孔子の『論語』ぐらいしかないのだけれども、孔子がプラトンにもつながるような哲人政治を提唱していたのに対して、韓非の理想の政治像は、非人間的というか、システマティックであるように思った。

とにかく法律が中心であって、君主はその誠実な運用者でなきゃならない。法への厳格さが特徴的で、君主は自分の意見を秘密にすべきだし、自分の人格のようなものも出しちゃいけない。じゃないと、臣下がおもねりへつらうような擦り寄り方をしてきて、国のためにもならないし、クーデターを企んだりする。だから、君主は聞いてるんだか聞いていないんだかわからないふりをしていろ、すると臣下は勝手に動いてくれるハズだ、と韓非は言う。

そんな……一体、君主の役割ってなんなんですか、という感じなのだが、まず、法を中心とした国家の運用の最大の決定者としての役割は君主に委ねられている。というか、決め事は全部君主が決めるものと韓非は考えている。そうじゃないと、臣下のなかで「俺を通さないとこの国のことはなんもできないよ」みたいなヤツがでてきて、モラルハザードがおこったり、ソイツが私腹を肥やしたりしちゃうから。私腹を肥やした挙句、徒党を組んでクーデターを企むから、自分じゃないヤツに権力があるように見せてはいけない。ちょっとでも勘違いしてるヤツがいたら徹底的に潰せ、という感じである。

いや、でも現実的に君主がなんでも決めることなんか無理でしょ、と思うんだが、その辺は特に第1冊の収録部分では触れられていない。最後まで触れられないかもしれない、のだが、おそらく、韓非は規律の内面化を徹底的にやることで、なんとかしようとしているのだと思う。法に反したら罰する。法に即して良いことをしたらお金や土地を与えて褒めてやる(あくまで基準は法。個人的に好きなヤツを重用するとかは、おもねりへつらうようなヤツがでてくるのでNG)。これで国に反するものを排除しつつ、政治を、国を運用する。

言うなれば、韓非の描く君主とは、人間としては透明な存在で、君主である正当性はどうやって確保するんだ? とさまざまに疑問が湧くのだけれど(そもそもどういう法律が良いのか、みたいな話もあんまりない)、機械的な社会論のように読めてとても興味深い。結構同じ話の繰り返しのような感じではあるのだが、どこそこの国の人は、こういうわけで殺された・滅亡した、という説話がたくさんでてくるので単純に読み物として楽しい本である。

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岡倉覚三 『日本の目覚め』

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日本の目覚め (岩波文庫)
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岡倉 覚三
岩波書店
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岡倉覚三(岡倉天心)の『日本の目覚め』を読む。わたしは完全にタイトルの印象から本の内容を勘違いしていて、欧米に向けて「日本はこんな感じで目覚めてんだぞ! どうだこの野郎!」と知らしめるために意識の高い日本人が書いた本かと思っていたんだけれども、違っていた。どっちかっていうと今(最初に出版されたのは、1904年のニューヨーク。岩波の日本語版は1940年に村岡博によって翻訳されたもの。岡倉は英語で書いて、英語で出版しているのである)どういう風に目覚めているのか、という話ではなく、むしろ、どのように目覚めていったのかの歴史的な記述が中心となっている。日本思想史についての最も最初期に書かれた本なのかも。

岡倉の史観がなかなか面白くて、とにかくアジアはヨーロッパと比べたら弱っちくてダメである、それがなんでなのか、この暗黒状態を彼は「亜細亜の夜」と呼ぶのだけれども、なんで亜細亜は真っ暗なのか、と冒頭はそんな話から始まる。最初、日本の話から始まらないのね。中国とかインドとか、19世紀には随分ヨーロッパの国々にひどい目にあわされた。その元凶は、モンゴルが悪い、と。そこまで遡るのである。チンギスハン、コイツのせいでそれまでの文化がズタボロにされちゃったよ、と。おかげで彼らは統一を失っていたので、ヨーロッパにも付け込まれちゃったのだ。

で、日本はどうかというと、モンゴルには征服されなかったけども、侵略は受けた。これはある種のアレルギー反応というか「島国的偏見」を生んだと岡倉は言う。イエズス会の扇動によって起こされた島原の乱、そこからのキリスト教排斥なんかも、その世界から孤立したいという欲求の表れなのだ。それで、独特の文化が育まれたとはいえ、270年ぐらいの鎖国のあいだは「生き埋め同様」だったのである。日本も亜細亜の夜の立派なメンバーになっていたのね。

で、そういう生き埋めだったのが、黒船来航から急に「やべーよ」みたいな激震が走って反省して変化が生まれたみたいな描き方になっていないのが、この本の面白いところ。内部から変化の声を岡倉は描いている。そこで重要になった思想は、徳川の学問所で授けられる朱子学を否定した古学派、そして進歩と知行合一を求める陽明学、さらに国学派による歴史研究による天皇への回帰。要するに、徳川体制反対みたいな思想が出てきていて、黒船来航からの変化もその延長にあるのだよ、ということであろう。

幕末の動乱期についての記述もかなり濃く書いてあって、そのなかで西郷隆盛を「我が国のガリバルディー」と評価してたりするのも面白い。終盤は、西洋から学んだことがどう日本に生かされてるのか、どういう目覚めを生んだのかが書かれているんだけれども、個人的には、西洋のものをガンガン取り入れていきまっせ時代の話よりも、その前の陽明学者の話だとかの方が興味深く思った。

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アーサー・モーリス・ホカート 『王権』

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王権 (岩波文庫)
王権 (岩波文庫)
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A.M.ホカート
岩波書店
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2015年、最初の一冊はイギリスの人類学者、ホカートの『王権』を。文化人類学系の書物って途中で飽きてしまってなかなか最後までしっかり読めないのだが、これは面白かった。フィジーから東南アジア、インド、エジプト、ヨーロッパにおける「聖なる王権」の事例を集め、その構造比較から、民衆を支配する王の正当性が神によってもたらされる(というか王が神と同一視される)システムが同じ起源をもつひとつの文化圏を形成することを示そうとした著作である。

「フィジーとヨーロッパの王権の仕組みがひとつの起源からの派生系である!」 などと言ってしまうと、ホントかよ、と思われるのは当たり前だと思うし、記述の雑さやイギリスの人類学に先立っていたフランスの学者の業績を参照していないなどの難点が、生前からホカートの評価を下げていたと言う。1883年に生まれ、1939年に亡くなるのだが、1970年代以降に再評価されるようになったんだって。その評価軸は、勘の良い人であれば予想されるだろうけれど、構造主義人類学、ポストモダン人類学の先駆者としてホカートを捉えるものだったそうな。

本書のダイジェストとなっているのはヨーロッパの戴冠式と、フィジーの部族内における首長の即位式の比較分析だろうか。遠く離れた、まるで違っているもの同士の比較によって、比較されたものが共通に持っている機能があぶり出されもするし、もはや単なる風習・本来の意味が忘れ去られてしまった習慣へと、生の状態とでも言える意味を再び付与することにもなろう。フィジーの部族の即位式と、ヨーロッパの戴冠式では、王は一度死に、神として再生する。我々の目には、戴冠式はソフィスティケイトされた風習として映るけれど、それは象徴的な殺人と復活を意味する、野蛮でマジカルな儀式なのである。

「アレとコレの構造は一緒だ!」と言う指摘に大きな意味があるとは思えないし、構造が一緒だから起源も一緒だ、という論理は乱暴なものだと思う。ただ、こういう様々な事象を並置することでなにかを見せる手法というのは、個人的な好みからすると面白いテクストとして読める。井筒俊彦であったり、ベンヤミンであったり、アドルノであったり、または、ディディ=ユベルマンのアナクロニズムもそうだろう。

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