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近藤譲『音楽という謎』




“音楽”という謎

“音楽”という謎






 現代音楽の生の声を聞くことができる名著『現代音楽のポリティックス*1の著者である、作曲家・近藤譲のエッセイ集。ここで読むことができる文章はエッセイといっても単なる随筆の類ではなく、アドルノが書いたような「哲学的(音楽学的)エッセイ」といった性格に近いものである。


 「音楽とは何かという問いには答えがない」。しかし、《答えのない質問》(チャールズ・アイヴズ)を問うこと自体は無意味な行為ではない。むしろ、作曲家とは常にそのような問いを自らに問い続けなければならないのではないか。いわゆる「現代音楽」の《聴衆》がいない今、その必要性はますます増大しているのではないか――そのようにシリアスな危機感から著者は始めている。


 本の中では音楽の「価値」、「形式」、「表現・内容」といったものが問われている。そこではいつも「音楽の常識」が覆されている(同時に、まるで自明でありすぎるせいで、我々の目、あるいは耳に届かない《常識》が浮かび上がっている)。その点に関して「音楽学」というよりは「音楽社会学」的な性質も含んでいるように思える。


 特に興味を掻きたてられるのは「表現・内容」の章で語られるプッチーニの歌劇《蝶々婦人》の例――プッチーニはこの日本を舞台にした作品を書く際に、日本の音楽を幾つか採集し、作品の中に混ぜ込んでいる。彼が取り入れた日本の旋律には《さくらさくら》といった有名なものもあれば、既に日本でも忘れられたものも存在している。その一つが「蝶々さんの死のテーマ」で用いられている《推量節》である。この曲は明治に寄席から流行った歌らしいのだが、我々はこのメロディをもうプッチーニの作品のなかでしか聞くことができない。しかも、本来、明るい歌詞が付随した旋律であったはずなのに、プッチーニのもとに届いたときに「悲劇の旋律」として誤解されて使用され、現代の我々は本来「明るい旋律」として奏されていたものをそのまま「悲劇の旋律」として捉えている……というもの。この例には音楽が表現する“もの”の不確かさが端的に現れていると思うし、さらに旋律が伝えられていく中で意味内容がどんどん変質していく様子が興味深い。






コメント

  1. ライプニッツだったか(デカルトか?)… 『音楽は、ひとが知らず知らずに数をかぞえてしまう習性を利用し…云々』といっていたかと思うが、
    昔 G.I.グルジェフが著作のなかで触れていたよーな“客観音楽”―ある音の組み合わせが どの人にも一定の感情を引き起こしたり 身体にオデキをつくらせたりする―とゆーものも現存するのではと かすかな希望を抱いてはいる
    あの顔儒の流れをひく孔子が あれほどまでにこだわった礼楽でもあるので 一般に知られているのとは違った消息が音楽にはあるのではあるまいかと見ているのだが 如何なものかo(-_-;*)ウム…
    坂本龍一が大学で専攻していた数学的手法とは その手のアプローチなのか ご存知ありませんか?

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  2. 近藤譲の本に寄ればイギリスの音楽学者、クック(マーラーの交響曲第10番の補筆を行ったあのクックです)が、さまざまな旋律の動きを類型化し、それが表現している「感情」を十数種類にまとめた論文を書いているそうです。が、これは結構トンデモの類かと。ある種の音形が一定の感情を喚起することは否定できませんが、それは音楽そのものが持つ本質的要素ではなく、社会的な文脈との関連もあるわけでとても客観的に立証されうるものとは思えません。
    坂本龍一については詳しくないのでよくわかりませんが、おそらくそこで言われている「数学的手法」は表現の内容を数学的に捉えるのではなく、音を数学的に操作する方向でのものではないでしょうか。現代音楽の領域で「数学的手法」と言った場合、後者の意味で捉えることが一般的であると思います。

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