スキップしてメイン コンテンツに移動

なにかとはなにか#2



 なにかとはなにか - 「石版!」では「『何か』は、何かを言っているようで、実際には何も言っていない」ということを確認した。そして「何か」が背負わなければならないリスクについても説明したつもりである。しかし、我々は「何か」を感じてしまう(そしてそれをついつい『何か』という言葉でその感覚を指示してしまう)という現象に出会う――今回はどうしてそのように「何か」を感じてしまうのか、そしてどうして「何か」で表現してしまうのか、ついて考えてみたい。


 まず、ひとつめの問題に設定した「どうしてそのように『何か』を感じてしまうのか」について。このような感覚の発生は、異なりが契機となっていることを指摘できるのではあるまいか。ゆえに、その「何か」はもともと存在していたものではない。都会で生活していた人が、東北の温泉地に旅行へ出かける。旅行者は、そこで行われている生活が、自分の送っている生活とは異なっていることを認識する。そこで彼は初めて「私が送っている生活には『何か』が失われている」という感覚を抱くのである。つまり、「何か」とはそのような都会-田舎、あるいは現在-過去……という異なりのなかから遡行的にしか見出されない―― 生涯を都会で暮らしている人はそもそも「何か」を失っている感覚を抱かない。また、逆に言えば、田舎に住む人たちが「大切な何かをオラは持ってんだ」と思いながら生活をしているわけではない。「何か」とは都会と田舎を比較したときの、差分を埋め合わせるような意味合いで発生する。


 このように考えると「何か」とは、ヴァルター・ベンヤミンが使用する「アウラ」やテオドール・アドルノが使用する「浮動的なもの」といった言葉と似通った意味で使用されていることがわかる。ベンヤミンが「現代の複製・大量生産時代おける芸術作品からはアウラが消失している」というとき、その比較対象となっている「過去の芸術作品」が元からアウラを持っていた、というような意味を示してはいない。また同じように、アドルノが「直接的に言葉で何かを表現するとき、そこからは『浮動的なもの』が失われている」というとき、言葉で表現される以前の対象が浮動的なものを持っていた、というような意味を示していない。浮動的なものとは、言葉に置き換えたときに初めて「既に失われたもの」として見出しうるものである。そして、それは「何か」と同様、具体的なものを指示した言葉ではない。


 ここで冒頭で示したふたつめの問題「どうして『何か』で表現してしまうのか」に入っていきたい――また、この問いは、アドルノがどうして何も指示していない言葉である「浮動的なもの」という言葉(マジックワード)を使用しなくてはならなかったのか、と問題を共有しているように思われる。しかし、まずは「何か」について見ていこう。


 手始めに、都会と田舎を比較したときに見出される「何か」に該当しそうなものを幾つか想像してみると良いかもしれない――すると「美味しい空気」、「温かい人間性」、「豊かな自然」……etcというようなリストができあがるだろう。書き手は、何も示さない言葉である「何か」を読み手に提示することによって、以上のような意味を汲み取ってもらえることを期待している。書き手の側では、以上のようなことの総体を「何か」で捉えようとしているのである。おそらく、書き手の側で総体としての「何か」を、個々に分割することはある程度可能であろう――「田舎には、美味しい空気とか温かい人間性とか豊かな自然があって良いよね!」というように。しかし、そのように具体的に示した場合、常に書き手は書ききることの出来ない残余に出会うことがある。さきほど出した例に従うならば、「……etc」の部分は「美しい空気」、「温かい人間性」、「豊かな自然」という具体例に含まれていない。このような残余に書き手が出会ってしまうことが、書き手が「何か」で表現してしまう理由となっているように思われる。


 ここでアドルノに戻ってみよう。アドルノは「直接的に言葉で何かを表現するとき、そこからは『浮動的なもの』が失われている」というような主張を行っている。しかし、その「浮動的なもの」は具体的に何かを指示する言葉ではない。だが、どうしてアドルノはそのような何も意味しない言葉を使用したのだろうか ――ここまでくれば、おそらくその理由は明白であろう。それは、言葉で何かを表現したときに失われるものもまた直接的に表現することは不可能だったからだ。どのような工夫を凝らしても、書き手は残余に出会うことになる。むしろ、具体的なものをあげればあげるほど、書き手によって書かれる対象は「廃墟と化してしまう」と言ったほうが良いだろうか。ここから、無内容な言葉を持ってでしか指示することができないものが存在する、という逆説が生まれてくるように思われる。


 冒頭で示した2つの問題を追いながら、ここまでで「『何か』でしか表現できないものがある」ということを我々は確認できたように思う。そしてこれは前回で確認したこととは全く逆である。ふたつの正反対の「なにかとはなにか」を書いたところで、私個人の感想を書いておくと「やっぱり『何か』じゃ脱力しちゃうよな」というところである。似たような脱力感は「アドルノはさぁ!浮動的なものを大事にしてたんだよね!繊細だよね!!アドルノってさぁ!!!」とバカのように繰り返す幾つかのアドルノ解釈からも感じる。


 結局、またアドルノの話になってしまった……。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か