スキップしてメイン コンテンツに移動

今日の「現代の音楽」のこと。



 実家に帰ってふと新聞のラジオ欄を見ていたら「現代の音楽」がヘルムート・ラッヘンマンの特集をやる、というのを知った。


 知らない人のために一応書いておくと「現代の音楽」は、NHK-FMが長年放送を続けている「現代音楽専門の音楽番組」である。日曜日の午後6時から1時間(ザ・ちびまるこちゃん&サザエさんタイム)にみっちり現代音楽をみっちり紹介し続けるという番組内容は、NHKのなかで最も硬派な番組だと言えるだろう。まさに、公共放送だからなしえる業、というか、こういう番組が続いてるからちゃんと放送料金は払わなきゃダメですよ、と思う。


 今回のラッヘンマン特集はなんと「次週もやる」とのことだったので、この現代ドイツを代表する(と言われてもあまりにピンとこなさ過ぎる)作曲家について気になる方はチェックすると良いと思う。今日は、独奏曲が主に取り上げられていたから、来週はオーケストラ作品が紹介されるのではないか。


 しかし、ラッヘンマンという作曲家は面白い。新しく作品に触れるたびに「なんて面白いのだろう……別な作品が聴きたい!」と思わせてくれる稀有な存在である。ピアノをギロ(あの洗濯板みたいなパーカッションだ)に見立てて、ひたすら鍵盤の凹凸や、内部の部品を擦ったりして作品にする、という強烈なアイデアなど素晴らしすぎて涙が出てしまう。ただ、さすがにそれだけ聴かされるのはなかなかキツいものがあって、途中で夕飯に呼ばれたので聴くのを止めてしまった(我が家の夕食はほとんどサザエさんとともに始まる。かなり早い)。


 現在、この番組のパーソナリティは作曲家の西村朗だ。この人はかなり喋りが上手くて(ダジャレ王である池辺先生には及ばないにしても)、ラッヘンマンのように常人の想像力を超えた作品を書く人についても大変明快な解釈を与える人だと思う。今日の彼は「ラッヘンマンの意図は、異化にある」というように言っていた。これは、ベンヤミンなどを読まれる方においては「なるほど」と膝を打ちたくなる解釈だろう、と思う。


 私としても「うーん、たしかにそんな感じはあるよね」と聞いていて思った。でも、同時に「ただし、それだけなんだろうか?」という風にも思ってしまう――もっと言ってしまえば、これは「何故、作品に対してそのような凡庸に理解しえるような意味しか与えることができないのだろうか」という軽い憤りのようなものでもある(これは西村朗という個人に対しての思いではないのだけれど)。


 明快な言葉で、ラッヘンマンの音楽を伝えること、それはとても素晴らしいことであると思う。しかし、それはとてもつまらないことなのではないか、とも感じてしまった。音楽の意味を明快(だが、つまらない)言葉によって、固定してしまうだけであれば、そんな言葉に必要を感じないだろう。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か