スキップしてメイン コンテンツに移動

ロード・ダンセイニ『世界の涯の物語』




世界の涯の物語 (河出文庫)
ロード・ダンセイニ
河出書房新社
売り上げランキング: 134212


 『世界の涯の物語』を読み終える。ロード・ダンセイニのふたつの初期短編集『驚異の書』と『驚異の物語』を収録されている。ここではダンセイニが残した品の良く、気の利いたユーモアが散りばめられた、幻想小説・魔法小説が読める。どれも読んだあとに、いくばくか豊かな気持ちになるような作品ばかりなのが素晴らしい。この作者の著作は以前に『影の谷物語』*1を読んで「こういう風に、豊かな気持ちになる文学とは、豊かな身の上からしか生まれないのではないか」などと思ったが、今回も似たようなことを感じる。





 『驚異の書』は魔法使いや、盗賊、神々や神話上の種族(ドワーフやエルフ)といったものが活躍する異界を描いた幻想小説が主体となっているのだが、それに続く『驚異の物語』では、現代のなかに突然魔術や幻想が現れて、面白おかしい状況が生まれる、という言ってしまえば「笑い話」みたいな物語が多い(『驚異の書』に収録された作品の続編もあるが)。例えば、現代の機械や文明といったものを悪と思った魔法使いが、ロンドンでそれらの文明の利器をどうにかして封印しようとする……みたいな風刺的な作品も見られる。





 ただ、この『驚異の物語』が発表されたのは1916年、第一次世界大戦の真っ只中であり、かつダンセイニも従軍している間に書かれていた、という事実を知って驚いた。この作品のアメリカ版が出る際に寄せられた「序文」にはこんなことが書かれている。



まさに今、ヨーロッパの文明はほとんど死にかけているようで、その傷だらけの地には死の他には何も育たないようにも見えるが、それでもこれはほんのひとときだけのものであって、夢がふたたび戻ってきて昔のように花開くのだろう。(中略)今はもうこれ以上、戦争について書くことはないが、ヨーロッパからの夢の本を読者の方々に、燃えている家から最後の瞬間に価値あるものを、それがたとえ自分にとってだけであっても、外に投げ出している人のように、わたしは捧げよう。



 なんだか感動的な文章である。ここから死にかけたヨーロッパから、戦局を傍観していた(この文章が書かれた1916年当時、アメリカはまだ参戦をしていない)アメリカの読者に向けて、このようにユーモラスな短編集を送ったダンセイニの切実さみたいなものを受け取ることができる。その切実さは、おそらく現代においても有効に伝わるものであろう。その証拠に、私はこれを、なかなかにしんどい現実を忘れさせてくれる、心地よい夢を与えてくれる本として読めたのだから(ちょっと言いすぎかもしれないけれど)。休息の時間をこういった作品に触れることに費やせることは、なかなか幸福なものである。






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」