スキップしてメイン コンテンツに移動

真木悠介『気流の鳴る音――交響するコミューン』




気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木 悠介
筑摩書房
売り上げランキング: 31091



 見田宗介の真木悠介名義(日本の社会学界でこのように名義を使い分けている人は、この人ぐらいなのか? まるでエイフェックス・ツインみたいである)での代表作を読む。一九七七年の作品。最初の刊行からすでに三〇年以上も経っているが、今なお「鋭い……」と思わせられる作品であった。冒頭、ヤマギシ会について言及している部分があるが、これをほとんど好意的な感じで捉えているのも興味深い。ヤマギシ会といえば、いまやほとんどカルト扱い。基本的には批判的な文脈においてでしか登場しないものかと思っていたのだが、当時はそうでもなかったのだ、と思ってしまった。私自身、ヤマギシ会の存在を知る機会となったのは、学生時代のある授業においてであり、そこではやはり「人間の主体性を奪ってしまう洗脳的なカルト」というような感じで紹介されていた。一九七〇年代後半には、まだコミューンというものが存在しており、希望として捉えられていたのか、と思うと感慨深いものがある。





 本書の全体は三部に分かれており、その大部分が第一部の「気流の鳴る音」に割かれている。この部分は、メキシコの部族社会で生きる呪術者、ドン・ファンのもとに弟子入りをして、その修行生活を記録していた、と言われるカルロス・カスタネダの著作への注釈学、と言っても良いと思う。カスタネダの記録を大量に引用し、それについてコメントをつけていく。しかし、真木悠介のコメントは引用に対して、説明的になることはなく、引用とパラレルに進んでいくような感じがする。不思議な読後感だ。近代に生きる人間の意識が、このパラレルに進行する引用文と地の文の合間の中で、どんどん相対化されていく。このとき、真木の胸のなかにも、ドン・ファンの自由な生き方(世界の捉え方)に対して、素朴な憧憬がある、と言って良いだろう。前近代的な、もはや過ぎ去ってしまい、戻ることのできない意識への憧憬がそこにはある。



ドン・ファンはわれわれを<まなざしの地獄>としての社会性の呪縛から解放する。しかし同時に、それはわれわれの共同性からの疎外ではないだろうか?


執着するもののない生活とは、自由だがさびしいものではないのか?



 この疑問符に込められた葛藤は、まさに「近代」を知ってしまった者、「近代」を自明なものとして生きてきたものの葛藤であろう。我々は近代のしんどさについても知っているし、逆に楽さについても知っている。だからこそ、葛藤が生まれる。ドン・ファンの生き方には、近代のしんどさは存在しない(ように見える)。しかし、近代の楽さもまた存在しないのだ。この葛藤の中に、真の相対化が見出せるような気がする。





 また、第二部の「旅のノートから」も面白かった。こちらは朝日新聞に掲載された、文字通り旅行記のような文章なのだが、大変に文学的なエッセイとなっており、ますます行ったことがない異国に行ってみたい、という思いを刺激させられる。とにかく、真木悠介モードの見田宗介の文章は美しい、と思う。この美的で、かつ知的な文章のスタイルに、大澤真幸が影響を強く受けた、というのは想像に難くない。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か