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冨永昌敬監督作品『パンドラの匣』




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 冨永昌敬の新作。原作は読んだような読んでいないような曖昧な記憶しかないのですが、とても楽しく観ることができました。とくに唐突な中断や脱臼を挟みつつ、静かに物語がとても進んでいく感じが素晴らしい。冨永監督の作品と言えば、前作『パビリオン山椒魚』における「第二農協」(農協に対抗してできた第二の秘密結社的な農協)という非常にピンチョン的な世界設定の上手さ(バカさ)がツボだったのですが、今回は「健康道場」という人里から離れた空間を異世界的な、あるいは夢のような世界へと演出することに成功しているように思います。だからこそ、夜に草刈りをする人(現実にそんな人はいないでしょう)がいてもおかしくないのだし、アフレコのリップシンクがズレていても違和感がない。





 「やっとるか」「やっとるぞ」、「がんばれよ」「よぉしきた」。この言葉の掛け合いにはとくに意味はなく、単なる挨拶のようなものとして、もしくは、儀礼的な呪文として、この健康道場では使用されている。その言葉の掛け合いはもはや慣習となってしまっているので、その言葉自体が何らかの意味を持っているわけではないのです。しかし、ある瞬間、ある関係性の中で、ある声のトーンによって、それらの無意味な言葉が特定の意味を含んでいることを観客に対して暗示する、そのようなシーンがいくつもありました。ニュアンスの問題、と言っていいのでしょうが、秘め事のように意味が取り交わされる様子は時にエロティックなほどに感じられます。このあたりも素晴らしい。特に仲里依紗のコケティッシュかつ、白痴染みた振る舞いにそれらが重なったとき、素晴らしさが何重にも突き刺さってきます。カワイカッタ……!! 正直言って、彼女の演技を観て「ああ、なんて可愛らしいのであろうか……」と嘆息するだけでも満足できそうです。





 あと染谷将太もネジくれた感じの表情がとても素敵でしたし、窪塚洋介の病的な痩身もカッコ良かったです(なんだかんだ言ってもとても魅力的なのですよね、カッコ良い。たとえ卍でも)。川上未映子は、スクリーンに出てきた瞬間に、体の太さが気になってしまい、ずっと太い、太い……やっぱりアイドルだとか女優はすごいのだな……と全然関係のない思いを抱いてしまったのですが、あれは「設定上、そういうもの」という感じだったのでしょうか。よくわかりませんが、全体的にややイヤらしい感じが良かったです。喩えるならば、綺麗な女性の後ろを歩いていたら、ずっとシャンプーの良い匂いがしてきたときに、ジュンッ……とくる、そんな感じを常に漂わせている。





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