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イエイツの『記憶術』を読む #6




記憶術
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フランセス・A. イエイツ
水声社
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第七章 カミッロの〈劇場〉とヴェネツィア・ルネサンス


 ちょっと間が開いてしまいましたが気を取り直して参りましょう。前章はカミッロの〈記憶の劇場〉が当時(16世紀)に与えたインパクトと、その意味について追っていましたが、この章でイエイツが分析しているのは「カミッロの〈劇場〉が生まれた背景とはなんだったのでしょうね?」というところです。カミッロはそれ以前の記憶術とはまったく関係なく生まれてきた突然変異だったのか、それともそれまでの記憶術の影響をうけてそれを進化させた人だったのか。イエイツの結論からみていけば、彼女は「カミッロはそれまでの古典的記憶術と地続きである」ということです。これは前章でも触れられていることですね。カミッロの仕事の基盤には、マルシリオ・フィチーノ、ピコ・デッラ・ミランドーラという新プラトン主義者の仕事があり、そしてそこにはシモニデス流の記憶術も伝えられていた、ということです。その具体的な検証みたいなことをイエイツはこの章でおこなっています。しかし、これは驚くほど短い。むしろ役割としては、「イエイツが本当に書きたくてたまらない対象」に話をつなぐためのブリッジとなる部分だといえましょう。カミッロの〈劇場〉が中世とルネッサンスをリンクさせているのだ、という主張がここにはあります。しかし……





第八章 記憶術としてのルルの思想


 ここでイエイツは「われわれは歩みを進め、カミッロに至って遂にルネサンスに到達した」(P.209)と、期待を煽りながら始めるのですが、この章も「本当に書きたくてたまらない対象」へのブリッジのような役割を果たしています。ここでイエイツは再び、中世へと視線を戻し、ラモン・ルルという人の思想に触れています。彼については「序」でも触れられているのですが、イエイツはこの人物の思想を「古典的記憶術のように雄弁術の伝統から現れるものではない」(P.17)と言いつつも、ルネサンスの記憶術に流れ込んだもうひとつの支流として重要視しています。





 このルルという人もなかなか味わい深いプロフィールの持ち主です。1235年ごろ、マヨルカ島に生まれ(トマス・アクィナスとほぼ同時代人です)、若い頃は宮廷で歌なんかを歌いながらのほほんと暮らしていたらしいのですが、ある日、磔刑をうけるイエスのまぼろしを見てしまい、強烈なキリスト教徒になってしまう。さらにルルはある日「ユー! 異教徒を改宗させるための本を書いちゃいな!」という啓示を受けたそうで、それから「異教徒を改宗させる術」の開発にいそしんだ、ということです。84歳ぐらいで亡くなったそうですが、死ぬまでの30年間はイスラム教徒に対して武力行使までしながら活動し、世界中を飛び回っていたのだそう。うーん、パワフル。そんな彼が開発した「異教徒を改宗させる術」が、記憶術的である、とイエイツは言います。





 それはどんなものだったのか。ここでイエイツはトマスに代表される古典的記憶術の復習をしながら、それと対比されることでルルの術の特徴を指摘していきます。ここの部分、ちょっと難しい(っつーか想像がしがたい)んですがとても面白いですよ。




  • 違いその1:中世の古典的記憶術は、イメージと実在の関係で記憶。ルルはプラトンのイデア的な〈神の名称〉の上に記憶をおいた。

  • 違いその2:ルルはイメージを使わない。アルファベットに一文字一文字に、代数的な意味をこめた。

  • 違いその3:ルルの〈術〉は概念が文字で並べられた図形によるが、静止した図ではなく、同心円状の輪の形であり、輪が回転し、内側と外側のアルファベットの組み合わせが変化することで概念の組み合わせがおこり、意味を発生させた。


f:id:Geheimagent:20100625235727g:image:left 左に示した図がルルが用いた〈術〉のひとつです(この図では、円のなかに区切られたスペースのなかに記述された文字が、英語になっていますが、ホンモノはラテン語。後世の研究者が英訳したものですね)。彼はこの〈術〉をユダヤ人のイスラム教徒に学ばせることができれば、キリスト教徒に改宗するはずだ! と考えていたらしい。そんなバカな……、なにを根拠に……と苦笑したくなりますが、ルルは本気。というのも、彼はこの〈術〉をユダヤ・キリスト・イスラムの三大宗教に共通した宗教的概念に基づき開発したからなのでした。「すべてに共通する前提から出発すれば、〈術〉は〈三位一体〉の必然性を照明してくれる」(P.213)と彼は信じたのです。ここでルルがいう〈三位一体〉とは、アウグスティヌスが言うそれです。知性・意思・記憶。これがあわさることで三位一体、完璧超人が完成する、と。





 そして、三大宗教の共通概念としてルルがあげるのが〈神の名称〉(神の属性)である「善」、「偉大」、「永遠」、「力」、「叡知」、「意思」、「徳」、「真理」、「栄光」の9つです。さて、もう一度左の図をごらんいただくと、この図にそれらの属性が書かれていることが分かりますね。で、この図版をもちながら、存在の階梯(自然界の基本構造をあらわす階層構造になった観念……とでも言えば言いのでしょうか。このあたりはラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』でも出てくる話ですね)のレベルと図版のレベルをあわせることによって、〈術〉に隠された効果が発揮される……とルルは主張したようです。さらにルルは、こうした〈術〉の手続きの記憶を「記憶術」としても考えました。





 ルルの影響は広範であった、とイエイツは言います。彼が死んだあともルルの著作物として錬金術関連の偽書がでまわったぐらい、その名前は価値を持っていたものだったようです。そして、それは後世にも伝えられていく。カミッロも偽ルルに影響を受けており、またそれはクザーヌスやフィチーノ、ピコといった人がルルの思想を吸収したからなのだ、とイエイツは主張しています。前述したとおり、16世紀においてルルの思想はルネサンスの古典的記憶術と交じり合い、そして受け継がれていく。その影響をもっとも受けているのではないか……とイエイツがみている人物、そして彼女が語りたくてしかたがない人物、それがジョルダーノ・ブルーノです。いよいよ、次章からジョルダーノ・ブルーノ登場……!!





 (続く)





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