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ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』




神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)
ニコラウス・クザーヌス
岩波書店
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 最近まで私は「宗教なんか、単なる道徳律を唱える鬱陶しいものなのだろう」とばかり思っていたのですが、このニコラウス・クザーヌス(1401-1464)の本を読んでからちょっと考えを改めざるを得ませんでした。クザーヌスがキリスト教を通じて考えたことは「○○しなさい」「××するな」といったルールの提言にとどまらず、世界をどう捉えるか、という壮大な哲学になっている。これはとても面白い本でした。キリスト教において、世界とは神様が作ったもの、ということになっている。そういった認識があることは常識かと思いますが、ではそのような世界に存在している我々はどのようなものなのか、神の現前にいる我々とはどういった存在なのか、を考え抜くある種、実存的な問いかけをクザーヌスはおこなっている。そこで何度も言及されるのは、人間という存在のちっぽけさです。神は偉大すぎて、ちっぽけな存在である我々に把握することは不可能である。どうして不可能なのか、それは神が矛盾を生じさせつつ、矛盾しないような「反対対立の合致」という性質を持つからだ、とクザーヌスは言います。





 たとえばその性質を象徴するもののひとつに「神のまなざし」がある。被造物である我々は神のまなざしを常に受け続けている(それが神の愛のあかしなのです)。ここでクザーヌスは「神のイコン」という比喩を出すのですが、これが秀逸でした。ある壁に人物の似顔絵を貼り付けておく。その前をふたりの人物が別々な方向に通り過ぎようとする。すると、壁の似顔絵に「みられている」という感覚が、ふたりの人物の方を追っていく。右に進んだAという人物は「壁の似顔絵は私のほうを追ってきた」と感じ、左に進んだBという人物もまた「壁の似顔絵は私のほうを追ってきた」と感ずる。これが単なる錯覚を説明したものではなく「神という一者が右と左の両方をみつめている(それどころかすべてを見据えている)」という矛盾のアナロジーとなっている。右をみながら左をみる。これだけだとなんとなくできてしまいそうな感じがしますけれど、もっと方向性を拡大してみると(右をみながら左をみながら上をみながら下を見ながら後ろをみる……といった具合に)それが、理性的には理解できないものであることがわかります。





 しかし、クザーヌスは神を把握しなければ、幸福にたどり着くことはできない、という。しかし、神を把握することはできない。ここからは逆説的な論法といった感じで、我々が無限の神を把握することができない、が、その把握できないことを認識すればするほど、我々は幸福に近づくのだ! というのが彼の主張です(そして、イエスとは、その把握できなさを理解しきってしまい、神と同一化した『完成体』ということになる)。こういう世界観は、ジョルダーノ・ブルーノにもモンテーニュといった人物にも影響を与えたそうですが、キリスト教信者でもなく、神の存在を信じていない私でも思わず説き伏せられてしまいそうな、圧倒的な神の存在がそのとき語られる。ここがとても面白かったです。翻訳もとても読みやすく、解説の文章もとてもいいです。翻訳は八巻和彦。解説では(なぜか)彼がクザーヌスに興味をもったきっかけというのが語られるのですが、訳者がクザーヌスで卒論を書いたのは1970年のことだったと言います。マルクス主義や実存主義が熱く語られる時代において、訳者がクザーヌスのなかにマルクスもサルトルも語らない思想を見出す点が感動的……というか、個人的には腑に落ちた。クザーヌスのほかの翻訳も読みたいと思いました。





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