スキップしてメイン コンテンツに移動

Robert Wyatt, Gilad Atzmon, Ros Stephen/For The Ghosts Within




For the Ghosts Within
For the Ghosts Within
posted with amazlet at 10.11.14
Robert Wyatt Gilad Atzmon Ros Stephen
Domino (2010-11-09)
売り上げランキング: 5394



 ロバート・ワイアットの新譜はギルアド・アツモン(マルチ・リード奏者)とロス・スティーヴン(ヴァイオリン)とのコラボレート・アルバム。ストリングスやサックス、クラリネットといったアコースティックな伴奏をバックに、ワイアットが歌う、というとてもシンプルな内容となっています。ここでオリジナル作品とともに取り上げられているのは「Round Midnight」や「Lush Life」、「What A Wonderful World」といったジャズの名曲のカバー……というわけでチェックしないわけにはいきません。ただ、実を申しますと私、「ワイアットの歌声」(世間では、イノセンスを象徴するような素晴らしいものと評されている)に対して「好きなんだか、嫌いなんだかよくわからない」という複雑な気持ちを抱いておりまして。唯一無二の歌声には違いないのだが……と思いつつ、イマイチどっぷりとこなかったのでありました。これは結局、私が好きな(好きだった)ワイアットって、ドラムもバカスカ叩いて、たまに歌う、ワイアットなんですよね~、ということなんでしょう。




 このアルバムを聴いていて連想したのは、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールの『記憶喪失学』というアルバムでした*1。ワイアットの今回のアルバムのストリング主体の音作りが、ペペ・トルメント・アスカラールの音と単純にリンクした、だけかもしれません。しかしそれだけではない。ワイアットのヴォーカル、菊地成孔のそれとにも共通したサムシングを感じたのでした。中性的でテクニカルではない(未熟なボーイ・ソプラノみたいな、あるいはちょっとオカマっぽい)ところ、とかね……いやはや、自分でもワイアットと菊地成孔がリンクするとは驚きなんですが、だってそう思ってしまったんだから仕方ないじゃん! と開き直ることにしましょう。





 ただ、こうした連想が浮かんだからといって「初めてワイアットの歌声が好きになれた!」とアハ体験するわけでもなく、いまだに自分でも彼の歌声が好きかどうかわからないのでした。でも、なんかすごく今回のアルバムはひっかかるものがあって、何度も聴きなおしてしまいそうな気がします。喉から腕をつっこまれて、頭の裏側から「記憶」をつかまれている、ような気持ちになるのです。それはもちろんジャズの名曲のカバーに聞き覚えがあるから……でもあるのですが、もうひとつはギルアド・アツモンの演奏にも要因があるように思われるのでした。彼の名前からして「ああ、この人はユダヤ系の人なのかな」というところがありますけれども、彼の演奏にもしっかりとユダヤ民族の痕跡が刻まれているように思います(とくにクラリネットの演奏)。





 あとで調べて知ったのですが、このギルアド・アツモン、イスラエルに生まれながら「イスラエルを亡命し」、現在は反シオニズム活動をおこなっているそうで(しかも、作家としても活動しているらしい)、こうした経歴からはきっと強烈にネジれた民族的アイデンティティを持っているに違いない……と想像してしまいますが、しかし、アイデンティティがネジれているからこそ、結果的に彼の音楽から「生まれ」が表出している、とも言えるのでしょうし、ネジれている彼がクラリネットでクレズマー風の旋律を奏することは、自らのアイデンティティに対する批評的/批判的な磁場を発生させているようにも感じます。これもひとつの(民族の)記憶をなぞること、なのかもしれません。






コメント

  1. 確かに今回のアルバム、ギルアドさんが凄く印象的ですよね、フレーズもプレイのスタイルも何だか物凄く良い意味で異物感があります。ただ、そこら辺は置いといて、なんか今作、今までのワイアットの作品よりも素直に入り込めないんですよねえ・・・。ヴォーカル云々、とかよりも途中顔を出す打ちこみが何か半端な気がしたり・・・。ただ、「At Last I Am Free」の再演は嬉しかったりします。

    返信削除
  2. ハンパな打ち込み=4曲目ですか? あれは確かにダサい、というか……先駆的な感じの音ではないですよね。ワイアット先生もジジイですし、あのぐらいがちょうど良い塩梅だなあ、と好意的に受け止めました。リッチなストリングスとワイアットの声のコントラストも「素晴らしいマリアージュ」ではなく「良いコントラスト」的なカップリングだと思います。

    返信削除
  3. おお、寛容な!なんかEnoの新作とかも良いんですが、なんかこう、変なビートがあったりしてちょいとなあ、とか。最近のベテラン勢の打ちこみとの関わりには一歩引いてしまうんですなあ。でも、良いコントラスト、なるほど確かにそうですね!打ちこみに関してもそう捉えて聴いてみようかな・・・。

    返信削除
  4. あー、イーノの新譜も出てるのですよねー。店頭で見かけたんですがスルーしてました。ベテラン勢の打ち込み、たまにプリセットみたいな感じがしますもんね笑 今回もそうだけれど。ただ、全員が全員、アルヴァ・ノトをバックにやれろわけではない、と。ワイアット対アルヴァ・ノト、聴いてみたくなってきましたが…。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か