スキップしてメイン コンテンツに移動

読売日本交響楽団第500回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:下野竜也


テノール:吉田浩之


男声合唱:新国立劇場合唱団


合唱指揮:冨平恭平


《第500回記念定期演奏会》


池辺晋一郎/多年生のプレリュード―オーケストラのために(2010年度読売日響委嘱作品、世界初演)


リスト/ファウスト交響曲



 2011年初めての読響定期は、第500回定期演奏会、と記念すべきものでした。池辺晋一郎の新作《多年生のプレリュード》が世界初演。初めて私が池辺先生のお姿を生で見たのは、シュトックハウゼンが最後に来日した際のコンサートだったと思います。それ以降、注目度の高い現代音楽のイベントでは必ずお見かけしましたが、本日が池辺作品を聴く初めての機会でした。正直、ダジャレをたくさん言うスケベそうなおじさんのイメージがとても強くて、どういう曲を書くのか全然知らなかったんですけれども、音楽の洗練された響きに驚いたのは、そういう強いイメージとのギャップがあったからこそかもしれません。





 コンサート前に設けられたプレ・トークで池辺先生はこんなことを語っていらっしゃいました。西洋音楽の歴史は、足元から徐々に頭のほうに上っていった。原初は大地を感じさせる表現(足元)だった音楽が、ロマン派になると作曲家の感情を表すもの(胸)となり、現代音楽になると頭で考えるものになった。ところが21世紀に入ると、もう頭より上はない。だから、もう一度「足元」からやりなおすか、それとも「胸」に戻るか、どちらかを選択しなくてはいけないと思った。しかし、もはや地面はアスファルトだらけで大地を感じることはできない。なので、「胸に響く音楽を書くこと」を私は選択したのだ。いやはや、この話の上手さもまた池辺先生の才能であり、感心してしまうところです(池辺晋一郎・壇ふみ時代のN響アワーが好きだった私としましては、ますます池辺先生時代のN響アワーが懐かしくなりました)。しかし、すごいのはしゃべりの上手さだけではなかった、と。特に感銘を受けたのは、社会主義リアリズム系の作曲家を彷彿とさせる音型やリズムが、鋭くぶつかり合う和音ではなく、まろやかな近代フランス風の和音によって装飾されているような絶妙なバランス感覚で。これは他の作品も聴いてみたいと思える好きな作風でしたね。





 後半はフランツ・リストの《ファウスト交響曲》。本年はリストの生誕200周年にあたるメモリアル・イヤーだそうで(毎年いろんな人のメモリアルがあるものだなあ)それに因んだ選曲なんだとかーーちなみにこの曲、今年少なくとも3回は日本のオーケストラで演奏されるんだって。題材に取られているのはもちろんゲーテの『ファウスト』で、3楽章のそれぞれは「ファウスト」、「グレートヒェン」、「メフィストフェレス」という題名がつけられています。ですから交響曲というよりかは、交響組曲といったほうが正確なのかもしれません。第3楽章の後半では、男声合唱とテノールが登場し、編成が非常に大規模。さながらリスト版《合唱付》とでも言えましょうか。しかし、それほど良い曲か、と問われると……。いや、私があまりリストに詳しくないからかもしれませんが、リスト・ファンの方からは「名曲」として扱われているんでしょうか? 第500回の演奏会のメインがこれで良かったのか、と思ってしまいました。





 こんな風に思ってしまったのは、演奏のせいもあったと思います。なんか雑な部分が目立っていた。特に第2楽章の室内楽的な部分。オーボエとヴィオラによるソロ、フルートと第2ヴァイオリンによるソロ(楽器の組み合わせは、すみませんうろ覚えです)があったんですが、そこで弦楽器のほうが「アレ?」という出来でテンションが下がりました。3楽章は結構持ち直した部分がありましたが、ちょっと残念な感じ。前回下野竜也が振ったときもあまり良い印象がなかったのですが、これは個人的な相性なのかなあ。でも、テノールはとても良かったです。





 コンサート後はアフター・トークとしてこんな催しが。



テーマ:「今、オーケストラに何を求めるか?」


出演:


西村朗(作曲家)


片山杜秀(音楽評論家)


江川紹子(ジャーナリスト)


下野竜也(読響 正指揮者)



司会:横田弘幸(読響 理事長)



 これ、全然期待しないで聞きはじめたんですが結構面白かったです。片山杜秀がすごいクラヲタっぽい話し方をしていてすごかったですし(慶應の先生なんですよね。きっと講義でもあのまんまの感じなのであろう……でもあの感じだったら講義は面白そうだ)、江川紹子がとても気になることを言っていました。韓国や中国出身の有名な演奏家が世界で活躍していても、オーケストラというものは国全体での音楽レベルが上がらないと技術的にも、また文化的にも向上しない。日本のオーケストラは他のアジアの国々に比べたら、アジアではまだまだ最強だ――これはチョン・ミュンフンの言葉だそうですが、彼女はそんな話をしつつ、日本の音楽文化が生き残るためには、アジアの新興国の富裕層の観光スポットとして日本のコンサートの場を提供したら良いんじゃないか、と提案していました。もちろん、音楽の本場はこれからもヨーロッパでしょう。しかし、日本にはアジアのヨーロッパ音楽を牽引する力を有している。だからそれを活用していくべきじゃないか、と。まるで大英博物館、あるいはルーブル美術館にいけない人が、大英博物館「展」・ルーブル美術館「展」にいくので我慢する、みたいな発想に思えなくもないですが、たしかに日本における西洋音楽の文化を活用する、というのは良いアイデアに思えました。





 あと下野竜也の発言も良かったですね。今、オーケストラに興味がある人はそんなにいないだろう。マイノリティである。読売新聞社の傘下のエンターテイメントだったら、読売ジャイアンツのほうが経済的にも効率が良い(ジャイアンツは一試合に4万人呼べるが、読響は良くても2000人だ)。オーケストラは不経済だ。しかし、オーケストラを聴きにいきたい、と思ったときに聴きにいける環境が東京にはある。こういう風に自由に選択できる、ということは豊かさの表れだ、と彼は言っていました。とても正論だと思います。オーケストラが存在することって、とっても贅沢なことなんですよね。しかも、世界中のオーケストラは、税金や寄付がないとやっていけない。そこには私だけではない誰かのお金が使用されているわけです。だからオーケストラは公共財ともいえるんですよ。そうした公共財を個人の楽しみとして体験できるということは、幸福なことであるし、贅沢なことである、ということを下野さんの発言で再確認できた気がします。私は、自分以外のワガママな人が許せないぐらいワガママであり、徹底した個人主義者だという自認があるのですが、オーケストラを介して社会あるいは国という枠組みの恩恵にあずかっていることを考えれば、もっと社会的な人間であるべきなのかもしれない、という反省も生まれました。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か