スキップしてメイン コンテンツに移動

eX.17 ジャチント・シェルシ《山羊座の歌》完全版日本初演 平山美智子を向かえて @杉並公会堂 小ホール



ロック・ミュージシャンで高齢の人、といえばローリング・ストーンズとかポール・マッカートニーとか60代後半の人たちがいて、そうした人たちが元気に活動しているのを見ると「すげえなあ」と思ってしまいますが、まあ、ロックなんかたかだが半世紀ほどの歴史しかない音楽、クラシックの世界はその軽く6倍は歴史がありますから、もっとすごい人がおります。声楽家の平山美智子、御歳87歳などはその代表格たる存在でしょう。声楽家の方にお話をうかがったところ、自らの声帯を音楽のよりどころとする声楽家の方々には肉体的な寿命があるそうで、早い人では30代で声を潰してしまう方がいるそうでございます。そうした世界のなかで80代で現役でおられる、というのは「現役でいるだけでスゴいこと」なのだそうです。平山美智子、御歳87歳は、前衛音楽家としても間違いなく最高齢の人でしょう。本日のeX.はそういう立ってるだけでレジェンド、みたいな人が出演した演奏会でした。作曲家、川島素晴・山根亜季子による現代音楽コンサートシリーズ「eX.」については、過去こんなエントリも書いていました。よろしければご笑覧ください。




ジャチント・シェルシという作曲家は、いまでこそスペクトル楽派に影響を与えたことで有名で、イタリアの20世紀音楽のなかでも非常に目立った存在として知られていますけれど、でも、彼の作曲スタイルは批判されておるのですよね。シェルシは元貴族のお家に生まれてお金には困らなかったんで、自分が即興で弾いた演奏を録音しておいて、それをサポーターに記譜させたりして、それが「えーっと、それは作曲行為と呼べるのかいな?」と問題になったそうでございます。シェルシが平山のために書いた作品《山羊座の歌》にしてもシェルシと平山とアシスタントの人が協力して作業を進めていき、今日の形となった作品とのこと。《山羊座の歌》は出版された譜面がある楽曲でありながら、正典は平山がもっているいろいろ変えていった版であるそうで、ある意味、門外不出の秘儀伝授、みたいな楽曲なわけです。だからもはや正統的な《山羊座の歌》の演奏は平山にしかできないというクローズドな状態になってしまっている。この点ももしかしたら批判されてもおかしくない点なのかもしれません。





そうした楽曲の性質、そして演奏する人間の性質からしても今回の演奏会が特別なものにならないはずがない。87歳といえば私の祖母より高齢ですから、そういう人が一時間ほどの《山羊座の歌》を休憩無しの通しで演奏する、というのはもはやちょっとした虐待なのでは、と思わなくもないですが、ありがたいものを観てしまった、という感じがしました。そのありがたさは文字通り、《在り》《難い》もの、であって、どうしてもそういうオーラ(アウラ)をまとってしまう。ベートーヴェンの晩年の作品が纏うオーラをアドルノは批判していますけれども、致し方なくオーラをまとってしまうことがあるのだな、と思いました。曲順を間違えたり、ゴングを素手で叩いているときに腕につけていたアクセサリがゴングに当たってしまい「マズい!」と思ったのか、演奏しながらおもむろにアクセサリをはずしてたり、年齢を感じさせるチャーミングな点がいくつもありましたが、それも致し方ないのであろう、と。歳を取って得るものもあれば、失われるものもあるのですから。



Canti Del Capricorno
Canti Del Capricorno
posted with amazlet at 11.06.04

Wergo Germany (2010-05-11)
売り上げランキング: 37446



平山による演奏はWERGOから出ているCDで聴いていました。CDの迫力ある声と比べると演奏の序盤は衰えを感じさせるものでしたが、その印象はしり上がりに払拭されていきました。奇妙なオノマトペと様々な発声法によって、フレーズを変化させながら繰り返していくなかで、突然ベルカントで高音を発声する瞬間があり、その度にザクッと胸を刺してくるようなスゴみを打ち出してくる。まるで歌舞伎のキメのよう。ここぞと言うときの魅せ方の上手さは熟練から来るものなのでしょうか。ものすごく高い声がでる、とか、とんでもなくキレイな声がでる、とか、そうした技術的な評価からはズレてしまいますが、平山にしかできない芸風が確立されている、ということをまじまじと見せ付けるような演奏だったと思います。






こうした指摘もすでに出ているのですが、これも至極真っ当なものに思われます。「この人にしかできない」という風に音楽をクローズドな状態にしておくのは、西洋音楽の基本的な態度からハズれていると言えましょう。楽譜によって演奏家に開かれているのが、西洋音楽の伝統です。そうして誰にでも開かれることによって、作品に対しての評価ができるようになる。作品と演奏者との関係が癒着してしまえば、それはその人のパフォーマンスに対する評価しかできなくなってしまう。個人的に昨日の演奏を見ていて思ったのは、これは音楽というよりかは、特別な身体表現のようで、むしろ舞踏とかダンスとかに近いのではないか、ということです。ともあれ、そうした評価などはどうでもよろしい。記憶に残る演奏会でありました。共演した演奏家の方々も素晴らしかったです。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か