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アンドルー・ワイル 『癒す心、治る力 自発的治癒とはなにか』



癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか (角川文庫ソフィア)
アンドルー ワイル
角川書店
売り上げランキング: 3034

生まれながらの健康優良児、みたいな生き方をしてきたはずが昨年はなんだかいろいろ病名をもらったり、アトピーの診断を受けたりしていて、実は全然健康じゃないじゃんか、ということが判明、今年になったら風邪をこじらせて咳ぜんそくの診断を受け、その症状が良くなったり悪くなったりを繰り返しているし、扁桃腺が腫れる頻度も高まっている、で健康問題は悪化の一方である。歳をとったら抵抗力が落ちたんだろうか……。それで「抵抗力をあげたりする健康本についてオススメ本はないですか?」とTwitterで訪ねたら、この本をオススメされた。著者はアメリカで代替医療の啓蒙活動をおこなっている偉い先生。いきなりアマゾンの奥地にある原住民たちの村にシャーマンを探しにいく、という『悲しき熱帯』かよ、みたいなエピソードで始まり、これは……と思ったが、とても楽しい本でした。

ニューエイジ系のものに対する私の興味は、完全にキャンプなものであって、未だに当ブログでもっとも売れている本であるシュタイナーのスピリチュアル本も「うわ〜、なんかうさんくさい〜」という感じが楽しい、というただそれだけの話。なので本書で紹介されている代替医療も多くは、それと同様の目線で読めてしまう。著者による現代科学に基づく医療と代替医療の位置づけは、前者が「外側から悪いものに対して働きかけて治すこと(=治療)」であり、後者は「人体の内側にある本来の治癒力を活性化させ、それをもって悪いものを癒すこと(=治癒)」と整理されている。後者のほうには、悪名高いホメオパシーも含まれているのだが、どれも言うなれば、我々が通常馴染んでいるエピステーメーとは違った医療であって、その思考枠組はとても興味深い。本書の冒頭ではオステオパシーというアメリカ式整体みたいなものの紹介がなされているのだが、科学と東洋医学の融合っぽいのがサイバーパンク感さえ煽る。
「右肩に多少の拘束があり、それが首の痛みを起こすんだろう。きみの頭蓋インパルスはとてもいい」(P.47)
以上の引用は著者がその治療を実際に受けたときのエピソードから。頭蓋インパルス……というまったく馴染みのない術語には、ジョージ・ラッセルによる音楽理論、リディアン・クロマティック・コンセプト(LCC)における「調性引力」のような妖しい魅力がある。オステオパシー自体は19世紀末にアメリカで創始されているようだが、頭蓋インパルスという言葉は頭蓋オステオパシーというサブジャンル的なものの術語である。LCCも頭蓋オステオパシーも「20世紀のアメリカで生まれた、これまでの理論体系では説明できなかったことが、説明できるようになる新しい理論体系(!)」という点で共通しており、その「説明できるようになった! これで世界が変わってしまうのだ!」というユリイカ感を感じてしまうのだった。

意地の悪い読み方で感想を書いているのだが、本書は「現代の医療は完全に間違っている! 代替医療が正しい!」というプロパガンダではなく、もう少し素直な読み方をすれば「病気が治るには、心の影響って大きいですよね、治ると信じてると治っちゃうことってあるんですよ。なので、治るって信じることって大事です(医者から『あんた、もう死ぬよ』と言われても諦めないで!)」とか「現代医療と代替医療の使い分けを間違ったらダメです」とかそれなりに真っ当そうなことが語られている。「心の影響」を重視すること自体、それが数値化して分析・検証がしにくいものであることを踏まえれば、現代の科学のメソッドに対する批判、とも言えよう。

ほかにも、ある食品に含まれる人体に有効な成分を抽出したものを摂取するよりも、その食品をそのまま食べた方が効果が高いことがある、という話から「部分の集合が全体ではない」と導きだすところも、反近代科学的(と強い言葉で表現して良いものかはちょっと不安だが)だと感じる。たまたま、今『Wonders and the Order of Nature, 1150--1750(驚異と自然の秩序)』(以前にちょっとだけ紹介しています)という本を読み進めているところなのだが、本書の反近代科学性はこの本の内容にも関係して読めた。

『驚異と自然の秩序』は、12世紀から18世紀のあいだで西欧で「驚異」という現象がどのように扱われてきたかをまとめた科学思想史の名著である。大きなストーリーを暴力的にまとめてしまうと「個物(paticularなものへ)から全体(universalなもの)へ」という思考の枠組の変化が提示されている。畸形児の誕生などの驚異は、中世では「これはすげぇや! 神のお告げに違いない!」などといって個物として語られるのみだったのが、中世後期からそうした個物を収集して帰納的に全体を導きだそうとする流れができる(その始まりとして、14世紀半ばのイタリアにおける『温泉学』が分析の俎上にあげられるのが面白い)。それが現代の科学にもつながる、というわけ。

『癒す心、治る力』で紹介されている治癒例の数々は、いわばその逆であって、全体から外れた「驚異」として読める。それを読んで、全体から外れるものが存在する、だから、全体は間違っている、という話にはならない、けれども「わかっていないことってものすごくたくさんある」と(書いてしまうと阿呆のようだけれど)気づくきっかけができる。そのわからないことに対して現場の医師はどのように考えているのだろう? 癌の治療にしたって「抗がん剤治療は、効く人と効かない人がいる(それは治療を試してみないとわからない)」みたいなことってあるのだろうし。

健康になる方法とかは、特別よくわかりませんでした。あ、でもこの本を読んでコーヒーじゃなく抹茶を飲み始めたりしてます。

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