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Lorraine Daston, Katharine Park 『Wonders and the Order of Nature 1150-1750』


Wonders and the Order of Nature, 1150--1750
Lorraine J. Daston Katharine Park
Zone Books
売り上げランキング: 143578

このへんのエントリーで「読んでます」報告しているのを見ると、およそ9ヶ月ぐらいかかったみたいですが、ようやくロレイン・ダストンとキャサリン・パークの大著『Wonders and the Order of Nature 1150-1750(驚異と自然の秩序)』を読み終えました。これはなかなか大変な本でした。まず、大昔のラップトップ・コンピューターぐらいのサイズと重量があり、持ち運ぶのがツラい。「なんで、こんな大きな本持ち歩いてるの……」と呆れられること多数。ペーパーバックもあるのでそっちを買えば良かったんですが、日本のAmazonではマーケットプレイスでしか取り扱いなし。それから、日本語で言えば、ものすごい画数が多い感じで表現されそうな使用頻度が少ない英単語や医学用語など辞書を引くのが大変でしたね。これは「オシテオサレテ」の坂本さんも「あの本は難しいよ〜、むちゃくちゃ辞書引いたもん」とおっしゃってましたね。でも、面白かった!

一本足人、一つ目人間、二つの顔を持つ人、無頭人、犬人間
本書は中世から啓蒙主義の時代に「Wonder(驚異)」が西欧においてどのように取り扱われていたのかを巡る歴史書です。当時の思想家、科学者、あるいは権力者や民衆たちが、驚くべきものに対してどんなリアクションをしてきたのかが1150年から1750年という長いスパンで精査されていきます。時間の経過とともに、何が驚異として取り扱われるかも時代によって変わってくる。例えば、中世においてはヨーロッパの外部にたくさんの驚異が想像されていたりするわけです。アフリカやアジア、といったヨーロッパの外部に、一本足の人間や一つ目人間や、犬人間とかがいる! とか。これらの想像上の驚異は、プリニウスの『博物誌』の時代からヨーロッパで伝えられてきたものでした。

教皇ロバの図像
活版印刷もなく、情報の流通システムがおどろくほど貧弱だった時代に、ヨーロッパの外部にはそうした驚異が蠢いていて、ヨーロッパの内部ではそうした外部の驚異のイメージをキリスト教的な道徳から外れたものの象徴として利用していました。このシステムはルターやメランヒトンが宗教改革の時代に「教皇ロバ」などのモンスターを教会批判のための風刺的図像として扱っていたものと通じます。ヨーロッパにおいては、グロテスクな驚異が道徳的な警句として機能する伝統が根強いものとして存在しているのです。

その一方、驚異は学術的な研究意欲、人間の知識欲に火をつける動機のひとつでもありました。アリストテレスは『形而上学』のなかで「驚異することによって、人間は哲学をはじめた」という言葉を遺しています。この言葉を継承するようにヨーロッパで、驚異が知を牽引する時代がやってきます。その現象には、時代が進むにつれて、前述のヨーロッパの外部にあった驚異はだんだんとその実効力を失っていったことが強く影響しています。情報伝達技術の発達と商人たちの活躍により、ヨーロッパの外部にあったはずの驚異はどんどん力が弱まっていく、つまり、犬人間や一本足の人間なんかいないじゃん、ということなんですが、逆に、ヨーロッパの内部で生まれた畸形の誕生が情報として伝えられるようになっていく。もはや驚異はヨーロッパの外部からやってくるものばかりではなく、ヨーロッパの内部でもうまれゆくものに変化するのです。こうしたヨーロッパの内部で発生した驚異に対して、当時の知識人がどのように反応していたのか、については「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」のなかでも触れられている通りです。このあたりのトピックは、本書のハイライトのひとつであり、大変読み応えがあります。驚異が神の怒りを連想させ、道徳的な畏怖を与える、という認識も変化し、自然の秩序にも影響を与えていく。

驚異の部屋
もちろん驚異は、畏怖と知の源でもあると同時に、興味深いもの、面白いものとしても扱われます。いまだって、ビザールなモノは一部の人間の関心を誘うものですよね(たとえば、ビザール・ギターとか)。驚異のこうした性格は、15世紀から17世紀のあいだに貴族のあいだで権力の象徴(=珍しいモノを持ってる人間はエラいし、金持ち)として珍重され「驚異の部屋(Wunderkammer)」というモノが流行します。なかでも神聖ローマ皇帝のルドルフ2世は当時のヨーロッパで最高の「驚異の部屋」を持つ人物として評価されました。錬金術やアルチンボルドなどに興味を抱いていたこの人物がこういうのに熱をあげていたのは、まったく驚くに値しません。しかし、本書での「驚異の部屋」の扱いは、単に驚くべきものが蒐集される場所としてだけではなく、それが自然と技術という相反するものが共存する場所として分析されます。これは大きなポイント。

頭から珊瑚が生えている女神
「技術は自然を模倣する」というのは、これまたアリストテレスが唱えた有名な命題です。この言葉には、自然(nature)と技術(art)が対立関係にあるかのような図式がある。しかし「驚異の部屋」においては、自然と技術が強く結びついていく。この部屋のなかでは自然の驚異だけではなく、技術的な驚異も取り扱われるのです。陳列されたモノは、自然物と人工物(技術によって作られたもの)が交互に並ぶように配置され、視覚的に融合します。職人よって作られた自然の驚異を利用した人工の驚異も重要なものでしょう。左の赤い珊瑚を利用した美術品は、そのなかでももっとも分かりやすいものとして考えられます。

しかしながら、啓蒙の時代、科学の時代になってくると「驚異の部屋」でおこなわれるような驚異の珍重が批判の対象にあがっていきます。こうしたものにいれこんでしまうのは頽廃であり、無為すぎる、と。この時代、また驚異は変質していきます。珍しいものではなく、ありふれたもの(ありふれた自然の秩序)のなかに、知のフォーカスがあてられていく。それは現代に置ける科学と直接的に結びつくものです。言うなれば、日常のなかにある驚異があぶり出されていった、というところでしょうか。

以上、簡単に本書のトピックを紹介させていただきました。冒頭で、重量、ヴォリューム、難易度などについて触れましたが、さまざまな苦労を乗り越えてでも読む価値のある大変な名著でもあります。すでに高山宏周辺などでも認知されている本のようですが、邦訳でないのかな〜。

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