スキップしてメイン コンテンツに移動

FEN シークレット・ライヴ @吉祥寺GRID605

GRID605 ラストライブのお知らせ(大友良英のJAMJAM日記)

FENを前に観たのは明大前のキッドアイラックホール、それから2年ほどが経ち、再度観たバンドの変化が目のあたりにできた一晩だったと言えましょう。折しも吉祥寺のイベントスペース、GRID605の店じまいの日にこの演奏が観れたのは、月並みですが終わりと新たな始まりを感じさせるものでした。 まず、前回はラップトップから音を鳴らしていたチーワイがよりプリミティヴな発振を感じさせる機材に変わり、タイプライターなどの楽器ではないモノから音を発していたハンキルが音を機械で拾って別な音へと響かせるようになっていたこと。これがすぐに分かる変化でした。

この日の大友は主にバンジョーを使用していましたが、普通に弾くだけでなく弓を使ってアコースティックな響きを聴かせてくれます(これはもはや名人芸というか、バンジョーのどのポイントを弾いたらあんなキレイな音がでるのかまったく想像できない、錬金術的なテクニックでした)。大きな変化を感じなかった(というとネガティヴな物言いになってしまいそうですが)のは、ヤンジュンの演奏でしたが、彼はこのバンドのベーシスト的な役割なのかもしれません。卓上に置かれたスピーカーが超低音を発するとき、コーン紙が揺れ、音が見えるのもとても面白かった。環境的な制約がなかったらヤンジュンの演奏は音によって身体的に震えてしまうものとなっていたのでは、とも思います。

個人的に惹かれたのはハンキルの演奏で、ヤンジュンをベーシストとして置くならば、彼はずっとソリストだったのかもしれない。とくに2度目のセットにおいて、スネア・ドラムにコンタクト・マイクを装着し、小型のスピーカー(たぶん)をスネアの打面に接触させることで、さまざまな音を響かせる増幅/共鳴は、どういう音がでるのかわからない、常に期待を誘う演奏でした。興味深いのは、こうした演奏法がまるでアンサンブルズの大友良英の音楽と強く繋がって聴こえることです。

このバンドのあいだにどういった影響関係があるかは定かではない、また、まったくの偶然、あるいは、単なる私の聴き違い & 妄想かもしれないけれども、チーワイが出す音の変化も含め(これは表面的にSachiko Mの演奏のようですが、演奏の間合い、というか周囲との関係のなかで音を出す点において、まったく違ったものです)日本の即興シーンが、北京、シンガポール、ソウルのミュージシャンに与える影響について考えさせられます(もちろん、それは一方的な影響関係ではないのでしょうが)。ともあれ、これは、まったく知らないところで、まったく知らない音楽シーンが動いているかもしれない、という予兆でもありました。今後の展開も含めて、このバンドを追っていきたいところです。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か