スキップしてメイン コンテンツに移動

E.H. Gombrich 「The Renaissance Conception of Artistic Progress and Its Consequences」

Gombrich On the Renaissance - Volume 1: Norm and Form
E.H. Gombrich
Phaidon Press
売り上げランキング: 73,306
昨年読んだスヴェトラーナ・アルパースの本で言及されていたゴンブリッチの本に手をつける。『Norm & Form』は20世紀を代表する美術史家のルネサンス芸術論集を集めたエッセイ・論文集。『Gombrich On the Renaissance』という全4巻のシリーズものの第1冊だ。

規範と形式―ルネサンス美術研究
エルンスト・H. ゴンブリッチ
中央公論美術出版
売り上げランキング: 2,270,590
すでに邦訳もあるようだけれど、品切れ中なので原著を読むことにした。届いたのは、B5サイズの本。200ページぐらいのペーパーバックだが、紙質のせいで結構重い。半分近くは図版なので、そんなに時間をかけずに読みきれそう。デザインは、原著のほうが断然カッコ良いですね。

まず、1本目の「The Renaissance Conception of Artistic Progress and Its Consequences」を読み終えたのでメモを残しておく。邦題は「芸術の発展に関するルネサンスの概念とその影響」。歴史を紡ぐうえで、ある人物が先行する人物から受けた影響関係を、系譜学的に描くというのは広く見受けられる。たとえば、棟方志功がゴッホを見て感激して、影響を受ける、とかね(音楽でも、ビートルズに衝撃を受けて……みたいな語り口ってよくある)。ルネサンス美術史でも、そういう影響関係をつなぎにした発展の概念は有効だったみたい。

これに対してゴンブリッチはそれとは違う発展史の媒介を提案している。彼がここで取り上げているのは初期ルネサンス期の彫刻家、ギベルティが製作したブロンズの門である。これはフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂でいまも見ることができる。この洗礼堂には、彫刻がほどこされた門が3つあり、そのうち2つがギベルティの手によるもの。一番有名なのが1452年に完成した「天国への門」と呼ばれるもの。

ギベルティによる「天国への門」
で、ギベルティによるもうひとつは1424年に完成している。残りはアンドレア・ピサーノが1336年に完成させたもの。ゴンブリッチはまず、ピサーノとギベルティの最初の作品の比較から入っている。両作品のあいだにはおよそ100年ほどの時間があいているが、ふたつの作品は、聖書の場面を描いたパネルのまわりの装飾といい、人物のプロポーションと良いとてもよく似ている。それからギベルティの描く構図は、過去の有名な彫刻作品の構図を参照している。

ピサーノによる門

ギベルティによる最初の門
じゃあ、ピサーノ → ギベルティの発展的な系譜が描けるのか。聖書の物語の構図なんか型みたいなのがあるし、過去の作品を参照するなんか当たり前じゃないのか、とゴンブリッチは言う。じゃあ、発展はどのように描けるのか。なにが発展の引き金を引いているんだろう。といったところで、ギベルティの最初の門と「天国への門」の比較に入っていく。

同じ製作者なのにふたつの作品は全然違う。まず人物のプロポーション。「天国への門」の人物は、顔が小さくなってスリムになっている。描写もより細やかになっていく。発展しているのだ。ゴンブリッチはここでギベルティの著作や手紙のなかから人文主義者の影響やプリニウスの引用を見出していく。知的な影響がルネサンス的な「自然の模倣」と「画面の調和」というルネサンス的な発展の契機になったんだろう、と言うのである。

かなり雑に読んでしまったけれども、図版を使った説明はかなりわかりやすいし、絵だけ見るんじゃなく、その背景にあるテクストを見ていく、というやり方は、インテレクチュアル・ヒストリーの手法そのもの、と思った。短いんだけど、ゴンブリッチの歴史記述の手法のエッセンスが詰まっていそうなエッセイなのかな。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...