スキップしてメイン コンテンツに移動

アンソニー・グラフトン 『テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生』

テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)
アンソニー グラフトン
勁草書房
売り上げランキング: 122,985
翻訳作業のお手伝いをしたアンソニー・グラフトンの『テクストの擁護者たち』を読み終える。本書の内容については、すでに原書を紹介したときにもあらかた書いてしまったが、改めてどんな本なのか紹介しておこう。

本書はルネサンスから近代という長い時間軸のなかで当時の知識人たちがどんな風にテクストを読んだり、肯定したりしたのか、という知の営みの歴史を扱っている。そこで登場するのは、たとえば、デカルトだとかスピノザだとか、西洋思想史界のスーパー・スター的な人物たちではない(第7章で扱われているケプラーが例外か)。「歴史」のなかでほとんど無視されてきたような、知識人たちである。そうした忘れられた知識人たちによって、文献学やテクスト校訂の技術が培われ、現代にまで引き継がれる礎を作られたのだ……というのが、本書のおおまかなストーリーになるだろう。

特筆すべきなのは、グラフトンの歴史記述の方法だ。これは本書巻末に寄せられた監訳者による文章でも触れられているけれど、グラフトンはこの仕事を「非合理から合理性へとむかう単線的な発展」としては描いていないし、また忘れられた知識人のなかから「本当は、この人が重要なんだ!」と(無理やりたとえるならば、昭和プロ野球史から榎本喜八 = 最強バッター説を唱えるようなやり方で)新たなスーパー・スターを発掘するような仕事でもない。そういうわかりやすい記述ではないのだ。

第1章からそう。ここでは冒頭からルネサンス期のイタリアでおこった論争が紹介されている。「古代のテクストは、今を生きる人がキケロのように優れた弁論家になるための模範として読まれるべきだ!(だから、古代のテクストが書かれた歴史的状況はあんまり重要じゃない)」という学者たちのグループと「いや、そのテクストが書かれた背景を理解しないと、そのテクストを本当に読んだことにならないのでは!?」という学者たちのグループの争いだ。

単線的な発展として歴史を描こうとすると、すぐに「どちらのグループのほうが優れていて、生き残ったのか」という話になりがちだ。しかし、そうじゃない。簡単にラベリングして、勝ち負けは決められないのだ。古代のテクストから教訓を抽出する読み方をしていたグループが、テクストの歴史性を重要視するグループによって考えられたテクストの読み方の技術を使用することで、テクストをよく理解できるようになり、さらに深い教訓を引き出した、という例がわかりやすいだろう。敵対したグループのように見えるものが相互に関連しあっている。

だから、読み方には気をつけなくてはいけないのだ。各章ではそれぞれメインとなる登場人物がいる。ポリツィアーノ、スカリゲル、カゾボン、ラ・ペイレール……ついつい読者は、彼らがどれだけスゴいことをやっていたのか、というストーリーを期待してしまう。しかし、そういうストーリーを期待させておきながら、グラフトンは、メインとなる登場人物の業績を媒介として、彼らの生きた時代、もう少し言葉を補うと「彼らが生きた時代の知的な環境」を描き出そうとしているのだ。そこではむしろ、個々の人物が脇役になる。

そうした記述が、本書の歯切れの悪さのようなものを生んでいることも確かだ(だれもが、榎本喜八は王や長島、野村よりスゴかったんだ! というストーリーのほうがわかりやすくて楽しんで読めるわけで)。

また、第1章の15世紀のイタリアから最後の第9章の19世紀のドイツまでテクスト研究の技術は脈々と受け継がれていくことはわかる。しかし、各章の登場人物が持っているものを次の章の登場人物が引き継いで……という系譜が描かれているわけではない。それも「長い話をしてたけど、結局、なんだったの?」という感想を抱かせるかもしれない。「よくわからない人が、ゴチャゴチャ、いろいろとやっていました。で?」という感想で終わってしまうかもしれない。でも、時代って、そういうものじゃん、とも思う。ゴチャゴチャしている。そこが面白い。

ただ「ゴチャゴチャしているのが面白い」……とはいえ、第4章の「スカリゲルの年代学」は読んでいて気絶するほどツラい記述が続く(一番の難所かもしれない)。なのでツラくなったらケプラーがでてくる第7章や、ラ・ペイレールがでてくる第8章を読んで気分転換をすると良いと思います。とくにキャッチーなのは第7章。第1章を読んだら、第7章を読む、というのが良いのかもしれない。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...