スキップしてメイン コンテンツに移動

平山昇 『初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』

初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム
平山 昇
東京大学出版会
売り上げランキング: 310,987
新年の伝統行事として親しまれている「初詣」。古来から日本人は初詣をしてきた……ようなイメージを持っている人が多いだろうし、日本人として育ったなら初詣にいくのは当たり前でしょ? ぐらいに思っている人は多そうだ。

そういう行事が実は近代以降の「創られた伝統」、つまりはコンビニなどによる恵方巻ブームや、製菓メーカーによるヴァレンタインチョコレート、とそんなにレヴェルが変わっていない、というのはショッキングな話であるし「そんなハズはない! ウチでは先祖代々、新年には初詣をしてきたんだ!」と怒り出す人さえいるかもしれない。しかし、歴史家たちの調査によれば、初詣という言葉が一般的になるのは明治時代以降の話、それまでそういう風習は日本に見られなかった。

この「初詣 = 創られた伝統」説の指摘は、本書の著者が初めて行ったわけではなく、20年前に別な歴史家が指摘している。しかし、これまでの研究者が「初詣を明治以降のナショナリズムのからみで、権力が上から創出したもの」としていたのに対して、著者は「そんなに上から創ったものが簡単に広まるものなのか」という疑問を呈する。だが、実際にその創られた伝統は広まってしまった。それは、なんで? この理由を明らかにするために、著者は鉄道会社がおこなった宣伝などに目を向ける。明治時代の鉄道会社が利用促進を促すために「新年は郊外のありがたい神社にお参りしましょう!」というプロモーションをおこなったのがきっかけで、初詣は広まった、というのである。

それだけだと鉄道会社だって大きな資本( ≒ 権力)だし、上から創ったものがそんな簡単に広まるものなの? という疑問に戻ってきてしまうのだけれども、本書は、初詣の前に存在していた新年の風習が、鉄道会社のプロモーションによって再編成されていったことを明らかにすることで、その疑問への逆戻りを回避している。

初詣以前には、恵方詣という風習があった。これは新年にその年の縁起が良い方向の神社を参拝する、という風習で縁起モノ好きな下町の人たちに馴染みがあるものだったらしい。この恵方詣、もともとは自分の家から縁起が良い方向に、ということだったのだが、鉄道会社がプロモーションで「東京から見て恵方は川崎大師です!」とか言って、東京の人々を郊外散策を含めたレジャー(鉄道会社としては鉄道の利用促進)として恵方詣をダイナミックに読み替えてしまうのである。

しかし、恵方は5年周期でしかやってこないので、恵方詣キャンペーンは毎年は使えない。なので、川崎大師なり成田山なりが東京から見て恵方に当たらない年は「初詣」というあまり馴染みのない言葉を使って「お正月といえば川崎大師に初詣!」みたいな形でプロモーションをおこなっていたんだって。もう、毎年オリンピックみたいなものであるが、結局、そういうのが初詣を成立させたのだ。

面白いのは、当時の上流階級はこういうガヤガヤした新興の習慣をあんまり快く思ってなかった、ということだ。これはアレだな、まるで今のハロウィーンのような感じで、ウェーイ、とか言ってるの嫌だなぁ、ってことだと思うんだけれども(なにしろ、初詣なんかお屠蘇気分だし)、今はそうじゃないでしょ。今は金持ちも知識人も初詣に当たり前の顔をして行っている。今の初詣は、社会階層に関係なく行くものになっている。

下々の人のレジャーだったものが万遍なく行き渡ったこの変化には、強くナショナリズムが関わっていると本書は指摘する。この分析が大変面白くてですね、それまで初詣なんかバカにしていた階層から「やっぱり正月といったら初詣にいかなきゃ、国民にあらず!!」みたいなことを言い出すヤツがでてくるんである。こないだ覚えた言葉を使うなら、ここにループ効果が見出せる。下の階層で流行った初詣が、上の階層で意味を読み替えられて、再度下に放流され、初詣は一大国民行事になったのだ。

いや、これ、スゴい本だと思いますね。初詣からここまで話を広げますか、っていう感じだし、めちゃくちゃ面白かった。引用されている初詣やナショナリズムをめぐる当時の新聞記事もイチイチ面白くて(なかには、なんかハチャメチャな意見も含まれている)、著者がそうしたハチャメチャな記録の味わいを楽しんでいる感じもして良かったです。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か