スキップしてメイン コンテンツに移動

レフ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』


年末年始にまとまった休暇をいただいたので、長い小説を。トルストイの言わずと知れた大クラシック、文庫本3巻で大体2000ページぐらいある大長編なんだけれども、凄まじく面白くて。トルストイ、すげー、と思った。解説によれば、ドストエフスキーやトーマス・マンも「完璧」、「非の打ちどころのない作品」と絶賛したという。わかる。長いんだけど、すげえ読ませるんだよ。不倫や事件、ロマンスの予感が仄めかされると、ちゃんとそのあとに、不倫や事件、ロマンスが起きる。「やだな、やだなー」、「怖いな、怖いなー」と読者をライク稲川淳二にさせるような仄めかし、煽りからの出来事(!)の繰り返しが次から次へと起きて、超面白い。

mstkさん(@mk_sekibang)が投稿した写真 -
普段は、こんなメモを取ることないんだけども、あまりに面白くて、このブログを読んでくださってる方々、皆さんに本書を読破していただきたく人間関係をメモってみた。長いので序盤で諦める方いるかもしれないので、この図が役に立つと嬉しい。すげえいっぱい登場人物がでてきて、脇役も非常に愛らしいキャラが多いんだけれども、基本的なキャラクターは第1編に出てくる彼らだけ覚えておけば良ろしい。これプラス、アンナのダンナさんであるカレーニン(第2編から登場)。逆にさらに削るならば、薄く緑でマーカーを引いた、リョーヴィンとキチイ、アンナとヴロンスキーだけでも構わない。

わたしが素晴らしいな、と思ったのがさ、人間描写の巧みさ、細やかさと「悪人」が出てこないところで。この物語がはじまる一番最初のきっかけを作るオブロンスキーも、浮気はするは、大したことない役人のくせに身の丈に合わない散財を繰り返す困ったヤツなんだけれども、根は良いヤツで憎めないんだよね。アンナの夫、カレーニンでさえそう。出世と世間体にしか興味がなくて、愛を知らない冷徹な人物……として描かれて、半ば悪モノなんだけど、そういう正確になったのにも生まれ育ちの環境があって「んー、人にはなんか色々理由があるんだなあ……」みたいな同情を誘うの。

登場人物が敵味方に分かれて戦ってる、とかじゃなくて、一人一人が、みんな、それぞれの善意だったり、ポリシーがあって小説のなかで動いてて。ものすごい群像劇。それをざっくりとまとめるとリョーヴィンとキチイのカップルをめぐる話、アンナとヴロンスキーのカップルをめぐる話に集約される。さながら登場人物の原子がすげえぶつかり合って、いろいろくっついて、ふたつの分子を形成する。この構造がスゴい。

あと、場所の使い方もこの小説はスゴくて。最初はみんなオブロンスキーの浮気問題(離婚騒動)とか、キチイの結婚とかをきっかけにモスクワに集まってくるの。第1編はずっとモスクワでの話。第2編以降は、ペテルブルグだったり、リョーヴィンの領地であるポクローフスコエ村だったり、バーデン(ドイツの温泉地)だったりアチコチを舞台にして、いろんな話がある。一回集まったドラゴンボールが、そのあと、各地に散らばって……みたいな感じ?

とにかくモスクワに一端集結して「うわー、これなんかあるんだろな」って不穏な仄めかしを散々したあとに、アチコチで仄めかされた諸々が起きてエラいことになるんだけれども、ペテルブルグだったら派手な社交界が描かれ(モスクワにも社交界があるんだけど、ペテルブルグのほうが派手。ペテルブルグが港区なら、モスクワは吉祥寺か? わかんないけど)、リョーヴィンの領地なら田園生活が描かれ……って具合に、当時(19世紀末)のロシアの社会全体がここに書かれてるんじゃねーか、ってぐらい、いろんなことが盛り込まれている。ディス・イズ・全体小説。ヤベーっす。

久しぶりにこんな面白い本読んだな、って思ったんですが、たぶん読んだ時期も良かったんだろうな、と。わたし、今度の3月で32歳になるんだけども、オブロンスキーが最初34歳だから(小説のなかでは大体2年ぐらいの歳月が流れる。濃密すぎてすごい長い時間が経っている気がするんだけれども)、ほとんど同世代の人たちの話だったのだ。だもんで、Twitter風の言葉で言うところの「わかりみ」がスゴいあった気がする。

もちろん、今、自分が抱えている悩みが小説のなかにあって共感したわけじゃないんだけど、リョーヴィンが童貞っぽく悶々とするところとか、カレーニンが自分の奥さんを「ん? コイツ、浮気してんじゃねーのか?」と気づいてから「おっし、もう、コテンパンに言い負かしてやるからな」と話を組み立てるんだけど、いざアンナの前に立つと全然考えていたことが言えなくて……みたいなところとかさ「うわー、すげー、なんかわかるわー!」と。

だから、わたしの同世代かそれ以上の年代の友達にこの本読んでほしいっすね。で、感想を言い合いたい。「ヴロンスキーの愛を確認するために、他の男に色目を使うアンナ、めちゃくちゃヤバいよねー!!」とかさ。長いし、高尚な作品として偉そうにしてるような小説なんだけども、昼ドラ的メロドラマが化け物みたいに巨大化した本だと軽く構えて読んでもらいたいものです。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...